「日本人より日本人らしい」 って、どういうこっちゃ
日本語が過不足なくしゃべれて、日本の伝統文化にお行儀よく馴染んでいる外国人を、「日本人より日本人らしい」という言い方で褒める日本人がいるが、私はこの言い方にかなり抵抗がある。どうしてまあ、そんなにも無神経に相手のバックグランドを切り捨てて、一方的に日本の土俵に引っ張り込みたがるのだろうと思う。
学生時代、日本の古典文学に精通したドイツ人留学生がいて、彼はいつもこの決まり文句で褒められていた。本当にどうして同じ発想しかできないんだろうというほど、判で押したように「日本人より日本人らしい」と言われていたのである。
この決まり文句が発せられる最大の理由は、平均的日本人が自らの国の伝統文化から縁遠くなっているからだろう。日本人自身が理解していない日本の伝統文化を、外国人が理解しているということに対する、単純な賛辞であることは確かだ。
しかし、言う方はそうした気持ちからだったとしても、言われる方の気持ちとしては、それほど単純ではない。前述のドイツ人は、このうれしくもなんともない決まり文句じみたお世辞を言われる度に、「日本人より日本人らしい外国人」として、少し謙遜を交えた嬉しそうな表情をしてみせなければいけないことを、少なからずうっとうしく感じていたようだ。
もちろん彼は、日本の伝統的文化にとても関心があって、それでわざわざ日本に留学してきているくらいだから、日本が大好きだった。日本人の女の子と一緒に住んでもいたし。
しかし、あまりにも頻繁にこの決まり文句を言われると、彼の心の中には「ドイツ人である自分のバックグランドを無視された感覚」と同時に、もう少し複雑な感情も生じていたようだ。それは説明するのがなかなか難しいことのようだったが。
「僕はドイツ人だから、西洋の目で日本を見て、それでとても興味深く感じてしまうんだよ」と、彼は言ったことがある。それは私にもよくわかる。私だって、自分の中の半分は、無国籍的な現代人の目で日本の伝統文化を見ておもしろがっているところがある。
そして彼は、こうも言っていた。「日本人が僕に対して『日本人より日本人らしい』というのは、心の中で『ガイジンなのに』と思ってるからだよね。日本人って、自分たちの文化が『ガイジン』には理解されるはずがないと思ってるんじゃないかなあ。自分たちは特別って思ってるよね」
この言い方で、彼の心の中に生じた違和感の中身がわかるだろうか。もう少し私なりの解釈で述べてみよう。
視点を逆にすれば、私がもしドイツ語を話せて、麦芽 100%以外はビールじゃないと思っていて、ソーセージが大好きで、バッハとモーツァルトとベートーベンの音楽に精通していたとしても、ドイツ人連中は私に対して「お前は本物をよく理解しているね」ぐらいのことは言っても、「ドイツ人よりドイツ人らしい」なんて言わないだろう。
仮にそんなこと言われたとしても、こちらとしては「そんなこと、あるはずねえだろ!」と思うしかない。やっぱりどこか変なのだ。
日本人が外国人に対して「日本人より日本人らしい」と言って褒めるのは、先に述べたように、外国人が日本人自身でさえよく理解していない日本の「とても特殊な」伝統文化を理解していることを称賛し、歓迎しているからだろう。
しかしその称賛と歓迎の気持ちの一方的な投影として、ほぼ無意識的にではあるが、相手の存在そのものを、「日本人」という土俵のなかに、無理矢理にでも取り込んでしまいたいという気持ちになっている。
相手は確かに「ガイジン」なんだけど、「ガイジンそのもの」という存在のままでいてもらっては、日本人の方の居心地が悪くなる。それだからこそ「異形の日本人」という特別な存在として、かなり強引に相手の気持ちを無視した取り込み方をしてしまう。
そもそも「日本の伝統文化を平均的日本人以上に理解している外国人」というのは、「日本人らしい」ということとは必ずしも一致しない。それに、「日本人らしい」ということのコンセプトすら、かなり曖昧なのだから、「日本人より日本人らしい」と、妙な褒め方をされた外国人が当惑するのも当然だ。
こんなことを論じたくなったのは、今八百長問題で揺れている大相撲の白鵬が、「日本人より日本人らしい」なんて褒められ方をするのを、よく聞くことがあるからだ。きっと、あのやんちゃな朝青龍との対比もあって、そう言われがちなのだろうが、白鵬自身としてはちょっと複雑な気がするのではなかろうか。
彼に対してそうした言い方をするのは、彼の物腰や態度から感じられる穏やかさとか忍耐とかいった美徳が、日本にあって彼の祖国のモンゴルにはないと言っているようなものではないか。それはいくら何でも、ちょっと失礼なことにさえ感じられてしまうのだ。
さらにもっと言えば、外国人に対して「日本人より日本人らしい」というのは、日本人である自分自身が、日本の伝統文化から逃避していることを表している。日本の伝統文化はもはや、「フツーの日本人より日本人らしい特別な人」しか理解できないものだとして、放棄してしまっている。自分は「フツーの日本人」だから、わからなくて当然というわけだ。
日本人なのだから日本の伝統文化を担うべきだとまでは言わないが、そこまで低次元なものの言い方をしなくてもいいだろうという気がする。同じ日本人としてもちょっと不愉快だ。私としては、「こいつ、別に日本人以上に日本人らしいってほどじゃねえから」なんて言いたくなってしまうこともあるわけなのだ。
というわけで、いろいろもっともらしいことを述べた最後にぶっちゃけて言ってしまうと、「日本人より日本人らしい」なんて言って、自分の都合だけで外国人を褒めたつもりになっている、いろいろな意味での傲慢さが、私は嫌いなのだよ。
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コメント
日本人が、外国人を「日本人より日本人らしい」と表する場合は
謙遜である・真面目である・勤勉である・内気である・正直である・律儀である・消極的である・潔癖である・・・
おおよそ、こう言うような性格をあわせもっている、または、かなり持っている外国人に対して、共感を持って、ほめたつもりで(笑)言う場合ではないでしょうか?
まあ、その場合、日本人は、そういう自分自身を、肯定的に見ていると言う事になるんでしょう
また、これはつまり、日本人が持っている、自認している、日本人像・日本人観ということにもなりますね
その日本人観が、当たっているかどうかは別にしてですが
私は、おおざっぱに見て、この日本人観は、諸外国人・民族に照らし合わせ、まんざら、間違ってはいないと思います
特に、これらの特徴を「あわせもっている」民族は、あまりいないような気はします
島国の民族の特徴でしょうか?
ただ、こういう性格は、単純に、絵に描いたようにハッキリしたものではありえないし、矛盾した点や、あいまいさ、両面性はあるとして・・・ですが
投稿: alex99 | 2011年2月11日 00:16
alex さん:
なるほど。
日本人は自分たちの性向をものすごく好ましく思っていて、「ガイジン」 のくせにそうした性向を持ってる人に対して、
「ガイジンのくせに、ガイジンじゃないみたい。まるで日本人みたい」
という傾向があるってことは、確かでしょうね。
でも、そう言われる方の気持ちは、あまり考えてないですね。
投稿: tak | 2011年2月11日 20:16
アメリカ人は外国人に対して「まるでアメリカ人みたい」のような言い方をすることがあります。個人的には私もtakさんと同じく違和感や傲慢さを感じますが、私の見る限り、言われた方の外国人は褒め言葉として受け取っていることが多いです。ニューヨークへ数日の観光に来た日本人が、現地の人に「君はすっかりニューヨーカーだね」と言われ大喜びしていましたが、日本人でなくても喜ぶ人の方が多いかもなぁと思いました。
言われる方の気持ちを考えていないというより、むしろ自分が言われたらうれしいから相手にも…ということではないかと思いますがいかがでしょうか。
投稿: emi | 2011年2月12日 05:46
emi さん:
>ニューヨークへ数日の観光に来た日本人が、現地の人に「君はすっかりニューヨーカーだね」と言われ大喜びしていましたが、日本人でなくても喜ぶ人の方が多いかもなぁと思いました。
なるほど。
ただし、「ニューヨーカー」 と、「日本人より日本人らしい」 とは、ちょっとベクトルが違うような気もします。
前者はコスモポリタン志向で、後者はローカル志向っぽいというか。広がり志向と縮み志向というか。
さらに、「すっかりニューヨーカーだね」 と 「日本人より日本人らしい」 というのは微妙に違いますね。そこが私にはちょっとイラッとくるところなんですよね。
投稿: tak | 2011年2月12日 13:15
なるほど。
「すっかり江戸っ子だね」と言えばコスモポリタン志向ですね。
ガイジンの出自を問題にせず受け入れるという態度が。
でも江戸っ子は祖父母の代から住んでないとなれないらしいから敷居が高いや(笑)
投稿: Cru | 2011年2月13日 11:58
Cru さん:
>「すっかり江戸っ子だね」と言えばコスモポリタン志向ですね。
なるほど、江戸っ子もそうかもしれませんね。
ところで、「江戸っ子より江戸っ子らしい」とはあまり言いませんね。
江戸っ子にもヒエラルキーがあって、三代住んでる江戸っ子もいるから、昨日や今日の江戸住まいでは、ダメなのかも (^o^)
その意味では、「日本人」 はそうしたヒエラルキー (「プライド」 と言い換えられるかなあ) をあっさり捨て去ってるところがありますね。
投稿: tak | 2011年2月13日 16:29
なるほど。
AssimilationとInclusionの違いのような気がしてきました。江戸っ子やニューヨーカーはInclusiveですが、「日本人より日本人らしい」は一旦exclusiveを経てからのAssimilation ("Outsiders are included, but only if they behave like insiders")ですね。
(英語混ざりで読みにくくてすみません…)
投稿: emi | 2011年2月14日 05:53
ウチの会社にも
「日本人より日本人らしい」ペルー人家族がいますよ。
でも、決して本人達向かって言いません。
日本人同士の内々の会話の中で
「彼らは(近頃増えたアホな)日本人よりも(昔ながらの)
日本人らしい(良い部分をもっている)家族だよね」
というニュアンスです。
何をもって「日本人らしい」かは、alexさんが提示いただいた通りですね。
当のペルー人息子(日本に来て18年の23歳)は、
別の知り合いのペルー人の粗暴な素行について
「あいつは外人やでアカンのや」と、差別してました(笑)
すっかり日本人になっています。
「アンタも外国人やろ!」とツッコみ、「差別はアカンよ」と諭します。
投稿: リュウT | 2011年2月14日 10:03
emi さん:
>江戸っ子やニューヨーカーはInclusiveですが、「日本人より日本人らしい」は一旦exclusiveを経てからのAssimilation ("Outsiders are included, but only if they behave like insiders")ですね。
なるほど、なるほど。言えてると思います。
ただ、最近私も、この違和感の正体は何だろうと考え続けて、「日本人より」 という余計な文節が入るのは、日本人のちょっと卑屈な態度の表れだからではないかという気がしてきました。
もちろん、パラドキシカルなユーモアというつもりも含めてのことだというのはわかりますが。
投稿: tak | 2011年2月14日 10:20
リュウT さん:
>「彼らは(近頃増えたアホな)日本人よりも(昔ながらの)
> 日本人らしい(良い部分をもっている)家族だよね」
>というニュアンスです。
そういうケースってありますね。
ただ、そうした美徳を 「日本人らしい」 と言ってしまうのは、「美徳の独占」 になりはしないかと思います。
本文にも書いたように、「日本にあって、相手の国にない」 と言っているようなものではないかと。
このケースは、当人までそのつもりだからおもしろいですけど (^o^)
投稿: tak | 2011年2月14日 10:30