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2011年3月18日

ついに、身内で犠牲者が

心配していたことが現実になった。妻の実家は仙台にあり、その実家の家族は全員無事で、家も壊れていないので、避難もせずに済んでいるのだが、弟嫁の実家があの女川原発のある女川町にある。今回の地震で大津波に見舞われた地域である。

実は、弟嫁の両親と妹夫婦が、津波に飲み込まれてしまったようなのだ。最終的に死亡は確認されていないが、狭い町であれから一週間経って安否が不明なのだから、おそらくだめだろう。生き残ったのは、妹夫婦の息子一人だけだそうだ。

私自身が東北の田舎町生まれで、さらに妻が仙台出身なだけに、親戚や友人の多くが東北の中心である仙台かその近郊で暮らしている。必死に安否確認の連絡を取ったところ、しばらくしてあちこちから無事の知らせが入った。無事とはいえ、家が傾いたり土砂に埋まったりという話がないではないのだが、少しはほっとしていた。

しかし、最終的に残されたのが、妻の弟嫁の実家である。実は女川のことを思うと、こちらからはなかなか話が切り出せなかったし、向こうもなかなか言えなかったようだ。それで情報が最後になってしまったのである。

弟嫁の両親と妹夫婦とは何度も会ったことがあるが、カラカラと明るく気持ちのいい人たちだった。まったく邪心の感じられない人っているが、まさにそうした人たちだった。生き残ったという息子とも 20年近く前、義母の葬儀で会っているが、元気ないい子だった。今は立派な青年になっているだろう。悲しみは深いだろうが、せめて生き残ってよかった。

弟嫁の気持ちを思うと辛い。かける言葉もなく、まだ電話でも話せていない。もう少し落ち着かなければ無理だろう。今はただ、冥福を祈るばかりである。

【4月 11日 追記】

弟嫁の両親と妹夫婦が犠牲になったと書いたが、その後、弟嫁の妹は犠牲になったが、その夫は仕事で別の場所にいて無事だったとわかった。亡くなったのは、弟嫁の両親と妹、そしてその 3人の子どものうち 2人。

当初は 3人の子どもたちのうち長男が生き残ったのかと思っていたが、末の男の子(高校生)が生き残ったのだとわかった。この子はまだ会ったことがない。会ったことのある上の 2人が死んでしまったわけだ。父親が生き残ったのは、不幸中の幸いだった。

自衛隊の捜索で遺体が見つかり、遺体確認も済んだそうだ。あの辺りでは「幸せ」の定義が、「生き残っただけ幸せ」から「遺体が見つかっただけ幸せ」に変わってしまっているそうだ。何とも言いようがない。

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