「寄付金額を自慢する」ということ
今日は仕事で福島の三春まで行き、帰り道はカーラジオで TBS の『考えるラジオ』という番組を聞きながら、ゆっくりと運転してきた。こんなテーマの番組だった。
"寄付金を自慢することを考える"
「寄付」について考えます。
まず、あなたは、働いています。先日、自分の職場で、東日本大震災をめぐる義援金の話題になったと考えてください。
その話題の中で、あなたの一人の同僚が、今回、かなりのお金を寄付したことを明らかにして、さらには具体的な金額まで披露しました。あなたも、本当は寄付を行っていたのですが、そのことは敢えて明らかにしませんでした。彼は、それ以降も、職場で今回の寄付について、たびたび自慢しています。
さて、そこで問いかけます。そんな職場の同僚に対して、
あなたは「自慢はやめた方がいい!」と言ったほうがいいのでしょうか?
それとも「自慢くらいいいのでは」という気持ちでいるべきなのでしょうか?
あなたが考える「自分の正しい行い」について、ぜひ理由とともに教えてください。
この番組のホストである鈴木おさむ氏の意見としては、「自慢については、正直気に触ることもあるかもしれないが、それが周囲の人に、もっと寄付しなければいけないと気付かせることもあるのだから、いいんじゃないか」というのがベースだったように思う。ところが聴取者からは、意外なほど多くの反対意見が寄せられていた。
「寄付するのはいいが、金額まで明かして自慢するのはよくない」と思っている人が、かなり多いことに、私も驚かされた。ただ、多くの反対意見は "あなたは、「自慢はやめた方がいい!」と言ったほうがいいのでしょうか?" という設問には直接答えていない。「いかがなものか」「不愉快」という感情論にとどまっていた。
印象に残ったのは電話で登場した某聴取者の意見で、彼の主張はかいつまんでいうと次のようなものだった。
孫正義氏のような、だれでも知っている人が金額を明かすのはいいが、自分も含めて無名の人間が寄付金額まで言うのは、どうかと思う。有名人の多額の寄付は売名行為だからいいが、無名の人間の場合は、アンフェアなのではないか。
正直なところ私は当初、この人が何を言いたいのかわからなかった。「アンフェア」というなら、彼の主張こそ、有名人と無名人の扱いに差を付けているだけアンフェア(不公平)だろう。
こうした考えの根底にあるのは、庶民はちょっとした金額を寄付すればいいというのが相場で、それ以上にがんばって必要以上に多額の寄付をして、それを吹聴するのは周囲に余計なプレシャーを与えるからよくないという、妙な「横並び感覚」なのではなかろうか。
私は「ふうん」というしかない。「100億円ポンと出しちゃう孫さんはすごいね」とか、「1億円のイチローは大したものだね」とか、「獲得賞金を全部出す石川遼クンはエライ」とかいいながら、会社の同僚がちょっと思い切った寄付をして、それを吹聴すると、それは突然「よくない」ということになるのである。
ちなみに仏教では「布施」(施し)に、「法施」「財施」「無畏施」の 3種類あるという。それぞれ、「道を説く」「物や財を施す」「不安を取り除いてあげる」というような意味である。そしてこの 3種類の中で「法施」が最上のものであるのだが、残り 2つも時と場合においてかげがえないほど重要だから、「財施」である寄付も大変意義深いものである。
そして、これとは別に「徳」というコンセプトがある。布施によって、人間の徳が高まるのだが、それはこれ見よがしに吹聴して施すよりも、人に知られずとも粛々と行う「陰徳」の方が価値が高いと、一般的には考えられている。
要するに、寄付した当人の人格がどうなるかという問題で、それはもうだんだん修行して、いろいろな気付きを得てもらうしかない。
もしランク付するとしたら、次のようになるかもしれない。
- できるだけの寄付をして、決して自慢しない。
- できるだけの寄付をして、自慢する。
- 寄付した人を褒めて、自分も少しだけ寄付する。
- 自分は少しだけ寄付して、吹聴する人を批判する (ちょっとセコい)。
「寄付を自慢するヤツを批判するだけで、自分ではなにもしない」というのが、実は一番セコい。
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