死にさえしなきゃ安全なのか?
一昨日に "「原発リスクの不条理性」 を巡る冒険" という記事を書いたのだが、なんだか我ながらもってまわったような論理展開にしすぎた感じがする。そこで今日は、ぶっちゃけた言い方でリライトしてみることにしようと思う。
「原発は安全」あるいは「原発はそれほど危険なものじゃない」というテーゼがある。何をもってそのように言えるのかというと、原発に起因する死者数は非常に少ないからだ。火力発電は大気汚染による健康被害をもたらす。さらに、燃料である石炭採掘には炭鉱事故がつきものだ。だから、火力発電は原子力発電より危険だというのである。
そうした主張の代表的存在にみえるのが、池田信夫氏である。彼は次のように tweet している。(参照)
安全性(死者の最小化)という目的から考えると、いま「脱原発」すると石炭火力が増えて、確実に死者が増える。経済的コストも増える。何の解決にもならない。
確かに、それを起因とする死者数という視点でみれば、原発は安全である。火力発電より安全であるばかりでなく、自動車より、飛行機より、電車よりずっと安全である。なにしろ、ここ10数年で、2人しか死者が出ていないのだから。
だから、池田氏の主張に真っ向から反対しようとは思わない。私の基本的立場は「反原発」なのだけれど、今すぐすべての原発を停止しろと主張したことは一度もない。すべての原発を即時停止することによる社会的混乱のリスクは、原発を使い続けることによるリスクよりもずっと大きいと思うからだ。
私は池田氏の現実的な主張をある程度容認するのだが、「安全性」をかくも単純に「死者の最小化」という言葉に置き換えることには大きな疑問を感じてしまう。「死にさえしなきゃ、安全ってことよ」ということに還元されてしまうコンセプトは、ちょっと乱暴すぎやしないだろうか。
まあ、池田氏は「原発は危険」という方向に振れ過ぎている(?)現状へのアンチテーゼとして、敢えて極端な主張をされているというようにも見えるので、ここで必要以上に噛みつこうとも思わないのだが。
安全性の基準を「死者数」ということにすると、世の中で一番危険なのは「人生そのもの」ということになる。死なない者はこの世に一人もいないのだから、生きることほど危険なことはない。何しろ、全員もれなく死ぬのだ。
死者数の少ない原発というシステムを「危険」というのがバイアスなら、死者数で単純比較してリスクを論じ、それ以外のファクターを切り捨てて「反原発は幼稚な論理」と断ずるのも、やはりバイアスでないはずがない。
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コメント
死者数と言う評価軸ではなく、「故郷を捨てなくてはならない」というリスクで考えればいかがでしょう?
僕のように自発的に故郷を離れ、20年以上もそこに立ち寄ることさえない輩もいますが、そうではなく
帰りたくて仕方のない、離れることが身を切るようにつらい人々を無理矢理故郷から引き離すと言う物は
自然災害以外ではこれ以外にはないのではないでしょうか?
投稿: 蝠樂亭 | 2011年4月27日 21:52
蝠樂亭 さん:
>死者数と言う評価軸ではなく、「故郷を捨てなくてはならない」というリスクで考えればいかがでしょう?
「故郷を捨てることの苦痛」というセンチメンタルなファクターは、リスク要因として挙げにくいんでしょうね。
死者数という厳然とした数値と比較しにくいし。
しかし、そのセンチメンタルなファクターこそが、人間にとっては需要なんですけどね。
それが通りにくいとなると、広範な補償金やら賠償金やらを考慮すると、原発は何かあったときには、ものすごく高コストなシステムだということを指摘することになるわけですが。
投稿: tak | 2011年4月27日 22:42