「鐘聲七條」という公案
大変久しぶりの『無門関』ネタである。今日は第十六則「鐘聲七條(しょうせいしちじょう)」。次のような公案だ。
雲門曰く、「世界恁麼に広闊たり。甚に因ってか鐘声裏に向かって七條を披る」
雲門和尚については、Wikipedia に「中国の唐末から五代の禅僧。五家七宗の一つ、雲門宗の開祖」とある(参照)。「日日是好日 (にちにちこれこうじつ)」という禅語の作者としても有名である。
さて、この雲門和尚が、「世界は恁麼(こんな)にも広闊(ひろびろ)としているのに、どうしてまた、修行僧たちは合図の鐘が鳴るとみんな法堂に向かうために七條の袈裟をまとうのか」との問いを発したというのである。
これは「世界はこんなにも広いのに、どうしてみんな、朝になると始業の時刻に合わせて、満員電車に揺られて会社に出かけるのか」という問いにもなるかもしれない。「だって、そう決められてるんだから、従ってるだけじゃん」と言いたくもなるが、それでは禅問答にならない。第十六則には「無門曰く」として、次のように続く文がある。
無門曰く、「おおよそ参禅学道、切に忌む、声に随い色を逐うことを。たとい聞声悟道、見色明心なるもまた是れ尋常なり。殊に知らず、納僧家、声に騎り色を蓋い、頭頭上に明らかに、著著上に妙なることを。是くの如くいえどもしばらく道(い)え、声、耳畔に来たるか、耳、声辺に往くか。たとい響と寂と双 (なら) び忘ずるも、此に到って如何んが話会せん。若し耳をもって聴かばまさに会し難かるべし。眼処に声を聞いて、方に始めて親し」
無門和尚は「およそ禅に学ぼうとする者は、声や色を追ってはならない」と言うのである。「声や色」とは、直接的に耳に聞こえ、目に見える様々なあれやこれやである。「納僧家と言われる禅の大家はそのようなことを追わず、とらわれず、逆にそれらを支配するのだ」というわけだ。
つまり、ゴーンと鐘がなってから、「あ、法堂に行かなきゃ」なんて言って、あわてて七條の袈裟をまとうのではなく、ごく自然に行動を起こしているというのだね。その上で無門和尚は、「ゴーンという鐘の音が認識されるのは、鐘の音が耳に届くのか、あるいは耳の方が鐘に向かっているのか」などと、さらに込み入ったことを言いだしている。
そして、「響きにも静寂にもこだわらなくなったとしても、耳で声を聞くようなことだからだめなのであって、眼で声を聞くような心境になれば、初めてものになる」なんて、シュールなことを言った上で、最後に「頌(じゅ)に曰く」として、次のような「超シュール」な結論に至る。
頌に曰く
会するときんば、事、同一家 (どういっけ)。会せざるときは、事、万別千差 (ばんべつせんしゃ)。会せざるときも、事、同一家。会するときんば、事、万別千差
「うまく符合するときは、すべてが一体となり、符合しなければバラバラになる」と言いながら、続けて「うまく符合しなくても、すべてが一体で、符合するとバラバラ」と言うのである。こうなるともう、理屈もヘッたくれもない。
仏道の深いところまで行ってしまうと、無理に理屈をこねて話の辻褄を合わせなくても、「鐘が鳴ったから七條の袈裟をつけなきゃ」なんてことがなくなり、すべてが成仏して一体となっていて、同時にそれぞれが多様な姿となって現れている」ということなのだろうね。
地震が来たからどうのこうの、放射能が漏れたからどうのこうのというのも、もう疲れちゃったから、「鐘が鳴ったからどうのこうの」なんていう話もないんだというパラダイムが、なかなか心地良い。もういいわ。死ぬときゃ死ぬし、まだ果たすべき何ごとかがあるのなら、しぶとく生きる。それだけのことだ。
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コメント
tak-shonaiさん
ここを初めて読みました。
すごくおもしろい!!
あの十牛のお話みたいですね。
すべてを超えた我ですね。
うふふ
おもしろいですね~~
投稿: tokiko68 | 2011年12月16日 20:21
tokiko68 さn:
この記事を書いたのは、あの震災から 1ヶ月経っていない頃でした。
精神的にかなり疲れていましたが、これを書いたことでちょっと楽になったのを覚えています。
投稿: tak | 2011年12月17日 20:33