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2011年5月に作成された投稿

2011年5月31日

「ベーコンエッグ」と "bacon and eggs" は別物らしい

今月 28日の「卵 6個の目玉焼きという贅沢」にきっしーさんが付けてくれたコメントが気にかかった。次のようなコメントである(全文引用)。

私の家では、目玉焼きの下にベーコンを2切れほど敷いていたのですが、子供心に、ベーコンだけを焦げないようにカリカリにしたのを山盛りにして食べたいと思っていました。

大人になってから気付いたのは、そもそも一般的には目玉焼きとベーコンは一体として焼くわけではないみたいだということです。

このへん、どうなんでしょう?私の両親は二人とも大阪出身なので、お好み焼きで豚肉を下に敷いて焼くようなノリだったのかと疑っているのですが。

きっしーさんご自身は一言も「ベーコンエッグ」とは言っていないが、これはどうみてもいわゆる「ベーコンエッグ」のことだろう。このコメントへのレスに書いたとおり、我が家でも母がベーコンを下に敷くスタイルのベーコンエッグを焼いてくれた。

そしてこれは、「お好み焼きのノリ」というわけではないと思う。というのは、私の生まれた山形県というところは、北隣の秋田県と並んで、日本一お好み焼きに縁のない県だからである。街を歩いても、お好み焼き屋なんて一軒も見あたらない。

だから、私は東京に出てくるまで一度もお好み焼き食べたことがなかったし、これまでにも 3~4回しか食べたことがないと思う。多分、ベーコンを目玉焼きの下に敷くタイプのベーコンエッグは、お好み焼きとは無関係なのではなかろうか。

試しに、Twitter で次のようなサウンディングをしてみた (参照)。

あなたにとっての「正しいベーコンエッグ」はどちらですか? (1) ベーコンを炒めた上に卵を落とすので、ベーコンと目玉焼きが重なっている (2) ベーコンを炒めて、それをいったん取り除き、ベーコンから出た油で目玉焼きを作るため、両者は皿の上で分かれている。

それから30分足らずの間に 5件の回答があったが、いずれも前者の「ベーコンと目玉焼きが重なっている」タイプとのことだった。ふぅむ、日本人のイメージする「正しいベーコンエッグ」は、そういうもののようなのである。

しかしきっしーさんのコメントへのレスに書いたように、英国式の "bacon and eggs" はそうじゃない。欧米に出張してホテルで朝飯を食うとき、 "bacon and eggs" のコースを注文すると、目玉焼きとカリカリに焼かれたベーコンは一体になっていない。明らかに別々だ。

私自身は "bacon and eggs" のコースでもスクランブルドエッグで注文することが多いので、玉子とベーコンが別々で当然と思っていたし、たまにサニーサイドアップで注文しても、スクランブルドの場合のバリエーションと解して全然気にしなかった。しかし今思えば、もっと早くこの事実に注目すべきだった。

我々は「ベーコンエッグ」を和英辞書的には  "bacon and eggs" というのだと教わった(参照)が、どうやら 「ベーコンエッグ」と "bacon and eggs" は、ビミョーに別物であるらしく、それは 「ハムエッグ」と "ham and eggs" の場合も同様なのである。

インターネットで画像検索してみると、次のようになる。

「ベーコンエッグ」(日本語) での画像検索結果: ベーコンの上に目玉焼きの載ったタイプと、別々のタイプが混在している。

"Bacon and eggs" (英語) での画像検索結果: ほとんどの画像で、目玉焼きとベーコンが分かれている。代表的なのはこちら

「ハムエッグ」(日本語) での画像検索結果: ほとんどの画像が、ハムの上に目玉焼きの載ったタイプ。

"Ham and eggs" (英語) での画像検索結果: "Bacon and eggs" の場合ほどではないが、別々になっているのが多数派。しかし、米国人でも家庭料理としてはハムの上に目玉焼きを載せるタイプを推奨している人もいる。例えば こちら

Web 上の英和辞書(研究社の 『新英和中辞典』)で "bacon and egg" を引いてみると、次のように説明されている(参照)が、これははなはだ怪しいのだとわかった。

bacon and eggs
ベーコンエッグ 《薄く切ったベーコンに目玉焼きをのせた料理; 英米の朝食に多い》

どうやら英国式の "curry and rice" (今は本国ではほとんど廃れたようだ)が、ライスとカレーが別々に供されるように、"bacon and eggs" も、同じ皿に載っている場合が多いとはいえ、一体化しているものではないようなのだ。日本式の「ベーコンエッグ」は、 いわば "bacon with eggs" とでも称すべきものなのではなかろうか。

 

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2011年5月30日

放射線リスクが煙草のリスク並みだというなら

国立がん研究センターによると、放射線による発がんリスクが出始めるとされる年間 100ミリシーベルトを浴びた場合、そのリスクは、受動喫煙や野菜不足とほぼ同程度なのだそうだ(参照)。

これをもって、「放射線なんてむやみに恐れる必要はない」という主張の根拠としている方が少なからずおられるのである。しかし、それって話が逆なのではあるまいか。このデータを使うなら、煙草の害は放射線並なのだから、一刻も早く公共の場での喫煙を禁止するという話の根拠にすべきだろう。

いつも愕然とするのだが、ファミレスなどに入ると、禁煙席は大人ばかりで喫煙席は家族連れ(小さい子ども連れ)ばかりという光景が日常茶飯事である。自分の子どもを煙もうもうの喫煙席に連れ込む親の神経って、一体どうなってるんだろうと思う。

「放射線リスクなんて、煙草のリスクぐらいのものでしかない」というのは、喫煙者の傲慢な文脈である。煙草の嫌いな人間からすると「どちらも避けたい」という、ごく当然でシンプルな結論になる。

喫煙者が放射線のリスクについて語るのを聞くと、私は「じゃあ、とりあえず、あんたが禁煙してみたら?」と言いたくなるのである。自分が煙草を吸いっぱなしでは、東電を責められないだろう。

下に産経新聞の記事から 「放射能と生活習慣によってがんになるリスク (国立がん研究センター調べ) という表を転載しておく。

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2011年5月29日

RealPlayer が Baidu IME とつるんだらしい

昨日、いつものように PC を立ち上げて日本語入力を開始したところ、何だかおかしい。「あぁ、また MS-IME のやつが起動したな」と思って画面右下をみると、なにやら見慣れないアイコンが出ている。何かと思ったら、Baidu IME だという。

中国の Baidu(百度)が日本語 IME まで開発したとは聞いていたが、そんなのをインストールした憶えはない。よく調べてみると、RealPlayer をアップデートすると、セットでインストールされてしまうらしいのだ。

そういえば、近頃は RealPlayer なんて使うことは滅多にないのだが、先日アップデートの知らせが出たので、つい惰性でやってしまったのだった。その際に、Baidu IME をインストールするかと聞かれるらしいのだが、私の記憶ではそんなことを聞かれた憶えはない。それとも、ついうっかり「OK」をクリックしてしまったのかなあ。おかしいなあ。

それに、たとえうっかりインストールしてしまったにしても、デフォルトの ATOK をさしおいて勝手に起動してしまうというのは気に入らない。頭に来て、RealPlayer ごとアンインストールしてしまった。さらば RealPlayer。二度と来るな Baidu IME。両方ともどうせ、一生使うことなんてないだろうし。

それにしても、どうしてまた米国の RealNetworks 社が中国の Baidu とつるまなきゃいけないんだ。どんなメリットがあるというのだ。こちらとしては、せっかく ATOK をここまで飼い慣らして快適に使いこなしているのに、何が悲しくて Baidu IME なんてものを使わなければいけないんだと思ってしまう。

こんな馬鹿馬鹿しいオペレーションをしていたら、RealNetwork 社の自殺行為ではないか。貧すれば鈍するとはこのことである。

 

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2011年5月28日

卵 6個の目玉焼きという贅沢

子どもの頃からの夢の一つに、「卵 6個の目玉焼きを食う」というのがあった。小学校で見せられた教育映画に出てきたシーンが忘れられなかったからである。

それはドイツかどこかの民話を元にした実写映画で、猟師のお父さんが狩りに出かけたまま何日も帰ってこないのを、森の中の一軒家でたった一人で待つ少年が主人公だったと思う。おなかを空かせて待っていた少年の元にやっと帰ってきたお父さんは、ちゃんと待っていたご褒美に、卵 6個の目玉焼きを作ってくれたのだった。

スクリーンにクローズアップで映された卵 6個の目玉焼きは超ゴージャスで、「この世にこれ以上のご馳走があろうか」というほどの衝撃だった。私は舌なめずりをして見入った。自分でも食べたくてたまらなかったが、家に帰って「卵 6個の目玉焼きを食べたい」なんて言っても、「何を馬鹿なことを」と言われるに決まっているから、言い出せなかった。

しかしこの時の衝撃的なイメージは成長しても心の奥に潜み続けていて、甘美な夢にまでなっていたのである。

ある時、このことを妻に告白すると、妻はいとも簡単に言い放った。

「あら、そんなに食べたかったら食べりゃいいじゃないの。卵 6個なんて 200円もしないんだから」

考えてみれば、その通りなのであった。子どもの頃の感慨としてはチョー贅沢なことなのだったが、今憶えば、ラーメン 1杯食べるよりもずっと安上がりなのである。そうか、どうしてそのことに今まで気付かなかったのだろう。

妻はしかし、こう付け加えることも忘れなかった。

「食べるんだったら、そういうイレギュラーなのは自分で作ってね」

そこで、今朝の朝食に卵 6個の目玉焼きを食べることにしたのである。夕べ寝る前に冷蔵庫の中に卵が 9個あることを確認しておいた。今朝見るとそれは 8個に減っていたが、問題ない。さあ、作ろう。

フライパンに入れる前に、ボウルに卵 6個を割って入れる。やってみると、どんぶり一杯ぐらいの量になる。ちょっとしたものだ。これだけで満腹になるのは確実だ。よし、今日の朝食は卵 6個以外には何も食わないことに決めた。

できあがりは、この写真である。写真だとわかりにくいが、かなりの厚みがある。最大で 3㎝ ぐらいだろう。とにかくずっしり感がある。

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味そのものは普通の目玉焼きと全然変わらない。これは当然だ。しかし食べ応えは相当のものである。本当に、これだけで十分満腹になった。かなりの満足感である。ああ、これで子どもの頃からの夢は叶った。こんなに簡単に叶うとは思わなかった。

さて、食後感だが、正直なところやや腹にもたれている。その気になればいつでもできるチョー安上がりの贅沢だが、多分、もう二度とすることはないだろうと思っている。私は健康診断の度に、コレステロール値はかなり低く出るのであまりその点の心配はないのだが、いずれにしても目玉焼きは、卵 1個か 2個がちょうどいい。

 

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2011年5月27日

ずいぶん早めの梅雨入り発表の意味

気象庁が関東甲信越地方の梅雨入りを発表した。昨年より 12日も早く、1951年の統計開始以降、63年の 5月 6日に次いで 2番目に早い梅雨入りなのだそうだ。

このところ 6年ほど気象庁が関東の梅雨入りを発表すると、早ければ翌日から、遅くても 2日後からからっとした晴天が続くという痛いパターンが続いていた。それは私の和歌ログの過去ログを見てもらえばよくわかる。平成 17年以後はずっとそんな繰り返しできている。

ところが今年はそんな心配はなさそうだ。少なくとも週明けまでは雨が降って、その後もはっきりしない天気が続きそうである。これで「気象庁が梅雨入りを発表すると、とたんに天気がよくなる」というジンクスは破られそうだ。

これまでは、梅雨入りを発表する前にしばらくじとじとした雨の日が続き、気象庁はそれを受けてというか、満を持してというか、そんな形で梅雨入りを発表していたような気がする。すると大抵タイミングが遅すぎて、すぐに梅雨の中休みみたいな状態になってしまっていた。

今年はこうした痛恨のパターンが継続するのを避け、慎重に満を持すのを止めて、台風の大雨が確実な週末の前に、早めに梅雨入りを発表してしまったのだろう。これで気象庁への信頼は少なからず回復するに違いない。

気象庁が早めの梅雨入りを発表した裏には、もう一つの事情があると思う。それは 3月の震災以後にずっと余震が続いてきたために、東日本の各地で地盤がゆるんでしまい、ちょっとした雨で土砂崩れが心配される状態になっているためだろう。早めに梅雨入りを発表したことには、そうしたリスクをそれとなく意識させるという意味がある。

気象庁、今年の梅雨入り発表はなかなかグッド・ジョブだと思う。なにごとも思い切りが肝腎だ。

 

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2011年5月26日

「グッポン」を巡る冒険

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翻訳の仕事をしておいでの くにしろ さんが、twitter 上で「トイレのシュポシュポ」をする道具の名称について悩んでおられた(参照)。左の写真の道具である。これ、英語では "plunger" というらしいのだが、日本語では何といえばいいのか、ほとんど知られていない。

英語の "plunger" は、よくぞ言ったものである。直訳すれば「突っ込むヤツ」ってな感じだろうか。なかなかよくできた実感的な言葉だ。これを英和辞書で調べたら、「(先に吸着カップのついた)排水管用掃除用具」という訳が見つかった(参照)。

さすがにこれでは一般名称として長すぎる。家庭でトイレが詰まったからといっても、いきなり「配管用掃除用具、持ってきて」なんて言っても、あまりピンとこないだろうし、何かいい名前はないものかなあと思ったのである。

そこで、「流しの排水口におく切れ目の入った丸いゴムの商品名は『菊ゴム』だそうです。このくらいのシンプルな名称が欲しいところですね」と返信した (参照)。

数年前に帰省したときに実家のトイレの排水が悪くなり、「トイレのシュポシュポ」を買おうとして地元のホームセンターに行ったのだが、何しろ商品名がわからない。それで店員に「便所ガボガボでわしんな」と庄内弁で聞いたら、向こうは「えぇと、『便所ガボガボでわしんな』ですね。ああ、こちらです」 と、とてもきれいな共通語で手際よく案内してくれた。

ちなみに「便所ガボガボでわしんな」を日本語に直訳すると 「便所ガボガボといわせるの」ということになる。いずれにしても、この道具を日本語で表現するには、どうしても擬音を使いたくなるのが人情なのである。

それでしばらくすると、くにしろさん自身が以下のような tweet をしておられた (参照)。

「トイレのシュポシュポ」の日本語名称はラバーカップまたは通水カップらしいですが、そんなの知ってる人はほとんどいない。ギュッポン、ガッポン、スッポン、ズッコン、パッコン、カッポン、キュッポンなど。擬音でしか呼ばれない物ってほかにあるかな。

自分でも「ラバーカップ」でググってみたら、それに該当するページが見つかった(参照)。確かに「ラバーカップ」 「通水カップ」 と呼ばれているようだ。しかし、そんなことを知っている人は、周りを見渡しても誰もいなそうなのである。さらに大阪から @Jizi_t さんまで、次のようにコメントしてくれた (参照)。

おにいさん方の話題になってるのは、もしかしてトイレの 「グッポン」 のことかしら。仲間内ではそれで通ってるんやけど、「ラバーカップ」 とか 「通水カップ」 とかっていうのが、それの一般名称かもしれません。

おお、「グッポン」か。これは個人的にはかなり気に入った。これから自分でも「グッポン」と呼ぶことにしようと思ったほどである。それで、念のために 「グッポン」 でググってみたら、意外な商品がヒットしてしまった。

ソースや油など調味料の内フタを外すための道具で、その名も「グッポン」という商品名のものが見つかってしまったのだ(参照)。これは困った。知らなかったら仕方がないが知ってしまった以上は、仮にも食品関連の道具を「トイレのシュポシュポ」を表す通称で呼んでしまっては、申し訳ないような気がするではないか。

しかし、この道具のメーカーは埼玉県春日部市の有限会社福島製作所というのだが、商品名を決定する際に「ちょっと待ってください。大阪方面ではトイレのシュポシュポのことを『グッポン』というらしいですよ」 と言ってくれる人はいなかったんだろうか。

いなかったんだろうなあ。まことに恐縮ながら、残念なことである。

 

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2011年5月25日

風評被害とは一線を画して

知人の I さんが最近ヨーロッパに行って帰国するとき、エール・フランスの飛行機に乗ったところ、搭乗した途端に 「この便は都合により成田到着が 1時間半遅れる」 というアナウンスがあったという。離陸が遅れるのかと思ったが、そういうわけでもなく、飛行機は定刻に出発した。そして日本に近づいてからの航路が遠回りになったのだそうだ。

普通、ヨーロッパからの便は日本の北の方から成田に接近して着陸する。しかしその便は、日本に近づいてから成田よりずっと西の方に進路を取り、名古屋の上空を通過して成田に向かうという遠回りをしたのだそうだ。機内アナウンスでは原発事故や放射能への言及は一切なかったが、福島上空を避けたのは露骨なまでに明白だったという。

試しに「成田/福島上空/避ける」の 3語でググってみてわかったのだが、国際便が成田に着陸する際にわざわざ遠回りをするのは、エール・フランスに限った話ではないようだ。さらに、日本人でも成田から離陸して福島上空を通過するのを避けるために、韓国のインチョン経由で米国やヨーロッパに向かうルートを選ぶ人が少なからずいるようだ。

これって、典型的な風評被害じゃあるまいか。福島第一原発から漏洩した放射性物質は比重が重いから、そんなに上空まで大量に拡散するわけではなかろう。それに放射線そのものは距離が長くなればなるほど弱まるから、上空ではほとんど問題にならない。むしろ上空にいる時間が長引くだけ宇宙線に含まれる放射線を長時間被曝することになる。

高度 1万メートルの上空では、宇宙線に含まれる放射能を地上にいる場合の 150倍ぐらい浴びると言われている。福島上空を避けて遠回りすることで逆に被曝量が増えるのだから、ちょっとお笑いぐさだと思うのだが、ヨーロッパでは自ら望んで被曝量の多い仕事についた飛行機の乗務員たちまで、こんなに妙な具合にナーバスになっているわけだ。

さて、航空路線となる高度 1万メートルほどになると宇宙線が強くなるから話は別だが、日常的な話としては、地上から漏洩した放射性物質は比重が重いから、高度が高くなるほど放射線測定値は下がる。大人と子どもの身長差だけでも、子どもにとっての影響が大人よりずっと大きくなるというぐらいのものだ。

それなのに、昨日の記事へのきっしーさんのコメントからのリンク(参照)で、文科省の発表する各都道府県の「調査結果」が、案外いい加減なものであるということがわかった。リンク先の記事によると、東京都と千葉県の測定値は、地表からかなり高いところで測られているようなのである。

たとえば、東京都の場合、新宿区百人町にある「東京都健康安全研究センター」の屋上に設置されたモニタリングポストによって計測している。地表からの距離はおよそ18m。千葉県は市原市岩崎西にある「千葉県環境研究センター」の地上7mの地点にモニタリングポストを設置している。

この記事によると国土交通省政務官の小泉俊明代議士(茨城県選出)が独自に都心の溜池交差点で地上 100cm の高さで測定してみたところ、文科省の発表数値より 2倍も高い値が計測されたのだそうだ。

群馬県立県民健康科学大学診療放射線学部准教授の倉石政彦氏は、「いったい誰が、地上 18mの屋外で生活しているのか。鳥ぐらいのもので、鳥の被曝量を調査しても仕方がないでしょう」とコメントしておられる。

小泉氏によると、茨城県の南部の 9市町村でも、文科省発表の 3~5倍の値が出たという。文科省の数字は県中央部の水戸市での計測結果だから、福島からより遠い県南部でそんなに高い数字が出たということは、公式発表数値があまり当てにならないということを意味するだろう。

国際便が福島上空を避けて飛行するというのはかなりお笑いぐさだが、地上で生活する我々は、状況が当初の発表よりかなり深刻なものになってきていることを意識した方がいいだろう。なにしろ、メルトダウンは多くの人が推測していたが、メルトスルーまではあまり想定されていなかった。

放射性物質の漏洩はだんだん収まっていくだろうと期待していたのだが、こうなると、むしろ徐々に大きくなっていくことも覚悟しなければならない。そうでなくとも、地表での蓄積はそんなに急には解決しない。だんだん収まるのならあまりナーバスになる必要はないが、拡大が懸念されるとなると、とくに子どもの生活環境には気を付けるに越したことはない。

これは、妙な風評被害とは一線を画した話である。

 

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2011年5月24日

お茶っ葉を天ぷらにして子どもに食わせたことについて

茨城県坂東市の岩井さくら商店街のウェブサイトに、今月 11日に実施された「さしま茶 ふれあい学習」というイベントの記事が載った。記事によると、坂東市の 13の小学校 3年生が雨の中でお茶摘み体験学習をした後、摘んだお茶を天ぷらにして食べたのだそうだ。

この記事を読んだときは、「よりによってこの時期に、子どもにお茶っ葉を天ぷらにして食わすとは、地域産業振興の思惑があるにしても、ちょっと軽率なんじゃあるまいか」と思ったものである。このイベントの 5日後の 5月 16日には、板東市の隣町である境町で、さしま茶から基準値を超える放射性物質が検出され、出荷自粛となっている。

報道によると、生の茶葉から基準値を超えるセシウムが検出されても、お茶にしてしまえばお湯で何倍にも薄められるから、健康被害は起きないが、念のために出荷を自粛しているとのことだった。ただ、お茶にしてしまえば大丈夫でも、葉をそのまま天ぷらにして子どもに食わすというのは、おだやかじゃない。

本日、Twitter で @f_memo さんが、"坂東市観光協会のサイトからも、5月11日付の「おしらせ:【NEWS】『さしま茶ふれあい学習』が行われました。」という記事がサクッと削除されておるな" と tweet しておられた。(参照

なるほど、上記のリンクでご覧いただいてもわかるように、岩井さくら商店街のサイトは「サイト改築中」とやらで、コンテンツが見られないし、板東市観光協会のサイトでも該当記事は見あたらないという状態になっている。ネガティブな反響が大きすぎたので、記事を削除してしまったのだろうと思われる。

そこで私は 「記事は削除しても、よりによってこの時期に、お茶っ葉を天ぷらにして子供に食わせたという事実は残る」というコメント付きの返信をした(参照)。ちなみに、商店街のサイトの記事は削除されたが、Google のキャッシュに残っている(参照)。そのうち消えるだろうが。

当初私は、イベントそのものは「いかがなものか」と思ってはいたが、別にそれを非難しようとまでは思わなかった。しかし、いったん上げた記事を何のコメントもなく削除してほおかむりするという姑息な姿勢にはちょっとムッとしたので、一言コメントしておきたい気がしたのである。

すると間もなく @bbking1818 という人から、以下のようなコメント付きの返信があった。(参照

『坂東市に問い合わせたところ、小学生が(11日)お茶摘む前の5月2日に市は既にセシウム検査を実施。結果基準値(500bq)を下回る237bqだった。県の検査はその18日後の旧猿島町』今時どこのアホ自治体だって検査ぐらいするっしょ。

さらに、鬼の首でも取ったように、次のようなコメントが続いた (参照)。

よく確かめてツイートすればいいのにね。情報によると小学生の画像流失問題でIPアドレスを元に著作権と肖像権侵害で既に捜査が始まってるみたいですよ。

@bbking1818 という人は、板東市はきちんとセシウム検査をして、基準値を下回ることを確認してからイベントを実施したのであるとして、「よく確かめてツイートすればいいのにね」 とおっしゃっているわけである。ご親切なことである。さらに。記事が削除されたのは、小学生の顔の映った写真が掲載されていたためだと言いたいようなのである。

 

しかし、@bbking1818 氏自身が書いておられるように、セシウム検査を実施したのは 5月 2日で、イベントが実施されたのは、その 9日後の 5月 11日である。つまり、このイベントの主催者(この記事の末尾に詳細を記す)は 9日も前の試験で得られたデータをもとに「安全」と判断し、お茶っ葉の天ぷらを小学生に食わせたというわけだ。日ごとに数値が変化する時期の、しかも、雨の降り注ぐ日に。

これ以上は何も言わない。

このイベントの主催は、茨城県茶生産者組合連合会坂東支部で、後援は坂東市・坂東市教育委員会、協力が茨城県立農業大学校園芸部、坂東地域農業改良普及センター、坂東市くらしの会 となっている。

 

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2011年5月23日

もう一歩踏み込む酔狂さ

"God is in the details." (神は細部に宿る) と言ったのは、ミース・ファン・デル・ローエという建築家であるとされる。彼はミニマリズムを旨としながらも、細部のデザインに凝り、しかもそれをいかにシンプルに見せるかに苦心した。だから彼のデザインによる建築は、ざっとみればシンプルだが、よくみると玄人をうならせるディテールに満ちていたらしい。

「神は細部に宿る」というのは、元々は建築デザインの分野の格言なのだが、いろいろな芸術分野でも言われる。とくにコメディ映画では、画面の隅っこにちょっとした伏線や、注意していなければ見落としそうなパロディをちりばめることがある。マニアックな映画通がそれに気付いて、宝物でも発見したように喜ぶ。

映像の醍醐味は、何度見直してもそこに新しい発見があるということである。いや、映像に限らず優れた芸術というのは、何度見直しても新しい発見や感動がある。ざっと見て、それでわかったような気になっている半可通を裏切りまくるほどの、ほとばしり出る、あるいはにじみ出るものがいつまでも持続する。

全体を見て受け取った感動が、どんなに細部に注目しても、姿やおもむきを変えつつ、しかも一貫したベクトルをもってにじみ出る。だから芸術の鑑賞は止められないのである。

絵にしても、「いかにも小器用なだけの絵」 というのは単なる記号だから、じっくり鑑賞しようという気にならない。美人や美男子にしても、あんまりお約束的すぎる美しさだと、とことん付き合おうという気が失せる。どこか崩れているぐらいが魅力的だったりする。

芸術表現で「月並み」「平凡」が嫌われる理由は、そこにある。一見してわかってしまって、それ以上細部に注目しても、新しいものが別に何もないのだ。だったら、もったいぶって芸術なんていう表現手段を取らず、単なる散文的な説明で済ましてもらえばいいだけなのである。

俳句や短歌の初心者にちょっとした指導をするとき、「いくら美しかったとしても『美しい』とは言わないでね」「いくら癒されたとしても、『癒しのなんとか』という表現はしないでね」「いくら楽しかったとしても『心楽しき』なんて言わないでね」というのだが、なかなかわかってもらえない。

いくら言っても、「桜花満天満つる美しさ」とか「バイオリン心を癒すその調べ」とか 「春の日に孫と遊べる楽しさよ」なんて、平気で作ってくる。それを言ってしまっては、それっきりでしかないんだけどなあ、人生における感動って、その程度のものであるはずないでしょうというのが、なかなか通じない。

表現って、そんなに難しいことかなあ。単に、感動にもう一歩踏み込むだけの酔狂さが足りないだけなんじゃないかなあ。人生に膨らみをもたせるのは、ちょっとした酔狂さだと思うんだがなあ。

 

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2011年5月22日

町内一斉草刈り

今日は町内自治会主催の一斉草刈りに参加した。私の住んでいる地域は田園地帯と川沿いの湿地帯の交わるあたりを埋め立てて開発した宅地なので、初夏の声を聞くと土手や空き地に雑草が生い茂る。我が家の裏手は川の土手なのだが、ここに越してきて 2年ほどは網状のフェンスごしに葦が高く生い茂り、川が見えなかったほどだ。

葦原というところは、ヤブ蚊の発生源である。それに背の高い葦のせいで風も通らないため、夏はものすごく暑かった。2年がかりで地下茎をほじくり出して葦が生えないようにし、ようやく風が通るようになったのだが、それでも 5月になると雑草が生い茂る。

私のところの町内会では、エンジン式の草刈り機を 11台も装備して、5月中頃の日曜日になると、ガンガン雑草を刈りまくる。草刈り機が揃わなかった頃は、草刈り鎌を使って手動で刈りまくっていた。その頃は私も体力があったので、人の 5倍ぐらいの面積をブルドーザーのごとく刈っていたのである。

ところがさすがに来年は還暦を迎える年になり、いくらなんでも人の 5倍の面積を一人で刈りまくることはできなくなった。それでも、まだ 3倍ぐらいはこなしている。というか、周りを見ると 「どうして、あんなにゆっくりやっていられるかなあ」と思うぐらい、まだまだ体力はそれほど衰えてもいないようなのだ。ありがたいことである。

私がガンガン草を刈っている間、周囲の人たちは何をしているかというと、刈った草をせっせと集めて、ゴミ袋に入れている。私は長年「刈った草はそのままにしておけば、土の上に蓋をかぶせたような効果になって、新しい雑草が生えにくい」と主張しているのだが、これが全然通じない。

どういうわけだか、草を集めてゴミ袋に入れて、次のゴミ収集日に出すのである。放っておけば自然に土に還るものを、わざわざゴミ処理場に集めて、油をかけてつまりコストをかけて燃やすのである。

刈った草をきれいに運び出すものだから、裸になった地面には燦々と日があたり、新しい雑草がすぐに生えてくる。馬鹿馬鹿しいと思うのだが、これもまた、よく考えもせずに惰性で続けてきていることなので、改めようとしても改まらないのである。まあ、殺虫剤をペットボトルに入れて一般家庭に配るという惰性(参照)よりはマシかと思って、諦めている。

 

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2011年5月21日

「地下鉄車内でネット高速無線通信」 というニュース

地下鉄車内でネット高速無線通信 東京メトロなど、年度末から」 というニュースの見出しをみて、ちょっとだけ喜んだのだが、よく記事を読むと、UQ WiMAX のアンテナが立つというだけの話じゃないか。要するに、通常のケータイやスマホの 3G 回線でネット接続ができるというわけじゃないのである。

これでは、見出しが間違いというしかない。「UQ WiMAX 、地下鉄内でも接続可能に」というべきところなのである。で、WiMAX ユーザーの数は、今年 1月時点で 60万に達したと発表され、3月には 80万を越えたとみられているが、私の周りでは WiMAX を導入したという人を知らない。

私の持っている Panasonic の Let's Note も WiMAX 内蔵で、あとは契約すればいいだけの話なのだが、実家がエリア外なので契約を見送って、E-Mobile にしている。出張先でのネット接続を考えると、WiMAX はまだエリアが狭すぎると思う。大都市圏内にしか行かない人ならいいのだが。

というわけで、いくら地下鉄内で WiMAX が使えるようになったとしても、私には関係のないことだ。

ユーザーとしては、地下鉄内でのネット接続を可能にするというなら、Docomo、au、SBM の 3G回線が使えるようにしてくれる方が、圧倒的にありがたいところである。最近は電車内でケータイやスマホでインターネットにアクセスすることが、かなり多いからだ。それができないままで WiMAX が使えるなんていわれても、「あっ、そう」というしかない。

つまりこれは、都営地下鉄と東京メトロのサービスというよりも、UQ コミュニケーションズの販促プロモーションとみる方が正解だろう。地下鉄としては、普通の 3G 回線の受信を可能にしたら、車内でケータイしまくる乗客が増えるなんて警戒しているのかもしれないが、地上を走る電車でもそんな不心得な客はほんのわずかだ。

地下鉄側には、UQ コミュニケーションズにアンテナ工事費をすべてかぶせておいて、「利用客へのネット接続サービスを実現した」なんて、ただ乗り的な自己満足に終わらないように注文したいところである。

それに UQ コミュニケーションズにとっても、これがそれほど有効なプロモーションになるかは疑問だと思う。地下鉄の座席にどっかと腰を下ろし、おもむろにノート PC を広げてネット接続したいがために WiMAX に乗り換える人が、そんなにいるものだろうか? 地下鉄内での接続の需要のほとんどは、お手軽なケータイやスマホだろうと思うがなあ。

 

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2011年5月20日

なかなか進まない放射能汚染の情報公開

茨城県は、今問題の福島原発に関東の中では一番近い。まあ、その茨城県の中でも、私の住んでいるのは南部なのでリスクは比較的小さいのだろうが、それでも放射能汚染は確実に広がっているようなのだ。このまま垂れ流し状態が続いたら、それこそ呑気ではいられない。

いくら汚染が広がっても、生活の基盤は関東においているので、おいそれと関西に逃げ出すわけにもいかない。そんなことをしたら、明日から生活に困る。よほどのことがない限り、ここで暮らして、ここで仕事をし続けるしかないのだから、腹をくくるしかないのだが、ストレスは増えるばかりだ。

関東の農産物からも放射性物質が検出されていて、いくつかの品目では基準値を超えて出荷が見合わされている。はっきり言って、基準値以下の食品なら平気で食っちゃうけど、それでも自分の食う食品が、吸う空気が、歩く土壌が、どのくらい汚染されていて、どのくらいのリスクがあるのか、きちんと認識しておきたいと思うのは人情である。

ところが、このあたりの情報がものすごく少ない。会津で天然酵母のパン屋をしている食工房の mikio さんなどにとっては、それこそ死活問題なので、国は福島県内の各市町村に放射線量測定器を配るべきだと主張している。しかしどういうわけか外国から寄贈された大量のガイガーカウンターが、成田のどこかで保管されっぱなしになっているらしい。

たまたま知り合いから測定器を借りることができた mikio さんは、身の回りのあちこちの場所で測定を始めた。そのことが 彼の昨日付のブログ に記されているので、興味のある方はご覧いただきたい。

mikio さんによると、ホットスポットと呼ばれる高濃度汚染箇所があるという。それは 「道路沿いの側溝の淀みに溜まった泥、窪地に吹き溜まった落ち葉、建物の軒下の雨だれが落ちる所、雨どいの水が流れ落ちる出口の直近など」だそうだ。ちょっと以下に引用させていただく。

配達先や途中の路上などで測定しましたが、ある大きなお屋敷の大屋根の長い雨どい落ち口では、9.0μSv/hを記録しました。
ここの空間線量は0.19μSv/hです。

さらに集会所の建物の四隅の一カ所では、10.0 μSv/h を記録したという。胸部 X 線や CT スキャンの 1回あたりの被曝は 7,000 μSv といわれるので、それと比べれば微量ではあるが、これは一度限りではなく、ある程度継続的な数値である。ホットスポットの近くに長時間いれば、蓄積が問題になる。

会津若松でこれだけの値が出るということは、原発により近いところではかなり高い値になっていることだろう。そして雨水が流れて貯まる場所で高濃度になっているということは、水は低きに流れるから、流れ行く先ほど高濃度になってしまうことが考えられる。

mikio さんは、排水溝の出口付近の川岸に子どもたちが遊びに行ったりしないよう、大人は気をつけてやらなくてはならないと主張している。

政府や東電はこうしたきめ細かい情報をきちんと公開して、ホットスポットで子どもを遊ばせないように呼びかけたり、除染のマニュアルなどを配布してもらいたいところだが、なぜか情報公開は進まず、不信感は深まるばかりである。

 

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2011年5月19日

震災以後、省エネ運転が身に付いた

あの大震災以来、エコ運転が身に付いてしまった。エコ運転については、これまでだってかなり気を付けていた。余計なアイドリングは慎み、急発進・急加速も、危険を避けるため以外には極力避けてきた。それでも、大震災以後の自分の運転からみると、ずいぶんガソリンを無駄に使ってきたと思う。

現在はガソリンスタンドで給油のために並ぶなどということはなくなったが、茨城県南部では 震災後約半月は給油がままならなかった。水戸以北では 3月末頃になって、ようやく並ばなくてもよくなった。

茨城県というところは東京と違って、かなりの都市部でも、車がないと人間らしい暮らしのできないところである。通勤でも買い物でも、ちょっとした用足しでも、車が脚代わりである。だからガソリンがないと、まともに暮らせないのだ。

しかたがないから、ガソリン供給が復旧するまでは極端な省エネ運転でしのいだ。赤信号に変わって間もないタイミングで停まったら、アイドリング・ストップする。青信号になって発信しても、時速 20km/h に達するまで 10秒近くかける。そしてエンジンを 1,500回転ぐらいにキープして、40~50km/h で巡行する。

このくらい気を付けると、燃費はかなりよくなる。普段こんな運転をしたら、後ろから煽られてかえって危ないが、震災直後はほとんどのドライバーが省エネ第一を心がけていたようで、煽られたりパッシングされたりというのはまったくなかった。

私は今、先代のマツダ・デミオに乗っていて、これは OD なしの 3段オートマである上に、発進時の吹け上がりが心地良すぎるほどいいので、1300cc という割には燃費があまりよくない。実行燃費は、リッターあたり 12~3km といったところだった。ちょっと攻める運転なんかしたら、途端に 11km ぐらいに落ちる。

ところが、かなり気を付けて省エネ運転すると、リッターあたり平気で 15km ぐらい走るのである。高速道路を時速 90km/h ぐらいで安定して走ると、16~7km ぐらいに伸びる。交通量の少ない夜道などは、前は結構飛ばしていたが、今は逆に、後続車を気にしないで済むのでますますゆっくりになる。

ふと気付いてみると、周りを走る車も以前よりかなりおとなしい走りになっている。無闇に煽ってくる車なんて、ほとんどなくなった。あの大震災以来、人間の心がかなり変わったように思う。あくせくすることが減り、確実に穏やかになっている。

 

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2011年5月18日

越谷の殺虫剤誤飲事件 ―― 行政の惰性という問題

もうちょっと早めに書こうと思っていたのだが、つい忘れているうちに詳細が少しずつわかってきたので、ちょっと遅めではあるけれど書くことにする。埼玉県越谷市で、70代の女性 2人が市から配布された殺虫剤を誤飲して重体に陥ったという件についてである。

経緯をみると、この殺虫剤は越谷市から連合自治会を通じ、女性の所属する自治会(女性宅は班長を務めていた)に 18リットル入り 2缶が配られた。そして同自治会ではペットボトルなどに小分けして、14日夕方までに、翌日の自治会清掃のために 26班ある班長宅へ配布したということになっている。

越谷市ではペットボトルなどに小分けしないように指導していたが、それは以下に引用する毎日新聞の記事にあるように、全然徹底されていなかったようだ。(参照

越谷市の女性と同じ自治会の 70代男性は、毎日新聞の取材に「ペットボトルなどに小分けするのは十数年前からやっていた。何ら問題はなかった」と話した。
また、別の女性(68)によると、薬品は誤飲事故のあった 15日に行われた同自治会による清掃で散布される予定だったという。女性は「ずっと前からこのやり方。清掃で薬品を散布したかどうかは分からない」と話した。

お茶と同じような色をした殺虫剤をペットボトルに入れて一般家庭に配布するというのは、この自治会では当たり前のように続けられてきたというのだが、既にあちこちで指摘されているように、常識論からすれば乱暴すぎる話である。しかし、根本的な問題はそこではなく、殺虫剤が 18リットル入りで 2缶も無造作に自治会に配られるということではなかろうか。

実は私の住む地域でも、以前はそのような形で殺虫剤が自治会に配られていた。しかし、そんなものを配られても処置に困るので 「いらない」 ということになり、ある時から配られなくなった。もしかしたら、希望した自治会には今でも配られているのかも知れないが、詳しくは知らない。

清掃現場には使用説明書も持ち込まれず、なんだかよくわからないうちに、使われたり使われなかったりする。うちの自治会では、使い残しが一斗缶に入れられたまま何年も物置に放置されていたので、「こんな危険なもの、もういらない」ということになった。それまでは、よくも考えずに惰性のように毎年受け取っていたもののようなのである。

実は、惰性で続いてきたことほどやっかいなものはない。配布を希望しないということに決定するときも、「地区の衛生のために必要だ」「共同の清掃に使わなくても、家庭で使うこともある」などととあくまで言い張る会員もいて一筋縄ではいかなかった。どんだけ無料でもらえるものが好きなんだ。

それでも最終的には「実際問題として、まともには使われずに毎年ほとんどの量が残っているのだから」という事実の方が圧倒的に強く、受け取らないことに決まったのである。「家庭で使いたい」などというのは言語道断で、自分の家で必要だったら、ドラッグストアで買ってくればいいだけのことだ。

今回のケースでも、上述の記事の引用部分にあるように、「ずっと前からこのやり方」といっているくせに、実際には「清掃で薬品を散布したかどうかは分からない」という、実にいい加減な惰性でしかなかったようなのだ。

そもそも「散布したかどうかは分からない」というのも欺瞞以外のなにものでもなく、誤飲事件が起きたのは清掃当日の夕方なのだから、「散布されなかった」ことが明らかではないか。つまり使いもしない殺虫剤を、わざわざペットボトルに小分けして配っていたのだ。まさに、惰性ほど恐いものはないのである。

越谷市ではこの事件を受け、殺虫剤の配布を中止したと伝えられる。どうせ惰性で続いてきたことなのだから、中止されても誰も困らないのである。そもそも町内の清掃時に散布する殺虫剤なんて、下水が普及する以前に汚いドブに撒くためのものだったのだから、ほとんどの地域で既に使命が終わっているのだ。

独立行政法人の仕分けに限らず、行政レベルでは、一度始めたことは容易に止められないのである。どんなに税金の無駄遣いと言われても、利権も絡めば市役所職員の担当が要らなくなったりするという人事問題も発生する。止めるのが難しいのは、原発だけではない。

 

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2011年5月17日

神奈川県産の茶葉からセシウム検出のわけ

先日、神奈川県産の足柄茶から基準値以上のセシウムが検出され、出荷自粛しているというニュースを聞いて、「なんでまた、300km も離れた神奈川県で、そんなことになったんだ?」と、ちょっとしたショックを覚えた。神奈川でそんなことになるなら、茨城の農産物はどうなるんだ?

基準値以上のセシウムが検出されたのは、お茶という品目の特性によるのか、それともほかの農作物でもあり得るのか? これがウヤムヤのままでは、落ち着いてメシも食えないではないか。

腰を据えて検索していたら、J-CAST ニュースに次のような「ふ~ん」と思わせられる解説がみつかった。県の農業振興課が、農水省を通して専門の研究者に照会して得た説明だそうである(参照)。

冬の間も茂っていた葉に、大気や雨に含まれるセシウムが付着し、葉がそれを吸収して溜めていたことが考えられます。新芽が出るときには、糖分やアミノ酸、ミネラルなど大事な成分が樹木内から新芽に流れていくのですが、溜まったセシウムも同時に流れたはずです。それで、新芽にセシウムが濃縮して、規制値超えになったのではないでしょうか

というわけで、お茶という植物全体(主として元々茂っていた葉ということなのだが)に一定の時間をかけて付着したセシウムが吸収され、新芽の部分に濃縮された形で流入したということのようなのである。まあ、食品としてはお茶ならではのメカニズムなのだろう。

これで、他の農産物で検出されない理由もわかったし、少し安心できる。ただ、お茶を飲むのに多少慎重にならざるを得ないことになってしまった。大人が普通に摂取する分には、直ちに健康被害は出ないという、おなじみの気休め付きなので、あまり取り越し苦労はしたくないが、しばらくはコーヒーの比率を増やそうかな。

 

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2011年5月16日

8年ぶりに椅子を買い換えた

昨日、椅子を買い換えた。私のワーキングスペースは寝室の一画を仕切ったもので、何から何まで手を伸ばせば届くというコンパクトさゆえに、最近は「コックピット」と呼んでいるのだが、このコックピットの椅子がへたってしまって、腰痛の元になってしまっていたのだ。

この椅子は、8年前にサラリーマン生活を止めて独立したときに買ったものである。それまではホームセンターで買ってきた 2,800円ぐらいの安物の椅子を使っていたのだが、これは 2~3時間以上座って仕事すると腰が痛くなるというので、多少はマシな椅子に買い換えたのだ。この頃のことが、当時の Today's Crack に書いてある (参照 1参照 2)。

我ながら驚いたことに、8年前はまだココログを使い始めていなくて、この時期の Today's Crack は「庄内拓明の知のヴァーリトゥード」という本宅サイト内のウェブページとして保存してある。ココログを使い始めたのは、約 7年前のことだ。ふぅん、もう 10年以上も使っているような気がしていたのだが。

というわけで、独立記念みたいにして買った椅子も、8年経ってガタがきてしまったのである。8年というのは、長いような短いような、不思議な時間だが、ココログを使い続けている実感からしても、やっぱり短いわけではないのだろう。椅子がへたるのも道理である。

近頃、椅子に座って PC のキーボードを叩き続けるのが辛くなってきていたが、これは椅子のせいもあると、ようやく気付いたのだ。椅子がおかしくなると、正しい姿勢をキープするのが難しくなるみたいなのである。

椅子は先週初めに ニトリ で見つけて注文し、日曜日に受け取ることができた。とはいえ、特別注文の高級品というわけではなく、単に店に在庫がなかったので取り寄せに手間がかかったというだけのことだ。

値段は案外安くて 7,880円。総本皮張りの 19,900円のものもなかなかよかったのだが、同じような座り心地なら、安い方がいいに決まっているから、こっちにした。背もたれがメッシュで、今年の夏の省エネにもいいだろうという理由もある。

ただ、椅子はあまり安物に走ってはいけない。上述のように、ホームセンターで適当に買った安物は、3時間以上の作業に耐えなかった。そしてこれまで使っていたのも、確か 5,800円ぐらいだったと思うのだが、買った当初の快適さが 8年もたなかった。軸にがたつきが生じて、座面もへたってしまった。

今回の買い物も、それほど贅沢をしたというわけじゃないのだが、これまでより少しは快適に仕事できるのではないかと思う。

そうそう、安物の椅子はいけないのだが、高級すぎるのもいけないのである。知人が定年退職を機に自宅の書斎の椅子を買い換えた。このときかなりがんばって、重役室で使われるような、革張りの高級品にした。ところが、これが高級すぎて仕事にならないというのである。

重役用の椅子は、仕事をするためではなくふんぞり返るためにあるようで、自ら PC に向かってキーボードを叩き続けるための設計にはなっていないのだ。そこが「ワーキングチェア」との大きな違いである。

高級椅子は、深くゆったりすわって心地良い作りになっているが、ワーキングチェアは浅めに腰掛けて両手を前に出してキーボードを叩く姿勢で、リラックスし、安定するようでないといけない。重心の位置が全然違うのだ。

そして私は、一生ワーキングチェアに座り続ける人間みたいなのである。

 

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2011年5月15日

感性はメルトダウンしちゃって、ストレスばかり増える

3日前に「こっちの感性がメルトダウンしちゃう」というログを挙げたが、「1号機建屋の地下に汚染水3千トン 漏出? 冠水計画見直し」などというニュースをみるにつけ、「俺の感性、もうとっくにメルトダウンしちゃったかも」と思う。

こうしたニュースに、いちいち付き合いきれなくなってしまった。なにしろ、ちゃんとした収束までにはあと 10年かかりそうだというのである。危機が日常化してしまっているのだから、しょうがない。

「付き合いきれない」と思える「辛うじてセーフ(かもしれない)」ゾーンの茨城県西南部に住んでいるから、こんな寝言が言えるのであって、原発に数十km というゾーンでは、それどころじゃないと思うのだが、どうにもできないいらだちがある。

「原発のニュースには付き合いきれない」 というのも寝言なら、「人はまだ一人も死んでいないのだから、原発は安全」などというのも、もはや立派な寝言である。半径 50km 圏内に居住する人が、自分の家から離れて、ということは、まともに生活する権利を奪われて、どこかに避難しなければならないという状態の、どこが「安全」と言えるのだ。

とは言いながら、もう本当にこっちの感性なんかメルトダウンしているから、海洋汚染の予測図の茶色のゾーンがじわじわ広がっていこうとも、大気中の放射線物質がどんどん内陸部まで広がってこようとも、「ああ、初めっから、この程度のことは予測できていたはずなのに、情報を小出しにしてきたんだな」と、ただ呆れるのみである。

リスク・マネジメントの常道は、予測される最悪の状況を避けるために、情報を正直に公開し、可能な限りの対策を初期の段階で取ることである。これについては、食品関連の不祥事がある度に指摘してきた。まあ、東電はこの初期対応で間違ってしまったわけだ。パニックを恐れるあまり、国民を見くびりすぎたのである。

人間というのは不思議なもので、ここまできても「まあ、最悪の事態は避けられるだろう」と、根拠があるような、ないような、「正常化の偏見 (normalcy bios)」を駆使した心情を保持できている(参照)。そうでなかったら、東北から北関東にかけての住民はみな、関西方面に逃げ出すところだ。

ただ、正常化の偏見フル稼働のおかげで、なんとか精神の安定は保たれているが、東電に対する不信感は思い切り増幅してしまっている。ストレスといらだちがたまりにたまっているのは事実だ。

先頃発表された 6ヶ月から 9ヶ月かけて収束させるという工程表にしても、あんな根拠もヘッたくれもないものを信じている国民なんかいなかった。しかし、こんなにもあっという間に、それが反古になるとも思わなかった。今は何を言われても信用できないという、難しいところまできてしまっている。

原発事故で一番危険なのは、物理的リスクよりも、この不信感増幅による国民的ストレスなのかもしれない。その意味でも、今回の惨事の多くの部分は人災だ。問題は、東電自身がそのことをあまりよく認識していないんじゃないかということだ。この不信感を払拭し、信頼を取り戻すまでには、絶望的なまでに長い時間がかかるだろう。

 

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2011年5月14日

左利きの痕跡

7年近く前に、「右手ではこなせないこと」という記事で、私は今でこそ右利きだが、物心付くまでは左利きだったらしいということを書いた。死んだ祖母が私をじっくりと右利きに矯正してしまったもののようなのである。

ただ、今でもトランプを切って配るのと、トイレでお尻を拭くのは、左手でないとできないと書いた。さすがに祖母はトイレの中に付いてきて、右手で尻を拭けとまでは言わなかったようだ。

そして最近思い当たったのだが、トランプを切って配るのが左手でしかできないように、「片手で持ったモノにもう片方の手で働きかけて何かする」という作業が、私は普通の右利きとは逆のパターンが多いようなのである。

例えば、iPhone で文字を入力するとき、普通の右利きは左手で iPhone を持って右手の指でチョンチョンするようなのだが、私は逆だ。さらに、歯磨きのチューブの蓋を取るときも、チューブを右手で持ち、左手の指で蓋を捻るし、袋から何かを取り出す時も、右手で袋をもって左手を突っ込む。

それから、滅多にないのだがお金を数えるときも右手でお札の束を持って、左手の指で数える。札束だけでなく、紙の枚数を数えるときはこのスタイルで、逆に右手の指で数えようとすると、やりにくくてしょうがない。

だから、腕時計のネジを回して時刻合わせをするのも、どうも苦手だ。ネジをもった右手は動かさずに、時計本体の方を回したいぐらいだが、それだと文字盤が見えなくなってしまうから、都合が悪い。

また、これは関係あるかどうかわからないが、エクセルでセルに数字を入力するとき、右手でマウスを操作しながら、左の指でテンキーを叩く。だから、私のキーボードは左側にテンキーが付いている。普通の右利きの人にも、この方が絶対に楽だと思う (参照)。

できるだけ左手を使って右脳の方も刺激し、感性的な部分を開発する方が、人間の脳のバランスが取れるんじゃないかと、私は勝手に思っている。

 

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2011年5月13日

こっちの感性がメルトダウンしちゃう

東電が、福島原発 1号機が「メルトダウン」していたと認めた。記者会見で「メルトダウンなんでしょ」と突っ込まれて、「それで結構でございます」と答えたのだそうだ。

ところがそれで大騒ぎになったのかというと、それほどというわけでもなく、ロケットニュース 24 というサイトでは「メルトダウンしても驚かなくなった日本人 / 危機的状況が続いたために感覚がマヒか」とまで言われている。

元々「メルトダウン」という言葉は、国際原子力機関(IAEA)や米・原子力規制委員会 (NRC) などの公式用語ではなく、曖昧な言い方なのだそうで、かなり前から各人各様の定義、あるいはそれ以前の雰囲気的な思い込みで、いろいろ勝手な憶測が飛び交っていた。この時点で、私は「メルトダウン論議」には嫌気がさして遠離っていたのである。

思い返してみれば、「既にメルトダウンしているのではないか」という推測は 3月の時点から既にあった。それでもそれは部分的な溶融に過ぎないとか、あるいは大前研一氏のように 「炉心全体が溶融しても格納容器の中に落ちて、その中の水で冷やされて止まる」 ということだったと思う。そして今、事実は後者の説明に近かったということが判明した。

しかし、格納容器の中に落ちてそれで止まるというなら、それで最悪の事態は避けられたのだろうが、溶融して落ちたことによって(あるいは他の原因で)、格納容器に穴があいてそこから水が漏れ出しているということまでは、当初はあまり想定されていなかったと思う。

しかし、毎時数トンもの水を注入していながらちっとも溢れ出してこないのだから、漏れていると想定しない方がおかしい。それに汚染水が漏洩しているのは 1号機ばかりでなく、2号機、3号機付近でも高濃度の汚染水が海に流れ出しているというのだから、「メルトダウン」 は 1号機ばかりではないのではないかと想像するのも自然だろう。

いずれにしても、震災から 2ヶ月を過ぎ、我々の感覚も確かにマヒしてきつつある。これが 3月中に発表されていたら、東日本から逃げ出す人が相次いだかもしれないが、何とかもっている。しかし放射能汚染は確実に進み、神奈川県の足柄茶まで基準を超えたセシウムが検出されて出荷停止になっている。

こっちの感性までメルトダウンしている間に、影響はかなり広範囲にまで及んでしまっているではないか。必要以上に騒ぎ立てようとは思わないが、「ただちに健康に害はおよぼさない」という気休め的言葉だけで納得しているわけじゃないのである。「辛うじてセーフ」というのは、「安心・安全」からはほど遠いのだから。

 

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2011年5月12日

クインシー・ジョーンズのスープ

我が家の定番料理に「クインシー・ジョーンズのスープ」というのがある。基本はニンニクとベーコンをさっと炒めて水を加え、大雑把に切ったキャベツとジャガイモを入れて煮込んで塩胡椒で味付けしたものだ。具はこのほかに人参、玉ねぎ、キノコなど、適当になんでも加えていい。

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これは妻の得意料理で、結婚前からちょくちょく作ってもらって食べていた。今では私の得意料理にもなっている。とにかく大雑把に作ればいいので、簡単な上になかなかおいしいのだ。で、妻はどこでこの料理を覚えたのかというと、高校時代に彼女の親友から教わったのだという。

で、これがどうして「クインシー・ジョーンズのスープ」 なのかというと、教えてくれた親友がそう言っていたからとしかわからない。まあ、ソウルフードっぽい感覚があるので、なんとなく納得の名称ではあるのだが。

近頃、妻が原チャリで転んで怪我をしてしまったので、まあ、大した怪我ではないのだが、私が料理を担当している。昨夜、久しぶりで「クインシー・ジョーンズのスープ」を作ったところ、家族中に好評だったのである。写真はグツグツに煮立っているところ。

  私は昔から 「芋煮会」 で鍛えているので、ごった煮系は得意なのだ。このスープ、レシピは至って簡単だが、とくにダシをとったりしないので、塩胡椒の案配に微妙な難しさがある。野菜から出る甘みと喧嘩しない味付けが求められるのだ。今回は人参や玉ねぎなど、野菜をたっぷり入れたので、かなりの慎重さが求められた。

それにしても、これがどうして「クインシー・ジョーンズのスープ」なのかなあ。

 

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2011年5月11日

「焼肉酒家えびす」 と 「フーズフォーラス」 という名称について

生肉による食中毒問題で話題になっている「焼肉酒家えびす」というのは、「やきにくしゅか」ではなく、「やきにくざかや」と読むんだそうだ。なんだか、かなり強引な読ませ方である。個人的には、あまりいいセンスとは思わない。

それから、このチェーンを展開している会社は「株式会社フーズフォーラス」というのだそうで、Wikipedia によると英語名は Foods forus Co.,Ltd. とある(参照)。"Forus" という英単語はみたことがないが、これも Wikipedia によると次のようになっている。

社名の由来は 「Food For Us」 からで、モットーは 「得るより与えよ」 である。

つまり社名の意味は「私たちの食料」ということで、この「私たち」というのが誰を指すのかといえば、"food for you" じゃないのだから、つまり、「俺たちの食い物」という意味で、結論的には「会社側の食い物」ということになる。

会社側の食い物なら、客に食わせずに自分たちで食って自分たちで当たってしまえばよかったのだろうが、なにしろ「得るより与えよ」がモットーなので、客に食わせてしまってこんなことになったわけだ。与えるのもモノによりけりで、よくよく因果なことである。

いや、"food for us" は、「会社側の食い物」じゃなくて、「みんなの食べ物」という意味だという反論があるかもしれない。うむ、確かに 「私たちみんな」というつもりではあったのかもしれない。

しかしそうだとすると、「得るより与えよ」というモットー自体がナンセンスになる。元々「みんなのもの」なら、「得る」だの「与える」だのと言う必要がない。「分かち合う」というならわかるが。

つまり元々の企業理念からして、よく考えると「ちょっと変」で、辻褄の合わない「雰囲気だけの産物」だったようだ。雰囲気だけのモットーや社是みたいなものが、まともに日常の事業展開に活かされている例を、私はこれまで一度も見たことがない。

このあたりの言葉センスということになると、「みんなの党」の英文名称が "Your Party" であるということの方に軍配が上がると思う。その理念通りに運営されてもらいたいと思う。

 

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2011年5月10日

ホトトギスの鳴き声

昨日、オオヨシキリの鳴き声について書いた。葦の茂みの中で「キリキリキリ…」と鳴くので「ヨシキリ」の名が付いたのだろうと思っていたのだが、「行々子(ギョウギョウシ)」 という別名を知ってしまうと、私の耳には同じ鳴き声が 「ギョ ギョ ギョ シー シー シー」 と聞こえるようになった。

そして 「ギョ ギョ ギョ シー シー シー」 の方がよりリアルな表現であるような気がしてきたのである。人間の耳というのはかなりいい加減なものだ。思い込みによって、どんなふうにも聞こえてしまう。

ところで鳥の鳴き声で有名なのは、ホトトギスである。「テッペンカケタカ」と鳴くのだという。しかし私の耳には、「テッペンカケタカ」などと聞こえたことが一度もなかった。あれは「ホチョチョギス」としか聞こえないのである。「ホチョチョギス」と鳴くから 「ホトトギス」という名が付いたのに違いないのである。

嘘だと思うなら、こちら の動画で鳴き声を聞いていただきたい。「ホチョチョギス」と鳴いているのがおわかりになると思う。これがどうしたら「テッペンカケタカ」に聞こえるというのだ。いい加減もほどほどにしてもらいたい。

ところが、今日になって、「テッペンカケタカ」と鳴くホトトギスもいると知ったのである。こちら をご覧いただきたい。これはどうも「テッペンカケタカ」と鳴いている。「ホチョチョギス」よりも一拍長いのである。同じホトトギスでも、個体によって芸風が違うようなのである。一筋縄ではいかないものだ。

そういえば、ホトトギスという名称にはいろいろな表記がある。「時鳥」「不如帰」「子規」の三つはお馴染みだが、辞書で調べてみるとこの他にも 「杜鵑」「杜宇」「蜀魏」「田鵑」 なんていうのがある。こんなのは初めて知った。

 

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2011年5月 9日

ヨシキリの鳴き声

6日の立夏を過ぎ、急に世の中が暖かくなって、周囲の自然の密度が濃くなった。地面には草が伸び、木々は新緑に包まれ、辺りの空気は野鳥やカエルの鳴き声で満たされる。余震がかなり間遠になり、いのちの息づくのを感じて、少しほっとしている。

一日家に籠もって、ウェブ関連の仕事をしているが、あまり根を詰めると肩が凝ってしかたがないので、昼過ぎに裏の土手を散歩してみた。Tシャツ一枚で、風が涼しく感じられて気持ちがいい。

川の向こう岸から、オオヨシキリの鳴き声がひっきりなしに聞こえる。ヨシキリというのは、葦の茂みの中でキリキリと騒々しく鳴くからヨシキリというのだろう。かなりわかりやすい命名である。

ヨシキリは「葦切」と書いたり「葦雀」と書いたりする。また「葦原雀」などともいう。「吉原雀」になってしまうと、江戸時代に吉原に賑やかに出入りする客たちのことを言った。「吉原雀」という長唄もある。

ヨシキリは別名「行々子」と書いて、文字通り「ギョウギョウシ」ともいう。騒々しい鳴き声からそんな名になったのだろう。私の祖父、唯一郎の句集に、「行々子」 の登場する句がある。

はつきりと行々子の巣が見える六月の朝空参照

月が來る行々子啼くにまかして歩むなり参照

大正から昭和の酒田でも、ヨシキリは騒々しく鳴いていたものらしい。夏がくる。

 

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2011年5月 8日

首筋のこりによる強烈な眠気

近頃、ものすごく眠かった。昼だろうと夜だろうと、とにかくふと気付くと、気絶のような眠りにおちいってしまっていた。これ、実は肩と首のコリからきているのだと気付いたのである。いやはや、最近、長時間のテープ起こしとか、やたらと肩の凝る仕事が続いていたので、頭に酸素が通いにくくなっていたようなのである。

そういえば、私の妻も以前、原因不明の眩暈に悩まされ、医者にかかったらどこも悪いところはないと言われた挙げ句、実は肩凝りのせいだったとわかったことがある。私はこうみえても、案外マッサージが得意である。それでこの診断以後、毎日毎日、妻の肩と首をマッサージをさせられ、そうしているうちに、妻の眩暈はあっさりと治ってしまった。

今回は私まで肩と首筋のコリのせいで、眩暈ではないが、強烈な眠気という症状におそわれてしまったようなのである。

妻は私とは反対にマッサージが下手(指先の力もないし)なので、オムロンの低周波治療器というのを買ってきて、首筋に当ててみた。微弱な低周波電流のせいで、肩たたきされたり、もみほぐされたりしているような感覚があるというやつである。

これをじっくりとやってみたら、今日はなんと、このところ悩まされていた強烈な眠気がこないのである。心なしか、眼精疲労の感覚も薄らいで、目がぱっちりと覚めた気がする。しばらくの間、この低周波治療器で脳に対する酸素の供給を確保してみようと思う。

強烈な眠気や眩暈に悩まされている方がいらしたら、肩凝り、首懲りを疑ってみるといいと、オススメしておく。

 

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2011年5月 7日

「上」という漢字の意外な筆順

「上」という字の「正しい筆順」をご存じだろうか? 先日の TBS ラジオ 『キラキラ』 で、井上さんという方からの投書が読まれた。井上さんは 30年以上書き慣れた自分の名前の書き順が「間違っている」と他人から指摘されて、愕然としたのだそうだ。

なんと、「上」という字の 「正しい筆順」 は、最初に縦棒を書いて、その後に横棒を上と下に書くのだそうだ。

私はそれを知って愕然とした。これは書きにくいだろう。フツーは、「横・縦・横」の順だろうよ。

だって行書や草書で書く場合は、上の方の短い横棒から書くのが自然というものではないか。手持ちの『くずし字解読辞典』(近藤護出版社・刊)からちょっとコピーしてみよう。(なにしろ古い本なので、紙がずいぶん変色しているのはお許しいただきたい)

1

ご覧の通り、いずれも「上」という字のくずし方を示したものだが、真ん中の下のくずし方を除けば、いずれも縦棒と下の横棒が続けて書かれている。ということは、上の短い横棒から書き始めているのである。縦棒から先に書かれているのは、真ん中の下の例だけだ。つまり、伝統的には「横・縦・横」の筆順の方が一般的といっていいだろう。

私個人としても、手書きで「上」という字を書くときは、下のように書いている。上の例で言えば、左と右の下のくずし方に近いだろうし、こんな感じで書いている人はかなり多いだろうと思う。とにかく縦棒と下の横棒を一挙に続けて書かないと、縦棒が下にはみ出さないようにするのが結構たいへんだ。

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そこで、意地になって調べてみたところ、「正しい筆順」の根拠となっているのは、1958年に文部省が示した「筆順指導の手びき」(2024年6月 1日現在で、ネット上には見当たらなくなっている)というものなのだそうだ。そこには次のように書かれている。

漢字の筆順の現状についてみると、書家の間に行われているものについても、通俗的に一般杜会に行われているものについても、同一文字に2種あるいは3種の筆順が行われている。特に楷書体の筆順について問題が多い。

このような現状から見て、学校教育における漢字指導の能率を高め、児童生徒が混乱なく漢字を習得するのに便ならしめるために、教育漢字についての筆順を、できるだけ統一する目的を以て本書を作成した。本書においてはとりあえず楷書体の筆順のみを掲げたが、楷書体の筆順がわかれば、行書体についても、おのずとそれが応用され得ると思われる。

もちろん、本書に示される筆順は、学習指導上に混乱を来たさないようにとの配慮から定められたものであって、そのことは、ここに取りあげなかった筆順についても、これを誤りとするものでもなく、また否定しようとするものでもない。

ここで注意すべきなのは、書家の間でも、通俗的にでも、同じ文字に複数の筆順が存在すると認められていることだ。そして、「ここに取りあげなかった筆順についても、これを誤りとするものでもなく、また否定しようとするものでもない」 とはっきり書かれている。

それにしても、「漢字指導の能率を高め、児童生徒が混乱なく漢字を習得するのに便らなしめるために、教育漢字についての筆順を、できるだけ統一する目的」 で策定したにしては、「上」という漢字を「縦・横・横」の筆順で書くというのは、ちょっとおかしいんじゃあるまいか。

「楷書体の筆順がわかれば、行書体についても、おのずとそれが応用され得ると思われる」と謳っているにもかかわらず、少なくとも「上」という漢字に関しては、それがうまく当てはまらないではないか。「縦・横・横」の筆順で書きやすくなるのは、上記の草書体の、真ん中の下の例だけだ。

これは未確認情報だが、漢字圏といわれる東アジア全体の傾向を見ても、「上」という字は「横・縦・横」が主流であるらしい。さらに、筆順の誤りということでいつも引き合いに出される「左」と「右」という字がある。「右」の字は、最初に斜めの線を書いてから横棒を書くのが正しいとされている。

これは、行書体で書く場合にその方が自然で書きやすいことからも納得されているが、東アジアの主流は、これも未確認情報だが、「左」という字と同様に、横棒から書き始めるらしいのである。また「本」という字も、いろいろな字体や筆順がある。一般的なくずし字は こちら の通りだが、「大」の下に「十」を書くみたいなのまである。

筆順というのは字体のバリエーションに伴って、かなり自由自在なのだ。「これが正しくて、あれは間違い」というのは、あまり意味がないようだ。言葉に関して国家が余計なことまで決めすぎるのは、中国の科挙以来の伝統なのだろうか。

 

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2011年5月 6日

「葉っぱはなぜ緑色なのか」への、稲本正氏の回答

オークヴィレッジ代表の稲本正さんが、とても興味深いことをおっしゃっている。「葉っぱはどうして緑色なのか」ということだ。

これに対して、「葉の主成分であるクロロフィルの色だ」とか 「緑色の光線を反射するから緑色に見えるのだ」とか、いろいろの説明があるのだが、稲本さんはそれでは満足のいく答えになっていないというのである。根元的な問いは「葉っぱはどうして緑色の光線を反射する道を選んだのか」ということだ。

太陽光をプリズムで分解してみると、目に見えるところでは赤から紫まで広がっていて、その中でも一番有力なのは、真ん中の緑色の部分だ。ところが、葉っぱは敢えてこの一番有力な緑の光線を反射して取り入れないようにし、赤と紫の部分の光線を取り入れている。だから我々には、葉っぱは緑色に見える。

葉っぱが太陽光を最も効率的に取り入れようとしたら、自らを真っ黒にすべきだったのではないかと、稲本さんはおっしゃるのである。そうすれば、太陽の光をあますところなく吸収して生きることができる。ところが、植物はそうしなかった。葉の色を緑にし、太陽光の最も有力な部分を反射して、他に分け与える道を選んだ。

もし葉っぱが真っ黒な色をしていたら、地球は真っ黒な植物に覆われ、ずいぶん暗く味気ない星になっていただろう。そして植物以外の生命は栄えることができず、ということは、植物自身も動物との共生を行えず、自らの進化の道を狭めることになっただろう。

もとより植物は生態系の中のエントロピーを減少させる働きをしていると、稲本さんはおっしゃる。動物がひっきりなしに吐き出している二酸化炭素を吸収して酸素を供給し、放っておけば汚れてしまう水を浄化し、動物の体の元となる有機物を作る。混沌の真っ只中で自ら有機物を生産する力があるのは、地球上で植物だけだ。

植物は、自ら地上で栄えるばかりでなく、自らの直接の取り分を小さくしてまで動物たちに太陽光の最も豊かな部分を反射して分け与え、共生する道を選んだのだと、稲本さんはおっしゃるのである。

植物が意識的に(植物に意識というものがあると仮定して)そうした崇高な道を選んだのかどうかは、わからない。単に偶然の結果、そうなっただけなのかもしれない。

しかし太陽光の独占 (「強欲」といってもいい)は、動物との共生(受粉だけでなく、根からの栄養分の吸収にも土中の動物は大きな役割を果たす)の道を狭め、結果的に自らの生命の可能性をも小さくする。

植物がここまで上手に進化することができたのは、宇宙の法則にうまく適合したからだ。法則に反した道を選んだら、勝手に自滅していただろう。ということは、「他との共生」こそがこの世のあるべき姿であり、それに合致したものこそが生き延び、栄えることができるのだとみてもいいだろう。結果が雄弁にそれを証明している。

昨年の今頃、私は「"Empathy" の時代」という記事を書いた。一昨日あたりから書いている記事は、実はそれの延長線上にある。 「弱肉強食」や「競争原理」が進化の原理であるというのは、実は大きな誤りだったと、人類は気付き始めている。とくに今回の震災を機に、多くの日本人がそれを「生活実感」として明確に意識した。

今、日本のみならず世界の多くの人たちが、自ら進んでとても誠実な気持ちで日本のために祈り、協力してくれようとしている。そしてそれによって、少なくとも「悪い気はしない」という経験をしている。こうしてみると人間は、前頭葉のロボトミー手術などをしなくても、「他のために尽くすこと」によって快感を得ることができる存在であるらしい。

人類が地上に登場して、競争原理によって圧倒的な繁栄を見せているように見えるのは、長い長い地球の歴史からすると、ほんの一瞬のようなあだ花である。とくに産業革命以後の無理矢理の力技的文明は、既に限界に来ているとしか思われない。法則に合わないものは、自然に消え去るだけだ。

 

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2011年5月 5日

質素の楽しみ

私が酒田の高校を出て東京で学生生活を始めたのは 1971年だった。大阪万博の翌年で、70年安保は過ぎ去っていた。学生の力で日本を変えられるという幻想は、急速に色褪せていた。私にとって衝撃的だったのは、72年 2月の浅間山荘事件よりも、同年 11月に早稲田大学で起きた革マル派リンチ殺人事件だった。

浅間山荘事件はテレビによって衝撃的映像が日本全国に流れたことによって、エポックメイキングな事件となった。しかし当時、貧乏学生だった私はテレビを持っていなかったので、他の多くの日本人ほどの大きな印象がない。それよりも、自分の大学で起きたリンチ殺人事件の方がずっと身近だった。

あの事件を境に、キャンパス内を牛耳っていた革マル派の幹部が一斉に姿を消して地下に潜り、大学は妙に静かになった。あれだけ燃え上がった学生の政治運動が急速に冷え込み、冷たい石けんを持って銭湯から帰るだけの『神田川』の世界になった。

全共闘運動に酔いしれた団塊の世代よりわずかに遅れて生まれてきたために、私は 「挫折」 することすら知らずに、ただ無力感だけを抱えて生きてきたような気がする。社会というのは意識的には変えられないのだと、ずっと思ってきた。世の中はなるようにしかならないのだ。

しかし今、「なるようにしかならない世の中」ではあるが、それならば「なるようにさせちまおうじゃないか」と、私は思い始めている。

一足先に生まれた団塊の世代の尻ぬぐいをするのが、我々の世代の仕事だと思っていた。損な役回りの世代だと思っていたのである。だが世界の動きは近頃、やけに速い。尻ぬぐいをしていればいいと思っていた我々も、実はそれだけでは済まないのだという気がし始めた。

ブレーキしか効かせたことのない我々が、生まれて初めてアクセルを踏んでもいいのではないかという気がしてきたのである。生まれて初めて実感する「パラダイム・シフト」である。

それは、昨日書いたような意識変革(参照)にも通じる。ルモンド紙に紹介された日本の大学教授は「1989年のバブル崩壊以降に生まれた日本の若者達は花咲く成長経済を誇っていた頃の日本を知らない。質素であることに慣れているのである」と語った。しかし「質素慣れ」ということに関しては、私だって引けを取らない。

高度成長時代には貧乏学生生活をし、卒業する頃には二度のオイルショックに見舞われ、バブル時代は外資系にいたために、円高によるダメージを被るばかりで恩恵は少しも受けず、後はバブル崩壊の世の中で生きてきた。生まれてから一度も贅沢な暮らしをしたことがない。たまに経費で豪勢なホテルや旅館に泊まると、かえって居心地が悪い。

物質的な贅沢なんかしなくても、人生は十分に楽しいということを私は知っている。地球という資源が限界に近づきつつある今、世の中はまさに 「なるようにしかならない」 のである。ここまで来てしまったら、「物質的な豊かさ」ではなく「精神的な豊かさ」に向かうしかないではないか。そしてそういうことなら、任せてくれってなものである。

我慢なんかするから、質素はつまらないのだ。逆に、贅沢こそ実は居心地が悪いのだとさえ知ってしまえば、質素は我慢とは無縁に楽しい。これまでの価値観こそが不自然なのだ。だからこそ、生きていくだけでこんなにストレスまみれで疲れてしまうのだ。

「質素の楽しみ」というのは言い換えれば、この世のエントロピーの増大を抑える楽しみである。人間は生きているだけでエントロピーを増大させるという業を背負っているのだが、背負う荷物はできるだけ軽くしておきたいし、孫の世代にもエントロピーの瓦礫の山を残したくない。

森の中に行くと、気持ちがいい。森の手入れや植林を手伝ったりすると、なお気持ちがいい。本当に根元的に気持ちがいい。それはエントロピーを増やさないだけでなく、多少なりとも減らしたことを実感するからだ。この世の中をほんの少しだけきれいにした実感というのは、実に心地良い。

人間って、うまくやればエントロピーを減らすこともできるみたいなのである。こういうの、ネゲントロピーというのだろうか。「自分は損な役回りの世代」だとばかり思っていたのだが、ついにおもしろい世の中になってきたのだと思っている。

 

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2011年5月 4日

我々はもっと進んで高貴な精神性を獲得してもいい

「反原発」と言わずに「脱原発」という方が、今はトレンドのようなのだが、私としては「反原発」のままで行こうと思っている。「反原発」というとやや政治的で、「脱原発」というと、昔の「新左翼」みたいな目新しさがあるみたいだが、私としては単に、言い換えるだけ面倒だ。

現実主義的な視点からすると、「反原発」も「脱原発」も旗色が悪い。「原発なしでやっていけるのか」 と言われたら、口ごもってしまう。私は個人的にはやっていける自信があるのだが、こればかりは一人だけでやるわけにもいかないので、ことは面倒だ。

「原発を止めたら経済は縮小する。そうしたら日々の生活をどうしてくれるんだ」いう疑問には、明確な答えがない。答えがないのは、現状の価値観、つまり「モノが豊富にあってこそ人々は幸福になる」という前提がまだ覆されていないからだ。

私だって、カスミを食って生きる仙人じゃないから、モノは豊富にあってもらいたい。「衣食足りて礼節を知る」というのは、本当のことである。北朝鮮みたいな国に住みたいとは、決して思わない。

しかし、「あり余るほど」には要らない。今の「モノがありあまる生活」に疑問を感じないのは、やはりバイアスにとらわれた価値観というほかない。「経済は成長し続けなければならない」という前提で走り続けてきた今、ちょっと立ち止まって「待てよ、本当にそうなのか?」と思ってもいい。

経済的成功を追い求める価値観に沿って生きることに、我々は実は、とっくに疲れてしまっているのではなかろうか。勤勉と貪欲とが混同されてしまった価値観は、人間にとって余計なストレスの元になっているだけなのではあるまいか。

ルモンド紙の「日本モデル」という記事が一部で注目されている。私はフランス語がからきしだめなので、FRANCE MEDIA NEWS フランスからのニュース というサイトの翻訳を頼りにするしかなく、原文は読んでいないということをお断りした上で、紹介させていただく。

翻訳によるとルモンド紙は、 2010年 4月 21日付のニューヨークタイムズの紙面でとある日本の大学教授が「あらゆる面で限界が生じて来た世界において、日本と日本の若者達は経済成長から脱却することの意味を教えてくれるかもしれない」述べていると紹介している。

この「あらゆる面で限界が生じて来た世界」というのは、今後の世界を読むための重要なキーワードである。エコロジストたちが言うまでもなく、世界が従来のベクトルのままで経済成長を続けてしまったら、地球がいくつあっても足りない。限られた資源(食料、水を含む)を奪い合って、世界は戦争状態になってしまうだろう。

私は「今のままのベクトルで経済成長を続けなければならない」というテーゼを一度ひっくり返して、「つつましい生活の中に幸福を見出す」という価値観に転換しなければならないと、本気で思っている。この「価値観の転換」ということにつながる分析を、ルモンド紙の記事はしてくれていると思う。記事の中の一文を紹介しよう。

原料となる資源が殆どなく、人口密度が非常に高い島国でありながら、あれほどまでに裕福な生活水準に達した国で物質が止めどなく増えて行くことにどんな意味があったのだろうか?

我々としては、「もはや物質が止めどなく増えていくような状況のなかに身を置く必要はない」と、思い切って発言してしまう方がいいと思うのである。既に衣食は足りた。礼節は知った。今回の震災時の日本人のモラルの高さは、世界中で称賛された。ルモンド紙は次のように言う。

逆にこの傾向 (注: バブル崩壊以後の低成長)は、人間活動の環境負荷(エコロジカル・フットプリント)の削減を目標とする経済システムを取り入れる機会にもなりうる。とはいえ、「日出ずる国」は革新的な道を見いだすのに苦労している。今こそ、日本とその新しいモデルに関心を持つ理由がある。

オークヴィレッジ代表の稲本氏は、Twitter 上でこのルモンド紙の記事を紹介した Hyo Yoshikawa さんの tweet を RT した上で、さらに次のように tweet している。(参照

ルモンドの論旨は、客観的で、説得力があり。基本的には、賛同。しかし、日本人は、さらに、哲学や思想を掘り下げ、かつ、具体的に衣食住などの基本を 21世紀後半型に!

稲本氏は、経済成長を「我慢する」のではなく、衣食住などの基本を 21世紀後半型にシフトすることに「喜び」を感じるようでなければならないと主張しているようにみえる。そしてそのためには、「哲学や思想」が伴わなければならないと言っているのだ。

我々はずっと、「物質的な贅沢をすること」が「幸福なこと」と錯覚して生きてきたような気がする。私は今、「物質的な贅沢」に「申し訳なさ」を感じるようでなければ、地球はもたないと思っている。

質素なライフスタイルで得られる「しみじみとした幸福感」の方により深い喜びがあることを知らなければ、我々は原発依存から永遠に脱却できない。我々はもっと進んで高貴な精神性を獲得してもいい。

今回の私の記事には、具体的解決策が全然示されていない。それをとって「無責任」とか「夢物語」とかいって批判することは容易だ。しかし具体策はこれから現れてくるのだから、仕方がない。今とりあえず必要なのは、その方向性を明確に示すことなのだ。

これまでだって、イノベーションの多くは「夢物語」から生まれている。

 

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2011年5月 3日

iPad 2 の供給が、超タイトみたいなのだ

先月 29日の 「来月初めに品切れでさえなければ、iPad 2 を買うぞ!」 という記事で、「5月 2日に都心に出る用があるので、帰りにアキバのヨドバシに寄ってみて、品切れでなかったら買ってしまおう」と書いた。その通りに、昨日、アキバのヨドバシに寄ったのである。しかし、あっさりと品切れだった。

店員に聞いてみると、初回入荷分はあっという間に売り切れで、次回入荷はいつになるかわからない」 ということだった。なんだ、がっかりである。さらに「初代 iPad のときも、需給が安定して店頭ですぐに買えるようになるまでに 2ヶ月以上かかったので、今回は 2~3ヶ月かかるとみた方がいいかも」なんて言っていた。

とりあえず予約するかと聞かれたが、予約したからといって、実際にいつ入手できるかは全然わからないいうことだったので、「別に iPad なくても死ぬわけじゃないから、後でゆっくり買うよ」と言って帰ってきた。これはもう、ゆったりと構えるしかないみたいなのである。こうなったら、お盆前に買えればいいと思うことにしよう。

なんだか、ウチの長女が幼かった頃の「テクマクマヤコン・コンパクト」を思い出した。これは「ひみつのアッコちゃん」が使うコンパクトで、例の「テクマクマヤコン」という呪文を唱えながらどうたらすると、こうたらなるとかいうものなのだが、これが小さな女の子たちの間で大ヒット商品となったのである。

娘からは買ってくれと矢の催促なのだが、どこのおもちゃ売り場に行っても品切れだったのである。結局入手できるまで 1ヶ月以上かかったような憶えがある。iPad 2 は、このテクマクマヤコン・コンパクト以上の入手難のようなのだ。

アップルとしては、部品供給さえ順調ならばもう少し供給を増やすことができるのだから、少し儲け損なっているということなのだろう。販売機会損失ってやつだ。それでも、ガラパゴスや他の Andoroid  マシンに流れたりすることはそれほど多くないだろうから、「機会損失」というよりは「遅延」という方がいいかもしれない。

私は「今どき、パソコンぐらい使えなきゃ」なんていうのは、既に時代遅れだと思っている。既に PC の時代は終わろうとしている。だが、iPad 2 のタイトな供給のおかげで、その時代の変化は少しゆっくりになっている。おかげで私も、出張や外出で、わざわざ重たい モバイル PC を持っていかなければならない状況が、もう少し続く。

それにしても「どうか買ってください」と言わなくても、消費者の方から「早く売ってくれ」と言われるアップルというメーカーは、幸せなものである。

 

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2011年5月 2日

申し訳ないけど、肉食系じゃないもんで

「富山県の焼肉店で集団食中毒が発生し、ユッケを食べた男児がO111に感染、死亡した」 というニュースが流れたのだが、「ユッケ」ってどんなものだか知らないし、想像も付かない。

申し訳ないけど肉食系じゃないもんで、焼肉店というものに生涯で 3度ぐらいしか行ったことがなく、最後に行ったのは 10年以上前だ。しかも 3度とも何かの二次会みたいな感じで成り行きで付いて行っただけで、食べ方がよくわからないので、あまり手を付けなかった。なんだかレタスみたいなもので巻いて食えと言われたが、面倒くさかった。

というわけで、焼肉関連のテクニカル・タームはさっぱりわからない。私はゴルフと麻雀と焼肉の話には、全然付いていけないのだ。

何しろ、最初はニュースの見出しの「ユッケ」を「コロッケ」に空目してしまったほどだ。ところがユッケって、生肉なのだという。へえ、焼肉店って肉を焼いて食うのかと思っていたが、焼かないで食うメニューもあるのか。なかなか奥が深い。

それで Wikipedia で「ユッケ」というものを調べたら、次のように書いてある。(参照

生の牛肉(主にランプなどのモモ肉)を細切りにし、ゴマやネギ、松の実などの薬味と、醤油やごま油、砂糖、コチュジャン、ナシの果汁などの調味料で和え、中央に卵黄を乗せて供することが多い。ナシやリンゴの千切りを添えることも多く見られる。食前にはよくかき混ぜるのが良いとされる。

申し訳ないけど、この説明だけでは、どんなものだか想像が付かない。個人的には、ゴマやネギ、松の実、ナシやリンゴの千切りを、肉抜きで食べたいと思う。

Wikipedia にはユッケの写真も載っているが、さらに申し訳ないことに、写真のできのせいか、なんだか鳥の巣にしか見えず、気持ち悪さが先に立つ。上に乗っかっているのが卵黄なのかもしれず、これをかき混ぜたら、目をつむって食べるしかないように思われる。

いずれにしても、これを幼児に食べさせるなんて、個人的にはなんだか信じられない。亡くなった幼児は本当に気の毒だが、遠い世界のお話のような気がして、現実感がとても薄い。本当に申し訳ないけど。

で、個人的には、焼肉店というものがますます縁遠いものに感じられて、多分、これから一生入らないで終わることになると思う。

 

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2011年5月 1日

気が付けば、初夏になりかけている

いつの間にか、5月 1日。なんだか あの震災以来、4月という月が吹っ飛んでしまったような気がしている。

3月 11日から月末までは、まだ記憶が明瞭である。震災の後ものすごい寒の戻りで、彼岸が過ぎても雪が舞ったりして、かなり寒かった。つながりにくい電話で親類縁者の安否確認をしながら、寒さに耐えていた。我が家の暖房は灯油主体なのだが、ガソリンと灯油の入手がおぼつかなかったので、なるべくファンヒーターを点けずに厚着していた。

ガソリンと灯油の供給がなんとか復活したのが、3月末頃。それから 4月にかけては、一見すると普通の暮らしだが、なんとなく震災を引きずっていた。何しろ余震が続いて、時々でっかいのも来るし、油断がならない。意識としては、4月はわけのわからないうちに過ぎ去ってしまったという感じである。

ふと気付けば、彼岸の頃の震えるような寒さが去って、ようやく暖かくなっている。。そういえば、今月 6日は立夏である。4月の印象が薄いので、あの寒さから急に初夏に移っているような印象だ。

考えてみれば、近頃は春と秋が極端に短い。冬が過ぎてすぐに初夏になり、暑い夏がようやく終わるともう初冬になっているという印象だ。今年は震災のせいで、とくに春が短い気がしているだけのことで、この傾向はかなり前から続いている。

地球温暖化というのは、徐々に暖かくなっていくと思われがちだが、実は違うらしい。気候の変動が極端になるというのが特徴なのだという。そういえば、最近の気候はまさにその通りだ。妙に極端な天気が増えている。先月末は千葉で竜巻が発生したし、米国のアリゾナでもずいぶん大きなトルネードがあった。

「地球が暖かくなるんだから、いいじゃないか」「北極海も船で行き来できるようになれば、経済的にも都合がいい」なんて、ノー天気なことを言う人もいるが、そんなもんじゃない。

このまま温暖化傾向が続いたら、真夏の最高気温は 40度が当たり前になり、強い台風が増える一方で、大雪や干ばつも増える。北極海だって、氷が減ったからと行って安全に航海できるようになるわけじゃない。それだけ地球全体のバランスが崩れて、大荒れになるリスクが増えるのだ。

かなり暮らしにくい気候になり、異常気象による死者も増え、経済損失も出てくると覚悟しなければならない。

 

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