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2011年5月 4日

我々はもっと進んで高貴な精神性を獲得してもいい

「反原発」と言わずに「脱原発」という方が、今はトレンドのようなのだが、私としては「反原発」のままで行こうと思っている。「反原発」というとやや政治的で、「脱原発」というと、昔の「新左翼」みたいな目新しさがあるみたいだが、私としては単に、言い換えるだけ面倒だ。

現実主義的な視点からすると、「反原発」も「脱原発」も旗色が悪い。「原発なしでやっていけるのか」 と言われたら、口ごもってしまう。私は個人的にはやっていける自信があるのだが、こればかりは一人だけでやるわけにもいかないので、ことは面倒だ。

「原発を止めたら経済は縮小する。そうしたら日々の生活をどうしてくれるんだ」いう疑問には、明確な答えがない。答えがないのは、現状の価値観、つまり「モノが豊富にあってこそ人々は幸福になる」という前提がまだ覆されていないからだ。

私だって、カスミを食って生きる仙人じゃないから、モノは豊富にあってもらいたい。「衣食足りて礼節を知る」というのは、本当のことである。北朝鮮みたいな国に住みたいとは、決して思わない。

しかし、「あり余るほど」には要らない。今の「モノがありあまる生活」に疑問を感じないのは、やはりバイアスにとらわれた価値観というほかない。「経済は成長し続けなければならない」という前提で走り続けてきた今、ちょっと立ち止まって「待てよ、本当にそうなのか?」と思ってもいい。

経済的成功を追い求める価値観に沿って生きることに、我々は実は、とっくに疲れてしまっているのではなかろうか。勤勉と貪欲とが混同されてしまった価値観は、人間にとって余計なストレスの元になっているだけなのではあるまいか。

ルモンド紙の「日本モデル」という記事が一部で注目されている。私はフランス語がからきしだめなので、FRANCE MEDIA NEWS フランスからのニュース というサイトの翻訳を頼りにするしかなく、原文は読んでいないということをお断りした上で、紹介させていただく。

翻訳によるとルモンド紙は、 2010年 4月 21日付のニューヨークタイムズの紙面でとある日本の大学教授が「あらゆる面で限界が生じて来た世界において、日本と日本の若者達は経済成長から脱却することの意味を教えてくれるかもしれない」述べていると紹介している。

この「あらゆる面で限界が生じて来た世界」というのは、今後の世界を読むための重要なキーワードである。エコロジストたちが言うまでもなく、世界が従来のベクトルのままで経済成長を続けてしまったら、地球がいくつあっても足りない。限られた資源(食料、水を含む)を奪い合って、世界は戦争状態になってしまうだろう。

私は「今のままのベクトルで経済成長を続けなければならない」というテーゼを一度ひっくり返して、「つつましい生活の中に幸福を見出す」という価値観に転換しなければならないと、本気で思っている。この「価値観の転換」ということにつながる分析を、ルモンド紙の記事はしてくれていると思う。記事の中の一文を紹介しよう。

原料となる資源が殆どなく、人口密度が非常に高い島国でありながら、あれほどまでに裕福な生活水準に達した国で物質が止めどなく増えて行くことにどんな意味があったのだろうか?

我々としては、「もはや物質が止めどなく増えていくような状況のなかに身を置く必要はない」と、思い切って発言してしまう方がいいと思うのである。既に衣食は足りた。礼節は知った。今回の震災時の日本人のモラルの高さは、世界中で称賛された。ルモンド紙は次のように言う。

逆にこの傾向 (注: バブル崩壊以後の低成長)は、人間活動の環境負荷(エコロジカル・フットプリント)の削減を目標とする経済システムを取り入れる機会にもなりうる。とはいえ、「日出ずる国」は革新的な道を見いだすのに苦労している。今こそ、日本とその新しいモデルに関心を持つ理由がある。

オークヴィレッジ代表の稲本氏は、Twitter 上でこのルモンド紙の記事を紹介した Hyo Yoshikawa さんの tweet を RT した上で、さらに次のように tweet している。(参照

ルモンドの論旨は、客観的で、説得力があり。基本的には、賛同。しかし、日本人は、さらに、哲学や思想を掘り下げ、かつ、具体的に衣食住などの基本を 21世紀後半型に!

稲本氏は、経済成長を「我慢する」のではなく、衣食住などの基本を 21世紀後半型にシフトすることに「喜び」を感じるようでなければならないと主張しているようにみえる。そしてそのためには、「哲学や思想」が伴わなければならないと言っているのだ。

我々はずっと、「物質的な贅沢をすること」が「幸福なこと」と錯覚して生きてきたような気がする。私は今、「物質的な贅沢」に「申し訳なさ」を感じるようでなければ、地球はもたないと思っている。

質素なライフスタイルで得られる「しみじみとした幸福感」の方により深い喜びがあることを知らなければ、我々は原発依存から永遠に脱却できない。我々はもっと進んで高貴な精神性を獲得してもいい。

今回の私の記事には、具体的解決策が全然示されていない。それをとって「無責任」とか「夢物語」とかいって批判することは容易だ。しかし具体策はこれから現れてくるのだから、仕方がない。今とりあえず必要なのは、その方向性を明確に示すことなのだ。

これまでだって、イノベーションの多くは「夢物語」から生まれている。

 

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コメント

「青年の主張」かと思いました(笑)

投稿: alex99 | 2011年5月 5日 06:08

alex さん:

私、「永遠の青年」ですから (^o^)

投稿: tak | 2011年5月 5日 08:16

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