原発は経済問題である以上に哲学的問題である
産経新聞の 6月 20日付に寄稿された京都大学教授・佐伯啓思氏の 【日の陰りの中で】 「原発事故の意味するもの」 という記事を興味深く読んだ。「脱原発」と「原発推進」の二者択一で論じられがちで、そのために膠着状態に陥っている今回の原発事故の状況について、佐伯氏は「その決定不能な宙づり状態こそ今日のわれわれの姿」としている。
我々が決定不能の状態に陥っている理由を佐伯氏は、これが「価値」にかかわる選択であり、その価値についての選択を我々が極力回避し続けてきたからではなかろうかと示唆している。これは重要な指摘だ。
そして近代技術(科学技術のみならず、リーマン・ショックを生み出した「金融工学」なども含め)は、「想定外」を必然的に生み出すのだとも指摘している。近代技術はある想定を置かなければ成立しないものだが、ほかならぬその技術そのものが「想定外」の事態を生み出してしまうという逆説に、我々は直面しているのだというのである。
このブログで原発問題に触れたとき、きっしーさんがコメントで、原発問題とサブプライムローンの共通性を指摘された。この二つはどちらも、「工学的技術」によって確実に「管理」できるものという一定の想定において運用されてきたのだが、ある日突然「想定外」の事態が現出して破綻してしまったのである。
リーマン・ショックと原発事故によって我々は、高度な技術においてはいかなる「想定外」が生み出されるかが不確実であると思い知らされた。しかも技術が高度化するほど想定外が起きるリスクは高まると、佐伯氏は警告している。
いや、佐伯氏の記事では直接的には言及されていないが、「想定外の事態」というのは、決してまったく想定されていなかったというわけではない。むしろその破綻の可能性は外部から冷静に指摘され続けてきたのだが、運用にあたる当事者はその可能性を無視し、「想定外」という範疇に置き続けてきたという経緯がある。
その理由はとても単純だ。一定以上の大きなリスクは可能性としては 0パーセントというわけでは決してないが(それは当然だ)、とりあえず想定外という範疇に位置づけておかないと、新技術が必要とするリスク対策が無限に広がって、いつまで経っても市場に適用することができないからである。
つまり、新技術導入のメリットが潜在リスクを大きく上回るものと判断され、市場への適用が急いで進められるほど、「想定外リスク」は増大するのだ。ということは、何を想定内とし、何を想定外とするかは、立場によって違ってしまうものであるらしいのだ。本来客観的であるべき技術的な問題の客観性は、このようにして失われる。
あるシステムによって多大なる恩恵を被るセクターにおいては、想定が必然的に甘くなる。思うにこれこそが、佐伯氏の指摘する「価値」の問題に関連づけられるのだろう。想定範囲の大小は、運用者と受益者の価値観に大きく影響されるのだ。
しかし、我々日本人はそのことに自覚的であったろうかと、佐伯氏は問いかける。どうも自覚的であったとは思われないのである。日本人は戦後、「価値」に関する問いかけや選択、判断を、ほとんど放棄してきたのではなかろうかと。
脱原発の主張に対し、原発推進論者は「原発がなければ日本の国際競争力は減退し、経済的なシュリンクを呼ぶ。暮らしが貧しくなる。それでもいいのか」と、問答無用調の迫り方をする。次にいつ発生するかわからないリスクよりも、確実に暮らしが貧しくなることへの恐怖の方が強く感じられるから、脱原発派の多くはここで腰が引ける。
原発をどうするかという問題は、「暮らしが貧しくなってもいいのか」という表面的な詰め談判以上に、世代間倫理などの問題もからめた「根元的価値への問いかけ」がなければならない。
池田信夫氏は「原発は経済問題」と言うが、それは実に底の浅い矮小な認識と言わなければならないだろう。もちろん彼は自分の主張の正当化のために、意識的にそのように限定的な問題と規定することで、それ以上の問題の検討に広がるのを妨害しているのだろうが。
しかしもはや、原発は経済問題という以上に、哲学的な領域に到達しているのだ。
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コメント
ほとんど原発に関する勉強不足なのでとやかく言えませんが.
とにかく
「想定外」ということに対し,我々にとって最も身近な教科書であった自然から何も学んでこなかったということなんでしょうね.
突発的な自然災害は,慢性的な人間社会からの影響と言えども,我々にとっては「想定外」の自然現象であろうに.
確かに「原発問題」は哲学的である気がします.
なぜならば,今後の日本の行く末,つまり我々国民の生活水準をどう決めるべきなのか,といった国民個人レベルでの人生観にも関わっていると思われるからです.
最近のスーパーは節電対策で全体的に暗いですが,これを「貧しい」と感じる価値観もあれば,「十分だ,これでいいじゃないか」と思うそれもある.
まさにこの国の今後の行く末を決めかねないプランクトン状態の国民の意想を示していると思いました.
そうなると一概に首相或いは政府だけが原因とは言えないということにいい加減我々国民全体が気付くべきなんではないかなぁ.
また,高度な技術を開発すればそれだけ潜在的なリスクも大きくなるとなれば,原発の代替エネルギーの施行は当然いつまでたっても始まらないでしょう.
この国のリーダーにはこのようなプランクトン集団の意想に可能な限り沿った海流を生み出すような人物が求められるのかもしれません.
ある程度反発されても所詮プランクトン,大きな流れに乗せられちゃえば,たとえその先がどうであれ,静かになりましょう.
投稿: 紅いも | 2011年6月21日 14:33
それでも私は経済の問題だと思います。
下記のような行動経済学の観点からです。
①80%の確率で400万円をもらえる。
②100%の確率で300万円をもらえる。
という選択肢があったとします。
実証的な研究によると、①の方が期待値は320万円であるにも関わらず8割の人が②を選択するそうです。
次に、
③80%の確率で400万円を失う。
④100%の確率で300万円を失う。
という選択肢があるとします。
この場合は、③の期待値がマイナス320万円であるにも関わらず、92%の人が③を選択する。すなわち、必ず300万円を失う方がイヤなわけです。
これは、もともとは痛みを回避したいという指向による非対称性に関する実験なのですが、色々と示唆に富んでいます。
原発の真のコストは確率の世界の話(③に相当)で、しかもその確率自体が事前にはわからないので、政治家・官僚・産業界の意思決定者には「100%の確率で生じる化石燃料価格の上昇」を避けたい心理が働くわけです。上記の例は確率が高く、期待値と絶対値の差が小さいですが、原発問題の場合だと確率が極めて低い代わりに損失額の差が極めて大きいため、より問題がややこしくなります。
ややこしくなるというのは、確率があまりにも小さい数字だと相対的に誤差が大きいということに加え、リスクテイク能力には限界があるからです。たとえば、カジノに行けば、各テーブルで賭け金の限度額が設定されていますよね。純粋に確率の観点から見れば、極めて冷徹であるはずのカジノが大口のベットを断る理由はないわけですが、実際には資本や経営規模の制約から限界があります。今回の事故で明らかになったように、放射能災害はまさにこれと同じことだと思います。
ただ、この考え方の限界は、あくまでも一国内で完結したモデルだという点です。お隣の韓国にも24基の原発があり、冬型の気圧配置の時期に事故があったら、日本も被災を免れ得ません。世界中を見回せば気の遠くなるほどの原発が運転中で、猛烈な勢いで増加する予定です。足元の目に見えるエネルギー・コストが日本だけ上がるということが生じるのは好ましくありません。
私はIAEAなりIEAのような国際的な機関が「原子力事故保険機構」のようなものを作り、原発オペレーターに(事前に)コストを供託させるのが合理的(コストがある程度明示的になることで、他のエネルギー源とのコンペティションがより合理的になる)と思うのですが、当然反対する勢力は強いでしょうし、それを乗り越える政治的リーダーシップを求めるのはないものねだりなのかもしれません。
毎度のことながら、長文失礼しました。
投稿: きっしー | 2011年6月22日 10:09
紅いも さん:
>「想定外」ということに対し,我々にとって最も身近な教科書であった自然から何も学んでこなかったということなんでしょうね.
新技術を市場に適用するにあたって、何らかの「想定」 をするのが当然で、すべての可能性を想定することは不可能ですから、ほかならぬその 「想定」 によって 「想定外」 は必然的に生じるということでしょう。
「学ばなかった」 というより、「想定」 という作業に必然的に付属する逆説なんでしょうね。
で、何しろ世の中のことですから、「想定外」 が生じる可能性はゼロではないということです。
我々は、どこまで慎重に用心深く 「想定」 という作業をしなければならないかということになりますが、東電の場合はかなりいい加減だったということがわかってしまいましたね。
>また,高度な技術を開発すればそれだけ潜在的なリスクも大きくなるとなれば,原発の代替エネルギーの施行は当然いつまでたっても始まらないでしょう.
代替エネルギーの技術は、原発ほど 「高度」 じゃないんじゃないでしょうか。
まあ、見方によりますが。
投稿: tak | 2011年6月22日 13:28
きっしー さん:
>それでも私は経済の問題だと思います。
>下記のような行動経済学の観点からです。
なるほど、経済学も広くて、哲学とカブるところもありますからね。
ただ、単に 「経済問題」 と言ってしまうと、単なるコスト計算で答えが出てしまうような狭義の経済的問題と取られがちで、池田氏は意識的にそっちの方向を狙っているような気さえします。
原発の場合は、確率の問題が不明確で、しかも非常に小さな確率で事故が起こってしまった場合には、誰もリスクテイクできないほどの損失が生じるという問題がありますね。
多くのことが不明確で、ただそれは、これまで多くのケースが生じていなかったという幸運によるものです。
それだけに、今回のようなケースは 「例外的大惨事」 で片付けられてしまってはならないわけで、きちんとしたデータとして残す必要もありますね。
人類というのは、このような途方もないリスクを、自ら作り出して生きるというパラドキシカルな存在だということで、それをどう受け入れるのか、あるいは極力排除しようとするのか、それは答えのない命題になりそうです。
>私はIAEAなりIEAのような国際的な機関が「原子力事故保険機構」のようなものを作り、原発オペレーターに(事前に)コストを供託させるのが合理的(コストがある程度明示的になることで、他のエネルギー源とのコンペティションがより合理的になる)と思うのですが、当然反対する勢力は強いでしょうし、それを乗り越える政治的リーダーシップを求めるのはないものねだりなのかもしれません。
それが存在しないことの方が不思議なくらいですね。
ただそうしたシステムがあったとしても、加入しないで安上がりの原発を推進する国もあるでしょうから、一定の罰則というか、制裁を行うという合意も取り付ける必要があるでしょうね。
投稿: tak | 2011年6月22日 13:41