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2011年7月13日

「数字数式認識障害」とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ

emi さんが「数字」に関するブログ記事を書いておられる(参照)。「数字から離れると、芯の強い、澄んだ記憶を残せるような気がする」というのである。彼女は 「電話番号のメモリー機能はボケにつながる」という説についてもこう論破する。

電話をかけるという行為に
余計な数字を介在させる手間が省けるようになったのだ。
もともと「人に話しかける」という行為に必要なのは
“名前”や“顔 (写真)”であるはずなので
番号で覚えていたことの方が不自然。
言ってみれば、メモリ機能によって
電話をかけるという行為はやっと人間らしさを取り戻したのだ。

嬉しいことを言ってくれるではないか。私のような超文系人間は、こういうのを読むと心の琴線がビンビンと振動する。

私は 4ケタ以上の数字は語呂合わせをしないと覚えられない。例えば大政奉還の年の 1867年は、そのまま「1867」という数字として記憶することができない。というのは、それは私にとっては 「せんはっぴゃくろくじゅうなな」 という手に負えないものでしかない。だから 「一発論なの大政奉還」なんて覚えるほかないのである。

とはいえ自慢じゃないが、私の小学校の頃の通信簿はいつも「オール 5」に近い状態で、テストなんか 100点が当たり前。たまにケアレスミスかなんかで 98点を取ったりすると、ビミョーに悔しく感じるというような子供だった。

ただし素行面がかなりノー天気に雑だったので、教師からも周囲の友達からも、いわゆる「優等生」とは全然思われておらず、尊敬もまったくされていなかったが、学業だけでいえば、常に苦もなくトップだった。どう間違っても、トップ以外になりようがないというような子だったのである。

その断トツの学業成績の私が、自分の数字を認識する能力に根本的な疑問を抱くきっかけとなったのが、小学校 4年から始まった算盤の授業である。今はどうだか知らないが、当時は小学校 4年生の算数の授業で、算盤が必修になっていたようなのだ。

算盤の授業では、教師が「願いまして~は、398円なり、64円なり、1,252円なり ……」なんていう読み上げ算とやらをするのだが、この読み上げ算に全然ついていけない子がクラスで二人いた。一人は他でもない、成績トップの私。もう一人は、成績ビリの MK 君だった。

周囲では、MK 君ができないのは不思議じゃないにしても、私ができないのは、例によってマジメに取り組んでいないだけなのだと思っていたようだ。しかし実際に、マジでついていけないのである。

読み上げ算が始まるとすぐに、私は一種のパニック状態に陥る。耳から入ってくる数字が、数字として聞こえないのだ。単に「音声」でしかないのである。「さんびゃくきゅうじゅうはちえんなり」という「音声」を「さんびゃくきゅうじゅうはち」という「言葉」として確認し、それを数字の「398」に変換するのに、かなりうっとうしい努力と手続きが必要になる。

さらにそれを算盤の珠の動きに変換し直さなければならない。気の遠くなるような脳内作業が必要なのである。しかし教師の読み上げは、そんなことにお構いなくどんどん先に進む。なんてデリカシーのない授業だ。これじゃ、一種の「いじめ」だ。

早々に諦めて目の前の算盤をガチャガチャにかき回しながら周りを見ると、クラスの連中はちゃんと指先に集中している。「こいつら、スゲェ!」私は素直に驚嘆した。「こんな神業みたいなことを、どうしてそんなに苦もなくやれるんだ !?」

その後、中学 3年から高校ともなると、私の数字数式に関する障碍はかなり明白になった。教科書に出てくる数式が、理解はできるけれど、覚えられないのである。記憶に収まらないのだ。それで、つまらない数学の授業はほとんど寝ているか、学校から抜け出し、庄内砂丘のど真ん中で空を仰いで寝ころんでいるかのどちらかということになった。

そんなわけだから、高校時代の試験では、文系 3科目の合計点と、数学・理科を合わせた 5科目の合計点が、あまり変わらなかった。

学校以外ではほとんど勉強なんてしなかったが、文系 3科目では何てこともなくトップクラスなのである。授業に出てさえいれば、そのくらいの点数は取れた。「これ以上、何を勉強すればいいの?」なんて思っていた。ところが理数系は授業もまともに受けていないので、さっぱりわからないのである。

私は長年、「もっとちゃんと勉強してさえいれば、理数系ももう少しまともな点数を取れていたはずだ」と、内心で弁明し続けてきたが、最近ではそれすらも怪しいものだと思うようになっている。

とにかく、数字や数式が出てくると、頭の中がパニくってしまうのだから、どうせまともな勉強なんかできなかったに違いないのだ。「もっとちゃんと勉強してさえいれば」という前提は、こと私の理数科目に関する限りは、成立しないんじゃないかと思うのである。

私自身の名誉のために付け加えるとすれば、弱いのは「数字と数式の認識」に関してであって、論理展開については、全然パニックにならずに済む。だから、定理や公式の意味はことごとくきちんと理解できるし、相対性理論とか素粒子論などの文献を読むのもほとんど苦にならない。

これらの分野に関しては、その辺の「数学や科学は、誰が考えても答えが一つだからいいんだ」なんてノー天気なことを言っているフツーの理数系よりは、きちんと理解しているという自信がある。

問題は、あくまでも「数字と数式の認識」なのだよ。視覚的に認識されるのはその「映像」だけで、意味のあるものとして「読んでいる」のではない。さらにそれらを読んでも聞いても、直接的には「音声」としてしか認識されず、意味のあるものにならないのは、前述の通りなのだ。

きっと、脳内の数字・数式を取り扱う回路に何らかの欠陥があるに違いない。あるいは欠陥でなければ超未成熟なのだ。だから、私が少しでも世の中のためになろうとするならば、数字とはあまり関係のない分野で生きるしかないのである。

脳科学の世界では、きっと「識字障害(Dyslexia)」に準じたような名前が付いてるんじゃあるまいかとさえ思うのだが、ちょっとググっただけでは見当たらない。だったら、個人的には暫定措置として「数字数式認識障害」とでも言っておこうか。

ああ、これってなんて魅力的なエクスキューズなんだろう。

 

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コメント

例えば、語学なんかに関するtak-shonai さんの分析と論理と知見を読むと、本当にtak-shonai さんて、素晴らしい人だと、みんな、思うと思う
まさに頭脳明晰・論理的な文化人だな~と
とても、私なんか、かなわないな~と


ただ、私は、エネルギー問題に関してのtak-shonai さんを知ってから、ちょっと、彼の異なる側面を見た思いがする(笑)
これは、東北的な情念の世界と、解釈すればいいのかな?
民族的な違いではないか?(笑)とさえ思う

投稿: alex99 | 2011年7月13日 04:55

alex さん:

過分なお褒めの言葉をありがとございます (^o^)

私、多分、弥生と縄文の混血です。
普段は弥生みたいな顔をしていますが、時々、縄文が強烈に現れます。

投稿: tak | 2011年7月13日 09:55

takさんの“超文系”は筋金入りですね。このエントリーを読んで、そういえば私は子どものころ近所でちょっと有名な超数字系の子だったことを思い出しました。どこでどうやってコンバートしたのか考え中です。

いずれにせよ、所詮私はにわか文系だったというわけです。自分の言語力に深みが出ないのは途中参加だからということにしておきます。これも『魅力的なエクスキューズ』です(笑)。

投稿: emi | 2011年7月13日 12:38

emi さん:

>そういえば私は子どものころ近所でちょっと有名な超数字系の子だったことを思い出しました。どこでどうやってコンバートしたのか考え中です。

そりやまた、珍しい例なんじゃないでしょうかね。

私はそういえば、20まで数えるのは同じ年頃の子供の中でも、一番早いうちにできた記憶があります。

そして理屈としては 「このまま数え続ければ、100まででも 200まででも 1,000まででも数え続けられるさ」 と思っていましたが、実際には決してトライしませんでした。

理屈はわかっていても、実際に数を取り扱うのは、苦痛でしょうがないというわけです。

それから、かけ算の九九を覚えるのも、それほど早くなかったような気がします。

口伝えのようにして単純に繰り返しているうちに覚えるということは、まったくできず、九九の表を眺めて、美しい九九の世界を感覚的に理解して、その上でようやく口で言えるようになりました。

やっぱり脳内回路がちょっと違っているようです。

投稿: tak | 2011年7月13日 13:06

takさんこんにちは。
今回のエントリー、興味深く拝見させていただきました。
おそらく、一種の認知障害のようなものではないかなと思いました。
障害と言うと重く聞こえがちですが、脳の特徴みたいなものです。

実は私も同じようなものを持っています。
小学生の頃は今よりもっと認知できる事が少なく、文中のMK君のような落ちこぼれの子供でした。

特に耳からの情報を処理するのが苦手です。
早口で言葉を聴かされても理解しづらい、意味のない数字や文字の羅列は耳で聴いても脳で処理できない、などがあります。

代わりに、目で見られて、文字列に意味があるもの(文章になっているもの)の理解・記憶はできます。

こういったものは知能とは関係なく存在するようです。
takさんの場合は大変高い知能と認知力をお持ちのようですので、よりそういう部分が浮き彫りに見えたのではないかと思います。

認知ができない事でパニックになるのもとても分かります。
自分の事なのですが、私は「アスペルガー障害」という発達障害を持っていて、認知しづらい事がたくさんあり、子供の頃は常に理解できない事だらけで日常的にパニックでした。

今はこうして文章を書いたり読んだりできるようになりました。脳がある程度発達したようです。
理解できること、認知できることがストレス解消にどれだけ役立ってるか、大人になってから身に染みました。

投稿: シロ | 2011年7月13日 19:12


エネルギー論争以来、tak-shonai さんのエントリーを流し読みするくせがついていたのですが(失礼)(笑)、今回、よく読むと、同感できる部分が

音感と視覚の問題では
私は、音感が良くてプロの演奏者のミスタッチもすぐわかります
視覚認知もいいと思います

ただ、tak-shonai さんと同じで、日本語による数字の読み上げの理解に弱い
パッと同時に数字に変換できない
変換できないわけではもちろん無いのですが、自分の他の能力に比べると、ちょっと落ちる部分です
他の人がどうなのかはわからないのですが、そういう自覚があります
だからソロバンでもちょっと苦労した
(私は特殊な私立校に暑中と通っていたのでソロバンは習わず、そのため商社に入ってから、新人研修などで苦闘したんですが)

ただ、英語なら数字がパッと、問題なく認識できるんです
不思議ですよね

恐らく、私は、日本語による数字の読み上げを視覚経由で変換しているんだと思います
そうすると、数字は、ひらがなでまず出てくる
これが、記号の数字へと変換しにくい
そういうことかな?と

投稿: alex99 | 2011年7月13日 23:42

シロ さん:

>理解できること、認知できることがストレス解消にどれだけ役立ってるか、大人になってから身に染みました。

なるほど。
実感ですね。

理解できないことって、パニくりますからね。

投稿: tak | 2011年7月14日 00:56

alex さん:

>私は、音感が良くてプロの演奏者のミスタッチもすぐわかります

私も結構わかります。
というか、フツーに歩いていて急にけつまづいたような感覚なので、「なんでこれに気付かんかなあ」 というようなものですね。

>ただ、tak-shonai さんと同じで、日本語による数字の読み上げの理解に弱い
>パッと同時に数字に変換できない

おお、お仲間ですね。
案外多いのかなあ。

>ただ、英語なら数字がパッと、問題なく認識できるんです

私の場合は日本語も英語もありせん。どっちもダメです。
(悲しい ^^;)

>恐らく、私は、日本語による数字の読み上げを視覚経由で変換しているんだと思います

そんな感覚が私にもあります。
ですから英語でも、"twenty-four" が すぐに 「24」 にならなかったりするんですよ。

それと関係あるかどうかわかりませんが、日本語と英語以外の言語では、「三つ」 までしか覚えられません。
(フランス語は例外で 「四つ」 まで言えます)
幼児以下です ^^;)

でも、たいていの場合、三つまで言えれば用は足りますが。

投稿: tak | 2011年7月14日 01:12

アラブでは4人の妻をもてるのに
tak-shonai さんは、アラブでは3人まで(笑)
1号、2号、3号まで(笑)

投稿: alex99 | 2011年7月14日 01:28

不思議ですね~~
びっくりです。
tak-shonaiさんなんか
天才なのにね~~
驚きました。


私など、すべてのことに最低ですから
何を申し上げることもできません。涙


投稿: tokiko68 | 2011年7月14日 09:47

alex さん:

>アラブでは4人の妻をもてるのに
>tak-shonai さんは、アラブでは3人まで(笑)
>1号、2号、3号まで(笑)

いざとなったら、「たくさん号」 と言っちゃいます (^o^)

投稿: tak | 2011年7月14日 14:23

tokiko68 さん:

平成の紫式部ともあろうお方が何をおっしゃいますやら。

投稿: tak | 2011年7月14日 14:25

シロ さん;

「アスペルガー障害」については、その名称だけしか知りませんでしたが、Wikipedia でちょこっと概要を読んでみて、案外自分もそれに近いところがあるんじゃないかという気がしました。

私自身がアスペルガー障害にならずに済んでいるのは、ひとえに 「庄内弁」 という武器を持っていたからではないかという気がしてきました。

私が母国語として標準語という体系しか持ち合わせていなかったら、多分アスペルガー障害になっていたような気がします。

そうならずに済んでいるのは、庄内弁という、感覚的に濃密な人間関係でしか通用しないメディアを獲得していたからだと。

投稿: tak | 2011年7月14日 21:47

takさん、wikiで調べてくださったんですね。
あの概要だけでおおよそ理解されたtakさんの理解力に驚きです。
補足すると、アスペルガーなどの発達障害は、今のところ先天的な脳の気質であると定義されているようなので、後からアスペルガーになる、ということは無いようです。
しかし気質を持ってる人はたくさんいて、takさんも思い当たるのであればそうかもしれません。
(アスペルガーの人は並外れて高い知能を持った人もいます)

発達障害の人の養育で大変なのは「物事を理解させること」ですが、軽度であれば養育次第で発達し、社会適応できたりもします。
庄内弁は、そういった気質の人の養育にとても適したものなのかもしれませんね。
適切な養育がなされないと、そういった「気質」が様々な壁になってしまいますが、takさんの場合は多くの手段とスキルを身に付けてらっしゃるのでしょう。

ただし、私のように耳で言語を聴いて覚えるのが苦手な人には微妙かもしれません。
実は関西で生まれ育った割に関西弁をあまり話さないのですが、言語を活字から覚えたためだと思われます。

投稿: シロ | 2011年7月14日 23:20

シロ さん:

実は、息子がアスペルガー障害 (かなり知能は高い) という知人がいまして、彼女は 「息子と共通した要素」 を私に見出すのだそうです。

そんなことから、本日 (15日)付で一本書いてみたいと思います。

>ただし、私のように耳で言語を聴いて覚えるのが苦手な人には微妙かもしれません。
実は関西で生まれ育った割に関西弁をあまり話さないのですが、言語を活字から覚えたためだと思われます。

私はラジオ少年だったので、言葉は耳から覚えました。

庄内弁に馴染むより先に、ラジオから聞こえる標準語に馴染んでいような気さえします。

私にとって庄内弁は、後天的に獲得した救いだったのかも。

投稿: tak | 2011年7月15日 00:19

私の家にホームステイしていたアメリカ人の医学生さんが数字が覚えられない障害を持っていました。その障害英語ではちゃんと名前があるそうです。その彼はMBAも持っていますが、私の家の電話番号は覚えられませんでした。子どもの時は大変だったようだけど、何らかの工夫をして克服していってるようです。私の息子も識字障害ですが、パソコンを使うようになってからは、文を書くのが得意になりました。義務教育の間をいかに傷つかないで通り抜けるか、がかぎだと思われます。脳の働きを補う良い道具はいっぱいありますから。

投稿: yukiko | 2017年8月 6日 16:04

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