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2011年7月に作成された投稿

2011年7月31日

特別な年の不思議な時間感覚

猛暑の一時期を過ぎて、最近なにやら日が暮れてしまうと涼しいので、てっきりそんな気分じゃなかったが、なんとまだ 7月は終わっていないのだった。とっくに 8月頃になっているような気がしていた。

今日はどうという主張も何もない戯言である。戯言だが、何となく実感ぽいところもある。というのは、あの 3・11 以後、時間の感覚がちょっと狂っているということだ。どうにも普通の時間感覚が戻ってきていない気がする。

何しろ 3月中旬から 4月終わり頃にかけては、「失われた 1ヶ月半」 だった。まともな仕事にならないうちに、時間だけが虚しく経っていた。4月 26日は、我が家で最後に残っていたペットの黒猫が死んでしまったし、なんだか喪失感みたいな気分のままに過ぎてしまった日々である。

5月頃からようやくまともな活動に戻り始めたような気がするが、下旬には早い梅雨入りとなり、7月上旬にはこれまた早々と梅雨明けしてしまった。それで、小学校が夏休みにも入らぬうちに猛暑日が続き、夏休みに入ったと思ったら、戻り梅雨で涼しくなってしまっている。

ふと気付けば、まだ旧盆にもなっていないのである。墓参りにも行っていないのだ。不思議な時間感覚である。今年はちょっと特別な年なのかもしれない。

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2011年7月30日

単に 「もっともらしいだけ」 というのも、それなりに意味がある

昨日の予告通り、食べ合わせに関する思い出深い話を書く。実は 8年も前に書いてしまったことなのだが、Today's Crack をココログに移管する前のことで、独立したブログ記事としての体裁になっていないので、ここで改めて書くことにする。

それは、「私は子供の頃、『死』を具体的に意識したことが 2度ある」という話から始まる。一度は 12歳の頃の「新潟地震」の時だが、最初に意識したのは幼稚園の頃だった。健気なことに、幼心に「死」を覚悟したのである。

私は三世代同居の家で子供時代を過ごした。祖母は自分が病弱だったこともあって、「食べ合わせ」には大変うるさい人だった。「○○と△△」 は一緒に食うなとか、「××と◇◇」と一緒に食ったら死んでしまうとか、ことあるごとに言うのだった。

中でも凶暴なのが、「イカの塩辛と梅干」の食べ合わせである。とにかく祖母は何かあるとすぐに「死ぬ、死ぬ」という人だったが、常日頃からイカの塩辛(庄内では 「いがじょがら」 と訛る) 梅干しを一緒に食ったら、たちどころに死んでしまうと言うのである。

ところが祖母と二人きりで留守居をしていたある日、私はうっかりと、まさにこの組み合わせのつまみ食いをしてしまった。それがバレた時、祖母は冷酷にも「おぉ、死んでしまう」と言い放ったのである。幼い子供にとっては、これ以上のショックはない。

「本当に死ぬのか」と聞くと、「イカの塩辛と梅干を食ったら死ぬと、昔から言う」と、祖母は真顔で答えるのである。

「そうか、死ぬのか」と私は思った。これはもう後悔してもし切れない。頭が白くなった。

そして何よりも切ないことに、祖母はそれっきり私を放っておいたのである。薄情この上ない仕打ちである。大事な孫が死ぬというのに医者を呼ぶわけでもなく、病院に担ぎこむのでもない。坊主を呼ぶわけでもさらにない。何事もないように、ごくフツーの顔をして日常の家事に戻ったのだ。私は、これはどう手を尽くしても甲斐のないほどに「手遅れ」なのだと理解した。

それから半日、私は泣き喚くこともなく、ひたすら大人しく自らの死を迎えようとした。死ぬのは仕方ないと思ったので、とりたててうろたえはしなかった。既に自らの死を受け入れていた。しかし死ぬ前にはさぞ苦しかろうと、それだけが恐怖だった。それでも、どんなに苦しかろうと耐えるしかない。どうせ死ぬのだから。

ところが、何時間経っても死ぬどころか、腹痛すら起きない。祖母に「いつ死ぬのか」 と尋ねても、「死ぬ」としか言わない。そうは言っても、そのような兆候はまったく現れない。夜になってもまだピンピンしていて、いつの間にか「死」の恐怖は消えてしまった。

「食い合わせ」 というのはほとんどが迷信だと知ったのは、小学校 3年か 4年の頃である。それまで私は、「あの時は『運良く』死を免れた」 ものとばかり思っていた。

ところで祖母は、本当に私が「死ぬ」と思っていたのだろうか? あるいは、死なないと知っていて「死ぬ」と言ったのだろうか。私は長い間、それが疑問だった。後者だとしたら、現代の考え方からしたら相当に残酷な話だ。してはいけないことである。幼子に「食」に対するトラウマが残ってしまうかもしれないではないか。

しかし、その後に私はこう理解できた。祖母の頭の中は、「現代」ではなく、「近代」 、はたまた「近世」 ですらなかったのだ。

彼女は、「はひふへほ」 を 「ふぁふぃふふぇふぉ」 と発音する人だった。これは音韻学によれば、奈良時代の発音であるとわかっている。「歯が痛い」 というのを、「ふぁ、病める」 と言った。昭和の御代に、奈良時代の物言いを維持する、「生きたフォークロア」 だった。

彼女が実質的に生息する「中世以前~古代」の感性においては、「食い合わせで死ぬという言い伝え」は、「死なぬという事実」よりはるかに重視すべきテーゼだった。伝承によるファンタジーの価値は、実証的事実に勝るのである。

だから大事な孫を目の前にしても、「事実」はどうあれ、「言い伝え」を忠実に繰り返す以外に選択肢はなく、いわば「オートマチック」な反応なのであった。これを現代の感覚から「残酷」と非難するわけにはいかない。

私のフォークロア的感性は、昨日や今日に始まったことではない。年季が入っているのである。だから、「おばあちゃんの知恵袋」の中身が、本当に役に立つことと、単にもっともらしく聞こえるだけのことの混淆だったとしても、それをしてどうのこうの言う気にはならない。単に「もっともらしいだけ」というのも、それなりに意味があると思っている。

実用的なことと、単なる言い伝えのごちゃまぜこそが、人の世というものなのである。

 

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2011年7月29日

昔からの知恵には、「単にもっともらしいだけ」というのもある

昨日「麺類を茹でるのに多量のお湯は必要なかった」という記事の中で、「昔から言われていることには、正しいことも多いが、現代の技術を使いさえすればナンセンスになってしまうことも多い」と書いた。いや、それは現代の技術を使わなくても言えたりする。「おばあちゃんの知恵袋」は、とても役に立つこともあるが、そうでないこともある。

「こんな時はこうするといい」昔からの口伝には、「単にもっともらしく聞こえるだけ」というのが案外多かったりするのだ。いや、「もっともらしい」だけで実際には毒にも薬にもならないならまだいいが、逆にかえって体に悪かったりすることもあるから、気を付けなければならない。

例えば、鼻血が出たときの対処法というのがある。昔から鼻血が出ると「上を向いて、ちり紙(近頃ではティッシュペーパーになったが)を鼻につっこめ」と教わったが、現代の救急法では、それは間違いとされている。鼻血が出たときに上を向くと、口の中に逆流して気管に入って窒息することもあるらしい。下を向くのが正しいのだそうだ。

そしてちり紙を突っ込むというのも、よくないらしい。それで血が止まっても、そのちり紙を引っ張り出したときに再び粘膜が破れて出血につながりやすいという。現代の世の中では、鼻血が出たときは下を向いて、ひたすら圧迫して止血するのが正しいやり方ということになっている。

それから、喉の奥に魚の小骨が刺さったときなど、昔から「ご飯を噛まずに飲み込め」なんて言われたが、これはかえって危険なことらしい。かえって深くささって取れにくくなることがあるというのである。こんな時はご飯よりも水が役に立つ。うがいしたり一気に水を飲み込んだりすると効果がある。

私なんかは、鼻血が出て、上を向いてちり紙突っ込んで止まったこともあるし、喉にささった小骨がご飯の丸飲みで取れたこともあるので、「完全に逆効果」とも言えないが、時には危険なこともあるということは、認識しておく方がいいだろう。

それから、昔からよく言う「食べ合わせ」なんか、ほとんど迷信のようだ。これについては私はとても印象深い思い出がある。既に 8年も前に書いている (参照) のだが、ココログの方の記事ではないので、明日あたり、改めて書いてみようと思う。

 

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2011年7月28日

麺類を茹でるのに多量のお湯は必要なかった

昨夜珍しく、格闘技でもサッカーでもないテレビ番組を、気を入れて見てしまった。NHK の「ためしてガッテン」という番組である。「暑さも光熱費も激減!時短ミラクル料理革命」というテーマだった。私は「家事をする夫」であり、台所に立つことが結構ある。今どきだから、「暑さも光熱費も激減!」というのは、興味津々である。

結論から言えば、フライパンに蓋をすることで蒸気を閉じこめて過熱するのがポイントだった。水をほんの少ししか使わないので、茹でる料理を始めとして調理の光熱費が減り、しかも栄養が損なわれず、色もきれいに仕上がり、素材の味が引き立つというのだった。

なんだ、それなら「無水鍋」というのが昔から提案していることだ。目からウロコだったのは、別に高い金で無水鍋を買わなくても、フライパンにガラス蓋で十分にそれが可能だということである。無水鍋のメーカーには悪いけど、「それはあんたの専売特許ってわけじゃないよ」ということのようだ。

さらに認識を新たにしたのは、麺類を茹でるのに、別に「たっぷりのお湯」でなくてもいいということだった。スパゲティでも蕎麦でもうどんでも、昔から麺類はできるだけたっぷりのお湯で茹でるというのが定説になっているが、よく考えるとそれは必ずしも必要条件というわけではないようなのだ。

少量のお湯で麺類をおいしく茹でるのは、ひとえに、「鍋に蓋をする」ということによって、実現する。蓋をしないで少量のお湯で茹でようとすれば、麺類を放り込んだとたんに湯の温度が下がって、麺がだれる。

ところが蓋さえすれば、少量のお湯で済むのである。火によって供給される熱エネルギーは、お湯の量が多かろうが少なかろうが変わりない。だったら、少量のお湯をあっという間に再沸騰させて、水蒸気にしてしまい、その水蒸気の凝縮熱を料理の素材に戻すというサイクルを続ければ、蓋をしないで大量のお湯を使うよりずっと効率的だ。

今日、試しにそうめんをひたひたのお湯で茹でてみたが、何の問題もなくおいしくできた。しかも、麺を投入して再沸騰したら(水が少量なので、すぐに再沸騰する)火を止めて、だまって 3分待てばいいのである。その間、水蒸気の凝縮熱が循環して、常に沸騰状態がキープされている。

昔から言われていることには、正しいことも多いが、現代の技術を使いさえすればナンセンスになってしまうことも多い。「麺類は多量のお湯で茹でる」というのは、現代の技術どころではなく、単に「蓋をする」という簡単なノウハウで「ごく少量で十分」に変換されてしまうのだから、もっとちゃんと広まってもいい。

 

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2011年7月27日

庭に横たわる「マンモスの鼻」に手をこまねいている

我が家の庭の棕櫚(シュロ)の木が高く育ちすぎたので、5月頃に切り倒した。切り倒し方は、林業の専門家から習った。無闇に切り倒すと危ないので、まず、切り倒したい方向に、横から見てV字型に切り込みを入れる。その後、おもむろに反対側から切っていくと、V字型の切れ込みのある方にどっと倒れる。

その方法を知らないうちは、ロープをかけて倒れる方向をコントロールしなければならないものと思っていた。しかしそんなことをしなくてもいいとわかったので、作業そのものはそんなに苦労しなかった。電動のこぎりがないので、斧でガシガシやるのはかなり力業ではあったが。

Cr110727で、今、我が家の庭の片隅には切り倒された棕櫚の木が、長々と横たわっている。棕櫚は茶色の堅い毛 (棕櫚箒の毛に使われる)に覆われているので、なんだかマンモスの鼻だけが放り出されているようにも見えて、ちょっと異様な光景である。早くこの木を短く切り分けて処分してしまいたいのだが、その作業になかなか取りかかれないでいる。

切り分け作業を開始する気になれないのは、ご想像の通り、放射能汚染問題である。地面に横たわった棕櫚の木の表面を覆う剛毛は、ずっと雨ざらしなので、さぞかし放射性物質を吸い込んでいるだろう。屋外に放置されていた稲わらが汚染されるのだから、この棕櫚の毛だって汚染されていないはずがない。我が家のホットスポットになっているはずだ。

それを思うと、ちょっと気持ちが悪い。この木を切り分けるには、まず表面の剛毛をはがさなければならない。そうしないと毛が食い込んで、のこぎりを引けないのだ。剛毛をはがす作業をしたら、さぞかし空気中にセシウムが飛び散るだろう。それを吸い込むのはご免被りたい。

先日の台風 6号ではかなりの雨が降ったが、もう一度か二度、大雨が降って洗い流されてくれないと、なかなか取りかかる気になれない。取りかかったとしても、何しろ人力なので一度の作業だけで終わるとは思えないから、いずれにしても長期戦になるだろうが。

 

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2011年7月26日

サルビアの狂い咲き? いや、早川義夫はずっと咲いていたらしい

人生は夕方から楽しくなる:活動再開17年、元書店主の歌手・早川義夫さん」 という毎日新聞の記事を読んでぶったまげた。あの早川義夫が音楽活動を再開していたなんて全然知らなかった。しかも、活動再開してから 17年も経っていたなんて、一体どういうことなんだ。その間、私は一体何をしていたんだ。

早速ググってみたら、あわてていたせいで「早川義雄」に変換されてしまい、それはそれで、そう言う名前のグラフィック・デザイナーがいたりして、さらにあせってしまったが、きちんと検索してみれば、なんと当人の公式サイトまであったりするのだった。世の中って、これだから油断も隙もならない。

しかも、URL の末尾が "~h440" だなんて、まあ、ちょっと脱力してしまったりして、「俺は今、一体、いつの時代に生きているんだ?」 と本気で思ったりしたのだった。

早川義夫を知らない人は、全然知らないんだろうなあと思う。わずかに 「あの 『サルビアの花』 の作曲者だよ」 と言えば、「ああ、そうなのか」 と思ってくれる人もいるだろうが、あの曲だけのイメージだと、どんな人を想像してしまうのかなあと、不安になる。

あの伝説のジャックス(念のための注釈: 早川義夫の所属していたバンド)を、まあ、今の人はほとんど知らないんだろうなあ。あの頃、ジャックスの衝撃はすごかったのだ。あの岡林だって、セカンド・アルバムで、ジャックスの歌を歌いまくったのだ。そういえば、あのアルバムのプロデューサーは早川義夫だったじゃないか。

YouTube に当たってみると、ありゃ、結構一杯アップされてるじゃないか。なんだか、とっちゃん坊やみたいな風貌になった早川義夫が、グランドピアノで弾き語りしている。ああ、あの頃のイメージは、消えない。ずいぶん変わったけど、消えていない。いずれにしても、「サルビアの花」をどうぞ。

白状してしまうけど、私のこの文体は早川義夫の影響をかなり受けて成立しているのだよ。私だけじゃなく、あの頃にちょっととんがった音楽をやった連中の多くは、影響受けたんじゃなかろうか。

公式サイトに行くと、ライブの予定が載っている。そのうちきっと行ってしまうだろうと思う。

 

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2011年7月25日

アナログ放送終了で問い合せ電話殺到するのが、浮世なのだね

所用があって、久しぶりに秋葉原に行った。アキバのヨドバシの店内を通るとショートカットになるので、ちょっと失礼して 1階売り場を斜めに通り過ぎたら、どうみても液晶テレビと思われる段ボール箱をぶら下げた人がかなりいた。アナログ放送が終了して、ようやく地デジ対応テレビを買い求めたのだろう。

毎日新聞によると、24日正午にアナログ放送が終了した直後から、総務省とテレビ局に合計約 15万4000件の問い合わせが寄せられたという (参照)。すごい数だ。あれだけ何年も前から繰り返し繰り返し、地デジ移行の告知が行われていたというのに、今さらわざわざ電話をかけて、一体何を聞かなければならないんだろう。

世の中には、よっぽど浮世離れした人が多いんじゃないかと思ったが、本当に浮世離れした人ならテレビなんか見ないだろうから、今頃になって問い合わせ電話をしてくる人というのは、決して浮世離れしているわけじゃない。それどころか、テレビが映らなくなるとあわててしまうぐらいだから、テレビ依存度はかなり高いのだろうと思う。

そのテレビ依存度の高い人が、あれだけ繰り返し繰り返し地デジ移行の告知を見て、聞いているはずなのに、今頃になって問い合わせ電話をするというのである。これまで一体何を寝ぼけていたんだろう。

これは本当にすごいことだと思う。ずいぶん前から、何度も何度も、丁寧に繰り返して告知されたことを、全然気にしていなかった、あるいは「何んか、あるらしいな」程度にしか意識していなかったために、土壇場になってあわてる人がこれだけいるのである。まさに浮世である。浮世離れしていないのだから、「これこそ浮世なのだ」と言っていいと思う。

これは本当に、感動的にすごいことだと思ってしまったのだよ。

 

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2011年7月24日

暑さのピークは過ぎてしまったようなのだ

今月 16日の 「今年の夏の歩調がやたら速く感じられるのは」という記事で、「今年の夏は、もう既にピークに達しているのだ。そして 8月の声をきけば、お盆休みの前に少しはしのぎやすくなっているかもしれない」と書いた。その根拠として、今年は旧暦でみればもう秋が間近に迫っているということを挙げておいた。

「何を非科学的な」と笑われそうだが、アジアの東端に位置する日本の季節感は、旧暦でみる方がずっとしっくりくるのである。これは経験値からわかっていることだ。その経験値からすると、今年は旧暦が新暦との比較上で早く進んでいるのだから、秋が早く来ると思われるのである。

そして、気象庁の天気予報を聞くと、今月末までは暑さがぶり返すものの、先週前半までのような猛暑は、あったとしても長続きせず、8月以後は 「平年並の夏」 になるということなのだ。太平洋高気圧がしぼんで、オホーツク高気圧の勢いが増すらしい。今どきの「平年並の夏」というのは、猛暑に慣れた体には結構涼しく感じられるだろう。

確かに、暑さのピークは 7月末の段階で既に通過してしまったようなのである。

上述の記事では "実際には、何しろ急速に「温暖化」が進んでいるので、お盆休みの前にしのぎやすくなるなんていうのは、甘すぎる期待かもしれない" と書いたが、実際にはそれほど甘すぎる期待というわけでもないようなことになりそうだ。

旧暦を馬鹿にしてはいけないのである。甲子園野球の真っ最中にも、それほどエアコンをガンガンに点けなくてもよさそうなのだ。いずれにしても、私はエアコンを使わないのだが。

 

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2011年7月23日

「妊娠中絶が 20年で 6倍」 というニュースに驚いた

妊娠中絶、20年で 6倍に 超音波検査の精度向上で」という記事を読んで驚いた。日本産婦人科医会によると、「胎児が順調に育っているかを調べる妊婦の超音波検査(エコー)の精度が向上した影響で、2000年代後半の人工妊娠中絶の推定件数は、1980年代後半の 6倍超になった」のだそうだ。

私は基本的には妊娠中絶に反対の立場である。カソリックじゃないから、避妊まで反対というわけじゃないが、胎内に一度宿った生命を親の都合で抹消するのは「殺人」と変わらないと思っている。日本は元々、中絶件数が少なくなかったのに、さらにわずか 20年で 6倍というのは、悲しいデータである。

中絶増加の原因としてこの記事で挙げられているのは、見出しにあるとおり、超音波検査(エコー)の精度が向上したことらしい。妊娠初期に胎児の異常が見つかり、中絶を選ぶ例が増えたというのである。

ただ、異常の種類や状態により新生児の障害の程度は異なる。この調査をまとめた平原史樹横浜市立大教授(産婦人科)は、「どれぐらい深刻なのか、医師の説明が不十分で妊婦もちゃんと理解しないまま、中絶したケースが少なくないとみられる」と指摘している。

つまりそれほど深刻な異常でもないのに、医師が中絶するように勧め、親も安易にそれを受け入れる傾向があるということだ。確かに今の世の中で障害者が生きていくのは容易ではないが、それなりに人生を全うする道はある。障害をもちながらポジティブに生きている人を少なからず知っている私としては、そうした道を奪うのは忍びない感覚がある。

生まれた後に事故などで障害を負った場合などは案外手厚く守るのに、生まれる前だと簡単に抹殺するというのは、どうにも解せない。生まれてからだろうが、生まれる前だろうが、命は命なのだから。

先天的な障害をかくまで避けたがるのは、「多様性を受容しない」 という現代日本の文明的欠陥でもあると思う。「いろいろあるから、いいんだ」 という思想がとても希薄なのは、「いじめ問題」をみても感じられる。いろいろある世の中で、自然に折り合いを付けて暮らしていくのは、我々自身の人格を高めるためのトレーニングでもあるのだが。

私の尊敬する I 氏は、「生物には、どうしても一定の比率で障害をもつ子供が生まれるという宿命がある。障害者はそうした宿命を引き受けて生まれてきてくれているんだから、障害のない者としては彼らに感謝して、ていねいに受け入れなければならない」と、自ら経営する会社では障害者を積極的に雇用されていた。素晴らしいことである。

さらに考えると、中絶が 6倍に増えた原因のすべてが超音波検査で異常が見つかったためというわけでもあるまい。単に「産みたくない」というだけの安易な中絶も増えているのだろう。それを思うとますます忍びない。

 

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2011年7月22日

「讃岐うどん食べに寄り道」 か 「ピンポン・ダッシュ」 か 「おじぎ台風」 か

無事に秋田出張から帰ってきた。一時は台風 6号の影響で予定通りに行けないんじゃないかと心配したが、まったく問題なかった。昨日早朝の出発時には多少風が強かったが、交通には影響なく、新幹線が宇都宮を超した頃には日が射し始めて、秋田は快晴だった。

さらに台風が灼熱地獄の日本列島を雨で冷やしてくれたようで、今日の夕刻に関東に帰って来たら、風が冷たすぎるぐらいになっていた。家に着いて末娘に聞いたら、「昨日と今日は、チョー寒かったよ」なんて言っていた。どうも例によって、ちょっと極端に走ったようでもある。

Cr1107222

ところで、出張にでかける前日に台風 6号の軌跡というのを見て、「何だこりゃ!」と驚いた。徳島県南部に上陸したという夜中の軌跡がものすごいのである。「台風はちょっと讃岐にうどんを食べに寄り道したようだ」なんていうジョークが流れているほどだ。(図は Weather News より)

20日昼頃、私は Twitter で次のように tweet している(参照)。

改めて台風6号の動きを辿ると、夜中の 「四国上陸」 というのが、ヘアピンカーブなんてもんじゃない。ものすごい不自然な軌跡である。これって、「台風そのもの」の動きというより、「観測データをコンピュータに入力すると、こういう線になって現れます」ということなんだろうなあ。

大きな台風が、こんなにちょこまかとしたピンポン・ダッシュみたいな動きができるはずがない。どうにも気になって仕方がないので改めて調べてみると、気象予報士の森田正光さんのチームのブログに納得のいく説明がみつかった。今回の台風の軌跡を「おじぎ台風」と言って次のように解説している (参照)。

台風の中心というのは、気圧の一番低いところです。

台風や低気圧が陸地へ接近するとき、地形の影響などで、この低気圧の中心が、一時的にジャンプして、陸地側に解析されることがあります。

今回もおそらく、そうしたジャンプが起こって「上陸」となったのではないでしょうか。

なるほど、地形の影響で気圧の最低点が一時的に陸地にジャンプしちゃったのか。ということは、"「観測データをコンピュータに入力すると、こういう線になって現れます」ということなんだろうなあ" という私の想像は、ほぼ当たっていたことになる。

森田さんは「いずれにしろ、現在の台風コースは速報値ですから、今後の解析にゆだねたいと思います」と書かれているので、この軌跡もそのうちなだらかなカーブに修正されることになるのかもしれない。

いや、修正してくれないと、素人の私が見てもちょっと気持ち悪くて落ち着かないものなあ。

 

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2011年7月21日

被災者高速無料は私も愚策と思う

猪瀬直樹氏が日経 BP で「被災者高速無料という愚策をすぐに撤廃せよ」と主張しておいでだ。私自身、6月 30日付で書いたように、被災者証明書をゲットして帰郷の際に無料措置の恩恵に預かっているので、「何を今さら」と言われそうだが、この主張には賛成だ。

その理由は、猪瀬氏が記事中で書いておられることとほぼ同様だから、敢えて繰り返さない。

私自身、被災者証明書を持っていて、まあ、本当に被害が物的にも金銭的にもあったのは確かなので、何らかの優遇措置を受けてもいいとは思っているが、こんなにどんぶり勘定で無料にされても、何だかもったいない気がする。

それに交通量の多い高速出口では、無料の恩恵に預かるための渋滞がひどい。下手すると料金所を通過するだけで何十分も待たされる。馬鹿馬鹿しい話である。

「じゃあ、お前はこの措置を利用しないのか」と聞かれたら、恐縮ながら「ありがたく利用させていただきます」と答えるのだが、この措置がいつ撤廃されても、文句を言う気にはならない。

 

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2011年7月20日

節電の必要はないなんて言ってるけど (エアコンを使わない夏 5)

zakzak が、東京電力のやっていることを「節電強要詐欺」だと言っている(参照)。ちょっと引用してみよう。

政府と東京電力がこの夏、盛んに訴える「電力不足」の “信憑性” が問われている。東電が公開しているピーク時供給力は最近、不自然なまでに急増。だが、多くの自治体は無意味な「夜間節電」を続け、治安の悪化が深刻さを増している。

確かに、私のこのブログの右側サイドバーの一番下辺りに設置している「東京電力の電力使用状況」というガジェットも、近頃なんだか余裕ある数字を示し続けている。このガジェットを貼り付けたのは 4月 5日で、この日の記事は「いやでも節電が意識されるガジェット」というタイトルだ。この中で、私は次のように書いている。

気になるのはこのガジェットの数値が、ほとんど常に 85%内外を示していることだ。供給能力の 85%が消費されているということである。今日などは暖かかったのでエアコンの暖房のスイッチはあまり入っていなかったのではないかと思うのだが、それでも 86%とかの数値になっている。常にレッド・ゾーンなのである。

穏やかな天気でエアコンがあまり使われていなかった 4月 5日に、常に 86%ぐらいのレッド・ゾーンだったのに、エアコン使いまくり (私は使ってないが) の 一昨日も、大体そんな程度だったのである。今日なんかちょっと涼しいから、75%程度だ。まったくもう、人を馬鹿にしてるなあ。

東電の関係者のコメントというのを、以下に引用しておく。

「震災直後には、7月末時点で 4650万キロワット程度の供給能力しかないとされていましたが、実際には 7月末に 5730万キロワットに達する見込みです。それだけで今夏の最大需要と予想される 5500万キロワットを上回る。送電時のさまざまなマイナス要素を勘案しても、一般家庭や地方自治体に節電を要請する状況ではありません」

なんだ、節電なんてしなくていいんじゃないか。これまで稼働していなかった休眠火力発電所を整備して動かし始めたら、ちゃんと大丈夫だというのである。東電の設備稼働率の低さはこれまでもいろいろと指摘されていたが、要するに過剰投資で、ずいぶんたくさん眠らせたままの設備を持っていたわけね。フツーの民間企業だったら、潰れるわ。

まあ、おかげで原発がダウンしてもなんとかなるのだから、結果オーライみたいだが、だったら、あれだけ鳴り物入りであちこちに作った原発って、一体何だったのだ。老朽化して、10年以上前から危険性を指摘されながらも、それをひた隠しにして漫然と動かし続けていた福島第一原発は、一体何だったのだ。

しかも電力の余る夜間にまで節電を強要するので、街灯を消しちゃう自治体も多く、そのせいで夜間の犯罪が増加しているという。夜間の犯罪は街灯で明るくすればかなり防げるというのは、多くの都市の例で実証されているから、私は当初から街灯だけはあまり節電して欲しくないと思っていたが、現状は意味のない節電をしているのである。

というわけで、節電はあまり必要ないんだそうだが、私はこれまで通り「エアコンを使わない夏」(参照 1参照 2参照 3参照 4)を継続するつもりである。いくら節電の必要がないとはいえ、電力を使えばそれだけ CO2 が出るのだ。今は火力の比率が大きいから、その側面からは、節電の意義が大きい。

当初は「意地でもエアコンのスイッチは入れない」なんて粋がっていたのだが、今では体が熱さに慣れてしまって、エアコンを使おうという発想すらなくなってきた。決して強がりではなく、暑いときは汗を流している方が気持ちがいい。全然無理していない。

この感覚がわかるには、最低でも 1週間以上はかかる。1日や 2日の我慢では、体の感覚が追いつかない。夏の初めから徐々に体を慣らしてきたからこそ、35度以上の猛暑日でも「暑いねえ」なんて言いながら、エアコンを忘れていることができるのだ。

もちろん、体力のない老人や病人にまでこのライフスタイルを強制しようなんて思わない。ただ私としては、暑いときにはほぼ自動的にエアコンのスイッチを入れてしまうという、これまでの「異常な」生活感覚を見直すための、とてもいい機会になったと思っている。

そしてこれは、25歳の時の「禁煙」体験とも似ているという気がしている。それまでヘビースモーカーだった私は、あの時禁煙に成功して本当によかったと思っている。そして今では他人の煙草の煙が嫌でたまらないように、出先の過剰なエアコンの風が不愉快にまでなってきた。

 

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2011年7月19日

都合の良すぎるレイムダック

日経 PP ネットに田原総一郎氏が「菅さんが首相を続けるのは日本の恥だ」という、ものすごくぶっちゃけたタイトルの寄稿をしている。まあ、確かに菅さんがこのままの地位にいればいるほど、我々はもう、しらけてしまうとしかいいようがない。外国から見れば「一体、何なの?」ということなのだろう。

田原氏は菅さんを辞めさせるには 3つの手だて、即ち「内閣不信任案可決」「総選挙で民主党が負けること」「大きなスキャンダル」しかないという。しかし内閣不信任案は既に否決されてしまったし、総選挙も大きなスキャンダルも急にはありそうにない。つまり、菅さんは大方の意に反して、しばらく辞めずに済んでしまいそうなのだ。

菅さんは自民党はおろか、与党の民主党内にさえ味方がいない。こんなに支持されていないのに、当人が「辞める」というまでは辞めさせられない。6月 2日の記事で私は「こんな都合のいいレイムダック、初めて見た」と書いたが、その時はまだ、これほどまでに「都合のよすぎるレイムダック」になるとまでは思っていなかった。

菅さんはかくまでも四面楚歌で、それは内閣支持率が 10%そこそこという数字にも表れているのだが、だからといって、民主党に頼れる代役がいるのかといえば心許ない。自民党に救世主がいるのかというのも、あまり期待できない。ただただみんなで「菅ではダメだ、ダメだ」と大合唱するばかりで、対案があるわけでもないのである。

こうした状況は、国民としては本当に気持ち悪いものだ。

菅さんではダメだという理由に、「能力不足が露呈したにもかかわらず、震災からの復興や国民の要望を無視して、現在の地位にしがみついている」というのが挙げられる。なるほど、確かにそのように見える。

しかしその一方で、「菅さんは方針も信念もないのに、立場が危なくなると、思いつきで国民受けしそうなことを言い出す」とも批判される。今回の「脱原発路線」などはその最たるものだろう。

だが「国民無視で地位にしがみつく」という批判と、「思いつきで国民受けしそうなことを言い出す」という批判は、よく考えれば矛盾している。本当に国民を無視していれば、フツーは、国民受けしそうなことなんて言い出さないだろう。

やっぱり、どこか気持ちが悪すぎる。

要するに、ジャーナリズムの中でいろいろ言われている菅批判は、「だから、菅じゃダメなんだ」ではなく、先に「とりあえず菅じゃダメなんだ」というのがあって、それだけでは単なる感情論になってしまうので、後からいろいろもっともらしいことを付け加えているだけなのである。

それはジャーナリズムの論調だけではなく、多くの国民もそんなふうに思っている。だからこそ「脱原発」という、今なら国民の相当数が支持しそうな「思いつき」を言いだしても、支持率アップに全然結びつかない。菅さんは「都合のよすぎるレイムダック」ではあるが、それは当人にとってのみ「都合がいい」だけのようなのだ。

ことほど左様に、菅さんは周囲の信頼を失ってしまっているのである。そして私を含めた多くの日本人は、民主党を、菅直人という人を見損なっていたのである。とにかく、ここまでひどいとまで思っていなかったのは、私の不徳の致す限りである。反省しよう。心から反省しよう。

しかし反省したからといって、あきらかにましだと思われる選択肢が見当たらないので、ここでまたまた気持ち悪さがぶり返すのである。この気持ち悪さは、しばらく続きそうだ。

 

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2011年7月18日

モバイル Wifi のジレンマ

今年 3月 2日の 「E-mobile の Pocket Wifi を買った」 という記事に書いたように、私はモバイル用の Wifi ルータを使っている。自宅オフィス (最近は ”SOHO" という死語から離れて、「コックピット」 と呼んでいる) から離れて仕事をすることが多いので、外出先でインターネットに接続する手段がどうしても必要なのだ。

手軽にインターネット接続するときには iPhone を使うのだが、そこはそれ、iPhone では画面が小さすぎる。じっくり作業をする時には、どうしても大きな画面に向かいたくなる。

前は E-mobile のカードを PC に差し込んでいたが、最近は Wifi タイプ (3G 回線なし) の iPad を買って重宝していて、PC を持ち歩かないことが多いので、Pocket Wifi (下の写真) に切り替えた。

Cr110718というわけで、私は自宅では NTT 東日本のフレッツひかり、モバイルとしては iPhone (Softbank Mobile) と E-mobile、合わせて 3回線を使っていることになる。ところが最近になって、ふと気付いた。この S31HW という Pocket Wifi は単なるモバイル・ルータではなく、アンドロイドを OS としたスマートフォンでもあるのだ。

Pocket Wifi 自体がアンドロイド・ケータイなんだから、これを単なる Wifi ルータとしてだけでではなく、本来のスマホとしても使えばいいじゃないか。そうすれば、iPhoneが不要になって、E-mobile に一本化できる。iPad が、電話機能がないことを除けば 「大きな iPhone」 みたいなものなんだから、iPhone はなくても困らない。

まあ、iPhone は昨年 11月に iPhone 4 に機種変更したばかりだから、2年縛りがまだ 1年半近く残っていて、急いで契約解除する理由がないのだが、来年の 11月になったら打ち切ってしまってもいいかもしれない。

いや、まてよ、と私はここで逡巡する。モバイル回線を 2系統ももつのは確かに贅沢かもしれないが、やはり iPhone は魅力的なのだ。今年 3月の記事でも述べたように、Pocket Wifi の 「スマートフォンとしてのでき具合は、iPhone と比較すること自体がおこがましいというほどの低レベル」 だし。

それに今は、家族全員が Softbank Mobile ユーザー(それどころか、私と娘 3人は iPhone ユーザー)なので、私が E-mobile に鞍替えしたら、家族間の無料通話ができなくなって、新たに通話料が発生する。それはちょっと困る。

それを考えると iPhone は手放せない。あとは孫さんが iPhone が本来もっているテザリング機能を解禁してくれさえすればいいのだ。そうすれば、E-mobile の方が不要になるのに。

孫さん、iPhone でのテザリングを解禁してくれたら、日本でのシェアはもっと上がると思うよ。ただし、基地局の拡充をしっかりやってくれないと、ますますつながりにくくなってしまうだろうが。

いや、そんなことを言っているうちに WiMax のカバーエリアが十分に広がってしまったら (少なくとも酒田の実家がカバーされたら)、そっちに乗り換えてしまいそうだ。ああ、本当にこの分野はジレンマが多いのである。

 

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2011年7月17日

原発警戒区域で、牛が野生化してるんだって

今月 11日の 「家庭の一般ゴミから高濃度のセシウムが出たということは」という記事にきっしーさんがコメントで、福島の「原発警戒区域で牛が野生化、パトカーに体当たり」という読売新聞の記事を紹介してくれた。記事の内容をちょっと引用する。

県警災害警備本部によると、県警特別機動パトロール隊のパトカーが 10日午後 09時 15分頃、楢葉町山田岡の国道 6号の交差点で、赤色灯を点灯して停車中、牛5。6頭の群れが出現。このうち 2頭がパトカーの運転席側めがけて突進し、ドアやフェンダーがへこんだという。

原発被害で無人化した地域で、取り残された牛たちが案外たくましくサバイバルしているらしいというニュースは流れていたが、なんとパトカーに体当たりをしかけるまでに野生化しているとは、ちょっと驚いた。なかなかやるものである。

私はこの記事の「赤色灯を点灯して停車中」というところに注目してしまって、スペインの闘牛を想起し「そうか、やっぱり牛は赤い色に興奮してしまうのか」などと短絡しかけたが、危ういところで、牛は色彩をほとんど判別できないはずということを思い出した。牛が反応してしまったのは、「赤い色」に対してではなく、点灯された光の動きに対してだったのだろう。

牛たちとしても、3月 11日までは家畜としてぼんやりと待っていさえすればエサをもらえたのに、急に放ったらかしにされてしまって、自分でエサをあさらなければいけなくなったので、ストレスが溜まっているのだろう。

そんなところに、妙にちらちらした灯りの変なのがいるので、「ここは俺たちの縄張りだ」とばかり、追い出しにかかったんじゃなかろうか。パトカーのあの白黒のデザインは、いくらモノトーンしか認識できない牛でも、ちょっと変わったホルスタインと勘違いしやすいのかもしれないしね。

それにしても今は草がどんどん生い茂る季節だから、その草が放射能汚染しまくりとはいえ、とりあえず食うには困らないだろうが、秋が過ぎて冬になったら、草も大方枯れてしまい、さぞかしひもじくなってしまうだろう。それを考えると不憫である。

街中よりは田舎に近い方がまだ食べるものはあるだろうから、そっちの方に移動することになるかもしれない。するとイノシシなんかとの生存競争が発生してしまうことになるかもしれない。下手をしてクマとの争いになったりしたら、ちょっと大変だろうなあ。

いずれにしても冬を越す頃には、かなりの牛が息絶えてしまうことになるだろう。そうなったら解剖して、放射能汚染による被害を内部被曝も含めて、明らかにすることができるかもしれない。

それにしても原発警戒区域では、人間はほとんど避難してしまったけれど、動物たち (家畜、野生動物の両方) は取り残されているわけだ。彼らの寿命は短いので、一代の間にはどうということもないだろうが、世代交代が早いだけに、これからいろいろな影響が出てくるかもしれない。

 

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2011年7月16日

今年の夏の歩調がやたら速く感じられるのは

私は常々、七夕を新暦で祝うのは本当に興醒めだと言っている。「梅雨も明けないうちの七夕に、何の意味があるのか」というのである。本来の七夕の季節感については、5年前の「今年は七夕が 2度ある」という記事に次のように書いてある。(この年は 「閏 7月」 があったので、旧暦の 7月 7日が本当に 2度あった)

暑い盛りを過ぎて、日の沈むのが早くなり、夜がだんだんと長くなる。黄昏時を過ぎると、少しは涼しい風が吹き始めて、見上げると、水蒸気に霞んだ夏の夜空とは異なり、星々が清かに輝いている。本来の七夕は、そんな季節感の行事である。

そして、旧暦の 7日というのは、どの月でも上弦の月となるのだが、夏が過ぎたばかりのすっきりとした上弦の月は、舟の形をして、天の川を横切り、あたかも、ベガとアルタイルの間を結ぶように見える。これが、七夕のインスピレーションの根幹である。

今年の梅雨明けは驚異的に早かったが、それでも関東甲信越・北陸・北九州のそれは 7月 9日で、関西・東海でも 7月 8日だった。やはり、新暦の七夕はかなり無理な話なのである。そして、東北などで祝う「月遅れの七夕」(8月 7日に祝う)も、例年ならば少し早すぎる。旧暦 7月 7日は、新暦では 8月中旬頃になることが多いからである。

ところが今年はめずらしく、月遅れの七夕が旧暦の正しい七夕よりもたった 1日とはいえ遅くなってしまうのだ。本来の七夕 (旧暦 7月 7日) は、今年は新暦では 8月 6日なのである。

新暦と旧暦の差は 1ヶ月以上開いていることが多いのだが、今年のように旧暦が新暦にかなり追いついてきて、1ヶ月を切ることもある。そして、追いつきすぎるとおかしなことになるので、時々 「閏月」 を入れて調整する。それで来年の旧暦 3月は 2回あるということになる。それまでは、旧暦はさらに少しずつ新暦に追いついてくることになる。

こうした事情を考えると、今年の梅雨入りと梅雨明けがやたら早かったのも納得がいく。新暦で考えるとずいぶん早かったのだが、旧暦で考えれば、そんなに驚異的に早かったというわけじゃない。関東で言えば、梅雨入りは新暦 5月 27日(旧暦 4月 25日)、梅雨明けは 新暦 7月 9日(旧暦 6月 9日)で、旧暦の 5月はまるまる梅雨だったことになる。

梅雨は昔「五月雨」といったぐらいのもので、旧暦 5月頃の長雨のことである。ということは、今年の梅雨は入るのも明けるのも、決してそれほど早かったわけじゃない。旧暦で考えれば、「フツーのタイミング」だったということだ。

アジアの東端に位置する日本の季節感は、旧暦で考える方が実感的にしっくりとくることが多い。そして今年の夏の歩調の速さも、旧暦で考えれば納得がいく。今年の季節感が新暦で考えるとずいぶん前倒しで推移しているように感じられるのは、旧暦がずいぶん追いついてきているにすぎないとみることができるのである。

気象庁の 3ヶ月予報によると、今年の夏は平年並以上に「暑い夏」になるのだそうだ。そして「暑い夏」とはいえ、「去年ほどの猛暑にはならない」とのことだった。ところが実感としては、「もう十分、去年の夏ぐらい暑いんですけど」という感じになっている。どうしてくれるんだ。

しかしそれも、旧暦で考えれば納得がいく。今年の夏は、もう既にピークに達しているのだ。そして 8月の声をきけば、お盆休みの前に少しはしのぎやすくなっているかもしれない。何しろ今年は、新暦 8月 7日(月遅れの七夕)の時点で、歳時記では秋の季語とされている「七夕」(本当の七夕=旧暦 7月 7日)を過ぎてしまっているのだ。

実際には、何しろ急速に 「温暖化」が進んでいるので、お盆休みの前にしのぎやすくなるなんていうのは、甘すぎる期待かもしれない。しかし、少なくとも今年の夏の暑さはこれからピークになるのではなく、既にピークなのだと考えていいだろうと、私としては思っている。

というわけで、今日もエアコンのスイッチを入れずに、なんのことなく耐えきったのである。

 

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2011年7月15日

庄内弁が私を救う?

一昨日付の "「数字数式認識障害」 とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ" という記事に、シロさんからとても興味深いコメントをいただいた。シロさんは私の(自称)「数字数式認識障害」という傾向について、次のようにおっしゃっている。

おそらく、一種の認知障害のようなものではないかなと思いました。
障害と言うと重く聞こえがちですが、脳の特徴みたいなものです。

うぅむ、実は私もそんなような気がしていた。で、「障害」という言葉について、最近の一部の論調のように「害」という字が差別的だからとかいうくだらない理由からではなく、単に言葉のより正確な意味合いとして、「障碍/障礙」(読みはどちらも同じ「しょうがい」)と書きたいと思っていた。

実際に、上述の記事でも「その後、中学 3年から高校ともなると、私の数字数式に関する障碍はかなり明白になった」なんて書いている。タイトルの「数字数式認識障害」は世の習いで「障害」と表記したが、地の文ではちょっとだけこだわりを通してみた。「碍」は「礙」の俗字で、訓は「さまたげ」 。この方が「障害」より意味として正確だ。

私の脳内には、数字・数式を認識するのをさまたげる要素があるようなのだ。きっとフツーの人が利用する回路よりずっと遠回りの回路で認識してしまうのだろう。だからフツーの人が案外苦もなくこなす「読み上げ算で算盤を弾く」という作業で、私は読み上げに全然付いていけない。

ちなみに上記のコメントでシロさんは、ご自身が「アスペルガー障害」という発達障害を持っていると書いておいでだ。そのために「認知しづらい事がたくさんあり、子供の頃は常に理解できない事だらけで日常的にパニックでした」とおっしゃっている。

私は「アスペルガー障害」については、つい最近までは言葉としては知っていて、知的障害があるわけでもないのに、対人関係などでは難儀なことが多いらしいという程度の知識しかなかった。

ところが私にはアスペルガー障害の息子をもつという知人がいて、彼女は最近、自分の息子と共通した要素を、私に見出すと言いだしたのである。その後にシロさんのコメントがあったので、急に放っておけなくなって、改めて Wikipedia に当たってみたのである。

ウィキでは「アスペルガー症候群」という項目になっているのだが(参照)、読んでいるうちにこれって、下手したら本当に自分もその症状を発現する可能性が、かなり高かったんじゃあるまいかという気がしたのである。ちょっと引用する。

彼等が苦手なものは、「他人の情緒を理解すること」 であり、自分の感情の状態をボディランゲージや表情のニュアンス等で他人に伝えることである。多くのアスペルガーの人は、彼等の周りの世界から、期せずして乖離した感覚を持っていると報告されている。

(中略)

アスペルガーの子供は、言葉で言われたことは額面どおり真に受けることが多い。

(中略)

通常であれば日常生活で周囲の人の会話などから小耳に挟んで得ているはずの雑多な情報を、アスペルガーの人は (アスペルガー特有の “興味の集中” のため) “聞こえてはいる” ものの適切に処理することができないことが考えられる。

うむむ、私ってば本当に、確実にその一歩手前の人間だ。例えば、私は喜怒哀楽の感情を否定しはしないが、それを人前で露わにするのはとても恥ずかしいことと思っている。いや、むしろ感情を露わにする術を知らない人間といっていいいかもしれない。

それで若い頃は、目の前に喜怒哀楽を露わにする人間が現れると、どう対応していいか分からなくなっていた。最近でこそ経験から学んで、それなりにおどしたりすかしたりする対処法を身につけたが、以前は本当にどうしていいかわからず、途方に暮れた。

とはいえ私はこれまでに、辛うじてアスペルガー障害と言われずに済んでいるようである。なぜそうならずに済んだのかと考えて、自分が庄内という地域に生まれたことが、これまで思っていた以上の僥倖だったのではないかと思い当たった。

もし、母国語として日本語の標準語しか持ち合わせていなかったとしたら、私は多分、言葉を額面通りに受け取り、行間の意味やニュアンスなどということは思いもよらず、対人関係に困難を覚え、周囲から乖離したと感じる人間になっていたような気がする。

そうならずに済んだのは、ひとえに庄内弁のおかげのようなのだ。庄内弁というただただ情緒的で、言葉そのもの以外のところにそこはかとない意味を隠していて、濃密な人間関係の中でしか通用しないメディアを自然に獲得したことで、私はようやく自分自身の心的傾向を補完することができたのだろう。

前にも書いたことがあるが、私は幼い頃からラジオ少年で、言葉はラジオで知ったようなところがある。庄内弁に馴染むより先に、ラジオから聞こえる標準語に馴染んでいたような気さえする。だから、庄内弁は後天的に獲得した救いであったかもしれない。

私は自分が二面性をもつと意識している。標準語、あるいは英語でものごとを考えている時の私は、非常に論理的で、一つのことにものすごく集中できて、しかも時々やたらと直観的である。そう言うと少しはカッコいいが、しかし、アスペルガー障害の一歩手前であるかもしれない。

そうした心的傾向を辛くも希釈しているのが、私の中の庄内弁なのだ。庄内弁でものを考えると私は、「俺って、なんていいヤツなんだ!」と感動することさえある。これは、私の本質が「いいヤツ」というよりも、庄内弁思考が私を土壇場で「いいヤツ」に導くのだ。

私が故郷を離れて 40年以上になるのに、今でも庄内弁を忘れず、つくばの地で家族に向かってさえ時々庄内弁で話す(おかげで、ウチの家族は庄内弁のヒアリングはかなりのレベルである)のは、私自身のバランス感覚がそれを必要としているからだと気付いたのである。

そしてこれこそが、alex さんがコメントしてくれた私の「東北的な情念の世界」の正体なのかもしれない。

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2011年7月14日

「世俗の富」のメタファー

あの震災から 3週間ぐらいしか経っていない 4月 6日に「壊れた 「ぐし瓦」 とブルーシート」という記事を書いた。ちなみに「ぐし瓦」は単に 「グシ」 とも言って、屋根の棟の部分(てっぺんの直線部分)を覆う瓦のことである。その記事に、「岳父が瓦職人をやってた」とおっしゃる犬千代さんから次のようなコメントをいただいた。

グシは、家によっては5段、7段と積み上げているのですが、あれはいわゆる「富の象徴」だそうで、お金をかけているおうちでは、7段とか、重ねているそうですよ。

ぐし瓦をそんなに積み上げる風習があるとは知らなかった。しかもそれが、「富の象徴」 だったとは。確かに、いかにもお金を持っていそうな総檜造りの御殿みたいな家の「グシ」は、やたらに周囲を圧するように盛り上がって、妙に目立っている。それが瓦を 5段も 7段も積み重ねていたのだとは(多分、縁起の問題もあって奇数なのだろう)初耳だった。

「富の象徴」という意味では、「うだつ」のようなものなのだろう。うだつは本来、防火壁として隣家に近い屋根に取り付けたものだが、江戸時代以後は富の象徴として、屋根のてっぺんに取り付けられるものも出てきた。それで、儲からないことを「うだつが上がらない」なんていうようになった。

せっかく「富の象徴」として積み重ねたグシも、その重心の高さゆえに今回の地震に耐えきれず、ガラガラと崩れ落ちて割れてしまうという災難が続出したわけだ。我が家の周辺にも、震災後 3ヶ月経ったのに相変わらずブルーシートで覆われた屋根がたくさんあって、気の毒なことである。

それにしても地震国という事情よりも、不安定な代物を積み上げて「富の象徴」として周囲に見せびらかしたいという、かなり不条理な欲求が勝ってしまうというのも、人間心理のおもしろいところだと思うのである。

グシばかりでなく、周囲の家では大谷石の塀とか、石灯籠とかも結構崩れてしまっている。大谷石の塀は、ブロック塀みたいに心棒を通さないでただ積み重ねただけなので、崩れる時にはあっさり崩れる。崩れるだけならまだいいいが、無惨に割れてしまったりしたら、もう使い物にならない。

我が家の周囲は無駄に盛り上げたグシとか、豪勢な大谷石の塀とか、庭の石灯籠とか、コンベンショナルな、見方によっては成金趣味の装飾を施した家が結構たくさんある。こうしたものは、大きな地震が来ると崩れて落ちてしまうという点で共通している。何しろ、きっちりと接合してあるのではなく、重力頼みで積み重ねてあるだけなのだから。

私なんぞは、ごくフツーの小金持ちが、何のために不安定に高いグシをあつらえ、大谷石の塀で家を囲み、照明をおくわけでもない石灯籠を庭におきたがるのか、理解できないところがある。

とくに役に立つというわけでもない「富の象徴」が地震で脆くも崩れ去って、それをまた懲りもせずに復旧したがるというメンタリティは、世俗の「富」 というものの本質を示すメタファーという気もする。よく考えてみればたいして役に立つわけでもない「富の象徴」を、際限なく再構築していくことが「世俗の富」なのだ。

なるほど、「富める者が天国に行くのは、らくだが針の穴を通るより難しい」とイエスが言ったのも道理である。この言葉の「富める者」は、世俗の富にうつつを抜かす者のことなのだ。

 

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2011年7月13日

「数字数式認識障害」とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ

emi さんが「数字」に関するブログ記事を書いておられる(参照)。「数字から離れると、芯の強い、澄んだ記憶を残せるような気がする」というのである。彼女は 「電話番号のメモリー機能はボケにつながる」という説についてもこう論破する。

電話をかけるという行為に
余計な数字を介在させる手間が省けるようになったのだ。
もともと「人に話しかける」という行為に必要なのは
“名前”や“顔 (写真)”であるはずなので
番号で覚えていたことの方が不自然。
言ってみれば、メモリ機能によって
電話をかけるという行為はやっと人間らしさを取り戻したのだ。

嬉しいことを言ってくれるではないか。私のような超文系人間は、こういうのを読むと心の琴線がビンビンと振動する。

私は 4ケタ以上の数字は語呂合わせをしないと覚えられない。例えば大政奉還の年の 1867年は、そのまま「1867」という数字として記憶することができない。というのは、それは私にとっては 「せんはっぴゃくろくじゅうなな」 という手に負えないものでしかない。だから 「一発論なの大政奉還」なんて覚えるほかないのである。

とはいえ自慢じゃないが、私の小学校の頃の通信簿はいつも「オール 5」に近い状態で、テストなんか 100点が当たり前。たまにケアレスミスかなんかで 98点を取ったりすると、ビミョーに悔しく感じるというような子供だった。

ただし素行面がかなりノー天気に雑だったので、教師からも周囲の友達からも、いわゆる「優等生」とは全然思われておらず、尊敬もまったくされていなかったが、学業だけでいえば、常に苦もなくトップだった。どう間違っても、トップ以外になりようがないというような子だったのである。

その断トツの学業成績の私が、自分の数字を認識する能力に根本的な疑問を抱くきっかけとなったのが、小学校 4年から始まった算盤の授業である。今はどうだか知らないが、当時は小学校 4年生の算数の授業で、算盤が必修になっていたようなのだ。

算盤の授業では、教師が「願いまして~は、398円なり、64円なり、1,252円なり ……」なんていう読み上げ算とやらをするのだが、この読み上げ算に全然ついていけない子がクラスで二人いた。一人は他でもない、成績トップの私。もう一人は、成績ビリの MK 君だった。

周囲では、MK 君ができないのは不思議じゃないにしても、私ができないのは、例によってマジメに取り組んでいないだけなのだと思っていたようだ。しかし実際に、マジでついていけないのである。

読み上げ算が始まるとすぐに、私は一種のパニック状態に陥る。耳から入ってくる数字が、数字として聞こえないのだ。単に「音声」でしかないのである。「さんびゃくきゅうじゅうはちえんなり」という「音声」を「さんびゃくきゅうじゅうはち」という「言葉」として確認し、それを数字の「398」に変換するのに、かなりうっとうしい努力と手続きが必要になる。

さらにそれを算盤の珠の動きに変換し直さなければならない。気の遠くなるような脳内作業が必要なのである。しかし教師の読み上げは、そんなことにお構いなくどんどん先に進む。なんてデリカシーのない授業だ。これじゃ、一種の「いじめ」だ。

早々に諦めて目の前の算盤をガチャガチャにかき回しながら周りを見ると、クラスの連中はちゃんと指先に集中している。「こいつら、スゲェ!」私は素直に驚嘆した。「こんな神業みたいなことを、どうしてそんなに苦もなくやれるんだ !?」

その後、中学 3年から高校ともなると、私の数字数式に関する障碍はかなり明白になった。教科書に出てくる数式が、理解はできるけれど、覚えられないのである。記憶に収まらないのだ。それで、つまらない数学の授業はほとんど寝ているか、学校から抜け出し、庄内砂丘のど真ん中で空を仰いで寝ころんでいるかのどちらかということになった。

そんなわけだから、高校時代の試験では、文系 3科目の合計点と、数学・理科を合わせた 5科目の合計点が、あまり変わらなかった。

学校以外ではほとんど勉強なんてしなかったが、文系 3科目では何てこともなくトップクラスなのである。授業に出てさえいれば、そのくらいの点数は取れた。「これ以上、何を勉強すればいいの?」なんて思っていた。ところが理数系は授業もまともに受けていないので、さっぱりわからないのである。

私は長年、「もっとちゃんと勉強してさえいれば、理数系ももう少しまともな点数を取れていたはずだ」と、内心で弁明し続けてきたが、最近ではそれすらも怪しいものだと思うようになっている。

とにかく、数字や数式が出てくると、頭の中がパニくってしまうのだから、どうせまともな勉強なんかできなかったに違いないのだ。「もっとちゃんと勉強してさえいれば」という前提は、こと私の理数科目に関する限りは、成立しないんじゃないかと思うのである。

私自身の名誉のために付け加えるとすれば、弱いのは「数字と数式の認識」に関してであって、論理展開については、全然パニックにならずに済む。だから、定理や公式の意味はことごとくきちんと理解できるし、相対性理論とか素粒子論などの文献を読むのもほとんど苦にならない。

これらの分野に関しては、その辺の「数学や科学は、誰が考えても答えが一つだからいいんだ」なんてノー天気なことを言っているフツーの理数系よりは、きちんと理解しているという自信がある。

問題は、あくまでも「数字と数式の認識」なのだよ。視覚的に認識されるのはその「映像」だけで、意味のあるものとして「読んでいる」のではない。さらにそれらを読んでも聞いても、直接的には「音声」としてしか認識されず、意味のあるものにならないのは、前述の通りなのだ。

きっと、脳内の数字・数式を取り扱う回路に何らかの欠陥があるに違いない。あるいは欠陥でなければ超未成熟なのだ。だから、私が少しでも世の中のためになろうとするならば、数字とはあまり関係のない分野で生きるしかないのである。

脳科学の世界では、きっと「識字障害(Dyslexia)」に準じたような名前が付いてるんじゃあるまいかとさえ思うのだが、ちょっとググっただけでは見当たらない。だったら、個人的には暫定措置として「数字数式認識障害」とでも言っておこうか。

ああ、これってなんて魅力的なエクスキューズなんだろう。

 

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2011年7月12日

家庭の一般ゴミから高濃度のセシウムが出たということは

茨城県内の複数の下水処理場で処理した汚泥の焼却灰から高濃度のセシウムが検出されたと報道されたのは、2ヶ月も前のことだった(参照)。これは「さもありなん」と思っていたから、それほど驚きもしなかった。

雨水の溜まるところは小さなホットスポットになりやすく、その雨水が集中的に流れ込むのだから、2ヶ月前の下水処理の汚泥は、さぞかし放射線の値が高かろうと思っていた。そして福島原発の水素爆発からだいぶ時が経ったので、少しはマシになりつつあることを期待していた。

しかし、そうでもないようなのである。今度は千葉県の印西地区のゴミ焼却場から発生した焼却灰から、1kg 当たり 1万ベクレル以上の放射性セシウムが検出された(参照)。これは家庭から出た一般ゴミの焼却灰から検出されたということなので、ちょっと驚いた。

柏市では、放射線量を下げるために一般家庭が庭の草刈りをしたり、樹木の枝や葉の剪定をして可燃ごみとして出したため、数値が上がった可能性があると話しているという。しかし私は、そればかりではないと考えている。

節電が呼びかけられて、多くの家庭ではエアコンの使用を控え、窓を開け放している。当然我が家もそうしている。そうすると、微細な砂埃が風に乗って家の中に舞い込む。我が家は田園地帯の一角にあるので、案外ばかにならないほどの砂埃が舞う。風の強い日などは床が微妙にジャリジャリすることもある。

それを掃除機で吸い取る。ちよっとした「除染」だ。吸い取ったゴミは、たいてい「可燃ゴミ」として出される。ゴミパックの中にかなりの割合で砂埃が混じっていたとしても、それを選り分けて「不燃ゴミ」として出す律儀な人なんかいない。

というわけで、私は掃除機で吸い取られた砂埃がセシウムを含んでいるんじゃないかと疑っている。周り中の土の表面が、広く放射性物質をかぶってしまっているのではなかろうか。その土で育った野菜からは、それほど高い濃度の放射性物質が検出されないとしても、土そのものが高い数値を示すのは当然だろう。

いずれにしても、千葉県の家庭から出された一般ゴミがそんなに放射能汚染されているのだから、関東は既に広範囲に汚染されてしまっていると考えるべきなのだろう。やれやれだ。

【お断り】

当初 10日付で既載の記事ですが、10日付が 2本になったため本日の記事とさせていただきました。

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2011年7月11日

エアコンを使わない夏 4

一昨日の 「エアコンを使わない夏 3」 という記事に、先輩 alex さんから

エネルギー問題については、波長のあった議論が容易では無いようですので、勝手ですが、この辺でサスペンディッドとさせていただきたいと思います

というコメントをいただいた。私も、そろそろサスペンディッドのタイミングかなあと思っていたのだが、念のためその後に、かなり長いレスを書いて一応のケリを付けようかと思った。ところが、そのケリの付け方が思いの外にヘビーなものになった気がするので、改めてここで一本の記事にしたいと思うのである。私も自分が思っていた以上にしつこい。

原発問題に端を発したエネルギー問題で、いわゆる「原発擁護派」と「反原発(脱原発を含む)派」 の議論がかみ合わない要因は、端的に言えば、原発を経済的側面から語るか、倫理的側面から語るかの違いなのではないかと思っている。

これに関しては、既に先月 21日に「原発は経済問題である以上に哲学的問題である」という記事でも述べている。この問題に関して、きっしーさんは行動経済学の観点から、「それでも私は経済的問題だと思います」とコメントされているが、経済に素人の私としては恥ずかしながら、倫理的、哲学的問題と捉える方がピンとくる。

私は原発問題に関しては「世代間倫理」を無視しては語れないと思っている。つまり、核廃棄物処理という難題を、子孫に丸投げしてしまうという身勝手は、いかがなものかというのが根底にある。

そのため、いわゆる経済的側面に関しては、やや軽視しているということも自覚している。そこまで無自覚なお気楽ノー天気というわけではないのだが、経済を成長・維持することを至上命題とする考えからは、「おとぎ話」と思われてもしょうがないだろう。私としては、この状況で経済成長にこだわる方が、ずっとおとぎ話に思えるのだが(参照)。

ちなみにきっしーさんからは、行動経済学の視点からの指摘をいただいているので、かなり困難なことではあるが、この視点からの議論もする価値があるだろう。

「世代間倫理」に関しては、義務とか権利とかいう近代的法律論に立脚した価値観からは矛盾も指摘されている。しかし端的にいえば、「自分さえよけりゃいいというのは、ヤバイよね」というごく当たり前の倫理を、中長期的な時間軸においても適用しようという考え方と理解している。

「そのためには、かなりのガマンもしなきゃね」ということにもなって、それが価値観のパラダイムシフトにもつながる。あの震災以後、このパラダイムシフトを実感している人は少なくない。

節電のための「脱エアコン」からわかることは、単純に言うと、「ガマンも、してみると結構いいもんだよね。単純な欲求の実現のみが幸福ってわけじゃないとわかるよね」というようなことだ。これは、やってみるとわかる。つまり「真夏にエアコン無しなんて、まっぴらご免」と思っている人には、わからないかもしれないということだ。

さらに経済学的にも新しい視点から「自然環境の経済価値」「自然資本」というものが見直されていて、短期的視点の開発は、既に与えられているかなり大きな経済価値を損なうことで、実は損失なのだという指摘もある。新しい視点を加えて計算してみると、確かにそんな結果が導き出されるのである。

まあ、仏教徒である私としては、すべての小理屈は御仏の前では詭弁だと思っているので、「そうも言えるかもね」ぐらいに認識している程度ではあるのだが、「そんなことは思いもよらなかった」という人には、ちょっと知って頂きたいと思うぐらいの価値はある(参照)。

ちなみに「すべての小理屈は詭弁」ということの理論武装(?)は、「論理思考の限界」という記事で述べてある。この記事、alex さんからは「飛躍がある」とご指摘頂いているが、私個人としては、それほどの飛躍があるとは思えないどころか、ごく当たり前のことと認識しているんだがなあ。

「詭弁」というのが抵抗ありすぎという方には、「方便」と言い換えてもいいと思う。「方便」はそれほど悪い意味ではない(参照)。

自然エネルギー活用促進の、決定的な方便ってないものかなあ。

 

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2011年7月10日

エアコンを使わない夏 3

昨日、関東甲信越と北陸、北九州の梅雨が明けたらしい。平年より 10日から 2週間も早い梅雨明けだそうである。印象としては、自分の誕生日(7月 26日)のちょっと前に梅雨明けになるという気がしていたから、いずれにしても今年はずいぶん早い梅雨明けである。

思い出してみれば、昨年は 14日に九州に出張していて、この時は梅雨明け直前の豪雨で、九州北部の交通網がずたずたになっていた。まあ、私の晴れ男の威力で、結局はあまり影響を被らずに仕事はうまくいったのだが、今年は同じ九州でも南部の豪雨がひどかったようだ。

梅雨が明けてみると、昨日の暑さなんかは一昨日までとはレベルが違うという気がした。つくば周辺でも最高気温が 34度に達している。猛暑といわれた昨年でも、今の時期にはこんなにはならなかったと思う。

まあ、それでも私としてはエアコンのスイッチを入れない抵抗を続けていて、この夏はまだ、エアコンのコンセントをはずしたままである。体に暑さに対する耐性がついたようで、このくらいはまだなんとかなる。同様にエアコンを点けない暮らしを選択した友人知人も多く、「健康なうちは、汗を流している方が気持ちいいってわかったよね」なんて話している。

一昨日も触れたが、こうしてエアコンに頼らない生活をしていると、「生産性」などに関するコンセプトのパラダイム・シフトが自然に生じてしまう。世の中は長い目で見れば、そっちの方向に変わっていくんだよねという予感がする。

アゴラに 日本のエネルギーパラダイムの転換 という田二谷正純氏の記事がある。田二谷氏については、私はほとんど何もしらないが、好記事だと思うので、ご一読いただきたい。氏が高く評価している EC の自然エネルギー志向が、フランスの原子力発電に依存しているという指摘については、次の記述に注目するといいだろう。

再生可能エネルギー導入で疾走する欧米諸国では高価で不安定な電力を抱えて隘路に入り込んでいるのか、原子力依存を多国間電力網で希釈しているのか、その実態を自らの手で分析していただきたい。

「原子力依存を多国間電力網で希釈」というのが、日本ではなかなか困難だが、別に 「多国間」 でなくても一国内で 「原子力依存を希釈」 することは十分可能だと思うのだ。

 

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2011年7月 9日

Firefox 5 で Google toolbar を使えるアドオン

Fierfox 5 が先月(だったかな ?)公開され、私もごく軽い気持ちでアップデートしたら、なんと Google toolbar が新バージョンに未対応で、使えなくなっていた。私はこの Google toolbar を非常に重宝して使っているので、これじゃヤバイというわけで、その日のうちにそそくさと Firefox を Ver.4 にダウングレードして昨日まで使っていたのである。

ところがふとしたことで、Firefox 5 未対応のアドオンを使えるようにするためのアドオンというのが見つかり、インストールしてみたら、Google toolbar がフツーに使えるようになった。同じ問題でアップデートを見送っている人のために、情報をお伝えする。

Add-on Compatibility Reporter 0.8.5 というもので、 こちら で入手できる。本来の目的は、サイトにも明記してあるように 「あなたのお好みのアドオンが、予定されている Firefox のリリースに追いつくようにレポートする」ということで、それにあたって、古いバージョン向けのアドオンも、とりあえず機能させるサービス付きということのようなのである。

やり方は簡単だ。とりあえず、Add-on Compatibility Reporter のサイトで "Add to Firefox" ボタンをクリックしてインストールし、Firefox を再起動したら、メニューバーの「ツール」から「アドオン」をクリックする。すると、新しいタブで見慣れないページが開く。

ここで驚かずに、おもむろに左のサイドバーから「拡張機能」をクリックし、右側の "Google toolbar For Firefox なんたらかんたら" を選択して「互換性」のプルダウンメニューから、「このアドオンはまだ使えます」にチェックを入れる。そして Firefox を再起動すれば、あの懐かしい Google toolbar が表示されているはずである。

あっけないほど簡単で、しかも悪さをする様子もない。Google toolbar だけでなく、他の未対応のアドオンも利用できるようだ。Firefox は今後も矢継ぎ早のバージョンアップを予定しているみたいだが、とりあえず、このアドオンがあれば急場しのぎはできそうだ。

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2011年7月 8日

エアコンを使わない夏 2

先月末に近い 28日の「エアコンを使わない夏」という記事で、私は「意地でもエアコンのスイッチを入れていない」と書いた。それは暑くなってからだけではなく、震災以後、お彼岸のあたりでもかなり寒い日があったのだが、暖房も金輪際入れていないのである。つまり、あの 3.11 以後、我が家のエアコンは無用の長物と化しているのだ。

7月に入ってさらに暑い日が続いているが、エアコンのスイッチはまだ入れていない。猛暑日になったら、いくらなんでも冷房を入れるかもしれないと書いたら、親愛なる先輩 alex さんに「ふだんはエアコンを使い、猛暑日のピーク時に我慢をすると言うのが現実的な対処」とご指摘頂いた。

しかし、節電に関する数字の理屈だけでいえばその通りかもしれないが、実際問題として、普段は涼しい環境で仕事をして、猛暑日のピーク時だけはエアコンを切るというのは、かなりリスクがある。その時だけ我慢するなんてことは、多分無理だ。人間の体はそんなに都合良くできていない。

私としては、普段からエアコンを切って暑さに対する耐性をつけておきたいと思うのである。そうすれば猛暑日の真昼でも、窓を開け放してソファにひっくり返るぐらいでやり過ごせるかもしれない。明日は関東も梅雨明けになりそうだ。ますます暑さが当たり前と思える体にしておこう。

というわけで、今日も首に濡れタオルを巻き付けて PC に向かっている。サーキュレータ 2台で、デスク周りの最も効率的な風の通り道を確保してあるので、そんなに暑苦しいという気はしない。

それはもちろん、我が家が風の渡る川のほとりで、その川の向こうは田んぼが広がり、四方の窓を開け放てば家の中を、少しは涼しい風が通りすぎるという環境のせいかもしれない。お陰様で快適とまではいかないが、バテバテというような感じでもない。お盆過ぎに疲労が蓄積してひっくり返るというような気も、今のところはしない。

日経ビジネスオンラインに 「エアコンを止めて分かったニッポンの夏の過ごし方」 という小田嶋隆氏の記事がある。この中で氏は 「最初に率直なところを述べる。この猛烈な暑さは、実地で体験してみると、案外、悪くない」 と述べておられる。

「懐かしいというのか、なんだか自分がスイカ割りをしていた子供の時代に帰ったみたいで、幻想的な気分になる。うっとりすると言っても良いほどだ」というのである。それは同様にエアコンなしの暮らしを始めた私としては、とても共感するところである。

小田嶋氏は「オフィスの節電は、生産性の低下につながる」とおっしゃる。それは私が「コックピット」と称する我が家の超スモール・オフィスでも同様である。生産性は確かに少々落ちている。しかし氏は「が、一面において、生産性の一時的な低下は、働く者に余裕をもたらす作用も持っているはずだ」と書かれている。

「生産性が低下したら収益も低下して、収入も減り、余裕もなくなる」というのが常識的な考え方だろうから、「何をバカなことを」と言われるかもしれない。しかし真夏の一時期、昼休みを 3時間にしたり、長期にわたるバカンスを取ったりすることが、そんなにばかげたことだろうが。

思えば真夏は昔から、自然の摂理に従って生産性を下げる季節なのである。日本は真夏の生産性を無理矢理に維持しすぎてきたんじゃあるまいかと、最近つくづく思う。

 

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2011年7月 7日

日本マイクロソフトの新年度方針から見えてくること

日本マイクロソフトが昨日、2012年度経営方針を発表した。私としては、MS はもうビジネス向けに注力して、コンシューマー向けには余計なことをしないでもらいたいと思っているのだが、新年度は「デバイス/コンシューマー」が大きな柱となるんだそうだ。やれやれ、個人消費者と中小企業は、またしても余計な面倒を強いられるのかなあと、一瞬思った。

ところが、そうでもないらしい。何しろ OS の新バージョン Windows 8 への言及がない。いや、もしかしたら少しは触れたのかもしれないが、記事にするほどの重要性がなかったということなのかもしれない。いずれにしても、Windows 8 は 2011年末から 2012年頃になるものと言われているのに、今回の発表ではほとんど触れられていない。

MS としても、OS の頻繁なバージョンアップには市場が嫌気をさしていると見て取ったのかもしれない。しかも、報道されている新バージョンのユーザーインターフェイスは、これまでとはずいぶん違ったものになるみたいで、ユーザーとしては期待よりもうんざり感の方が強く、OS が一服してくれる方が、逆にありがたい。

思い返せば、MS Office 2007 になった時のユーザーインターフェイスの大幅変更で、既存ユーザーはどえらく混乱した。Office ソフトの扱いに関してはベテランの私の作業効率が、一時的にビギナー・レベルにまで落ち込んでしまったほどである。

OS の初期画面が変更されたら、Office の場合以上の混乱になることは確実だ。これだけ普及したシステムの基本部分で、お気楽に大幅変更をされたら、自動車だったら命がいくつあっても足りない。

MS のいう「デバイス/コンシューマー」への注力は一つには、これまで消費者向け製品で縦割りだった OEM やリテールの事業を、新設の「コンシューマー&パートナーグループ」に統合するということのようだ。縦割りではそれぞれの部門のプッシュや小回りはきくが、全体として無駄なコストがかかりすぎていたのだろう。

要するに、OEM  と リテールの分野では、MS はやや守りに入ったということだ。アグレッシブに余計なことをしまくらないでもらいたいという私の観点からは、とてもありがたい。

一方で Windows Phone を筆頭に、PC、スレートPC、ゲーム機、などの分野で新たなチャレンジを行うという方針が強調された。Windows Phone は iPhone や Android に比べて大幅に出遅れているが、何とかなると思っているようだ。いずれにしても新分野では、PC の Windows みたいな圧倒的シェアを取ろうとは思っていないみたいなのである。

Windows Phone 7 については、「日本は PC とスマートフォンを両方作れるメーカーが多く、PC との連携で差別化を図れる」 と言っているようだが、このコンセプトは既に時代遅れだと思う。Apple は iOS の次期バージョンで 「PC フリー」 になると発表しているぐらいで、スマホと PC の連携を望むのは、一部のビジネス・ユーザーだけだと思うがなあ。

というわけで、マイクロソフトは徐々に 「圧倒的なジャイアント」 ではなく、「普通の大企業」 に変わりつつあるようなのだ。

 

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2011年7月 6日

「朝間(あさま)」「夜間(よんま)」という庄内弁

鶴岡(庄内平野で酒田の南隣の市)の田中宏さんが、今朝 Twitter で「あさまだー」と tweet されていた(参照)。これは「朝はまだか?」と聞いているのではなく、庄内弁で「朝だー」とおっしゃっているのである。漢字で書けば「朝間だー」ということだ。

共通語では「朝間」とはほとんど言わない。『大辞林』で探しても、見出し語になかった。「昼間 (ひるま)」という言い方はまだかろうじて残っていると思うが、不思議なことである。庄内弁では「夜間 (「やかん」ではなく「よんま」)」まであるのに。

もう少し深く探ってみると、共通語では「昼間」と言って「朝間」と言わないのは、朝夕の場合は「朝間/夕間」ではなく、「朝方/夕方」になるからだろう。この辺、庄内では「朝間/夕方」となる変則バージョンだ。

夜明けから順番に言うと、夜明げ(「げ」と訛る)→ 朝間(あさま)→ 昼間 → 夕方(「ゆうがだ」と訛る)→ 晩げ → 夜間(よんま)→ 夜中(「よなが」と訛る)という感じだろう。この中で、「朝間(あさま)/ 夜間(よんま)」は、さすがに庄内でも死語に近づいているようだ。

ちなみに「夜間(よんま)」は共通語の「夜」と同様に、広義には晩げと夜中を含む。そして、庄内弁には「宵」なんていうハイカラな言葉はない。言うとしたら、都言葉からの 「外来語」 としてである。

ちなみに「夕間暮れ」という言葉があるが、その語源は『大辞林』によると「夕+目暗れ」で、「夕間+暮れ」ではないらしい(参照)。さすがに庄内でも「夕間」とは言わない。夕方は「間」の字を付けるほど長く継続しないで、あっという間に日が暮れるからだろうか。

 

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2011年7月 5日

「傷つけた」んじゃなく、「怒らせた」んだろうよ

例の松本龍復興相が昨日記者会見し、例の被災地での発言について陳謝した。ただ、その際の言い草が、「結果として被災者の皆さまを傷つけたのであれば、おわび申し上げたい」というかなりズレたものだった。

東北出身の人間として言わせて頂くが、お生憎様、東北人はそんなことで傷ついたりするほどヤワじゃない。「結果として傷つけたのであれば」なんて言うこと自体が、このおっさんの「とりあえず上から目線で一発かましておく」というはしたない方法論しか知らない思い上がりを如実に示している

「あんたは被災者を『傷つけた』んじゃなく、『怒らせた』のだよ」 と、わからせてやらなきゃいけないのだが、多分わからないだろうなあ、この人。

このおっさんにとっては、怒るのは常に自分で、相手は常に、それによって少々傷つくかもしれない存在でしかないのだ。そして一発かまして少々へこませておき、後で少し気を使ってやれば、そいつはずっと自分の子分になるぐらいに思っているのだろう。

東北人はかなりむっときても、その怒りを表現するのが下手だ。というか、怒りに点火するのが遅い。応接室でちょっと待たされたぐらいでぶち切れる九州人とは、ずいぶん違うのだ。

村井宮城県知事も大阪出身というのに、だいぶ東北の空気に染まったとみえて、会見直後は 「地元のことをよく分かっている方が大臣に就任して喜んでいます」などと、「九州人だから、東北は何市が何県だかわからん」というお馬鹿発言を受けたにしては、ずいぶん穏やかな皮肉を言う程度で済ませている。

しかし宮城県民としては後になってから怒りに火がついて、県庁に怒りの電話が続々あったらしい。本来なら県庁ではなく民主党本部に電話すべきなのだが、その辺がまだまだおとなしいところである。それでも、東北放送の怒りは本物だった。

松本氏としては辞任を否定しているらしいが、さっさと辞めた方が復興が進む気がする。いずれにしてもこのおっさんが復興担当大臣では、被災地現場は寝覚めが悪い。さらに野党からの追及に対しては「自然体で参ります」なんて言っているようだが、この人の「自然体」は、さぞかしうっとうしいだろうなあ。

【追記】

松本氏はやはり辞表を提出した。当然だ。この人がこのままこの職に止まったら、進む復興も進まない。「菅首相では復興は進まない」と言われているのと同じ理屈だ。

 

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2011年7月 4日

この人とうまくやれと言われても、被災地現場は途方に暮れる

こんなこと私がブログで書くまでもなく、皆さんとっくにビックリ呆れておいでだろうけれど、私も一応ビックリ呆れているということを表明するために敢えて書いておく。あんまりくだらなすぎて、わざわざ書くのも不愉快なので、極力短めに。

当然ながら、松本龍復興担当相のお話である。

宮城県知事と会談した際の恫喝発言は、東北放送のグッジョブですっかり放送された。この人、公務で被災地を訪問するのに、自分が「お客さん」だと思っていたようなのである。岩手県知事との対談でもサッカーボールを蹴りこんだり、ずいぶん傲慢な態度だったようだ。

被災地の現場としては、「この大臣とうまくやれと言われても、ぶっちゃけ無理だぜ」と思ったはずだ。「知恵を出さないと助けない」と言う民主党政府自身がこれまで、何の知恵も出してこなかったし、「コンセンサスを得ろ」なんて言っても、今はそんな呑気なことを言ってる場合じゃなく、できることからとりあえず着手していくしかないだろうよ。

まあ、この手のおっさんは何をやらせてもまず、傲慢に文句を言うところからしか入れないんだろうが。

菅首相は民主党内でも孤立してしまって、現状としては最も重要な任務を負うべき大臣に、こんな人しか起用できなかったようなのである。悲しいお話で、日本はこの大事な時に最も困った人を首相に据えてしまっているわけだ。

【追記】

このおっさん、応接室に通された時に、知事が先に来て待ってなかったことに腹を立てて叱責したということになっていて、それを「正論」と評価する人もいるらしいけど、私の経験則からすると、こちらが訪問したらまず無人の応接室に通され、ソファに座ってちょっと落ち着いたあたりのタイミングでホストが現れるのがごく普通だ。

県知事だって忙しいんだから、応接室に張り付いてまで待っている必要はない。「大臣がお見えになりました」と聞いてから「はい、今行きます」で、十分のはずだ。応接室じゃなくて、知事室に直接通すというなら話は別だけど。

応接室に通されたら既に相手が待ってたこともあるけど、それは上下関係や「一方的な利益を供する/供される」 という関係が明確な場合の、「下にも置かぬおもてなし」という非常にレアなケースだ。宮城県民は決して「国の慈悲にすがって金を恵んでもらう弱い立場」というわけじゃないから、応接室で揉み手して待ちかまえる必要なんてない。

それから、このおっさんの態度は、中央と九州のマスコミには「また始まった」ぐらいに思われるだけなのかもしれないが、東北の純朴なマスコミには、かなりかちんと来たんだと思う。東北人は滅多に怒らないけど、怒らせるとコワイよ。

 

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2011年7月 3日

「吹き戻し」 は単なるオモチャにとどまらないらしい

「吹き戻し」ってご存じだろうか。仕事関係で頂いたのだが、昔(今でも?)、よく縁日で売られていたやつだ。口にくわえて風船を膨らますように息を吹き込むと、丸まっていた長い紙筒のようなのがヒュルヒュルっと伸びて、口を離すとクルクルっと戻ってくる、例のアレだ。

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これって、ただのオモチャに止まらず、最近は医療補助器具としても用いられているらしい。口腔周囲筋を強化でき、呼吸機能障害、発声障害、嚥下障害者へのリハビリ用品として病院などで利用されているというのである。

最近肺炎で入院した私の父も、そういえば近頃、誤嚥でよくむせていた。高齢者は誤嚥しがちになり、肺炎の原因にもなるらしい。これを頂いた時は、父にプレゼントしようかと思っていたが、病院の検査では既に肺の組織が既にかなり壊れていて、無理はきかないという。

この吹き戻しは、「レベル 2」というもので、抵抗がかなり大きい。腹筋に力を込めないとヒュルヒュルッとは伸びてくれないのである。今の父の体力では、この吹き戻しを吹くのはもはや無理だろう。残念だが、ちょっと遅かった。

仕方がないので、近頃、自分でこれを使っている。口にくわえて一気に 50回ほどヒュルヒュルと伸ばしたり丸めたりを繰り返すと、かなりの運動になる。腹筋にくる。毎日これをやっていれば、ダイエットにいいかもしれない。うまく痩せられたら報告したいと思う。

 

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2011年7月 2日

さすがにバテた

酒田の父の世話は妹に任せてある。妹の旦那は家事がまるでできない人で気の毒だが、我慢してもらっている。恐縮である。

一昨日、車で東京都内の妹の家まで運転し、当座の生活道具と着替え、洋裁仕事に使うミシン 2台、ペットのウサギとウサギ小屋などを積み込んで、酒田までミニ引っ越しをした。そして昨日は病院に行って主治医に詳しい話を聞き、そのまま運転して逆戻りしてきた。往復約 1,000km を 2日でこなすのは、やはりしんどい。

40代の頃までは、2日間で 100マイル(約 1,600km)ぐらい運転しても全然平気だったが、やはり来年還暦という年になると、少しは堪えるのだった。関東はくそ暑くて、酒田は涼しすぎるほどの天候ギャップまであったし。

そしておまけに今日はまた、仕事で水戸まで往復してしまったので、ちょっとぐったりしている。明日は人の運転する車で宇都宮まで行く。移動は人に運転してもらうに限る。後部座席で寝ているほど楽なことはない。

明日は思いっきり楽させてもらう。

 

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2011年7月 1日

父の退院は先延ばしになった

今日の検査の結果次第で、父の退院が決まるということだったのだが、「容態が安定するまでもう少し様子を見る方がいい」という主治医の判断で、残念ながら先延ばしになってしまった。点滴を続けたおかげで体力はずいぶん回復し、食事もできるようになったのだが、何しろ肺の中身がかなりダメージを負っているようで、検査結果の波が激しい。

当人は至ってさばさばしたもので、「もう人生には十分に満足したから、これ以上望むものは何もない。いつ死んでも構わない」なんて言っているが、こんなにストレスもなく晴れ晴れとした心境なものだから、治療の効果がきちんと現れて、当人の思いとは裏腹に、まだまだ急には死にそうにない。これはありがたい逆説である。

というわけで、田舎には妹を残して帰ってきた。帰り道も高速道路をフルに利用したが、被災者証明書の威力で、高速料金は無料だった。この分だと、何度も往復しなければならないようだから、この措置はありがたい。

今日のところはこれにて失礼。

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