emi さんが「数字」に関するブログ記事を書いておられる(参照)。「数字から離れると、芯の強い、澄んだ記憶を残せるような気がする」というのである。彼女は 「電話番号のメモリー機能はボケにつながる」という説についてもこう論破する。
電話をかけるという行為に
余計な数字を介在させる手間が省けるようになったのだ。
もともと「人に話しかける」という行為に必要なのは
“名前”や“顔 (写真)”であるはずなので
番号で覚えていたことの方が不自然。
言ってみれば、メモリ機能によって
電話をかけるという行為はやっと人間らしさを取り戻したのだ。
嬉しいことを言ってくれるではないか。私のような超文系人間は、こういうのを読むと心の琴線がビンビンと振動する。
私は 4ケタ以上の数字は語呂合わせをしないと覚えられない。例えば大政奉還の年の 1867年は、そのまま「1867」という数字として記憶することができない。というのは、それは私にとっては 「せんはっぴゃくろくじゅうなな」 という手に負えないものでしかない。だから 「一発論なの大政奉還」なんて覚えるほかないのである。
とはいえ自慢じゃないが、私の小学校の頃の通信簿はいつも「オール 5」に近い状態で、テストなんか 100点が当たり前。たまにケアレスミスかなんかで 98点を取ったりすると、ビミョーに悔しく感じるというような子供だった。
ただし素行面がかなりノー天気に雑だったので、教師からも周囲の友達からも、いわゆる「優等生」とは全然思われておらず、尊敬もまったくされていなかったが、学業だけでいえば、常に苦もなくトップだった。どう間違っても、トップ以外になりようがないというような子だったのである。
その断トツの学業成績の私が、自分の数字を認識する能力に根本的な疑問を抱くきっかけとなったのが、小学校 4年から始まった算盤の授業である。今はどうだか知らないが、当時は小学校 4年生の算数の授業で、算盤が必修になっていたようなのだ。
算盤の授業では、教師が「願いまして~は、398円なり、64円なり、1,252円なり ……」なんていう読み上げ算とやらをするのだが、この読み上げ算に全然ついていけない子がクラスで二人いた。一人は他でもない、成績トップの私。もう一人は、成績ビリの MK 君だった。
周囲では、MK 君ができないのは不思議じゃないにしても、私ができないのは、例によってマジメに取り組んでいないだけなのだと思っていたようだ。しかし実際に、マジでついていけないのである。
読み上げ算が始まるとすぐに、私は一種のパニック状態に陥る。耳から入ってくる数字が、数字として聞こえないのだ。単に「音声」でしかないのである。「さんびゃくきゅうじゅうはちえんなり」という「音声」を「さんびゃくきゅうじゅうはち」という「言葉」として確認し、それを数字の「398」に変換するのに、かなりうっとうしい努力と手続きが必要になる。
さらにそれを算盤の珠の動きに変換し直さなければならない。気の遠くなるような脳内作業が必要なのである。しかし教師の読み上げは、そんなことにお構いなくどんどん先に進む。なんてデリカシーのない授業だ。これじゃ、一種の「いじめ」だ。
早々に諦めて目の前の算盤をガチャガチャにかき回しながら周りを見ると、クラスの連中はちゃんと指先に集中している。「こいつら、スゲェ!」私は素直に驚嘆した。「こんな神業みたいなことを、どうしてそんなに苦もなくやれるんだ !?」
その後、中学 3年から高校ともなると、私の数字数式に関する障碍はかなり明白になった。教科書に出てくる数式が、理解はできるけれど、覚えられないのである。記憶に収まらないのだ。それで、つまらない数学の授業はほとんど寝ているか、学校から抜け出し、庄内砂丘のど真ん中で空を仰いで寝ころんでいるかのどちらかということになった。
そんなわけだから、高校時代の試験では、文系 3科目の合計点と、数学・理科を合わせた 5科目の合計点が、あまり変わらなかった。
学校以外ではほとんど勉強なんてしなかったが、文系 3科目では何てこともなくトップクラスなのである。授業に出てさえいれば、そのくらいの点数は取れた。「これ以上、何を勉強すればいいの?」なんて思っていた。ところが理数系は授業もまともに受けていないので、さっぱりわからないのである。
私は長年、「もっとちゃんと勉強してさえいれば、理数系ももう少しまともな点数を取れていたはずだ」と、内心で弁明し続けてきたが、最近ではそれすらも怪しいものだと思うようになっている。
とにかく、数字や数式が出てくると、頭の中がパニくってしまうのだから、どうせまともな勉強なんかできなかったに違いないのだ。「もっとちゃんと勉強してさえいれば」という前提は、こと私の理数科目に関する限りは、成立しないんじゃないかと思うのである。
私自身の名誉のために付け加えるとすれば、弱いのは「数字と数式の認識」に関してであって、論理展開については、全然パニックにならずに済む。だから、定理や公式の意味はことごとくきちんと理解できるし、相対性理論とか素粒子論などの文献を読むのもほとんど苦にならない。
これらの分野に関しては、その辺の「数学や科学は、誰が考えても答えが一つだからいいんだ」なんてノー天気なことを言っているフツーの理数系よりは、きちんと理解しているという自信がある。
問題は、あくまでも「数字と数式の認識」なのだよ。視覚的に認識されるのはその「映像」だけで、意味のあるものとして「読んでいる」のではない。さらにそれらを読んでも聞いても、直接的には「音声」としてしか認識されず、意味のあるものにならないのは、前述の通りなのだ。
きっと、脳内の数字・数式を取り扱う回路に何らかの欠陥があるに違いない。あるいは欠陥でなければ超未成熟なのだ。だから、私が少しでも世の中のためになろうとするならば、数字とはあまり関係のない分野で生きるしかないのである。
脳科学の世界では、きっと「識字障害(Dyslexia)」に準じたような名前が付いてるんじゃあるまいかとさえ思うのだが、ちょっとググっただけでは見当たらない。だったら、個人的には暫定措置として「数字数式認識障害」とでも言っておこうか。
ああ、これってなんて魅力的なエクスキューズなんだろう。
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