エアコンを使わない夏 3
昨日、関東甲信越と北陸、北九州の梅雨が明けたらしい。平年より 10日から 2週間も早い梅雨明けだそうである。印象としては、自分の誕生日(7月 26日)のちょっと前に梅雨明けになるという気がしていたから、いずれにしても今年はずいぶん早い梅雨明けである。
思い出してみれば、昨年は 14日に九州に出張していて、この時は梅雨明け直前の豪雨で、九州北部の交通網がずたずたになっていた。まあ、私の晴れ男の威力で、結局はあまり影響を被らずに仕事はうまくいったのだが、今年は同じ九州でも南部の豪雨がひどかったようだ。
梅雨が明けてみると、昨日の暑さなんかは一昨日までとはレベルが違うという気がした。つくば周辺でも最高気温が 34度に達している。猛暑といわれた昨年でも、今の時期にはこんなにはならなかったと思う。
まあ、それでも私としてはエアコンのスイッチを入れない抵抗を続けていて、この夏はまだ、エアコンのコンセントをはずしたままである。体に暑さに対する耐性がついたようで、このくらいはまだなんとかなる。同様にエアコンを点けない暮らしを選択した友人知人も多く、「健康なうちは、汗を流している方が気持ちいいってわかったよね」なんて話している。
一昨日も触れたが、こうしてエアコンに頼らない生活をしていると、「生産性」などに関するコンセプトのパラダイム・シフトが自然に生じてしまう。世の中は長い目で見れば、そっちの方向に変わっていくんだよねという予感がする。
アゴラに 日本のエネルギーパラダイムの転換 という田二谷正純氏の記事がある。田二谷氏については、私はほとんど何もしらないが、好記事だと思うので、ご一読いただきたい。氏が高く評価している EC の自然エネルギー志向が、フランスの原子力発電に依存しているという指摘については、次の記述に注目するといいだろう。
再生可能エネルギー導入で疾走する欧米諸国では高価で不安定な電力を抱えて隘路に入り込んでいるのか、原子力依存を多国間電力網で希釈しているのか、その実態を自らの手で分析していただきたい。
「原子力依存を多国間電力網で希釈」というのが、日本ではなかなか困難だが、別に 「多国間」 でなくても一国内で 「原子力依存を希釈」 することは十分可能だと思うのだ。
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コメント
>国内で 「原子力依存を希釈」 することは十分可能だと思うのだ。
どうすれば、十分可能なんですか?
投稿: alex99 | 2011年7月10日 09:36
alex さん:
これまでにもかなり書いていて、記事の参照先にも書いてあるので、繰り返しません。
投稿: tak | 2011年7月10日 10:46
「十分可能」と簡単に言っても、時間的にごく近未来に可能にならないと、十分可能とは言えませんよ
時間は数十年かかるだろうが・・・という条件をハッキリ示さないと、誤解を生みます
と言うか、そこが肝心なのではありませんか?
時間はいくらかけてもいいというなら、可能なのに決まっています
しかし、産業は待ってくれないんです
しかも、再生エネルギーに引き継がれるまでの、中継ぎ期間を火力発電に依存すれば、年間3兆円の燃料費が増えます
もっと、リアリスティックに語りましょう
投稿: alex99 | 2011年7月10日 11:00
alex さん:
私は反原発ですが、何度も書いているとおり、今すぐすべての原発を止めろとは言っていません。
中継ぎとして、安全面に最大限の配慮をして、老朽化していない原発を稼働させることには、短期的には反対しません。
日本の電力会社は、もともと設備稼働率が低すぎ (過剰投資かも) ですから、短期的には原発の稼働率を上げても、とりあえず文句はいいません。
それから、自然エネルギーによる発電をメジャーな手段とするためには、何十年もかける必要がないでしょう。
それは本気で取り組むかどうかという姿勢にかかっていることですが。
投稿: tak | 2011年7月10日 16:52
>それから、自然エネルギーによる発電をメジャーな手段とするためには、何十年もかける必要がないでしょう。
自然エネルギーについては、自然エネルギーの内のどれをどれだけ選択するかも決めっていないのです
その内のどれ一つとして、メジャーになる見込みが立っていません
技術的なブレイクスルーも、まだ十分ではありません
菅首相のエネルギー法案も、孫正義さんの筋のよくない太陽光発電にだまされているだけです
第一、技術的に確立していないでしょう?
法的整備も成されていない
だから、今から、数十年はかかるのです
どんなに少なく見ても、20年でしょうね
どのエネルギーが、いつ、メジャーになるのですか?
本気に取り組んでも、一定の時間内では不可能な技術もあるのです
まあ、自分の勉強としてもお聞きします
投稿: alex99 | 2011年7月10日 21:09
自然エネルギーと簡単に言っても、小規模な民間の技術ではメジャーになり得ません
国が責任を持って、火力・原発の代替として認め、予算を組んではじめて、メジャーとなるスタートです
しかし、それまでに民間での実験プラントなどでの実証試験だけで数年はかかります
それ以前のリードタイムも十年ではきかないでしょう
投稿: alex99 | 2011年7月10日 21:18
alex さん:
ぶっちゃけた話、詳細については専門外ですので、私に聞かれても手に余ります。
alex さんの勉強のために聞かれるならば、もっと他に適任がいると思います。
ただ、どれか一つをとってメジャーになるというよりは、いろいろな技術で補い合うという形になるでしょう。
「これさえあれば」 というようなアプローチはかえって危険です。
(これは前にも書いたと思います)
技術的にはどんどん進展していますし、どれをとって 「確立」 というのか、私にはわかりません。
それを言ったら、原発の技術も 「確立」 しているとは言えない状態です。
>国が責任を持って、火力・原発の代替として認め、予算を組んではじめて、メジャーとなるスタートです
国があまり信用できないから、余計な規制を取り払って発電と送電を分離し、脱中央集権で行こうというのが方向性だと思っているのですが。
>しかし、それまでに民間での実験プラントなどでの実証試験だけで数年はかかります
>それ以前のリードタイムも十年ではきかないでしょう
それがうっとうしいから、送発分離で、小規模に小回り効かそうというのも、新しい方向性だと思うのですが。
投稿: tak | 2011年7月10日 22:17
詰まるところ、tak-shonai さんの願望ということじゃないですか?
それならそれで、そういう書き方があると思うのですが
投稿: alex99 | 2011年7月11日 00:52
alex さん:
>詰まるところ、tak-shonai さんの願望ということじゃないですか?
>それならそれで、そういう書き方があると思うのですが
願望であるといえば、その通りであります。
しかし、単に個人的で身勝手な願望というわけではない (そう信じます) ので、臆面もなく表明させてもらいました。
多くの変化は願望から生じます。
そして、強い願望は大きな変化をもたらします。
私は現在の混迷状況はその過程だと思っています。
いろいろな思惑の錯綜が、そのまま混迷となって現れています。
まあ、人類の歴史は常にそうであったわけですが、現状はとくに大きな転換点となって現れていると思うわけです。
これだけ大きなパラダイムシフトなんだから、まあ、できるだけすっきりしておきたいと、強く願望しているわけです。
投稿: tak | 2011年7月11日 07:03
なるほど(笑)
老婆心ながら申し上げておくと、第三者はどうお思いかはわかりませんが、私は、決して、tak-shonai さんに、悪意を持ってからんでいる訳ではありません
私の性格については、よくご理解いただいていると思うので、敢えて申し上げるのですが
私は、単純に、私の知識の範囲内で、現実的な(と自分では思っている)視点を説明しているのです
しかし、どうも、私の能力不足などのせいか、エネルギー問題については、波長のあった議論が容易では無いようですので、勝手ですが、この辺でサスペンディッドとさせていただきたいと思います
ご了承ください
ご迷惑をおかけしました
投稿: alex99 | 2011年7月11日 10:01
alex さん:
>私の性格については、よくご理解いただいていると思うので、敢えて申し上げるのですが
「よく」 かどうかはわかりませんが、ご期待に添うようにしています (^o^)
>エネルギー問題については、波長のあった議論が容易では無いようですので……
波長が合わない要因は、要するに、経済的側面から語るか、倫理的側面から語るかの違いなのではないかと思っています。
「原発は経済問題である以上に哲学的問題である」
https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2011/06/post-5046.html
で述べている通りです。
(この問題に関して、きっしーさんは 行動経済学の観点から、「それでも私は経済的問題だと思います」 とコメントされていますが)
私は原発問題に関しては 「世代間倫理」 を無視しては語れないと思っているので、いわゆる経済的側面をやや軽視していると自覚しています。
(きっしーさんは 行動経済学の視点からは、必ずしも軽視していることにならないという指摘をいただいていますが)
世代間倫理については、義務とか権利とかいう近代的価値観からは矛盾も指摘されていますが、端的にいえば、「自分さえよけりゃいいというのは、ヤバイよね」 という倫理を、中長期的な時間軸においても適用しようよという考え方と理解しています。
「そのためには、かなりのガマンもしなきゃね」 ということにもなって、それが価値観のパラダイムシフトにもつながります。
単純に言うと、「ガマンも、してみると結構いいもんだよね。欲求の実現のみが幸福ってわけじゃないとわかるよね」 というようなことです。
さらに、経済学的にも新しい視点から、「自然環境の経済価値」 というものが見直されていて、短期的視点の開発は、既に与えられているかなり大きな経済価値を損なうことで、実は損失なのだという指摘もあります。
まあ、仏教徒である私としては、すべての小理屈は御仏の前では詭弁だと思ってますので、そんな経済価値も 「そうも言えるかもね」 ぐらいに思っている程度ではあるのですが。
「すべての小理屈は詭弁」 ということの理論武装 (?) は、「論理思考の限界」 という記事で述べてあります。
https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2010/06/post-1e35.html
この記事、alex さんからは 「飛躍がある」 とご指摘頂いておりますが、私は論理的であればあるほど飛躍している (現実から遊離している、その論理に合致する部分のみにフレーミングすることで、他の要素を切り捨てている) ように感じてしまうのです。
「詭弁」 は 「方便」 と言い換えてもいいと思います。「方便」 はそれほど悪い意味ではございませぬ。
https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2011/02/post-7f9e.html
投稿: tak | 2011年7月11日 10:38