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2011年7月15日

庄内弁が私を救う?

一昨日付の "「数字数式認識障害」 とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ" という記事に、シロさんからとても興味深いコメントをいただいた。シロさんは私の(自称)「数字数式認識障害」という傾向について、次のようにおっしゃっている。

おそらく、一種の認知障害のようなものではないかなと思いました。
障害と言うと重く聞こえがちですが、脳の特徴みたいなものです。

うぅむ、実は私もそんなような気がしていた。で、「障害」という言葉について、最近の一部の論調のように「害」という字が差別的だからとかいうくだらない理由からではなく、単に言葉のより正確な意味合いとして、「障碍/障礙」(読みはどちらも同じ「しょうがい」)と書きたいと思っていた。

実際に、上述の記事でも「その後、中学 3年から高校ともなると、私の数字数式に関する障碍はかなり明白になった」なんて書いている。タイトルの「数字数式認識障害」は世の習いで「障害」と表記したが、地の文ではちょっとだけこだわりを通してみた。「碍」は「礙」の俗字で、訓は「さまたげ」 。この方が「障害」より意味として正確だ。

私の脳内には、数字・数式を認識するのをさまたげる要素があるようなのだ。きっとフツーの人が利用する回路よりずっと遠回りの回路で認識してしまうのだろう。だからフツーの人が案外苦もなくこなす「読み上げ算で算盤を弾く」という作業で、私は読み上げに全然付いていけない。

ちなみに上記のコメントでシロさんは、ご自身が「アスペルガー障害」という発達障害を持っていると書いておいでだ。そのために「認知しづらい事がたくさんあり、子供の頃は常に理解できない事だらけで日常的にパニックでした」とおっしゃっている。

私は「アスペルガー障害」については、つい最近までは言葉としては知っていて、知的障害があるわけでもないのに、対人関係などでは難儀なことが多いらしいという程度の知識しかなかった。

ところが私にはアスペルガー障害の息子をもつという知人がいて、彼女は最近、自分の息子と共通した要素を、私に見出すと言いだしたのである。その後にシロさんのコメントがあったので、急に放っておけなくなって、改めて Wikipedia に当たってみたのである。

ウィキでは「アスペルガー症候群」という項目になっているのだが(参照)、読んでいるうちにこれって、下手したら本当に自分もその症状を発現する可能性が、かなり高かったんじゃあるまいかという気がしたのである。ちょっと引用する。

彼等が苦手なものは、「他人の情緒を理解すること」 であり、自分の感情の状態をボディランゲージや表情のニュアンス等で他人に伝えることである。多くのアスペルガーの人は、彼等の周りの世界から、期せずして乖離した感覚を持っていると報告されている。

(中略)

アスペルガーの子供は、言葉で言われたことは額面どおり真に受けることが多い。

(中略)

通常であれば日常生活で周囲の人の会話などから小耳に挟んで得ているはずの雑多な情報を、アスペルガーの人は (アスペルガー特有の “興味の集中” のため) “聞こえてはいる” ものの適切に処理することができないことが考えられる。

うむむ、私ってば本当に、確実にその一歩手前の人間だ。例えば、私は喜怒哀楽の感情を否定しはしないが、それを人前で露わにするのはとても恥ずかしいことと思っている。いや、むしろ感情を露わにする術を知らない人間といっていいいかもしれない。

それで若い頃は、目の前に喜怒哀楽を露わにする人間が現れると、どう対応していいか分からなくなっていた。最近でこそ経験から学んで、それなりにおどしたりすかしたりする対処法を身につけたが、以前は本当にどうしていいかわからず、途方に暮れた。

とはいえ私はこれまでに、辛うじてアスペルガー障害と言われずに済んでいるようである。なぜそうならずに済んだのかと考えて、自分が庄内という地域に生まれたことが、これまで思っていた以上の僥倖だったのではないかと思い当たった。

もし、母国語として日本語の標準語しか持ち合わせていなかったとしたら、私は多分、言葉を額面通りに受け取り、行間の意味やニュアンスなどということは思いもよらず、対人関係に困難を覚え、周囲から乖離したと感じる人間になっていたような気がする。

そうならずに済んだのは、ひとえに庄内弁のおかげのようなのだ。庄内弁というただただ情緒的で、言葉そのもの以外のところにそこはかとない意味を隠していて、濃密な人間関係の中でしか通用しないメディアを自然に獲得したことで、私はようやく自分自身の心的傾向を補完することができたのだろう。

前にも書いたことがあるが、私は幼い頃からラジオ少年で、言葉はラジオで知ったようなところがある。庄内弁に馴染むより先に、ラジオから聞こえる標準語に馴染んでいたような気さえする。だから、庄内弁は後天的に獲得した救いであったかもしれない。

私は自分が二面性をもつと意識している。標準語、あるいは英語でものごとを考えている時の私は、非常に論理的で、一つのことにものすごく集中できて、しかも時々やたらと直観的である。そう言うと少しはカッコいいが、しかし、アスペルガー障害の一歩手前であるかもしれない。

そうした心的傾向を辛くも希釈しているのが、私の中の庄内弁なのだ。庄内弁でものを考えると私は、「俺って、なんていいヤツなんだ!」と感動することさえある。これは、私の本質が「いいヤツ」というよりも、庄内弁思考が私を土壇場で「いいヤツ」に導くのだ。

私が故郷を離れて 40年以上になるのに、今でも庄内弁を忘れず、つくばの地で家族に向かってさえ時々庄内弁で話す(おかげで、ウチの家族は庄内弁のヒアリングはかなりのレベルである)のは、私自身のバランス感覚がそれを必要としているからだと気付いたのである。

そしてこれこそが、alex さんがコメントしてくれた私の「東北的な情念の世界」の正体なのかもしれない。

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コメント

今回は記事にしていただき、ありがとうございました。
とても嬉しく思います。

苦手なことって、上手に出来ない故に恥ずかしい、やりたくない、という気持ちになります。
takさんの場合は、感情が苦手だったのですね。

これは言語を理解できる事が前提になりますが、「言語化することによって認識できる物事」が有ると思います。
それは主に感情や感覚にまつわる言語です。
おそらく庄内弁は、「人に優しくする時の言葉」や「温かい気持ちの時に使う言葉」などがたくさんあるのかもしれません。
それによって、人に優しくする・温かい気持ちになる事を、自分も相手も認識しやすくなる、というわけです。

普通の人がなんとなく生活しているだけで身につける事を、アスペルガー圏の人は、「学んで身につける」感じです。
規則を覚えると、きちんと守る人が多いそうです。

逆に考えますと、言語の違いは文化や認知の違いを生むのではないでしょうか。
たとえば日本語にあって英語にないものは、英語圏の人には「そもそも、そういう概念がない」となります。

子供の頃に父から教わったのですが、「紅葉(こうよう)」は、葉が赤くなって美しいという意味を含みますが、これを意味する言葉が無い国には「赤い葉が美しい」という概念が無い、美しいとは思わない、という事を知って大変驚きました。
子供の頃から紅葉は秋の美しい風景として捉えていた自分としては不思議な感じがしました。
おそらくより重い精神障害を持った方は、私達が普通に何気なく感じてるものを得るのが難しいのかもしれません。
それは寂しいと思います。

takさんは英語も使いこなせるようですので、アスペルガーの気質を持ちながらも、言語のヒアリング力が優れていて、多分にその能力と知能で様々な事をカバーしているのではないでしょうか。
人間の体というものは、よくできていますね。

投稿: シロ | 2011年7月15日 23:01

私は、アスペルガーがありません
私も、共通語と大阪弁のバイリンガルですが、私の大阪人血中濃度と大阪弁が非常に薄いので、情念の世界はありません(笑)
むしろ私は、幼児期にアメリカ人租界の隣で住んでいましたので、日本人度も低いかも知れない(笑)
さらに長年の海外経験で、それが増長
現に、妹たちにも、朱鷺子さんにも、外国人的だと言われる
しかし、これは、私が、論理的に有ろう、率直であろう、日本人に付和雷同しないでおこう(笑)、と、日頃意識していることで、そう人に思われるのかも知れない
しかし、そういう、非日本人的な行動・思考をしても、みんなで一緒でなくても平気だというところも、海外体験で、自我に自信を持ったからかも知れない

触発されて、いろいろ、愚考いたしました(笑)

投稿: alex99 | 2011年7月16日 04:24

こんばんは~
私はいたって平々凡々平凡々でございまして、
単に
普通の70才ちょい前。

なんか、
あの、ちょっと空から下界を見ただけで、
全部、街中の絵が正確に描けてしまう様な
そんなアスペルガーとかに生まれてみたかった。
あ~~
つまらないな~~普通の私。


それにしてもtak-shonaiさんって、
不思議な人ですよね。
(数字については信じられないことでもありますが・・)

投稿: tokiko68 | 2011年7月16日 18:49

シロ さん:

>takさんの場合は、感情が苦手だったのですね。

ユングの分類で言えば 「外向的感情」 というのが、まったくダメです。
ということは、「内向的論理」 のポイントはものすごく高いです。

ちなみに一番高いのは、「内向的直感」 で、ということは、「外向的感覚」 も苦手です。

>これは言語を理解できる事が前提になりますが、「言語化することによって認識できる物事」が有ると思います。
>それは主に感情や感覚にまつわる言語です。

そうですね。
私は庄内弁で感情を学んだと思います。
しかも、庄内弁の 「語彙」 ではなく、ニュアンスで。

>普通の人がなんとなく生活しているだけで身につける事を、アスペルガー圏の人は、「学んで身につける」感じです。

その感覚については、ものすごく身に覚えがあるという感じです。

>規則を覚えると、きちんと守る人が多いそうです。

それもわかります。
私はかなり 「原則主義者」 で、辛うじて 「原理主義」 にはならずに済んでい
ます。

例えば 「聖書にそう書いてあるんだから、イエスは水の上を歩いたんだろう」 と信じていたりします。
(単純物理的でない思考によってですが)

とにもかくにも、言語によってかなり多くのことを補うことができたおいうのは、実感です。

投稿: tak | 2011年7月16日 19:41

alex さん:

alex さんの場合は、自己肯定力の強さ故に、「周囲と違う自分」 を感じても、それによってダメージを受けることが少なかったのではないでしょうか。

健全な自己肯定力は、とても重要だと思います。
「自分を褒める」 ことができない人は、よけいな問題を抱え込みがちです。

投稿: tak | 2011年7月16日 19:45

tokiko68 さん:

>あの、ちょっと空から下界を見ただけで、
>全部、街中の絵が正確に描けてしまう様な
>そんなアスペルガーとかに生まれてみたかった。

何かを見るたびに、ピントがピッタリ合った写真になって、自分の中のアルバムにどんどん溜まっていってしまうというのは、どんな感じでしょうね。

私が以前、アパレル関連の記者をやっていて、東京コレクション (ファッションショー) の記事を書いたりしていた頃は、訓練によって、見たばかりのショーは、ビデオを再生するように脳内で再現できました。

でもそれは長続きせずに、翌日には消えてしまうので、覚えているうちに大急ぎで記事を書いていました。

優秀なファッション記者は、かなり長期間、脳内ビデオを再生することができるんだと思います。

投稿: tak | 2011年7月16日 19:50

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