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2011年9月に作成された投稿

2011年9月30日

日本の政治家の演説がつまらないのは

ジョン・F・ケネディは 1961年にアメリカ大統領に就任し、その時の演説で「国が諸君のために何ができるかを問い給うな。諸君が国のために何ができるかを問い給え」(Ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country) と呼びかけた。これは今でも多くの国民の心を捉えた名演説として語りぐさになっている。

演説の中でこの部分だけが取り出されて有名になっているが、全文を通して読んでみても、確かになかなか感動的だ。英和対訳的なテキストは、こちら のページで読むことができる。

私は、日本の首相が所信表明演説でこのように感動的な演説をするのを、未だかつて聞いたことがない。首相に限らず、日本の政治家の演説には「感動」の二文字がない。日本にはまともなスピーチ・ライターがいないのだろうかと、私は暗澹たる気分になる。

日本の政治家の演説の文章は多分、官僚が作文したか、あるいはせいぜい官僚と共同でこねくり上げたものなのだろう。官僚は答弁の文書を作るのは上手でも、演説の文章を書かせたら最悪だ。

さらに言おう。日本の政治家の演説がひどいのは、官僚とこねくり上げた作文がひどいからというだけではない。聞く方の耳も悪いのだ。

冒頭で触れたジョン・F・ケネディの演説だが、もし日本の首相が同じことを言ったとしたら、マスコミは「恐ろしいまでに国家主義的な主張 「国民に国家の犠牲になれと強要するのか」などと言って、散々に非難するだろう。

ケネディの言葉だと「名演説」として称賛する記者が、日本の首相が同じことを言ったら、ヒステリックなまでに叩きまくるのである。これは断言できる。日本のマスコミは、ダブル・スタンダードなのだ。そして国民の多くも、ダブル・スタンダードのマスコミの尻馬に、疑いもなく乗るのである。

だから、日本の政治家はダブル・スタンダードのマスコミに叩かれないような、可もなく不可もなしといった調子の、当たり障りのない作文の読み上げに終始する。「あれもやります、これもやります」と読み上げて、そしてその挙げ句、言ったほとんどを裏切るのである。

このスタイルが延々と持続されているのは、日本の政治家がほんの一部の国民を感動させるために、大多数の国民の非難を浴びるのはご免だと思っているからである。これは演説を聴くのに「減点法」でしか耳を傾けられない国民の悲劇である。

ケネディの演説は「減点法」からは絶対に生まれないものだ。これはもう、文化の問題で、小学校の教育から根本的に改めなければどうしようもない。

 

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2011年9月29日

「オクラホマ・ミキサー」 のミステリーを巡る冒険

Twitter で kunishiro さんが、「オクラホマミキサーっていったい何者なのさ。何かをかき混ぜる機械?それとも男女をかき混ぜる?」と疑問を呈しておられる(参照)。そう、この曲は「マイムマイム」と並ぶフォークダンスのスタンダードとして、日本では知らぬものとてないが、ちょっと謎の多い曲なのである。

「オクラホマ・ミキサー」はアメリカで生まれた曲で、本当のタイトルは "Turkey in the Straw" (藁の中の七面鳥) という。私は個人的には、中学校に入るか入らないかの頃からこの曲を知っていて、ギターで伴奏して歌っていた。

日本語の歌詞は、「荷物を山盛り積んだ / 馬車がゆく街角を / 鞭振れば飛び出して / 街はみんなで大騒ぎ」という出だしだった。何が飛び出したのかといえば、もちろん七面鳥で、「みんなで追いかけろ、捕まえろ」と、賑やかなことになる歌なのである。

フォークダンスの『オクラホマ・ミキサー』を知ったのはその後のことだったので、私としては「なんだ、どんな曲かと思ったら、『藁の中の七面鳥』じゃないか」 と思っていた。そしてその頃から、「なんでまた『藁の中の七面鳥』のことを『オクラホマ・ミキサー』なんていうんだろう」と不思議な気がしていたのである。

kunishiro さんの tweet で昔からの疑問を思い出してググってみたら、findingbabyg さんというアメリカ人と思しき人の面白い書き込みが見つかった (参照)。

この人は、日本人と中国人の留学生と感謝祭の出し物について話し合っていた時に、自分がオクラホマ出身だと話すと、「じゃあ君は "Oklahoma Mixer" を知ってるだろう」と言われて、大いに面食らったというのである。

彼はそんな名前の曲は聞いたこともなかったが、日本では有名で、踊りまでついていると知って、びっくりたまげてしまった。そしてそれが、"Texas Straw" (このようにもいうらしい)の歌で踊られると知って、またまた驚いたようだ。

念のために、米国版 Wikipedia で "Turkey in the Straw" を引いてみたが、そこには同じメロディに別の歌詞のついた "Zip Coon" という曲があるとは書いてあっても、"Oklahoma Mixer" なんていう記述は一言も見当たらない。どうやらこれは、日本特有の現象であるかもしれないみたいなのだ。

ちなみに "mixer" という言葉には「親睦会」という意味があるようで、転じて、男女が入れ替わって踊るのを指すこともあるようだ。しかしだからといって、「オクラホマ・ミキサー」が「オクラホマの男女が交代しながら踊る踊り」なんていったら、当のオクラホマ人がびっくりしてしまっているのである。

一体どういうわけで、日本ではそういうことになってしまったんだろう。だいぶ前に "『猫踏んじゃった』 のミステリー" というコラムを書いたことがあるが、「オクラホマ・ミキサー」は、これに匹敵するミステリーかもしれない。

 

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2011年9月28日

アオサギの鳴き声

我が家の裏手には川が流れている。ちょっと前まではどうでもいい「小川」だったが、5~6年前から治水のために川幅を 2倍にする拡幅工事が進行していて、我が家の裏手も昨年頃に拡幅が完了した。それで「小川」というのをやめにして、「川」というようになった。

川幅が広がったら訪れる水鳥もずいぶん増えて、昔から時々、鴨や川鵜、カワセミなどが来ていたのだが、最近は白鷺やアオサギが当たり前に飛来するようになった。浅瀬に立って川魚をあさっている。

今日の和歌ログに載せた歌は、「秋の夜に浮かぶ薄の彼方より青鷺の鳴く声ぞ聞こゆる」というものだ。夜が更けて帰宅したら、隣の空き地で街灯の光に浮かんでいるススキの向こうから、青鷺が飛びながら鳴く声が聞こえたのである。

アオサギは飛びながらでも鳴く。そして夜にも鳴く。当然、夜に飛びながらも鳴くようだ。鳥なのに夜目はきくのだろうか。その鳴き声は「ギョエ、ギョエ!」という感じで、見た目の上品さとは似てもにつかないアロギャント(横柄) な声である。

「天は二物を与えず」というが、私は、鳥の姿と鳴き声は両立しないんじゃないかという印象をもっている。美しい鳥の鳴き声は、案外下品である。

オナガという鳥がいる。最近はものすごく数が減っていて、西日本からは姿を消したらしく、関東でも滅多に見られなくなった。昔は東京郊外の住宅地などにも当たり前にいて、とてもシンプルで美しい姿を見せてくれていた。ただ姿は美しいが、鳴き声が「ゲェ!」というとてもがっかりするような声なのである。

聞けば、オナガというのはカラスの仲間なのだそうで、「ゲェ!」という鳴き声なのも、それだからかと納得されるのだが、それでもやっぱり、関東に来て初めてこの鳥の姿を見、鳴き声を聞いたときは、あっけにとられた。

アオサギもそんなようなもので、鳴き声はなかなかの「がっかりもの」である。夜の闇の中で川の向こう側から「ギョエ、ギョエ!」という声が聞こえると、「おいおい、もう少しなんとかならんものか」と思うのである。

鳴き声の美しい鳥は、大抵姿が地味だ。鳥の鳴き声チャンピオンみたいな存在のウグイスは、びっくりするほど地味である。よく「梅に鶯」などの題材で絵に描かれるウグイス色のきれいな鳥は、あれはメジロであって、ウグイスじゃない。

一方、タカやワシなど、猛禽類の仲間の泣き声は、意外なほどかわいい。たいてい「ピィ」というカマトトぶった鳴き声である。トンビはさらにカマトトぶっていて、「ピーヒョロヒョロ」と、呑気なものだ。

アオサギは我が家の裏手の川のどこかに居着いたらしく、近頃毎晩、アロギャントな声を響かせている。やれやれ。

 

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2011年9月27日

「震災後」 の日本に生き始めたからには

震災後、半年以上も経ってから、しかも出張で仕事の合間を縫い、時間的にはとても十分とは言えない駆け足で、南相馬市と仙台市の海岸を見て回ってきた。津波に襲われた海岸を一面に覆っていた瓦礫はかなり整理が進んで、要所要所に高くボタ山のように積み上げられ、震災直後の悲惨さはかなり薄められていた。

付近の人に聞いても、「あんなに積み上げられていた瓦礫が、ようやく撤去され始めて、避難所に溢れていた人たちも、ずいぶん仮設住宅への移転が進んだ」という。それでも、被災地の心は、「震災前」と「震災後」で、明確に区分される。

「あの震災で、自分の心が大きく変わった。どんなふうに変わったのか説明しろと言われても困るけれど、もう半年前の自分じゃない」被災地の若い世代ほど、このように言う。

自身が被災者でありながら、もっとひどい被災地の真っ只中に乗り込んで、連日のようにボランティア活動に励んだ若者がいる。津波の被災地にボランティアに行くと言うと、最初は親が恐ろしい顔をして反対したという。「また津波が来たら、死んでしまうだろうが!」 と怒鳴られた。

被災地の人のために汗を流すことで、自分の中の何かが変わったという。「度胸ができましたよ。それに、自分でも結構気が利く人間になったと思う。もう、何があってもへこたれない自信がついたかな」

それでも、震災後 1ヶ月はへこんだという。「ひっきりなしの余震で、ノイローゼになりかけました。その名残りは、今でもあると思う」

その気持ちはわかる。茨城県南の地でも、本当に心の整理がつかなかった。無理に心の整理しようとすると、そんな時に限って大きな余震が来て、またしてもゴチャゴチャになってしまっていた。

今はだいぶ落ち着いた。震災ネタで冗談も言えるようになった。

しかし、あの整理のつかなかった混乱、余震の度に心まで揺れる感覚。津波の映像がテレビで繰り返される度にリモコンでスイッチを切った日々。目に見えず、ただ数値だけが報じられる放射能のストレス。

こうした要素を、敢えて忘れないようにしよう。我々は「震災後」の日本に生き始めたばかりなのである。「戦後」が 60年経っても引きずられていたのだから、「震災後」だって何十年も引きずろうと思う。決して暗くなれというのじゃないが、忘れてはいけないのである。

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2011年9月26日

近況報告

仙台での仕事を終えて、今は酒田に来ている。

このブログを読んでいる親類縁者もいるので、余計な心配をかけないようにあまり触れないようにしていたのだが、もう隠してもしょうがない。父がいよいよ弱ってしまって、寝たきりになってしまっている。妹が介護していて、今回はその応援だ。

今朝は市役所で介護認定の申請をしてきた。明日は病院の予約があるので連れて行く。そしてその結果が出る前に、私は明後日の仕事があるので帰宅しなければならない。心残りだが。

今日はいろいろばたばたしているので、これにて失礼。

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2011年9月25日

Windows 8 に慣れるより、Mac に乗り換える方が話が早そうだ

私は Windows ユーザーだが、今使っている PC が何年後かにオシャカになったら、そのまま Windows ユーザーでいるという確信がもてないでいる。ただでさえ  iPhone、iPad を使うようになって、Apple にシフトしていることだし。このままだと、PC も Mac に移行してしまうかもしれない。

というのは、話題の Windows 8 の情報をみればみるほど、いやんなってしまうのである。Metro UI だかなんだか知らないが、ずいぶん変わり果てた姿になって登場してくるようなのだ(参照)。この年になって、こんな見慣れない OS とお知り合いになりたいとは思わない。

ユーザーインターフェイスの大幅変更といえば、前にも何度も書いたが、MS Office の 200 から 2003 にバージョンアップされた時はひどかった。慣れ親しんだツールバーが消えてしまって、「リボン」なんていうのがフィーチャーされている。これのおかげで、MS Office では大ベテランの私が、一挙にビギナーに落とし込められてしまった。

前のバージョンの Word を使えば 15分で仕上げられる仕事を、へんてこな新バージョンのおかげで、1時間かかってようやく仕上げるなんて、馬鹿馬鹿しいことになってしまったのだ。UI の基本的部分をこんなにめちゃくちゃに変えてしまったら、車だったら命がいくつあっても足りないと、私は何度も何度も書いている。

それでも Windows 7 までは、OS の基本操作は変わらなかったので何とかなった。ところが Windows 8 からは OS までゴチャゴチャに変えられてしまうのである。いくら何でも、もう付き合いきれない。

どうせこんなにまで OS の基本操作が変わってしまうなら、いっそ Mac に鞍替えしてしまおうと思っているのである。同じ使い慣れない OS を使うなら、Mac OS の方が 10倍使い心地がよさそうではないか。

というわけで私としては、今使っている Panasonic の Let's Note が、自分の使う最後の Windows PC だと思い始めているのである。これが完全にオシャカになる前に Mac を買って、徐々に移行することになるかもしれない。

「さらば MS」 の序章は、既に始まって久しい。

 

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2011年9月24日

フクシマ 一足飛び見聞記

明日仙台で仕事があり、今夜から乗り込んで前泊しようと思っていたのだが、なんと仙台周辺のホテルは全部満室で、予約できない。震災のボランティア需要と三連休の合わせ技だろうか。仕方がないので、福島まできてホテルに入った。明朝に早起きして仙台に向かう。

せっかくだから車で早めに家を出て、福島の震災被災地を巡ってみた。あれから半年経ってしまったが、被災地の様子をこの目で見ておきたいと思ったのだ。

常磐自動車道を広野インターまで一気に北上した。今、常磐道は広野から常磐富岡までが不通になっている。この間に例の福島第一原発があるのだ。広野を降りて国道 6号沿いに少し行くと、バリケードが張ってあって、そこで U ターンを命じられる。ものものしい警戒ぶりだ。

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そこから山の中を通って迂回しようとしたのだが、車が通れないような山道になってしまったので、仕方なく常磐道に迂回。三春で降りて南相馬市に行く。夕方 4時頃に中心街を通り過ぎて海岸に行くと、瓦礫をまとめて山のように積み上げているのが見える。途中の家は津波の衝撃でガタガタになっている。

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海岸の堤防は崩れ落ちそうになっていて、震災の前はいろいろな建物があったのだろうが、何もなくなっている。

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時間の余裕がないのでそのまま相馬市を通って福島に行く。途中の道の海寄りには、そこら中に漁船がひっくり返っている。あれから半年経ったと思われないほどだ。

途中で蕎麦を食い、7時頃になって東北道沿いの福島のホテルに入る。明日の朝食は 7時からだというので、さっさと食ってすぐに東北道に乗り、仙台に行く。

 

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2011年9月23日

台風被害の修復費用 2,774円

台風 15号の強風で、庭に面したベランダの屋根が吹っ飛ばされてしまい、今日はその修復をした。屋根といっても乳白色の塩ビの波板で、元々お金のかかったものじゃないのだが、それでも、屋根の両端のみが残って真ん中が青天井になってしまうと、急に貧相に見えてしまう。

ここに屋根があると、多少雨の心配のある日でも、屋根の下に洗濯物を干しておけるので重宝なのである。また夏の暑い日でも、直射日光がリビング・ルームの中にまで差し込まないので、省エネにもなる。同じ理由で、雨の日にガラス戸を開けっ放しにしても降り込まず、室内がムンムンムレムレにならずに済む。

このベランダは、この家を買ったときにはなかったものである。購入して数年してから、妻の父が来て造りつけてくれた。義父は大工ではないが、木工技師という仕事をしていた関係で、こういうことは得意なのだ。

ベランダの屋根は、60cm × 180㎝ の塩ビの波板を 6枚打ち付けてある。10年ぐらい前の台風で、屋内からみて一番左側の波板が飛んで、最初の修理をした。時を同じくしてだったと思うが、下からの風で屋根が浮き上がったせいで、右側の柱が根元から折れ、屋根がだら~んと垂れ下がってしまったので、力業で持ち上げ、下に石を敷いて修復した。

あれからずっと我が家のベランダは無事だったのだが、この度の台風 15号はさすがにすごかった。昨日の朝、明るくなってから家の周囲を確認したら、10年前に修理した波板はさすがに大丈夫だったが、その隣から 3枚が見事に消えていた。逆に言えば、波板がさっさと飛んでくれたおかげで、風で屋根が持ち上げられずに済み、柱が無事だったんだろう。

2枚は 10メートルも先の道路の塀際に、ボロボロになってへばりついていたのを回収したが、残り 1枚は行方不明である。一体どこに消えてしまったんだろう。もしかしたら、裏の川に飛んで流されてしまったんだろうか。

というわけで、今日は近所のジョイフル本田という、ここで見つからないものは日本中探しても見つからないといわれるほど品揃えの豊富なホームセンターに行って、塩ビの波板と特殊な釘 (頭の部分に塩ビをしっかり止める金具の付いたやつ) を買い、修理にとりかかった。

費用は、塩ビの波板 1,740円 (580円 × 3枚) と、釘が 34円で、合計 1,774円。安くあがるはずとは思っていたが、それでも 2,000円かからずに済むとは思っていなかったので、逆に気が抜けた。修復作業は 約 30分で終了。これもあまりに呆気なかったので気が抜けた。

どっかの工務店なんかに頼んだりしたら、少なくとも 1万円は請求されるだろう。下手すると 2万円ぐらいになるかもしれない。

ここで思い出したのが、11年前の茨城県南部、千葉県北西部の雹の被害のことだ。取手市周辺では、多くの家でベランダの屋根の塩ビが穴だらけになってしまい、工務店が大繁盛になったと聞いた。「工事が順番待ちで、ベランダの屋根がいつまで経っても穴だらけのまま」 という人が多かったが、考えてみればそのくらい、自分で修理しなきゃね。

あ、それから省エネ用に家の南側に張り巡らしていた遮光ネット 4枚のうち 2枚が、風のせいですっぱりと切断されてしまっていた (これまたスゴイ。人間が力業で破こうとしてもできるもんじゃない) が、もう秋だから、修復は来年の夏にしよう。その時に遮光ネット 2枚分の 1,000円がプラスされるから、正味の修復費用は 2,774円になるのか。

 

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2011年9月22日

au 版 iPhone 登場のウワサ

日経ビジネスが "KDDI、「iPhone5」 参入の衝撃 ソフトバンクの独占崩れ、au で 11月にも発売" と報じている(参照)。これが本当だとしたら、ソフトバンクモバイルの回線の貧弱さを敬遠して iPhone 購入を控えていた層が、どっと au 版の iPhone 購入に走る可能性がある。

実際に Apple は「1国 1通信会社」の原則を崩し始めていて、米国でも AT&T の独占販売を崩して、今年 2月からベライゾン・ワイヤレスにも販売権を与えている。販売台数を増やしたいなら当然の成り行きだから、日本でもあり得ない話ではないが、日経は時々フライングすることがあるから、ちょっと慎重に成り行きを見守ろう。

私自身は 14~5年前に初めてケータイを持ったのだが、最初は Docomo のやったら無骨でメールもできない機種だった。ところが間もなく、当時は画期的だった大幅な家族割引のシステムにひかれて、J-Phone に鞍替えした。J-Phone は通話音質の良さが「ウリ」だったが、それはユーザーが少ないから自然に音がクリアになっていたもののようだ。

J-Phone は向こう様の都合でいつの間にか Vodafone、ソフトバンクモバイル(以下 SMB と略す)になった。だから私としては、iPhone を購入するのはとても自然の成り行きだったのだが、もしも私が Docomo か au のユーザーだったとしたら、SBM の回線の貧弱さに恐れをなして、iPhone にするか Android にするか、まだ悩んでいたかもしれない。

実際問題として、SBM モバイルの回線は、まったく使い物にならないというほど貧弱なわけじゃない。とはいえ、田舎に行くとつながらなくなるのはまだわかるとしても、ちょっと郊外に出ただけで、画面に表示されるアンテナが 1本だけになって、通話がブツブツ途切れたりすることがある。

「ちぇ、圏外かよ!」と舌打ちする隣で、Docomo や au のユーザーがフツーに通話しているのを見ると、やはりちょっとむかつく。あまり言いたくないけど、つくばの郊外にある私の自宅でも、たまに何かの拍子に 「圏外」 と表示されることがあって、愕然とすることがある。孫さん、何とかしておくれでないか。

iPhone が au からも販売されるのが事実ならば、2年縛りの解ける来年秋には、au 版の iPhone 5 に鞍替えすることも考えたい。いや、もしかして、SBM 側も企業防衛のために必死になって基地局を増やして対抗してくれるかもしれない。そうなったら、SBM のままでもいいや(と、SBM にプレッシャーをかける)。

さらに、SBM がさらなるサービス拡大として、今は封印されている iPhone でのテザリングを解禁してくれたりしないかなあなんて、期待してしまったりする。それが実現したら、今使っている E-Mobile の Pocket Wifi をすぐにでも解約するんだけど。

少なくとも、iPad 向け限定のテザリングぐらいさせてくれてもいいじゃないかと、私は思うのだが。

【同日 追記】

その後のいろいろなメディアの報道をみると、どうやら au 版 iPhone は本当のようだ。孫さん、本当に基地局を大拡充しないと、ごっそり au にもっていかれるよ。

 

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2011年9月21日

福島原発 「冷温停止」 実現の前倒しについて考える

政府と東京電力はこのほど、福島第 1原発事故収束への工程表を一部改定して、「冷温停止状態」の実現を年内に前倒しする意向を示した。「冷温停止状態」というのは原子炉圧力容器底部の温度を摂氏 100度以下にすることなんだそうで、「ちっとも『冷温』じゃないじゃん!」と言いたくもなるが、そこはそれ、フツーの世界じゃなくて原子力の世界なので。

事故直後に発表された工程表をみて、「あまりにも楽観的すぎる見通しじゃないの」と思っていた私は、「おぉ、やればできるじゃないか!」と一瞬喜びかけたが、よく考えればそれほど無邪気に喜んでばかりもいられない。

メルトダウンして格納容器に落ちてしまった核燃料はそのままだし、既に 100度以下になったとされる 1、3号機でも、放射性物質の放出は続いている。おまけに原子炉建屋地下の亀裂から地下水が流入するという、当初は想定していなかった事態も発生していることだし、事態はそれほど前進するというわけではない。

「冷温停止状態」という言葉からは、かなり安心できるステップに移行しそうなイメージをかき立てられるが、実際のところは、「事故を起こした 3基とも 100度を切ります」という数字上の一区切りというだけのことで、困難な作業はこれまで通り続くわけである。

とまあ、いろいろな不安定要因があることは誰も否定できないので、この「前倒し」については工程表には明記せず、「大雨や余震のリスクもあり、努力目標」(園田政務官)と位置付けられている。

そして、この「前倒し」発表の翌日の 21日、藤村官房長官が待ちかねたように、来年夏までに原発を再稼働させるという野田首相の発言を、政府方針として追認した。う~ん、これ、手回しいいなあ。良すぎるなあ。

うがった見方をすれば、産業界からの圧力を受けて原発再稼働への道を敷くために、「原発事故処理も、当初の見通しより前倒しで進んでいることだし」ということを既成事実化するために、「努力目標」なんていう苦しい但し書きを付けながらでも発表する必要があったんだろう。まあ、そのくらいの根回しはするわな。

既に何度も明らかにしているように、私の立場は 「反原発」 であるが、4月 18日の記事では次のように書いている。

私自身の立場も 「反原発」 ではあるが、自分としては 「現実的反原発派」 というポジションに立っていると思っていて、「ただちにすべての原発の運転を停止しろ」 などと言っているわけではない。

原発はゆくゆくはすべて止めなければならないが、現時点でそんなことをしたら、社会が壊れてしまう。原発を運転し続けるリスクと即時運転停止によってもた
らされる社会混乱のリスクを比べたら、後者の方がずっと大きいので、ここは仕方がないから、ある程度長い時間をかけて原発依存から脱却していくべきだとい
うのが、私の主張である。

それなら 「脱原発 の方がいいではないかと言われそうだが、心の底ではしっかりと原発反対なので、あえて流行りの言葉は使わずに 「反原発」と言い通している。

そういうわけなので、私は原発再稼働には何が何でも反対というわけではないが、「なるべく早い段階ですっぱりと止める」ということを前提にして、最低限の稼働に留めてもらいたいと思っているわけなのである。

そのための節電はいくらでもする。今年の夏だって、我が家はエアコンのプラグをコンセントから抜いたままでしっかりと乗り切ったんだし。

 

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2011年9月20日

「バスの日」 を巡る冒険

365日、年がら年中たいがい「何とかの日」というのがあるが、今日 9月 20日は「バスの日」なんだそうだ。Wikipedia によると、明治 36年のこの日、京都の地で日本で初めて乗り合いバスが走ったことを記念して、昭和 62年 10月に開かれた全国バス事業者大会で決めたという(参照)。

私としては、「日本最初の乗り合いバスって、どんなもんだったんだ?」と興味を覚えていろいろ検索してみたのだが、その過程で、明治 36年 9月 20日に走ったのが 「日本最初の乗り合いバスである」ということには、異説があるとわかった。

「京都滋賀地域情報 LOOKPAGE」 というサイトに、「9月の歴史 幻!京都第一号バスの歴史を追え!」という貴重な情報がある。このページの記述によれば、日本で最初に乗り合いバスが走ったのは広島(明治 36年 1月)で、2番目は大阪(同年 3月)。同年 9月 20日に京都で開業したのは、日本で 3番目の乗り合いバスだったということになっている。

一方、Wikipedia の方の記述では、広島のバスは京都から 1年ちょっと遅れて、明治 38年 1月に開業したということになっている。よく調べてみると、広島のバスはやはり明治 38年 1月に開業したもののようだ (参照)。

広島のバスが日本初の国産バス(エンジンはアメリカ製)で、定員 12人だったということに関してはどちらの情報も一致していて、一方京都のバスは米国製の 2人乗り蒸気自動車を 6人乗りに改造したものだった。これからみても、広島のバスの方が後のことと考えるのが自然で、「京都滋賀地域情報 LOOKPAGE」の広島のバスに関する情報は、何かの勘違いだったと思われる。

ちなみに時間軸では遅れをとっている広島側では、「バスとは 11人以上が乗れる車」と法的に定義されていることを理由に、「京都は 『バスの日』を横川(広島市内の地名)に譲ってほしい」とアピールしているらしい。後世の法律を明治の御代に当てはめるのは、個人的にはちょっとどうかと思うが。

ただ「京都滋賀地域情報 LOOKPAGE」では、大阪の乗り合いバスについて、「大阪市でも同年 3月に天王寺公園で開かれた内国勧業博覧会で、アメリカから輸入の蒸気自動車 2両が梅田駅から千日前まで運行した。これは会期中だけのアトラクションであった」とある。

明治 36年には確かに大阪で同博覧会が開催されている(参照)から、この記述はかなり信憑性がある。ということは、ここで触れられた大阪内国勧業博覧会の臨時アトラクションのバスが、「日本最初の乗り合いバス」であったかもしれない。まあ、臨時のアトラクションだから勘定に入れないということならば、「日本最初のバス」は、京都と広島の争いになる。

京都で最初に走ったバスは、「京都滋賀地域情報 LOOKPAGE」 のページに載っている写真でみる限り、2人乗りを無理矢理 6人乗りに改造しただけあり、いかにも窮屈そうでバスらしくはない。おまけに屋根がないので、雨の日は休業だったという。

見た目のバスらしさでいえば、広島の方に軍配が上がる。ただ、広島のバスは急仕立ての国産品でタイヤが間に合わず、馬車用の車輪を流用したので、しょっちゅう故障する粗悪品だったらしい。

いずれにしても「汽笛一声新橋を……」 と唱歌にまで歌われた鉄道ほどには、乗り合いバスというのは画期的なトピックではなかったようなのだ。新橋・横浜間を最初の鉄道が運行したのは明治 5年 10月 14日(今は 「鉄道の日」 となっている)と、きっちりと記録に残っているが、乗り合いバスの場合はそれから 30年も後のことなのに、かなりどさくさに紛れてしまっている。

こうしたどさくさを乗り越え、9月 20日が「バスの日」と制定されたのは、Wikipedia によれば、京都で二井商会 (創業者の福井九兵衛と坪井清兵衛の、2人の苗字に井が入っているのでこの社名になった) が始めたケースのみ、どさくさの中の奇跡ともいうべく、当時の営業免許証が現存しており、その公布日が 9月 20日と記されていることによる。

ということは、巷間言われる「日本で初めて乗り合いバスが走った日」というのも、どさくさ的にかなり怪しくて、9月 20日は「バス運行の営業免許証が交付された日」というのが本当のところのようだ。まあ、いかにもお手軽な改造自動車だから、免許が交付された当日からどさくさにまぎれて走り始めちゃったのかもしれないが。

どさくさはこれにとどまらない。二井商会のバスは創業開始したのはいいが、間もなく「交通規則未発令のため当分営業休止」という、思わずこけてしまいそうな通告を受けてしまい、それでもそこは京都人のしぶとさを発揮して、「試運転」名目で営業を続けたという。

ところが、既存のコンペチターである人力車夫とのトラブル(要するに「嫌がらせ」ね) が頻発した上に、「1区間 5銭」(満員でも 30銭)という料金ではとうてい採算が取れず、翌年 1月には経営破綻してしまったとある。

当時、人力車の料金はどのくらいだったのかというと、『梅若実日記』に明治 22年の記録として 「十一時四十五分ノ汽車二乗リ横浜より人力車往返五十銭」とあり(参照)、明治 44年の岐阜県益田郡役所「人力車賃銭表」には、二里十八丁(6km 弱)で、屋根付きが 58銭、屋根なしが 41銭とある(参照)。

人力車は目的地までピンポイントで運んでくれるタクシー的なものだったことを考慮しても、1区間 5銭というのは安すぎたかもしれない。というわけで、京都で最初の乗り合いバスは、4ヶ月の短い命だったのである。

ちなみに広島のバスも、国産車体のお粗末さに加えて馬車事業者からの反対にも手を焼き、1年もたずに廃業となっている。人力車や馬車の方がずっと力のある時代だったのだ。何しろ日本では戦後まで、人力で走る「人車鉄道」という信じられないような交通機関があったのだから、わからない話ではない。

余談だが、「バスの日」を広島側の主張通りに横川に譲るとすると、今度は広島側が京都側の根拠である「9月 20日」という日付にただ乗りすることになり、新たな問題が発生する。ここは必死になって広島側の正確な日付を特定してもらわなければならないだろう。

 

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2011年9月19日

風評被害に荷担するようなことは、とにもかくにも避けたい

愛知県の花火大会で、住民の苦情により福島産の花火打ち上げが中止になったという。朝日新聞によると、福島の花火に対する抗議の電話やメール約 20件が、市役所や市商工会に「殺到」したのだという(参照)。20件程度で「殺到」と言っていいのか、私は首を捻ってしまうがなあ。

住民にしてみれば、地元の上空で花火を破裂させるのだから、ちょっと気持ち悪い気がしたとしても無理もないが、よく考えれば、それはあまり根拠のない話だとわかるはずだ。

放射線の値が高い地域の農作物とか、野ざらしになっていたものとかなら、そりゃちょっと慎重になってもらいたいと思うのはもっともだが、花火というのは、火薬を丸めたものである。火薬は (福島以外のところにあるかもしれない) 化学工場で作られたもので、製造過程で放射性物質を浴びまくった可能性は、とてもとてもとても低い。

先日は福岡のどこだかで、「福島のトラックが来るだけで放射能をまきちらす」 なんてことを言いだした住民に負けて、被災地支援イベントが中止になった。まったく風評被害もいいところである。こんなことで妙なことを言い出すのは、学校で言えばモンスター・ペアレントみたいなものだ。

よくまあ、恥ずかしげもなくそんな馬鹿なことを言い出せるものだと思う。心ある地元住民は、「同じ地域に住む者として恥ずかしい!」 ぐらいのことを、きちんと大きな声で言ってもらいたいものである。

ただ実際問題として、今回の原発事故による放射能汚染は、かなり進んでしまっている。私の住んでいる茨城県南部も、数値的には案外高い。しかし私としては、汚染されてしまったんだから、これはもうしょうがないと思っている。(ただし、除染の必要がないと言っているわけではない)

農作物にしても、検査結果が基準値以下で店頭で販売されているものならば、気にせず食べようと覚悟を決めている。体の細胞分裂が盛んな子供には、できるだけ気を付けてあげたいと思うが、大人なら大丈夫だろう。私も来年還暦だし、どうしてもあと 30年以上生きようとも思わない。軽い気持ちで引き受けようと思う。

そして風評被害に荷担するようなことは、とにもかくにも避けたいと思っている。

【22日 追記】

この問題で、愛知県日進市の萩野幸三同市長が 22日、福島県川俣町役場を訪れ、古川道郎町長らに 「新たな風評被害への心労を招き、心よりおわびする」 と謝罪した。市民の理解を得て、早期に同町の花火を打ち上げる考えを示したという。(参照

やれやれ。

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2011年9月18日

FaceTime って、なかなか使えそう

Apple 製品で使える FaceTime というアプリを、私は今日という今日まで見くびっていた。そんなの使うより、Skype の方がずっといいじゃんと思っていた。しかしその考えは改めることにする。FaceTime は使いでがある。

FaceTime を意識したのは、iPad 2 を買った時だった。画面に何やら見慣れないアイコンがあり、"FaceTime" と書いてある。ちょっとググって見て、Skype のようなテレビ電話のできるアプリだと知った。それっきり、使ってみようともしなかった。だって、テレビ電話がしたいなら Skype を使えばいいじゃん。

それに、FaceTime のアイコンは iPad 2 だけにあって、iPhone 4 のデスクトップにはないので、私は iPad でしか使えないアプリだと思いこんでいた。しかしそれは大きな勘違いだと、今日初めて知った。

FaceTime は iPhone 4 でしっかり使えるのである。iPhone の方にはアイコンがないが、FaceTime でテレビ電話をしたかったら、住所録から相手を選び、そのちょっと下の方にある ”FaceTime" という表示をタップすると、相手にリクエストが送られるのである。

今日、末娘の iPhone 4 に FaceTime のリクエストを送ったら、娘は初めてだというのになんのことなく応答して、ちゃんとテレビ電話ができた。なんだ、ずいぶん簡単じゃないか。

Skype だと相手側でも Skype を起動して待機していてもらわなければならないが、FaceTime なら、相手が Wifi につながっていさえすれば、突然リクエストを送っても、相手が応答しさえすればテレビ電話がスタートする。

Skype よりずっと簡単だ。Skype のやり方をいくら教えても覚えられないオバサンでも、これならできないはずがない。孫とテレビ電話をしたいけど、Skype が難しすぎてわからないというおじいちゃん、おばあちゃんでも、簡単にできる。

とりあえず、私が実家に行きさえすれば、父が私の iPad に向かって孫とテレビ電話ができる。父は今、体調を崩しているが、こんな体験をすれば少しは元気が出るかもしれない。来週の月曜日に酒田に行くので、さっそく試してみよう。

 

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2011年9月17日

雰囲気すら伝わりにくい 「雰囲気のモノ」

昨日の 「三井住友海上のラジオ CM の意味がわからない」で、「コンピューターは 1 を 100にも 1000にもしてくれるけど、ゼロを 1 にできるのは人間だけなんですよね。すごいなあ、人間って」というコピーの素敵な解釈があったらコメントに書いていただきたいと書いたのだが、残念ながらこれはというような解釈は、これまでのところあがっていない。

論理的に考えたらツッコミどころが多すぎて、どうしてもナンセンスにしか思われない。というわけで、要するにあれは、「気分のモノ」という、日本の CM によくあるやつと考えればいいのではないかという気がしてきた。

「コンピューターは 1 を 100にも 1000にも」とか「ゼロを 1 にできるのは」とか、妙にデジタルっぽい言い回しをしているのだが、よく見ればものすごくアナログな、「気分さえ伝われば」みたいな表現だ。「人間って、すごいなあ」ということを言うのに、ちょっともっともらしい雰囲気のモノとして、数字を引っ張り出してきただけである。

つまるところ、日本の CM が得意とする「イメージとして何となく共感してもらえれば OK」という手法なのだ。深く突っ込んでは身も蓋もないことになるという類のコピーなのである。

とはいいながら、このコピーは突っ込みたくなってしまう要素満載すぎるではないか。「気分のモノ ですから」とか「雰囲気さえ伝われば」とかいう逃げ場を自ら極端に狭くしてしまって、それで、雰囲気さえも伝わりにくくしてしまっている。

昨日の記事の keicoco さんのコメントにあるように、同じツッコミどころ満載でも、ソフトバンクの「白戸家の故郷の夏シリーズ」のように、そんな次元は圧倒的に超越してしまうと、それはそれでおもしろいモノになる。

三井住友海上のサイトに「CM 情報」というページがある(参照)。しかしこのページには、テレビ CM の情報しか載っていない。ラジオ CM は無視されている。つまり、あの CM は自社サイトでも無視してしまうぐらい、力が入っていない産物ということらしい。

 

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2011年9月16日

三井住友海上のラジオ CM の意味がわからない

たった今、車を運転して仕事先から帰ってきた。帰り道、ずっとカーラジオでソフトバンク対日本ハムのナイターを聞いていた。今回書きたいと思うのはこのナイターのことではなくて、スポンサーの三井住友海上のラジオ CM についてである。

「コンピューターは 1 を 100にも 1000にもしてくれるけど、ゼロを 1 にできるのは人間だけなんですよね。すごいなあ、人間って」 ―― これは、ナイターでチェンジになる度に繰り返し流された三井住友海上の CM である。あまり何度も繰り返されたので、ちょっといらっときてしまった。

申し訳ないが、この CM コピーの意味がわからないのである。まず、「コンピューターは 1 を 100にも 1000にもしてくれる」 というが、そんな勝手なことをするコンピュータがあったら、使いにくくてしょうがない。コンピュータは、1をあくまでも 1とするからいいのである。

「100にも 1000にもする」のは、100倍、1000倍にするか、99か 999を足すからだろうが、そのかけたり足したりする数はコンピュータの中にあるわけじゃない。人間が加工するからできるのである。

さらに「ゼロを 1 にできるのは人間だけ というのもわからない。私は未だかつて、ゼロを 1 になんかしたことがない。どうしたらそんなことができるのか、想像もつかない。ゼロそのものを 1にするなんていうのは、人間技じゃないだろうと思うのである。神業か奇跡だ。

「無から有を産む」 なんていうことがあるが、それにしても、まったくの「ゼロ」からは何も生まれない。無から有が生じたように見えるのは、内在していた可能性が引き出されただけである。

いやあ、本当に、「コンピューターは 1 を 100にも 1000にもしてくれるけど、ゼロを 1 にできるのは人間だけなんですよね」って、どういう意味なんだろう。私が頭悪くって理解できないだけなんだろうか。

このコピーの素敵な解釈があったら、コメント欄に書き込んでいただきたいと思うのである。

 

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2011年9月15日

「道後」ってどういう意味なのか、やっとわかった

昨日四国の松山から帰ってきた。松山も暑かったが、関東も暑い。どうやら週末までは厳しい残暑が続くようだ。

松山では道後温泉でゆったりしてきたわけだが、この「道後」という言葉の由来について、なんだかわけのわからない気がしていた。古い地名で「前」だの「中」だの「後」だのが付くのは、「越前/越中/越後」 「備前/備中/備後」「肥前/肥後」など、旧国名で、都に近い方から、前 - 中 - 後と分かれていったのが由来である。

古く「越(こし)の国」と言ったところが、越前・越中・越後(今の福井東部、富山、新潟)に別れ、同様に「吉備(きび)の国」 が備前・備中・備後(今の岡山東部、岡山西部、広島東部)、「肥(ひ)の国」が肥前_肥後 (今の佐賀・長崎、熊本) に分けられた。ところが愛媛県は古くは「伊予の国」と言ったので、「道後」といってもそれに対応する旧国名がない。

これについて、道後公園の案内係で、「この辺の歴史のことなら、知らんことはないぞなもし」といった風情のおじさんに訊ねたところ、とても親切に教えてくれた。

大化の改新後、今治(あのおじさん、「いまばる」 と発音していて、なかなかいい感じだった)の辺りに伊予の国の国府が置かれたが、一般的には国府付近を「道中」といい、それより都に近いところが「道前」、遠いところが「道後」となるのだそうだ。そして後に、今の道後温泉のあるあたりのみを指して「道後」と称するようになったのだという。

それだけ今の道後は、温泉も湧いたし、鎌倉時代から安土桃山時代まで伊予の国を支配した河野一族の「湯築城」という城もあって、松山市の中心とは別個の発展を遂げた重要な土地だったということらしい。加藤嘉明が松山城の築城を開始したのは、関ヶ原の合戦以後のことだから、むしろ道後の地域の方が、先に発展したもののようなのである。

つまり、今はどちらも松山市だが、昔は別の土地だったのだ。なるほど、だから文化の薫り高い松山中心地と、どこかじゃらじゃらした道後温泉の辺りは、雰囲気的にもずいぶん違っているわけなのだね。

まあ、こんなことは地元の人には当然の常識なのだろうが、こちらは何しろ東北生まれの関東住まいだから、今回初めて知ったわけなのである。

ただ私はなにしろ、こういうことにはなかなかしつこいので、「じゃあ、日本全国に国府があったのに、どうして『道後』の地名は松山にしか残ってないんだ?」 と疑問に思いながら帰ってきたのである。そして今日、ググってみたのだけれど、現存する地名としては愛媛県松山市にある「道後」関連以外は見つけることができなかった。

ただ、「imajouの独り言」というサイトにおもしろい記述が見つかった(参照)。ちょっと長くなるが引用させていただく。

道前・道後の地名は、中世の史料によると多くの地域で使われていたことが確認でき、愛媛県では道後の地名が今に残り、中でも道後温泉の名は全国に知られている。道前の名は秋田、愛知、福島、宮城、岩手県などに残っている。

(中略) 15世紀の史料では、神崎庄(現在は伊予市内)や浮穴郡太田(現在喜田郡内子町小田)が道後と認識されていたことが判り、この時代には道後はまだ広域地名であったことが確認できる。

16世紀中頃になると、湯築城や道後温泉周辺を指す用例が散見されるようになる。また、河野氏やその権力体を指し示す用例が確認できるとのことで、広域地名であった道後が、政治・経済の中心である現在の道後を指す地名に変遷して行ったと見られる。

imajou さんがこの情報を仕入れたのは、"平成 21年度湯築城資料館企画展「道後の由来」" だったようだ。ふ~む、これって、前述の道後公園の中の資料館である。あの案内係のおじさん、どうやらただ者ではないのだな。道理でなんでも知ってると思った。

いずれにしても、国府付近の都より遠い地域を指す一般名詞に近い広域地名だったものが、愛媛県の松山付近において、だんだんと範囲を狭めて固有名詞化したもののようなのである。

一応もっと調べてみると、広島県にはつつじの名所「道後山」があり、伊勢では「北伊勢 3郡(員弁・三重・朝明)を道前三郡、元からの神三郡を道後三郡と呼ぶ場合もある」という (参照)。

また、『古代交通研究』 第 13号(参照)には、「下総国の諸郡を道前,道後で捉えた場合、道前は葛飾,千葉,印幡,匝搓,海上,香取,埴生、道後は相馬,猨島,結城,豊田となり (後略)」 という記述がある。この場合は、道前、道後というのは、まさに一般名詞である。

このように、ほとんど一般名詞だった 「道後」 が愛媛県において固有の地名となったのは、その辺りが重要な地域となったからだと思われる。他の国では国府より先の地域は辺境につらなるので、どこまでも広域地名的な漠然とした言い方になるわけだが、伊予の国では様子が違っていた。

たまたま、国府の置かれた今治よりも、今の道後温泉のあるあたりが政治経済的に中心となってしまったので、固有名詞化してしまったのだろう。この特殊性により、この地域においては広域地名的にも 「道前・道後」 という区分が今でも明確にあり、「道前道後水利総合開発事業」なんていうのがあったりする。

なるほど、こうした「道」というコンセプトがあったからこそ、「北海道」という地名もできたんだろうなあと思いあたった。

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2011年9月14日

ユニバーサル・デザインを巡る冒険

お寺さんにもいろいろあって、お宝的仏像などを一杯所蔵しているところがある。あるいはそれほどのお宝ではないが、とにかく仏像が山ほどあるお寺さんもある。中には 「五百羅漢像」 などといって、500体もの羅漢さんが押し合いへし合いするように並んでいるのを見せてくれるところもある。

そしてそれを案内・説明してくれるお坊さんが、「こちらには 500もの羅漢さんが並んでいらっしゃいますが、驚くべきことに、同じお顔は一つもありません」 なんて言ったりする。

こうした説明を聞くたびに、へそ曲がりの私は、「そりゃそうだ。同じ顔を作る方が難しいだろう」 と思ってしまうのである。一つ一つ手作りなのだもの。全部違っていて当然だ。

ところが機械で大量生産する時代になると、同じモノをたくさん作る方がずっと楽になる。例えば電車の吊り革である。昔は吊り革の長さは一定だった。そしていつの頃からか、ドア付近と通路の上の吊り革だけがちょっと短めになって、長さが 2種類になった。

ドア付近と通路は人の動きが多いので、吊り革が頭にぶつからないように配慮しているのだろう。私なんか 6尺近い身長だから、普通の長さの吊り革だと顔面にガシガシぶつかる。それに吊り革なんか低すぎるから、普段は吊り革をぶら下げているバーにつかまっている。

しかし中には、普通の長さの吊り革にも手の届かない人がいる。子供や老人には珍しいことじゃない。日本は文明国には珍しく、年寄りに席を譲るということが当たり前じゃない国だから、背の低いお年寄りはドアのそばの縦のバーしか捕まるところがない。

しかし最近になってようやく、吊り革の長さのバリエーションが増えているようなのだ。田園都市線などでは、一定間隔で普通より長い吊り革がぶら下がっているという。子供や老人でも捕まりやすいようにという 「ユニバーサル・デザイン」 らしい。

一定スペックの製品を大量に作ることによる効率化という発想から、ようやく進化しつつあるようなのだ。

しかし、よく考えると、お年寄りが立っているのを見かけたら、ほぼ自動的に立って席を譲るような習慣が行き渡れば、こんなことは必要なくなるかもしれない。それこそ、ソフトウェアのユニバーサル・デザインなんだろうけどね。

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2011年9月13日

ああ、あこがれの道後温泉本館

出張で四国の松山に来ている。実は愛媛県に足を踏み入れたのは初めてのことだ。松山に行くことがあったら、あの夏目漱石もご贔屓にしたという道後温泉本館というところに是非行ってみたいと思っていたのだが、それがついに今日叶ったのである。

かねて準備よく、宿泊するホテルは道後温泉近くに予約しておいた。この辺りはなんと、ビジネスホテルで丹前姿に着替えて、部屋に備付の雪駄を履き、そのままの姿で街を歩いて、道後温泉本館まで行けるのである。

ビジネスホテルが、たまたま温泉街にあるというココロのようなのだ。で、私も丹前姿になってホテルから出て、道後温泉本館に行った。

入浴料は、400円から 1500円まで4段階ある。二階の広間でのんびりするという楽しみを放棄して、単に温泉に入りさえすればいいというのが「神の湯階下」で、入浴料は 400円だ。これに二階でのんびりする権利を加えると、「神の湯二階席」というコースになって、値段が 800円になる。

「霊(たま)の湯」を選ぶと、二階席でのんびりしてお茶とお菓子をいただくコースが 1200円、三階の個室になると 1500円となる。私は個室まではいらないから、「霊の湯二階席」1200円を選んだ。

「霊の湯」と「神の湯」は、泉質は多分同じだと思う。さらさらした単純アルカリ泉で、入っていると確かに肌がすべすべするような気がする。なかなか気持ちのいい湯ではある。

「霊の湯」の方が狭くて暗い浴場なのだが、こっちを選択すると、広々とした「神の湯」の方にも入れる。一粒で二度美味しいので、値段が高いのかもしれない。

残念なのは、制限時間が 1時間となっていることだ。1時間で引き上げなければならないのである。気持ちがいいから 2時間はゴロゴロしていたい気がするのだが、そうはいかないのだ。そんなことをされたら、客の回転が悪くなってしまうのだろう。

というわけで、最後に天皇陛下がお入りになるという又新殿や三階の個室「坊ちゃんの間」を見学して帰ってきた。時間感覚がおかしくなる、ちょっと不思議なお風呂だった。これは、松山に来るたびに足を運びたいところである。

[9月14日 追記]

湯上りに明治の風や簾越し

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2011年9月12日

非日常的光景を見ると、ついフツーじゃなくなる?

今回の震災の被災地みたいな、とても非日常的なところを視察すると、人間の心理ってつい、ちょっとフツーじゃなくなるみたいなところがあるのだろうか。

七月の宮城県知事との面会で、「親分風吹かせたいシンドローム」を発揮しすぎて、復興担当相の座を棒に振った松本龍氏といい、今回の「えんがちょ・パフォーマンス」で経産相を 9日間で辞めたの鉢呂吉雄氏といい、いつもはあんまり表には出せないと思って抑えてる子供じみた欲求が、魔が差したように出ちゃうってことがあるとしか思えない。

別の言い方をすれば、つい「地が出ちゃう」ってことだ。

大臣や閣僚の「問題発言」の多くは、「内心で思っていたとしても、公に言ったら非常識になること」(森喜朗氏の「無党派層は選挙の日には寝ててくれればいい」とか)か、「不適切な比喩」(柳澤伯夫氏の「産む機械」とか)かのどちらかである。ところが、今回のはちょっと様相が違う。

何しろ、あんまりくだらなすぎるのである。幼稚園児の「うんこ付けちゃうぞ!」「え~んがちょ!」とレベルが一緒で、こっちの方が恥ずかしくなる。数ある閣僚問題発言の質を、ここまで落としたくはなかったなあと思うのである。脱力してしまうのである。

もっとも冒頭で触れたように、あまりにも非日常的な光景を目にしたせいで心が不安定になり、そのバランスを取るために、日頃は抑えていた心的要素がつい表に噴出しちゃうってことがあるのかもしれない。

しかし、フツーはそんなことは抑えるよね。新聞記者にそんなアホなジョークは言わないよね。つい言いたくなったとしても、我慢するよね。一方的に言ったとしても、新聞記者は「え~んがちょ!」なんて言うわけにいかないんだし、オチがつかないのはわかり切ってるよね。

で、さらに脱力してしまったのが、今日の毎日新聞の記事である。「鉢呂経産相辞任:後任に枝野氏 首相、即戦力と判断」 という見出しだ。ということは、フツーの閣僚人事では、必ずしも 「即戦力」 である必要はないということなんだろうか。

これについては、一川保夫防衛省が「安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロールだ」と記者団に語ったように、「即戦力」である必要がないどころか、「素人」だって大臣になれるということみたいなのである。まあ、そんなことは昔から薄々わかってはいたけれど、当人の口からそれを聞けちゃうとは、日本はよくよくの国である。

私は個人的には、野田首相にはしっかりやってもらいたいと思っている。次の総選挙では民主党には決して投票しないつもりだが、この状況では総選挙はしばらくあり得ない。ということは、野田さんにきちんとやってもらうしかないではないか。それだけに、身内で自爆するような馬鹿な言動には、少なくとも気を付けてもらいたいのだよね。

 

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2011年9月11日

9・11 と 3・11 で、やっぱり思ってしまうこと

9・11 から 10年を迎えたニューヨークでは、グラウンド・ゼロで追悼式典が行われた。オバマ大統領が旧約聖書の詩編の一節を朗読し、ポール・サイモン、ヨーヨー・マなどのアーティストが追悼の演奏を行った。

米国、とくにニューヨークでは、あの日以来、世界認識が大きく変わってしまったのだといわれる。崩落したワールド・トレード・センター・ビルで、あるいはその近くで仕事をしていた人たちは、身近で戦争が起こったような経験をした。あの日は交通網までがストップし、多くの人が帰宅難民になったらしい。

この日の経験を、ブログに書き記した市民も多い。昨日の TBS ラジオではそのうちの何本かの記事を日本語に訳して読み上げ、さらにその記事を書いた当人に改めてインタビューしていた。

ようやくの思いで自宅に電話が通じ、テレビを見ていた妻からの情報で初めてテロだったと知った男性。ハドソン川を越えたニュージャージーの自宅まで数時間を歩きながら、滅多にないスカートとハイヒール姿で出勤してしまったことを呪い続けた女性。

初めはわけがわからずにカメラマンと一緒に現場まで取材にでかけ、ビルの崩落を目の当たりにして、命からがら逃げまどいながら決死の中継を行った TBS の駐米スタッフ。

多くの人が避難する道すがら、ありったけの水を買い求め、まったく見知らぬ人と話をしながら断片的な情報を交換し、助け合ったと、思い出を語っていた。そしてこうした経験をブログに書き記した人がいる一方で、携帯電話を持っていない人も少なくない時代だったと、改めて認識した。

10年前は、近いようで遠い。そして、その 10年後にちょうど半年足りない今年の 3月 11日。日本であの震災が起こった。日本でもあの日以来、世界認識が大きく変わってしまった。

9・11 では 3000人近くが命を失い、3・11 では 犠牲者が 2万人以上に達した。10年前に米国民が茫然と経験した 「世界認識のシフト」 を、今年我々が似たような意識レベルで経験したが、そのシフト幅はさらに大きかったかもしれない。もっともその後、米国はイラクでそれ以上の兵士の命を失うことになったのだが。

震災以後、とくに米国民が「オペレーション・トモダチ」や義捐金送付など、復興支援に親身の協力をしてくれたのは、こうした「共通意識」があったからではなかったかと思う。

Twitter では "prayforjapan"(日本のための祈り)というタグで、膨大な書込みがあった。多くの名もない人が世界中で日本のために祈り、悲しみ、行動を起こしてくれたことを知った。

3・11 大震災が起きたのは金曜日だった。そしてその翌週の金曜日である 3月 18日、多くの米国人が勤め帰りに赤十字や慈善団体に立ち寄り、ほんの小額ではあるが、日本のための寄付をしたことを、Twitter にさりげなく書き残してくれている。

"Stormy Monday" というブルースに、"The eagle flies on Friday"(金曜日に鷹が飛ぶ)という歌詞がある。ここに出てくる "the eagle" とは、鷹がプリントされたドル紙幣のことで、アメリカのブルーカラーの pay day(週給の支払日 のことを意味している。

今でも金曜日に現金で週給をもらっているとは思わないが、多くの米国人のブルーカラーが小金の入るウィークエンドに、飲みにも踊りにも行かず、10ドル、20ドルと寄付してくれた。そのことに私は、かなり感動したことを覚えている。

10年前、世界はテロのニュースに愕然とし、今年は震災、tsunami、原発事故に愕然とした。その「愕然」には、テレビで流される映像が大きな役割を果たした。世界は今後しばらく、「3・11 から何年」と改めて思い出し、その半年後に「9・11 から何年」と報じるのだろう。そして、あの忌まわしい映像をもう一度眺めるのだろう。

しかし、同じ「11日」という日に起きた 2つの厄災を、忌まわしい受動的な記憶に止めるだけでは、何の教訓を得たことにもならない。世界認識のシフトをオルタナティブな方向への一助にしなければならない。10年目の年に起きた災害で、私はそのことを確認した気がする。

 

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2011年9月10日

10回目の 9・11 偶像崇拝と偶像憎悪

あの 9・11 テロから 10年経つ。そう、あれは 2001年 9月 11日だった。当時勤めていた業界団体が江東区有明のビッグサイトのすぐ近くにあり、そこから 2時間かけて帰宅すると、テレビの中であのツィンビルの片方が煙を上げていた。その時点での報道のされ方は 「事故」 という印象だった。

ところが間もなく、もう片方のビルにも、小さなプラモデルが冷や奴にめり込むように、2機めの飛行機が突っ込んだ。さらに別の飛行機が、ペンタゴンの一画にも突っ込んだという。この時点で、それが「テロ」であることが、誰の目にも明らかになった。これまで経験のない事態に、私はどう反応していいのかわからなかった。

こんな大事件について、私はタイムリーな記事を書いた憶えがない。それもそのはず、私はこの事件が起きた時点では、自分のサイトをもっていなかった。

この何年も私は、何か大きなニュースに接する度に、まず「このニュースを、自分のブログで取り上げるかどうか」の判断を即座に行い、取り上げると決めたら次に、「どんな視点で書くか」を考える癖がついてしまっている。ところが 10年前の 9月 11日、私はアウトプットを考えることなく、ただただ茫然とインプットされまくっていた。

私のサイトは、「9・11 以後」 ある。9・11 のほぼ 4ヶ月後、年が明けた 1月 16日に私はようやく自分のサイトをもち、この日早速、2本のコラムを書いていいる。そしてその中の一つが "「小屋」 の時代 偶像崇拝の時代の終わり" というものだ。

実はこのコラムの半分以上は、9・11 テロの 2ヶ月後ぐらいに書いたものである。当時、私は勤務していた業界団体のサイトに、勝手に匿名のサブサイトを作っていて、いろいろなトピックスに関するコラムを書いていた。

このサブサイトが差し障りがあるということで、廃止になったのを機に、書きためたコラムのいくつかを自分のサイトに引っ越しさせたのである。上述のコラムは、そのうちの 1本だ。そして自分のサイトへの引っ越しにともない、私は次のような文章を付け加えた。

「偶像崇拝」 を禁じるイスラム原理主義者たちは、実は「アメリカ的なるもの」や「資本主義的なるもの」を現す「偶像」を憎悪していただけのようにも思える。しかし「偶像崇拝」が害毒であると同様に、「偶像憎悪」も時として真実を見誤らせる。

アッラーが教えたのは、言葉を変えて言えば、「偶像を相手にするな」ということなのではなかったか。偶像憎悪は「裏返しの偶像崇拝」に姿を変えることがあるのだ。

9年半前の私、ちょっと冴えてたかもしれない。

そして今、アメリカはグラウンド・ゼロにどうやら新たな偶像を建てようとしているようなのである。それがいたずらにヴァルネラブルなものでなければいいのだが。

 

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2011年9月 9日

1,700円で、自宅 PC が 「クラウド」 になっちゃった

"LogMeIn" というサービスを利用し始めた。元々法人用としては、外に持ち出したノート PC から社内の PC にリモートアクセスしたりするために、年契約ベースで運営していたらしい。PC 5台の利用で、年額 34,400円ということになっている。そんなに高くはない。

ただ、個人用としてはそんな大層なサービスは必要ない。私がこのほど購入したのは、LogMeIn Ignition という iPad/iPhone 用アプリで、1,700円で買える。ちょっと高い気がするが、法人用と比較すれば安いモノだ。

そして、1度買ってしまえば iPhone にも無料で同期して使えるので、1粒で 2度おいしい。そして PC 側には無料の試用版をインストールすればつながるから、結局のところ、経済的にはそれほどの負担じゃない。

近頃私は、外出するときは PC なんていう重いものはもたず、iPad をもって出かけるようになった。軽いし、いつでもどこでもさっと取り出してすぐに起動できるし、便利ったらない。ところがたまに不便を感じるのが、PC に保存しておいたデータにアクセスできないということだ。

ちょくちょくアクセスする必要のあるデータは MobileMe という Apple のクラウド・サービスに保存してあるが、これってファイル毎に 1つずつアップロードしなければいけないので、結構面倒なのだ。フォルダを 1度にど~んとアップロードすることができないのである。

MobileMe は近く iCloud というより進んだサービスに移行するというから、結構楽しみにしているのだが、それでも、自分の PC 内にあるデータをすべてクラウドにおくと、多分デフォルトの容量では足りず、有料サービスを利用しなければならないだろうと思う。その辺りが痛恨である。

ところがこの LogMeIn というサービスを使うと、外に持ち出した iPad から (もちろん iPhone からでも可能だが、画面が小さいからあまり現実的ではない)、自宅の PC にアクセスできちゃうのだ。

インターネット経由でアクセスすると、iPad の画面に自宅 PC の画面が、まんま映し出されて、画面をタッチすると遠隔操作できてしまうのである。ファイル管理のためにエクスプローラ的な画面にすることも、もちろん可能だ。

これを使うためには、自宅の PC を常に起動し、LogMeIn プログラムを実行して、しかもスリープに入らない設定にしておかなければならないから、のべつつけ放しにしておくわけにもいかないが、PC で作成したファイルへのアクセスが必要な時でも、iPad だけを持ってでかけることが可能というのは、かなりありがたい。

なんとなく、自宅のPC が個人用の 「クラウド」 になっちゃったような気がしている。

あるいは、しょっちゅう PC の操作法がわからなくなって電話で聞いてくる親とか年配の友人とかの PC に、無料の試用版をインストールしてもらえば、リモートで操作しながら教えてあげることもできる。

普段は LogMeIn のプログラムをオフにしておけば、無闇にリモートからアクセスされることもないから、セキュリティ的にも一応安心だ。

 

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2011年9月 8日

孫さんのメガ・ソーラー構想のとっかかり、大幅縮小だってさ

ソフトバンクが北海道帯広に建設するメガ・ソーラー(大規模太陽光発電)実験プラントの発電規模が、最大で 100キロワット程度になることがわかったという。当初の想定が 1,000キロワット程度とされていたから、10分の 1 になったわけだ。(参照

北海道新聞の記事によると、"プラント設置にかかるコスト面などを考慮したための「下方修正」とみられる" ということになっている。「作ってはみたけど、当初の見込みの 1割しか発電できませんでした」ではなく、「よく考えたら、そんなに大きなプラントは作れないので、規模縮小します」であるだけマシだけど、まあ、腰砕けには違いない。

一部では、私は太陽光発電万々歳の推進派で、孫さんのメガ・ソーラー構想にも両手をあげて賛成していると誤解されているフシがあり、このニュースを知って「ほぅら、みたことか」なんてことを言われかねない。そこで、一応こちらから先に書いておく。

私は太陽光発電には大きな期待をもっているが、メガ・ソーラー推進という考えを書いたことは一度もない。別に積極的に反対はしないが、しゃかりきになって建設推進するようなことではないと思っている。

それは私の過去ログをご覧いただければわかる。私の基本コンセプトは、「全国津々浦々に、屋根に太陽光パネルを乗せた住宅や、屋上や外壁を太陽光パネル化した事業所が増えれば、電力会社の負担はベースロードに集中できるので、原発への投資は不要になる」という、見ようによっては「ささやか」なことだ。

もっと言ってしまえば、ソフトバンクのようなビッグ・ビジネスが政治がらみでメガ・ソーラー分野に進出すると、またぞろ利権やら何やらのややこしい問題が発生して、話がうっとうしくなるなあという危惧を抱いていた。

今年 7月 10日の「エアコンを使わない夏 4」という記事では、koji さんの、家庭用太陽光パネルの有効性についての記事を紹介してくださった貴重なコメントに応え、"私は孫さんが言ってるメガソーラーに関しては、「やりたければ、どうぞ」という程度の関心です" なんて、甚だ冷淡なことを書いている。

で、最初に紹介した北海道新聞の記事から推し量ってみると、孫さんとしては当初に上げたアドバルーン的構想に見合うほどの資金や補助金が集まりそうにないので、計画を大幅に縮小したということなんじゃないかと思われるのである。

まあ、「実験プラント」でもあることだし、そのくらいの規模からスタートする方が、むしろ話がややこしくならずに済みそうだ。冷静にみれば「しかるべし」というニュースなのだが、下手すると「ほうら、みたことか。太陽光発電なんてうまくいくわけがない」なんて、妙に短絡的な誤解につながりかねないのが、いやだなあと思うところである。

 

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2011年9月 7日

「台風」 と "typhoon" と「将軍」 の関係を巡る冒険

昨日の 「台風の語源は英語の "typhoon" というけど……」 という記事に、きっしーさんから貴重なコメントをいただいた。西洋で初めて "typhoon" に類する言葉が出てきた文献について、ニューヨークのコロンビア大学で中国文学を研究する Frederick Hirth 博士がまとめた情報だ。

英語書籍のページ画像なので、テキストでの引用なんていう面倒なことはしたくないが、読むだけなら こちら のリンク先で読める。きっしーさんのコメントに対するレスはちゃんと書いたのだが、改めて独立した新記事にする価値があると思うので、こうして書いている。

上記のリンク先の Frederick Hirth 博士による英語文献で紹介されている内容の重要ポイントは、次の 3つである。

  • ヨーロッパの文献で最初に "typhoon" に類する言葉が現れたのは、フェルナン・メンデス・ピント の "Pinto's Journey" という 1560年の著述で、その中にポルトガル語で "tufaõ" とある。

  • この言葉は極東を航海する船乗りの間では、警戒すべき自然現象として広く知られていたと思われる。

  • 語源となった中国語は "tung fung" で、意味は "easterly wind" (東風) である。

フェルナン・メンデス・ピントはフランシスコ・ザビエルの同時代人で、日本にも何度か上陸しているので、この名前に憶えのある人もいるだろう。しかし彼の冒険譚には作り話が多く、ポルトガル語の駄洒落に "Fernão, Mentes? Minto!"、(「フェルナン、嘘ついたか? ついたよ!」) というのがあるほどだという。

しかしはったりが多いとはいえ、一定の資料的価値は認められている。南シナ海に発生する強烈な嵐のことを "tufaõ" と言うという紹介自体は客観的な事実であり、疑う必要はないだろう。当時極東に進出していたポルトガルの船乗りにとって命の危険につながる  "tufaõ" は広く知られていただろうから、それではったりをかます必要は全然ない。

問題は語源となる中国語だ。「台風」の語源説として頻出する中国語の「大風」や「颱風」ではない。「東風」だというのである。意外だが、考えてみれば「大風」「颱風」では、発音的に "tufaõ" というポルトガル語になりにくい。それは、後の英語の "typhoon" から引きずられたバイアスの可能性がある。

あるいは別の語源説である「ギリシャ神話に登場する巨大な怪物テュポン (Typhon)」からというのもあるだろう。ちなみに語源説には「嵐を意味するアラビア語の "tufan" から来た」というのもあり、これは "tufaõ" によく似ているので、西欧では有力のようだ。

しかし "typhoon" の「南シナ海で発生するサイクロン」という地域限定の語義からすれば、他の語源との影響し合いは多少あったとしても、基本的に中国語由来という視点は外すことができないだろう。これは自然現象の命名ルールによくみられ、日本語の 「津波」 が "tsunami" という国際語になったようなもので、ごく自然なことある。

昨日の記事で紹介したように、Wikipedia には "英語の 「typhoon」は、古くは「touffon」と綴り、(中略)中国語の「大風」が由来とする説は不自然" とある (参照)。なるほど、「大風」が語源なら "touffon" とつづるのは不自然だが、しかし語源が「東風」であるならば、むしろ自然なことではないか。

日本語では「東風」というと「こち吹かば…」など、そよそよした春風というイメージが連想されるが、中国の台湾海峡付近では様相が違うのかもしれない。今回の台風 12号にしても、大きな被害をもたらしたのは、南東からの湿った風ということだったから、南方では 「東風」 が強烈な嵐だったとしても不思議ではない。

ヨーロッパで最初に紹介されたのが "tufaõ" という言葉 (多分「トゥファオン」と発音するのだろう)であり、英語でも古くは "touffon" (「トゥフォン」 だろう) と表記されていたというのだから、元の中国語は発音的に 「大風」 や 「颱風」 よりは 「東風」 の方が近い。中国文学の権威 Frederick Hirth 博士が言うのだから、信用しておこう。

じゃあ、英語ではどうして "touffon" が "typhoon" に変わってしまったのかという謎が残るが、Frederick Hirth 博士の著述に、17世紀末の著述には "Tiffone" というスペルも見られるとあるから、表記は少しずつ変化していたのだろう。

そしてこれはもう、私の勝手な想像でしかないのだが、 "touffon" という英語は、前述のギリシャ神話の "Typhon" というエキゾチックな言葉の影響に加え、日本語から入ったさらにエキゾチックな言葉、"tycoon"(大君) から引きずられて "typhoon" になるという決定的な変化をしたのではないかという気がする。

"Tycoon" は徳川将軍のことで、スコット・フィッツジェラルドの小説を原作として「ラスト・タイクーン」というハリウッド映画が作られたぐらいだから、米国では案外知られた言葉だったろう。

"Touffon" が "tycoon" と "Typhon" に引きずられて、"typhoon" に変化してしまったとしても、あながち不思議ではない。とくに "tycoon" は韻やアクセントの位置も同じだし、「極東の大物」というイメージだって重なる。

「トゥフォン」なんて言葉では日本語になりにくいが、いつの頃からか 「タイフーン」 になってしまっていたので、ここから先の話は単純だ。外来語として日本語化しやすく、「颱風」という表記がぴったり馴染んだ。東アジアという大きな視点でみれば、ある種の逆輸入と言えなくもない。そして戦後になって、当用漢字の制限から「台風」になったというわけだ。

以上、まとめてみると、「台風」 という言葉は、次のような変化をたどったと見るのが自然という気がする。

(ギリシャ神話に登場する "Typhon"、アラビア語の "tufan"
ないまぜになった、ヨーロッパでのバックグラウンド)

大航海時代のポルトガル人が、
「南シナ海の嵐」を指す中国語
"tung fung"(東風)
という言葉を知る
(「大風」 や 「颱風」 より、後のヨーロッパでの発音変化が自然)

ポルトガル語に定着して "tufaõ"

そして古英語の  "touffon"

(元々のバックグラウンドのギリシャ語 "Typhon" と、
日本語から入った "tycoon"(大君)の影響があって)

現代英語の  "typhoon"

日本語に輸入されて「颱風」
(東アジア的視点からすれば、ある種の「逆輸入」)

当用漢字のからみで「台風」

こうしてみると、言葉というのは本当に生き物だと、しみじみ思う。

ところで余計な話だが、この記事を書くための資料収集の過程で、アメリカには現金つかみ取りのアトラクション遊具、"Tycoon Typhoon" というのがあると知った。どんなものなのかは、下のビデオを見れば 30秒以内でわかる。(説明は英語だが、映像が十分に説明してくれるので、まったく問題ないと思う)

"Tycoon Typhoon" という Money Machine

 

お札が舞い飛ぶ 「嵐」 に関連して、"Tycoon" と "Typhoon" という 2つの言葉がかくも結びつきやすいということで、私は上述の自分の想像に自信を得たのだが、このビデオにみられる悪趣味さが日本の将軍のイメージにつながるのだとしたら、ちょっと残念だなあというのが、今回のオチである。

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2011年9月 6日

台風の語源は英語の "typhoon" というけど・・・

今朝 NHK ラジオの番組でパーソナリティが、「台風というのは、英語の "typhoon" からきたもので、日本語の『台風』が英語の "typhoon" になったというわけではないんですね」と言っていた。

ところが、その 10分後ぐらいに、「『台風』 という日本語の語源としては、英語の "typhoon" からきたという以外に、中国語で 『台湾付近の大風』という意味で、『台風』あるいは風に台と書く『颱風』という言葉が使われていたところから来たという説もある」 という聴取者からのメールが紹介された。

これで思い出したのだが、恥ずかしながら私は高校時代まで、英語の "typhoon" という言葉は日本語の「台風」が英語化されたものと思っていた。実は「台風」の方が外来語で、英語の音に漢字を当てたものらしいと知ったのは大学に入ってからだった。古い日本語には「野分」というのがあったが、「台風」は新しい日本語である。

ちょっと前までは「颱風」と表記されていたが、戦後に当用漢字にしなければならないということで、「台風」になった。英語の "typhoon" の方が「台風」 より古い。と、ここで納得してしまえばすっきりするのだが、こういうことになると私はしつこい。さらに、「じゃあ、英語の "typhoon" の方の語源は何なんだ」と、ずっと思っていたのである。

"Typhoon" とは「太平洋や南シナ海(赤道以北、東経180度以西100度以東)に存在する熱帯低気圧のうち、最大風速(10分間平均)が 34ノット(17.2m/s) 以上のもの」ということなのだから、そもそも英語の本家本元である英国には "typhoon" はない。それに似たような大風なら、ないこともないのだろうが、それは現地では "typhoon" とは呼ばれない。

英国に "typhoon" はないのだし、米国を襲うのは同じようなものでも "hurricane" なのだから、それは元々の英語だったわけがない。 "Typhoon" が発生する地域の言葉から英語に入った外来語に違いない。私としては中国語あたり(ということは「大風」とか)から入ったんだろうなあと、漠然と考えていた。

番組にメールを出した方は、日本語の「台風」の語源説としては、英語の "typhoon" ばかりでなく、中国語の「颱風」 だってあるという、別個のコンセプトをおっしゃっているわけなのだが、そう考えるばかりが能ではない。

英語の外来語を経由して入ってきたのだろうという考えからすれば、中国語の「大風」あるいは「颱風」が英語に入って "typhoon" になり、それが日本語の 「台風」 になったという仮説の方が、ずっと自然に思われる。

そこで「台風/語源」というキーワードでググってみると、中国語の「颱風」説以外にも、アラビア語やギリシア語を起源とする説があるとわかった。Wikipedia から引用してみよう。

ギリシャ神話に登場する恐ろしく巨大な怪物テュポン (τυφων,Typhon) に由来する 「typhoon」から「颱風」 となった。

アラビア語で、嵐を意味する「tufan」が東洋に伝わり、「颱風」となった。また英語では「typhoon」(タイフーン) となった。

台湾と中国福建省で使われる閩南語で、台湾のほうからやってくる強い風を風篩 (風颱、白話字:Hong-thai) と言い[要出典]、それが日本に輸入された。

中国広東省で、激しい風のことを大風 (タイフン) といい、その後、西洋に伝わり、ギリシャ神話のテュポンの影響でギリシャ式の "typhoon" というつづりで書かれるようになり、東洋に逆輸入され 「颱風」 となった。

沖縄(当時は琉球) でつくられた言葉とする説:久米村の気象学者蔡温の造語であるといわれる。

ただし、"英語の "typhoon" は、古くは "touffon" と綴り、16世紀には文献に登場しているため [要出典]、中国語の 「大風」 が由来とする説は不自然とされており、アラビア語起源、ギリシャ語起源の二つの説は無力である" との但し書きがある。

とは言いながら、南シナ海からアラビア、ギリシャに至るまでの地域的広がりを想起させる言葉であるということは言えるのではなかろうか。英語のつづりが "touffon" から  "typhoon" に変わったというのも、こうした広がりをバックグラウンドとした後世の修正とみれば、"typhoon" と「颱風」「台風」は、無縁ではないと考える方が自然だろう。

何となく、沖縄で海を眺めた時の感慨を思い出した。東南アジアがすぐそこで、海で世界とつながっているという実感。

 

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2011年9月 5日

どうも私は 3D 映像がきちんと立体視できない人のようなのだよ

先月 22日に、CD や 3D テレビは、10年後に生き残るか? という記事で、「家庭で特殊メガネをかけて 3Dテレビを見る人などいなくなる」 という予測を紹介した。これには私も同感で、昨年の 5月、3D テレビの販売プロモーションに火がついていた頃の記事(参照)の中から、次のように引用している。

家庭用テレビに関しては、わざわざ正面に座ってかしこまって見るようなヘビーなプログラムでないと、3D  の意味はなかろう。どうでもいいお笑いやバラエティを、眼鏡かけてかしこまって見てもしょうがない。

で、これは私のようなへそ曲がりだけの考えではなく、ごくフツーのユーザーにとっても同様のようなのだ。ライブドア・ニュースが、「3Dテレビ購入者の約 75%が "不満" のワケ」(日刊 SPA!)という記事を紹介している。

まあ、高い金を出して買っては見たけれど、4人に 3人は「失敗」だったと思ってしまっているということだ。

不満の要因は、専用メガネを付けて見なければならないのがうっとうしいということと、テレビの正面でかしこまって見なければならないという「姿勢の制約」に大別されるという。要するに、私が昨年の 5月に書いた、元々わかりきっていた懸念が、「やっぱりね」という形で確認されただけのお話のようだ。

で、ことはそれだけでは済まない。突き詰めた話として、専用メガネをかけても、ちっとも立体的になんか見えないというユーザーも、少なからずいるということがわかってきたのである。せっかく高い金を出しても 3D になって見えないのでは、詐欺に遭ったような気がしてしまうだろう。

そして実は、他ならぬこの私が、専用メガネをかけても 3D になって見えないというタイプの人間のようなのである。

先日、地元の家電量販店で買い物をしたとき、3D テレビのデモ機が稼働していた。そばに専用メガネが置いてあって、それをすれば立体視を体験できるということのようなのである。

で、せっかくだから、そのメガネをかけて、3D テレビを正面から覗いてみた。ところが、ちっとも立体的に見えないのである。映像はその店のスタッフが 3D ビデオで録画した地元の観光地の様子である。専用メガネを付けないと、輪郭が二重になって見えるだけだ。そしてなんと、専用メガネをつけても、見え方がちっとも変わらないのである。

近くにいた店員に「ちっとも 3D に見えないんだけど」と訊ねると、「はあ、たまにそういう方がいらっしゃいます。フツーは立体視できるはずなんですけど」と言う。いかにも私の目が「フツーじゃない」と言わんばかりのコメントである。まあ、確かにフツーじゃないんだろうけど。

試しに「3D/見えない」の 2語でシンプルにググってみると、941万件ものページがヒットした。へぇ、確かに「フツー」じゃないかもしれないが、かといって、それほど「特殊」なことでもないようなのである。

検索結果のトップにあった 「Topa-z  3D 3D 映像が立体に 見えない ?」 というページによると、3D 映像がちゃんと立体視できない人というのは、次の 7つのうちの 1つまたは複数の問題があるらしい。

  • 両目の視力が大きく違う人
  • 斜視の人
  • 乱視が強い人
  • 本人の気付かない目の機能の不調
  • 利き目が強い人
  • 乗り物酔いしやすい人
  • 3D 映像の映像方式やその他の原因により目に不調がなくても立体に見えにくい場合

う~ん、私は確かに最近、乱視気味と指摘されて、メガネをかけて矯正しているんだけれど、「乱視が強い人 呼ばわりされるほどではないと思っている。

両目の視力はそんなに違わないし、斜視でもない。利き目が強いってわけでもないと思うし、乗り物酔いしやすいわけでもない。あとは、「本人の気付かない目の機能の不調」だの「映像方式やその他の原因」だのとなると、もうお手上げだ。

これで、我が家は 3D テレビを買ってもしょうがないということがわかった。元々買う気がないのだから、それはそれで別にどうでもいいが、もしかしたら、映画館で 3D 作品を見ても、最初から最後まで二重輪郭の映像を見せられて帰ってくるだけだとしたら、それはつまらんなあと思ってしまうのである。

こればかりは、試してみないとわからないのだから、もしダメだったらショックが大きいだろうなあ。「金返せ」と言っても通じないだろうし、そういえば、子供の頃からこの手の立体視というのは苦手だったなあ。

 

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2011年9月 4日

野田内閣、もしかしたら案外もつのかも

読売新聞の調査によると、野田内閣の支持率が 65%に達して、内閣発足直後の調査としては、1978年の大平内閣以降で 5番目に高いのだそうだ。ただ、内閣を支持する理由として最も多かったのが、「これまでの内閣よりよい」というもので、それが 48%に達したというのが、ちょっともの悲しいけれど、まあ、そんなものなのだろう。

「今までの首相よりは多少マシみたいだから、とりあえず支持しといてやろう」というのでは、危なくてしょうがない。それを言ったら菅内閣発足時の調査でも、「鳩山よりゃマシだろうし、小沢でなくてよかった」という空気で、今回の 65%より 1%低いだけの 64%だったのだから。

ただ、多少期待があるとすれば、野田さんは「何をしゃべっているのかわかる」というレベルの言語能力があるということだ。こんな当たり前のことでプラス評価をするというのも、あまりにももの悲しいが、いかんせん、これまでの首相は「何を言ってるんだかわからん」と言いたくなるほど、要点をはっきりさせた話ができなかった。

内閣支持率を上げるには、実は単純なことさえ実行すればいいのだ。それは「モノをはっきり言う」ということである。自民党が、というより小泉さんが圧勝して、結果として自民党を壊した平成 17年(2005年)のいわゆる「郵政選挙」の際も、その圧勝の要因は、「モノをはっきり言った」ということだった。

選挙直後の同年 9月 12日の記事で、私は次のように書いている。(参照

さすが塩じい。頭の中、若いなあ。

某選挙報道番組で、「小泉さんの作戦の勝利ですよ」とコメント。「作戦というのは?」と突っ込まれ、「そら、モノ、はっきり言うちゅうこってすわ」と飄々と言い放つ。「郵政民営化に焦点を絞った」なんて、フツーの評論家みたいなことは言わないのである。

まさに、この選挙での小泉さん圧勝の要因を最も明確に言い当てていたのは、評論家に転身したばかりの塩じい、塩川正十郎 氏だったと思う。要するに、小泉さんは 「モノをはっきり言った」から支持を集めたのである。

その点、野田さんは 「何を言ってるのかわかる」という言語能力はもっているけれど、「モノをはっきり言う」という点では、小泉さんほどのレベルに達していないと思う。ただ、そのあたりは、「このおっさんにモノを頼まれたら、断りにくいわなあ」と思わせてしまうような、独特の風貌と雰囲気でカバーしてしまうかもしれない。

そして国民の方でも、「いくら何でも、首相変わりすぎで、対外的にこっ恥ずかしい」と、ようやく思い始めているから、多少のこと(外国人献金とか)には目をつむっておいてやろうという、これまた「空気」が漂い始めている。日本人はもとより空気には弱いのである。

野田内閣、うまくやれば結構もつかもしれないではないか。あれだけ言っていた「大連立」の「だ」の字も忘れてしまったみたいなのには、ちょっと首をかしげるが、その辺が、融通の利くところなのかもしれないしね。

 

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2011年9月 3日

SP レコードで聴いた 「ちょっと昔の日本語」

今日、出先から車で帰ってくる途中、カーラジオで TBS ラジオの開局 60周年番組「ラジオ東京スピリッツ」の、「SP で聴く日本人の話し方」 という特集を聞いた。

SP というのは SP レコードのこと。私が子供の頃までは時々見かけた、ちょっと重めの 78回転/分で聞くレコード盤である。と言っても、若い人の多くは LP レコードが 33回転/分だったことすら知らないだろうなあ。

同じような大きさで、溝の間隔が粗く、LP レコードの倍以上の速さで回るのだから、あっという間に聞き終わる。せいぜい片面 5分ぐらいだった。それで、LP レコードの正式名称は long-playing record で、一方 SP は standard-playing record と言うのだそうだ。Short-playing record でないところが、逆にちょっといたわしい。

そういえば、我が家には昔の歌謡曲やエンタツ・アチャコの漫才(あの有名な 『早慶戦』 というネタ)、広沢虎三の『清水次郎長伝』(石松三十石船の件) などの SP があったなあ。あれ、どこに捨てられてしまったんだろう。もったいない。

TBS ラジオの話に戻る。この番組では、SP レコードを 3万枚以上も収集しておられるという大衆芸能研究家、岡田則夫氏のコレクションの中から、とても貴重な音源を聞かせてもらって、私は運転しながら狂喜していた。

中でも乃木希典東郷平八郎の声を聞けたというのは、どえらい話のタネになる収穫だった。

乃木希典将軍の声は、びっくりするほど甲高かった。これは、録音するためにラッパに向かって(当時は今のようなマイクですらなかったらしい)話をするなんていう非日常的な行為に、緊張していたせいかなあ。それとも、小柄な人だったようだから地声が甲高かったのかなあ。

そのほかにも政治家、軍人、実業家の演説、中等学校と言った時代の甲子園野球、バスガイドや店頭プロモーション、パチンコ店の店内アナウンスの実演など、それはそれはいろいろな録音があって、古色蒼然とした味がなかなかよかった。

古色蒼然といえば、釈超空(折口信夫)、北原白秋の、自作短歌の朗詠などは、もう涙ものと言ってもいいぐらいのものだった。意外なことに、北原白秋の朗詠の方がずっと一音一音を長く伸ばして、時代がかっていた。いや、もしかしてあれは、まさに 「歌っていた」 のかもしれない。

こうした古色蒼然さは、なんと昭和 20年代後半まで(私の生まれた頃だよ)残っているのだった。さすがに戦前のような、文語そのままをしゃべっているようなものではないが、なんとなく「よそ行き」「おすまし」口調なのである。ということは、人前でしゃべったり、録音したりするというのは、当時はかなり特別なことだったのだろう。

この番組のパーソナリティを務める小島慶子さんは、飛行機の CA や百貨店の店内アナウンスに、今でもその痕跡が色濃く残っていると指摘していた。なるほど。飛行機に乗ることや百貨店で買い物するのは、今でもほんのちょっとだけ「特別なこと」であるのかもしれない。

もっとも、それが特別なことと思っているのは航空会社や百貨店側だけで、今や客としてはその口調を「なんだか滑稽」と思ってしまうギャップが生じている。これなんか、文明論的におもしろい現象だと思う。

私が一番おもしろいと感じたのは、明治時代に日本で初めて録音されたという音盤シリーズの中に、外国人落語家、初代快楽亭ブラックの小話があったことだ。ノイズの中から辛うじて「~でやす」なんていう言葉が聞こえる程度のものだが、英国人とは思えないほどちゃんとした江戸っ子口調だった。

そして意外にも、一番古い音源なのに、一番現代的に聞こえるのである。それは「落語」という「口語の話芸」だからだと思う。二葉亭四迷が新時代にふさわしい言文一致の文体を模索している時、初代三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたというのは有名な話で、まさに 「さもありなん」 と思う。

演説など、人前で話すスタイルが文語から脱しきっていなかった当時、もとより口語のスタイルだった落語が、最も現代的だったというのは、ある意味で当然だった。しかも、外国人である快楽亭ブラックであるからこそ、江戸の口語を客観的にモダンに演じることができたのかもしれないという気がする。

というわけで、本日夕方 6時からの TBS ラジオを聞かなかった人は、人生においてちょっとだけ損をしたといってもいいかもしれないよ。

 

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2011年9月 2日

メルマガと iPad は相性がいい

メールマガジン、いわゆるメルマガをいくつか購読している。日経 BP とか日経 Trendy とか IT Pro とか、そういった類である。購読は無料だからいくつ購読してもいいのだが、自分で申し込んだもの以外にもプロバイダ、カード会社、航空会社などからどんどん来るので、あまり多すぎてもどうせ読めない。そんなわけで最近は厳選して数を抑えている。

いくら厳選して数を抑えても、全部は到底読み切れない。それどころか、10通届いても読むのはその中の 1通のごく一部なんてことが、前はフツーだった。ほとんどは読みもせずにどんどん旧聞になっていく。

ところが最近は、届いたメルマガに実際に目を通す率が増えた。とはいっても、どうせ読むのは全体の 2割弱ぐらいのもの (紙の新聞だったら、まめに読んでいるつもりでもそれ以下だろう) だが、結構きちんと目を通している。

これはひとえに、iPad のおかげである。iPad だと、ちょっとした隙間時間にちょこちょこ拾い読みができるのだ。メルマガと iPad は相性がいい。

一方 PC に向かうのは、仕事のためということが多いから、メールをチェックしても仕事関係にまぎれて 「ああ、またメルマガがたくさん来てるな」 程度で済んでしまい、結局読まないことが多い。ところが iPad だと、電車の中とか、ちょっとした休憩とか、コーヒーブレイクとかで気軽にさっと開けるので、メルマガを読んでみる気になる。

iPad を購入する前にも iPhone があったのだが、画面が小さすぎて、せいぜい 600字以下の単文でないと辛い。そこへいくと、iPad の画面はかなりの長文でも OK だ。なにしろ電子書籍にも対応しているのだから。

PC の時代には 「紙の新聞がなくなるのはかなり先のお話だろう」 なんて思っていたが、iPad のようなタブレット端末が普及したら、本当に紙の新聞はいらなくなってしまいそうだ。紙の新聞を開いて読むのとさほど遠くない感覚で読めるのだから。

 

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2011年9月 1日

「人間として大切なこと」 と 「同化圧力」

28日の「紳助引退に関連して、私もちょっとだけ書いておく」という記事で、私はお笑い業界内の都合を遠慮なく表に出す紳助の芸風に触れた。そしてそれを喜んで受け入れる視聴者の「空気」の気持ち悪さについて書いた。

この記事にいただいたきっしーさんのコメントから、一部を引用する。

「お笑い」番組とか、「芸人」が沢山出てくる番組を子供に見せたくない、見過ぎると馬鹿になると思うのは、ジョークであるとかヒューモアとががくだらないものであるからではなくって、tak さんの指摘するような「空気」に縛られた思考をしてしまう(少なくともそれがフツーのものだと思ってしまう)ような気がするからなんですよ。

十分幅広くいろいろと見たり聞いたりした大人であれば、逆にそういうものへの反発の中からポジティブなものが生まれるのでしょうけれども、小学生や中高生は(特に日本では)常に assimilation を強いるプレッシャーに直面していますからね。

きっしーさんが "assimilation"(同化) という言葉を使ってくれたので、問題がよりはっきりした。私が危惧していたのは、紳助の芸風にみられた「同化圧力」の強さなのである。彼が大きな人気を得る反面、反発も強かったことの理由は、あの強すぎる同化圧力故だったろう。

聞けば、お笑い業界というところは上下関係が非常に厳しいところだそうである。まあ、それは芸能界全般に言えるのだが、中でもお笑い業界はことさらなまでに挨拶の仕方とか、微に入り細に入りうるさいのだそうで、さらにその中でも、かの紳助はうるさかったのだそうだ。

この点について言えば、礼儀作法というのは人間関係を円滑にするためのものだから、礼儀作法にことさらにこだわるあまり、人間関係がぎくしゃくするようでは本末転倒だと、私は思っている。

などというと、私が礼儀作法なんてどうでもいいと書いているなどと、誤解する向きが必ず出るので、念のために言っておくが、私は仕事で使えないヤツは決まって挨拶がきちんとできないヤツだとまで思っている。しかしだからと言って、外面的な挨拶にことさらにこだわっては、より大切な本質を見失う。

挨拶に代表されるような「礼儀作法」は、言うまでもなく大切なことである。それは誰も反論できない。しかし、この誰も反論できないことを笠に着てことさらに人に強要するのは、暴力である。私がここで言うところの「強すぎる同化圧力」とは、そうしたことをいう。錦の御旗の乱用である。

挨拶はきちんとする方がいい。服装はきちんとしている方がいい。目上の者は尊重する方がいい。義理は果たした方がいい。人情は思いやる方がいい。恩は忘れない方がいい。それは「人間として大切なこと」である。

しかしいくら「人間として大切なこと」でも、それをことさらに強要し、それに少しでも外れたら何らかの制裁を加えるというのは、「あっち」の方の世界の論理である。「人間として大切なこと」は、時として「人間として許されないこと」をするための理由にだってなる。「態度がなってない」と言って、女性をぶん殴ったりすることにもなるのだ。

「誰も反論できない」ような「人間として大切なこと」ほど、その運用が難しいのである。「許し合うこと」を忘れて無闇な運用をするような「同化圧力」の強すぎるタイプの人間には、気を付けた方がいい。「人間として大切」と言われたことを疑いもなく果たしているうちに、いつの間にかズブズブの状態に陥ってしまうことすらある。

 

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