日本の政治家の演説がつまらないのは
ジョン・F・ケネディは 1961年にアメリカ大統領に就任し、その時の演説で「国が諸君のために何ができるかを問い給うな。諸君が国のために何ができるかを問い給え」(Ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country) と呼びかけた。これは今でも多くの国民の心を捉えた名演説として語りぐさになっている。
演説の中でこの部分だけが取り出されて有名になっているが、全文を通して読んでみても、確かになかなか感動的だ。英和対訳的なテキストは、こちら のページで読むことができる。
私は、日本の首相が所信表明演説でこのように感動的な演説をするのを、未だかつて聞いたことがない。首相に限らず、日本の政治家の演説には「感動」の二文字がない。日本にはまともなスピーチ・ライターがいないのだろうかと、私は暗澹たる気分になる。
日本の政治家の演説の文章は多分、官僚が作文したか、あるいはせいぜい官僚と共同でこねくり上げたものなのだろう。官僚は答弁の文書を作るのは上手でも、演説の文章を書かせたら最悪だ。
さらに言おう。日本の政治家の演説がひどいのは、官僚とこねくり上げた作文がひどいからというだけではない。聞く方の耳も悪いのだ。
冒頭で触れたジョン・F・ケネディの演説だが、もし日本の首相が同じことを言ったとしたら、マスコミは「恐ろしいまでに国家主義的な主張 「国民に国家の犠牲になれと強要するのか」などと言って、散々に非難するだろう。
ケネディの言葉だと「名演説」として称賛する記者が、日本の首相が同じことを言ったら、ヒステリックなまでに叩きまくるのである。これは断言できる。日本のマスコミは、ダブル・スタンダードなのだ。そして国民の多くも、ダブル・スタンダードのマスコミの尻馬に、疑いもなく乗るのである。
だから、日本の政治家はダブル・スタンダードのマスコミに叩かれないような、可もなく不可もなしといった調子の、当たり障りのない作文の読み上げに終始する。「あれもやります、これもやります」と読み上げて、そしてその挙げ句、言ったほとんどを裏切るのである。
このスタイルが延々と持続されているのは、日本の政治家がほんの一部の国民を感動させるために、大多数の国民の非難を浴びるのはご免だと思っているからである。これは演説を聴くのに「減点法」でしか耳を傾けられない国民の悲劇である。
ケネディの演説は「減点法」からは絶対に生まれないものだ。これはもう、文化の問題で、小学校の教育から根本的に改めなければどうしようもない。
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