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2011年9月27日

「震災後」 の日本に生き始めたからには

震災後、半年以上も経ってから、しかも出張で仕事の合間を縫い、時間的にはとても十分とは言えない駆け足で、南相馬市と仙台市の海岸を見て回ってきた。津波に襲われた海岸を一面に覆っていた瓦礫はかなり整理が進んで、要所要所に高くボタ山のように積み上げられ、震災直後の悲惨さはかなり薄められていた。

付近の人に聞いても、「あんなに積み上げられていた瓦礫が、ようやく撤去され始めて、避難所に溢れていた人たちも、ずいぶん仮設住宅への移転が進んだ」という。それでも、被災地の心は、「震災前」と「震災後」で、明確に区分される。

「あの震災で、自分の心が大きく変わった。どんなふうに変わったのか説明しろと言われても困るけれど、もう半年前の自分じゃない」被災地の若い世代ほど、このように言う。

自身が被災者でありながら、もっとひどい被災地の真っ只中に乗り込んで、連日のようにボランティア活動に励んだ若者がいる。津波の被災地にボランティアに行くと言うと、最初は親が恐ろしい顔をして反対したという。「また津波が来たら、死んでしまうだろうが!」 と怒鳴られた。

被災地の人のために汗を流すことで、自分の中の何かが変わったという。「度胸ができましたよ。それに、自分でも結構気が利く人間になったと思う。もう、何があってもへこたれない自信がついたかな」

それでも、震災後 1ヶ月はへこんだという。「ひっきりなしの余震で、ノイローゼになりかけました。その名残りは、今でもあると思う」

その気持ちはわかる。茨城県南の地でも、本当に心の整理がつかなかった。無理に心の整理しようとすると、そんな時に限って大きな余震が来て、またしてもゴチャゴチャになってしまっていた。

今はだいぶ落ち着いた。震災ネタで冗談も言えるようになった。

しかし、あの整理のつかなかった混乱、余震の度に心まで揺れる感覚。津波の映像がテレビで繰り返される度にリモコンでスイッチを切った日々。目に見えず、ただ数値だけが報じられる放射能のストレス。

こうした要素を、敢えて忘れないようにしよう。我々は「震災後」の日本に生き始めたばかりなのである。「戦後」が 60年経っても引きずられていたのだから、「震災後」だって何十年も引きずろうと思う。決して暗くなれというのじゃないが、忘れてはいけないのである。

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