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2011年10月に作成された投稿

2011年10月31日

11月は大忙しになる

いやはや、11月は大忙しの月になりそうだ。

第 2週は、父の納骨やらいろいろな届け出、手続きなどをしに、1週間ほど酒田に帰る。それが終わると、翌週は仕事で北海道。19日に帰ってきて、翌 20日からは今度は九州である。移動距離にしたらかなりのものになる。

その合間にもいろいろな予定が立て込んでいて、必死にこなさなければならない。今からホテルや飛行機便、レンタカーの予約もしなければならないし、大変だ。というわけで、今日はこの辺で失礼。

 

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2011年10月30日

庄内柿を「柿酒」にしてしまった話

柿の季節である。柿は元々は大陸伝来らしいが、いろいろな品種に発展を遂げたのは日本においてのことのようで、その証拠に、柿は世界中で "kaki" と呼ばれているらしい。わざわざ和英辞書的に "Japanese persimmon" なんて舌を噛みそうなことを言わなくていいのだ。

柿と言えば、私にとっては庄内柿である。リンク先をご覧いただければわかるが、これは元々は渋柿で、伝統的には焼酎でさわして甘くして喰うものである。これがまた、とろりとしてえも言われぬおいしさなのだ。

私はこの庄内柿を柿酒にしてしまったことがある。これは ”Today's Crack" がココログに移転する前に書いたことで、最近の読者はまだご存じないと思うので、以下に再録しておく。

学生時代、田舎からブリキ缶が送られてきた。中身は庄内柿で、焼酎の霧を吹いてある。その焼酎のお陰で、1週間ぐらいで食べ頃になるのだ。缶の蓋には、「××日に開けて食べるように」 と書いてある。その日付までにはまだ 5日ほどある。私はその缶を棚に載せ、そして痛恨にも、そのまま忘れ去ってしまったのである。

そして翌年の夏、暑い盛りにふと棚をみると、見覚えのあるブリキ缶が鎮座している。「柿だ!」  私は隙間を防ぐためにびっしりと貼られたガムテープをはがすのももどかしく、蓋を開けた。

中身はどうなっていたかというと、柿の原型はまったくとどめず、柿色のネクターがドロドロになっていた。しかし、腐敗臭はまったくなく、逆にえもいわれぬ芳香である。つまり、半年近くを経てアルコール発酵が進み、「柿酒」 と化していたのだ。

世に言う 「サル酒」 というのも、こんな風にできるのかと思い、よほど飲んでみたい誘惑に駆られたが、なんだか気持ちも悪いので、泣く泣くトイレに流した。一人暮らしなのに腹痛にでもなったら困ると思ったのである。

ところが、今になっても、あの時一口でも飲んでおけばよかったと後悔している。本当に本当に後悔しているのである。

 

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2011年10月29日

ああ、ゴチャゴチャ言わずに電子書籍化してもらいたいなあ

"「こんなの論外だ!」アマゾンの契約書に激怒する出版社員 国内130社に電子書籍化を迫る" という記事が BLOGOS の記事が話題になっている。記事の内容は、アマゾンが日本の出版業界にとっては到底受け入れがたい横暴な条件で、電子書籍化を要求しているというものだ。

それに対して日本の出版業界はかなり反発していて、アマゾンのもくろむ日本の出版業界への電子書籍での参入は、当面大きな抵抗に阻まれることが予想されるというのである。

私は出版業界の中身については全然詳しくないので、かなり安易な立場からかもしれないということを十分に自覚しながらも、「消費者の立場から」という「伝家の宝刀」的な言い方をさせてもらうとすれば、「難しい話はどうでもいいから、日本もさっさと電子書籍化を進めてくれよ」ということになる。

出版業界の現状は、これまでの「紙の媒体で売る」というビジネスモデルに最適化しているのは当然だから、電子書籍化なんてことはしたくないのだろう。しかし、全ての消費者とは言わないし、圧倒的多くの消費者ですらないかもしれないので、ここでは慎重に「少なからぬ消費者によって」ということにしておくが、電子書籍化は確実に望まれている。

私は自分の部屋の書棚にぎっしりと収納された本を見るに付け、「ああ、これが小さなハードディスク(あるいは別のデジタル・メディアでもいい)に入ったら、なんと楽だろう」とため息をつく。

先日の東日本大震災では、書棚の本がガラガラに崩れ落ちて、それをきちんと系統立てて収納しなおすのにかなりの手間がかかった。これが例えば、iPad の中に入っていて、それがどっかのクラウドにバックアップされているのだとしたら、余計な力仕事はせずに済んだのだ。

もちろん、電子書籍に向かない出版物もある。例えば現状での地図、図鑑などだ。紙の媒体としての地図や図鑑は、パラパラとめくれる利便性において、電子書籍に勝る。しかし検索と表示の手法が進化すれば、これらもデジタルの方が有利になるかもしれない。

ごくフツーのテキスト中心の書籍ならば、電子書籍の方がずっと有利だ。もちろん、読みやすさで言えば紙の媒体の方が上回るかもしれないが、「モノ」としての取り扱いのしやすさということまで考えれば、デジタルの圧倒的勝利である。

読みたい時にさっとダウンロードして、読み終われば収納にスペースをとらず、読み返したくなれば、いつでも即座に取り出すことができる。

日本での電子書籍化にあたっての最大の問題点は、市場の規模ということだろう。

英語の書籍ならば、ほとんど全世界を相手にすることができるが、日本語書籍の市場は人口 1億 2000万ほどの日本国内にほぼ限られる。しかも、その中で電子書籍を読むことのできるデバイスを持っている人口は、まだまだ多くない。

その上、この国では「本は紙の媒体で持ちたい」という伝統的(?)消費者が少なくないので、電子書籍の可能性は未知数だ。そんな市場を相手にするのは、リスクが大きいだろう。

その辺のショッピング・センターの、大規模でない書店の品揃えをみると、日本の書籍市場の中身が推定できる。よく売れる本というのは、その時々のベストセラーと、メジャーな雑誌と、コミックだけだ。ちなみにコミックは一部で電子書籍化が進行中らしいが、私はあまり興味がないので、ここでは取り上げない。

一番問題なのは、私のようなタイプのちょっと物好きな消費者(ここでは書籍の話だから「読者」と言う方がいいかもしれないが)にとっては、その辺の書店では買う本がないのである。というわけで、私のような読者が本を買うのは、都心に出た時に大型書店で本あさりをするか、目的の本が明確な時にアマゾンで注文するかしかないのだ。

もし日本市場で電子書籍化が進んだら、まずアマゾンなどで注文した時に、本が届くまで待つ必要がなくなる。注文したらその場でダウンロードできるのだから、すぐに読み始められる。さらに、大型書店でするしかなかった本あさりが、いつでもどこでも、手元のデバイスでできるようになる。

私のような読者が読みたい本の多くはテキスト中心だから、電子書籍化にはそれほどの手間がかからないだろう。どうせ今どきのことだから、印刷の前段階ではデジタル化されているはずなのである。

極端にいえば、編集段階での最終原稿をそのままテキスト・ファイルでダウンロードさせてもらってもいいと思うほどだ。こちらで勝手に読みやすいフォーマットに変換しちゃうから。それでは簡単にコピーされちゃうのが問題というなら、特殊処理をした PDF でもなんでもいい。

ベストセラーにはほど遠いような範疇の書籍ほど、紙の本のカタチにしない方がコスト的に有利なはずだ。在庫だって本のカタチにしない方がいいし、ロングテイル対応にしても簡単にできる。

だからあまり数が売れないような、よほどの物好きを対象としたものほど、紙の媒体とはせず、しかも電子書籍のフォーマットにすらとらわれずに PDF か何かで、ちゃちゃっと対応してもらいたいと思うのである。

ああ、ごちゃごちゃ言わずに、本は電子書籍でダウンロードするのが当然という世の中になってもらいたいものなのである。好事家向けの本までそうしろとは、もちろん言わないから。

 

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2011年10月28日

友部 SA レストランの、どうにも気になるアクセント

常磐自動車道の水戸よりちょっと東京寄りに、友部というサービスエリアがある。ここはちょっと前に改装されて、前よりはずっとこじゃれた感じになった。建物の真ん中にはガラスで囲まれた石庭なんかがあり、雰囲気としては悪くない。というか、その辺のサービスエリアよりはずっといい。

レストランで食事をするにしても、特級品のお料理というわけでもないが、何を注文してもとりたてて文句を言うところもない、ちゃんと許せる味である。私は水戸の先まで仕事で出かけた帰りに食事時になると、このサービスエリアで食事をすることが多い。

このサービスエリアのレストランはちょっとしたハイテク仕様で、自動販売機で食券を買うと、それが直接厨房に伝わって、発注完了ということになる。すぐに電光掲示板の「調理中」というディスプレイに、自分の食券のナンバーが表示され、テーブルで待っていれば、調理ができると番号で呼び出されるので、窓口に行って受け取るというシステムだ。

ところがこのシステムで、気になって気になってしょうがないことがある。それは番号で呼び出す自動音声アナウンスのアクセントだ。「○○○番のお客様、窓口までお越しください」というアナウンスなのだが、これがいかにも無アクセント地帯といわれる茨城県らしく、「○○○、晩のお客様」というアクセントになってしまっているのだ。

試しに、次のリンクで飛べるビデオの音声で聞いてみていただきたい。友部SA のアナウンス

聞きようによってはちょっとセクシーなおねえさんの声ということも手伝って、一般的なアクセント感覚だと、生理的にどうにもムズムズしてしまうと思うのだが、茨城育ちの多くの人にとっては、これがほとんど気にならないらしいのである。生まれた風土というのは、人間の身体感覚まで変えてしまうようなのだ。

 

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2011年10月27日

花の図鑑

私はこのブログの他に 「和歌ログ」 という酔狂な文芸ブログまでやっていて、こういうことをやっていると、花とか木とか鳥とかの名前を知らないととても不便なのである。とくに花の名前というのは、知らないと歌なんて詠めないのだ。

ところが私は昔から花の名前に疎くて、桜とか菊とかチューリップとかコスモスとか、誰でも知っているような花しか知らなかった。娘たちが小さい頃なんて、「お父さん、このきれいな花、何ていう名前なの?」なんて聞かれても、「う~ん、花なんだけどねぇ」なんてゴニョゴニョ言うしかなかったのである。

ところが三十一文字なんてことをやり出してからは、さすがにそれでは済まず、図鑑と首っ引きで調べるようになった。調べてみると、名前だけ知っていて実際の姿と一致していなかった花がいかに多かったかを知らされたのである。よく聞く花の名前と、よく見る花とが、全然リンクされていなかったのだ。

どんなにおなじみの花でも、その名前を知らないうちは「知っている」とは言えない。名前で呼んで、初めてその花と懇意になれるのである。それは人間でも同じようなものだ。顔を知っているだけでは「お知り合い」じゃないのである。

花の名前を調べるのに、私は 3種類の図鑑をもっている。かなり前から揃えていたのが、『咲く順でひける四季の花事典』(成美堂出版刊、鈴木路子・監修)と、『俳句の花図鑑』(同じく成美堂出版刊、復本一郎・監修)の 2冊だ。前者は最近の園芸種に強く、後者はいかにも俳句になりそうな山野草に強い。

ところが、この 2冊の図鑑でもわからないのがかなりある。そこで、最近ついに『花の名前の手帖』(ブティック社刊、写真と文: 夏梅睦夫)を取りそろえた。これはかなり定評のある図鑑で、春編、夏編、秋冬編の 3冊に別れているだけに、収められている花の種類が多く、しかも季節別、色別で調べられるから便利である。

かなりオススメなのだが、残念ながらもう絶版になっているようで、書店ではほとんどお目にかかれない。私は春編だけは 6年前ぐらいに書店で買ったが、夏編、秋冬編は諦めていた。しかし今年になってふと思い立ち、Amazon で検索したら古本で見つかったのである。そこでついに、3冊セットで本棚に揃えることができた。

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最近では、花の名前を調べるのにはこの 『花の名前の手帖』 さえあれば十分という気がするほどである。購入ご希望の方は、どうぞ Amazon へ。

 

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2011年10月26日

スマホまでセキュリティ・ソフトが必要になっている

一昨日、ほぼ 2週間ぶりに電車に乗って東京都心に出た。都心に出ても、やや茫然とした葬式モードからビジネス・モードに切り替えるのに、ギアチェンジが完全にはできていない。もう少し時間がかかりそうである。

帰りにアキバのヨドバシカメラに寄って、PC 関連の消耗品を購入した。セキュリティ対策の Norton 360 の有効期限終了が迫っているので、それも合わせて買おうとしたら、いつもの 2000円キャッシュバック・サービスが、他社製品からの乗り換えのみを対象とすることになっていた。去年までは買い上げ全部が対象だったのに。

というわけで、それだったらオンラインで更新することにした。その方が楽だしね。

ところでセキュリティ対策といえば、最近は三菱重工や政府機関へのサイバー攻撃の話題でもちきりである。発信元はどうやら中国らしいのだが、中国政府はどうせシラを切るだろう。それなら日本側でしっかりと防御するしかない。まったくうっとうしいことである。

サイバー攻撃の標的が軍需産業や政府機関だからといって、安心はしていられない。マルウェアの発信元から標的に至るまでには、無関係の PC が介在していたりすることもある。知らぬ間に攻撃に荷担しているなんてことになるのはまっぴらご免だから、こちらとしてもそんなことにならないように、しっかりと防御しておくにこしたことはない。

さらに驚いたことに、今年の売り場には、スマートフォン向けのセキュリティ・ソフトが結構並んでいた。今やスマホは絶好の攻撃対象になるようなのである。ちょっと気の利いた PC ユーザーならセキュリティ・ソフトを常駐させるのが常識だが、スマホはまだそこまで行っていない。かなりヤバヤバの状況である。

ただ、スマホといってもその脅威はほとんどが Android 端末におけるお話ということで、iPhone の世界ではそれほどの脅威にはなっていないようだ。今のところ、iPhone でウィルス感染したのは、脱獄したものばかりだそうだ。それで、店頭でも並んでいるのは Android 向けばかりである。そりゃそうだ。iOS 向けは App Store でオンライン販売されるからね。

とはいえ、ちょっと前までは App Store で検索しても iOS 向けのセキュリティ・ソフトなんて一つもなかったが、今は Virus Barrier というのが 250円で出ている。とりあえず、私もダウンロードしてインストールしておいた。ちょっとした保険みたいなものである。

 

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2011年10月25日

セイタカアワダチソウが憎めなくなった

今日の和歌ログの歌は、「川岸に身を縮め咲く様となればセイタカアワダチソウも憎めず」 というものだ。なんだかセイタカアワダチソウが、近頃あまり我が物顔に跋扈しなくなって、あまり憎めなくなってしまったような気がするのである。

帰化植物というのは、侵入してきた直後は猛烈に繁殖しがちだが、ある程度の時間が過ぎると、その土地のバランスの中に収まってしまうことが多い。昨年の7月に、「サッカーに回ってくる人材について」という記事の中で、日本に帰化したセイタカアワダチソウは、だんだん背が低くなってきているというようなことも書いた。

セイタカアワダチソウは「アレロパシー」という周辺の植物の生育を抑制する物質を根から出すことで知られている。バブル時代の地上げ華やかなりし頃は、都会でも空き地という空き地に毒々しい黄色のセイタカアワダチソウが跋扈していたが、これもみな、アレロパシーで他の植物を駆逐してしまったからである。

ところがこのアレロパシーというのは、セイタカアワダチソウ自身の生育も抑えてしまうらしい。それで周り中仲間となってしまうと、今度は仲間内で生育を抑制して、今のような案外慎ましやかな姿になってしまった。

というわけで、以前はその姿をみるだけで不愉快になっていたセイタカアワダチソウだが、近頃はそれほど憎らしくもなくなってきて、あまりストレスにならなくなったのがありがたい。

 

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2011年10月24日

大地震は自然の怒り?

Twitter で Hiro_Eclipse さんが ewa4618 さんの tweet を 公式 RT している。こんな tweet だ。(参照

地震なんて世界中至るところで毎日何回も起きてるんだからさ、人の住んでるところで大きい地震が起きるってのは単純に確率の問題で、いつかは当たっちゃうわけよね。今度はトルコで地震があって、やれ「自然が怒ってる」だの何だのポエマーになっちゃうヤツらがいるけど、嘘くささしか感じないなあ

確かに、地震は長期間に蓄積された地殻の歪みが一瞬にして開放されるという単なる自然現象だから、人間がうんこをするぐらいの当たり前のことだ。自然にしてみれば「怒っている」わけではなく、ごく普通の物理現象である。石原都知事がほざいたような「天罰」なんかではない。

それに対して Hiro_Eclipse さんは、次のようにコメントしている。(参照

というか、殊更に「自然が怒っている」と云い出すのもある種 “責任逃れ” なのかもなぁ、と。自然に対する畏敬は有って然るべきだが、平時の対策で被害を軽減する事も出来るのだし

この流れで、私も自分なりの考えを次のように tweet した。(参照

人間の所為が自然のしかるべきバランスを崩しただけ。ある種の「罪の意識」の投影として、「自然の怒り」と感じるのだと解釈しています。

ただ、これだけだとちょっと言葉足らずかもしれないので、補足しておくことにしたい。

地震自体は太古の昔から続く自然現象だから、とくに産業革命以後に本格化してしまった人間の自然破壊の所為とは、直接的には関連していないと、私は認識している。ただ、地震による被害が大きくなるのは、人間の所為が自然のあるべきバランスを崩してしまっているからということもできる。

その最も端的な例が、今回の原発事故だ。よく調べれば歴史上でも巨大津波が複数回襲っているような海岸に、リスク・マネジメント的にはかなり甘い想定の原発を建設してしまったから、今の問題が起こっているのである。

これは地震や津波が悪いのではなく、それを甘く見た人間が悪いのだ。きちんとした想定の元に平時の対策を行っていれば、これほどの被害にならなくて済んだというのは、各方面からの指摘の通りだろう。

今回の原発事故の当事者には、当然のことながら、「原因は想定外の巨大地震と津波」なんて総括にしないで、「まともに想定しなかった自分たちの責任」と捉えてもらいたいものである。

ただ、「きちんと想定しなかった ことの責任は、政府と東京電力だけにあるのではない。「あれって、きっとヤバイよね。何かあったら、大変なことになる」と恐れながらも、普段の生活ではのほほんと豊富な電力を使い続けてきた我々にも、その責任の一端はある。

私が今年の夏、エアコンのコンセントを抜きっぱなしにして耐えたのは、節電のためだけではない。単なる節電だったら、電力消費のピークをとっくに過ぎた夜になってまで我慢している意味は薄い。あれは個人的には「贖罪」の意味もある。

というわけで、天災を大雑把に「自然の怒り」とみるのは、自然のしかるべきバランスを崩し続けてきた人間の、漠然とした「罪の意識」の投影であり、ある意味自然な思いでもある。ただ、そうした情緒的な感慨にとどまってしまうのは  Hiro_Eclipse のおっしゃるように、ある種の「責任逃れ」に通じてしまう。

人間というものは罪の意識から逃れて楽になるために、「自然に怒られた」ということにしたいのである。無意識のうちに 「こうして怒られちゃったんだから、もうチャラにしよう」ということにしてしまうのだ。ただ、それだけでは同じことの繰り返しになってしまう。

 

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2011年10月23日

帰宅

父の葬儀とその後始末に一区切り付けて、つくばの里に戻ってきた。さすがに疲れた。

今日のところは単なる備忘録として、これにて失礼。

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2011年10月22日

葬儀を終えて

昨日、父の葬儀を執り行い、火葬し、その後にすぐ初七日、四十九日の法要をして、なおらいの食事会をした。朝から夕方までびっしりの長丁場で、さすがに疲れた。そして一夜明けても葬式の後始末に追われ、なかなかゆっくり休ませてもらうことができない。

田舎の葬式というのは、決まり事が多くてなかなか大変なものである。受付で渡す香典返しは、香典の金額によって品物のランクがある。私なんぞは、香典の金額によって渡す品物に差を付けるなんていうのは、かえって失礼なような気がするのだが、田舎では香典に 5,000円出しても 10,000円出しても、受け取る香典返しが同じというのは納得できないことらしい。

その他諸々、私からみればどうでもいいような些細なこだわりが多くて、「勘弁しておくれよ」 と言いたくなるが、「郷に入っては何とやら」で、まあ、言われた通りにこなしている。父はそうしたことにはちっともこだわらない人だったので、苦笑いしているかもしれない。

私が死ぬ頃には、もう少しゆるやかになって、些細なことはなくなっていてもらいたいものである。

ところで酒田の火葬場では、鶴の湯のおばさんを焼いてくれたおじさんの姿は見当たらなかった。

 

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2011年10月21日

『唯一郎句集』 レビュー 番外編1

父の葬儀で久しぶりに多くの親戚に会い、唯一郎直系の親戚にも会った。唯一郎は私の母方の実の祖父で、自由律の俳人だった。私は昨年春まで 一年以上かけて『唯一郎句集』のレビューをやっている (参照)。

彼女にレビューの話をしたら、自宅に唯一郎自筆の句があるというので、急遽持ってきてもらった。60年以上も前の半紙で、シミだらけになっていて、句帳をもたなかった人らしく、落款もないシンプルなものだが、確かに「唯一郎」という署名がある。

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決して達筆というわけではないが、みずみずしい感性を感じさせる繊細な筆致だ。したためられているのは 2句。

落葉を喰う鶏におどろけよ吾児よ

どよもすも秋潮の箒草立枯畑

どちらも 『唯一郎句集』 に収録されている。初めの句は 『唯一郎句集』 レビュー #70 で次のようにレビューしている。

地飼いの鶏が、乾いて細かくちぎれた落葉をついばんでいる。それを見ている唯一郎と息子。唯一郎は鶏が落葉をついばんで食うことに驚いている。

そして、それを何気なく眺めている息子 (私の伯父にあたる) にも少し驚いている。「一緒に驚いてみようじゃないか」 と思っているが、息子はただ無邪気に眺めているだけである。

二句めは句集では表記が 「どよもすも秋潮のほうき草立つ枯畑」 になっている。半紙にあるとおりの表記だと、「箒草、立枯れ畑」 という風に読んでもいいではないかという気になる。 『唯一郎句集』 レビュー #72 では、次のように書いている。

「どよもす」 は 「どよめく」 と共通して、「響き渡る」 という意味。秋の海の波が高くなって、浜に打ち寄せる音も大きくなっている。冬になればさらに海は荒れて、海鳴りがとどろき渡るようになる。

海岸の畑に立つほうき草。ほうき草は、その名の通り、枯れた茎を束ねてほうきにする植物。実は 「とんぶり」 と呼ばれる珍味である。

刈り取る前の枯れたほうき草の彼方に、荒れる海が見えるという、映画のような荒涼とした光景。

親類の家に行けば、もっといろいろな直筆があるかもしれない。

 

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2011年10月20日

通夜が終わった

(この記事は、和歌ログの記事と同じテキストである。今日はあまりにもバタバタで、2種類のブログを分けて書いている暇がなかった)

父の通夜が終わった。うちの和尚さんが、あまりにも感動的な説教をしてくれたので、感極まってしまい、直後に喪主の挨拶をするのに困ってしまった。

和尚さんと父は親しかった。そして和尚さんは父をリスペクトしてくれていた。あの説教は、和尚さんの父へのはなむけだったろう。ありがとう、和尚さん。

明日は葬儀。あまりに感極まらないように注意しなければ。

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2011年10月19日

「ミミズ文字」 を判読する仕事があるという

今朝、「ミミズ文字」をすらすら判読する "達人" 26人の正体 というニュースを読んで、かなり複雑な気分になってしまった。医者が殴り書きした診断書を判読するという特殊な仕事の需要というのがあって、その仕事の優秀な人材は、中国にいるというのである。

医者の殴り書きのことを「ミミズ文字」というのだそうだ。この漢字、カタカナ、英語、ドイツ語、それに加えて数々の専門用語が入り交じる文章の中には、どうがんばっても判読不能という文字があり、生命保険会社などはかなり困っているのだそうだ。

この「ミミズ文字」を判読して、文字データとして入力する仕事が必要で、中国人がこの仕事に従事して、安い人件費で正確な判読を売り物にしているのだそうである。日本人がこなすと診断書 1枚あたり 15分かかっていたが、中国人がその時間を 6分にまで短縮したのだそうだ。

しかし、しかしである。

そもそもこんな仕事が必要になるというのがおかしいのではないか。他人が読めない診断書を書くということ自体がどうかしているのである。

医者が他人にわかるようにきちんと書きさえすればいいのである。字が下手でしょうがないというなら、ワープロ入力すればいい。他人に読めない診断書を書いて金をとるなんてことは、仕事の倫理にもとるだろう。

 

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2011年10月18日

喪主とは忙しいもの

父の葬儀を 21日に執り行う。生まれて初めて喪主を務めるのだが、準備段階からこんな忙しいものとは知らなかった。

 

喪主は一度で留めたい。私の喪主は妻にしてもらいたい。つまり、妻の喪主をするのは嫌だ。

 

というわけで、今日はこれにて。

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2011年10月17日

訃報

今日はまともな記事を書いている暇がないので、業務連絡とか備忘録みたいなものである。

実は、昨夜父が亡くなった。

今、酒田に帰っている。21日は朝から葬式になる。

参照

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2011年10月16日

iOS 5 にアップデートした iPad でフリック入力するには

iOS 5 へのアップデートで、iPad でもフリック入力が可能になるとアナウンスされていたのだが、見たところ、どうもそんな感じじゃない。日本語入力の画面上のキーボードは、相変わらずローマ字入力用と、50音入力用しか見当たらないのだ。

私はケータイのテンキー入力は死にそうに面倒だが、iPhone のフリック入力はかなり気に入っていて、いつも使っている。これが iPad でもできるようになればいいなあと、日頃から思っていたのである。

ところが、せっかく iOS 5 にアップデートしたというのに、フリック入力用のキーボードが全然表示されない。もしかしたら、アップデートに失敗したのかなあと思って、設定画面で確認したのだが、ちゃんと 「iOS 5.0 お使いのソフトウェアは最新です」 と表示される。一体どうなってるんだ?

あちこちインターネットで調べて、ようやくわかった。50音キーボードを上に引っ張り上げると、あ~ら不思議、フリック入力用のキーボードに変わるのである。

こんな具合だ。

Img_0049
一番右下にあるキーは、これまでは表示されたキーボードを非表示にするためだけのものだったと思うが、iOS になってからは、ここにタッチして上に引っ張り上げることも可能になったのである。

引っ張り上げると、こんな感じになる。

Img_0050_2

キーボードが左右に分割されて、右側にフリック入力用のキーボードが表示された。左側に変換候補が表示されるので、見やすい。ちなみに、QWERTY キーボードも同様に上に引っ張り上げると、左右に分割されて、電車の中で両手にもって文字入力したいときなんかに便利である。

しかし、私はこれにちょっとだけ不満なのである。というのは、今年 5月 14日の「左利きの痕跡」という記事で書いたように、私はケータイやスマホの操作をするときには、フツーの右利きと違って、左手の指を使うのだ。

だから、この配置だと、右手で iPad をもって左手でキーボード操作をすることになり、ビミョーにやりにくい。左右の位置を入れ替えられないのかなあと、色々試したがそれはできない相談のようなのだ。

というわけで、私は iPad で日本語入力をするときには、両手に持って左右分割したキーボードでローマ字入力するということに落ち着きそうなのである。まあ、じっくりやりたいときには、外付けキーボードもあるしね (参照)。

 

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2011年10月15日

ウォール・ストリートで今起こっていること

ニューヨークで続いている "Occupy Wall Street" (ウォール・ストリートを占拠せよ) というムーブメントは、多分、先月頃から始まったんじゃないかという気がする。初めは「アメリカ人がなんかやってるなあ」と思っていたが、ここまで影響力が広がると見過ごしてはいられない。

ウォール・ストリートの公園に集結している 1,500人(といわれている)の連中は、なかなかしぶとい。いろいろな支援の元に、食べ物や医療、エンタテインメントの提供まで整ってきているようで、今やちょっとしたコミュニティにまでなっている。ああ、私がニューヨークに住んでいたら、すぐにでも行ってみるんだがなあ。

これは日本では無粋にも「ニューヨークの格差反対デモ」なんて言われているようだが、本当にネーミング・センスがないなあ。そもそも「格差反対」という日本語は、英語に直訳しようがない。「格差」を和英辞書で引くと、"difference" とか "class" とかいう訳語が出てくる。

このうち "difference"(差異) には反対しようがない。世界はみんな違っているからおもしろいのだ。Occupy Wall Street に参加している連中だって、多分そう思っているだろう。そう思われていない閉鎖的な社会では、「いじめ」や「差別」が発生する。日本では時として、差異を「悪」とみる人がいるから、うっとうしいのである。

もう一つの訳語の "class"(階級)にしても、今回のムーブメントがそれに正面切って反対しているというような気はしない。一部では「階級の固定化によって、アメリカン・ドリームが実現されない社会になっていることが問題」などとしたり顔で言う人もいるが、彼らが現在の硬直した階級を飛び越えて億万長者になりたがっているようにも見えない。

みんなが単純に薔薇色の夢を描いていた頃には、億万長者の生活も薔薇色に見えたんだろうが、今や、大金持ちも楽じゃないということを誰もが知ってしまった。

「あんたも、その 1%の富裕層の仲間入りをしたいのかい」と聞いたら、ほとんどは 「いや、そんな境遇になって心の安まらない日々を送るのはごめんだね」と答えるに違いない。「ごく普通の暮らしがしたいんだけど、それがままならないから不満なんだ」と。

私としては、米国人の多くも、そろそろ 「市場原理」 に沿ってあくせくすることに疲れてきているんだと思う。「行きすぎた市場原理」
に反対しているのではなく、「それって、もういい加減にしないかい? だって、それによって本当に幸せになったやつなんて、見たことないもん」ということなんじゃないかと思うのだ。

ミヒャエル・エンデは 「パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、まったく異なった種類のお金である」と言った。

ごくフツーの経済学では、どちらもお金に代わりはないのだが、今やエンデの言葉は人々に実感として迫ってきている。ウォール・ストリートに集結している人々も、「パンを買う金と、株を買う金は違う」という思いを持っているのだと思う。

「それは経済学的に間違っている」というなら、その経済学に限界があるのだ。

世界はそろそろ、お金の性格の違いをきちんと問い直し、新たな社会に脱皮する準備を開始しなければならない。そうでないと、人々の心が硬直してしまう。今、ウォール・ストリートで起こっていることは、根元的にはそういうことなんだと、私は捉えている。

先進国は軒並み経済が停滞してしまっているが、それも当然だ。そもそも、地球はこれ以上の大きな物質的成長を受け入れるキャパがない。今ニューヨークで起こっていることは、「中東の春」とは次元がかなり違う。

 

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2011年10月14日

iOS 5 へのアップデート完了

昨日、手持ちの iPhone 4 と iPad 2 の OS を、iOS 5 にアップデートした。実は 10月 12日に iOS 5 の配信が開始されるというので、一昨日、酒田に日帰りドライブして帰宅してから「つなぎっぱなしにしておけば自動的にやってくれるだろう」と、トライしてみたのだが、iTunes が Ver. 10.5 にアップデートできただけで、iOS 5 の方はうんともすんとも言わなかった。

よく調べてみたら、時差の関係で日本時間では 13日未明から開始されたようなのである。ちょっとフライングしてしまったようなのだ。まあ、それだけ楽しみにしていたということなのだよね。

で 13日の朝にネット情報を調べてみると、配信開始直後はサーバにアクセスが集中しすぎて、エラーが続出したらしい。それでほとぼりが冷めるのを待って、昨日の午後 3時頃からおもむろに開始した。

最初に iPad 2 からである。もしエラーが出たりやたらと時間がかかったりするようだと、iPhone でやってしまったら電話ができなくなり、仕事にならなくなってしまうから、iPad で様子見というわけだ。やってみたら 30分たらずで完了して、拍子抜けするほど呆気なかった。

これなら iPhone をやっちゃっても大丈夫だろうと、連続してトライ。これも 30分足らずで、ちょっと目を離しているうちに終わってしまった。配信直後はよほどアクセスが集中したのだろう。

iOS のアップデートは簡単に終了したが、問題は売り物の iCloud の設定である。これまで使っていた MobileMe からデータを iCloud に移さなければいけないのだが、こちらの方のサーバは混雑が続いていたようで、もう少し時間をおいてトライしろというような表示が出て断念。

5時過ぎに再挑戦したら、今度は何のことなくスラスラと完了して、これで私も立派な iOS 5 のユーザーになったわけである。ただちょっと残念なのは、これまで MobileMe では、PC で作成した Office データもアップロードしておけたのだが、iCloud では受け付けてくれないようなのである。まあ、無料サービスだし、仕方ないか。

というわけで、iPad で操作する必要のあるファイルは、今後は Pages とか Numbers とかのデータに移植してから iCloud にアップロードしておくことになるのかもしれない。あるいはどこか別の安いクラウド・サービスを探すかだ。

それから、iOS 5 のウリは、ロック状態からでもカメラを起動することができるということだったが、そのままではロック画面にカメラの起動ボタンが表示されない。よく調べてみたら、ロック状態でホームボタンをダブルクリックすると、カメラボタンが表示されるということのようだ。

常に表示してくれてもいいのになあとも思ったが、知らないうちに何かの拍子でカメラボタンを押して起動させてしまったら、バッテリーを無駄に消費しまくることになるだろうから、まあ、これはこれでよしとするか。

アップデート後、特別な不具合もないから、まだの人も安心してトライしていいだろうと思う。

 

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2011年10月13日

高速道路の長時間ドライブは、さすがにしんどい

今月に入って 2度も、酒田との間を日帰り往復で運転した。3日は妻を、昨日の 12日は 3人の娘たちを連れて、病院にいる父の見舞いに行ったのである。かなり衰弱してしまっているので、顔を見て認識してもらえるうちに会わせておきたいと思ったのだ。

酒田との往復は、約 1,000km になる。一応私も東日本大震災の被災者ということになっているので、料金所で被災者証明を見せると、高速道路は無料になる。だから常磐道~磐越道~東北道~山形道と、高速道路をどんどん走って行くのだが、それでも往復で 12時間ほど運転することになる。決して楽な仕事ではない。

しかも、八溝山地、阿武隈山地、奥羽山脈、月山と、4回の山越えをするので、上り坂では強めのアクセルを踏み続けるために、右脚突っ張りっ放しの時間が長い。おかげで右の腰から太ももにかけて、ぱんぱんに張って筋肉痛になってしまった。

長時間歩きに歩いてもこれほどの筋肉痛にはならないが、アクセルを踏みっ放しというのは、後になって効いてくる。本当にじっとしていることの疲れの方が、動いたことによる疲れよりしんどい。同じ疲れるなら、動いて疲れる方がいいという気がする。朝から湿布薬を貼って、なんとか痛みが薄らいできた。ああ、私も年なのかなあ。やれやれ。

ところで、7月から 5回連続で高速道路だけを通って酒田まで往復したのだが、高速道路というのははっきり言ってつまらない。単に止まらずに速く走れるというだけで、風情はほとんどない。

急ぎの旅でなかったら、一般道であちこち寄り道しながら行くのが楽しい。人間が生きている息づかいみたいなものも感じられるし。

 

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2011年10月12日

またしても、酒田に日帰りドライブ

今日は娘 3人を連れて、酒田の父の見舞いに日帰りで行ってきた。彼女らが子供の頃は揃って里帰りするのを楽しみにしていたが、この 10年間では 3人が揃って酒田に行ったのは、母の葬式の時ぐらいしかない。あれから 4年ぶりである。

昼過ぎに病院に着くと、病床の父は目を閉じて眠っていたが、まもなく目を覚まして、3人の孫の来訪をしっかりと認識してくれた。ちゃんと認識できるうちに会えてよかった。

途中の道は、本格的な紅葉にはまだ早く、山の木々はうっすらと色付き始めているという状態だった。ただ、帰りの道は 夕方 5時を過ぎるとあっという間に暗くなり、山を越えている間は外気温が 12度ぐらいまで下がって、寒いぐらいだった。季節は確実に進行している。

今月 3日と同様、朝から晩までの運転でくたくたなので、今日はこれにて失礼。

 

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2011年10月11日

Tunein Radio というサイトがいい

既にご存じの方からは「何だ、今頃気付いたのか」と言われそうだが、Tunein Radio というサイトを今日初めて知った。世界中のラジオ放送を聴けるのだ。日本のメジャーなラジオ局は、Radiko なんかやっても地域限定なんていうケチなことをしているが、世界のラジオの大勢はこんなにも太っ腹だ。

このサイトに行って、例えば「音楽」-「R&B」とクリックしてみると、世界中の R&B を流しっぱなしにしているラジオ局のリストが出るから、その中からなんとなく良さそうな気がするのを選ぶと、あとはずっと R&B を聞いていられる。

PC で聞けるだけでなく、iPhone や Android、Windows Phone 専用のアプリもあって、無料でインストールできる。一日 iPod を聞いているような人は、手持ちの曲だけでは飽きてしまうこともあるだろうが、この Tunein Radio を聞きっぱなしにすれば、いつも新しい曲を聴ける。

私も早速、手持ちの iPhone と iPod にアプリをインストールした。多分、これで iPod を聴く時間というのはかなり減ってしまうんじゃないかと思う。スマホをお持ちでまだインストールされていない方は、早速インストールした方がいい。オススメである。

 

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2011年10月10日

冬になってもエアコンのスイッチを入れない覚悟

去年の今頃はまだ残暑が続いていて、口さえ開けば「秋はまだか?」と呟いていた。今年の秋は、今日はやや暑いが、久しぶりに秋を実感する日が続いている。近頃は夏が過ぎたらすぐに冬になってしまうような極端な季節感が続いていたから、今年のようなモデレートな季節変化は貴重である。こんな秋は次にいつ来るかわからない。

で、ふと気付けば、今年の夏は一度も自宅のエアコンのスイッチを入れずに乗り切っていた。日頃から「反原発」だの「CO2 を減らしたい」だの言っているのだから、責任をもって省エネしなければならないと思い、コンセントからエアコンのプラグを抜いてしまった。そのプラグを一度もコンセントに戻さずに済んだのである。

人間の体というのはなかなか大したもので、夏の初めからエアコンを入れずに徐々に暑さに慣れていけば、真夏になっても何とかなるものだ。内心ではどのくらいの暑さになったら耐えきれずにエアコンを使ってしまうだろうかと、人体実験をするような気持ちだったが、やってみれば耐えきれるものである。別に夏負けもしなかった。

逆に、エアコンの涼しさに慣れてしまうと、外界との気温変化に体がついていかなくて、体が消耗してしまうんじゃないかとさえ思った。人間、自然に任せておけばそれなりに対応力を発揮してしまうものである。病人でなければ、それで十分だ。

そして今度は、冬になっても暖房を節約する覚悟を決めている。我が家はリビングルームの暖房は灯油を使っているが、私の仕事場はエアコンである。エアコンの暖房は、冷房よりも電力を消費するという。だったら、冷房を我慢したのだから、暖房だって我慢したいと思う。

思い出してみれば、震災直後の彼岸の頃は、北西の季節風が強まって真冬並の寒さになった。震災で避難した人が震えているというのに、何と無慈悲な天気かと思ったが、あの頃、福島第一原発では水素爆発を起こしたりメルトダウンが佳境に入っていたりしていたのである。放射性物質を一番飛び散らせていた頃だ。

そんな時に陸から海に向かう強烈な北西の風が吹いてくれたというのは、寒さはひどかったけれど、実は神風だったんじゃないかと思う。 「東風吹かば匂ひをこせよ梅の花……」なんていうような、逆方向の春風が吹いていたら、放射能汚染が現状よりずっと広範囲に内陸まで及んでいたかもしれない。

その神風が吹いていた頃、私は意地でもエアコンのスイッチを入れまいとがんばっていた。夜になると、フリースの上にダウンジャケットを重ね、毛糸の帽子をかぶり、下はヒートテックのタイツの上にジャージと防寒パンツの 2枚ばきで仕事をしていた。

手は少しかじかんだが、キーボードを叩くスピードは落ちずに済んだ。あの時に耐えられたのだから、この冬もよほどの寒さにならなければ耐えられるだろうと思う。まあ、寒さに耐えきれなくなるとしたら夜遅くなってからのことだろうから、その時は遠慮がちにエアコンの暖房を付けようかとも思うが、とりあえず、なるべく辛抱するぞ。

 

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2011年10月 9日

2人の「担任の先生」の思い出

今日の TBS ラジオ「安住紳一郎の日曜天国」の聴取者からのメッセージ・テーマは、「担任の先生」というもので、いろいろな思い出をもった人がいるものである。小学校 4年生の時の担任の先生が、「本日、千代の富士関が引退されました」と号泣したので引いてしまったという人までいた。

「担任の先生」といえば、私にも忘れられない人がいる。それは中学 2年と 3年の時の、2人の担任である。まあ、あれほど対照的なキャラの教師はいないだろう。

中学 2年の時の担任は I という女教師だったが、彼女はヒステリックなまでの真面目人間で、生徒が何か逆らったり不始末をしでかしたりすると、残酷なまでにとことん追求し罰を与えるという、一種の恐怖政治のような学級運営をした。

中学 2年の 3学期が終わって春休みに入る前に、彼女はクラス全員に、ガリ版刷りの「春休みの勉強予定表」なる紙を渡した。春休み中、何日に何の科目の勉強をするか、その予定をびっしりと記入して提出しろと言う。予定表にはご丁寧なことに、きちんと実行したら〇印を付ける欄まである。

そんなものを書いても、どうせその通りに実行できるはずがないのだから、まったく無駄なことと思ったが、そこはそれ、些細なことで逆らうのも面倒だから、1日ごとに英語、国語、数学、社会、理科を順番に書いてざっと仕上げ、提出しておいた。ところが私はそのせいで職員室に呼び出されたのである。

彼女は「こんな大雑把でいい加減な予定表を書いたのはお前だけだ」と責め、きちんと書き直して再提出するようにと言う。私はそこでぶち切れて、「どうせ守れるはずもない予定表なんてものを書くのはバカバカしい」と、断固拒否した。

春休みが終わり、中学 3年生になった始業式で、私たちはあの女教師 I が結婚のために退職し、担任は新たに赴任した K という美術専門の男性教師に代わったと聞かされた。私たちは唖然とし、同時に彼女の結婚相手は世界一気の毒な男だと、心から同情した。

そしてクラスの私以外の生徒たちは、I に書かされた勉強予定表に〇や×の結果を付けたものを、律儀にも提出したが、多くの予定表の結果欄は〇印のオンパレードである。一日中私と一緒に遊び呆けていたくせに、まったくもう、ウソばっかりだ。

提出された紙を見て、新担任 K は、「これは一体、何だ?」と聞く。クラス委員をしていた生徒が「前の担任の I 先生から春休み中に書くように言われていたので、提出しました」と答える。彼は「そうか」と答え、次の瞬間、その紙の束をくずかごに放り込んだ。

この瞬間、彼はクラス全員の心をつかんだ。彼はもろに本音で生徒と接してくれる人で、生徒にとても慕われたが、やはりあの型破りすぎるキャラでは、学校という組織の中でうまくやっていけるはずもなく、数年後に退職したと聞いた。

専門の画家になったらしく、インターネットで彼の名前を検索すると、美術関係のサイトに載っているのを時々見かける。逢いたいなあ。

 

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2011年10月 8日

小沢さんの入院騒ぎで思ったこと

小沢一郎氏が救急車で入院したという記事を読んで、私は 3つのことを思った。

一つは、多分大した病気じゃないだろうということだ。政治家はヤバイ病気の時ほどこっそりと入院する。周囲に「ああ、彼ももうおしまいか」と思われて影響力が低下するのを防ぐためだ。

 

小沢さんの場合は、意識がはっきりしていて、自分の足で歩いて車に乗ったというぐらいなのに、わざわざ救急車を呼んで世間に目立つように入院したんだから、大したことはないだろうということだ。

二つめは、大した病気でもないくせに病院に逃げ込んだなということだ。政治家の逃亡先として最もポピュラーなのが病院である。あんまり世間の追求に合いたくない面倒な事情を抱えると、政治家はとりあえず病院に逃げ込む。小沢さんの場合は、「検察の暴挙のおかげで、体調まで崩しちゃったじゃないか」 とでも言わんばかりである。

ただ、彼の場合はそんな風にことさらに目立つように入院したのだけれど、世間からの同情はあまり寄せられそうにない。気の毒なことである。

三つ目は、一番目と矛盾してしまうのだが、「あれ、小沢さん、ヤバイ病気でなければいいんだがな」ということだ。最初のニュースでは、「疲れが取れずに、腰が痛い」と言っていたとのことなので、心の片隅でちょっとだけ嫌な感じがしたのである。

実は、親類縁者やお世話になった人の中で 、「原因不明の腰痛」が長引き、病院でしっかりと検査してもらったら、ガンが脊椎にまで転移していることがわかったという人が何人もいるのである。だから私は、腰痛が長引いているという話を聞く度に、条件反射的にかなり嫌ぁな感じがしてしまうのだ。

私は小沢一郎という人は決して好きなタイプじゃないが、それでもやっぱり、あまりそういう話は聞きたくないと思っていた。昨日になって、痛みの原因が尿管結石と発表されて、「なぁんだ、それならよかった」と、安心した。結石というのはかなり痛い病気だが、まあ、命にかかわるほどのものじゃない。

好きなタイプじゃないが、彼にはもう少し生きていてもらわないとつまらないじゃないか。

 

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2011年10月 7日

スティーブ・ジョブズに捧げる記事 その2

亡くなったスティーブ・ジョブズは、仏教徒だったのだという。禅に傾倒していたらしい。彼の価値観の根底にはカウンター・カルチャーがあったのだろう。プレゼンテーションにボブ・ディランの詩を引用したり、ビートルズのアルバム写真を使ったりしていたことからも、それがうかがわれる。

IT で生きてきたのだから論理を重視しないわけはないが、究極的には論理よりも直観を信じるタイプだったんだろう。道理で彼の開発したデバイスやコンセプトに惹かれるわけである。気が合いそうなのだもの。ああ、最初に買った PC が Windows マシンだったというのは、私にとって痛恨だった。Mac にしておけばよかった。

iPhone や iPad を日頃使い続けていると、「論理よりも直観」というコンセプトの心地よさを感じるのである。近頃報道される Windows 8 とやらにうんざりしてしまうのは、MS の開発コンセプトが、元々自分には微妙に合わないものだったんだけれど、そのギャップがますます大きくなりつつあるのを感じるからだ。

Windows 8 では「メトロ」とかいうタッチパネル式にかなりシフトしたユーザー・インターフェイスが採用されるらしく、その点では Apple 寄りになっているようにも思えるが、どうみてもデスクトップに情報を詰め込みすぎだ(参照)。情報はあればあるほどいいだろうと思っているのかもしれないが、あれでは起動した途端にうんざりではないか。

MS Office 2007 以降のユーザー・インターフェイスをみても、ちっとも使いやすくない。MS としては、「こう変えた方が使いやすいはず」と、かなり「論理的」に思っていたのだろうが、それが「人間の直観」とずれているから、いつも戸惑ってしまうのだ。彼らの考える「効率」というものは、大抵の場合、「心地よさ」と一致しないのである。

だから、あれほどまでに使いにくいのだ。フツーのオッサンやオバサンが、何度教えてあげても操作を覚えられないのは、Windows の世界が、「IT の論理」 に従属しないと渡れない世界だからである。「人間の直観」から、いつもずれているのだ。

私は面倒くさいのは死ぬほど嫌だが、効率の奴隷になんかなりたくない。効率を追いすぎると、かえってその前段階の手続きが、死ぬほど面倒くさいのである。

iPhone や iPad を使っていると、「IT の論理」を「人間の直観」に近づけようとする意志が感じられる。効率とか論理とかいう視点からみると「なんでこんなことをするんだろう」というような、ちょっとした操作感が、実は人間の直観にマッチするから、使っていて心地良いというようなところがある。

その意味では、PC というデバイスはその初期においてはかなり Apple 的なものであったのだが、途中から極端に MS 的なものに変質してしまったのだろうと思う。初期の Apple のコンセプトは、むしろ iPad においてより高度に体現されているような気がするのである。

パソコンの世界に、意に反して MS-DOS と Windows で入ってしまった私に、死ぬ前に iPad というデバイスを提供してくれたスティーブ・ジョブズは、やはり私の友達である。

 

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2011年10月 6日

スティーブ・ジョブズに捧げる記事

今朝目が覚めて、スティーブ・ジョブズが死んだと知った。今回発表されたのが iPhone 5 ではなくて iPhone 4S だったのは、"For Steve" という意味だったなんていう穿った話まで出たほどで、それほどまでに偉大な人だった。

私は今日に至るまで Windows ユーザーだが、このブログで何度も、"「自分は本来ならば Mac ユーザーであるべきだった」 という思いを捨てきれないでいる" というようなことを書いている。3年前の 5月なんて、「Mac ユーザーになりたい」なんていうもろに直球の記事まで書いたのである。

80年代後半に富士通のワープロ専用機 "OASYS" を買って、デジタルで仕事するようになり、そのうちに、勤務先では MS-DOS のパソコンを使うようになった。しかし私は、この MS-DOS というのがまったく好きになれなかった。だって、便利に仕事するためにパソコンを使っているはずなのに、面倒なばかりでちっとも便利じゃないんだもの。

それで、自分でパソコンを買うなら Mac にしようとずっと思っていたのだが、ちょうどその頃に Windows 3.1 が出現して、勤務先との互換を重視するあまり、つい出来心で Windows マシンを買ってしまった。それ以後、ずっと Windows ユーザーなのだが、心の片隅では居心地の悪さを感じ続けている。

そうこうしているうちに、長女と次女はあっさりと Mac ユーザーになった。彼女らの Mac を覗かせてもらうと、いかにもスマートなのである。その後に自分の Windows マシンに向かうと、画面のダサさ加減が際立って、ちょっと悲しい思いがする。

近頃私も、Mac ユーザーではないが、iPhone と iPad をバンバン使っているので、いっぱしの Apple ユーザーにはなってしまっている。ちょっと前までは仕事上での外出や出張にはノート PC を持って行くことにしていたが、最近では iPad を持ち歩いている。もうはなせない。

そして先月になってついに、「Windows 8 に慣れるより、Mac に乗り換える方が話が早そうだ」と、覚悟を決めた。次に PC を買い換える時は、多分 Mac にするだろうと思う。Windows 8 なんてものに慣れなきゃいけないなんて、まっぴらだ。

今日、私は次のように tweet した。(参照

親愛なるスティーブ・ジョブズ、あなたが生きている間に Mac ユーザーになれなかったのが本当に残念だけど、その代わり、iPhone と iPad に惚れ込んで使ってるから、あなたのことをずっと友達と思っていてもいいかな。

考えてみれば、スティーブ・ジョブズは、私より 3つも年下なのである。図々しく友達と思っていよう。

 

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2011年10月 5日

発表されたのは、iPhone 4S だったのだね

10月に発表されるのは iPhone 5 になるのかと思っていたが、実際に発表されたのは iPhone 4S というバージョンだった。「なーんだ」 という失望感があったのか、Apple の株価が一時ちょっとだけ下がったようだが、個人的には「まあ、順当なところなんじゃないの?」なんて思っている。

その一番大きな理由は、自分の iPhone 4 の 2年縛りが、来年の 11月にならないと解けないことである。自分が買い換えるのは来年秋までに発表される iPhone 5 で、iPhone 4S はスルーすることになるので、ある意味、どうでもいい。こうしたプライベートな要素の強い買い物は、思いっきり自分勝手な判断になるのである。

それでも、現在 iPhone 3GS を使っていて、近々 2年縛りが解けて 4S(SBM だろうが au だろうがどっちでも構わないが)に買い換える人は、ちゃんと満足するんじゃないかと思う。私自身、昨年の 11月に iPhone 3GS をうっかり洗濯機で洗ってしまったので、2年縛りが解けないうちに iPhone 4 に機種変更したのだが、使い心地にはとても満足した。

いち早く iPhone 3G を買ってしまっていた人から見ると、3GS の動作のサクサク感がかなりうらやましいものだったらしい。そしてその 3GS ユーザーだった私が iPhone 4 のサクサク感に満足したのだから、3GS から 4S に乗り換える人は、輪をかけていい気持ちになれるだろう。

個人的にちょっとそそられるのは、カメラ機能の進化である。iPhone 4S のカメラは 800万画素になり、しかも内蔵の処理システムが進化して、光量の少ないところでもきれいな写真が撮れるようになっているらしい。そして、ロック画面からすぐにカメラを起動できるというのも魅力だ。

私は「和歌ログ」というサイトに毎日写真を載せているのだが、最近はもっぱら iPhone 4 で撮った写真を使っている。3GS の時には、ブログに載せる写真を撮るには力不足だったが、iPhone 4 のカメラ機能は十分にセーフだ。それがさらに進化するとなったら、コンパクト・デジタルカメラ(コンデジ)を持ち歩く必要はさらさらなくなる。

ちょっと横道に逸れるが、近い将来、コンデジの需要は、とくに入門機種を中心にかなり減るだろう。ケータイやスマホのカメラ機能で十分ということになるだろうからだ。スマホのカメラで満足できない人は、コンデジの中級以上か、デジタル一眼を買うということになるんだろうと思う。

私としては来年の 11月以降に、より進んだ機能搭載の iPhone 5 を入手することになる。それまでに、手持ちの iPhone 4 を洗濯機で洗ってしまったりしないように、しっかりと気を付けるのである。

 

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2011年10月 4日

車を運転しながらサイマルラジオを聴く

私は昔からラジオ人間なので、車を運転しているときはほとんどカーラジオを点けている。しかも今どきの軽いノリの FM ラジオではなく、AM ラジオだ。ご贔屓は TBS ラジオである。ウィークデイなら、もはや怪物番組となった「大沢悠里のゆうゆうワイド 」、「小島慶子のキラキラ」、土曜日なら永六輔さんの「土曜ワイド」、日曜日なら「日曜天国」 などなど。

ところが、この TBS ラジオも、関東圏を外れると聴けなくなるのである。前に乗っていた車はカーラジオのアンテナがとても優秀で、福島県の彼方まで行っても関東圏の電波を受信できたが、今の車は水戸の先まで行くと、もう TBS がノイズだらけになってしまう。

そんな時、iPhone の Radiko で TBS を受信し、FM トランスミッターで FM ラジオに送って聞くと、かなりクリアな音で聴けるので便利である。しかしこの Radiko も、北茨城市辺りまで行ってしまうとエリアから外れたというような表示が出て、受信がカットされてしまう。心外だなあ。北茨城市だって関東なのに。

そこで、次の手段である。iPhone を E-Mobile の Pocket Wifi でインターネット接続し、その上で、Radkikker というアプリを立ち上げると、関東圏以外でも 関東エリアのラジオ放送が聴ける。もしかしたら、E-Mobile を最初に設定したのが関東だったので、どこまで行っても関東だと勘違いしてくれるのだろうか。

この裏技を発見したときは、ちょっと嬉しかった。福島県に入っても、宮城県に行っても、はたまた山形県に突入しても、いつもの TBS ラジオが聴けるのである。ありがたいことではないか。

ところが、iPhone のアプリで聴くラジオ放送は、時々ブツブツに途切れてしまって、再びバッファするのに手間がかかってしまったりする。さらには、何度トライしてもバッファリングに失敗して、なかなか聴けなくなってしまうこともある。車を運転しながら iPhone を操作するのはちょっと危険でもあるので、イライラする。

そこで今度は、Radiko や Radikker の設定で、バッファリング時間を長くしたり、バッファリングサイズを大きくしたりして対処することにした。これで少しは途切れにくくなるようなのだが、やはりちょっとしたストレスではある。

 

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2011年10月 3日

トンネル内でライト点灯する意味が、今さらながらわかった

今日は生まれて初めて、酒田との間を日帰りで運転している。病床の父を妻が見舞いたいというので連れて帰郷したのだ。病院の父の病床には、3時間ほどしかいられなかったが、連れて行ってよかった。

ところで、道路のトンネルの入り口に「ライト点灯」と書いてあるわけがようやくわかった。これまでは、まあ、指示通りに点灯することはするが、「別にライト点けなくても、トンネルの中、明るいじゃん」と思っていた。

しかし、いくらトンネルの中に照明設備があっても、突然地震がきて停電したりしたら、真っ暗になって、中を走っているドライバーはパニくってしまうだろう。あれは、突然真っ暗になってもちゃんと冷静に走行できるように、ライト点灯の必要があるのだ。

納得したのである。というわけで、一日中運転(朝から晩まで、約 1,000km 運転)なので、今日のところはざっと失礼。

 

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2011年10月 2日

タイピング・ソフトって一体

「タイピング・ソフト」 というものがある。パソコンのキーボードでタイピングの練習をするためのソフトで、「正しいキー操作を学び、練習を重ねることでタッチタイピングもできるようになる」というのが謳い文句のようなのである。

私はタッチタイピングができる。「ブラインドタッチ」ともいって、いうまでもなく、キーボードを見ずにタイピングできるテクニックのことである。これは別に特殊技術というわけではなく、練習すればたいていの人はできるものだと、私は思っている。

タッチタイピングの練習をするために、それ専用のソフトを買うというのが、申し訳ないが、私には信じられない。そんなことは単に、練習すればいいのである。同じ練習するなら、好きな小説家の代表作とか、感銘を受けた評論とか、興味を覚えた新聞記事とか、要するに興味のある文章をひたすらそのままタイプすればいい。

意味のない打鍵や好きでもない文章を打つよりずっといい。

私はタイピングは英文タイプから入ったので、News Week という雑誌で興味を覚えた記事をひたすらタイプするというやり方で、3日かからずにタッチタイピングができるようになった。英文タイプができれば、ローマ字入力ができないわけがない。

そしてその昔、富士通の OASYS というワープロで親指シフトキーボードを使っていたときには、日本語の雑誌で興味を覚えたのをひたすら入力するというやり方で、これも 3日かからずにものにした。今は JIS キーボードを使っているので、せっかく覚えた親指シフトが使えないのが残念である。

英文タイプだろうがローマ字入力だろうが、はたまた親指シフトだろうが、上達のコツはひたすらホームポジションを守るということだけで、それさえ気を付ければ誰でもそんな苦労せずともタッチタイピングぐらいはできるようになるはずだ。

それでもわざわざ 「タイピング・ソフト」 というものを使う人がいるというので、それはどんなものかとググってみたら、「無料タイピング・ソフト一覧」 というページが見つかった。フリーソフトでもいろいろなのが出ているらしい。

そのページをみると、どうやらタイピングを練習できるゲームソフトが多いようなのだ。画面に登場する文字をタイプして撃退するものとか、積み重ねられたアルファベットのブロックを、該当文字のタイプで消していくというものがある。

私としては、いらいらしながらそんなゲームをするより、ただひたすら好きな文章を筆写 (じゃない、「タイピング写」か?) する方が、ずっとタイピング練習にもなるし、文章の上達にも役立つと思うがなあ。

あるいは、ゲームで楽しみながら練習する方がいいという錯覚でもあるんだろうか。どうもわからん。タイピング・ソフトの経験者がいらしたら、その体験談をコメント欄に書いていただきたいぐらいのものである。

 

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2011年10月 1日

去年は 10月中旬まで暑かったが

昨日は妙に蒸し暑かったが、天気予報によると、「夕方過ぎに雨が降り、それとともに秋の空気に入れ替わって、一挙に涼しくなる」ということだった。それで、その涼しさを期待していたのだが、全然雨が降らない。雨が降らないので、「秋の空気」とやらに入れ替わったような兆候もなく、眠りにつくまで蒸し暑いままだった。

今朝になっても、まだそれほど劇的に秋になったというような気はしない。半袖シャツでは涼しすぎるかと用心して、薄手のジャケットを羽織って外出したのだが、暑いので結局脱いでしまった。ところが昼前にふと気付くと、すっかり「秋の空気」なのである。半袖シャツでは肌寒いのである。

「秋の空気」に入れ替わるのが、半日遅れたようなのである。しかもその入れ替わりが、雨といったような明確なきっかけではなく、いつの間にか入れ替わってしまったとしか言いようがない。とにかく、ふと気付いたら肌寒い。さすがに、今日から 10月である。

私のもう一つのブログである「和歌ログ」に、季節の移り変わりについて案外きめ細かく書いている。それを読み返すと、過去 4年間のうち、平成 19年、21年、22年はかなりの暑さで、10月中旬になっても、うんざりするほどの残暑が続き、口を開けば「秋はまだか」なんて言っていた。

平成 20年だけは季節の推移が順調で、9月になるともう秋らしい歌を詠んでいる。そして今年は、時々暑さのぶり返しがひどいとはいえ、3年前の秋に似ていて、9月にはもう秋らしい日が多くなった。

ということは、今年を含む 5年間のうち、3年は 10月になってもひどい残暑で、まともな秋らしい日もないうちに、気付いたときには冬になっていたという推移だったのである。残る 2年が、まあ、なんとか秋らしい日もあったということだ。それでも、今年などは涼しいかと思うと、急に残暑がぶり返すというように、変動が極端である。ひどい台風も 2度あったし。

近頃は、春らしい日や秋らしい日というのが、やたらと貴重に感じられる。もう少し「穏やかな日和」というのを当たり前に過ごせる日が多いとありがたい気がするのだが、温暖化にともなって、気象は極端になってきているのだろう。

それは覚悟しなければならない。

 

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