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2011年10月24日

大地震は自然の怒り?

Twitter で Hiro_Eclipse さんが ewa4618 さんの tweet を 公式 RT している。こんな tweet だ。(参照

地震なんて世界中至るところで毎日何回も起きてるんだからさ、人の住んでるところで大きい地震が起きるってのは単純に確率の問題で、いつかは当たっちゃうわけよね。今度はトルコで地震があって、やれ「自然が怒ってる」だの何だのポエマーになっちゃうヤツらがいるけど、嘘くささしか感じないなあ

確かに、地震は長期間に蓄積された地殻の歪みが一瞬にして開放されるという単なる自然現象だから、人間がうんこをするぐらいの当たり前のことだ。自然にしてみれば「怒っている」わけではなく、ごく普通の物理現象である。石原都知事がほざいたような「天罰」なんかではない。

それに対して Hiro_Eclipse さんは、次のようにコメントしている。(参照

というか、殊更に「自然が怒っている」と云い出すのもある種 “責任逃れ” なのかもなぁ、と。自然に対する畏敬は有って然るべきだが、平時の対策で被害を軽減する事も出来るのだし

この流れで、私も自分なりの考えを次のように tweet した。(参照

人間の所為が自然のしかるべきバランスを崩しただけ。ある種の「罪の意識」の投影として、「自然の怒り」と感じるのだと解釈しています。

ただ、これだけだとちょっと言葉足らずかもしれないので、補足しておくことにしたい。

地震自体は太古の昔から続く自然現象だから、とくに産業革命以後に本格化してしまった人間の自然破壊の所為とは、直接的には関連していないと、私は認識している。ただ、地震による被害が大きくなるのは、人間の所為が自然のあるべきバランスを崩してしまっているからということもできる。

その最も端的な例が、今回の原発事故だ。よく調べれば歴史上でも巨大津波が複数回襲っているような海岸に、リスク・マネジメント的にはかなり甘い想定の原発を建設してしまったから、今の問題が起こっているのである。

これは地震や津波が悪いのではなく、それを甘く見た人間が悪いのだ。きちんとした想定の元に平時の対策を行っていれば、これほどの被害にならなくて済んだというのは、各方面からの指摘の通りだろう。

今回の原発事故の当事者には、当然のことながら、「原因は想定外の巨大地震と津波」なんて総括にしないで、「まともに想定しなかった自分たちの責任」と捉えてもらいたいものである。

ただ、「きちんと想定しなかった ことの責任は、政府と東京電力だけにあるのではない。「あれって、きっとヤバイよね。何かあったら、大変なことになる」と恐れながらも、普段の生活ではのほほんと豊富な電力を使い続けてきた我々にも、その責任の一端はある。

私が今年の夏、エアコンのコンセントを抜きっぱなしにして耐えたのは、節電のためだけではない。単なる節電だったら、電力消費のピークをとっくに過ぎた夜になってまで我慢している意味は薄い。あれは個人的には「贖罪」の意味もある。

というわけで、天災を大雑把に「自然の怒り」とみるのは、自然のしかるべきバランスを崩し続けてきた人間の、漠然とした「罪の意識」の投影であり、ある意味自然な思いでもある。ただ、そうした情緒的な感慨にとどまってしまうのは  Hiro_Eclipse のおっしゃるように、ある種の「責任逃れ」に通じてしまう。

人間というものは罪の意識から逃れて楽になるために、「自然に怒られた」ということにしたいのである。無意識のうちに 「こうして怒られちゃったんだから、もうチャラにしよう」ということにしてしまうのだ。ただ、それだけでは同じことの繰り返しになってしまう。

 

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コメント

「地震は長期間に蓄積された地殻の歪みが一瞬にして開放される」といっても、地球規模で考えれば、それも「長期間」でさえないんでしょうね。そのレベルの視点で見れば、人間の営為が自然のバランスを崩しているといっても些細な誤差程度でしかないし、原発の放射能にしたって、プルトニウムの半減期が何万年と言っても、たいした年月ではない。

結局のところ、上記のような見方も含めて、ある解釈を積極的に(あるいは消極的に)採用することによって、そのうえで自分の行動(全般的なライフスタイルや、日々の一つ一つの判断)をどのように処していくのか、ということになるのだと思います。

その意味で、私もまた「エアコンのコンセントを抜く」側に与しようとする立場です。

投稿: 山辺響 | 2011年10月24日 14:08

山辺響 さん:

一応人間なので、とりあえず人間の一般的な尺度で言ってます ^^;)

例えば温暖化というのは、地球にとっては些細な変化でも、人間を含む生物にはかなりのダメージです。そのダメージをもたらす要因の大きな部分が人間の所為であるらしいというのは、ある意味、哲学的な問題なんじゃないかと、私は思っています。

投稿: tak | 2011年10月25日 19:07

ランダムなこと、意味のないことに、何かしらの意味を見つけたがるのが人間なんだと思いますよ。血液型性格占いもそうだし、占星術もそうですよね。カーテンの皺とか葉っぱの光の当たり具合とかに幽霊の顔を見つけたがるなんては典型的にそういうことですよね。火星のクレーターに人の顔を見るとかいうのも同じことです。
麻雀なんかでも、牌の流れがよいとかツキが回ってきたとか言いますね。ああいうのは客観的には何の根拠もない話ですが、その場ではそれなりに意味のある考えかたです。そう考えておいたほうが自分も周りも納得がいく。
そういうふうに、人間って、本来は無意味な事象に当人なりの意味をつけながら生きていて、そういった、実は個人的に意味づけて解釈しているだけにすぎないことを本当の事だと思いながら、一生を終える生物なんだと思います。

投稿: たんご屋 | 2011年10月25日 22:05

たんご屋 さん:

>そういうふうに、人間って、本来は無意味な事象に当人なりの意味をつけながら生きていて、そういった、実は個人的に意味づけて解釈しているだけにすぎないことを本当の事だと思いながら、一生を終える生物なんだと思います。

単にランダムに起こる現象でも、人間 (あるいは生物全般) にとって、何らかの実質的な意味を生じさせるということは多いですね。

そうしたケースでは、単なる 「個人的な思い込み」 にとどまらず、人間の意識としてある意味自然な流れとなる 「人類的思い込み」 が生じます。

地震もそうですが、例えば冷夏による凶作もそうです。

古代においては 「御霊信仰」 ということにもつながりました。

さらに、実質的な意味のある現象と、単なる思い込みを生じさせているにすぎない現象との境界線は、厳密に言えば不明確です。

その不明確なグレー・ゾーンが、なかなかおもしろい心理現象を生む最も豊かな土壌なのかもしれません。

投稿: tak | 2011年10月26日 15:01

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