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2011年11月 7日

明日は父の納骨式

父の納骨式が明日なので、今日、つくばの地を発って酒田に着いた。途中の道は今月初めよりずっと紅葉が進んでいる。

納骨式を控えているのに、実は今になっても父が死んだような気がしない。実家に帰ればいつものように、茶の間でお茶を飲んでいるような気がしている。そして実際に実家に着いてみると、そこにいないのが不思議だ。

四十九日が済むまでは、こんなようなものなのだろうか。

今日のところはこれにて。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

庄内 拓明様:

私も親父亡きあと実家にかえるたび
同じような感覚をもちました。

不思議ですが、今でも実家を思うと
親父がそこに居るような気がします。

いつか書いたかもしれませんが、故人
を思い起こすことがいい供養になると
いうことらしいです。

ご尊父のご冥福をお祈り申し上げます。

投稿: jerjey | 2011年11月 7日 23:20

jerjey さん:

ありがとうございます。

やはり同じような感慨を持つ人は多いのでしょうね。

思い出すことができるうちは、死んではいないのだという人もいます。それも一理あるように思います。

投稿: tak | 2011年11月 8日 00:09

あるブログの「死んだらどうなるの?」という記事を思い起こしました。

http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52194249.html

(私のブラウザでは行間が詰まっていてひどく読みにくいのですが……)

私の場合、父母が死んでもう20年余りになりますが、今でもたまに夢に出てきます。たいていは夢のなかで叱られているような……(汗)

投稿: 山辺響 | 2011年11月 8日 11:42

山辺響 さん:

ご紹介の記事の内容、なかなか納得です。

(私はコピーして Word の行間 1.5行 表示で読みました ^^;)

さらに、すぐそばにいて見守ってくれているという実感すらもあり、それをあえて否定する必要もないと思っています。

投稿: tak | 2011年11月 8日 21:13

お父様のこと、いつコメントを残させていただこうかと思いながら、今日になりました。
この度はお悔やみ申し上げます。

庄内拓明さんのサイトには、もう何年前からでしょうか、毎日とはなりませんが、拝見させていただいております。
時の流れ、季節の移り変わりを感じつつ、色んな想いを巡らせ、またときにそれゆえの悲しささえ感じながら。

誰もが経験する、親を失ったときの悲しみに、私は耐えられるのだろうかと、今でも空を見上げてしまうのです。せめて私に子供でもいればと思うのですが、その悲しみや孤独感というものは、想像すらつきません。

それでも、庄内拓明さんの記事や他の方々のコメントを拝見し、ああ、そういうものなのかと、心の準備ができていくような気がしています。

ありがとうございます。

投稿: コロ | 2011年11月 8日 22:43

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