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2011年11月13日

私の中の漱石シンドローム

夏目漱石の『三四郎』を、久しぶりに青空文庫で読んだ。しかも i文庫HD というアプリを使い、iPad の画面で読んだのである。ありがたいことに、著者が亡くなって 50年以上経ち、著作権フリーになった文献の多くを、青空文庫で無料で読むことができる。

これでは文庫本を買うものなどいなくなるだろうと思ったが、どうやらそうでもないらしい。「ファウスト」編集長の太田克史氏は、日本では既に文庫本という利便性と経済性を兼ね備えた市場があるので、電書書籍市場が拡大しないと言っている (参照)。

うぅん、そうかなあ。私は少なくとも、青空文庫で無料で読むことのできる「スタンダード」に関しては、文庫本の出る幕がなくなりつつあると思う。とはいえ、電子デバイスで本を読むのは、紙の本で読むよりもずっと小難しいノウハウが必要と思いこんでいる層がまだ多いというのも、驚くべき事実だけれど。

『三四郎』を初めて読んだのは、中学 1年の時だったと思う。私の文学開眼は、小学校 5年生の時に読んだ『坊っちゃん』で、以後、漱石の小説は立て続けに読んだ。

当時は今以上に世間知らずだったから、日本人が 100人寄れば 100人とも『坊っちゃん』ぐらい読んでいると思っていた。しかし実際にはそんなことはなく、読んでいる者は 20人もいないだろうと、後々になって薄々勘付いた。

小学校 5年から 6年になる春休み頃に、『吾輩は猫である』を通しで読んだが、これを読んだ者なぞ、大人だけをとってみても、100人に 1人もいないだろうということも、後々になって気付いた。

それを覚るまでは、日本人なら誰にでも「トチメンボー」とか「ダーターファブラ」とかいうジョークが通じると思っていたが、そんなのが通じるのは、せいぜい 500人に 1人ぐらいのものと知った時にはショックだった。漱石は「国民作家」などと言われているが、それが本当なら、日本の往来を歩く者は非国民ばかりである。

まあ、私は年端も行かないうちから漱石なんぞに親しんでしまったおかげで、『草枕』の那美さんとか、『三四郎』の里見美禰子とかみたいなタイプの女性に弱いという深刻な副作用まで起こしてしまったのである。それを克服するまでちょっと時間がかかったのだが、それは、まあいい。

とにかく、今回久しぶりで『三四郎』を読んで、私の中には「漱石シンドローム」みたいなのが確実にあるなと、改めて確認してしまったのである。

 

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