「自転車の車道通行」ということの、理屈と実感
今月初め、"「自転車は車道」の原則は、地方都市ではまったくの愚策" という記事を書いたところ、思いがけず逆の視点からのコメントをいただいて、世の中にはいろいろな見方があるものだと、目を開かされた思いがした。
山辺響さんからいただいたのは、「自転車が歩道を走ると、自転車と自動車が衝突する事故が増える」という指摘である。一見するとかなり意外なことだが、『自転車の安全鉄則』(疋田智、朝日新書)という本に書いてあるのだそうだ。
具体的に言うと、歩道を走る自転車は、車の運転者からは「見えない」、あるいは少なくとも「自車と今にもぶつかる可能性が高い危険な存在」としては認識されないが、その「見えていない」あるいは「危険ではない」存在が、交差点でいきなり「ぶつかる相手」として、歩行者よりも相当に速いスピードで出現する。だから自転車の歩道走行は危険だというのである。
なるほど、理屈としてはわかるような気がする。しかし、私はこのコメントに以下のようなレスをつけた。これは実感からきたものである。
うーん、地方都市のほとんどの道路では、(歩道を走る自転車が)よく見えるんですがね。洒落た並木も植え込みもないし、歩道も狭いし。それに、歩道から突然車道に飛び出してきたりするので、油断ならないし ^^;)
自転車と猫は、とにかく予測できない動きをするので、よくよく気をつけています。
本当に、前述の記事本文でも書いているように、経験則として地方都市の自転車は本当にやっかいな存在なのである。車を運転していてドキッとするほど、無茶苦茶な自転車が多い。街灯もない真っ暗な車道を、無灯火で右側通行してくるなんてざらなのである。そんなやつには、「頼むから歩道を走っておくれ」と言いたくなる。
「自転車は車道を」という主張を好意的に理解すれば、自転車は車道を走ることによって、自分が「車両」に乗って走行しているのだと自覚し、相応のマナーを身につけることに通じる可能性が高まるということなのだろう。とにかく現状のままでは、自転車に乗っている者のかなりの部分が「よくよく死にたくてしょうじゃないんじゃないか」と思うほどだから。
とまあ、そんなことを考えていたところ、読売新聞に "自転車、徐行なら歩道 OK … 警察庁局長の見解" "「自転車は車道」 迷走 … 真意は 「歩道暴走ダメ」" という記事が同日付で載っているのを見つけた。警察庁としても、あまりの反響の多さにあわてて軌道修正したもののようなのである。
警察庁の言い分をみると、「高齢者や子供を乗せた保護者、前かごに荷物を積んだ人などは歩道で良い。ただ、いずれも徐行が原則で、スピードを楽しむ人は車道に降りてもらう」「ゆっくりと走る自転車や子供を乗せた主婦などは、これまで通り取り締まらない」ということのようなのだ。なんだ、これまでと変わらないじゃないか。
だったら、「自転車は車両」というのは元からある原則とはいえ、どうして今頃になって「ルール徹底」なんて言い出したのか、よくわからない。さらに、一度は「ルール徹底」を言い出しておいて、後になって徹底しないことを言い出すご都合主義は、ますますよくわからない。
この記事に載っていた警察庁のデータからすると、自転車の歩道走行を認めていなかった時代には、走行中の事故死者は増える一方で、1970年には年間 1940人に達していた。それを受けて、同年に車道の交通量が多い一部の歩道で自転車走行を可能とするように道交法を改正すると、 5年後には約 35%減の 1254人にまで減少したという。
さらに 2007年に自転車の歩道走行を「13歳未満と 70歳以上、身体障害者」に限定する一方で、駐車車両や工事などのやむを得ない場合には歩道走行が出来ると改正したところ、昨年の死者は 658人にまで減った。自転車の歩道走行を認めることの効果があったというのは、実はデータが如実に語っているのである。
しかし一方で、自転車と歩行者との衝突事故は増加し、昨年は 10年前の約 1.5倍の 2760件に上った。まあ、自転車との衝突だから、ほとんどの場合は自転車と車との衝突ほどの大事にはならないが、中には死亡事故もあるという。ここでも、自転車に乗る者のマナー向上が望まれる。
そんなこともあって、警察庁は「自転車は車道」という原則を打ち出したんだろうが、私が前に書いた記事でも述べているように、地方都市と都会とでは、歩道の様相が全然違っているのだ。
歩道での自転車と歩行者の衝突は、歩行者の多い都会では大きな問題になるのだろうが、地方都市の繁華街から少しはずれたら、歩道なんて誰も歩いていないことの方が多い。どうせガラ空きなのだから、実質的には自転車専用道として利用してもらう方がずっといいのである。
自転車が車道を走る方が、車の運転者に意識してもらえるという指摘にしても、確かにそれで致命的な事故は減るかもしれないが、車の運転者側のストレスはかなりなものになるし、余計な渋滞の原因ともなる。自転車が車道をフラフラ、ゾロゾロ走る道で、車を運転したいとは決して思わない。
「自転車が車道を走る方が事故は減る」という主張を聞いた時は、こう言っては申し訳ないが、正直なところ、「福島の事故でも一人も死者は出ていないのだから、原発は安全」という主張を聞いた時と同じようなストレスを感じてしまった。
原発事故で死者は一人も出ていないかもしれないが、死ぬほど苦労している人は大勢いるのである。そして「自転車が車道を走行することで、常に危険を意識している方がいい」というのは確かに理屈だが、「車を運転している間、ずっとそんなストレスにさらされ続けたら身がもたない」というのが、多くの運転者の実感だと思うのである。
それに何よりも、車がびゅんびゅん走る車道を走れと言われたら、自転車に乗る者にしても、普通はコワイと感じるだろうし。
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コメント
読売新聞の記事に関してはこれを是非ご一読下さい。http://melma.com/sp/backnumber_16703_5344076/
また、自転車が歩道を走ると自動車との事故が増えるというのに対する件についても同じく疋田さんのこちらをご覧下さい。
http://melma.com/sp/backnumber_16703_5329677/
投稿: ポタ | 2011年11月29日 22:46
長文失礼します。
私は移動や買い物他ほぼ全てを自転車で行っています。
そんな自転車乗りとして申し上げたいことは多々あるのですが、今回はただ一つ「人のエゴ」について考えて頂きたく書き込ませてもらいました。
takさん始め自動車のドライバーの方々は、自転車が車道を走行するとストレスになるから走って欲しくないそうですが、
自転車だって多くの段差や盲人用点字ブロックがあり時速5km以下の徐行をしなければならない歩道は走行したくありません。
これって自分のストレスを他人に押し付けてませんか?
日本には古来より「和を以て貴しと為す」精神があるはずなのですが、こと交通になるとこれがなかなか通じません。
自動車は自転車が邪魔だと言い、自転車は歩行者を邪魔だと思うように、強者が力を持て余すフラストレーションを弱者に抱いたりぶつけたりすることが問題であり、オカシイと思うのです。
強者は弱者に対して思いやり、余裕を持った態度を取ることが普通であり、法的にも道義的にも正しいことのはずです。
更にこうしたエゴが増長する要因として、自動車特有の構造もあると思います。
・免許制であること
・ガラス越しに閉じられた空間で他者との物理的距離が遠いこと
・自転車・歩行者に対し異常な大きさで道路を占有すること
・重量税・ガソリン税(環境税)等、課税されていること
ざっと思いついた事を挙げてみましたが、こういった要因がドライバーに一種の選民思想を蔓延らせる結果になっているのではないでしょうか?
本来、道路を使用する権利は人々に平等に与えられており、身一つの歩行者でも大型トラックのドライバーでも対等であるはずです。
「危険だから歩道へ」「渋滞が増えるから」などといった意見は、ドライバーが自分の利益を守りたいが為の後付の理由で、原発事故後に原発推進を唱える人を見たような感じを覚えます。
実際問題、交通ルール教育の不徹底、増えすぎた自家用車、インフラ整備等、様々な要因が複雑に絡み合っているので一概には語れませんが、
自転車の歩道走行容認は、自転車を車両以上車両未満の曖昧な存在にし、それに伴い車道を占有した自動車とドライバーのエゴの増長が数十年続いたことで世代を超えて常識となり、これを覆すこと至難となったのが昨今の状況に見られます。
ドイツ始めヨーロッパのように「自転車は車両であり歩道には進入禁止」「車両は歩行者、以下の存在に便宜を図る事」とするような教育が徹底されていれば、自転車の後ろに付いて「邪魔だ」などとは思わず、「気をつけて追い越そう」程度に思うようになっていたのではないでしょうか。
この長年続いた常識を覆すには、最低それと同じだけのの時間・環境整備等が必要だと思われます。
今回のルール徹底の声明は、意識改革のための第一歩であり、これが長く続き理解を得ていくことを自転車乗りの1人として私は望みます。
投稿: セイ | 2011年11月30日 09:04
この問題は、どの立場を取るにせよ、教条的に考えると無茶苦茶な社会的コストがかかるのではないでしょうか。
歩行者、自転車、自動車のそれぞれの権利意識ばかりが高くなると、ロクでもない結果になると思います。それぞれがお互いの安全や利便性に配慮してうまくやって行くしかないでしょう。
とはいえ、歩行者はあまりひどい形で道をふさがないという程度しかできないし、一般に自動車の運転者は事故を起こすことへの罰が明確なので、そういう配慮をすることに関するインセンティブが一番働きにくいのが自転車なんだろうなと思います。
どうしても制度的に対処しなければならないなら、自転車も免許制にすれば良いと思います。試験をする必要はないと思いますが、毎年免許料を支払い、危険運転や灯火違反等があった場合には更新料が上がるようにすれば良いわけです。単に「車道を走れ」というよりはよほど車両を運行しているという自覚は生じるでしょうし、事故の被害者になった歩行者の救済の原資にもなります。私は規制の拡大はキライですが、常識的な周囲への配慮でなんとかやっていこうという性善説的な方法以外だとこれが一番シンプルなソリューションだと思います。特に電動自転車が手軽に入手できるようになって原チャリとの境目がぼやけ始めている中、整合性の観点だけから考えると合理的であるような気がします。
投稿: きっしー | 2011年11月30日 10:42
セイ さん:
>自転車だって多くの段差や盲人用点字ブロックがあり時速5km以下の徐行をしなければならない歩道は走行したくありません。
>これって自分のストレスを他人に押し付けてませんか?
私は車を運転することもあれば、自転車に乗ることもあります。
そして、自転車に乗るときは敢えて歩道を走行しています。
車がびゅんびゅん走る車道を通るのは、かなりコワイですから。
地方都市では、車を運転する者だけでなく、自転車で走行する者にとっても、車道を走行するのは、かなりの恐怖感とストレスを伴います。
地方都市の歩道は本文で触れているようにがら空きで、自転車専用道として使うのにピッタリです。
点字ブロックも段差もありませんし。
(地方都市の歩道は、多くが車道と一列のブロックで区切られているだけで、同一平面です)
私は今月初めの記事を "「自転車は車道」 の原則は、地方都市ではまったくの愚策" というタイトルで書いている通り、初めから 「地方都市での運用」 を前提として論じています。
大都会の車と人であふれた道路は、別のお話です。
私の居住地は典型的な地方都市で、近所の人に聞いてみると、ほとんどの人は自転車に乗るときは歩道を通行するということでした。
「だって、車道を走ったら、命の危険を感じるもの」
という人がほとんどで、
「交通規則を守りたいから、敢えて車道を走るけど、本当にコワイ。本音を言えば、歩道を走りたい」
という人も、1名いました。
地方都市では車道が狭いので、自転車で車道を走るのは、本当に恐怖感とストレスに襲われることなのです。
このストレスは、車の運転者も自転車に乗る者も、同じように味わっています。
そして、ふと歩道を見れば、なんとまあ、がら空きなのです。
しかもそこには、段差もなければ点字ブロックもないのです。
この歩道をがら空きのままにしておくのは、もったいないことなのです。
自転車が車道から歩道に逃げ込みたくなるのは、本当に自然なことなのです。
投稿: tak | 2011年11月30日 14:54
ポタ さん:
リンク先、拝見しました。
警察の場当たり的ご都合主義には、自転車問題に限らず、私も困ったものだと思います。
自転車が車道走行する方が、よく認識できるということについては、私の今月初めの記事のコメントで、地方都市の道路では、ほとんどの場合、歩道を行く自転車は、車を運転する者からかなりよく認識できるということを指摘しています。
なにしろ、車道も歩道もせまいし、並木や植え込みなんていう洒落たものもないし、ただ一列のブロックで仕切られてるだけというのがほとんどですから。
しかも、歩道から急に車道に飛び出してくる自転車がかなり多いので、常に気を付けているとも書いています。
繰り返しますが、私は地方都市の事情について論じています。都会は別の話です。
地方都市では、もっと言えば、車と自転車だけが多くて歩行者なんて滅多にいない田舎では、歩道は自転車に走ってもらわなければもったいない空間となっています。
交差点内の事故に関しては、これはもう、田舎では車道だろうが歩道だろうが、あまり変わらないんじゃないかという印象です。
前述の通り、車からは自転車がとてもよく認識できますので。
(単なる印象ですので、決めつけはしませんが)
投稿: tak | 2011年11月30日 16:43
きっしー さん:
>歩行者、自転車、自動車のそれぞれの権利意識ばかりが高くなると、ロクでもない結果になると思います。それぞれがお互いの安全や利便性に配慮してうまくやって行くしかないでしょう。
つきつめれば、そういうことになりますね。
>そういう配慮をすることに関するインセンティブが一番働きにくいのが自転車なんだろうなと思います。
それは現状が如実に物語っています。
良識ある自転車愛好者の方からすれば、トンデモないと言いたくもなるでしょうが。
>どうしても制度的に対処しなければならないなら、自転車も免許制にすれば良いと思います。
そうならないためにも、自転車乗りの方にはマナーを守ってもらいたいものです。
投稿: tak | 2011年11月30日 16:47
読売の記事・警察庁交通局長の見解については、ポタさんご紹介のとおり、件の疋田氏が対応しているので、その結果待ちですね。「事故減少」というデータの取り方も含め論外な記事だとは思いますが。
それはさておき、takさんの説明を読むと、なんか地方都市における道路構造の不条理という問題がありそうですね。なんでそんなに歩道が広いんだろう? 自転車乗りにとっても、最終的には自転車レーンが整備されることが理想なのだから、地方都市においては歩道の半分を潰して自転車レーンにしてしまえばいいような気がしますね。ただしその場合、安全性を考慮すると、歩道との物理的境界は「あり」、車道との物理的境界は「最小限」という条件がつきますが…(つまり流れとしては、歩道を狭めて車道を広げ、その一部を自転車専用レーンに供する)。
しかし、さらに突き詰めれば、都会にせよ地方都市にせよ郊外にせよ「車道しかない」道路も相当の比率に及ぶわけで、自転車が何らかのタイミングで、歩道ないし自転車専用レーンから車道に「飛び出して」走行することは避けられない(takさんがおっしゃるように地方都市の歩道がいかに自転車にとって快適であろうと、交差点や歩道がなくなる地点では歩道から降りなければならない)。
となれば、結局のところ必要なのは、自転車乗りの側の「軽車両としての通行者」たる自覚(自転車は歩行の代替策ではなく自動車の代替策である)、そして自動車乗りの側の「道路は軽車両と分かち合うもの(share the road)」という意識(これはセイさんご指摘のとおり)、であろうと思います。「車がびゅんびゅん走る車道を通るのが怖い」というのは、そもそも「車がびゅんびゅん走っているから」怖いのです。
速度抑制も含め、自動車の利便性を相対的に下げるというのは、「それなりに革命的な」変化です。脱原発と同様、時間がかかります。だから、早く始めるに越したことはない。しかし、これまた脱原発同様に、読売新聞などが考えているよりも楽に実現できる可能性は高いと思っています。
投稿: 山辺響 | 2011年12月 1日 10:07
地方の歩道は、歩道というよりも
『車道ではない平らな部分』と表現した方がしっくりくるような整備状態ですね。
国道でも路側帯だけの部分がありますし。
地方で自転車が歩道を通らないでほしい箇所は、都市の方のご想像よりもずっと少ないはず。
県庁所在地の駅前でさえ、大して歩行者はいませんからね。
それ自体はあまり喜ばしい事ではありませんが…
投稿: 抹茶 | 2011年12月 1日 19:35
山辺響 さん:
>なんでそんなに歩道が広いんだろう? 自転車乗りにとっても、最終的には自転車レーンが整備されることが理想なのだから、地方都市においては歩道の半分を潰して自転車レーンにしてしまえばいいような気がしますね。
私の言葉足らずからか、誤解を与えてしまったようですね。地方都市の田舎道では、歩道は全然広くありません。
むしろ、道幅 (全幅) そのものが狭いので、大型トラックは右側車輪でセンターラインを踏んで通行しなければならず、歩道はブロックで車道と区切られただけで、人が二人すれ違うのもやっとという狭さのところが多いです。
で、そんなだから、自転車は車道を走行するのがこわくてたまらないのです。
車がいかにも我が物顔に暴走しているわけではありません。車道を自転車が走っていると、まともな対面通行が阻害されるのです。
反対側から来る自動車と正面衝突しないためには、自転車をスレスレの感覚で追い越さなければなりません。
それを躊躇すれば、自転車の後ろには延々と時速10数キロの渋滞の列が続きます。
これはとてもじゃないが、現実的ではありません。
自動車が自転車の速度で延々と連なってしまうというのは、ある意味社会的損失です。
決して自動車運転者のエゴというわけではありません。
それで自転車も、自然な感覚として、歩道に逃げ込むわけです。
そして何度も繰り返すようですが、自転車が歩道を走行していても、車道を走る車からはとてもよく認識できるのです。
ですから、自転車が歩道を走行すると自動車からの認識が阻害されるというのは、まったく当てはまらない場合が多いのです。
それどころか、常に認識されます。
「こいつ、前から来る自転車とすれ違うために、いつ後ろも見ないで車道に飛び出してくるかわからんぞ」というように。
つまり、都会の道路とは様相がかなり違うのです。別次元の問題として考えなければならないと思うほどです。
そして、自然な実感として、自転車はガラ空きの歩道に逃げ込みたくなるのです。
>速度抑制も含め、自動車の利便性を相対的に下げるというのは、「それなりに革命的な」変化です。脱原発と同様、時間がかかります。だから、早く始めるに越したことはない。
地方都市における最も単純なソリューションは、自転車が歩道を走ることだと思います。
別の言い方をすれば、どうせ歩行者なんていないんだから、歩道を自転車専用道代わりにすればいいという発想です。
ただ、通学時間帯などは除かなければなりませんが。
投稿: tak | 2011年12月 1日 22:12
抹茶 さん:
>地方の歩道は、歩道というよりも
>『車道ではない平らな部分』と表現した方がしっくりくるような整備状態ですね。
>国道でも路側帯だけの部分がありますし。
まさにご指摘の通り。
路側帯を自転車専用道代わりに使おうにも、その路側帯が狭すぎて、命の危険を感じます。
>地方で自転車が歩道を通らないでほしい箇所は、都市の方のご想像よりもずっと少ないはず。
そうなんですよ。
「自転車は車道を」というのは、とても都会的発想だと思います。
投稿: tak | 2011年12月 1日 22:16
私も決して都会と言えるような処に住んでおりませんゆえに、ご指定の状況は理解出来ます。私自身近所の数kmにわたって歩行者を見たことがないくせに自動車の交通量は非常に多いところでは歩道を通行することがあります。
これだけ劣悪な環境では状況に応じて安全に配慮したうえで車道あるいは歩道を通行するのが最も現実的と思うのですが 、なんでもありに慣れてしまった自転車利用者にそれを求めるのは無理にも思えます。マスコミでも地域の事情に合わせて柔軟にという声がある事報道されています。しかし例えば"我が県は田舎なので状況に応じて歩道通行認める"と今の時点で認めてしまうと自転車乗りのルール遵守意識は全く改善されぬままになると思われます。
今でも"そんなん怖い危ない無理"という声ばかりが強調されています。そうではなくて、どこを通行するか以前に自転車はどのように乗るべきかの議論になることを期待しております。そのためにも"環境が整ってないからできない"という方向には持って行って欲しくないなと考えております。
投稿: ポタ | 2011年12月 2日 20:49
ポタ さん:
>しかし例えば"我が県は田舎なので状況に応じて歩道通行認める"と今の時点で認めてしまうと自転車乗りのルール遵守意識は全く改善されぬままになると思われます。
私自身も、自転車の歩道走行は「緊急避難」的ソリューションと思っていますが、「永遠の緊急避難」になるかもしれないなという気もしています。
自転車乗りのルール遵守意識の改善には、あまり期待できそうにないので。
投稿: tak | 2011年12月 3日 10:25