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2011年11月21日

食べ物の好き嫌いを巡る冒険

好き嫌いがなく、何でも食べるという人は、概して「早食い」である。一方、ゆっくりとよく味わって食べるという人は、案外好き嫌いを言う。好き嫌いをいう中でも、好きなものしか食べない(嫌いなものは食べない)というタイプを 「偏食」 という。

私の場合、食べ物に関しては「好き嫌い はない。「好き」と「普通」 しかなく、「嫌い」は存在しない。いちいち嫌っている暇があったら、さっさと食っちまった方が話が早いじゃないかと思っている。それだから、例に漏れず「早食い」である。

好き嫌いを言うのは、それによって何らかの心の安定を得るためである。これは無意識の働きだから、「とんでもない、私は好き嫌いがありすぎて困ってます」という人がいるかもしれないが、無意識的にはそれによって何らかの満足を確保している。医者好きで、いつも何か病気してないと気が済まない人みたいなものである。

意識的には「私って、どうしてこんなに好き嫌いが激しいのかしら」なんて言いながら困ったような素振りをしてみせても、無意識的にはその好き嫌いのおかげで、ちょっとした心の満足(「私って、こんなにも感覚が繊細」と思えるとか) を確保しているのである。

また、以前に食べ物の好き嫌いを論じたときには、次のような極端なこともあり得ると書いている。(参照

深層意識におけるなんらかのコンプレックスを静めるために、代償行為として、本当は大好きなある食べ物を食することを、無意識的に禁じているというケースもあるだろう。こんな場合は、その食べ物を我慢して食べたことによって、精神的バランスが崩壊することだってあり得なくもない。

一方、好き嫌いを言わない人というのは、そんなことで得られる心のバランスよりも、「食わないこと」による不満の方がずっと上回る。つまり、ずっと単純なのである。それで、何だかんだ言わずに食ってしまうのである。

前述の通り、私は原則的には早食いで何でも食べるが、それは好き嫌いを言ってもしょうがないフツーの食事の場合である。ちょっと豪華な「勝負食事」になると、急にやたらとゆっくり味わって食べるようになる。そして、うまいだの評判ほどじゃないだの言い出す。何しろ、食の王国、庄内育ちだから、元々は味覚には鈍感であるはずがないのだ。

ただ、よほどのできそこないでないと「不味い (まずい)」とは言わない。いや、よほどのできそこないなら、改めて言う必要もないから、多分、「不味い」という言葉は 1年に 1度も言っていないはずだ。これについては以前に庄内弁との関わりで書いたことがある (参照)。

というわけで私は、昔の写真フィルムの宣伝みたいだが、「おいしいものはおいしく、そうでないのはそれなりに」感謝して食べることを信条としているのである。

 

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