『BELIEVE (ビリーブ)』 という曲の歌詞に関するもやもや
『BELIEVE(ビリーブ)』という歌がある。作詞作曲は杉本竜一という人で、NHK の「生きもの地球紀行」の 3代目エンディングテーマとして、1998年に発表されたのだそうだ。学校の卒業式なんかではよく歌われているらしく、最近の若い子なら大抵歌えるというぐらい、かなり有名な歌である。
この歌はなかなかいい歌である。それは私も認める。ところが私のいつもの悪い癖というか、何というか、どうも細かいところにこだわってしまうと、どうにもグジグジしてしまうのだね。我ながら困ったものである。
一体何にこだわってしまっているのかというと、歌詞の最後 「I believe in future 信じてる」というところなのだ。意味としては「信じてる」と日本語で言っているほどなのだから、「将来的には信じよう」というのではなく、「未来を信じてる」ということだ。"I will believe" じゃなく、現在形なのだから、それは確実である。
で、単なる "believe" ではなく "believe in" ということなので、それは単に 「信じてる」 というだけでなく、「善きものとして、その価値に信頼を置く」というような、ちょっと強めのニュアンスを含むだろう。つまり、「未来、将来」というものを全面的に信頼するという、とても希望的な歌なのである。
ところが、そうであればこそ、私としては "future" という単語の頭には、どうしても "the" という定冠詞を付けなきゃいけないと思ってしまうのである。こういう場合の "future" は、定冠詞とワンセットであると、教えられているのだよ。これ、念のために辞書で調べたけど、間違いないようなのだ。
用法として "the" を付けない場合もないではないが、それは「誰それの将来」とか「○○プロジェクトの将来性」とか、あるいは「明るい未来」とか、そんなような 「要説明」 の限定的な "future" であると、まあ、私の経験ではそんな認識なんである。
合唱曲として「未来を信じてるぞ!」と高らかに歌い上げるなら、やっぱり "I believe in the future" なんじゃないかなあと、私は思ってしまうのだ。というか、私ならむしろ "I believe in our future" (俺たちの未来を信じるぞ!)ぐらいにしたいところだ。
これって間違いかなあ、やっぱり "I believe in future" でもおかしくはないということなのかなあ。米国在住の emi さんあたりに教えて頂きたいところである (と、おずおずと呼びかけておこう)。
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コメント
こんにちは。初めて投稿します。息子と「林と森はどう違うか」という議論を
していて、ここへ辿り着きました。
杉本龍一の『BELIEVE」の歌詞について。
『将君のホームページ』というウエブサイトがあって、そこの主が「阪神大震災
で天国へ旅立った息子と生き残ってくれた娘へ」捧げた『BELIEVE』の歌詞が載
せられています。
……………
悲しみや苦しみが
いつの日か喜びに変わるだろう
I believe in future 信じてる
……………
学校で普通に習う、未来(に)、将来(に)、は確かに
in the future
と定冠詞がつきますが、一方で
in future
という冠詞なしの表現もありますので、ご参考までに。
以下「future」の英和辞典の記述です。
(1)未来、将来
………(略)………
(4)………(略)………
将来は
in future
(今までと違って)今後は、これからは(失敗・過失に対し警告するときに用いる)
Don't be late for school in future.
今後は学校に遅刻しないように
in future
[1]未来に、将来に
⇒(1)
[2]これからは、今後は(in future)
………(略)………
東京書籍「アドバンスドフェイバリット英語('02/11)」
冠詞がつかない形は過去への反省、拒否などを踏まえ、未来を肯定的にとらえ
る意思や願いを含んでいるようです。少なくとも、これまでとは違うのだという
未来に向かって。
そういう意味で『BELIEVE』の歌詞は『将君のホームページ』の主の琴線に触
れたのだと思いますし、歌詞中の英語も間違った使い方ではないと思います。
なお、上記[1]からすると、単に「将来」という場合にも冠詞なしの形は使わ
れることがあるようです。
投稿: nick | 2011年12月 3日 11:17
すみません。コメント(1)を投稿した者です。
in future
[1]………
は
in the future
[1]………
の間違いでした。単に「将来は」と言うときはやはり「in the future」のようです。
くだんの歌詞がどれほど英語の感覚に沿ってつくられたものか分かりませんが、結局、望ま
しくない過去に対する責任の所在を自分その他に転嫁して「もう間
違いは起こさない(起きてほしくない)」という感覚での「in future」なのでしょうか。や
はりネイティブの人のコメントがほしいところですね。
「in」を「future」ではなく「believe」とセットだと考えると、未来に対して「信頼して
いる」ということになるような気もするのですが、その場合に定冠詞を省略してよいものか、
自信がありません。
なお新聞の見出しなどでは冠詞の省略は普通のことですが、歌詞の場合はどうなんでしょう
か。よくご存知の方のコメントにゆずりたいと思います。お騒がせしました。
投稿: nick | 2011年12月 3日 13:14
何度も申し訳ありません。(1)の書き込みをした者です。いい加減なコメントをした反省
に、少し詳しく調べてみました。
例えば「in bed(寝ている)」と「in the bed(ベッドで)」は微妙に意味が変わりますよ
ね。
in(the)future の場合、定冠詞ありは sometime in the future(将来のある時点)、冠
詞なしは from now on(これからは)のニュアンスが出ます。
in(the)future における「the」は通念の定冠詞と呼ばれていて、イギリス英語では落ち
やすく、アメリカ英語では落ちにくいのだそうです。ですからニュアンスの話は別にして、次
の2文はともに成り立つようです。
I'll be more careful in the future.(米)
I'll be more careful in future.(英)
ともに「これからはもっと気をつける」です。イギリス式のほうが「これからは」のニュア
ンスが強く、アメリカ式は単に未来のことを言っている雰囲気でしょうか。
詳しくは『アルクの英語通信講座』、冠詞に関する覚え書き、第18話、20話、35話をご参照
ください。
http://www.google.co.jp/gwt/x?output=xhtml1_0&wsc=tb&wsi=ccd1fbf3e6122e7b&source=m&u=http%3A%2F%2Fwww1.odn.ne.jp/xenom/kanshiindex.html&ei=odLZTsrhLtDhkAWMmYWXAg&ct=pg1&whp=30
投稿: nick | 2011年12月 3日 17:16
nick さん:
えぇと、私が問題にしているのは、本文でも触れているように、そもそも未来形ではないので、"in future" か "in the future" かということではないのです。
投稿: tak | 2011年12月 3日 19:05
the present はいつでも具体的に存在するわけですから、the past や the future は特定できる時間のことをいつでも必ず指すわけで、the をつけるのが自然なんでしょうね。
the をつけない場合は、具体的ではない抽象的な「未来」というもの、つまり、今現在から見た具体的な未来ではなくて過去でも未来でもどの時点でもよいからそこから見た未来(具体的には無限にある「未来」というものの総称)、という感じかなという気がします。
その歌は知らないので文脈はわかりませんけれど、おそらくいまの自分(たち?)の将来のことを言っているのでしょうから the future のほうがよいような気がしますね。
投稿: たんご屋 | 2011年12月 3日 20:09
たんご屋 さん:
>the present はいつでも具体的に存在するわけですから、the past や the future は特定できる時間のことをいつでも必ず指すわけで、the をつけるのが自然なんでしょうね。
ごめんなさい。
ちょっと意味がわかりません。
投稿: tak | 2011年12月 3日 23:18
詩歌を気持でとらえようとするのか、文法で考えようとするかの問題であるように思えます
ね。
「将来」というのはアメリカ英語では“in the future”イギリス英語では“in future”だ
と断言してしまう人もいます。これだとくだんの歌詞には全く問題がないということになりま
す(そもそも争点が出ない)。
時制の件については
You must be careful in future.
という文章は、これは現在形ですが、問題なく成立します。
結局は“the”に込められるニュアンスの問題なのでしょうか。「これからは信じられる世
であってほしい」なのか「いつか(その)信じられる世が来てほしい」なのか、という。前者
は“in future”であり後者は“in the future”です。
信じる者の立場からすれば、現在を含めて「これからは」と願いたいところですが、これは
その信じることが(いま)実現しているのかどうかにかかっています。
ただ、言語というのは生き物であり、時代とともに変化します。そして英語の冠詞は減少傾
向にあります。アメリカ英語はイギリス英語よりも古い形を保っているのかも知れません。
例えば“on(the)top of〜”という場合の“the”は省略される場合が多くなっていますし、
“instead of〜”も昔は“in the stead of〜”でした(in と stead はくっついてしまいま
した!)。
ちなみに“in front of〜”は“in the front of〜”だったらしいですが、その反意語句
は“at the rear of〜, in the rear of〜, at the back of〜”で、定冠詞はとれていません。
ただしアメリカ英語で“in front of〜”の反対は“in rear of〜”というらしいですから、
おもしろいですね。
“in”を“believe”とセットだと考えるなら、すなわち“believe in〜(〜を信頼する)”
ととるなら定冠詞がほしくなるような気はしますが、はたしてどんなものでしょうか。
信頼するというのは過去にも信頼できる条件が強くあったということで、この場合は少し違
うような気がします。「これからは」信じたい、そういう未来を信じる、と。
なお、英語ネイティブの人の手になるものではないと思うのでよく分かりませんが、華原朋
美に『BELIEVE IN FUTURE』、柏木広樹に『IN FUTURE』という曲があるようです。
投稿: nick | 2011年12月 3日 23:20
浅学ながら、英語版Googleではほとんど出てこないので、やっぱり自然な使い方ではないように思います。
ここは一つ、形容詞的に後に続く日本語の「信じてる」に係っていると考えてみるのはどうでしょう?
「将来の「信じてる」をbelieve inしてる」
みたいな。
かなり強引でしたね(*Λ*;A
投稿: clark | 2011年12月 4日 01:20
nick さん:
「将来」というのはアメリカ英語では“in the future”イギリス英語では“in future”だ
と断言してしまう人もいます。これだとくだんの歌詞には全く問題がないということになりま
す(そもそも争点が出ない)。
>「これからは」信じたい、そういう未来を信じる、と。
いえ、争点は出ます。
その1 「(未来において)信じたい」なのか 「信じてる」 なのか、矛盾する。
その2 "「これからは」信じたい、そういう未来を信じる" というのは、はっきり言ってナンセンスです。「(今は信じてないが)未来において信じるということを信じる」 というのは、もってまわりすぎの論外で、歌詞全体の意味合いからも外れます。
その3 「将来的に」 と解するのでは、一体何を信じるのか、目的語がない。
というわけで、これは 「自分たちの明るい将来というものを信頼している」と解するしかないわけです。
あるいは、この "I believe in future" という歌詞は、Tシャツの胸のプリントによくあるような、「一見もっともらしく見える飾り」 と取れば、何の問題もなくなります。
あれこれまともに考えるほどの意味はないと。
投稿: tak | 2011年12月 4日 07:37
clark さん:
>「将来の「信じてる」をbelieve inしてる」
>みたいな。
nick さんへのレスでも触れましたが、「将来の「信じてる」をbelieve inしてる」 では、現在においては信じていないということになり、歌詞全体の意味合いがぶちこわしです。
投稿: tak | 2011年12月 4日 07:40
おぉぉ、数日ご無沙汰していて出遅れました。
ご指名いただき光栄です。この歌を知らなかったので急いで探しちゃいました。
"I believe in future"、第一印象では私もTakさんと同じく違和感を覚えました。'believe in' の目的語として、定冠詞なり、形容詞なりをつけたいところです。歌の雰囲気からすると、たとえば 'a glorious future’ ぐらいのグイッと引き寄せる感じが必要かなと思います。
が、他の方のコメントを読んで、なるほど、'in future' という見方もアリかぁと思い直しました。
“I belive, in future, ” と言いかけて、何かいいことが起きる内容を続けようと思ったけどやめて、「…信じてる」で締めて後は目で訴える、という、なんとも日本的な余韻を残した歌詞という捉え方もできなくはないかな、と。
英語だと思うと「何をやねん!」「言わへんのかい」とツッコミたくなりますけどね(笑)。
ところで私はそもそも「信じる」を 'believe’ と訳すことに違和感があります。日本の作詞家の中に 'believe’ がお好きな方が多いのか、よく見かけるのですが、'believe’ には「信じる」ほどのインパクトというか、思い入れの強さがないと思います。(それで目的語に大げさな形容詞でも持ってこないとバランスがとれない気がするのです。) 2年ほど前に当時流行っていた曲をきっかけに書いたものがありますので、よろしければどうぞ。http://emisblog.exblog.jp/9178347/
それにしてもTakさんと私はよく似たところでひっかかりますね。
emi
投稿: emi | 2011年12月 4日 08:38
takさん:
丁寧なレスありがとうございます。携帯からなのでコピペができません。不親切になります
がお許しください。
その1について
私は表現の一種として書きました。イギリス語“in future”という表現はアメリカ語には
なく、これに相当する表現は“from now on”です。今回の調べ物を通じて、そう「訳すべき
だ」という確信に至りました。これは現在を含んだ未来であり、だから「これからは」なので
す。
むしろ“in the future”と未来の時点を規定してしまうと、現在の思いと齟齬をきたしま
せんか。冠詞つきの場合は現在が含まれることはありません。
その2について
上で説明済みです。
その3について
“future”をあくまで名詞だとお考えのようですね。前置詞プラス慣用的に冠詞の落ちた名
詞は副詞句と考えるべきです。良い表現を思いつきませんが、意味として「(以前は良くなか
ったが)これからは信じてる」では駄目でしょうか。
さて“in the future”と“in future”の違いについてはいろんな人が書いているようで
すね。「Yahoo知恵袋」や同類の質問・回答サイトでも結構取り上げられています。
海外にも同様の質問・回答サイトがある(というよりは、知恵袋のほうがその日本版みたい
なもの?)ようで、英語話者が同じ話題を取り上げ、冠詞なしは文法的におかしいのではない
かとか、ネイティブスピーカーの英語ではない、いや、Googleで検索すればいくらでも出てく
る、あるいは“future”を名詞として使うか副詞句として使うかの問題だろう、また、イギリ
スやアイルランドでは普通だ、とかのやり取りをしているのを見て笑ってしまいました。
次はその一例です。
http://www.google.co.jp/gwt/x?output=xhtml1_0&source=m&u=http%3A%2F%2Fenglish.stackexchange.com/questions/2005/do-in-future-and-in-the-future-imply-different-meanings&wsi=ccd1fbf3e6122e7b&ei=eI_aTqTPB4jBkAXxqIWpAg&wsc=tb&ct=pg1&whp=30
いずれにせよ、冠詞なしの形はほぼイギリスやアイルランドに限られる(英米の違いに限っ
た話です)ようで、冠詞なしの用例が冠詞ありの用例の半分ぐらいは見られるらしいです。
これに対し、アメリカではある時期のウオールストリートジャーナルの記事4千4百万語の
中で、冠詞ありの用例が1100を越えたのに、冠詞なしはわずか3例に留まったとか。だからア
メリカ人が聞くと違和感があると思います。
このことを含め、以下、もう少ししっかりした記事がありましたので、ご興味がおありなら
どうぞ。
http://www.google.co.jp/gwt/x?output=xhtml1_0&source=m&u=http%3A%2F%2Fitre.cis.upenn.edu/~myl/languagelog/archives/004201.html&wsi=ccd1fbf3e6122e7b&ei=86PaTteDF8bxmAWEw4mOAQ&wsc=tf&ct=pg1&whp=30
「あれこれまともに考えるほどの意味はない」というお考えにはひとまず賛意を表したいと
思います。歌詞なんですからね。
ただし、この歌詞をプリントしたTシャツを着ていても、イギリス人は何の不思議も感じな
いと思います。
いずれにせよ、久しぶりに知的好奇心を呼び覚ましてくださった takさんに感謝します。こ
れからもよろしくお願いします。
投稿: nick | 2011年12月 4日 09:09
連投すみません。文字数をオーバーしてしまったみたいで、2件目のURLの途中以下が切れ
てしまいました。
次の通りです。
http://www.google.co.jp/gwt/x?output=xhtml1_0&source=m&u=http%3A%2F%2Fitre.cis.upenn.edu/~myl/languagelog/archives/004201.html&wsi=ccd1fbf3e6122e7b&ei=86PaTteDF8bxmAWEw4mOAQ&wsc=tf&ct=pg1&whp=30
投稿: nick | 2011年12月 4日 09:20
すごい賑わいになっていますね。わたしのコメントはわかりにくかったですか。
本に例えば、現在のページ(the current page)があればそれまでのページ(the preceding pages)もそれ以降のページ(the following pages)も必ず具体的存在するのでいずれにも the をつけるのだとわたしは理解しているんです。
同様に、現在過去未来についても、現在(the present)はいつでも必ず存在していて、それに対応する過去(the past)も将来(the future)もある特定できる期間として必ず具体的に存在するので the がつくのだろうということです。
in future、in the future という句としてとらえればまた別の話になりますが、その歌詞の場合は believe in + future だろうとわたしも思います。
投稿: たんご屋 | 2011年12月 4日 10:21
emi さん:
待ってました。
>歌の雰囲気からすると、たとえば 'a glorious future’ ぐらいのグイッと引き寄せる感じが必要かなと思います。
なるほど。全く同感です。
>“I belive, in future, ” と言いかけて、何かいいことが起きる内容を続けようと思ったけどやめて、「…信じてる」で締めて後は目で訴える、という、なんとも日本的な余韻を残した歌詞という捉え方もできなくはないかな、と。
うぅむ、かなり親切な読み取り方ですね。
>英語だと思うと「何をやねん!」「言わへんのかい」とツッコミたくなりますけどね(笑)。
そうなんですよ (^o^)
>'believe’ には「信じる」ほどのインパクトというか、思い入れの強さがないと思います。(それで目的語に大げさな形容詞でも持ってこないとバランスがとれない気がするのです。)
確かにそうですね。
英語を訳していて、単なる "believe" を 「信じる」 と言い換えてしっくりくることというのは、あまりないですね。
ありがとうございました。
投稿: tak | 2011年12月 4日 10:38
nick さん:
>イギリス語“in future”という表現はアメリカ語にはなく、これに相当する表現は“from now on”です。今回の調べ物を通じて、そう「訳すべき
だ」という確信に至りました。これは現在を含んだ未来であり、だから「これからは」なのです。
なるほど、わかりました。
ありがとうございます。
ただ 「これからは」 だとすると、「今より前の時点では信じていなかった」 ということになり、やはり歌の意味合いがぶちこわしだという気がします。
いや、そうではない、「ずっと信じてきたし、これからも信じていく」 というなら、"in future" という意味がなくなります。
>“future”をあくまで名詞だとお考えのようですね。前置詞プラス慣用的に冠詞の落ちた名詞は副詞句と考えるべきです。良い表現を思いつきませんが、意味として「(以前は良くなかったが)これからは信じてる」では駄目でしょうか。
「(以前は良くなかったが)これからは信じてる」 というのは、"Amazing Grace" の歌詞内容ですね。
上記で書いたとおり、やはり駄目だと思いますよ。
これは 「悔い改め」 の歌じゃないですから。
投稿: tak | 2011年12月 4日 10:46
たんご屋 さん:
>現在過去未来についても、現在(the present)はいつでも必ず存在していて、それに対応する過去(the past)も将来(the future)もある特定できる期間として必ず具体的に存在するので the がつくのだろうということです。
本題から離れてしまいますが、私は宿命論者ではないので、「将来(the future)」 が 「具体的に」 存在するとは、考えません。
本にまとまってしまえば、今読んでいるページより先のページも 「確定」 してしまっています (つまり、それも 「現在」 なのです) が、「将来」 というのは常に 「不確定」 なのではありませんか?
>in future、in the future という句としてとらえればまた別の話になりますが、その歌詞の場合は believe in + future だろうとわたしも思います。
そう取るのが自然ですよね。
" believe + in future" と受け取るには、ものすごく親切すぎる深読みが必要になりますし、歌詞全体との整合性もおかしくなります。
投稿: tak | 2011年12月 4日 11:00
takさん:
たしかに歌詞の流れからすると“believe in〜”と考えたいところですね。するとやはり定
冠詞が欲しくなります。ところが冠詞を置いたとたんに定型の言い回し“in the future”が
できてしまって、伝わるかどうか心もとなくなる(定型句ととられてしまっては、むしろ表現
としては弱くなります)。おまけに現在形との整合性が破綻してしまう。うーん、難しいとこ
ろですね。
まだしも“future”を無冠詞の目的語として置いておきたい(許されるのかも知れません)
気分です。
まあ、作詩者が「英にせよ米にせよ」ネイティブならば、こんなに悩まなくてよいような気
はします。もっとも“future”云々に関してはネイティブにも少し怪しい部分がありそうです
が。
そういう意味では、おっしゃるようにTシャツのロゴぐらいに考えるのが適当かも知れませ
んね。
これまでは良くなかったが、というのはあくまで比較の問題です。“in future”がそのよう
にとらえるのに向いた局面で使われる成句だから書いたまでです。
歌詞には博愛やキリスト教的な愛がかぶさっているように見えるのですが、基本、これは男
が女を恋うる歌ですよね。それもたぶん、恋に落ちたことを自覚し始めて歌っているのでしょ
う。
すると「信じる」時制の範囲に「これまでも」を含める必要はないような気がします。愛す
る人ができた。だから(今を含め)これからは未来を信じられる、と。
私の言いたかったのはそういうことです。原詩の英語が正しいと仮定すればという条件つき
で、最も適した解釈を試みました。Tシャツかも知れませんけどね!
たまたま辿り着いたこのブログ、読みやすい文章を書くお方だなと思い、いくつか過去ログ
を拾い読みしてから、とりあえずその時点で最新のものにコメントした次第です。
久しぶりに知的好奇心を刺激するキッカケになり、感謝しています。以後また寄せていただ
くと思います。よろしくお願いいたします。
投稿: nick | 2011年12月 4日 14:16
蛇足ながら、冠詞については皆様の知見がそれぞれもっともだと思いますが、「現在においては信じていないということ」について「歌詞全体の意味合いがぶちこわし」になるとは思いませんでした。
自分としては、日本語詞に問いかけや仮定表現になっていることから、"Amazing Grace"ほどの強い「悔い改め」ではないものの、これまではそれほど断定的に思っていなかった事に対して歌っている瞬間に確信を強めているような印象を持ちました。
「未来のとびら」も開いた瞬間に今になってしまうわけで、ナンセンスというよりは詩的表現なのだと思いますが。
投稿: clark | 2011年12月 4日 17:49
nick さん:
>たしかに歌詞の流れからすると“believe in〜”と考えたいところですね。するとやはり定冠詞が欲しくなります。ところが冠詞を置いたとたんに定型の言い回し“in the future”ができてしまって、伝わるかどうか心もとなくなる(定型句ととられてしまっては、むしろ表現としては弱くなります)。おまけに現在形との整合性が破綻してしまう。うーん、難しいところですね。
本文で私は "I believe in our future" にしたいところだと書きましたが、emi さんがコメントに書いてくれた "I believe in a glorious future" に座布団 3枚あげたい気分です。
>歌詞には博愛やキリスト教的な愛がかぶさっているように見えるのですが、基本、これは男が女を恋うる歌ですよね。
私はこの歌が卒業式でよく歌われるということもあって、ラブソングとは思ってもみませんでした。友情の歌だと思っています。
>すると「信じる」時制の範囲に「これまでも」を含める必要はないような気がします。愛する人ができた。だから(今を含め)これからは未来を信じられる、と。
うぅん、ちょっと親切すぎる気がします ^^;)
投稿: tak | 2011年12月 4日 18:21
clerk さん:
>自分としては、日本語詞に問いかけや仮定表現になっていることから、"Amazing Grace"ほどの強い「悔い改め」ではないものの、これまではそれほど断定的に思っていなかった事に対して歌っている瞬間に確信を強めているような印象を持ちました。
「未来のとびら」も開いた瞬間に今になってしまうわけで、ナンセンスというよりは詩的表現なのだと思いますが。
だとすると、やっぱり、今から先は信じるということの目的語が 「信じてる」 (という未来) と解するほかなくなるわけで、この歌の真意がそんなまどろっこしい (そして結局意味不明な) ところにあるとは、思われません。
投稿: tak | 2011年12月 4日 19:27
最初は、この歌手がカッコつけて英語を使ってみたところ、単に冠詞の使い方の苦手な典型的な日本人であることが露呈しただけという理解でいました。
が、このセンテンス、倒置してみると意外となんとかなります。
In future we believe (アメリカのコインに印字されている In God We Trust と同じ構文)。
脚韻を踏むためとかなんらかの必然性があればよくありそうな文です。この場合、むしろtheがあると違和感があります。
不思議なもんです。
投稿: きっしー | 2011年12月 5日 09:24
きっしー さん:
>In future we believe (アメリカのコインに印字されている In God We Trust と同じ構文)。
なるほど。
うまい具合に煙にまかれそうですね (^o^)
投稿: tak | 2011年12月 5日 19:53
あの~
せっかくのいい曲なんですから、歌詞のことでごちゃごちゃやめません?
投稿: koshi | 2014年3月30日 21:38
koshi さん:
もう止めて 2年半以上になるんですから、寝た子を起こさないように ^^;)
投稿: tak | 2014年3月30日 22:19
初めまして。
姪の卒園式でこの曲を知り、深い感動を得たとともに、検索を掛けるとこのサイトが未だに高い位置でヒットされるため、「寝た子を~」との書き込みがありますがあまりにこの議論の投げ出し方に不快感を感じてしまったため、ご迷惑と思いつつも書き込みを致しました。
私自身が、大学で児童文学で童謡を卒業論文に選んだこともあり、甚だ僭越ながら、私の想いを書かせて頂きたいと思います。
まず、こちらを見ての初めて抱いた感想は、歌詞に文法を当てはめるナンセンスさです。
しかしこれは、ご本人も自覚されていらっしゃるように、そこに拘りを持つというのも学問としては正しい一つの方向性ですので、tak様の譲れない大切なものがそこにあるということで、それについてはあえて触れません。
しかし、文法ということを気にされるのでしたら、そもそもこの歌詞は英語なのでしょうか?
もっと言うと、どこの英語なのでしょうか?
残念ながら私の限られたリソースでは、作者様の原詩まで確認出来ませんでしたが、ネット上では"I believe in future "とう記載と「アイ ビリーブ イン フューチャー」とカタカナ表記のものが混在していました。
私が文法という意味で疑問を抱いたのは、もし原詩がカタカナ表記の「アイ ビリーブ イン フューチャー」であった場合、それはイコール"I believe in future "ではないということです。
では英訳だとなんなのか? という意味ではなく、作者様はあくまでカタカナ表記の英語(つまり、日本語のカタカナ英語ですね)を望んでいるということであり、そもそもこの議論自体が間違っていることになります。
さて、原詩が確認出来ましたら、上記仮定を進めようかと思ったのですが、それ以前の問題として、私はこの歌詞の解釈が、tak様はじめ、ここに書き込みされている皆様とは異なっております。
私はこの歌は、人類の普遍な愛の賛歌だと感じました。
なぜそう感じたかというと、一つは、一番が「ぼくからきみ」に対しての宣言なのに対し、二番が「きみからだれか」への信頼(belive)になっていること。
もうひとつは、サビの部分が「世界中の」と、一気に世界が飛躍しているということ。
これは、決して個人の恋愛とか、友情とかに限った話を取り扱っていません。
さらには、この歌はそもそもがNHK番組「生きもの地球紀行」のエンディングテーマとして作られたという経緯もあります。
私にはこの曲は、
「今、世界では民族紛争や、国と国との戦争や、人種差別、もっといえば、人間と動物、植物、それらが色々な問題を抱えて、喧嘩し、対立しあっている。でも、ひとりひとりが隣にいる人を想い、支えあっていけば、きっと世界はひとつの大きな輪で囲まれるはず」
そんな人間賛歌(生き物賛歌)の歌に聞こえてなりません。
その観点でいうと、私はこの原詩が"I believe in future" だとしても"I believe" + "in future"の考え方が正しいのではないかと感じています。
最後に、最初に述べましたように、私は大学で童謡を学んだ身としまして、詩人の言葉は魂を削って造られたものであると信じています。
まど・みちお氏の有名な言葉に「童謡はどんな受け取り方をされてもいいのだが、その歌が受け取ってもらいたがっているように受け取ってほしい。」という言葉があります。
文法に固執するのは、研究者としては正しいスタンスの一つではありますが、それ以前として、歌詞を深くご理解しようというアプローチが少なすぎるように感じます。
以上、若輩者ゆえご無礼な点もあったかとは思いますが、ご容赦頂き、ご再考のネタの一つとして受け止めて頂けたらと存じます。
投稿: はる | 2014年6月 7日 22:15
はる さん:
>まず、こちらを見ての初めて抱いた感想は、歌詞に文法を当てはめるナンセンスさです。
のっけから、これには驚きました。
歌詞に文法を当てはめなかったら。ますますナンセンスになってしまいます。
例えば、どこかの歌壇に短歌を応募してごらんなさい。もし文法的な誤りがあったら、選者は字余りにしてでも添削しますよ。
あの短い詩形の短歌でさえ、よほどの破格の美学 (わかっていて、敢えて壊す美学)でもなければ、文法の規則に従わないわけにはいかないのです。
>しかし、文法ということを気にされるのでしたら、そもそもこの歌詞は英語なのでしょうか?
”I believe in future” という部分に関しては、「一見英語に見えてしまうが、少なくとも、すっきり気持ちのいい英語ではない」とだけ指摘しておきます。
>ネット上では"I believe in future "とう記載と「アイ ビリーブ イン フューチャー」とカタカナ表記のものが混在していました。
残念な現象ですね。私が作者だったら、自分の原詩と違った表記があったら、放ってはおきません。
>もし原詩がカタカナ表記の「アイ ビリーブ イン フューチャー」であった場合、それはイコール"I believe in future "ではないということです。(中略)作者様はあくまでカタカナ表記の英語(つまり、日本語のカタカナ英語ですね)を望んでいるということであり、そもそもこの議論自体が間違っていることになります。
仮定の議論として、「原詩がカタカナであったなら」ということですので、私も仮定の議論として応えます。
もし作者の意図がカタカナであるというなら、タイトルも ”Believe” ではなく、潔く 「ビリーブ」 としてほしいところです。しかしタイトルが “Believe” (「Believe (ビリーブ)」 という表記も散見しますが) である以上、原詩も "I believe in future” なのではないかと見るのが自然な気がします。断言はしませんが。
あくまでカタカナであり、それは 「パソコン」 とか 「ガソリンスタンド」 とか 「シャープペンシル」 とかと同類だというのなら、それでいいです。
でも、そうだとしたら、ちょっと悲しすぎますし、あなたの意図もそこにあるのではないと信じます。
>私はこの歌は、人類の普遍な愛の賛歌だと感じました。
それについては、誰に聞いてもあまり異論はないかと思いますよ。
>その観点でいうと、私はこの原詩が"I believe in future" だとしても"I believe" + "in future"の考え方が正しいのではないかと感じています。
文法とは 「思い入れ的観点」で語るものではないとだけ、指摘しておきます。
>私は大学で童謡を学んだ身としまして、詩人の言葉は魂を削って造られたものであると信じています。
別に大学で童謡を学ばれなくても、これについても、あまり異論はないと思いますよ。ただ、魂を削って作り (ここではあえて 「作り」 と表記しました) さえすればいいというものでもありません。
>まど・みちお氏の有名な言葉に「童謡はどんな受け取り方をされてもいいのだが、その歌が受け取ってもらいたがっているように受け取ってほしい。」という言葉があります。
「その歌が受け取ってもらいたがっているように受け取ってほしい」というところが、非情に含蓄深いですね。
私が含蓄深いというのは、「『作者が』受け取ってもらいたがっているように受け取ってほしい」と言っているのではないところに注目すればこそです。
>文法に固執するのは、研究者としては正しいスタンスの一つではありますが、それ以前として、歌詞を深くご理解しようというアプローチが少なすぎるように感じます。
この文脈で「歌詞を深くご理解しようというアプローチが少なすぎるように感じます」 とおっしゃられると、「作者の意図の素晴らしさ」がエクスキューズになりかねません。それは鑑賞者としていかがなものかと思います。
そしてそれは、作者の望むことですらないでしょう。それを許すようでは、歌が自立しきっていない。つまり、まだ魂を削り足りていないのです。
魂を削るというのは、美しいと同時に恐ろしいことでもあります。魂というのは、どこまで行っても削り足りないように感じてしまいがちなのです。
そして、削りすぎると人は死ぬし、作品は壊れます。魂を削りすぎて壊れた作品のものすごさというのも、確かにありますが、それを鑑賞するには覚悟がいります。
>ご再考のネタの一つとして受け止めて頂けたらと存じます。
恐縮ですが、私はこの歌の歌詞の気にかかる点を指摘しただけで、それ以上は、はっきり言ってどうでもいいことです。この歌が「いい歌」であるとは認めますが、あなたほど感動してしまったというわけでもありませんので。
最後に付け加えておきます。
私が細かいところにこだわってしまうのは、自分でも困った性分だと思うこともありますが、ただ、芸術という視点からすると、「神は細部に宿る」 というテーゼもあり、また 「画竜点睛を欠く」 という故事もあることから、間違ったアプローチのように言われてしまうと、やや遺憾に思うところがあります。
投稿: tak | 2014年6月 8日 00:17
takさん
長文のご返答、ありがとうございます。
多少誤解があるようですので最初にお詫び致しますと、決して私はtakさんのことを非難するつもりはございません。
むしろ、自分には無い思考方法をお持ちになっていらっしゃるということで、新鮮な興味深さを感じます。
もし非難めいて感じられてしまったのでしたら、おそらくは、私がこのtakさんのコメント(文法の誤りですね)に、この歌そのものに対しての上から目線的な見下しを私が感じてしまったためかもしれません。
人間だれでも、好きなものは大切にしたいし、けなされていると感じると悲しくなるものです。
そしてそれに対しての思い入れは、はからずともtakさんがおっしゃっているように、この歌に対しての思い入れの差がそのまま出ているのだと思います。
お互いの論点がずれてしまっているため、お互いが納得するゴールになかなかたどり着かないと思いますが、そもそもお互いが納得する必要があるのかというのもございます。
ただ、面白い(興味深い)と感じたのは、やはり私も同じ個所で
>のっけから、これには驚きました。
>歌詞に文法を当てはめなかったら。ますますナンセンスになってしまいます。
まず、例えに短歌を出しているのが不適切です。
なぜなら短歌はガチガチにルールで決めつけられた中での美しさを表現するものであり、その様式美こそが短歌のアイデンティティでもあります(またこのルールも短歌の中でのルールであり、本来の日本語という観点の文法からは決して文法を守っているとは言えないと思いますが、どうでしょうか?)。
さて、私がなぜ面白いといったのかと言いますと、これだけ文法を強くおっしゃっているのに"the"の有無にしか言及していらっしゃらないのが、とても不思議でした。
端的に言えば、この歌は、日本語として正しい文法で作られているのでしょうか?
細かい部分を抜きにしても、最後の
「I believe in future 信じてる」
これって、どうみても日本語としておかしい(頭が頭痛と一緒ですね)と思うのですが、なぜそこは気にならないのでしょうか?
また私が歌詞に文法を当てはめることをナンセンスといったのは、詩(し)が詩(うた)になった時、そこにはリズムが発生し、抑揚が発生し、往往にしてリズムが優先され、意図的に文法が崩されるからです。
逆に、takさんがそこに驚かれているということは、日本の歌は、すべて文法に忠実に作られていると考えていらっしゃるのでしょうか?
さて、問題の箇所が英語か日本語かについて、私の意図がうまく伝わらなかったようですので、補足いたします。
>しかしタイトルが “Believe” (「Believe (ビリーブ)」 という表記も散見しますが) である以上、原詩も "I believe in future” なのではないかと見るのが自然な気がします。断言はしませんが。
少なくとも、オリジナルCDである「NHK 生きもの地球紀行」のサウンドトラック内では「ビリーヴ believe」とあります。
※ちなみにこのサントラでは、全曲が日本語名の後に英語名でも表記されています
私は、英語のみになっているのは、耳コピなどによって広まったものと考えており、寧ろ作者は「ビリーヴ」が正なのであって「believe」が付いているのは、カタカナ英語だと分かりにくいための補足だと感じました。
童謡では当然対象年齢もありますので、寧ろ英語表記は稀であり、ほとんどがカタカナ英語です。
さて、私が言いたかったことですが、
"I believe in the future"
は、カタカナにすると
"アイ ビリーブ イン ザ フューチャー"
でしょうか?
当然ながら、答えはNoです。それは、ネイティブに発音してもらえば、一目瞭然です。
(私はそれほど発音は良くないですが、マイケルジャクソンなど、ネイティブが聞いても歌詞カードの英文に聞こえない箇所が多々あるというのは有名な話です。)
私はこのメロディに、「ザ」は邪魔に感じました。
英語のtheならばいくらでも軽く発することは可能ですが、日本語の「ザ」として発するならば、明らかにメロディが変わります。
先にも述べた詩(し)よりもメロディを優先させたという可能性もあるのかなと、私は感じたまでです。
また、「魂を削る」のくだりですが、私はどれほど削ったかを言いたいのではありません。
程度の差はあれ、詩は作者の魂を削って造られた産物であり、そこの一言一句、空白、改行、漢字かひらがなか、句読点に至るまで、決して適当に作られたものではないと、私は思っています。
つまり、私はこの詩を一つの作品という観点から、作者がなぜ、この言葉の配置をしたのかというその意図を汲み取ろうとしておりますので、おのずとtakさんの論点からはかみ合わないと感じております。
最後にそもそものこの議題に対してのtak様の答えを教えて頂きたいのですが、tak様の結論としては、
この詩は
"I believe in the future"が表記的に正しく、作者は英語に対しての知識が乏しかったため、間違って表記している
ということで宜しいでしょうか?
他の方との押し問答などで、そもそもの結論が出ておりませんようですので、その点だけ教えて頂けますでしょうか?
投稿: はる | 2014年6月19日 20:55
はる さん:
まず、カタカナで表記され、一見英語みたいに見えてもそれは日本語なのであって、英語の文法なんてどうでもいいというように聞こえる主張が、私には驚きです。
これを前提に論を進めます。
>まず、例えに短歌を出しているのが不適切です。
>なぜなら短歌はガチガチにルールで決めつけられた中での美しさを表現するものであり、その様式美こそが短歌のアイデンティティでもあります(またこのルールも短歌の中でのルールであり、本来の日本語という観点の文法からは決して文法を守っているとは言えないと思いますが、どうでしょうか?)。
この主張もまた、驚きです。
短歌はガチガチにルールで決めつけられているわけではありません。ごく普通に、文法は守るのが望ましいという常識があるだけです。
さらに、短歌の中だけでしか通用しない文法なんてありません。そんなように思われているのだとしたら、本当に本当に驚きです。
>さて、私がなぜ面白いといったのかと言いますと、これだけ文法を強くおっしゃっているのに"the"の有無にしか言及していらっしゃらないのが、とても不思議でした。
これもまた、大変な驚きです。
不思議でもなんでもありません。その部分が目に付いたので、集中して論じただけです。歌詞を全編にわたって添削しようなんていう意図は、私にはもとよりありません。そうしてくれと言われても、私はそれほど暇ではありません。
>少なくとも、オリジナルCDである「NHK 生きもの地球紀行」のサウンドトラック内では「ビリーヴ believe」とあります。
そうでしたか。それは知りませんでした。
不明をお詫びします。
しかし、それならば、それで通してもらいたいところで、いろいろな表記になってしまっているのは、私が作者だったとしたら、我慢できないところです。
>私は、英語のみになっているのは、耳コピなどによって広まったものと考えており、寧ろ作者は「ビリーヴ」が正なのであって「believe」が付いているのは、カタカナ英語だと分かりにくいための補足だと感じました。
れっきとした歌のタイトルを、耳コピで流通されたのでは、かないませんね。
魂を削ったのであれば、なおさらです。
>童謡では当然対象年齢もありますので、寧ろ英語表記は稀であり、ほとんどがカタカナ英語です。
というより、童謡で出てくるのは、「カタカナ英語」というより、「外来語」が多いのではありませんか?
「コップ」とか 「テーブル」とか「ポスト」とか。あるいは、せいぜい 「グッドバイ」とか。
>さて、私が言いたかったことですが、
>"I believe in the future"
>は、カタカナにすると
>"アイ ビリーブ イン ザ フューチャー"
>でしょうか?
>当然ながら、答えはNoです。それは、ネイティブに発音してもらえば、一目瞭然です。
ネイティブでない日本人が発音すると、まさに "アイ ビリーブ イン ザ フューチャー" になります。
ネイティブ以外の人が発音したら、それは英語じゃないというのは、乱暴すぎる主張ではありませんか?
ですから、この議論はナンセンスで、付き合う気になれません。
>(私はそれほど発音は良くないですが、マイケルジャクソンなど、ネイティブが聞いても歌詞カードの英文に聞こえない箇所が多々あるというのは有名な話です。)
マイケル・ジャクソンの発音は、かなり行儀がいいですよ。
"Beat It” が 「ビリー」に聞こえるようなのはダメというような、英国貴族みたいなことを言い出せば、話は別ですが。
そして、歌詞カードにある英文に聞こえないというなら、それは歌詞カードを作った人が、聞き間違えているのです。
歌詞カードは、昔からかなりテキトーに作られている場合が多いです。
>私はこのメロディに、「ザ」は邪魔に感じました。
>英語のtheならばいくらでも軽く発することは可能ですが、日本語の「ザ」として発するならば、明らかにメロディが変わります。
だったら、英語の発音で歌えばいいのです。元々英語由来なのですから。
(日本語だとは言わせませんよ)
ただ、あなたがどうしても邪魔と感じるなら、the を入れろと強硬に主張するつもりもありません。どうぞお好きなように。
>また、「魂を削る」のくだりですが、私はどれほど削ったかを言いたいのではありません。
>程度の差はあれ、詩は作者の魂を削って造られた産物であり、そこの一言一句、空白、改行、漢字かひらがなか、句読点に至るまで、決して適当に作られたものではないと、私は思っています。
程度の差はあっても、決して適当じゃないとおっしゃるなら、「ああ、そうですか、それならそれで結構です」と、ちょっと呆れながら応えておきます。
この問題にこれ以上付き合っても、不毛であると感じています。
>最後にそもそものこの議題に対してのtak様の答えを教えて頂きたいのですが、tak様の結論としては、
>この詩は
>"I believe in the future"が表記的に正しく、作者は英語に対しての知識が乏しかったため、間違って表記している
>ということで宜しいでしょうか?
端的に言えばそういうことです。
ただ、そのことで鬼の首でも取ったように責めようというわけではなく、ただ「残念だ」 と思うのです。
それで何か不服ですか?
恐縮ながら、あなたの主張にこれ以上付き合うのは不毛だと感じています。従って、この記事のコメント欄は、これにて打ち切りとさせていただきます。
投稿: tak | 2014年6月19日 22:52