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2011年12月に作成された投稿

2011年12月31日

格闘技と大晦日風景

今年もあと 5時間足らずで終わろうとしている。本当にもう、いろいろあった年だよ、まったく。

3月の震災だけでも、何年分かを合わせたぐらいのビッグニュースだったというのに、その夏には、あれだけ達者だった父が入院して、あれあれと思う間もなく 10月に死んでしまった。これでもう、10年以上合わせたぐらいの重みのある年になってしまった。

震災のあとのほぼ 2ヶ月近くはまともな動きが取れなくて、プチ失業状態になってしまい、収入ががっくりと減って、かなりあせった。その後は多少もちなおしたが、今年の年収はここ 20年以上をとってみても最低水準である。何かあっても月給のもらえるサラリーマンがうらやましかった。

ところで、今年の大晦日の夜は格闘技中継がない。ここ数年はテレビで格闘技を観ながら大晦日を過ごすのが習慣になっていたから、格闘技フリークの私としてはかなり寂しい。その代わり、お昼に WOWWOW で UFC をたっぷり観た。近頃は、格闘技といえばもう UFC である。

何といっても、UFC はマネジメントの能力が違う。日本の格闘技を運営してきたのは、マネジメントに関しては素人ばかりだった。それで、エゴや嫉妬や裏社会との関連やテレビ局の口出しやらで、まともな運営ができなかった。今年は猪木の IGF が興業をしたらしいが、地上波も BS も付かず、寂しい限りである。今現在、何の情報も入ってきていない。

今回の UFC では、ブロック・レスナーとアリスター・オーフレイムの試合が大きな話題となった。K-1 と Dream でチャンピオンになったアリスターなので、日本の格闘技ファンにはおなじみである。彼が格闘技のメイジャー団体である UFC にしっかりと通用するかどうか、私としても興味津々だった。

ところが、リングに上がった二人の姿をみて、私は「これはアリスターの勝ちだな」と直観した。ブロック・レスナーは病み上がりそのもので、さすがに見かけ上のシェイプは維持しているが、ちょっと動くと体がユルユルなのが見て取れる。これではアリスターの打撃の圧力に耐えられない。

最近の格闘技はかなり高度化していて、ファイトを見る目に関してはかなり自信をもっている私でさえ、「あれ、今の一体どうなったんだ?」と思う間に勝負が付いてしまうことがあり、角度を変えた再現ビデオでやっと納得する。しかし、アリスター対ブロックは、わかりやすい試合だった。私の直観通り、試合は 1ラウンド TKO であっさりとけりがついた。

試合後にブロックは現役引退を表明したが、それも仕方ないという気がした。一方、アリスターは、ジュニア・ドス・サントスとのタイトル・マッチをすることになるだろうが、その試合で高度な応酬ができれば、とてもおもしろいことになる。

というわけで残念ながら、日本の総合格闘技はレベル的に、UFC にかなりの差を付けられた。やはりきちんとしたマネジメントをして、裾野を広げなければならない。テレビ局の意向で客寄せパンダとオールド・ネームの試合ばかり組んでいるようでは、本当に強い選手は育たない。

それにしても、今さら紅白を見ようという気にもならないから、我が家のテレビはスイッチが入っていない。娘たちはそれぞれ、友達と大晦日の夜をすごしているようで、夫婦静かに年越しそばを食べた。

それでは今年 1年ありがとうございました。よい新年をお迎えください。

 

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2011年12月30日

北朝鮮の葬列写真偽造で思うことなど

キム・ジョンイルの葬儀関連で、朝鮮中央通信が配信した写真が修正されているというのが、話題になっている。ロイターは「改ざんが強く疑われる」として配信を取り消したんだそうだ(参照)。

葬列を上から撮影した写真で、整然と並んで葬列を見守る人の列から外れたところにゆる~く立っている 5~6人の人影が、しっかりと消されてしまい、いかにも不自然な真っ白な雪に覆われた地面だけになっている。共同通信は「改ざんの目的は不明だが、写真が見栄えのするように白く塗りつぶした可能性がある」と報じている。

まあ北朝鮮のことだから、このくらいのことはするだろう。いかにもユルユルで立っている人影が「沽券にかかわる」として、ヒステリックに消してしまったというより、写真を配信する際には、このくらいのことはしなきゃいけないのだと思っているのだ。それは今に始まったわけじゃなく、枚挙にいとまがない。ちょっと探しただけでも こんな にある。

これは彼らの意識としては「偽造」というよりも、「ごく当然のサービス」なんだと思う。このくらいのことはしないと、かえって失礼に当たるとでも思っているフシがある。アジア的思考では、「ウソ」は決して「嘘」じゃなく、それはそれで当然として通用する。

私は中国本土には行ったことがないが、香港には何度も行った。初めて行ったときには、その辺を歩いている人に道を尋ねたりしたが、それ以後は絶対にしないことに決めた。香港人(に限らず、多くのアジア人)は、道を聞かれるとテキトーなウソを言うのである。

私は初め、香港人は嘘つきだと思ったが、すぐに、あながちそういうわけでもないと悟った。彼らは道を聞かれたときに、「知らない」と言う方がずっと失礼で不親切だと思っているようなのだ。だから「あっちに真っ直ぐ行けばいい」なんて、テキトーなことを言うのである。

ウソが決してウソじゃない。その場を収める方便なのである。その方便を信じてしまう方が無粋なのだ。本当に道を知っていたら、彼らは大いばりで教える。大いばりでなく、おずおずと答えたら、それは「本当は知らない」ということなのだ。そのくらい察することができないようでは、アジアは渡れない。

北朝鮮の場合は、元々あるそうした傾向が、ものすごく極端に現れているので、大ウソほど大いばりで言う。だから、あの国の言うことは何にしろ、そのまま信じてはいけないのである。

 

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2011年12月29日

Today's Crack 毎日更新 8周年

うっかり忘れていたが、この "Today's Crack" というコラムは、今月 25日で毎日更新 8周年を迎えていたのだった。ということは、平成 15年(2003年)12月 26日から数えて、今日で 8年と 4日間、毎日更新しているということになる。

ブロゴスフィア広しといえども、8年以上も毎日更新し続けているブログというのは、珍しいんじゃなかろうか。ブログ・サービスとしては草分けのココログがスタートしたのが 2003年の 12月 3日だから、ほぼ同じぐらいの歴史をもつわけだ。

もっとも私がココログを使い始めたのは、翌 2004年の 7月からで、それ以前は 「庄内拓明の知のヴァーリトゥード」 というウェブサイトの中のコラムとして連載していた。そしてそのコラムがスタートしたのは平成 14年 (2002年) の 3月で、正真正銘の毎日更新を始めるまでの 1年 9ヶ月間は「ほぼ毎日更新」という状態だった。

だから、「ほぼ」の時代を合わせると 9年 9ヶ月ということで、もうすぐ 10年になる。ココログの歴史より長い。変化の激しいインターネットの世界で、よくまあそんなに長い間、飽きもせずにやってきたものである。

節目を越えるたびに思うのは、これだけ長い間、毎日毎日更新し続けてこれたのは、とにもかくにも、健康のおかげである。PC に向かうのがしんどくなるほどの病気を、この 10年近くしていないというのは、ありがたいことである。

 

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2011年12月28日

キム・ジョンウンがあんなに見事にデブである理由

今やほとんどの先進国で、肥満はマイナス・イメージの代表格になっている。米国では「肥満は出世できない」とまで切り捨てられ、ごく普通の体型でさえ、近頃では「ちょいデブ」と見なされてしまうほどだ。

そんな中で北朝鮮の次期指導者、キム・ジョンウンはまだ若いというのに、堂々たる二重あごにふくよかすぎる頬、でっぷりした腹部で、誰がどういおうと肥満体、要するにデブである。国民が飢えている中で、あんなにも堂々とデブでいられるというのは、なかなかの厚かましさである。

国民とともに苦楽をともにすることを願う日本の皇室とは、どえらい違いだ。多くの国民が食べるものもなく飢えているのを知りながら、肥満体をさらしているというだけで、次期指導者は信頼に値しないと切り捨てる人も多い。

しかし北朝鮮という国は、どうやら肥満に関するイメージが、他の国とは違うようなのだ。指導者は「差別化要因」として太っている必要があるらしい。「普通の人とは違うという他者との絶対的差別化で "貴種" をイメージ付け人民に君臨するため」というのである (参照)。

そういえば、かの有名な「喜び組」の女性たちも、どちらかというと「ふくよか系」の顔立ちと体型である。同じ朝鮮半島でも、やたらとすらりとした体型を強調したがる韓流アイドルたちとは、シルエットが全然違う。

キム・ジョンイルも、3年前に脳卒中で倒れてからは急に痩せた姿をみせていたが、すぐにすっかり肥満に逆戻りした。脳卒中で倒れた者にとって肥満は命取りになるはずなのに、それでもしっかりと太って見せたのである。「肥満による統治」へのこだわりがあったとしか思われない。

「飽食の国」では、運動もせず食欲に負けて肥満するのは、人格的な弱みをさらけ出すことに他ならない。しかし「飢餓の国」では、肥満していることが「普通の人とは違う」カリスマ・イメージを醸成することになるようなのだ。

人間が食い物に困らなくなって「飽食」になってしまったのは、最近のことである。普通の人がちょっと油断すると肥満になってしまうというのは、本当に最近の現象なのである。それ以前は、肥満は「豊かさ」のシンボルで、それほどマイナスのイメージってわけじゃなかったのだ。

ちょっと前までは 「それほどマイナスのイメージってわけじゃない」 となっていた肥満が、カリスマ・イメージを醸成するというのは、とどのつまり、国が相当貧しいということの証明になる。どうやら指導者が太っている国というのは、ヤバイということになりそうである。

 

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2011年12月27日

我々夫婦には、アクション大作は向かないのだよね

久しぶりに妻と何か映画を見に行こうということになり、近くのシネコンで何かやっていないかと探したら、トム・クルーズの「ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル」かなあということになった。何だか一抹の不安はあったのだが、見終えてからの感想はやっぱり二人とも、「時間とお金の無駄だったね」ということになった。

見る前の一抹の不安を無理に打ち消したのは、妻の「映画評論家の渡辺祥子さんも褒めていたから、多分間違いない」という一言だった。しかし誰が褒めていようと、あの手の「とにかく細かいことは言わずに、最初から最後までハラハラドキドキして楽しめ!」というタイプの「アクション大作」は、我々の見るべき映画じゃないと、改めて確認できた気がした。

とにかくこれでもかこれでもかの、ハラハラドキドキ・シーンの連続なのだが、それが続けば続くほど、「ハイハイ、撮るの大変だったねえ、ご苦労さん、ご苦労さん」と思うばかり。2時間チョイの上映時間のうち、最初の 30分ぐらいでもう飽きてしまい、「いつ終わるのかなあ」というのが気になるばかり。

もしかして、隣で見ている妻は楽しんでいるのかもしれないと、あまりもぞもぞしないように気を使っていたのだが、終わってみると二人とも楽しめなかったとわかり、「なあんだ、やっぱりね」ということになった。この映画でしっかりと楽しめる人もいるのだろうから、悪く言う気はないが、我々には全然向かない映画だったのである。

で、二人でしっかりと決めたことは、「これからはアクション大作をわざわざ映画館まで見に行くのはやめよう」ということだったのだよね。

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2011年12月26日

宣伝用のばかでかいカレンダーを配るのは、やめようよ

バブルの頃ほどではないが、あちこちからカレンダーが届けられる。直接もってくるなら「いらない」と断ることもできるが、知らないうちに丸めて郵便受けに突っ込んであったりするので、毎年暮れになると、いりもしないカレンダーが 3つも 4つもたまる。

私も妻も、もらったカレンダーを自分の家の壁に飾るなんて、「考えられない」 というタイプの人間である。頼んだわけでもない悪趣味な、あるいはステロタイプなデザインの、大きな写真やら絵やら書やらが威風堂々とついて、しかも一番下に「○商会」なんて企業ロゴが入っているカレンダーなんて、何が悲しくて壁に掛けなきゃいけないんだ?

我が家のリビングルームのカレンダーは、この何十年も、シンプルな日付だけのもので、家族がそれぞれの予定を書き入れる。つまり、我が家のカレンダーは機能一点張りで、そんな殊勝なカレンダーはどこでも配ってくれないから、ただでもらったカレンダーを資源ゴミに出して、気に入ったカレンダーを金を出して買う。

美術的なファクターが欲しかったら、自分で都合してきた絵や写真を飾る。カレンダーと美術とを合体させるなんて、邪魔くさいちゃっちいことは考えない。

それでも、今年の年末もふと気付くと、あちこちから知らぬ間にカレンダーが押しつけられている。あちこちで「カレンダーいらない?」と聞いても、返事は「いらない」に決まっているから、結局捨てるしかない。

単に捨てるのももったいないから、上の金属部分をカッターで切り離し、紙の部分のみを資源ゴミにする。悲しいことである。配られてから幾日も経たないうちに資源ゴミに出されるために、金をかけてカレンダーの体裁にして、金をかけて配るのである。配られた側では、それを手間暇かけて資源ゴミにする。

日本全国で配られた途端にゴミに出される大量のカレンダーを作るために、いったいどれほどの森林が無駄に伐採されているのかと考えると、かなり悲しい。

どう考えても、企業が宣伝用のカレンダーを無料で配るなんてやめた方がいい。せっかく社員の名刺を再生紙で作り、冷暖房の温度を制限しても、年末になると無駄なカレンダーで紙を大量消費しているのでは、エコな企業だなんて思ってもらえない。どうしてもというなら少量だけ作り、希望者だけに配布すればいい。

そしてできれば、邪魔にならない卓上型のサイズにしてもらいたい。それならばかでかい壁に飾るタイプのものの何分の一かの紙の消費で済むし、リビングルームに飾らなくても、トイレの壁ぐらいにかけてもらえるかもしれない。

 

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2011年12月25日

年賀状を書くことの負担と楽しみ

一昨日の「年賀状に関する、ちょっと切ない他人事気分」という記事にも、「今年の 10月に父が亡くなったので、来年の年賀状は書かない。だから、年末になってもなんとなく落ち着いている。今頃多くの人は、必死になって年賀状を書いているのだろうと思うと、何となく不思議な気持ちにすらなる」 と書いているように、ちょっと特殊な気分の年末である。

いや、「特殊な気分の年末」というより、「特殊な気分になって当然の年末に、通常モードでいることの不思議さ」と言った方がいいかもしれない。とにかく、あんまり年末という気がしないのである。

母の死んだ 4年前の年末はどうだったのかというと、上述の記事中のリンクから飛ぶ記事に、次のように書いている。

今年もずいぶん押し詰まってきたような気がしてはいるのだが、いつもの年と比べると、何だか切羽詰まった気がしない。

何でだろうと考えてみると、これは一重に、年賀状を作らなくていいという、今年の特殊事情によるものだと気付いた。5月に母が亡くなったので、まだ喪中なのである。

「新年のご挨拶を失礼させていただきます」という喪中葉書は、先月のうちにさっさと出してしまった。おかげで、今年の暮れは 「あぁ、まだ年賀状を作ってなかった!」という強迫観念にさいなまされずに済んでいるのである。

ふぅむ、やっぱり同じだ。年賀状を書かなくていい年末というのは、かくも心安らかな、そしてそれ故に、何となく妙な気分なのである。「こんな呑気にしていて、いいのかしらん」 といった感じなのだ。

思えば年賀状を書くという仕事は、新年を迎えるにあたっての重要な助走的役割を果たしている。年が明けてもいないのに、「明けましておめでとう」 なんてことを書いたり印刷したりしているうちに、無意識のうちに我と我が心を洗脳して、「ああ、年が明けるんだ、新年になるんだ、よくよく押し詰まってしまったんだ」と、思いこんでしまうのだ。

年末になると人は、年内の仕事のけりをつけたり、大掃除をしたり、おせち料理の準備をしたり(あるいは買ったり)と、けっこういろいろなことをこなさなければならないが、年賀状を書くという行為ほど非日常的なことはないような気がする。

そんな余計な仕事があるせいで、12月の 10日を過ぎた頃から「ああ、書かなきゃ、書かなきゃ」と、心の片隅に何かに追いつめられたような強迫観念が生じて、それが日を追うごとに増大する。20日を過ぎる頃には、かなりの心理的負担となる。

年賀状を交換するという慣習さえなければ、せいぜい年末の最後の 3日間ぐらいになって、ようやく 「ああ、押し詰まったな」 という気がする程度だろうと思うのだ。ところが年内に年賀状を書くなんていう慣習のために、「押し詰まり感」が半月以上も早まってしまっているのである。

そんなに負担なら、年賀状なんていっそ書かなければいのにと思われるかもしれないが、なぜか私は、年賀状には凝ってしまう方なのである。毎年 (月並みではない程度に) 意表をついたオリジナル・デザインで、しかも和歌を一首添える。そして最後に、手書きの一言を添える。結構手間暇かけるのだ。(今年の正月までのサンプルは こちら

それが楽しみであり、同時に心理的負担なのである。この心理的負担というのは多分、下手に懲りすぎるから増大しているのかもしれないが、来年の今頃はまた、強迫観念を楽しむことになっていることと思う。

 

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2011年12月24日

個人的 「クリスマス・ソング ベスト 10」

さて、今夜はクリスマスイブ。世の中はクリスマス・ソングであふれている。

で、クリスマス・ソングは数々あれど、中には大好きな曲もあれば、別に全然思い入れのない曲もある。というわけで、個人的な 「クリスマス・ソング ベスト 10」 というのを選んでみようと思う。

私なりのこだわりバージョンの Youtube 動画をブログ内に埋め込ませていただいた。(ただし ”O Happy Day” は Youtube に飛んでご覧頂くことになる)

1. The Christmas Song

2. O Little Town of Bethlehem

3. Happy Xmas

4. Silent Night

5. O Holly Night

6. Amazing Grace

7. Oh happy day

8. Joy to the World the Lord is Come

9. クリスマス・イブ

10. Santa Claus is Coming to Town

ほとんど洋楽ばかりになってしまったが、クリスマスというイベント自体が舶来のものだからしかたがない。般若心経を英語で唱えてもピンとこないのと同じで、やっぱり日本語のクリスマス・ソングはお子様ランチ風に聞こえてしまう。

その中では、山下達郎の「クリスマス・イブ」は大健闘である。とはいえ、この曲はクリスマス・ソングというよりは、クリスマスにかこつけた悲しいラブソングみたいなものではあるのだが、まあ、いいだろう。

"Oh Happy Day" も厳密にはクリスマス・ソングとはいえないかもしれないが、ゴスペルでなければ表現できないこの素晴らしい「ノリ」を無視しては、私の中の 「クリスマスソング ベスト 10」 は完成しない。欠かせない曲である。というわけで、"Amazing Grace" もゴスペル・バージョンを選んでみた。

ベスト 3 は、これはもう、私の中では不動である。ジョン・レノンの "Happy Xmas" は、Rolling Stone 読者の選ぶクリスマス・ソング ベスト 10 では、トップに選ばれていた。ふむふむ、やっぱりそうなるよなあ。

ただ、この曲でジョンとヨーコの思いが本当に表現されているのは、上に埋め込んだバージョンではなく、こちら のバージョンだと思うので、是非クリックして味わっていただきたい。(ただし、泣かないように)

ちなみに、定番中の定番、"White Christmas" が私のベスト 10 に入らないのは、好みの問題だから仕方がない。私がカラオケで "My Way" を歌わないのと同じ理屈である。

 

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2011年12月23日

年賀状に関する、ちょっと切ない他人事気分

この "Today's Crack" というブログのアクセス数は、大体 1日に 1,500 前後ということが多い。時々、個人のニュースサイトに取り上げられた記事が、大変なアクセスを集めたりすることもあるが、そんな記事に限って 書いた当人が 「どうしてこんな記事が、そんなに世間の関心を呼んだものかなあ」と思ったりする。

で、たまに 1日に 1万ぐらいのアクセスがあったとしても、翌々日ぐらいには徐々に普段の静かな様相に戻るので、まあ、この類のブログの市場規模というのは、そのぐらいのものなんじゃないかと思っている。

ところが、毎年暮れになると、妙にアクセスが増えて、連日 2,000 を越したりする。どういうことなのかというと、「年賀状/一言」 というキーワードで検索した結果のアクセスが多いようなのだ。これ、最近の年末の定番と化している。

そして、このキーワードでアクセスされる記事は、次の 3本だ。

年賀状に書き添える手書きの一言 (2007.12.27)
年賀状の手書きの一言で、皆さん苦労してるんだなあ (2010.12.23)
年賀状に添える一言ぐらい、自分で考えようよ (2010.12.26)

3本のうち、後ろの 2本は、昨年の今頃書いたものだ。内容は、最初に掲げた「年賀状に書き添える手書きの一言」という記事に 「手書きの一言の文例」を求めてやってくる「勘違いアクセス」が多いということを書いている。あまり勘違いが多いので、最初の記事の冒頭に、次のような 「お断り」 を添えたほどだ。

年賀状に添える手書きの一言の 「文例集」 を期待してやってきた方には、はなはだお生憎様ですが、それを求めてこの記事を読んでも、得るものは何もありません。

このブログは、書店の実用書のコーナーに並ぶような内容とは無縁です。文例を期待するなら、とっとと こちら に飛んでください。ありきたりで差し障りのないのがたっぷり紹介されてます。

文例以外の何物かを期待される方のみ、以下に読み進んでください。

この断り書きの効果があったのか、今年は最初の記事ではなく、昨年の今日に書いた「年賀状の手書きの一言で、皆さん苦労してるんだなあ」という記事へのアクセスがずっと多くなっている。

ということは、少なくとも「文例を求めて」という勘違いアクセスは減って、それよりも「皆さん苦労してるんだなあ」という、「悲哀の共有」をしたいみたいな、ちょっとおもしろい傾向に向かっているような気がする。そのあたりの世の変遷は、なかなか興味深い。

私個人としては、今年の 10月に父が亡くなったので、来年の年賀状は書かない。だから、年末になってもなんとなく落ち着いている。今頃多くの人は、必死になって年賀状を書いているのだろうと思うと、何となく不思議な気持ちにすらなる。ちょっと切ない他人事気分である。

ちなみに「年賀状/一言」でググると、昨年の今頃は私の記事がトップに表示されていたのだが、最近は 3位にまで落ちていて、他は純然たる文例集というサイトが多くなっているのは、しかるべき、喜ばしい状態である。

 

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2011年12月22日

安めぐみさん、お気の毒だが、「20代で結婚」 じゃなかったのだよ

今日、所用で都心に向かって渋滞の首都高をノロノロ進んでいたら、ラジオで安めぐみという女性タレントが、「20代最後の日に結婚」 というニュースを流していた。このタレントの誕生日が 12月 22日なので、その 1日前に婚姻届を出して、「20代のうちに結婚したい」 という願いを叶えたのだそうだ。

うーん、しかし、安めぐみさんにははなはだ恐縮だが、それでは 「20代のうちに結婚」 という願いは満たされなかったのだよ、実は。民法の規定によると、人間は誕生日の前日に年を取るのだ。つまり、誕生日の前日に婚姻届を出したのでは、「ちょうど 30歳になった日に結婚した」 ということになるのだよ。

この規定については、実は私も長いこと知らなかったのだが、調べてみたら、そういうことだったのだ。奇しくも 7年前の今日に書いた "「早生まれ」 の込み入った事情" という記事に書いてある。直接的には、「どうして 4月 1日生まれまでが、『早生まれ』 という扱いになるのか」 を論じた記事だ。

我が国における年齢を含む 「期間」 というのは民法によって定められており、その第 143条によると、「其起算日ニ応当スル日ノ前日ヲ以テ満了」 とある。言い回しがややこしいのだが、人間の年齢に関して噛みくだいて言えば、誕生日の前日でそれまでの年齢を 「満了」 する。要するに誕生日の前日に歳をとってしまうということだ。(前日の何時かは定められていないから、前日になったとたんに歳をとるのだろう)

厳密な理屈で考えれば、誕生した時刻をもって、その人のそれまでの年齢は満了して、一つ年を取るのだろうが、それを言ったら運用がうっとうしいことになるので、法律的には誕生日の前日になった瞬間に年を取るということになっているらしい。

それで、4月 1日生まれの子どもが満 6歳とみなされるのも、「いわゆる 6歳の誕生日」の前日、3月 31日なのである。

学校教育法第 22条は「保護者(子女に対して親権を行う者、親権を行う者のないときは、未成年後見人をいう。以下同じ)は、子女の満 6才に達した日の翌日以降における最初の学年の初めから、(中略) 就学させる義務を負う」と定めている。

再び 7年前の記事から引用しよう。

ということは、4月 1日生まれの子どもは 3月 31日に満 6歳になり、その翌日 (ここが大事なところだ)、つまり 4月 1日に始まる小学校の新学年に間に合うというわけだ。「最初の学年の初め」(=学校の新学年)というのは、入学式が何日であれ、法律上は 4月 1日と決まっているのである。

ここで、「ちょっと待てよ」と言いたくなるのは、私だけではあるまい。というのは、4月 2日生まれの子どもだって、民法に従えば 「最初の学年の初め」 である 4月 1日には満 6歳になっているわけなのだから、 「早生まれ」 扱いにしてもよさそうなものなのである。しかし、前述の通り「満 6才に達した日の翌日以降における最初の学年の初め」という規定を作って、4月 2日生まれを「早生まれ」の枠から巧妙に閉め出しているのだ。

実にまったく煩雑なお話である。普通に考えれば「4月 1日が誕生日の子は、新学年開始の日に満 6歳になるので、ギリギリセーフで、小学校に入学できる」と考える方が、結果オーライで、ずっとシンプルに済ませられる気がする。しかし民法というのは、他の様々の期間計算(例えば飲み屋のつけの時効とか)とのからみで整合性をとるために、誕生日の前日に年をとると規定せざるを得ないようなのだ。

と、このようなことで、日本人は誕生日の前日に年を取るのである。20代のうちに結婚したいという願いが、実は叶えられなかった安めぐみさんは、実にお気の毒さまである。でもまあ、そこはそれ、気分の問題だから、いいか。

【2020年 7月 28日 追記】

実はこの記事は誤りで、安めぐみ さんは、ギリギリで「20代最後の日に結婚」というのが間に合ったようなのである。お詫びして修正申し上げたい。

というのは、「誕生日の前日に年を取る」ということに関しては、誕生日の前日になった途端に年を取るのではなく、誕生日の前日が終わらんとする一瞬(24時)に年を取るとされているようなのだ。詳しくは、2020年 7月 28日付の "人は誕生日の前日に年を取るわけなのだが" を参照されたい。

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2011年12月21日

上田馬之助、逝く

プロレスラーの上田馬之助が死んだとのニュース(参照)を、私はある意味、キム・ジョンイルが死んだという以上の感慨をもって読んだ。

上田馬之助といっても、今の若い人はちっとも知らないかもしれないが、私のような力道山時代からのプロレス・ファンには、忘れられない存在である。あのタイガー・ジェット・シンとの極悪タッグで暴れまくっていた頃の印象は、なかなか渋いものであった。

上田馬之助は、一見派手な外見の悪役レスラーではあったが、若手時代は腕固めや脇固めなどの地味な関節技を得意とし、ガチンコではかなりの実力者だったと思う。「と思う」としか言えないのは、その得意技で試合に決着を付けることは滅多になく、最終的には花形レスラーや外国人レスラーに負けて見せる役割に徹していたからである。

しかし、プロレスをきちんと見ている人はしっかりわかっているはずだが、プロレスで「きちんと負ける」には、それなりの実力がなければならない。とくに「受け」がしっかりしていないと、相手も怖くて見栄えのする技は仕掛けられないので、結果的に試合がしょっぱくなる。

観客がちゃんと興奮して満足して帰るには、負け役のレスラーがきちんとしたパフォーマンスをしなければならないのである。その意味で上田馬之助は、ちゃんとしたプロレスラーだった。もっと言えば、見る目をもった者が見ると、哀愁を感じてしまうほど律儀なレスラーだった。「何もそこまでしなくても」と思ってしまうほどの、哀愁を漂わせていたのだ。

多分、上田馬之助は律儀すぎたんだろうと思う。極悪レスラーを演じても、タイガー・ジェット・シンほどにはその極悪キャラクターの中に入り込めなかったところがある。つい、何となく気配りをしてしまう。

「物狂い」 に徹しきれなかった律儀なレスラーに、心からの哀悼を捧げる。

 

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2011年12月20日

Winny 開発者の無罪確定で、あれこれ思う

ウィニー: 開発者の無罪確定へ … 最高裁、検察の上告棄却」というニュースが、キム・ジョンイル死亡という大ニュースの影でひっそりと報じられた。7年半前に開発者が逮捕された時には、このソフトがどんなものか理解していない層にまで向けて、「インターネットは怪しい世界」 というトーンでセンセーショナルに報じられていたのに。

Winny に関しては、このソフトが話題になった頃からほとんど考えが変わっていない。要するに、このソフト自体は法律を犯すことを勧めているわけではないが、「おもしろいソフトを共有しようと思ったら、多くの場合、つい法に抵触してしまいそうだよね」ということだ。

法に抵触してまでいろいろなファイルを共有しようなんていう気にもなれないから、私は Winny をインストールする気には全然ならないし、人にも薦めない。さらに暴露ウィルスまで出てきたので、仕事で使う PC には Winny をインストールしない方がいいと思う。

警察官が Winny をインストールした私物 PC に業務上の機密情報の入ったファイルを保存して、それが暴露ウィルスのために流出してしまったなんて事件があったが、そんなことでは、どうにもかばいようがない。

というわけで、私自身は Winny には興味がないというか、はっきり言って「嫌いなソフト」だし、当然にも使う気には全然ならないのだけれど、その開発者を有罪とするのは、やっぱり考え物だと思っていた。だから今回の無罪確定には、「しかるべし」 という気がする。

私は 7年半前(まだこのブログがココログに移行していない頃だから、懐かしいぐらいの時代だ)、次のように書いている (参照)。

開発者の 「47氏」 が志向したと思われる 「著作権という概念の質的変化」 への対応には、興味がなくもない。私も、著作権の現在のコンセプトは確かにオールド・ファッションドだと思う。まったく新しい形の著作権のコンセプトがあってもいい。

例えば、ハリウッド的な大作主義の映画を作ろうと思ったら、著作権に基づいた収入を想定しなければ制作自体が不可能になる。だから、ああした作品がお好きなら、ちゃんと入場料を払い、DVD をきちんと買うべきだろう。

しかし、もっと 「草の根的」 な芸術作品がお好きなら、あんまりお金のことで面倒な運用が必要なのは、うっとうしい。インターネット時代のアートは、そうした志向への萌芽が見られる。

というわけで、要するに私は、「金のかかりすぎる芸術なんて、あんまり興味もてない時代になりつつあるよね」ということを、言外に言っている。

私自身、「和歌ログ」 という、PC とデジカメ、あるいは iPhone さえあれば、後はほとんどコストがかからない (その代わり、全然儲かりもしない) 芸術を 8年間も毎日続け、それで「クリエイティブ・コモンズ」にも参加してるので、軽い気持ちでそんなことが言えるのである。これって、インターネットがあるからこそ成立しているジャンルだと思う。

 

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2011年12月19日

ウサマ、カダフィ、キム・ジョンイルときて……

キム・ジョンイルが死亡したらしいという憶測記事が流れて、昼過ぎにテレビのスイッチを入れたら、あの 50日以上姿を見せないとして、行方不明が伝えられていた 「世界一有名な女性アナウンサー」、リ・チュンヒおばさんが、半泣きで将軍様死去のニュースを読み上げているところだった。

なんだ、生きてたのか。いや、これは将軍様ではなく、あのおばさんのことだけど。あのおばさんは、この日のために 50日間以上、劇的なニュース原稿朗読の予行演習をしていたのかもしれない。なかなか念の入ったことだ。

ところが断片的な情報を総合してみると、キム・ジョンイルは 17日に 「現地指導」 の途中、過労のために列車の中で、心筋梗塞で死亡したということのようだ。この情報をとりあえず純朴に信じるとすると、「突然の死」 ということになる。体調不良だったら、列車に乗って旅行なんてしないだろう。

というわけで、「それって、おかしいんじゃないの?」 と言いたくなる。ちょっと勘ぐっただけで、キム・ジョンイルの本当の死亡日は、12月 17日なんかじゃなく、それより 50日以上も前で、この間ずっと、情報はひた隠しにされて、北朝鮮労働党内部は、つつがない発表の準備で大わらわだったんだろうと推測される。

そうでなかったら、17日にキム・ジョンイルを心筋梗塞に見せかけて葬り去るための暗殺計画に、あの女性アナウンサーも加わっていたと考えたくなってしまう。自らも荷担して暗殺した将軍様の死を涙で報じるという 「一世一代の名演技」 のために、50日以上も潜伏していたということか。うむ、ストーリーとしてはこの方がおもしろいかもしれない。

まあ、いずれにしても今回のニュースには謎の部分が多いのだが、それはあの手の国のことだから、当然といえば当然のことで、しばらくしたらいろいろな情報が少しずつ漏れてくるのだろう。

それにしても、今年は 5月にウサマ・ビン・ラディン、10月にカダフィ、押し詰まってから (実際にはそれほど押し詰まっていない時期だったかもしれないが) キム・ジョンイルと、3人もヤバ目の指導者が死んだ。ところで日本にも男子の平均寿命をとっくに越した、ふてぶてしい面相のお人がいるのだが、どうなるかなあ。

 

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2011年12月18日

「結界」 の意義

自分の仕事部屋で PC に向かい、ある案件の企画書を書いている。その企画書で必要な資料は、あっ、そうか、昨日帰ってきたときに、リビングルームのソファで読んでいて、そのままテーブルに置いて来てしまったんだった。

で、階段を下りてリビングルームに行くが、ドアを開けて入ったとたんに、なぜか資料のことなんかどこかに飛んでしまっていて、テーブルの上にあったテレビのリモコンのスイッチを何気なしに入れてしまう。

すると、BS でサッカーのマンチェスター・ダービーをやっていた。後半の 30分を経過したところで、1 対 1 の同点。かなり盛り上がっている。つい試合の最後まで見てしまい、興奮して仕事部屋に戻ってから、「あれ? 俺は一体何をやってたんだっけ?」。レポートに必要な資料を取りに行ったことを思い出すまで、30分かかった。

と、最近そんなような経験をしたばかりなもので、Slashdot の 「ドアを開けて別の部屋に移動すると前の部屋のことを忘れる? 」 という記事を興味深く読んでしまった。別の部屋に行った途端に用事を忘れてしまうのは、「部屋を移動する」 という行為自体が物忘れの原因になっている可能性があるんだそうだ。

Slashdot の本家記事では、Out of Sight, Out of Mind (視界から消えると、心の中からも消える) という見出しで紹介されている。実験は米ノートルダム大学の研究チームによるもので、コンピューター上の仮想空間と現実の部屋の両方のケースで、部屋の移動による記憶の減少が見られたという。

被験者はテーブルからブロックを取り、移動先のテーブルに置くという作業を行う。移動先のテーブルは大きな部屋では同じ室内、小さな部屋では別の部屋に置 かれており、被験者からは運んでいるブロックは見えない。移動途中でブロックの色と形が提示され、現在持っているブロックまたは直前に置いたブロックと一 致するかどうかを 「Yes」 「No」 で回答するというもの。

実験の結果、いずれも別の部屋に移動した場合の誤答率が高く、回答時間も長くなった。また、元の部屋に戻るパターンではさらに成績が悪かったという。ドアを開けて他の部屋に移動することがイベントの境界となり、新しいイベントモデルが作成される。

ここで作成された新しいイベントモデルが脳のワーキングメモリーに格納されるので、新しい情報は容易に思い出せるが、古いイベントモデルが利用可能な領域は減少しているので、それに関連付けられていた記憶も減少するという可能性を、この論文は指摘しているというのである。

なんだ、目的の場所に着いたとたんに用事を忘れてるというのは、人間誰しももっている 「脳の傾向」 ということだったのか。別に私が忘れっぽいからというわけじゃなかったのだ。大いに安心したぞ。

ちなみに、神社仏閣で鳥居や山門をくぐった途端に、ちょっと意識が新たになって、神聖な気分になるというのは、あの鳥居や山門という 「結界」 をくぐるという行為自体が大きな意味を持っているということなのかもしれない。

ふぅむ、「結界」 というものの意義は、かなり大きいのだな。

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2011年12月17日

人間の「幸福を感じる能力」が活性化されるには

北陸新幹線の金沢-敦賀間が着工しそうだという話に関連して、昨日の記事で、基本的に新幹線が延長されると出張は便利になるというような話を書いた。現在は長野までしか開通していないので「長野新幹線」と呼ばれている北陸新幹線が、2015年までに金沢まで開通するので、それだけでもかなりありがたい。

この記事に庄内在住の伊藤さんから、なかなかはっとさせられるコメントがついた (参照)。

話は変わって、先日、法政大学のグループが“幸福度ランキング”を発表して賛否両論話題になりましたが、ざっと見渡すと何故か日本海側の方が高順位だと感じます。

(中略)

交通網が完備されているところほど幸福度が低いということも言えるのかな、と感じてしまいます。
福井は陸の孤島と言われるそうですが、第1位です。(庄内地方もかつては陸の孤島と言われましたね。)

交通網が整備され開発が進むと人間の幸福度は下がってしまうのか・・・?

法政大学のグループによる「幸福度ランキング」というのは、こちら で見ることができる。ベストテンは上から順に、福井県、富山県、石川県、鳥取県、佐賀県、熊本県、長野県、島根県、三重県、新潟県となっている。

10県のうち、6県が 「日本海側」 といわれるところで、佐賀県、熊本県も、日本のメジャーな大都市が連なる「太平洋側」のラインからは外れている。整備新幹線が通っているのは、熊本県、長野県、新潟県だけで、日本の大動脈といわれる東海道新幹線の通っている都府県は、一つもベストテン入りしていない。

伊藤さんは件のコメントの中で、「出張は当然仕事ですので、太平洋側のように交通網が整備されていた方が楽ですが、仕事を抜きに考えると、車で走っていて楽しいのは日本海側の一般道だったりしますね」 と書かれている。うむ、確かに私もそう思う。同じ地方道でも、日本海側の道はちょっと心にしみるような良さがある。

伊藤さんは「交通網が整備されて開発が進むと、人間の幸福度は下がってしまうのか?」と書かれているが、それで思い出すのは、国民総幸福度(Gross National Happiness: GNH)ナンバーワンのブータンである。

この国では 2005年 5月末の国勢調査 (ちなみに、これがブータンで最初の国勢調査だといういう)で、「あなたは今幸せか」という問いに対し、45.1%が 「とても幸福」、51.6%が 「幸福」 と回答した。合わせて96.7%が幸福だという、とても幸せな国である。

本当に、交通網が整備されて開発が進まない方が幸福度が高いのかなあと、思ってしまうではないか。

もしかしたら、人間の「幸福を感じる能力」というものは、元来とてもプリミティブなもので、現代の便利な環境に適応しきれていないのかもしれない。だとしたら、科学技術の進展がもっとずっとゆっくりしたペースになる方が、人間をより幸福にするかもしれない。

ちょっと話は飛躍するかもしれないが、スペック的にも機能的にもものすごくハイレベルになってしまった今日の PC を使うよりも、機能的な制限が大きい iPad を使っている方が、同じウェブページをみてもずっと楽しい感じがするのに似ているような気がする。

 

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2011年12月16日

北陸新幹線の金沢-敦賀間着工が実現しそうだが

政府・民主党が、整備新幹線の未着工 3区間 (北陸新幹線の金沢-敦賀間、北海道新幹線の新函館-札幌間、九州新幹線・長崎ルートの諫早-長崎間) の着工を認める方針なんだそうだ。

この 3区間の中で、私にとって一番身近なのは北陸新幹線だ。現在は「長野新幹線」の名称で長野までが開通しているが、予定としては 2015年に金沢まで延長されるということだ。飛行機を使うにはちょっとビミョーな距離だから、4年経てば東京から金沢まで新幹線で行けるというのは、とてもありがたい。

しかし金沢までは便利になっても、その先の福井は依然として行きにくいままだ。陸の孤島というわけじゃないが、関東から行くにはなかなか手間がかかるのだ。普通は東海道新幹線で米原まで行き、特急しらさぎに乗り換えるのだが、米原で止まる便はそれほど多くないから、時間帯によっては京都で乗り換えなければならない。

米原で乗り換えるにしても京都まで行くにしても、それから先はローカル線でのんびりと福井を目指すことになる。なにしろ単線だし、それまで乗っていた東海道新幹線のスピード感と比べると、どっと悠長な旅になってしまう。

金沢-敦賀間の開通がいつになるかわからないが、実現したら関東から福井への出張は北陸新幹線だけで乗り換えなしに行けるから、ずっと楽になる。つくば地域の住民としては、羽田まで出て飛行機に乗って小松空港まで行くと、所要時間はそれほど変わらないのに料金ばかり高くなるから、避けたいところなのだ。

しかしちょっと視点を変えると、現在は福井に出張したら夜のうちに京都まで戻って一泊し、翌日が空いていたら一日京都見物ができるというメリットがある。ところが北陸新幹線が敦賀まで開通してしまったら、東京から米原も京都も経由せず、日本海廻りで福井まで行けるということになってしまう。

そうすると、福井への出張につきものの、京都見物というお楽しみがなくなってしまうではないか。なにしろ、北陸新幹線の敦賀から先は、米原につながるのか、はたまた京都につながるのか知らないが、ルートすら未定なのだから、これは問題だ。東京から日本海廻りで往復するのがデフォルトになってしまい、京都見物が縁遠くなる。

まあ、考えてみれば金沢-敦賀間の開通なんてずっと先のことだろうから、しばらくは福井出張は京都見物とセットで行けそうだ。あまり気を揉まなくてもいいようなのである。ありがたい、ありがたい。

 

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2011年12月15日

何とか歩いていこうと思うのだ

近頃このブログで書く記事に、我ながらスマッシュヒットが少ないなあと思うのである。書いている内容は手抜きしているわけじゃないのだが、それでもなんとなく「物足りなさ」を感じるのは、世の中の方がのっぴきならなくなっていて、それをそれなりに掘り下げて書くほどの時間と体力が不足してしまっているからだと気付いた。

それでなくてもあの震災以来、手に負えない難題が、ごく身近で降りかかり続けているのである。なんとなく無力感にとらわれることすらある。なにしろ今年の福島への放射性セシウム降下は 683万ベクレルで、福島以外の 45都道府県合計の 47倍なんだそうだ。

ちなみに、私が居住する茨城県の放射性セシウム降下は福島県に続く 第 2位で、約 4万ベクレル。そして第 3位が私の生まれた山形県で、約 2万 2000ベクレル。これだけでも 「ちょっとヤバイな」 と思うのに、福島県は茨城県の 168倍なのだ。福島には親戚、友人、知人が多い。

会津の地でパン屋を営む 「食工房」 の mikio さんは、ブログに次のように書いている。(参照

ゆるぎないもの・・・、この度の原子力災害を前に、果たしてそんなものがあるだろうか・・・? という気持ちにさせられています。

母なる地球の営みに身をゆだねる。

どんな時でも帰るべきはそこ以外にないと信じて来ましたが、今はそれさえ揺らいでいます。
空も、山も、川も、海も、今までとはちがうのですから。

自然を愛し、自然豊かな会津の地で自然のパン作りを続けてきた人間にとって、その地に放射性物質が降っているというのは、どんなことなのか、想像してほしい。それはアイデンティティに関わることなのだ。

しかし mikio さんはその翌日の記事に、今年のシュトレン(菓子パン)の注文が難しいことになるのではないかと懸念していたが、昨年とほぼ同程度の受注だったとしてして、次のように書いている。(参照

そして嬉しかったのは、皆さまが、深いご理解と納得の上でご注文くださったことです。

状況として、来年が今年よりずっと良くなるとは思っていませんが、何とかこの仕事を続けて行くことは出来るのではないかと、希望を持たせていただきました。

本当に、本当に、ありがとうございました。

うれしい記事である。何があっても絶望はしないでおこうと思う。人間を、自然を信頼して、何とか歩いていこう。歩いているうちに、また何か希望が見つかるだろうと思うのである。

 

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2011年12月14日

ネズミもすなる「思いやり」 というもの

Slashdot で "ラットにも 「共感力」 あり。米研究で明らかに" という記事を見つけた。この「共感」というのは、元々のニュースの英語では、もしかして "empathy" なのではないかと思い、試しに検索してみたら、やはりその通りだった。

msnbc.com のニュースのタイトルは "Empathetic rats step up and help others in a bind" というもので、「共感力のあるネズミが学習の結果、拘束された仲間を助け出す」とでも訳したらいいかもしれない。

ニュースの中身は、詳しくはリンク先 (日本語版でも英語版でもご自由に) に飛んでみてもらえれば知ることができる。英語版の方が、写真付きだけによりしっくりくるかもしれない。

ニュースの中身は、まあ要するに、ネズミは透明な樹脂製の容器に閉じ込められてしんどがっている(写真でみる限り、かなり窮屈でしんどそうだ) 仲間を、進んで助け出したがるということが、実験でわかったということなのだ。

これは別に、一匹だけでいると退屈だからとか、助け出せばご褒美がもらえるというインセンティブがあるからとかいうわけでもなく、何だかしらないが、しんどがっている仲間を見るに忍びないという感覚からくるものらしいというのである。

このような 「相手を思いやる心」 を "empathy" というのである。"sympathy" という言葉に比べ、自我にこだわらずに、相手の視点でものを見つつ、相手の立場に立って行動を起こすというニュアンスが大きい。この言葉は既に昨年の 4月 29日に、「"Empathy" の時代」 というタイトルの記事で紹介した。その記事からちょっと引用してみよう。

「利己的な遺伝子」 という、実はあやふやな進化学上のテーゼが、これまでは一般社会で信じられてきた。通俗的な理解では、生物は各々が利己的であることによって生き残ってきたというのである。そして、競争原理は結局は人類の幸福に寄与するのだと思われてきた。

しかし、それは人間が長い間とらわれてきた迷妄ではなかったか。競争によって強くなるというのは、都市伝説のようなものではないか。実は、協調によってある程度強くなったからこそ、競争が可能になったのであり、競争によって発展するというのは、進歩の一段階に過ぎないのではないか。人類はそろそろ、次のステージに進むべきなのではないか。

私は "empathy" こそが、新しい時代のキーワードになるのではないかと思っている。「思いやりの心」というのは、別に新たに学ばなくても、ネズミの脳でさえも元々もっているもののようであり、それを発揮することによって「気持ちいい」という感覚を獲得できるのだ。

我々がどうやら DNA の中にもっているらしい「思いやりの心」を、てらいなく発揮できる社会システムを実現すれば、この世はかなり住みやすいものになるのではなかろうかと、私なんかは単純に期待してしまうのである。

紀貫之は『土佐日記』で「男もすなる日記といふもの」と書いたが、「ネズミもすなる『思いやり』というもの、人間の我もしてみむとて」 と言いたいところである。

 

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2011年12月13日

提灯記事の無茶苦茶な論理展開

世の中でネット配信される記事の中には、読んでもわけのわからない記事というのがある。今回読んだ internet.japan.com の "回答者の92.3%が好印象、新たなインターネットの楽しみ方 「テレビのネット接続」に関心高まる -- メディアインタラクティブ調べ" という記事も、そんな中の一つだ。

この記事は、家庭内での無線 LAN 利用が身近になったことを踏まえ、「従来はインターネットは "パソコンに繋ぐもの" だったが、デジタルテレビや据置型ゲーム機器などにもインターネット回線を接続できるようになり、インターネットの楽しみ方も大きく変わりつつある」としている。

そんな中で、調査会社のメディアインタラクティブが 18歳未満の子どもがいる 30代、40代の男女 300名を対象に実施した「無線 LAN に関するアンケート」という調査の結果を紹介している。

この記事ではインターネットへの接続方法として、「これまで多数派だった有線 LAN を無線 LAN がついに上回った」としているのだが、これがそもそも、我田引水が過ぎる。

記事中の円グラフを見てもらえば一目瞭然なのだが、調査結果は「有線 LAN で接続して使用」 が 42.0%、以下、「無線 LAN 使用」 が 39.7%、 「有線・無線を併用」 が 17.0% となっている。

これを踏まえ、"「無線 LAN を使用」「有線・無線を併用」を合わせて全体の 56.7%が無線 LAN を使用" として、「有線 LAN 使用」 という解答の 42.0% を上回ったとしているようなのだ。

この足し算は正しいが、それなら一方で、有線 LAN 使用という解答にだって 「併用」 の 17.0% という数字を足して、59.0% としなければならないということを、故意かチョンボかしらないが、この記事のライターは無視している。

併用のケースを含めても、「これまで多数派だった有線 LAN を無線 LAN がついに上回った」とは、惜しいところで言えないのである。この記事のライターは、読者がこんな不細工なトリックに引っかかるとでも思っていたのだろうか。それとも、論理の不細工さに自分で気付いていないのだろうか。

そして、テレビへのインターネット接続に関して、「とても良いと思う」(10.0%)、「良いと思う」 (45.3%)、「まあまあ良いと思う」(37.7%) を足して、93.0% が「良いと思う」と答えているとしている。この設問は、よほどのへそ曲がりでもなければ 「良いとは思わない」 とは答えづらい誘導尋問ぽいが、まあ、いいだろう。

そして、9割以上がテレビのネット接続を「良いと思う」と答えているにも関わらず、実際のデジタル・テレビのインターネット接続は、「回答者でデジタルテレビを所有している人(64.7%) のうち、わずか 11.3%に留まっている」というのである。

これも「ちょっと待てよ」と言いたくなる。「デジタルテレビ」というのが 「地デジ対応テレビ」のことだとすれば、所有者が 64.7%というのは、いくら何でも低すぎるだろう。これでは 3人に 1人が「地デジ難民」ではないか。これはきっと、かなり前の時点での調査だ。

さらに、他のデジタル機器のインターネット接続率も出ているが、iPod 6.7%、iPad などのタブレットパソコン 4.3%、スマートフォン 20.3%、アップルTV 0.0% というのは、どう考えてもナンセンスだ。タブレット端末所有者の 9割以上、スマホ所有者の 8割近くがネット接続していないなんて、そんな馬鹿な話があるはずないではないか。

「所有率」と「ネット接続率」とがどこかでゴチャゴチャに紛れてしまっているとしか考えられない。地デジ対応テレビ所有率が 64.7% だった頃の、各デバイスの「所有率」としてみると、なんとなく「そんなところかも」という気がする。いずれにしても、市場調査結果としてはほとんど当てにならないということだ。

この記事はつまるところ、デジタル機器の所有者でもネット接続率はとても低く、それは無線 LAN 接続設定の面倒くささによるものなので、@nifty が展開している「ホームネットワークスタートキャンペーン」という、家庭訪問による無料の無線 LAN 接続設定サービスを利用するといいでしょうという、絵に描いたような提灯記事になっている。

宣伝としての結論に強引にもっていくために、途中経過は無茶苦茶になっているというわけなのだね。

 

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2011年12月12日

アレルギー性の咳が解消

近頃、我が超スモール・オフィス(最近は「コックピット」と呼んでいる)で、PC に向かって仕事をしている間、やたらと喉がいがらっぽくなって咳が出ていた。風邪を引いたのかもしれないと思い、必殺の葛根湯を飲んでも収まらない。

不思議なことに、咳はコックピットで仕事をしている時によく出るのだが、そのほかではあまり出ない。それで「これはコックピット内にアレルギーの元があるのではないかと」と、ようやく気付いた。私はこういうことって鈍いのかしらん。

それで今日、デスク廻りを徹底的に掃除したのである。窓を開け放して掃除機をかけ、デスクに堆積した細かい塵まで拭き取り、さらに布製の椅子のクッションを念入りに払い、掃除機をびっしりとかけた上で、日向で虫干しした。

するとなんと、咳がちっとも出なくなったのである。やっぱり、私のコックピットには、そしておそらく椅子の布張りやクッションの中には、アレルゲンとなるダニやらなにやらがいたみたいなのである。そしてそれが、掃除機をかけて日干ししただけですっかり減少してしまったようなのだ。

たったこれしきのことでこんなに楽になるのなら、どうしてもっと早く気付かなかったのだろうと思うが、どうも時節柄、風邪を引いたのかと思いこんでいたのが痛恨である。固定観念にとらわれすぎるとろくな事がない。

何だかわからないが、やたらと咳が出てしまうという方は、単純に風邪だと思いこまずに、周囲の布張りやカーペット、クッション、布団などに徹底的に掃除機をかけてみることをお勧めする。きれいさっぱり治ってしまうかもしれないから。

 

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2011年12月11日

「々」 は 「のま」 というんだとばかり思ってた

"「々」の読み方" というページを見つけた。私は「々」は「のま」というんだとばかり思っていた。カタカナの 「ノ」 という字と 「マ」 という字を組み合わせると 「々」 になるから、昔からそう呼ぶのだと信じて疑わなかったのである。

ところが、世の中ではそれはマジョリティではないようなのだ。上述のページでは、「おどり字」とか 「繰り返し記号」とか 「じおくり(字送り?)」とかいう言い方が紹介されている。ちなみにMS-IME では「どう」で変換され、Mac の「ことえり」では「じおくり」で変換されるそうである。試してみたら、ATOK でも「どう」で変換される。へえ、知らなかった。

私が「々」を「のま」だと思っていたのは、私がパソコンより前に使っていたワープロ専用機の OASYS で、「々」 と入力するときには「のま」と入れて変換キーをパンチすればよかったからだ。それを知らないと、わざわざ「人々」とか入力して初めの字を消去するというめんどくさい作業をしなければならない。

ところが、ワープロを卒業して PC を使い始めると、MS-IME でも ATOK でも、デフォルトでは「のま」で「々」に変換されることがないということを知って愕然とした。それで私のユーザー登録辞書には「のま → 々」がしっかりと入っている。どうにも「どう」で「々」に変換させるというのは馴染めないのだ。

Wikipedia では、「同の字点(どうのじてん)」というのだとして、次のように説明してある(参照)。

由来は、「同」の別字体である「仝」が変化したというものや、二の字点が変化したというものなど、諸説ある。漢字のように見えるが、あくまで反復記号の一種であって漢字ではなく、読みは無い。

「二の字点」というのは、あの「く」を長くしたような記号である。あれって、横書きでは使いづらいよね。「々」は OK だけど。

いずれにしても「人」を繰り返して「人々」にして複数形にし、"people" という意味にするなんて、なかなかシンプルな発想だよね。ヨーロッパ語圏では、例えば英語では "men" という複数形があるから、 "man man" なんて言う必要がないし、そんな発想はお恥ずかしいという気分なのだろう。

 

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2011年12月10日

Facebook よりも Twitter の日本

モスクワで下院選挙での不正疑惑に抗議して、3万人規模のデモが行われたという。アラブでの反政府行動や、アメリカでの "Occupy Wall Street" もあるし、あの中国だって水面下ではかなり反体制運動が進展しているらしい。なんだか世界中で現体制への不満による抗議行動が高まっている。

その背景には Facebook を利用した世論の高まりがあると言われている。私なんかそんな空気に接すると、1960年代後半に盛り上がった反体制運動を、ノスタルジアとともに思い出したりする。あの頃は Facebook なんてなかったけれど、その盛り上がりは今の比じゃなかった。

ただあの頃は、反体制運動に参加する若者に、切羽詰まったものがなかった気がする。経済は文句なしで右肩上がりだったし、明日はきっと今日よりいい日になると、みんな思っていた。どじっても逃げ場はいくらでもあった。少なくとも 「閉塞感」 はなかった。運動に参加すれば、未来は切り開けると思っていた。

しかし今、あの頃と決定的に違うのは、「切羽詰まっている」 ということである。止むに止まれず腰を上げたという感じなのだ。閉塞感たっぷりなのである。「なんとかせんと、明日はないぞ」 という感じなのだ。

それが、我が日本であまりこうした運動が盛り上がっていない要因でもある。日本では 「どうにもならんけど、とりあえず、明日はある」 という、とりあえず、それほど切羽詰まってはいない状況みたいなのである。

Facebook よりも Twitter でジョーク混じりのつぶやきをしていられるだけ、まだましだと言えるかもしれない。

これが幸いなのか、あるいは、ぬるま湯と思っているうちにどんどん冷えてしまって、肺炎を起こしてしまいかねない状況なのか、誰にもわからない。いずれにしても、日本はまだ呑気である。

 

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2011年12月 9日

オーストリアの国歌歌詞が改正されたんだってさ

"オーストリア国歌歌詞の改正合意 「娘たち」 加え男女同権に" という記事が目にとまった。こんな内容である。

オーストリア国民議会 (下院) は 7日 「偉大な息子たちの故郷」 との一節がある同国国歌に「娘たち」を加える改正に正式合意した。来年 1月 1日から「偉大な娘たち、息子たちの故郷」との新たな歌詞が歌われる。

Wikipedia で歌詞全文の日本語訳をみると、こんな感じである。(原文はドイツ語だそうだが、私はドイツ語は挨拶して御礼を言って、三つまで数えるぐらいしかできないので、原文はパス)

山岳の国、大河の国
田園の国、聖堂の国
槌の国、未来豊かな
偉大な息子たちの故郷
美の感覚により称えられる民
大いに賞賛されるオーストリアよ

この上から 4行目の歌詞が、これからは 「偉大な息子たち、娘たちの故郷」 と歌われるというわけだ。男女同権というポリティカル・コレクトネスの視点からすれば当然の変更だろうが、保守派には戸惑いも大きいようだ。記事は次のように結ばれている。

極右の自由党の女性議員は 7日「非文化的な行為だ」と改正反対を主張。他の極右政党の議員も「われわれは国歌を歌いたいように歌う」と反発した。

オーストリアの国歌はそれほど古いものではなく、1946年から(ということは、戦後まもなくから)歌われてきたものであるらしい。ということは、65年の歴史しかない。たった 65年の歴史でも、こんなにも抵抗がある。

で、突然だが私は、5年ちょっと前に書いた自分の記事を思い出した。"「法律以前」なら、法で縛るな!" という記事である。 一連の国旗国歌関連の訴訟問題で小泉元首相が「法律以前の問題」と発言したことに賛意を評した上で、次のように述べた。

だって、こんなことは別に法律で成文化しなくてもよかったじゃないか。国際的にもずっと前から、日本の国旗は日の丸で、国歌は『君が代』と、認識されていたではないか。だったら、慣習法的に、そういうことにしておけばいいではないか。

第一、成文法よりも慣習法の方が強いのである。成文法だと、ある日突然、国会で別の旗を国旗にし、別の歌を国歌にする法案が通ってしまうことだってあリ得るのだ。慣習法だったら、そんなことはない。長年の伝統は、容易には覆されない。

私はオーストリアの国歌歌詞改正については、「それもありだよね」という立場だが、万が一にも『君が代』の歌詞が、法律で変えられるなんてことになったら、猛烈に反発するだろう。

 

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2011年12月 8日

「かゆずし」 という食べ物

昨日の夕方、階下から妻が 「今、BS で、酒田の『かゆずし』 っていう食べ物のことやってるわよぉ」と呼ぶので、「そりゃ一体何のことだ?」 と思いながら降りていくと、突然 「あなた、『かゆずし』って食べたことある?」と聞かれた。

「何それ? 食べたこともなければ、聞いたこともないよ」
「だって今、テレビで『酒田のかゆずし』って特集をやってるのよ。とにかくご覧なさいよ」

というわけで、BS プレミアムの 「にっぽんごはん紀行」 という番組をみると、なにやらなつかしい庄内弁が聞こえる。「かゆずし」というのは、戦前までは酒田でよく食べられていたご馳走だったが、戦後はほとんど途絶えてしまい、作る人とてなくなってしまった「幻の食べ物」であるようなのだ。

「幻の食べ物っていうんじゃあ、食べたことがあるわけないよ。本当に、『かゆずし』という名前も初めて聞いた」
「まあ、じゃあ、どんなのか、よく見てみなさいよ」

番組では、子供の頃「かゆずし」というのを食べたことがあるというおじさん(ごめん、名前は忘れた)が、「もう一度食べてみたい」と熱望する場面から始まり、次に、やはり子供の頃に食べた味の記憶から今の世にそれを再現させたというおばさんが登場した。

このおばさんは、調べてみたら青塚光子さんという人だと判明した。酒田の地方誌 "Spoon" に登場している(参照)。郷土料理を作らせたらひとかどの腕前の人らしい。光子さんが作ったのは、麹で発行させた御飯に数の子、銀杏、昆布、ゆずを入れたものだ。「なれずし」の一歩手前みたいなもので、ほのかな甘みがあっておいしいらしい。

これ以上は、私がここでくどくど説明するより、上記のリンク先に飛んで、光子さんのレシピをご覧いただくのが早いだろう。とにかく結構おいしそうなのである。ちなみに、私たち夫婦の結婚式の時の媒酌人も青塚さんという人なのだが、親戚かしらん。

で、番組は、私が今月 4日の和歌ログで紹介した本間美術館で、この「かゆずし」の試食会が行われるところで終わりとなる。みなさん満足そう、いやそれ以上に、幸せそうな表情である。

で、この試食会の場面には本間美術館の館長さんも混じって、おいしそうに食べていたのだが、実はこの人、私の又従兄弟の旦那なのである。4日も会ったばかりなのだが、そんな話はしていなかったじゃないか。

今度酒田に行ったら、「かゆずし」ってどんな味だったか詳しく聞いてみようと思う。

 

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2011年12月 7日

日本語音声入力はここまで来たのか

iOS 5 には "Siri" という音声認識システムが搭載されていて、マイクに向かってしゃべるだけで、いろいろなリクエストに応えてくれる。例えば録音されている中から "Imagine" を聞かせてくれと言えば、ちゃんと Imagine が聞こえてくるし、"Wake me up at five tomorrow morning." と言えば、5時にアラームをセットしてくれる。(参照

FM トランスミッターを使って車の運転中に音楽を聴いていて、曲を変えたくなったときなど、画面をタッチしなくても、iPhone のマイクに向かってしゃべるだけでいいので、とても便利そうだ。

ただ、この Siri は今のところ、英語、ドイツ語、フランス語のみの対応で、日本語、中国語、韓国語、イタリア語、スペイン語には来年中に対応すると発表されている。私としては英語でもなんとかいけると思っているのだが、iPhone 4S 以後のハードウェアでないと対応していないので、私の iPhone 4 では、残念ながら使えない。

で、iPhone 5 に機種交換するまでのつなぎというわけでもないが、既存の音声認識アプリをインストールしてみた。iPhone のオンスクリーン・キーボードでは、テキスト入力が快速でできないというストレスがあるが、音声認識が使い物になるなら、メールを出す時や、出張先のホテルでのブログ更新などに使えるかもしれないと思ったのである。

導入したのは「音声認識メール クラウド」というアプリで、今は円高のおかげなのか 100円を切って 85円で購入できる。インストールして、どんなものか早速試してみた。サンプルとして使ったのは、私の昨日の記事の最初の部分である。こんなテキストだ。

庄内空港に、一部ではとても有名になった大きな看板がある。そこには 「庄内平野と生きる MAETA」 とある。地元の有力企業、前田製管の看板である (参照)。そしてその看板の下の方には、次のように書いてある。

「米のうまいところに悪い人はあんまりいません」

しゃべるスピードはあえてとくにゆっくりというわけはなく、ごく普通のスピードというか、私はやや早口なので、少しは早めだったかもしれない。なお途中の "MAETA" は 「エムエーイーティーエー」 と読んだ。カギ括弧や括弧は、「カギ括弧/カギ括弧閉じ」 「括弧/括弧閉じ」 と録音し、これらの部分はさらに早口っぽくなったと思う。

認識結果は次の通り。「これなら使える」 とみるか、「こんなんでは、まだまだ使い物にならない」とみるか、それは人によって評価の分かれるところだろう。

庄内空港に一部ではとても有名になった大きな看板がある。そこには「庄内平野と生きるmk 210」とある。地元の有力企業前田製菓の看板である(参照)。そしてその看板の下のほうには次のように書いてある。「米の米どころに悪い人はあんまりいません」

「エムエーイーティーエー」が「mk 210」になってしまったのは、意味不明(エムケー に・いち・れい」とでも聞こえたのかなあ)で、「前田製管」が「前田製菓」になったのは、変換ソフトがクラウドの中に、より有名な既存の固有名詞をデータとして持っていたからだろう。

かなり早口で録音したはずの「カギ括弧/カギ括弧閉じ」「括弧/括弧閉じ」がきちんと変換できていたのは満足だが、「米のうまいところ」が 「米の米どころ」になったのは、まったく意味不明だ。

とまあ、こんなような誤認識はあるが、私としては「これ、使えるかも」と思った。期待以上の精度とスピードである。日本語の音声入力もここまで来たのかと感心した。大分昔に試してみた何とかいうシステムは、まったく使い物にならなかったから、これはかなりの進歩である。

これをメールやブログ更新の下書きとして使い、要所要所を手入力で修正すれば、かなり楽に長文が入力できるだろう。もちろん、ごく短いテキストなら手入力の方が速いし、普通のキーボードさえあれば、私は音声入力より快速で入力できるから、常に iPhone に向かってぶつぶつ呟こうとは決して思わないが。

 

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2011年12月 6日

「米のうまいところに悪い人はあんまりいません」

庄内空港に、一部ではとても有名になった大きな看板がある。そこには「庄内平野と生きる MAETA」とある。地元の有力企業、前田製管の看板である(参照)。

Maetaseikan

この看板の下の方には、次のように書いてある。「米のうまいところに悪い人はあんまりいません」

これ、なかなか素晴らしいコピーだと私は思っている。「米のうまいところに悪い人はいません」と言い切ってしまうと、インパクトはあるかもしれないが、ウソになってしまう。そんな白々しいウソは言えない。だから「あんまりいません」と、庄内人は控えめに言う。

これを見ただけで、庄内人はいい人たちだとわかってもらえると思う。

今日は長々と運転して帰ってきたので、このくらいで失礼。

 

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2011年12月 5日

究極の他人事気分

"読売グループが清武氏を提訴「巨人の名声踏みにじる」" という記事を読んで、究極の「他人事(ひとごと)気分」になった。究極の他人事というのは、本当に気楽なものである。思いっきり無責任に傍観していられる。ただ、積極的に関わって注目しようという気にもならないから、これ以上の意味のあることを書く気にもなれない。

というわけで、今日は下手するとこれ以上何も書かずに、「はい、おしまい」なんてことになりかねない。

それではあんまりだから、「究極の他人事気分」を発端として、「無関心」ということついて書いておこうと思う。本当に興味がないというのは、批判的というよりも冷淡なものである。「嫌いより残酷なのは無関心」というのは、まさにその通りだと思う。

と、ここまで言ってはみたものの、今回の巨人の問題は、どうしても「どーでもいい」以上の思いは持てないのである。なんだか自分がとても冷淡な人間なんじゃないかという気がするほどだが、いや、そうではない。書き進めているうちに、たった今、結論に思い至った。

それは「どう考えても遠離っている方がいい」というケースは思いのほか多いもので、巨人軍の問題はその一つであるということだ。下手に関心をもつと、自分までそれに染まって卑しくなってしまいそうだ。

 

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2011年12月 4日

「そむ」って何だ?

3年半以上前に「変てこな写真コレクション」という記事を書いて、その筆頭に某蕎麦屋の看板を載せた。

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「そば」ではなく、「そむ」と書いてある。「馬鹿だなあ、あれは『そば』と読むんだよ」と言われるかもしれないが、これでは決して「そば」とは読まない。「そば」と読むためには、下のような字でなければならない。

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最後の字は、決して「む」という字ではない。「者」という字を崩した変体仮名なのである。明治以後でこそ、平仮名は「一音一字」の原則になったが、その前は平仮名は何百文字もあった。例えば今の「あ」という字は「安」を崩してできているが、昔はその他に「阿」「惡」「愛」 などの漢字を崩して「あ」と読ませていた。

ちなみに真ん中の「そ」と読ませる字は「楚」という漢字を崩した字である。そして現代の「そ」の字は「曽」を崩して定着したものだ。万葉仮名の昔から、漢字を表音文字として使うのは日本人の得意技で、「夜露死苦」なんて表現のコンセプトは今に始まったことではない。こいつを草書に崩してしまったら、立派な変体仮名だ。

で、「者」という字を崩して「は」と読ませる字は、実は下図のような感じなのである。ちなみに島崎藤村の『夜明け前』の原稿で、「木曽路はすべて山のなかである」 という冒頭の「木曽路は」の「は」は、下の右側の字体で書かれている。さらに「山のなか」の「な」は、「奈」を現代の平仮名の字体にまで崩さない形で書いてある (参照)。

下図の左側の 「は」 と読ませる字に濁点を表す 「点々」 が付いたので、「む」だと思ってしまう人が増えてしまったのだ。

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ちなみに「む」という平仮名は「武」という漢字を崩してできている。「そんなぁ!」と言われるかもしれないが、「武」という字を崩すと「む」になるのである。なったからこそ、この「む」という平仮名ができたのである。「む」 いう字の最後の点は、「武」という字の最後の点なのである。

私は「そのうち、日本中の蕎麦屋が『そむ屋』 になってしまうんじゃないか」と心配していたが、ついに乾麺のパッケージ・デザインにも「そむ」が進出してしまった。こんなんである。もう、完全に 「とろろそむ」 になっている。

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ああ、びっくりである。これ、どうにかならんものかなあ。

 

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2011年12月 3日

政治家の失言問題と、「上品なジョーク」がウケない風土

一川防衛大臣が、身内の民主党内部からさえ辞任要求されかかっている状況なんだそうだ。前原政調会長が1995年の米兵による沖縄少女暴行事件について、一川大臣が「詳細には知らない」と国会答弁した件で、「勉強不足が過ぎる」と厳しく批判したという(参照)。

本当に日本という国は、政治家が自らの余計な発言で辞任に追い込まれるケースが多すぎる。私は昨年 2月の石井一参院議員の「島根・鳥取は日本のチベット」発言に関連して、「本当にもう政治家って、こんなことを公の場で言ったらおかしなことになると決まっているのに、どうして言ってしまうんだろう」と絶望的な疑問を呈した。(参照

しかし、自民党政権の時代からこれほど政治家の「問題発言」とか「失言」とかいう話が連続するとなると、これはもう、何か構造的な問題があるとしか思えない。いや、きっとそうに違いないのである。

それについて、上述の「島根・鳥取は日本のチベット」発言問題を論じた記事で、私は次のように書いている。

前の「女性、産む機械」論でおかしなことになった自民党の柳澤伯夫さんの場合もそうだが、こういう人たちって、こんな馬鹿馬鹿しい発言がその場でウケるものと期待して、わざとそんな言い方をしているんじゃないかと思われるフシがある。

そんな言い方をする必然性のある文脈では全然ないのに、あえてウケを狙って、「私は冗談ぽい言い方や柔らかい例え話もできる政治家なんですよ」というところを見せて、ポピュリズム的な人気を得ようなんて思ってるんじゃないかという気さえするのだ。

一川さんの「防衛問題には素人だから、これが本当のシビリアン・コントロール」なんていう発言もそうなのだが、ポピュリズム的ウケを狙ってスベっちゃってる場合が多いような気がするのである。要するに、そんな馬鹿な発言をした当人の悪趣味ということは基本にあるのだが、そんな悪趣味を言外に要求する有権者もやはり悪趣味なのである。

そしてその、政治家と有権者の悪趣味の合わせ技の結果による「問題発言」を、「待ってました」とばかりにマスコミにリークする人がいる。

つまり、有権者と政治家の悪趣味の合わせ技と、リーク好きのオッサン(あるいはオバサン?)というのが、政治家失言問題の二大要素だという気がする。そしてマスコミは前後の文脈をカットして、「問題発言」とか「失言」 とか言われる部分だけ取り上げるのだから、そりゃもう大変な「トンデモ発言」になってしまうのである。

これはもう、政治風土の問題である。政治家のオッサンたちは講演会とかになると、「自分の支持者たちがこんなに集まってくれたのか」と、ちょっといい気持ちになり、ついサービスし過ぎて下世話なレトリックを行使したくなるみたいなのだ。そしてそんな中に、マスコミへの「ご注進好き」な人が混じっていると、「失言問題」は完成する。

しかしこんなことが続きすぎると、多くの政治家が警戒して、率直な発言を控えてしまうだろう。しかし本当は率直な発言が問題なのではなく、下世話な、あるいはレベルの低すぎるレトリックが問題なのだということは、過去の多くの「失言問題」から得られる教訓だ。

リップ・サービスしたかったら、少しは上品なジョークを多用すればいいという気もするのだが、私の経験から言わせてもらうと、日本のオッサンたちには上品なジョークって、全然受けないのである。受けないどころか、下手すると「気取ってる」なんて受け取られかねない。ウケを狙うとどうしても、下世話に落とさなければいけないというようなところがある。

つまり我が国の大衆は下世話を欲しながら、まともに下世話で応えられると「けしからん」といきり立つ傾向があるのだよね。これはもう、なかなか困ったことなのである。こんな状況だから政治家の方でも、なかなか上品なジョークが上手にならない。

そうならないために、上品なジョークをちゃんと理解してウケてあげなきゃいけないと思うのだが、どういうわけか、やっぱりなかなかウケないんだよね。

 

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2011年12月 2日

『BELIEVE (ビリーブ)』 という曲の歌詞に関するもやもや

『BELIEVE(ビリーブ)』という歌がある。作詞作曲は杉本竜一という人で、NHK の「生きもの地球紀行」の 3代目エンディングテーマとして、1998年に発表されたのだそうだ。学校の卒業式なんかではよく歌われているらしく、最近の若い子なら大抵歌えるというぐらい、かなり有名な歌である。

この歌はなかなかいい歌である。それは私も認める。ところが私のいつもの悪い癖というか、何というか、どうも細かいところにこだわってしまうと、どうにもグジグジしてしまうのだね。我ながら困ったものである。

一体何にこだわってしまっているのかというと、歌詞の最後 「I believe in future 信じてる」というところなのだ。意味としては「信じてる」と日本語で言っているほどなのだから、「将来的には信じよう」というのではなく、「未来を信じてる」ということだ。"I will believe" じゃなく、現在形なのだから、それは確実である。

で、単なる "believe" ではなく "believe in" ということなので、それは単に 「信じてる」 というだけでなく、「善きものとして、その価値に信頼を置く」というような、ちょっと強めのニュアンスを含むだろう。つまり、「未来、将来」というものを全面的に信頼するという、とても希望的な歌なのである。

ところが、そうであればこそ、私としては "future" という単語の頭には、どうしても "the" という定冠詞を付けなきゃいけないと思ってしまうのである。こういう場合の  "future" は、定冠詞とワンセットであると、教えられているのだよ。これ、念のために辞書で調べたけど、間違いないようなのだ。

用法として  "the" を付けない場合もないではないが、それは「誰それの将来」とか「○○プロジェクトの将来性」とか、あるいは「明るい未来」とか、そんなような 「要説明」 の限定的な "future" であると、まあ、私の経験ではそんな認識なんである。

合唱曲として「未来を信じてるぞ!」と高らかに歌い上げるなら、やっぱり "I believe in the future" なんじゃないかなあと、私は思ってしまうのだ。というか、私ならむしろ  "I believe in our future" (俺たちの未来を信じるぞ!)ぐらいにしたいところだ。

これって間違いかなあ、やっぱり "I believe in future" でもおかしくはないということなのかなあ。米国在住の emi さんあたりに教えて頂きたいところである (と、おずおずと呼びかけておこう)。

 

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2011年12月 1日

自転車の歩道走行について、またまた考える

先月 6日の "「自転車は車道」の原則は、地方都市ではまったくの愚策" という記事についてさらに深く考えるため、一昨日、"「自転車の車道通行」ということの、理屈と実感" という記事を書いた。この中で私は、地方都市、もっと言えば歩道なんてあっても、歩行者なんてほとんどいない地方道では、やはり自転車は歩道を走る方がいいと書いた。

ここでもう一度念のためにはっきりさせておかなければならないのは、前節の繰り返しになるが、私が「自転車は歩道を走る方がいい」と主張するのは、「地方都市、もっと言えば、歩道なんてあっても、歩行者なんてほとんどいない地方道」 でのことである。

都会在住の方は「そんな道路があるのか?」と不思議に思われるかもしれないが、ちょっと田舎に来てみればわかる。地方都市ではそんなような道路ばっかりなのである。歩道に歩行者があふれ、自転車がその歩行者の間を危なっかしく縫って走り、一方車道はいつも渋滞気味で、車がのろのろ走っているというのは、大都会特有の現象なのである。

大都会の歩道は結構幅が広く、車道との間に小洒落た並木や植え込みがあったりする。そんな道路では、なるほど、自転車が歩道を走ったら、車道の車からはとても認識しにくく、その認識しにくい自転車が、歩行者よりずっと速いスピードで突然交差点に出現するということになるだろう。それはその通りだろう。その理屈は十分に理解した。

しかし、地方都市の田舎道では様相が全然違う。

地方都市では新しく建設されたバイパスや地方幹線などを除けば、ほとんどの地方道では道幅(全幅)そのものがとても狭い。車線も当然狭くなるので、大型トラックやバスは常に右側車輪でセンターラインを踏んで通行しなければならないようなところがいくらでもあり、それどころか、センターライン超えなければならないところだってある。

都会でも住宅街の道路は狭いが、そこに大型のバスやダンプカーがどんどん入ってくるなんてことは滅多にない。しかし地方都市では、狭い道路を大型車両がどんどん走るのである。(田舎ほど砂利運搬なんてことが多いからね)

我が家のある住宅団地からちょっと出た狭い県道なんか、見に来てもらいたい。ダンプカーがひっきりなしに通るのだよ。センターラインを踏みながら。交通事情に関しては、田舎というのは今は、ちっとものどかじゃないのだ。

そんな道路では、歩道がないことも多く、あったとしてもブロックで区切られただけの車道と同一平面で、そして人が 2人すれ違うのもやっとという狭さのところが多い。小洒落た並木や植え込みなんてものは、どこの世界のお話かということになる。

そんな状況なので、「車道を走る車からは、歩道を走行する自転車が認識しにくい」なんてことは全然ない。それどころか、自転車が歩道を走っていても、車はそのすぐそばを通り過ぎるのだ。

そして、狭い歩道で自転車同士がすれ違う時など、後ろも確認せずに突然車道に飛び出してくるのもおなじみのケースである。そんな時にいつでも避けることができるように、車の方で常に気を付けている。

繰り返すが、地方のほとんどの道路では、歩道を走る自転車が車から「認識しにくい」なんてことは、全然ないのだ。それどころか、自転車が車道を走ろうが歩道を走ろうが、車を運転する者としては、常に意識せざるを得ないのである。

それだからこそ一方では、自転車の方も車道を走行するのが怖くてたまらない状況でもある。大型車両が常に右側車輪でセンターラインを踏んでいなければならないような幅しかない、つまり自らの居場所がない車道を自転車で走れなんて、そんな不人情なことは、私にはとても言えない。それが地方都市での実感だ。

自転車が車道を走ると自動車の運転者がストレスを感じるという私の主張に対して、一昨日の記事では「運転者のエゴ」と指摘するコメントがついたが、これは「エゴ」とは言い切れないと私は思っている。

ごく客観的な状況として、とにかく道路の幅が狭いので、自動車は自転車をスレスレの間隔で追い越さなければならない(当然、その際には十分にスピードを落とすが)。しかし 1台の車が自転車を追い越すのを躊躇すれば、その後ろには対向車線が空いて追い越しが可能になるまで、時速 10数キロ程度の渋滞が続く。これは現実によくある現象だ。

しかし 1台の自転車が、自動車のパレードを延々と先導するというのは、ある意味社会的損失だ。それを避けたいと願うのは、決して自動車運転者のエゴというわけではなかろう。自転車側でもそんな漫画的事態の主人公になるのは嫌だから、自然の反応として、自ら歩道に逃げ込むことになる。

それでも、自転車はあくまで車道を通行し、車はその後ろを我慢して時速 10数キロで延々と進行しろ(先頭の自転車の前はガラ空きなのに)というのは、机上の空論でしかない。厳密にはエゴかもしれないが、これは否定してもしきれないエゴである。

要するに、地方都市の道路では多くの場合、自転車の車道走行を可能たらしめる物理的な車線幅がないのだ。私は車に乗っているだけでなく、自転車に乗ることだってあるが、そんな物理的に幅が足りない車道を走るのはまっぴらご免だから、当然のこととして歩道を走行する。

「健康のためなら命も惜しくない」というジョークを私はよく持ち出すが、「遵法のためなら危険も顧みない」なんてことは言いたくないのである。これは決して私ばかりではなく、近所の人に聞いてみてもほとんど同様だ。中には「自分は法規を守りたいから車道を走るが、本心を言えば、怖くてたまらない」という人もいたが。

こんな状況だから、自転車がガラ空きの歩道に逃げ込みたくなるのは、当然なのである。私は、地方都市における最も単純なソリューションは、自転車が歩道を走ることだと思っている。もっと言えば、どうせ誰も通らない歩道をカラ空きのまま放っておくのはもったいないから、実質的に自転車専用道として使えばいいじゃないかということだ。

自転車が歩道を走行するのは、車から認識しづらいから危険という指摘は、地方の道路においては、上述の如くあまり当てはまらない(だって、本当に十分認識しやすいというより、意識し続けざるを得ないのだもの)から、もう持ち出す必要がないだろう。

ただ、歩道を実質自転車専用道とみなすのは、通学時間帯(ほんの 30分ぐらいのものだ)などは除かなければならないという条件付きになることは言うまでもない。

最後に、自転車に乗るすべての者も車両を運転しているのだという自覚をもつべきだとうことには大賛成である。大賛成だが、そして既に十分に高い意識をもった自転車愛好者には甚だ恐縮だが、私はそれが早期に実現されると期待しても無理だと実感している。

とりあえずは、「そんな意識で車道を走ったら、あんた自身の命が危ないから、どうか歩道を走っておくれ」と言いたいのである。

繰り返しになるが、普段は自動車を運転して、「車両意識」 は十分にもっているつもりの私自身でさえ、車道を自転車で走るのはコワイと思うほど、地方都市の道路は物理的な幅が狭いところを大型車両がどんどん走るのだし。

 

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