年賀状を書くことの負担と楽しみ
一昨日の「年賀状に関する、ちょっと切ない他人事気分」という記事にも、「今年の 10月に父が亡くなったので、来年の年賀状は書かない。だから、年末になってもなんとなく落ち着いている。今頃多くの人は、必死になって年賀状を書いているのだろうと思うと、何となく不思議な気持ちにすらなる」 と書いているように、ちょっと特殊な気分の年末である。
いや、「特殊な気分の年末」というより、「特殊な気分になって当然の年末に、通常モードでいることの不思議さ」と言った方がいいかもしれない。とにかく、あんまり年末という気がしないのである。
母の死んだ 4年前の年末はどうだったのかというと、上述の記事中のリンクから飛ぶ記事に、次のように書いている。
今年もずいぶん押し詰まってきたような気がしてはいるのだが、いつもの年と比べると、何だか切羽詰まった気がしない。
何でだろうと考えてみると、これは一重に、年賀状を作らなくていいという、今年の特殊事情によるものだと気付いた。5月に母が亡くなったので、まだ喪中なのである。
「新年のご挨拶を失礼させていただきます」という喪中葉書は、先月のうちにさっさと出してしまった。おかげで、今年の暮れは 「あぁ、まだ年賀状を作ってなかった!」という強迫観念にさいなまされずに済んでいるのである。
ふぅむ、やっぱり同じだ。年賀状を書かなくていい年末というのは、かくも心安らかな、そしてそれ故に、何となく妙な気分なのである。「こんな呑気にしていて、いいのかしらん」 といった感じなのだ。
思えば年賀状を書くという仕事は、新年を迎えるにあたっての重要な助走的役割を果たしている。年が明けてもいないのに、「明けましておめでとう」 なんてことを書いたり印刷したりしているうちに、無意識のうちに我と我が心を洗脳して、「ああ、年が明けるんだ、新年になるんだ、よくよく押し詰まってしまったんだ」と、思いこんでしまうのだ。
年末になると人は、年内の仕事のけりをつけたり、大掃除をしたり、おせち料理の準備をしたり(あるいは買ったり)と、けっこういろいろなことをこなさなければならないが、年賀状を書くという行為ほど非日常的なことはないような気がする。
そんな余計な仕事があるせいで、12月の 10日を過ぎた頃から「ああ、書かなきゃ、書かなきゃ」と、心の片隅に何かに追いつめられたような強迫観念が生じて、それが日を追うごとに増大する。20日を過ぎる頃には、かなりの心理的負担となる。
年賀状を交換するという慣習さえなければ、せいぜい年末の最後の 3日間ぐらいになって、ようやく 「ああ、押し詰まったな」 という気がする程度だろうと思うのだ。ところが年内に年賀状を書くなんていう慣習のために、「押し詰まり感」が半月以上も早まってしまっているのである。
そんなに負担なら、年賀状なんていっそ書かなければいのにと思われるかもしれないが、なぜか私は、年賀状には凝ってしまう方なのである。毎年 (月並みではない程度に) 意表をついたオリジナル・デザインで、しかも和歌を一首添える。そして最後に、手書きの一言を添える。結構手間暇かけるのだ。(今年の正月までのサンプルは こちら)
それが楽しみであり、同時に心理的負担なのである。この心理的負担というのは多分、下手に懲りすぎるから増大しているのかもしれないが、来年の今頃はまた、強迫観念を楽しむことになっていることと思う。
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