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2012年2月に作成された投稿

2012年2月29日

今日は雪だったが

今日は関東に雪が降った。日本の南岸沿いを低気圧が東に進み、気温が低いために雨ではなく雪になるという、典型的な「春の雪」パターンである。南岸沿いの低気圧が雪をもたらしただけに、つくば周辺よりも東京都心の方が積雪が多いというのも、春の雪の特徴だ。

そして低気圧が行ってしまうと翌日は天気が回復し、太陽の光が雪に反射して眩しくなるというのも、いつものお約束である。降り始めたらしばらくは降り続くという日本海側の雪とは、そもそものメカニズムが違う。

で、明日はお天気になって、最高気温が 14度ぐらいになるという。いつもの冬だと、ちょっと暖かい日には 13度とか 14度ぐらいになることだって、とくに珍しいわけじゃないが、今シーズンの寒さからすると、14度は天国のような暖かさだろう。

夜中から夜明けにかけても、気温はマイナスにならずに済みそうどころか、最低気温が 5度なんて言われているから、道路の凍結もあまり心配しなくてよさそうだ。とりあえずは、明日は天国気分を味わおう。

ところが、問題はその後だ。明日は天国でも、明後日からはまた、最高気温が一桁台の日が続く。東京都内は、来週からは二桁台になるらしいが、つくば周辺では、火曜日が 12度になるとみられる以外は、依然として一桁だ。

この分だと、彼岸を過ぎるまでは一進一退で暖かくなったり寒くなったりが極端な形で繰り返されるのだろう。近頃の気温はまともには捉えられないから、とにかく体調を崩さないように耐えていくしかなさそうだ。

 

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2012年2月28日

グループでホテルに泊まるとき

団体、あるいは団体とはいわなくても複数の人間のグループで宿泊予約した際の、ホテル側の部屋の取り方の違いについて書いてみたい。日本で複数の人間のグループがホテルの宿泊を予約すると、ほとんどの場合、同じフロアの続き部屋になる。それが当たり前だと思われている。

ところが欧米の場合だと、グループでもあえて部屋はバラバラに用意される。続き部屋でないのはもちろん、大抵はフロアまでバラバラの部屋になる。

日本人同士のグループでの欧米へのビジネス・ツアーで、泊まる部屋がバラバラに設定されていると、「どうしてまとまったフロアにしてくれないんだ、気が利かないなあ」などと不満をいう人がいる。しかし実は気が利かないのではなく、これはホテルが気を利かせてくれているのだ。

私は会議や研修などで、グループ同士でまとまった続き部屋に泊まらされると、ちょっとしたストレスになる。とくに隣の部屋に泊まるのが女性の場合などは、トイレやシャワーを使うにも気を使ってしまう。

ホテルの部屋の壁というのは、かなり薄いから、音が筒樹けとまではいかないまでも、相当に隣の部屋に響く。だから下世話な話だが、オナラをするにも気を使う。

いや、私自身はオナラの音なんか聞かれても別に構わないのだが、隣の部屋に泊まる知り合いの方が、私のオナラの音なんか聞きたくないだろうと思うのだ。

というわけで私としては、グループでの宿泊の時ほどバラバラの部屋にしてほしいと思う。ところがフツーの日本人、とくに 50歳以上の年代の人の多くは、そうは思わないらしい。離れた部屋を希望するなんて「水臭い」と思うようなのだ。

私に言わせれば、ほとんど一日中を一緒に過ごしたんだから、寝る時ぐらい、離れたところで勝手に寝てくれよと言いたいのだが、隣同士の部屋で寝る方が安心と思う人が案外多いようなのである。

オナラの音を聞かせつけてまで。

 

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2012年2月27日

「洒落」は、酒とは関係がない

PC のかな漢字変換機能に、今日ほど感謝したことはない。というのは、「洒落」という言葉の一文字目は、「酒」という字だと今日の今日まで思っていたのだ。この漢字のツクリの部分が、「酉」ではなく 「西」だったとは、考えたこともなかった。

このことを知ったのは、「洒落」という言葉の語源を調べたことがきっかけである。語源は苦労なく知ることができた。

語源由来辞典によると、「洒落」は「晒れ、戯れ」から来ているということのようである(参照)。布などが日に晒されて白っぽくなることから、洗練され、あか抜けた趣のある様をいうようになったという。似たようなことを現代では「しらける」などというが、時代によって受け取り方が違うものである。

上記のページの末尾に、「洒落」に使われる字は「酒」ではなく「洒」であるとの説明があり、それを読んだ私は愕然となった。そんなことは本当にまったく知らなかったからである。これまで「酒落」と書いて、知らぬ間に何度恥をかいたことだろう。

で、恐ろしいものでも見るように、自分のブログに「酒落」(サケオチ)で検索をかけてみたところ、なんとありがたいことに、1件もひっかからなかった。試しに「洒落」で検索してみると、数え切れないほどの記事が検索された。ということは、これまで ATOK がさりげなく気を利かせて、きちんと「洒落」に変換してくれていたのである。

「洒落」というのは元々は「しゃらく」と読む漢語で、「心がさっぱりして、物事にこだわらないこと」という意味なのだそうだ。室町時代以後に「され」が「しゃれ」に変化して、音が似ている上に意味合いもちょっと共通した趣があるので、「洒落」を当て字として使うようになったという。

ここまで来て、ふと思い当たることに「東洲斎写楽」がある。浮世絵師の写楽は、漢語読みで「しゃらく」という「洒落」に洒落たんだろうね。

いやはや、本当に、いくつになっても知らないことってあるものである。

 

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2012年2月26日

中国の iPad

iPad の商標権に関する問題で、中国広東省で、アップルの iPad の販売差し止めという事態になっているという。中国という国は iPad に限らず、こういうことをする国である。

中国の馬鹿な企業のせいで、広東省で iPad を買えなくなってしまったのは、中国人民の不利益に他ならないのだから、実に馬鹿馬鹿しい問題だ。個人的には 「ほっときゃいいじゃん」 と思う。中国人民が「俺たち、iPad を買いたいんだもんね!」と考えるなら、自ら行動を起こして恥知らずな企業をぶっつぶせばいいだけである。

以上。あまりにも馬鹿馬鹿しい問題なので、これしか言うことがない。

 

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2012年2月25日

「知らずに犯す罪」の重さ

今月 15日の記事でちょこっと触れた「知って犯す罪より知らずに犯す罪の方が重い」ということについて、もう少し書かせてもらう。

何かことをなすにあたって、本来は知っておくべき前提的事項を知らずにやってしまったために、へまをしでかしたり、誰かにちょっとした迷惑をかけてしまったり、あるいはそこまで行かなくても、誰かの手助けでようやく辻褄が合ったり、後始末ができたりすることがある。

こんな時、当然知っておくべき前提を知らずにやってしまったことについて、周囲に謝罪したり、手助けしてくれた人に対して感謝するのが当然だろう。しかしこの世の中では、この当然のことが案外当然でなかったりする。

不始末をしでかしておきながら、あるいは余計なことで人の手を煩わせておきながら、「だって仕方ないじゃない。そんなこと、知らなかったんだもの」と言って居直るタイプの人が、少なからずいる。

本来、当然知っておくべきことを知らなかったのは恥ずべきことなのだが、その手の人はそれを決して恥とは思わない。それどころか、後始末を手伝ってくれた者に、「知ってたんなら、初めから言ってくれればよかったのに!」などと責めたりまでするのである。

と、ここまで書くと、読者はおおよそ見当がつくだろうが、私はそうしたタイプの人の不始末の尻ぬぐいを、過去に何度かした経験をもつ。そして驚くべきことに、その尻ぬぐいをして感謝されたことは、一度もない。「初めから言ってくれなかったあなたが悪い」みたいなことを言われるのだから、驚くばかりである。

こちらとしては、まさかそんな常識的なことも知らずにコトに当たっているとは想像もつかないから、言ってあげようなんて発想すらない。ところが、無知な人はそれを責めるのである。そして困ったことに、別の機会に念のために常識的なアドバイスしてあげても、それをまともには聞かないのだ。逆にうるさがられてしまう。

経験則として、40歳を過ぎてもそれが直らない人というのは、誰がどう注意しても直らない。だから放っておいて、被害があまり大きくならない段階で、目立たずさりげなく後始末してあげるしかない。

というわけで、「知らずに犯す罪」を犯してしまう人というのは、確かに罪深いのだが、周囲の者にとっては、なかなか人生勉強になるところがある。

 

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2012年2月24日

ほんわかした季節を過ごしたい

昨日の土佐の快晴が、今日になって関東にまで移ってきたようで、気持ちのいい空である。ようやく春の陽気になった気がする。ところがこの辺りの週間天気予報をみると、今月末の 3日間はまたしても最低気温が -2~3度になるようで、まだまだ油断ができない。3月 1日の予報をみても、最高気温が一桁の 9度、最低気温が 0度だ。

このところ毎年、今の季節になると「春はまだか、春はまだか」と言っている気がする。暖冬の年でも彼岸過ぎまで寒くて、春の訪れが遅くなるのだ。

とくに昨年なんかは、3・11 の震災の後になっても寒風が吹きすさび、彼岸を過ぎても雪交じりの空に震えていた。もっとも、あの時は福島の原発で水素爆発があったりしたので、あの北西からの季節風がなかったら、放射能汚染はもっと内陸まで進んでいただろうという気がする。

津波などで家を失った人たちには、無情の寒さをもたらしたわけだが、大局的にみると放射性物質の内陸部への大幅な拡散を防いだと思われるので、あれはプチ神風だったという気がするのである。

今年はご覧の通り、本当にいつまでも寒い。そして「春はまだか」と言っているうちに、いつの間にかつかの間の春になり、ようやく春かと思っているとすぐに夏になる。それが最近の季節変化の常である。

そして夏がいつまでも長引き、「秋はまだか」と言っているうちに短い秋がようやく訪れ、あっという間に冬になる。その繰り返しである。前にも書いたような気がするが、春と秋のモデレートな気持ちのいい季節が本当に短くなって、天気が極端から極端に振れるようになった。

ほんわかした季節を、もう少し長く過ごしたいなあと思う今日この頃である。

 

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2012年2月23日

晴れ男復活

仕事で高知県に出張し、今戻ってきたばかりだ。昨日の朝までの天気予報では、今日の高知地方は一日中雨だったのだが、今日になってから午後から晴れると訂正され、本当に快晴になった。

実はちょっと自然の中での写真撮影が必要なことがあり、雨が降ったら滞在を一日延ばしにしなければならないかとも思っていたのだが、快晴になってくれたおかげでつつがなく終了した。自分の相変わらずの晴れ男ぶりに、我ながら驚いた。

実は先月、北海道に 2度行ったのはひどい地吹雪で仕事にならず、出直したためだった。自分の晴れ男伝説に翳りが見えたかとも思ったが、今回名誉挽回できた。これからも要所要所ではきちんといい天気になってもらいたいので、ホッとしている。

今日はかなり疲れたので、これにて失礼。

 

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2012年2月22日

Windows の自己矛盾

私も今年還暦になるんだから、結構な「年配者」と言えるかもしれないが、イメージとしてまだまだ若い気でいる。どんな時に若い気持ちになるかというと、文字通りの「年配者」(多分「団塊の世代」より上、つまり、68歳以上ってところか) に、PC の操作法を聞かれて教えてあげるときなんかである。

「これ、どうすればいいの?」と聞かれ、「それは、こう、こう、こうすればいいんですよ」と教えてあげると、年配の人たちというのは、100%と言っていいほど、その操作法をメモして覚えようとする。そんな時、私は「そんなことでメモなんかしちゃダメ。この類の操作は、この辺りをクリックしてみると、なんとかなるってな具合に、感覚で覚えるんです」 と言う。

すると年配者は「そうなのよね。ウチの息子が里帰りした時なんかも、私が操作法を聞いてメモすると、『メモなんかするな!』と、地団駄踏んで怒るのよ。でも、メモしないと、どうしても覚えられなくて」なんて言う。そうか、息子だったら遠慮がないから、本当に地団駄踏んで怒るだろう。

年配者がどんなふうにメモしているかを見てみると、"写真印刷のやり方 -スタートボタンをクリック -「ピクチャ」をクリック - 開いたウィンドウから写真をクリック -「印刷」をクリック ……" なんて、細かいことをきっちりと書いている。はっきり言って、こんな風な書き方をしているから、いつまで経っても覚えられないのだ。

そもそも、教えるこちらだって、"写真印刷のやり方 -スタートボタンをクリック -「ピクチャ」 をクリック - 開いたウィンドウから写真をクリック -「印刷」 をクリック ……" なんていうようになんか覚えていない。やってみたらこのような順序になるというだけで、実際に PC を触らずににこの通りに書いて教えられるかといったら、多分できない。

教える方がそんな風にはっきりと意識しているわけじゃなく、テキトーにさわったらこうなるという順序を、教わる方がそれしかないという風に固定的にメモなんかしたら、覚えられるわけがない。それこそ、MS-DOS 時代の発想によるやり方だ。

「そもそも、教える方だって、今、貴方がメモしたような明確な覚え方なんかしてないんです。触ってみて初めてわかるんですよ」
「まあ、だったら、どうしてそんなに上手に教えられるの?」
「だから、この類の操作は、メニューバーのこの辺りをクリックすればいいんだなということさえ見当がつけば、あとは Windows の方でメニューを示してくれるから、ちょこちょこと選んでいけばいいんです。こっちはどんなメニューが出てくるかなんて、正確には覚えてないんですよ」

そう言うと、相手は目を丸くして驚く。

「まあ、じゃあ、出たとこ勝負じゃないの」
「出たとこ勝負がうまく働くように、それなりにうまく設計されてあるんですから、心配せずにあちこちつつきまくって、慣れちゃえばいいんですよ。そうすれば、『ははあ、Windows ってやつのやり口は、大抵こんな感じなんだな』 とわかってきます」

と、ここまで説明してわかった。

MS-Office の 2007 以後のバージョンの使いにくさは、このメソッドがうまく作用しなくなったことによるのだ。「この類の操作は、この辺をクリックしさえすれば、メニューが示される」という信頼感が崩壊してしまったのである。「この類の操作は、一体どこをみればメニューがあるんだ?」と、いっぱしのベテランが迷ってしまう。

せっかくベテランになったのに、サプライヤー側の余計なお世話で、一挙に初心者にたたき落とされてしまったのだ。「Windows ってやつのやり口」を、Windows の産みの親が忘れてしまったからである。

Windows 8 になったら、その傾向がさらに強まるらしい。そうなってしまったら、Office の操作だけでなく、しょっぱなの OS 段階での操作でも初心者にたたき落とされてしまう。毎度言うことだが、これが車だったら、命がいくつあっても足りない。

iPhone と iPad のおかげで、アップル的世界の住み心地のよさを味わってしまった者としては、PC も Mac に乗り換えたいという思いがひしひしと強まってきている。

 

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2012年2月21日

オクラ、エリンギ、エンダイブ

「オクラ、エリンギ、エンダイブ」というのは、私が初めのうち、元々日本原産の日本語だと思いこんでいた野菜である。エンダイブに関しては 3年前に "「エンダイブ」 を巡る冒険" というエントリーで触れたように、「閻浮提」(えんぶだい: 「人の世」という意味)という仏教用語とごっちゃになっていて、漢字にしたら「閻提浮」とでも書くのだと思いこんでいた。

同様に、オクラ、エリンギは、「御蔵、恵稟木」 とでもいうような漢字がイメージされていたが、なんと、これらはすべて外来語だという。しかも西洋からの外来語だ。世の中、よく調べてみないとわからないものである。

エンダイブは上記の記事で触れたように、紛れもないヨーロッパ原産の野菜で、英語では "endive" と書く。「飛び込ませる」というような意味かと思ったが、本来はフランス語で「アンディーブ」というような発音らしい。

オクラというのも英語だが、語源はガーナで話されるトウィ語の "nkrama" で、和名は「アメリカネリ」というのだそうだ。アメリカネリのくせに原産地はアフリカ北東部で、エチオピアという説が有力だという。だからトウィ語が語源なんだろう。

ちなみに沖縄、鹿児島など、比較的早くからオクラが入ってきていた地方では「ネリ」と呼んだりしているという。陸蓮根(おかれんこん)の異名もあるそうだが、あんまり蓮根というイメージではないがなあ。

エリンギは、Wikipedia によると「主にセリ科ヒゴタイサイコ属(エリンギウム)の植物エリンギウム・カンペストレ (Eryngium campestre)  の枯死した根部を培地として自生することから命名された」とある。もっとも、これだけ読んでも、結局よくわからん。

日本で流通しているのはすべて人口栽培もので、柄の部分が太いが、自生種はもっとカサが開いているという。イタリア人はその開いたカサの部分を好むと、Wikipedia には書かれている。ふぅん、そうだとすると、日本のエリンギとイタリアのそれとは、似て非なるものと言っていいかもしれない。

まあ、とにかく最近は野菜でも果物でもカタカナ名前のものが多いが、オクラ、エリンギ、エンダイブは、ちょっと意表をついたおもむきがある。

 

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2012年2月20日

「スマホが使いにくい」 とこぼす人

今日の記事には多少のバイアスがかかっているかもしれないと、まずお断りしておく。私は iPhone のヘビー・ユーザーなので、iPhone に好意的なことを書いているという自覚がある。その好意的なことというのは、私の実感からくるのだが、当然ながら、それに賛成しない人もいると思う。それに関しては感覚的な事項でもあるので、余計な議論を避けたいと思う。

私が近頃意外に思うのは、「スマホを買ったけど、使い方がわからなくて、ちょっと後悔してる」という人が案外多いことだ。私自身は、前に使っていたガラケーとは比べものにならないほどの使い勝手の良さにとても満足しているので、「スマホのどこが難しいんだ?」といぶかしく思うほどだ。

で、そんな風にこぼす人のもっている機種をみると、ほぼ 100%アンドロイドを OS としたスマホなのである。iPhone ユーザーで、「使い方がわからない」と言う人を、私は見たことがない。

ふと気付いたが、そういえば私自身、アンドロイド・スマホのユーザーでもあったのだ。私のもっている E-mobile の Pocket Wifi は、アンドロイド・スマホとしても使える製品なのである。Pocket Wifi を買う時、単なるパケット端末ではなく、iPhone に何か不具合が生じた時のための代替機として使用できるように、それ自体がスマホとしても使えるものにしたのだ。

買ったその時は、「アンドロイド・スマホを使うのも悪くないかもしれない」と思っていたが、結局のところは、テザリング以外の用途には一度も使ったことがない。それは、Pocket Wifi のスマホとしてのできが、iPhone と比べること自体がおこがましいというほどお粗末なものであるということにもよるが、アンドロイドのとっつきにくさということもあると思う。

「具体的にどこがどう使いにくいのだ」と言われると、「感覚的なもの」としか言いようがないが、アンドロイドって、「これ何だ?感」が色濃く漂っていると思うのだよね。iPhone には、それがない。

別の言い方をすると、iPhone のアイコンは気軽にひょいひょいタッチして楽しめるが、アンドロイドの方は、ちょっと考えないとタッチする気になれないというところがあると思う。で、ちょっと考えても、結局何も出てこないのは当然なので、なんとなく気軽に触りまくる気になれないのだ。

アンドロイド・スマホを買って「使い方がよくわからないのよね」というのは、気軽にひょいひょいタッチして、「ああ、そうかそうか、そういうことか」と気軽に納得するためのモチベーションを、なかなか自分のうちに醸し出せないというような、微妙な感覚があるのだという気がするのである。

中年以後の年齢の人たちにとっては、残りの人生が 20年あるのか 30年あるのか知らないが、そのあまり長いとも言えない人生を、スマホをルンルンで使いこなせるものにするか、「よくわからないのよね」とこぼし続けるものにするかで、かなりの違いになってしまう。

私なら、「iPhone にしときなさい」とアドバイスする。口コミ情報の豊富な女子中高生は、85%が iPhone を選ぶという統計もあるし。

 

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2012年2月19日

「ハートアタックグリル」 という命がけのジャンク

CNN が "Heart attack at Heart Attack Grill" (ハートアタックグリルで、ハートアタック [心臓発作] 発生) というニュースを伝えている。

ハートアタックグリルというのは、アメリカ、アリゾナ州にあるハンバーガー店で、CNN によると、こんなような店である。

ハートアタックグリルはこれまでにも、「死んでも食べたい」「現金オンリー。小切手だと決済前に死んでしまうかもしれないので」といった宣伝文句で物議をかもしてきた。メニューは「フラットライナー(『死亡した患者』 の意味)フライ」「バターファットシェイク」などをそろえ、看護師の格好をした女性ウエートレスが「処方箋」と称して注文を取る。店内はたばこの煙が充満し、体重 350ポンド(約 158キロ)以上の客は無料で食事ができる。

この店で、6,000 キロカロリーの 「トリプルバイパス・バーガー」というのを食べた客が心臓発作に見舞われて、病院に搬送された。この客は一命をとりとめたというが、まさに「死んでも食べたい」というキャッチコピーが現実になりかけたわけだ。

ところでこの店の「ナース」(ウェイトレス) は、ずいぶん色っぽい制服を着ているみたいで、なんともアメリカっぽい佇まいである。

今や常識になってしまったが、アメリカというところはとにかく食い物を食い過ぎるところで、ニューヨークなんかはまだ比較的ましだが、中西部のシカゴなんかでは、普通のレストランの食事でさえ死ぬほどの量を食わされる。

私なんか、出されたメシは残さない主義なので、日本男児のプライドにかけても完食しちゃうのだが、翌朝になってもまだ、腹一杯どころか首まで一杯みたいな気がしてしまう。そのぐらいのテリブルな量の食事を、隣のテーブルでフツーのかわいいおねえちゃんが、軽い気持ちで平らげてしまうのを見るにつけ、「こいつら、人間じゃねえ!」と思う。

日本でもおなじみのチェーン、Subway でサブマリンスタイルのサンドイッチを注文する時、「ハーフサイズ」(日本の Subway では基本の大きさ)と言うと、カウンターのおねえちゃんがびっくりして目を見開き、"Really?"(本当にそれでいいの?)なんて聞いてくる。

余計なお世話だと思ったが、見ているとスキニーな若い女の子でも、倍の「ワンフット・サイズ」に、じゅるじゅるの肉をはち切れんばかりにはさみこんだやつを、当然の如く注文しているので、"Really?" と聞きたくなるのももっともな話かもしれないと、妙に納得してしまったりする。

彼らが日本に来て、日本食レストランで精進料理みたいな夕食を取ったら、たまらなくもの悲しくなってしまうだろう。

まあ、そんなだから、彼らは中年過ぎるとたいていデブになってしまうのだが、周り中デブばかりなので、そんなにみっともないようには見えないというのも、因果な土地柄である。私なんか、シカゴの街のショーウィンドウに映る自分が、うっとりするほどスリムに見えたりしてしまう。

こんなに異常なほどに肉を食うというのは、いずれにしてもエコじゃない。たらふく肉を食うというのは、10人ぐらいの人間を養うことができる量の穀物で育てた家畜を、1人で食ってしまうということだ。単純に、資源の無駄遣いである。

 

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2012年2月18日

清税孤貧という俗物

久しぶりに無門関ネタ。今回は第十則「清税孤貧」という公案である。公案自体はとても短くて簡潔だ。曹山和尚のところに清税という僧が訪ねてきた。その時の会話は、超訳すると次のようなものだったというのである。

清税       「私は寄る辺ない孤独で貧乏なものです。お恵みを」
曹山和尚 「税闍梨さんよ!」
清税       「うむ」
曹山和尚 「おいしい銘酒を 3杯も飲んでおきながら、まだ足りないと言うのかね」

とまあ、たったこれだけの話だ。ぱっと見では、何が何だかわけがわからん。それだけに、いろいろな解釈がある。

一つには、曹山和尚が清税に、「さんざん恵まれた境涯でありながら、まだ人を頼って教えを請おうなんていうのは、甘えるにもほどがあるぞよ」と一喝したという解釈だ。まあ、素直に読めばそう受け取りたくなるところだが、禅問答って、そんなに素直で単純なものじゃないだろうという気がする。

二つめは、曹山和尚が清税の人物がかなり怪しいのを見抜き、「お前、かなりへりくだったようなことを言っているが、実は腹に一物もっているだろう。とっとと帰れ!」 と追い返したというようなことになっている。うぅん、これもなんだか単純すぎておもしろくない。

三つ目の解釈は、曹山和尚が訪ねてきた清税に対していきなり「税闍梨」と呼びかけたことに注目する。「闍梨」とは「阿闍梨」の略で、お坊さんに対する敬称。つまり、「税先生!」と呼びかけたのだ。

禅問答というのはなかなか一筋縄ではいかないもので、清税は訪ねて来るなり自分は「孤貧」であると言った。しかしそれは、表面的な言葉とは裏腹に「自分は何物にもとらわれず、何物も所有していない。これほど高いレベルにいるのに、謙遜に教えを請う。立派なものだろう。どうじゃ、参ったか!」と、大見得切って見せたのだ。

それで、曹山和尚は、「おう、そうかそうか、それは大したもんじゃ、税先生よ」と呼びかけた。そしたら相手は「うむ」と応じてしまったというのである。何物にもとらわれず、何物も所有していないはずの男が、いきなりいい気分で「先生」になっちゃったのだ。

それで、曹山和尚は 「お世辞言われて舞い上がっちゃうくせに、言葉だけはへりくだったようなことをお言いでないよ」と、相手の俗物性を喝破した。私はこれが一番素敵な解釈だと思う。

何しろ「曹洞宗」という宗派の名称は、曹山和尚と同時代の洞山和尚の頭文字を取ってできたというほどだから、曹山和尚という人は半端じゃない名僧だった。どんなに口でへりくだって見せても俗物は俗物と、すぐに見破ったのである。

現代日本の宗教界にも、口では大変へりくだったようなことを言いながら、実は俗物の極みというのが見え見えのお方がいるが、お近づきになりたくないなあと思うのみである。

 

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2012年2月17日

雪で傘をさすか、ささないか

京都から帰ってみると、取手駅前は雪である。京都でも少し降ったが、帰る頃にはすっかり晴れていたから、ちょっと驚きである。この分だと、夜中のうちに少し積もるかもしれない。

今日は時間がないので、ごく軽い話題である。それは雪の中を歩くのに、傘をさすかささないかという問題だ。

40年以上前に東京に出てきた時、私は東京の人間がちょっとした雪で傘をさすのを見て驚いた。私の生まれた山形県の酒田では、雪の中を傘さして歩くという習慣がないのである。

で、身についた習慣通りに傘をささずに歩いたら、服がびしょ濡れになった。東京の雪はボタ雪なので、すぐに解けてしまうのである。「なるほど、東京では雪でも傘をささなければいけないんだ」と、初めて納得した。

一方、私の田舎では雪の日には傘をささずに済む。雪の質が違うから、びしょ濡れにならない。しかし実際には、「傘をささずに済む」というよりはむしろ、「傘をさせない」と言った方がいいかもしれない。なにしろ季節風がものすごいので、傘なんかさしたらすぐに壊れてしまうのである。

雪の中を歩いて帰ってきても、玄関を入る前にコートやパーカをポンポンと叩くと、乾いた雪がバサバサ落ちる。服はちっとも濡れていない。しかも、体の片方にしか雪は付いていない。

例えば、自宅から西の方向にある所から帰ってきたら、背中は雪だらけだが、前面はカラカラだ。そう、酒田というところでは、雪は上から降るのではなく、横から吹きつけるのだ。

もっとひどくなると、下から吹き上がる。これがいわゆる「地吹雪」である。酒田というところは、街中で平気でホワイトアウトして、「遭難するんじゃないか」と思うことが、冗談じゃなくあるのだ。

冬山で傘をさす人なんかいないように、酒田では、雪で傘なんかささないのである。そんなわけで、私は今でも、雪の中を歩くのに傘をさすのに、言い知れぬ違和感をおぼえてしまう。

そうしないと濡れるとわかっていても。

 

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2012年2月16日

歯磨きの新常識

「虫歯にならないためには、1日 3回、食後 3分以内に 3分間歯を磨く」という 「3・3・3 運動」を実行するといいと、小学校の頃に教わった。半世紀前のことである。そしてこの常識が、半世紀経って否定されてしまったんだそうだ。

日本経済新聞の web 版が伝えている(参照)。医学や健康についての常識が、時が経って変わってしまうというのはよくあることだが、歯磨きの常識まで変わってしまうとは、ちょっと驚きだ。

まず、食後は 30分ぐらい経ってから歯を磨くといいんだそうだ。これまでいわれてきた「3分以内」とはえらい違いである。それは「酸蝕歯」というのを防ぐためだという。

酸性の食品を食べると、歯の表面のエナメル質が溶け出してしまうが、口の中が酸性になっても唾液の力で中和され、溶けたエナメル質も復活する。しかしそれには 30分ほど時間がかかる。

ところが食後すぐに歯を磨くと、溶けかけたエナメル質を削り落としかねない。自分の食べたのが酸性食かどうか、いちいち詮索するのもうっとうしいので、とりあえず歯磨きまで 30分、間をおくのが安全策だというのである。

昼休みの食事から帰るとすぐに歯を磨く人がいるが、あれは逆効果かもしれないのだ。やれやれ。

さらに、「なんとなく 3回磨くよりも 1日 1回、特に寝る前に口の中から徹底的に汚れを出すことが大事」なんだそうだ。また、「口の中の食べカスが歯垢になるまで 48~72時間かかるので、毎食後に歯を磨けなくても大丈夫」なのだという。

ただ、寝ている間は唾液が減って口の中の菌が増えやすくなるので、寝る前に口の中をきれいにするのが効率的だ。

そういうことなら、慌ただしい朝はあっさりとすませ、夜寝る前だけは念入りに磨くという、無精な私のやり方で OK ということだ。ちょっと安心である。もっとも、この 「常識」 もいつ変わってしまうかわからないが。

 

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2012年2月15日

ドクターストップで禁煙するという、恥ずべきエゴイズム

昨日、前の記事とカブる嫌煙記事を敢えて書いた勢いで、さらにキツい記事を、7年前の記事 とカブるけれど,重ねて敢えて書く。私は以前に書いたことの繰り返しはなるべく避けたいと思っているが、7年前に私のブログを知らなかった人の多くは、初めて読むことになるだろうから、前に書いたことを繰り返すのもたまにはいいだろう。

それは、「タバコを止める理由」についてである。

私は 「健康問題でドクターストップがかかって、タバコを止めた」という人を何人も知っている。タバコを止めたということに関しては祝福したいほどだが、その一方で私は、「ドクターストップで禁煙した」という人を、内心密かに軽蔑するものである。

それまでは、周囲の迷惑も顧みず、平気でスパスパ吸って不愉快な煙を垂れ流しにしておきながら、自分の命が危ないとなると、急に掌を返すように禁煙するというのは、あまりにも自分勝手な恥ずべき姿ではないか。

「そうかい、あんたは周囲の人間の健康はどうでもいいけど、自分の命だけは惜しいのかい」と、嫌味の一つも言ってやりたくなる。

これが言い過ぎとは、決して思わない。これだけタバコの副流煙の害が言われているのだから、喫煙者が自分の吸うタバコで周囲に健康被害をもたらしているということを自覚できないわけがないではないか。

ドクターストップがかかって禁煙したという人は、周囲に対して「私はお前らの健康なんてどうなっても知ったことじゃないが、自分の命だけはこんなにも惜しくてたまらないのだよ」と宣言しているのと同じなのである。

これって、あまりにも恥知らずなことではなかろうか。喫煙者には、そうした恥知らずな姿をさらす前に、適当な時期に自らの意志でタバコを止めることをお勧めする。

そしてまた、もしタバコの副流煙の害を知らない喫煙者がいたとしたら、その無知そのものが罪である。釈尊は、「知って犯す罪より、知らずに犯す罪の方が重い」 とおっしゃった(参照: 「無明」と「罪」 )が、周囲の迷惑に無頓着な喫煙者の傲慢な態度をみていると、釈尊のおっしゃった意味がよくわかる。

(注)
周囲に迷惑が及ばないようにかなり注意して喫煙している人も、少数ながら存在する。そうした 「優良喫煙者」 に関しては、上述の限りではない。

 

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2012年2月14日

新幹線の「喫煙ルーム」はどえらい迷惑

一昨年の暮れに書いた "新幹線「のぞみ」、せっかく全面禁煙にしても" という記事とかぶってしまうが、敢えて似たようなことをもう一度書く。

ご存じのように、東海道新幹線の N700系のぞみ号には喫煙車両がない。全部が禁煙席である。ところが昨日、名古屋から帰ってくる時の N700系のぞみ号の 14号車は、乗り込んだ途端に、なぜか強烈にタバコ臭いのである。これはいったい、どうなってるんだ?

座席に座ってその謎が解けた。テーブルの裏側(上げた状態で見える側)に号車案内が書いてあるが、隣の 15号車に喫煙ルームがあるのだ。タバコ吸いは、喫煙ルームの近くの車両に乗りたがるらしく、私の乗った 14号車には、喫煙ルームに行ったり来たりする人がかなり多い。

今月 1日の「喫煙者が 20%を切ったという幻想」という記事で書いたように、日本人の喫煙率は低くなっているとはいえ、平日夕方の新幹線に乗るような働き盛りの男に限っていえば、依然として 40%以上が喫煙者なのである。だから、喫煙ルームへの往来は相当に頻繁なのだ。

喫煙ルームに続く車両前部の自動ドアもしょっちゅう開いたり閉じたり忙しい。前触れもなしにがらりと開くと、狭い喫煙ルームで髪の毛や服に思いっきりヤニ臭さを吸収したオッサンが無神経に入ってくる。いや、入ってくる前に、ドアが開いただけでタバコ臭さが襲ってくる。さらにそのオッサンがそばを通り過ぎる時には、むっとするほどヤニ臭い。

そばを通り過ぎられただけでむっとするのだから、隣の座席に戻ってこられたら大変である。私は冒頭で触れた一昨年末の記事に、次のように書いている。

私も以前、のぞみに乗っているとき、隣のオッサンがちょっとどこかに消えたかと思うと、ものすごくタバコ臭くなって戻ってきてビックリしたことがある。私はそんな時には遠慮しないから、手元にあった書類でバタバタ扇いでやった。

しかしある意味、隣のオッサンがタバコ臭くなって戻ってきても、その匂いは 20分ぐらいで発散されてかなり消えてしまうから、まだいい。ところが、喫煙ルームの隣の車両にいると、しょっちゅうタバコ臭いおっさんがそばを通って、ヤニ臭さを置いていくのである。それがかなり頻繁だから、結局常にタバコ臭いのだ。

これだったら、全車を禁煙車両にする意味がない。JR にはいっそ、喫煙ルームなんて姑息なものを廃止するか、喫煙車両を設けてタバコ吸いをそこに完全隔離するか、どちらかの対策を採用してもらいたい。

ちなみに喫煙車両を設ける場合は、エアコンをきちんと別系統にし、他車両と行き来するドアをなくして、煙が他の車両にもれないように、文字通りの完全隔離にしてもらいたい。そうでなければ、喫煙車両は 時速 250km/h の猛烈なすきま風が吹き抜ける構造にするというアイデアもあるだろう。

あるいは、喫煙ルームの出入り口には常に係員が待機して、出てくる客にみっちりとファブリーズのスプレーをを浴びせかけるという手もある。

まあ、現実的には喫煙ルームを廃止するというのがいいだろう。ヨーロッパやアメリカ東海岸にに行く時なんかは、飛行機内で 6時間以上も禁煙を強いられたりするのだから、大阪や博多までぐらい、我慢できないわけがない。それが苦痛なら、いっそ禁煙すればいいだけのことである。

【2025年 12月 1日 追記】

もっと早く追記すべきだったが、つい忘れていた。2023年 10月 18日付 "「東海道・山陽・九州新幹線でも喫煙ルーム廃止」歓迎!" という記事で書いたように、2024年春から新幹線の「喫煙室」というのは廃止され、かなり快適になっている。まったくしかるべきことだ。

 

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2012年2月13日

「トマト品薄」 で考える

名古屋から帰ってきた。名古屋は風がとても冷たくて震えるほどだったが、関東は日が暮れていても震えるほどには寒くない。名古屋というところは、よくよく夏は暑く、冬は寒いところである。

帰宅してネット・ニュースを覗いたところ、トマトが品薄状態になっているという記事が目に付いた。京都大学のの研究グループが、トマトには中性脂肪を減らす働きのある成分が含まれ、メタボリック症候群の改善などに役立つと発表したのがきっかけだという。

やれやれ、またしても納豆の二の舞か。まあ、納豆の痩せる効果というのはかなりガセネタだったのに対して、今回は京大の研究者グループが発表したというのがもっともらしいという差はあるというものの、それに飛びつくメンタリティには大差がない。

私は納豆がないと暮らせない人だが、トマトは好きではあるけれど、別になくても暮らせるから、品薄になってもあまり実害はない。ただ、トマトが大好きとか毎朝トマト・ジュースを飲むのが習慣とかいう人には、かなり迷惑なことだろう。

納豆の時は、国民食と言ってもいいぐらいのおなじみの食材だから、痩せる効果があるなんて言っても、「わたしゃ毎日食べてるのに、ご覧の通り」という人が多かったので、ガセネタっぷりが際立っていた。そしてそんなにも見え見えのガセネタだったにも関わらず、記憶では 2週間近く、スーパーの店頭から納豆が消えた。

今回は京大研究グループというお墨付きがあり、しかも「わたしゃ毎日トマト食べてるのに ……」という人が納豆の場合ほど多くないだろうから、単純素朴に飛びつく人が少なくないだろう。

もっとも、そこまで単純素朴な人が日本人の大多数というわけじゃない。それまではスーパーに来る買い物客のうち、トマトを買う人が 50人に 1人だったのが、ニュースが流れて以後 10人に 1人になるというだけで、店頭のトマトはあっという間に売り切れになるだろう。

そして、スーパーで買い物をする人というのは、多く見積もっても都市人口のせいぜい 2人に 1人ぐらいのものだろうから、ものすごく情報に踊らされやすい人が 20人に 1人ぐらいいるだけで、社会的影響はかなりなものになるということだ。それを考えると、ちょっと恐ろしい。

トマトが品薄になるぐらいならいいが、何らかのパニックが起こりやすい状況下で、20人に 1人、つまりたった 5%の人たちが、とんでもないデマを信じて騒ぎ始めたら、その影響は迷惑では済まないレベルのものになってしまうだろう。

普段からクールでいる訓練というのを積んでおかなければならない。

 

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2012年2月12日

旅の空より

明朝からの仕事に備えて、名古屋に前泊している。風邪が治ったばかりなので、部屋に入ったらそのまま暖かくして寝るしかない。なにしろ今週からは旅がらすになって、家で寝るより旅先で泊まることの方が多いぐらいになる。

せっかく治ったばかりの風邪をぶり返させたくないので、今日はこのくらいで失礼する。

お休みなさい。

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2012年2月11日

「気合い」 で風邪を引いたり引かなかったり

実は昨日あたりまで、ちょっとだけ風邪気味だった。咳が出て鼻が詰まり、節々がこわばったような感覚だった。少しだけ頭痛がする気もしたが、それは動いているうちに忘れてしまう程度のものだった。ところが、その動くこと自体が結構しんどくて、階段を昇るにもフウフウ言っていたのである。

それは先週の水曜日に雪の北海道から帰ってきて、さらに 3日続けて仕事で遠出したあたりからだったので、ほぼ一週間ほど続いたことになる。日曜日には結構やばい気がして、大事をとり、久しぶりに朝 10時頃まで寝ていた。

大事をとっても一日中寝込んだりはせず、10時過ぎには起き出してしまうところが私の貧乏性のところで、なんだかんだと仕事をこなしているうちに、今日はすっかり楽になった。熱はどうだったのかというと、面倒くさくて計っていない。計るのを面倒に思うぐらいだから、大した熱ではなかったのだろう。

明日になれば、今度は名古屋に出張である。一度帰って、木曜日からは京都に出張。その次の週は高知に出張である。出張の合間も、ちまちまと小さな仕事が入っていて休めない。土日も祝日もないのは、自営業の宿命なので文句は言わないが、今月の第 3週からは、自宅で眠れる日が半分もないような旅の空になる。

ということは、今シーズンは先週末からの 1週間ぐらいしか、風邪を引いている暇がなかったのである。そして不思議なもので、風邪を引く暇ができると、狙い澄ましたように、てきめんに風邪を引く。風邪を引いている暇がない時は、気合いで引かないのだ。

こうしてみると、「気合い」というのはなかなか馬鹿にできないもので、それによって風邪を引いたり引かなかったりするのである。

 

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2012年2月10日

デジタル一眼を買うべきかどうか

今、デジタル一眼が大人気なんだそうだ。とくにミラーレス・タイプのコンパクトなやつが受けているらしい。家電量販店に展示されている機種も、ずいぶん増えてきた。これは現実に売れているから、メーカーがどっとなだれ込んでいるんだろう。

私としても、決して欲しくないってわけじゃないが、購入の優先順位はかなり低い。とりあえずあれって、なくても別に困らないものだ。なくても困らないけど、つい物欲に負けて買ってしまうものもあるが、あれを買ってしまうと邪魔っぽいんじゃなかろうかと、危惧してしまうのである。

私は大抵のモノはコンパクトなものを選ぶ。まさに日本人らしい「縮み志向」なのである。小さくて軽くて、しまい場所に困らなくて、デコボコしていないというものなら、カメラに限らず、つい買いかねない。

ところがデジタル一眼は、いくらミラーレスでコンパクトになっていると言っても、やはり大きい。それにレンズを取り付けると出っ張りが大きくて、扱いが大変だ。いつもポケットに入れて持ち歩けるというものでは、決してない。

私はデジカメ・ユーザーとしてはかなりヘビーな方で、何しろ「和歌ログ」というサイトで、毎日和歌と写真を更新している。写真を撮らない日なんて、一日とてないのである。撮った写真を毎日ブログに載せているのだから、紛れもなきヘビー・ユーザーである。

そのヘビー・ユーザーの私が、最近はほとんど iPhone のカメラで済ましているのである。前はパナソニックのコンパクト・デジカメを持ち歩いていたのだが、今はそれもしまいっぱなしだ。

パナソニックのコンデジというのは、案外高機能で、望遠は光学 10倍というスペックである。マクロ機能を使うと、背景がきれいにボケた「一見すると一眼レフで撮ったような写真」だって可能である。実は、これを使っていると逆に、デジタル一眼が欲しい気がしていた。なまじいいカメラを使うと、「その上」 を求めてしまうのである。

ところが iPhone で済ませるようになってしまうと、「これじゃ物足りない」なんてことは思わない。割り切ってしまうと、「これで十分」ということになるのだ。毎日写真を更新するブログを続けていると、「写真の質」よりも「カメラの携帯性」の方をより強く求めてしまう。

しかもそのブログが、文芸ブログで、写真をメインにしているのではないのだから、その志向性はぶれない。「きれいな写真は、写真好きに任せればいい」ということになってしまうのだ。この私が背伸びして、きれいな写真を撮ってもしかたないのである。

デジタル一眼というのは、「たまに狙い澄まして、きれいな写真を撮りたい」というニーズのユーザー向けなんだと思う。「毎日それなりの写真が撮れればいい」というニーズには向かない。「とにかく、いい写真が撮りたい」というユーザーは、一眼レフを使うだろうし。

私が物欲に負けて、ついデジタル一眼を買ってしまったとしても、そんなに気軽には持ち歩けないから、実際に使うのは圧倒的に iPhone になってしまうのは目に見えている。これではやはり、物欲にブレーキがかかる。

 

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2012年2月 9日

「地球温暖化」 は「気候極端化」

一昨日と昨日、関東では小雨が降るどんよりとした空模様だったが、寒波は少しだけゆるんで、私の住むつくばの里も久しぶりで氷点下にならずにすんだ。しかしそれもつかの間、今朝は上天気で、最低気温も -6度ぐらいになったようだ。

そもそもこの辺りは、普段の冬だと ¥「今朝は冷え込んだなあ」 ¥と言うような日でも、せいぜい -2~3度ぐらいで、シーズンにほんの数回 -5度ぐらいになって悲鳴を上げるという程度なのだ。今年のように -5度以下が 1週間以上も続くなんていうのは、ここに引っ越してきて 30年になるが、初めての経験である。

なにしろ気温だけで言ったら、私の生まれた酒田辺りよりずっと低いのである。雪のないだけましだが。

そしてこの寒さは、去年の 11月下旬辺りから続いている。「この冬は、妙に寒いね」なんて言いながらも、「寒気の吹き出しってのは、大抵どこかで息切れしてそれほど長くは続かないから、春の来るのは早いかもね」なんて、呑気な憶測をしていた。ところが、今回の寒気は全然息切れしないのである。これには驚いた。

この寒さをもってして、「地球温暖化なんて、デタラメ」なんて言う人もいるが、それは「木を見て森を見ず」というものである。今回の厳冬の原因も、実は地球温暖化が原因の一つになっているらしいのだ。

海洋研究開発機構(JAMSTEC)の研究によると、地球の温暖化によって北極域の海氷が少なくなると、北極で発生した低気圧の進路が変わり、シベリア地方に寒気が入りやすくなるというのである。こうしてシベリアに停滞した寒気のせいで、ジェット気流の流れが変わったのが、今回の日本の厳冬の直接的な原因といわれる。

そもそも「地球温暖化」なんていうから誤解する人が出るんであって、ざくっと「気候変動」と言ってしまえばいい。「京都議定書」(Kyoto Protocol)というのも、地球温暖化防止のためのものと言われているが、本来の名称は「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」(Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate Change)というのであって、「地球温暖化に関する」云々ではない。

「地球温暖化で世界が暖かくなるなら、暮らしやすくなるし、農業生産も増えるからいいじゃないか」なんて、呑気なことを言う人がまだいるが、「温暖化」というのは、とりもなおさず「極端化」であり、まんべんなく穏やかに暖まることじゃない。

このことは昨年の 8月にも "「温暖化」というのは「極端化」を穏やかに言っただけ" という記事で書いたが、敢えてもう一度繰り返しておく。

気候が極端から極端に振れるので暮らしにくくなり、農業被害をもたらす災害も増えるというのは、昨今の猛暑と厳冬、台風など、身近な経験則からもわかることだ。台風被害は最近よりも昔の方がずっと大きいが、それは台風の発生、進路などに関する情報が今と比べて甚だ貧弱だったので、人々がまともに対応できなかったからだ。

3000人の死者を出した昭和 34年の伊勢湾台風の時などは、9月 26日 18時上陸のほぼ半日前、お昼頃になってようやく暴風雨・波浪・高潮の各警報が発令され、きちんと人々に伝わったのは、上陸直前でしかなかった。

21世紀となってこれだけ情報が発達し、台風進路にあたる地域では 3日も 4日も前から警戒が呼びかけられ、災害対策のインフラ整備もずっと進んでいるというのに、台風被害が深刻化しているというのは、それだけ台風がおしなべて強烈になっていることを物語る。

 

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2012年2月 8日

納豆に付いてくる「タレ」 は「余計なお世話」の最たるもの

今日はほんの些細な、どうでもいいような話である。どうでもいいような話ではあるが、私はもうずいぶん前から気にかかっていたことだ。

それは、納豆についているビニールの小袋に入った「タレ」についてのことである。あれって、いつ頃から付けられるようになったんだろうか。いずれにしても、世にあふれる「余計なお世話」の最たるものなんじゃなかろうかと思うのだよね。

私はあの手の発泡スチロールのパックに入った納豆を、いわゆる「食卓」以外で食べたことがない。この「食卓」には、自宅の食卓と、出先の食堂(ビジネスホテルの朝食など)とが含まれるが、そうした「食卓」に醤油瓶のなかった例しがない。なのに、その醤油でなく、あの「タレ」を使えというのである。

あの納豆のパックに付いてくるビニール袋というのは、開けるのに細心の注意が必要だ。よっぽど上手にやらないと、必ず中のタレが飛び散る。とにかく面倒というか、難しいというか、うっとうしいのである。

昔、私の上司がビジネスホテルの朝食で納豆のタレのビニール袋を開けようとして、あっという間に自分のネクタイにぶっかけてしまったことがある。しかもその直前に、私が「注意してくださいよ。飛び散りますから」と言い、彼も「そうなんだよね、これ、注意しないとやばいんだよね」と言いつつ、やっぱりやらかしてしまったのだ。

こんなうっとうしい思いをするぐらいなら、食卓にある醤油をかける方がずっと楽なのに、なんだか、付いているものを捨てるのももったいないような気がして、あの袋の口を切ろうとし、失敗して服やネクタイにかけてしまうのである。アメリカだったら、きっと訴訟をおこすやつがいるぞ。

わざわざあんな面倒なものを添付するのには、よほどの理由がなければならない。まず考えられるのは、フツーの醤油よりずっとおいしい「タレ」なのではないかということだ。しかし経験則からいって、あれがフツーの醤油と比較して格別おいしいという気はしない。それどころか私なんか、フツーの醤油の方がシンプルでおいしいと思う。

じゃあ、他の理由があるのか? うぅん、思いつかない。あるとすれば、競合他社が添付しているので、自社も添付しないと付加価値が劣ると思われかねないと、各納豆メーカーがおそれているんじゃないかということだけだ。

そこで私は断言したいのだが、余計なタレなんか添付しない方が、実は付加価値が上がるのである。その付加価値とは、「エコ的価値」だ。あんな馬鹿馬鹿しいもののためにビニール袋を消費するのは、エコじゃない。使わない方が、「我が社はエコ・フレンドリーであります」と宣言することになる。

そこに気付かない馬鹿な消費者のために、パックに 「当社は地球資源節約のために、タレを添付しておりません。お客様のもっともお好きな調味料をかけてお召し上がりください」とかなんとか書いておけばいいのである。

ほんのたまに、タレの添付されていない納豆に行き当たると、私は安心して食卓の醤油瓶を手にとって、醤油をかけるのである。その方がずっと簡単で手っ取り早く、私の好みにも合っている。

中には、あの「タレ」 が好きな人もいるだろうが、それならばそうした消費者のために、各メーカーが趣向を凝らして開発した 「納豆のタレ」 を商品化して、瓶に詰めて売ればいい。

 

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2012年2月 7日

スマホのバッテリーのもちは、大きな問題

japan.internet.com の記事によると、「スマートフォンのバッテリー持続時間は 1年に 1%しか進化していない」のだそうだ。てことは 10年かかっても 10%しか持続時間が延びないのか? いや、1%伸びた時間の 1%だから、複利計算みたいなもので、翌年には 1.001%延びて、さらに翌年には……と考えても、いずれにしても大した進化じゃない。

いや、そう言ってしまうと語弊がある。スマホ自体の機能はどんどんアップしていて電力消費が増え続けているのに、その上でちゃんと持続時間を伸ばしているのだから、バッテリーはきちんと進化しているのだろう。それでも、実感としての使い勝手としては、「スマホのバッテリーって、いつまで経っても長持ちするのが出てこないなあ」と思ってしまうわけだ。

私自身も、iPhone のバッテリーのもちには満足していない。ガラケーを使っていた頃は、2日か 3日に一度充電すれば OK という気がしていたが、iPhone にしてからは必ず毎日充電するようにしている。

普段の使い方だったら、朝にほぼ 100%充電の状態で出かければ、夜に帰宅する頃になっても、大体 30%を切る程度で済んでいる。しかし、一日ずっと外回りをしたり出張したりすると、そうはいかない。

スマホでの通話の回数が増え、メールの受発信に PC ではなく iPhone を使い、頻繁にマップのナビ機能を利用し、ニュースやお天気情報、Twitter などにアクセスしていると、日が沈む前に、確実に 20%を切る。これでは不安だ。

仕方がないので、私は常に iPhone のバッテリー・チャージャーと、外付けのエクストラ・バッテリーを持ち歩いている。電源が利用できなくてバッテリー・チャージャーが使えない時は、エクストラ・バッテリーを接続する。これで 20%程度まで減っていたバッテリーが、1時間足らずで 60%以上まで復活する。もっとつないでおけば 80%ぐらいまで行きそうだ。

エクストラ・バッテリーを使うのは、今のところは出張の時だけで済んでいるが、今月のように出張が多いと、かなり頻繁に使っているような気がする。一度使ったエクストラ・バッテリーの再充電を忘れたままで次の出張に出かけたりしてしまうと、かなりあせるので、注意が必要だ。

とりあえずはこんな対策で済んではいるが、スマホを使うだけ使い倒しても、余裕で 1日もつぐらいのバッテリーが開発されたら、どんなにありがたいだろうと思う。

 

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2012年2月 6日

業務用エレベーターって、かなりアブナいものらしい

エレベーター 相次ぐ事故で対策指導を強化 厚労省・国交省」という MSN 産経ニュースの記事が目を引いた。エレベーター事故のニュースは、今日も伝えられたばかりである。大森の複合商業施設「大森ベルポートA館」で、1階から業務用エレベーターに乗ろうとした清掃作業員が地下に転落したという事故だ。

エレベーターのドアが開いたので乗ろうとしたら、エレベーターの「かご」がそこになく、地下まで転落してしまったというのである。怖い話だ。

実は私の知人も、会社の荷物運搬用のエレベーターに後ろ向きで台車を引っ張って乗ろうとしたら、そこに「かご」がなく、地下まで転落したという経験をもつ。不幸中の幸いで、死なずには済んだが、脊椎損傷で治るまでずいぶん時間がかかった。本当に気の毒なことだった。

業務用エレベーター、あるいは荷物運搬用エレベーターというのは、オフィスビルで働く一般の従業員や、商業施設の来店客が利用するのではなく、裏側の清掃作業員の移動や、荷物運搬に使うものらしい。

フツーの客が利用する表舞台のエレベーターで、ドアが開いても「かご」がなくて転落したなんてニュースはあまり聞いたことがないが、楽屋裏の業務用エレベーターは結構事故が多いようなのだ。

厚労省の実態調査によると、平成 18~20年の業務用エレベーターの労災事故による死者は 37人で、けが人は毎年 200人以上にのぼるのだそうだ。単純計算だと、2日に 1度以上の割でけが人が出るような事故が起き、10日に 1度以上の割で死者が出ている。

業務用エレベーターの管理がどうなっているのかしらないが、何かの仕事で楽屋裏のエレベーターに乗る時には、よくよく注意しなければならない。

 

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2012年2月 5日

田舎の市会議員選挙というもの

私の住んでいる市の市会議員選挙が始まって、今日は朝から選挙カーがうるさく走り回っている。投票日は来週の日曜日なのだが、その日は私は朝から晩まで予定が詰まっているので、期日前投票というのをしたいのだが、なにしろ候補者に関する情報がないので、誰に投票したらいいか決めかねている。

情報といえば候補者のポスターが貼られたでっかい看板だけで、あんなのが辻々に立てられていてもじっくりと眺めている暇なんかないので、ほとんど役に立たない。候補者の選挙カーなんて、「地元の○○です」と名前を連呼して、「どうぞよろしくお願いします」なんていうだけだから、まともな情報ではない。

市会議員選挙なんだから、候補者全員が地元に決まっているのだが、同じ市内でも地区ごとにエゴがあって、それぞれの利益誘導が期待されているのだろう。古くからの住民でいろいろなシガラミがあるなら別だが、よそから引っ越してきた私なんかは、ここに済んで 30年経ったとはいえ、仕事は大抵都内だったし、「地元」なんて関係ない。

あとは数人の候補者が告示前日にビラを配ってきたが、告示後の文書配布は選挙違反になるらしく、全体を見通せるような情報にはなっていない。選挙管理委員会が公式に作る選挙公報なら、全ての候補者の政策が手短にわかるようになっているので、それが欲しいのだが、これがまた、投票日ギリギリでないと配布されない。

「なんでまた、さっさと選挙公報を作って配らないのか」と聞くと、「立候補受付締切後に各候補から原稿を出してもらって、念入りにチェックするので時間がかかる」というのである。そんなもの、候補者なんてよほど前から準備を進めているのだから、さっさと事前に作っておけばいいのにと思うのだが、そういうわけにいかないのがお役所仕事である。

というわけで、期日前投票をする者は、選挙広報のような全体を見通せる情報なしで判断しろということになる。ご丁寧にも乱暴な話である。

ちなみに、選挙カーでは候補者名の連呼だけでまともな情報にならないのは、私のサイトの "選挙カーの 「連呼」 は 「迷信」 から生じているらしい" という記事にあるごとく、選挙カーでは候補者名の連呼以外のことをすると選挙違反になるという、世にも馬鹿馬鹿しい公職選挙法の規定による。

21世紀に突入したのは既に一昔前というのに、この国の選挙ではインターネットは使っちゃいけないものということになっているし、まったくもって、まともな情報が得られないのである。こんなんで「投票しましょう」なんて呼びかけられても、困ってしまうではないか。

そんなこんなで、大抵の選挙結果は、地元のボスと既成政党に都合のいい結果にしかならないわけなのである。とくに田舎の市会議員選挙なんて、その傾向が強い。

最後に蛇足だが、投票日直前に、候補者の運動員からのみならず、知人から投票依頼の電話がかかってきた(とくに、某学会系)時の最も面倒くさくない対応。「期日前投票を済ませた」の一言で、「あっ、そうですか、それではどうも」と、向こうからさっさと電話を切ってくれる。オススメの手である。

 

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2012年2月 4日

文明と文化の違い

文化人類学者の梅棹忠夫氏は、文明と文化の違いについて、「文明は腹の足しになり、文化は心の足しになるもの」とおっしゃったそうだ。なるほど、なんとなくしっくりくる説明である。ならば、現代を生きる我々は、文明と文化のどちらをより必要としているのだろうか。

世界には飢餓に苦しむ人が約 10億人いるといわれる。全世界の人口が 60億人とすれば、飢餓人口はその約 17%に達するわけだ。その一方で、肥満人口は 20億人になるというデータもあり、肥満比率は約 33%となる。なんと、3人に 1人が肥満というのだね。

世界の 6人に 1人は、文明生活に浴しておらず、その倍の数の人たちが文明に浸りすぎている。そして文明自体は、このギャップを解決するに至っていない。単純にみると、世界の 3分の 1の人たちは、自らが享受しすぎている文明の恩恵を、自分たちのおよそ半分しかいない人たちにも分け与える義務があるように思われる。

しかし、ことはそう単純には解決しない。世界のギャップは、文明と文化がうまい具合にミックスされていないから起こるのだ。富は一度偏り始めると、止めどなく偏ってしまう。この偏在を解消するには、文化の力が必要だと思う。

文明は食べても食べても食べ飽きず、一方、文化は足るを知る。「飽食の時代」と言われる物質文明のピークにいるものとしては、そろそろ食い続けることに飽きて、「心の足し」をこれまで以上に求め始めてもいい頃だ。

私は「文明は食い散らかすが、文化はその後始末までできる」と思っている。そして、「心の足し」は、エゴイスティックな発想からは得られない。人間はエンパシー (相手の身になって考える思いやり) という心の働きを、本能的に持っている。

 

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2012年2月 3日

沖縄防衛局長問題を巡る冒険

沖縄防衛局長問題は、どうやら結論が先送りにされたようだ。早く言えば、当面は局長が更迭されずに済んじゃいそうということである。

真部局長本人の説明によれば、彼は「宜野湾市長候補予定者の政策について説明し、局員の親戚に至るまで、棄権しないで積極的に投票に行くように呼びかけた」ということなので、それだけでは更迭に値する理由にならないというのである。

問題の市長選は、自民・公明推薦の新人で前県議の佐喜真淳氏と、共産・社民・沖縄社会大衆党推薦で元市長の伊波洋一氏の一騎打ちとなるのが確実である。この状況で、防衛局長が候補予定者を表面上は客観的かつ公平に紹介したとしても、「どっちに投票すればいいか、わかってるだろうな」と言外に強制しているのは明白だ。

ただ真部氏も局長になるほどの、頭のいいお役人である。あくまでも言質を取られないように「講話」したはずだ。そうなると、「積極的に投票することを呼びかけて、何が悪い」と居直られたら、更迭の理由なんかないのである。インテリやくざが恐喝にならないようにねちねち脅かすのと同じやり方と言ったら、怒られるかもしれないけど、まあ、そんなところだ。

で、お笑いなのは、宜野湾市長選には、国政における政権与党の民主党は、独自候補も出していなければ、どちらかを推薦するということもしていない。だらしない限りなのである。真部氏が言外に 「どっちに投票したらいいか、わかってるだろうな」 言ったら、恩恵を被るのは野党第一党の自民党とそれとつるむ公明党で、民主党は蚊帳の外だ。

だから自民党と公明党は、国会の場では厳しい追及なんかしない。それどころか、真部氏の擁護に廻っている印象すらある。それだったら、共産・社民に多少ごちゃごちゃ言われても、国会は乗り切れる。というわけで、更迭は見送りと、本当に本当にくだらない茶番になってしまった。

この茶番で明らかになったのは、自衛隊のみならず防衛省に至るまで、現与党ではなく野党第一党のものなのだなということである。

 

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2012年2月 2日

三鷹高校元校長の訴訟を巡る冒険

都立三鷹高校の元校長が都に損害賠償を求めた訴訟で全面敗訴したこと(参照)が、あちこちで結構な話題になっている。

原告の土肥信雄氏(63)は、校長を定年退職した後に、「希望すればほぼ全員(90%以上) が採用される非常勤教員としての採用を不合格とされた」が、それは校長時代に、職員会議での挙手や採決を禁じた東京都教育委員会の通知を撤回するように、いろいろな形で社会にアピールし続けたことへの報復的なものだと主張している。

それで、職員会議での挙手や採決を禁じるのは違法であり、自分が非常勤教員として採用されなかったことによる不利益の損害賠償を求めたというのが、今回の訴訟の骨子と、私は解釈している。

結論から言って、土肥氏の主張には無理があると思う。そもそも職員会議での挙手や採決を禁じた通知そのものが、裁判長の言うように「一部の学校で、職員の挙手等により職員会議が校長の意思決定を拘束するケースがあったのを適正化する」ことを目的としていた。

つまり、一部の教師が職員会議でああだこうだと文句を言って、校長の方針による学校運営がまともにできなくなるという実態があったので、それを適正化するための通達だったわけだ。「校長の言うことは何でも反対」というような教職員組合の体質があることは、よく聞かれるところである。

通達だけを見ると、いかにも学校内部で民主的運営がなされないように思われるが、そもそも組織運営において、上からの業務命令を下の段階での裁決で覆すなんてことは、非常識というもので、普通の会社ではありえないことだ。

土肥氏のいうように、この通達で学校での自由な発言が阻害されるというなら、フツーの会社なんて監獄みたいなものということになる。実際には通達に従っても、自由な発言を封じない運用はいくらでも可能ではないか。自由な議論はきちんとして、その上で、意志決定をするのが校長の仕事なのである。組織というのはそういうものである。

それでもまだ文句があるなら、職員会議ではなく団体交渉権を行使する場で要求すればいい。

土肥氏は「議論をしても学校運営に反映されないなら、発言しても仕方がないということになり、結果的に自由な発言が阻害される」といったような主旨の発言をされているようだが、それこそ短絡的な思考というものだろう。そのあたりこそ、校長の裁量による運用で解決していくべきことである。

それから非常勤職員としての採用についても、雇う雇わないは、教育委員会の裁量による。「希望すればほとんど採用されるはずなのに、採用されなかったのだから、損害賠償しろ」というのは、ちょっと厚かましい気がする。

自分の主張を社会にアピールしたいなら、初めから馬の合わない教育委員会なんかに雇われないで、独立してやっていけばいいのにと、私なんか思ってしまうがなあ。

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2012年2月 1日

喫煙者が 20%を切ったという幻想

厚生労働省が一昨年 11月に行った「国民健康・栄養調査」によると、日本人の「習慣的に喫煙している人」の比率は調査開始以来初めて 20%を切って、19.5%になったのだそうだ。

しかし私はこのニュースを読んで、「本当かなあ?」といぶかしく思った。19.5%といえば、5人に 1人以下である。それは生活実感とあまりにかけ離れすぎている。実際の世の中では、そこら中、タバコの煙だらけではないか。

この調査の詳細をみて、私の疑問ももっともだと思った。喫煙率を男女別でみると、男性では 32.2%、女性は 8.4%だという。なるほど、男性比率の高い居酒屋などはタバコ臭いわけだ。

さらに年齢別をみると、男性の 20代は 34,2%、30代は 42.1%、40代は 42.4%、50代は 40.3%、60代が 27.4%、70代以上が 15.6%となっている。なんだ、団塊の世代の 60代以上になると喫煙率が減っているのに、いわゆる「働き盛りの男」は、依然として半数近くが喫煙者なんじゃないか。

道理で、実感として喫煙者はちっとも減ってないんじゃないかという印象をもってしまうはずだ。とくに若い連中は、酒は呑まないのにタバコは吸うという傾向があるという。さらに、低所得者層ほど喫煙率が高いというではないか。金ないんなら、タバコ止めりゃいいのに。

習慣的に喫煙している人のうち、タバコをやめたいと思う人の割合は、男性 35.9%、女性 43.6%で、男女合わせると 37.6%の人が、止めたいと答えているという。ということは、喫煙者のほぼ 3人に 2人はタバコは止めたくないと思っているわけだ。

さらに 3人に 1人がタバコを止めたいと思っていても、実際に止められるのはそこまでいかない。「タバコを止めたい」というのは単なるポーズにすぎず、「なかなか止められないのよね」と嘆いて見せたいだけという人も多い。いい気なものである。ということは、喫煙率はほんの少しずつしか下がらないということだ。

それにしても、タバコを吸う人というのは、これほどまでに他人に迷惑をかけているくせに、それにはほとんど無頓着で、一部は世の趨勢に関して「喫煙の自由を制限されている」などと被害者じみたことまで言い始めている。こんなに厚かましい存在というのは珍しい。

 

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