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2012年4月に作成された投稿

2012年4月30日

関越道のバス事故に関連して

5月の中旬、みちのくドサ廻りツアーという出張予定が入った。福島、仙台、盛岡、宮古を 3泊 4日で廻る。なにぶん東北のこととて、いずれの現場も陸の孤島みたいなところなので、鉄道とバスを乗り継いでいたら 3泊 4日では到底済みそうにない。そんなわけで車を運転するのだが、往復で 1,400km を超える強行軍になる。

そんな予定を調整していた矢先、例の関越道のツァーバス事故のニュースが入ってきた。事故を起こした運転手は夜通し運転する仕事スケジュールが続いて寝不足になっていたらしく、居眠り運転を認めているようだ。

こんなニュースがあると、「この出張中は、夜はなるべく早く寝て、寝不足になるのだけは絶対に避けよう」という気になる。旅行気分が過ぎて夜遅くまで飲みに付き合ったりしていたら、私ももうすぐ還暦になるし、体がもたない。命あっての物種である。

それにしても、深夜運行の高速バスというのは、かなりリスクを張った移動手段だと思う。交代要員もいない寝不足気味の運転手 1人に、40人ぐらいの乗客が命を預けるのだ。新幹線なら運転士がしばらくぼうっとなっても、ケータイをかけていても、何のことなく安全に動いてしまうらしいが、バスとなるとそうはいかない。

それに、道路の防音壁がバスの内部、しかもかなり後ろの方まで突き刺さるというのは、道路設計上の問題があるのではないかと思っていたら、やっぱりそんなような指摘がなされていた。Togetter で大貫剛(@ohnuki_tsuyoshi)さんという方の説明がまとめられている(参照)。重要部分を引用してみよう。

通常、衝突すると重大な事故になる構造物がある場合は、車がガードレールに沿って走れば衝突しないように、ガードレールを設置する。今回のような場合、ガードレールが防音壁の内側に少し重なるように設置すればいい。

ところが今回の事故現場では、ガードレールが途切れてその延長上に防音壁がある。これではダメだ。ガードレール上にオーバーハングした車はそのまま衝突してしまうではないか。ガードレールの目的は、浅い角度で衝突した車が擦りながら走ることで進路を誘導することなのに。

なるほど、とてもわかりやすい説明だ。ガードレールが適切に設置されていれば、少なくとも防音壁がバスの車内に突き刺さるような凄惨な事故になることは、防がれていたかもしれないのだ。国交省は今回の事故を重く見て、全国の高速道路の構造を再確認してもらいたいものだ。

とはいえ、最優先して考えなければならないのは、運転手が過労で寝不足になるのを避けることである。私もドサ廻りツァー中は、しっかり体力温存しようと思う。

 

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2012年4月29日

外国語で考えると冷静な判断ができるらしい

Wired の「外国語で考えるほうが合理的:研究結果」という記事に目を引かれた。「米国と韓国の被験者 300人余りを対象にした実験によって、第二言語でものを考えると、感情的反応に流されず、慎重に分析して判断を下す傾向が強まるとの実験結果が明らかになった」というのである。

そこで思い出したことがある。昔々、某外資系法人に勤務していた時、全職員の英語能力を 2段階に分けて、それぞれのクラスで全員が英語でディスカッションするというレッスンが、隔週に 1度ぐらいのペースで実施されていた。(私自身は高い方のレベルだったと思う)

ある日そこで、いろいろな国民性に関する論議が展開されていた時、他部署の女性マネジャーが "Americans are logical."(アメリカ人は論理的)と言った。その時私は、脊髄反射的に "I don't think so. Some of them are rather emotional." (そうは思わない。むしろ感情的なのもいる)と反論した。

そのクラスを担当していたインストラクターはなかなかインテリの英国人で、多くの米国人のがさつさ加減に閉口していたのか、私の意見にもろに賛成して、米国人は本当にエモーショナル過ぎるのが多いなんて言いだしたので、以後私は、その女性マネジャーからかなり睨まれてしまったような気がする。

そんなわけで私は、確かにいくら米国人でも、その女性マネジャーのエモーショナルな目からしたら、相対的に少しはロジカルに見えるのかもしれないと、ずっと思ってきた。

しかし今回の Wired の記事に沿えば、そのエモーショナルな女性マネジャーでも、英語で考える場合には、少しは感情から離れて論理的な思考ができていたのかもしれない。それで、「英語を使う米国人のメンタリティは論理的」と思いこんでいたんだろうね。英語の構造が日本語より少しだけロジカルにみえるところがあるのは、この際度外視したとしても。

ということは、英語で考える時にはキャリア・ウーマンでも、日本語に戻ればその辺のオバサンになってしまうことだってあり得るわけだ。彼女はレッスンが終わって日本語思考に戻った途端に私の発言を思い出し、「彼はアシスタント・マネジャーの分際で、私に恥をかかせた」なんて思ってしまったんだろうと思う。

とまあ、昔の記憶が呼び覚まされたついでに、そんなことを考えたわけである。

 

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2012年4月28日

クラウドに目覚めかけちゃって

Engadget の日本語版が「Google Drive 対 Dropbox、SkyDrive、iCloud 詳細比較チャート」という記事を書いてくれている。クラウド・サービスの比較だ。

私は最近ようやく、クラウドの便利さにしみじみ気付いて使い始めているところで、「Dropbox というアプリに感嘆」 なんていう記事を今さらながらのように 10日前に書いている。気付いてみると、使っている人は既にずいぶん使い倒しているようなのだ。

私はやっと Dropbox を無料分の容量の 2GB で使い始めているのだが、そもそものきっかけは、iCloud の使い勝手が今イチなことなのだ。MobileMe の頃は、どんなファイルでもどんどん放り込めたのだが、iCloud になってからは iOS と iWorks をベースとしたファイルしか対応してくれないみたいなのである。

Photo Stream の自動バックアップの便利さは文句のつけようがないが、元々 Apple という世界の中のシステムなので、本当に使い倒したかったら、PC も Mac にしなけりゃいけないんだろう。私としても、ゆくゆくは完全 Apple ユーザーになってしまいたい気がするのだが、PC が Windows の現状では「使い勝手がちょっとね」というところなのだ。

ちなみに、iCloud はフォルダ単位でクラウドにアップロードするということができないみたいで、それは MobileMe の時代からの不便さと同じである。もしかしたら、Apple ってクラウドの世界ではちょっとぶきっちょな企業なのかもしれない。

そこへいくと、Dropbox はフォルダ単位でひょいひょいクラウドにアップロードできるので、使い勝手がいい。そのうえ、Google まで Google Drive なんていうサービスを始めたというのだから、これは使ってみてもいいかもしれないと思っている。

ただ、ちょっと検索してみたら Google Drive にアップロードしてしまうと、そのファイルは Google が自由に使っちゃってもいいなんていう使用条件があるみたいで、「なんじゃ、そりゃ?」という感じがしている (参照)。

というわけで、しばらくは Dropbox メインで、もう少し様子を見てみようと思う。

【2026年 3月 5日 追記】

今さらながらの追記だが、Mac ユーザーとなって久しいので、今は当たり前に iCloud を使っている。

 

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2012年4月27日

「秘密の写真管理 - i 写真フォルダ」 というアプリ

私の iPad には 「i 写真フォルダ」 というアプリがインストールされていて、写真を任意のフォルダごとに分類して保存できる。iOS がまだ PC フリーじゃなくて、写真アルバムに新たなフォルダを作って分類するには、いちいち PC の iTunes とつながなくてはならなかった時代(とはいっても、つい昨年までのこと)にインストールしたものだ。

この「i 写真フォルダ」というアプリを使うと PC につながなくても、iPad だけで新たなフォルダを作り、そこに写真を保存しておくことができるので、なかなか便利なのである。

ところで、このアプリは案外頻繁に更新を重ねているようで、しょっちゅうアップデートが求められる。そしてその際に表示されるのは、「秘密の写真管理 - i 写真フォ...」という文字なのである。iPad のアイコンには 「i 写真フォルダ」としか表示されていないが、どうやら正式名称は 「秘密の写真管理 - i 写真フォルダ」というもののようなのだ。

さらにヤバいことに、アップデートを求める時には長すぎるので、「秘密の写真管理 - i 写真フォ...」までしか表示されない。初めの頃はこれを見て、「おい、俺はそんなヤバいアプリなんか持ってないぞ」と、ちょっとうろたえたものである。これだけ見ると、なんだか私が、相当にヤバい写真のコレクションを持っているんじゃないかと疑われそうではないか。

で、よく考えると、このアプリの実際の主要用途は、本当にヤバイ写真コレクションの管理をすることなんじゃないかと、近頃ようやく思い当たった。確かに、このアプリで作ったフォルダは、通常の「写真 ‐ アルバム」というルートを辿っては表示されず、ある種の「隠しフォルダ」になってしまう。さらにパスワードでガードすることもできるようなのだ

私はこれまで、「うーん、このアプリは確かに便利だけど、デフォルト写真アルバムでは表示されなくなっちゃうのが不便だなあ」と思っていた。しかし何を隠そう(いや、隠してるのだが)、デフォルトのアルバムには表示されないということこそが、最大のウリのアプリだったのである。そこに気付かなかったとは、私も相当のぼんやりである。

で、iPad の OS はとっくに iOS 5 にアップデートされ、それにともなって、PC に接続しなくても写真アルバムに新たなフォルダを作って管理できるようになった。ということは、この「秘密の写真管理 - i 写真フォルダ」という長い名前のアプリは、不要ということになってしまったのである。

こんなの入れておくと、しょっちゅうアップデートを求められてうっとうしいし、何となく聞こえも悪いので、削除してしまおうかと思っているのだが、これまでこのアプリで作ったフォルダ内の写真を、デフォルトの写真アルバムに移すのが面倒で、まだ入ったままになっているのである。

あ、それから、ヤバい写真のコレクションをしている人にとっては、確かに便利で役に立つアプリかもしれないと、オススメしておく。

 

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2012年4月26日

小沢さんの無罪判決は当然として

小沢さんに無罪判決が言い渡された。私はずっと前から「小沢一郎は無罪になるべき」と何度も何度も言っているので、この件に関しては何の不満もない。落ち着くところに落ち着いたのだと思う。「推定無罪」の原則から言って、当然の判決だ。

ただ、一昨年 10月の "「推定無罪」 と 「本当に潔白」 とのビミョーな差" という記事に書いたように、裁判で「無罪」になったからといって、「晴れて潔白」になったというわけじゃない。私はこの記事の中で、次のように書いている。

こうした場合、「裁判で無罪になったんだから、俺は潔白」と大いばりで言い張るのは、理屈から言っても、実はおかしい。だって、「無罪判決」には「無実(潔白)の証明」が必要ないんだから。この二つって、実はビミョーに別のことなんでしょ。「推定無罪」って、そもそもそういうことなんでしょ。

「無罪」と「無実(潔白)」とは、ビミョーに違うのだ。裁判で「無罪」になったからといって、それは「無実(潔白)」が証明されたからというわけじゃなく、「有罪にするほどの有力な証拠は残されてないんだよね」 というだけのことである。マスコミの大好きな「道義的責任」なんていう陳腐なお話とは別に、理屈の上での単純なお話である。

英語の裁判用語において "guilty(有罪)" の反対語は "innocent(無実)" ではなく、"not guilty(非有罪)" というが、まさに文字通りそうなのだ。罪を犯していない人を有罪としてしまったという誤審の逆のケースとして、無罪判決ではあっても 「本当はやっちゃったんだけどね」 という例だってないはずはない。

とはいえ、無罪判決が出たらいくら怪しくてもそれはそれとして尊重し、後々になっても「でも、やっぱりやっちゃったに違いないよね」なんてことをしつこく表立って言うのは、なしにしようよねという、そういうお約束なのだ。ただ、多くの人が心の底で割り切れない思いを抱いてしまうことまでは、誰もコントロールできないよねという、そういうお話でもある。

今回の件に関しては、私は「小沢さんは当然にも無罪だが、だからと言って彼の今後に大いに期待する」なんてことは全然思っていないのである。無罪になったんだから、今回の消費税問題でもいろいろと前面に出てくることもあるだろうが、それはもう、うっとうしいというだけのことだ。

小沢さんの自宅には、無罪判決のお祝いの胡蝶蘭が次々に届けられたというニュースを聞いて、「はぁ」と溜息をついてしまったよ。

 

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2012年4月25日

ならば、太平洋に「東海」と併記せよ

国際水路機関(IHO)という組織の総会が 23日からモナコで開催されていて、その会合で日本海呼称問題についての討議が行われたのだそうだ。韓国が「東海」との併記を求めているという、例のアレだ。内容的には、日韓両国ともに従来の主張を譲らず、平行線をたどっているらしい。

常識的に考えれば、韓国の主張する「東海」というのは無理がある。自分の国の東にある海を「東海」と呼ぶのは、単なるローカル・ルールであって、国際的呼称とするにはふさわしくない。

英語表記で "East Sea" または "Eastern Sea" と書いてみれば、固有名詞にはしにくいということがよくわかるだろう。これを認めたら、東側に海岸線をもつ国の多くが、「この海は『東海』だ」と無茶を言い出せることになる。

韓国にしてみれば、「急に言いだしたことじゃなく、昔からそう呼んでいたのだから歴史的裏付けがある」ということなのだろうが、それだったら、日本だって「現在『太平洋』と言われている海は、我が国では昔から『東海』と呼んできたのだから、太平洋には『東海』と併記しろ」なんて無茶を言える。

何しろ、江戸から京都までの街道を昔から「東海道」と呼んできたという、誰も否定できない歴史があり、現在は静岡から愛知までを「東海地方」と呼び習わしている。「文句あるか」ってなものである。

さらに、「東シナ海には『西海』と併記しろ」とだって言える。昔から九州を「西海道」と呼んできたのだから、韓国的スタンダードに沿ったら決して無茶というわけじゃない。それが、フツーに考えたら無茶ということになるのは、韓国のスタンダードの方が無茶ということを物語るわけなのだよね。

ちなみに、韓国が「黄海は『西海』だ」と主張しないというのは、なかなかおもしろいメンタリティである。案外そのうち言い出すかもしれないが。

【2025年 2月 2日 追記】

長らく追記しそびれていたが、韓国は「黄海は『西海』だ」と言い出して久しい(参照)。

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2012年4月24日

英語はほとんどファンタジー

このほど JR 常磐線取手駅の駅ビル(ボックスヒル)のマイナーチェンジ的な改装ができあがったようで、本屋に寄ってみたら、今までの裏寂しいイメージと比べればずっと小洒落た感じになっていた。

ところが本屋で本を買ったついでに、トイレに寄って驚いた。改装なったトイレの入り口の真新しいプレートには、男性と思われるアイコンと一緒に 「男子トイレ Men Toilet」 と表示してあるのである。

Img_5100

あまり驚いたので、iPhone で証拠写真を撮っておいた。それが上の写真である。Men Toilet なんてとんでもないことを言ってしまっては、複数と単数が混じっちゃってるが、日本語に戻したら 「人間便器」 になってしまうではないか。イメージするだに恐ろしい。

「いやいや……」と私は気を取り直した。これは「男子 - Men」「トイレ - Toilet」 を単純に並べるという、まるで小学生みたいな翻訳をしてしまったから、こんなことになったのだ。うん、そうだ。いくらなんでもそうとしか考えられない。きっと、"Men's Room" というフツーの言い方を知らなかっただけなんだ。うん。

とまあ、こんな表示を見るにつけ、フツーの日本人にとっての英語というのは、ほとんど実体のない「ファンタジー」に近いものと思うほかないのである。先月 14日の "「聞き流すだけ」 という英会話教材を巡る冒険" で、「具体的に英語でどうしたい、こうしたいというようなことじゃないみたいなのだ」と書いた通りである。

さすがに近頃では、「納豆ダイエット」 とか 「トマトで痩せられる」 とかいうのをそのまま鵜呑みにする人は少なくなったが、テレビやラジオの CM の 「聞き流すだけで 2ヶ月経ったら、目の前の外国人の会話がほとんど理解できた」なんていうファンタジーに関しては、そのまま素朴に信じちゃう人がまだまだいるようなのである。

日本人にとっての英語は、納豆やトマトほど身近な現実感がないから、濃いめのファンタジー要素をいつまでもいつまでも保持し続けられるのだね。ファンタジーの濃さに関しては米国人にとっての日本語(漢字)も負けていないのだろうが、ファンタジー英語とファンタジー日本語では、今のところ影響力が段違いだ。

ついでに思い出したが、一昨日のラジオの聴取者参加番組で、電話をかけてきた人の上司が、米国だかどこだかのホテルのフロントで、「タクシーを呼んでくれ」のつもりで "Call me taxi." を連発したと言っていた。

番組のパーソナリティは、初めは何がおかしいのかさっぱりわからない様子だった。うぅん、「俺をタクシーと呼んでくれ」と言われたフロントはきっと、一瞬は頭がおかしい人が現れたと思っただろうけど。

 

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2012年4月23日

UFC 145 を見て

録画してもらっていた UFC 145 の試合を、今日ようやく見ることができた。この 2日間、忙しくてテレビ画面に向かう暇がなかったのである。

今回の目玉は、ライト・ヘビー級の元同門対決、ジョン・ジョーンズ対ラシャー・エバンズの試合だった。ジョン・ジョーンズはこれまで、ショーグンやリョートを呆気ないほどに葬ってきた、異次元と言われるほどの実力者。そのジョーンズに、兄弟子のエバンズがどう対抗するかが見物だった。

結論。さすが相手は実力者のジョーンズで、エバンズはようやく判定に持ち込んだが、大差で負けとなった。あの肘打ちはかなりのダメージとなったようだ。

それからウェルター級のローリー・マクドナルドという選手は、若干 22歳というのに、非常に理詰めで無駄のない動きをし、しかも力強さもある。近いうちにチャンピオンになるだろう。UFC のレベルは本当に上がった。

日本ではプライドがおかしくなって、K-1 もオールド・ネームの客寄せパンダに頼るシステムで見放され、格闘技が衰退してしまったというのに、米国では見事に進化している。しっかりとしたマネジメントで長期的な戦略を構築すると、こんなにもいい結果になるといういい見本である。

日本の格闘技は、結局プロレス体質が抜けずに、まともなマネジメントができなかった。まともなマネジメントができなかったために、技術の向上も果たせず、10年前のレベルで止まってしまっている。日本選手の UFC での無惨な戦績をみれば、それがよくわかる。

 

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2012年4月22日

まともな春はまだか

いやはや、世の中はまだまだ寒い。東京都心はもう少しましなのかもしれないが、利根川を渡って茨城県に入ってしまうと、着るものが 1枚違う。さらに水戸市に入って那珂川を越えると、もう一段寒くなる。今年の春は本当に歩みが遅い。

先日は昼の気温が 20度を超えるようになって、ようやくまともな春が来たと思っていたのだが、またしても最高気温が 14度だの 15度だのになってしまった。このくらいの気温なら、ちょっと暖冬といわれる年なら、真冬でも記録する。

夜になるとしんしんと冷えてくる。私の仕事部屋は、昨年の震災以来エアコンのコンセントを抜いてしまったから、真冬でも暖房を入れなかった。寒かったら重ね着するだけである。ユニクロのエアテック・ズボン下をはいて、フリースとダウン・ジャケットを重ね着し、ウールのマフラーを巻いてフリースのキャップをかぶっていたから、真冬でも暖房なしで耐えられた。

ところが今は、ズボン下から決別したし、ダウン・ジャケットもマフラーもクローゼットにしまい込んでしまったので、体感的には真冬以上に寒い。ここ 2~3日のこの辺りの最低気温は、5度とか 6度とかだった。真冬の間は、最低気温が マイナス5~6度ぐらいに下がっていたので、それに比べれば、ほぼ 10度も暖かくなっている。

つまり近頃は、それほど低い気温というわけじゃないが、真冬に比べて薄着になったので、体感的には同じくらい寒いのである。人間とはまことに勝手なものである。

天気予報をみると、今秋の火曜日あたりから最高気温が 20度を超えて、再び春らしくなるという。そうなることを本当に期待する。ただ、暖かくなったり寒くなったりを数回繰り返して、ある日突然夏になるという最近のパターンは、ちょっといやだなあ。

 

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2012年4月21日

食い物のコラボ

私のブログは基本的に平日型で、土日祝日になるとアクセスが 3割方減る。会社の PC で見てくれている人が多いんだと思う。その証拠に、ウィークデイの午前 9時台、12時台、午後 3時台のアクセスが多い。皆さん、朝イチの PC 立ち上げ時、昼休み、3時のお茶の時間に、ちょこっとアクセスしてくれているようだ。

基本的に勤務時間内なので、さっと目を通して何か思うところあったとしても、あまりコメントまでは書けない。だから私のブログは、ウィークデイは 1500件からのアクセスがあるにしては、コメントが案外少ない。そういう体質のブログなのである。

今日は土曜日なので、アクセスの少ない日である。というわけで、ごく軽いテーマで書いてみよう。「食い物のコラボ」という話である。

食い物には、いい組み合わせと悪い組み合わせがある。単体ではとくに旨いものでもないのに、組み合わせると急においしくなるものがあるかと思えば、単体でどんなに旨くても、組み合わせると台無しになるものもある。

"Chemistry" とは化学反応のことだが、英語では「相性」のこともそういったりする。まさに舌の上で味覚の化学反応が生じているんじゃないかという気がするほどで、わけのわからない相性というものが馬鹿にできないのは、コンピュータの世界でも食い物の世界でも同様である。

さて、私が「地上最強の食い物コラボ」と思っているのは、「あんこと塩」だ。例えば「塩羊羹」である。

私は羊羹そのものは嫌いという程じゃないが、取り立てて好きというわけでもない。音に聞く「虎屋の羊羹」をもらっても、それほどうれしいとも思わない。ところが諏訪大社の近くの新鶴本店の塩羊羹をもらったりすると、かなりうれしい。すぐに食いたくなってしまったりする。

「あんこと塩」に限らず、「甘みと塩味」の組み合わせというのは、これはもう、逃れられないほど旨い。だから塩羊羹だけでなく、西瓜に塩をふったりするのもいいし、「塩けんぴ」なんていうのも、食い始めると「止められない、止まらない」状態になる。多分、この組み合わせは人間の業に訴えるところがあるんだと思う。

もう一つ、あまり知られていない組み合わせに、「蕎麦と大根」というのがある。これは「あんこと塩」に匹敵するほどの組み合わせだ。千切り大根を蕎麦に混ぜる 「大根蕎麦」 は北関東の名物料理で、館林や佐野の周辺の蕎麦屋で食うことができる。食べてみると、「おぉ、これは!」というほどの見事な食感だ。

この組み合わせは元来、お寺の精進料理として発展したものらしく、「寺方蕎麦」とも言われて、浅草や向島の「長浦蕎麦」という店の看板メニューにもなっている。一度試してみるといい。ちょっと趣向を変えて、盛り蕎麦のサイドメニューとして切り干し大根の小鉢なんかが付いているというのも、私としてはものすごく嬉しかったりする。

それから、私自身はまだ恐くて試したことはないのだが、「マグロの赤身とイチゴ」というのがいいらしい。これはアルケッチャーノの奥田シェフが某テレビ番組で「赤い者同士は合う」と力説していたことなので、デタラメではない。言われた通り、恐る恐るマグロの赤身とイチゴを同時に口に入れたアナウンサーが、あまりのおいしさに目を丸くしていた。

それで言ったら、サーモンと柿というのも合いそうだ。秋になったら、一度試してみようか知らん。

 

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2012年4月20日

メール利用と、そのデバイス

インターネットコムと goo リサーチの定期リサーチ最新版によると、メール利用のデバイスは、「パソコン」が 31.0%、「携帯電話/スマートフォン」が 55.0% だったそうだ(参照)。リサーチ実施の度に、「携帯電話/スマートフォン」の比率が上がっているという。

調査対象の年代は 10代から 50歳以上までで、比率的にも極端な偏りはない。ということは、この傾向は我が国全般の傾向とみてもいいだろう。メールの受発信はケータイかスマホでするというのが、この国のごくフツーのやり方になったのだ。

名刺に印刷してある会社のメルアドに、私用のメールを送ることにあまり抵抗がなかったのは、もう 10年近く前のことになってしまったろうか。最近はその辺のことがかなりやかましくなったようで、「私用のメールはこちらに送ってね」と、ケータイのアドレスを指定されることが増えた。

近頃では家庭でも光回線でインターネット接続している人が増えたので、大抵の人はどこかのプロバイダを利用していて、その関係でプロバイダのドメインでのメルアドぐらいはもっているのだろうが、その利用はあまり多くないようだ。

その証拠に、プライベートのアドレス(ドメインが @nifty とか biglobe とか)にメールを送ってもいつまでも反応がないが、ケータイのアドレス(docomo とか ezweb とか)に送ると、すぐに返事が来たりする。そういう人の家の PC の受信箱には、未読メールがどっさりたまっているだろうと想像していたが、聞いてみると、受信そのものがあまりないらしい。

ちょっと前までは、名刺に記載するメルアドは、会社の名刺だったら独自ドメイン、プライベートの名刺だったらケータイ・アドレスではないプロバイダのドメインにする方が、なんとなく信用してもらえると思われていた。Yahoo や Hotmail などのインターネット・メールでも、一段低く見られていたものである。

最近は会社の独自ドメインはごく普通になり、プロバイダのドメインの後にスラッシュなんちゃらかんちゃらというのは、かなり少なくなった。一方、プライベートの方では Google mail(@gmail.com ってやつ)の地位がかなり上がって、ごく普通に使っても軽く見られなくなった。そればかりでなく、ケータイ・アドレスさえも大手を振っている。

ただ、少々込み入った(少しばかり IT 知識が必要な)内容のメールを送る時に、相手がケータイ・アドレスだと、「この人、大丈夫かなあ」と心配になってしまうのは否めない。経験上、大丈夫じゃないケースが多いのだ。名刺に記載するのはケータイ・アドレス以外のものの方が、やはり今でも信用度がアップする。

ケータイ・アドレスは、家族とごく親しい知人・友人以外には教えない方がいいと思っている私は、もしかして、頭が古くなっちまったんだろうか。

最近はケータイ・アドレス以外のアドレスもスマホで使えるので、自分のもっているほとんどのメルアド宛のメールを、PC から離れていても即座に受信できる。その意味でも、ケータイ以外のアドレスを公開し、それをスマホで楽に受発信するというのが、なんとなく精神衛生にもいいような気がするのである。ガラケーだと、それができないのが痛い。

その意味でも、今は確かに「スマホの時代」 なのだろう。「PCの時代の終わり」は既に現実になった。今どきになってもパソコン教室なんかに通って、何度も何度も同じところでつまづいてヒイヒイ言いつつ、自宅の PC の前に座っても Skype で挫折したりしているオジサンやオバサンが、私は不憫でならない。

 

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2012年4月19日

お天気と 「旬」

近頃、お天気の推移がよくわからない。お天気がわからないと、外に着ていくものをどうすればいいかわからないので、困ってしまうのである。いつもの年なら、4月も中旬を過ぎればジャケットは春夏物の、背中の部分が一重仕立てのもので十分なのだが、今年はなかなかそうもいかない。どちらにすればいいか、迷いに迷う。

朝の出がけは案外肌寒いぐらいなので、秋冬物ジャケット、つまり背中に裏地のついたやつを着て出ると、昼に近づくにつれて暑くなり、汗をかいてしまう。「しまった、春夏物にすればよかったな」と思っていると、夕方には冷たい風が吹き始め、夜になると寒くなる。まるで大陸性気候のような気温の変化である。

朝から暖かめなので「これなら大丈夫」と、春夏物を着て出ると、信じられないことに、電車内は冷房が入っている。ラッシュアワーだと暑苦しくなってしまうのかもしれないが、混雑の時間が終わっても天井から冷たい風が吹き降りてくる。電車内の冷房というのは、所々に効き過ぎるスポットがあって、たまたまそこに腰を下ろしてしまうと凍えてしまう。

本当にもう、世の中は電力節減とか省エネとか言ってるのに、JR 東日本は一体何を考えてるんだ。男はやせ我慢をするが、若い女性は大変だろう。薄手のカーディガンか何かを羽織ったり脱いだり、ご苦労なことである。

ちなみに、日本人は暑さ寒さの変化に敏感なのではないかと思う。要するに、暑がりで寒がりなのだ。これが米国あたりに行くと、日本人には信じられない光景が広がる。冬でも Tシャツ一枚の兄ちゃんがいるかと思うと、汗ばむ陽気でもダウンパーカを着ている人もいる。

これでは日本人が敏感なのか、アメリカ人が鈍感なのか、わからなくなる。大陸で育った連中は、いちいち暑いとか寒いとか言ってられない体質になったのかしらん。

そこへいくと、日本人の気候や季節に関する感受性はなかなか立派なもので、暑いとか寒いとか言うのは大変だが、その分、人生を豊かにしてくれる。「旬」という感覚がこれほど重要視されているのは、この国ぐらいしかないんじゃなかろうか。英語で "in season" なんて言ってしまうと、ちょっとぶちこわしだし。

 

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2012年4月18日

Dropbox というアプリに感嘆

大変遅ればせながら、Dropbox というオンライン・ストレージ・サービスを使い始めた。ファイル共有のためなら、いろいろな無料のオンライン・ストレージがあり、私もこれまで、いろいろなサービスを使ってきてはいた。

しかし、この Dropbox というサービスに辿り着いたら、「うむ、ウワサに違わぬ最強のサービスじゃん」と、素直に感嘆してしまった。今までどうしてこんな素晴らしいサービスを使わなかったんだろうと、我ながら呆れるほどだ。

これまでその存在と最上級に近いほどの反響を知りながら、ついぞ使わなかったのは、単にウェブ・ブラウザー上からの操作では利用できないという制約のせいだと思う。第三者とファイルを共有するのに、わざわざ「Dropbox というアプリをインストールしてちょうだい」と頼むのに、ちょっとした抵抗を感じていたのだ。

ところが第三者とのファイル共有以前に、自分の中でのファイル共有が必要になったのだ。以前はデスクトップとモバイル・ノートの、2台の PC を使っていたので、2台の PC のファイルを LAN で同期させていた。しかし現在の環境はがらりと変わってしまった。

今は、ノート PC 1台と、iPad/iPhone という体制なのである。Windows 同士でファイルを同期させていた頃とはわけが違うのだ。ここはどうしても、Wifi を経由したオンラインでの同期でなければならない。

この体制になってすぐに、Evernote というサービスを使い始めた。しかしこれはなんとなくかったるくて、iPhone で 「いつもクラウドでバックアップが取れているメモ帳」 といった感じの使い方しかしてこなかった。

それに iOS 5 になってからは、iPad と iPhone 側からみれば、iCloud というサービスがある。これは本当に素晴らしいもので、同期をとるなんてことは意識しなくても、いつの間にか同期されている。ただし、Windows PC との間の同期は、やはりちょっとかったるい。

いや、「かったるい」というのは、そう思っていただけだった。今回 Dropbox を使い始めたら、それは全然かったるいものではなかったのである。本当に 「意識しなくても同期が取れる」 というレベルのものであったのだ。何しろ、PC のマイドキュメントと同じような感覚で保存したデータを、iPhone や iPad で操作できるのだから。

何のことだかわからないという方は、だまされたと思って Dropbox というアプリをインストールしてみるといい。「なるほど、こんなに楽に使えるのか」と、納得されるはずだ。

 

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2012年4月17日

老眼の度が進んでしまって

近頃、老眼の度が進んでしまったみたいで、夕方近くになると目が疲れてしょうがない。朝にはなんということなく読めていた活字が、夕方になるとぼやけて読めなくなってしまうのだ。しかたがないので、昨日眼鏡のレンズを交換してもらうために、眼鏡屋に行ってきた。

眼鏡屋のスタッフは私の目の検査でいろいろなデータを取ると、「これは、若い頃にはとても目がよかった人のパターンですね」と言う。そう、私は中学・高校時代は、視力検査の時に一番下の 2.0 の文字が苦もなく読めたのである。モンゴル人並みだ。

「目がよかった人ほど、一定の年齢になると、疲れ目をうったえられます。逆に若い頃から近視だったという人で疲れ目になる人は、ほとんどいらっしゃいません」と言うのである。へぇ、そんなものか。

帰宅して妻に聞いたら、「私、疲れ目なんて、なったことがないわ」と言う。妻は中学校の頃から近視だったらしい。道理で、分厚い推理小説を長時間読んで平気だ。それに本を読む時には眼鏡を取っている。

近頃根を詰めて分厚い本なんか読めない体になってしまっている私からすれば、うらやましい限りである。若い頃は近視でなくてよかったと思っていたが、長い目でみると何が幸いするか知れたものではない。

新しいレンズは、来週の火曜日にできあがってくる。それまでの辛抱である。

 

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2012年4月16日

ネコを飼って元気になる

日経 BP に 「ネコが人を元気にする科学的な根拠 寄生虫のなせる技?」という記事がある。ネコを宿主とするトキソプラズマという原虫が人間にも寄生すると、ドーパミンの分泌が盛んになって、元気が出ちゃうという説が、大まじめに説かれているんだそうだ。

ドーパミンの分泌が多いと、食欲や性欲がわき、やる気がみなぎり、意欲的に生活することができるという。しかし多すぎると飽きっぽくて常に新たな刺激を求めるようになり、冒険や探検、転職や転居が大好きで、恋人や自動車をひんぱんにかえ、スリルを求めるようになる。いるよね、そんなタイプ。

ちなみに私は昔からネコとの接触が多い。私の祖母は近所から「ネコばあさん」と呼ばれるほどのネコ好きで、子どもの頃の我が家には、多い時には何匹いるかわからないほどのネコがいた。もっとも後で知ったのだが、純粋な「家ネコ」はほんの 2~3匹で、後は我が家に頻繁に出入りする「地域ネコ」だったらしい。

とはいえ、私としては幼い頃からネコに囲まれて暮らしていて、どれが家ネコでどれが地域ネコだなんていう区別は、ちっとも意識していなかった。ちゃんとそれぞれに名前も付いていたしね。

いずれにしても、ネコというのはその辺をうろうろして、台所の片隅に置かれた「ネコまんま」に首を突っ込んで食べているという存在だった。そして夜寝ている時に布団の足元に乗っかられると、うなされるほど重い。

私がちょっとやそっとでめげないのは、幼い頃からネコに囲まれて育って、知らないうちにトキソプラズマを寄生させているからなのかしらん。ただ、辛うじてドーパミンの過剰分泌には至らずに済んでいるようで、何とかなっている。

ネコの「癒し効果」 いうのはよくいわれることだが、ちょっとうつ気味のやつには、ネコを飼わせるといいかもしれない。

 

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2012年4月15日

あの当時のカウンター・カルチャーへの思い入れ

実はちょっとだけガックリしている。

というのは、3日前の記事 「60歳以上は信用するな」にまったくコメントが付かなかったからだ。この記事は、夏野剛氏の「60歳以上は信用するな! 夏野剛が若者に伝えたい、ワークスタイルの新フォーム」という記事の紹介に名を借りて、1960年代後半から 70年代初頭にかけてのカウンター・カルチャーへの思いを書いたものだった。

かなり強烈な思い入れを表現するために、ジェリー・ルービンの「Do It ―― やっちまえ」の日本語版の写真まで付けておいたので、「懐かしい!」といった反応があるんじゃないかと、内心期待していたのだが、今のところ、さっぱりである。「ありゃりゃ」ってなもんだ。

私にとっては、あの当時のムーブメントはかなり大きなものだったんだが、日本では大したものと思われていなかったのか、あるいは、話題にはなったものの、単なる流行りものとしてしか受け止められていなかったのか。いずれにしても拍子抜けである。

この拍子抜け感は、なにかデジャヴ感があると思ったら、それは 1970年、高校 3年の時の映画 "Woodstock" の時の拍子抜け感とよく似ている。

これに関しては、7年半前に書いているので、「ウッドストック」という記事をお読みいただきたい。これは拍子抜け感について書いたものだが、この記事自体もコメントがゼロという拍子抜けものだった。どうもこの手の私の思いというのは、スベってしまいがちなのかしらん。

手短に紹介すると、あの伝説のロック・イベント、ウッドストックの記録映画が、当時私の住んでいた酒田の街の映画館で上映されたが、その初日は、高校の期末試験前日に当たっていた。

それでも私は、酒田中の高校生が試験勉強なんてものは放り出して映画館に殺到するものだと疑いもせずにいて、1週間も前から指定席券を手配していたのだが、上映初日の映画館はガラガラだったというお話である。

「なんだ、みんな、ウッドストックよりも試験でいい点を取ることの方が大事なのかよ」と、私は裏切られた思いで一杯になったのだが、映画が始まってしまってからは、もうそんなことは忘れて夢中になってしまったのであった。

というわけで、あの当時のカウンター・カルチャーに、本気で夢中になった人間というのは、私が思っていたほど多くはなかったようなのである。それで、"Do It" の表紙の写真を見て心が騒いでしまう人というのも、そんなにはいないということなのだね。はいはい。

 

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2012年4月14日

北朝鮮の「ミサイル」騒動

北朝鮮が「人工衛星打上げロケット」としながら、北朝鮮以外の国では足並み揃えて「ミサイルだ」と言い立て、発射されてみたらミサイルにもなりきれていなかったことがバレてしまった「アレ」は、本当に一体何だったんだろう?

北朝鮮のキム・ジョンウンとその取り巻き連中は、「アレ」をどのように位置づけていたんだろう。彼らにしてみれば、「ロケット」のような「ミサイル」のような、曰く言い難いものであって、まあ、それなら対外的には「ロケット」ということにしておこうと、そんな思惑だったんだろう。

「ミサイル」じゃありませんよ、あくまで「ロケット」なんですよということにしておいて、まあ、人工衛星の打上げに成功するなんて誰も思っていないけど、その副産物として、ミサイルとしての軍事効果を対外的にアピールできると思っていただろうというのは、言うまでもない。

たまたま、ひょんな幸運からロケットとしての打ち上げまでうまく行ったとしても、積み込んでいた「人工衛星」が軌道にのって作動するはずはないから、あれはダミーもいいところだったんだろう。最もラッキーなケースでの発表予定稿は、「ロケットは成層圏に達したが、人工衛星の切り離しに惜しくも失敗」とかいうものだったに違いない。

ところが、今回の北朝鮮の読みは甘すぎた。ミサイルとしてさえチョー出来損ないで、本来なら「沖縄の基地なんて、十分射程内だぜ」と言える効果を期待していたのだろうが、その遙か手前で空中分解して落っこちてしまった。そこまでひどいものとは、少なくともキム・ジョンウンは聞かされていなかっただろう。

さらに、世界は初めから「ロケットじゃなくてミサイルなので、国連安保理決議違反」と、もろに一方的に決めつけた。もう少し灰色部分が残ると期待していたんだろうが、中国までむかつかせてしまったし、一度決まっていた米国の食糧支援はおじゃんになった。キム・ジョンウンの威信は傷つくし、踏んだり蹴ったりである。

これは、北朝鮮内の情報が無茶苦茶になっていることの現われだろうと想像する。キム・ジョンウンの元には多分、まともな情報が上がってきていないのだ。急な世襲を仕立て上げなければならないどさくさで、まともなことを言ったら粛正されるに決まっているから、誰も本当のことは言えないのだ。彼の周囲は茶坊主ばかりになってしまっているだろう。

だから北朝鮮内の技術屋は、まともに飛ぶかどうかわからないミサイルを、「沖縄の向こうまで確実に飛ばせる」と言い、外交屋は「あくまでロケットと言い続ければ、ウヤムヤのままで切り抜けられる」と進言していたのだろう。下手したら「人工衛星打上げまで成功すれば、スパイ衛星として使える」なんてことまで言っていたかもしれない。

デタラメな情報に踊らされ、超希望的な憶測だけでものごとを進める以外に、引っ込みのつかない状況になっているとしか思われない。それでキム・ジョンウンは、高らかに「ロケット打上げ」を発表し、いつにないほど外国人記者団を招き入れたのだ。そこまでしてしまった以上、「思ったよりヤバそうだから、やっぱり中止」なんてことはできない。

それは案外、戦前の日本にも似た状況だろうと思われる。となると、いつ真珠湾攻撃みたいなことをやらかさないとも限らないが、現代の技術では、戦争準備みたいなことをやったら衛星写真でバレバレになる。

ということは、あの「ロケット」があっという間に落っこちてしまったことは、実は最も幸いなストーリーだったと言えないこともない。「はい、ウチはそこまでの軍事力なんてありませんから、そんなに脅威と思わないでください」 というメッセージになるからだ。もしかしたらあれは、「瀬戸際の計算ずく自爆」だったかもしれない。

下手に沖縄の向こうまで飛んじゃったら、こんなもんじゃ済まなかっただろうし。

 

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2012年4月13日

祇園の暴走事故について

私は 「健康のためなら命も惜しくない」 というパラドックスをよく喩えに出すのだが、京都祇園の暴走事故も、「仕事を続けるためなら命も惜しくない」という心理で運転を続けたことによる悲劇のようだ。

このところてんかんを患っている運転者による死亡事故が、よくニュースになる。交通死亡事故の圧倒的多数は、てんかん患者ではない運転者によるものだとはいえ、明らかな危険が予見可能である以上、重度のてんかん患者には運転免許の交付を行わないなどの措置が必要だろう。

「差別につながる」などの指摘もあるが、それを言ってしまったら、免許交付時の色弱や難聴の検査でさえも問題になりかねない。重度のてんかんは色弱や難聴と同様に自動車運転時の危険につながるのだから、やはり現状以上の対策が必要だろう。

ただし、すべてのてんかん患者が運転免許交付を受けるべきではないと主張しているわけではない。それを言ったら、それこそ差別になってしまう。色弱でも、交通信号の赤・青(緑)・黄の区別がつきさえすれば運転できるし、難聴でもそれほどひどくなければ OK だ。程度問題である。

最近の医療の進歩によって、てんかんも適切な治療を受けてさえいれば、多くはそれほど深刻な発作は出ないとされているので、患者の多くは問題なく運転免許の交付を受けることができるだろう。ただ、これは色弱や難聴の検査のように簡単に調べられないので、自己申告に頼ることになるのが問題だ。

残念ながら今回の祇園の事故では、藤崎容疑者の症状はそれほど軽いものではなかったようだ。通院していた病院は適切な治療をしてきたうえで、「本人と家族に対しては自動車の運転は禁止だと何度も伝えていた」としており、さらに本人の家族も仕事を辞めるように忠告し、母親が区役所に障害者認定について相談したばかりだったという。

しかし当人は、運転免許更新時にもてんかんについての申告をせず、さらに会社にも伝えていなかったようだ。残念なことに、まさに 「仕事を続けるためなら命も惜しくない」 という状態である。今回のような事故では、自分の命だけでなく他人の命も巻き添えにしてしまうのだから、くれぐれも慎重さが求められる。ただ、それはなかなか困難だろうが。

ところで今回の事故に関するニュースで、細かいところにこだわるのが専門の私が最も気になったのは、時事ドットコムの次の記述だ。(参照

同容疑者は 1、2年前からてんかんの発作を起こしていたといい、家族は運転を続けるのであれば会社を辞めるよう忠告していたが、会社側は病気について全く把握していなかったとしている。

「運転を続けるのであれば会社を辞めるよう忠告」というのは、にわかには信じられない。これが本当なら、 「仕事を続けるためなら命も惜しくない」という以上のカオスだ。私としては、記者の筆が滑ったものと信じたい。

 

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2012年4月12日

60歳以上は信用するな

60歳以上は信用するな! 夏野剛が若者に伝えたい、ワークスタイルの新フォーム」という Wired の記事を読んだ。

夏野氏は、現在「個人の情報発信能力を高めた "ソーシャル革命"」が進行中であるとし、日本において「それを阻んでいるのが60歳+−5歳の世代」と規定して、「彼らの大多数は、新しい IT や事象に疎いし、同じ世代としか付き合いたがらない。そもそも新しいライフスタイルに適応できないと思っているので、IT に対する抵抗感が強い」と指摘している。

そして、自分の生徒たちに「オジさんの話を聞くのはいい。でも、絶対に言うとおりにはするな」と教えているという。

なるほど、なるほど。「60歳以上は信用するな」という見出しを読んだ時、私はまだ辛うじて 60歳になっていないから(今年の夏に還暦になるけどね)、「まあ、いいか」と思ったのだが、本文の中で、ソーシャル革命を阻んでいるのが「60歳+−5歳の世代」と書かれているので、「何だよ、俺も含まれてるのか!」と、俄然ムッときた。

だったら、初めから「55歳以上は信用するな」と書きゃいいじゃないか。しかし、そもそも「○歳以上は信用するな」というのは、申し訳ないけど、元々は現在 60歳以上になっているオッサンたちが、若い頃に叫んでいたレトリックなのである。

このフレーズがメジャーになったのは 1964年、バークレーのフリー・スピーチ・ムーブメント(FSM) 集会で、ジャック・ワインバーグ (Jack Weinberg)という男が "Don't trust anyone over thirty!"(30歳以上は誰だろうと信用するな!)と叫んだことに端を発する。1986年に日本でムーンライダーズが歌ってからというわけじゃないのだ (参照)。

あれから 48年経って、「30歳以上」が「60歳以上」に上積みされたわけか。48年経ってしまったのだから、当時 13歳だった私が 「信用するな」と言われた年齢に達しているのも、しかたのないことなのかもしれない。しかし、待てよ。本来なら 48年経ったら「30歳以上」というのが「78歳以上」になっていてもいいじゃないか。

それが今になって、「60歳以上は信用するな」になったのだから、途中の 18年間は悲しいまでの反動時代だったのかもしれない。

ヒッピー・ジェネレーションの中でもとくに Yippies (イッピー) と言われた Jerry Rubin という男が書いた "Do It" という本がある (参照)。この本は 1970年に世に出たのだが、翌年には日本語の翻訳版が出て、私の本棚の中にかなり黄ばんだ姿で所蔵されている。邦題は「やっちまえ」ということになっていて、田村隆一氏の訳だけに、いい線行っている。

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この本の中で Jerry Rubin は、次のように言っている。

ぼくは 1964年バークレーの FSM の中で生まれた。
だからぼくは 5才になったんだ!
『ビレッジ・ボイス』やデリーが「30才以上の人間は信じるな」と言うなら、ぼくは答えてやるぜ ――
そんならおれには、まだ 25年もあらあ!

というわけで、それに倣うならば、我々はようやく 48歳になったのである。夏野氏が「信用するな」という 60歳までにはまだ一廻りもあるし、55才までだって 7年もある。「文句あるか」ってなもんだ。

忠告しておくが、あの当時のカウンター・カルチャーをどっぷりと経験した年代を戸籍年齢だけでみたら、痛い目に遭うのである。

 

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2012年4月11日

記憶力が弱くなってしまったのだよ

近頃年のせいかどうだかしらないが、そしてさらに、近頃に限ってのことなのかどうかも自信がなく、もうだいぶ前からだったのかもしれないが、記憶力が弱い。とにかく物忘れする。覚えても覚えてもすぐに忘れる。

「黄砂」という言葉の読みが「こうさ」だったか「おうさ」だったか、いつも「どっちだったかなあ」と自信がなくなる。実際に口に出してみて「おうさ」だと、やっぱりちょっと変な感じがするので「こうさ」なんだろうなあなどと、毎回同じルーティンを辿る。

「さかなへんの漢字をいくつ知っているか」なんていうクイズを出されると、これがなぜかものすごく苦手なジャンルで、「鰰」と「鯛」と「鯉」ぐらいしか思い浮かばない。もしかして最初のはあまり知られていないかもしれないが、私が大好きな庄内特産の「ハタハタ」なので、これだけは忘れない。

さかなへんの漢字に関しては、「あれ、 『鮮』って漢字があるよなあ、どんな魚だっけ?」なんて、ウールのセーターを着た魚みたいなのを思い浮かべたりしたことがあるほど、病膏肓に入るなんて言葉が思い浮かぶほどの重症だ。

記憶力クイズなんてものがあって、ある状況を描いた絵を 20~30秒ほど見つめさせられて、後でそこに描いてあったことに関する質問に答えるなんていうのも、大の苦手だ。あの手のクイズは、対応のしかたがわからない。絵を眺めるにしても、どんなふうに記憶に焼き付けていいのかわからない。

多分、あの手の記憶力の良さというのは、まるでパチリと写真を撮って、頭の中のメディアにそのまま画像として焼き付けるみたいに憶えてしまうのだろうという気がする。後で何を聞かれても、ありありと焼き付けられた脳内画像を見直せばいい。こういうのをユング心理学の性格類型では「外向的感覚タイプ」というのだろうなあ。

私の場合、この手の作業が全く苦手だ。だから、たった一度だけ会った人の顔と名前を一致させて覚えていられるなんていうのは、神業としか思えない。私は営業マンには向かないんだろうなあと思う。

とはいえ、子どもの頃はとても記憶力がよかったような気がする。成長するにつれて、パチリと脳内写真を撮ったような「単純記憶」というのがダメになった。その代わり、論理的に系統立てるようなタイプの記憶ならかなり OK である。さらに直観的な記憶 (ぶっ飛んだような記憶と言ってもいい) なら、どんと来いである。

とまあ、こう考えると、単純記憶の能力が弱まってしまったのは、別の方面の記憶能力が鍛えられた結果なのかもしれないと思ったりする。まあ今どきは、単純記憶ならメモをとるとか写真に撮るとか、外部記憶にとどめておけばいいので、あまり鍛えなくてもいいだろう。

そんなわけで最近は、広い駐車場で車を停めた位置とか、ビジネスホテルの部屋番号とかは、iPhone で写真に撮ってしまうので、ますます単純記憶能力が弱まってしまっているのである。

 

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2012年4月10日

季節感の戸惑い

毎年春になると、かけて寝る布団に悩まされる。冬の間は分厚い羽毛布団と毛布を重ねてもまだ寒いぐらいで、もう一枚薄手の羽毛布団を足したりしていた。一番寒い時期を過ぎて、ようやく薄手の羽毛布団にはお引き取り願ったが、分厚い羽毛布団とはなかなか決別できなかった。

分厚い羽毛布団をかけて寝ると暑すぎてムカムカし始めたのは、昨夜あたりからである。夜中に起き出して、分厚いのをはぎ取り、少し薄手のものに変えた。いつもの年は、春先にこんなことがしょっちゅうあるのだが、今年は今回が初めてである。それだけ、いつもの春よりも寒いのだ。

いつもの春は、4月も中旬に入れば分厚い羽毛布団に復活願うことはなくなるのだが、今年は多分、あと何度か押入から取り出してかけることになるだろう。季節の進行が半月分ぐらい遅れている。

そういえば、この春は、ハクモクレンと桜が一度に咲き、遅咲きで散り残っている白梅と合わせて、3種類の春の花を一度に見ることができる。大まかな季節感としては「春」に違いないのだが、早春と本格的な春がないまぜでやってきている。これでもう少し経ったら、多分いきなり 「初夏」 になってしまうのだろう。

最近は季節感の調整に戸惑うことが多いが、今年はとくにそれが大きい。

 

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2012年4月 9日

未来のお部屋の、空気のようなコンピュータ

音声でモノが動く "未来" の部屋」という IT pro の記事が気になって読んでみた。私みたいな不精者にはうらやましいほどの、本当に未来的な部屋だ。夜中に目が覚めて部屋が真っ暗でも、「コンピュータ、電気つけて」と言えば照明が灯り、寒かったら「コンピュータ、エアコンつけて」と言えば暖房が入るのだという。

これは「お前の血は何色だ!! 4」というブログを運営しておられる rti さんという方のお部屋で、詳細はご自身のブログの 「引越ししたので未来なお部屋を作ってみた」という記事に載っている。

照明とエアコン以外にも、窓一面に吊した 100インチ・スクリーンに PC画面を映し出すプロジェクター、ベッドで寝ながら眺められる液晶ディスプレイ、こたつ、電気毛布などが、音声でコントロールできる。このシステムをすべて自作したというのだから、なかなかのものである。

何しろベッド上から何でも制御できるので、IT pro の記事では「快適すぎて、rti氏は、床ずれを起こしたこともあるそうだ」となっている。もっとも、当人のブログでは「ひたすら寝たきりの生活になって腰痛を患ってしまう」と記載されているのみで、「床ずれ」とは書かれていない。本当に床ずれになったら大変なことなので、多分腰痛程度なのだろう。

こうした生活をしている人がいるということを知ると、世の中には反発を感じる人もいると思う。体がなまり、頭までボケてしまうと心配する人もいるだろう。だが、体がなまるのは確かだろうが、頭がボケるかどうかというのは、よくわからない。rti さんの生活が、絶好の臨床データになるだろう。

例えば、部屋が暗い時に照明のスイッチを入れるために体を動かすのと、「コンピュータ、電気つけて」と発声するのとでは、どちらが脳を使うのだろう。もしかしたら、単にスイッチを入れるという習慣的動作をするよりも、「コンピュータ、電気つけて」と言葉を発することの方が、脳を刺激しているかもしれない。

ということは、音声コントロールをする方が、むしろボケ防止になるかもしれない。とくに単なるスイッチを入れたり切ったりする以上の、ちょっと込み入った操作をしたい時にわざわざ言語化して声に出すというのは、流行りの「脳トレ」にだってなるかもしれず、「リモコン操作の方がずっと楽だ」なんて言い出す人もいるだろう。

いや、待てよ、言葉を発すること自体があっという間に習慣化してしまって、何も考えずに条件反射的に言うようになったら、あまり頭を使うこともなくなってしまうかもしれない。その辺のことは、いろいろな機器操作のレベルにもよるだろうし、よくわからない。

あるいは「コンピュータ、よろしく!」とかいうだけで、コンピュータの方が勝手に状況を察してサービスしてくれるようになったりしたら、確かに頭はボケボケになるだろう。しかしコンピュータの判断が間違いまくりだったりしたら、そのフラストレーションで脳は最大限に活性化されたりするかもしれないし。

rti さんはブログ記事のまとめとして、次のように書いておられる。

特に音声認識のおかげでリモコンの存在を忘れられるようになったのが嬉しい。

現在、SFにでてくるような、管理コンピュータシステムの開発を行なっていって、コンピュータを意識しないコンピュータシステムみたいな、そこにいるのが当たり前で生活に溶け込んだ、空気のようなコンピュータを目指していきたいと思う。

「空気のようなコンピュータ」 というのは、なかなかおもしろいコンセプトだ。しかし、その空気がどんなような空気なのかということも、考えなければならない問題だと思う。気圧が高すぎるのは、私としてはご免被りたい。

 

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2012年4月 8日

トイレットペーパーの 「三角折」

昨日 Twitter で tweet したことなのだが、ちょっとした反響があったので、あえてこちらにも書いておく。

スーパーやレストランなどのトイレで、「いつもトイレを清潔に使ってくださり、ありがとうございます」という表示を見かけることがある。私は、これは悪くないと思う。気が利いてるとさえ思う。直接的に「トイレを汚すな」と書かれるよりも、とりあえず初めにお礼を言われることで客の方でも気持ちよくなって、多少は汚すまいという心理になりやすい。

しかし、こんな信じられないのが某スーパーのトイレにあった。

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「いつもトイレットペーパーの三角折にご協力いただきありがとうございます」 というのである。しかも、この貼り紙は男子用の「朝顔」に向かったところに貼ってある。もちろん、「大」の方にも同じのが貼ってあるんだろうが、ごていねいなことである。

「いつもトイレを清潔に使ってくださり ……」というのは、実は「トイレをきれいに使ってね」と言外に言っている。ということは、このスーパーでは、客に「トイレットペーパーを使ったら、その度に『三角折』しといてね」と、言外に言っているか、少なくとも、客がわざわざ三角折するのを、「ありがたいこと」として奨励しているのである。

トイレットペーパーの三角折りは、一般的には「清掃済み」のサインである。日本では、チェックインしたばかりのホテルのバスルームは、トイレットペーパーの端っこがきれいに三角に折ってあるが、あれは「ちゃんときれいに掃除しましたよ」という意味だ。だから客がそれをするのは、単なる「余計なお世話」でしかない。

「きれいに三角折してあると、気持ちがいい」なんて言う人も中にはいるが、 さんは、私の tweet に反応して、次のように書かれている (参照)。

三角折りは「清掃済み」のしるしでしょ。それ以外の三角折りなんて、誰かが触った、それも用を足して手も洗わずに触ったってことで、気持ち悪くてしょうがないわ。

まともに考えれば、こういうことになると思う。以上。

 

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2012年4月 7日

Google の「電脳メガネ」プロジェクト

"Google、電脳メガネプロジェクト「Project Glass」を発表" というニュースがかなり話題になっているので、検索してみたら IT Media ニュースのサイトでコンパクトでわかりやすい記事が見つかった(参照)。Google+ が動画まで紹介しているが、それは IT Media のページにもエンベッドされているので、見ることができる。

動画では、朝置きて Project Glass を装着してからの行動が、主観的視点で紹介されている。このデバイスをかけて外の景色を見れば今日の天気予報が表示され、朝食のハンバーガーを食べながら、チャットで友人との待ち合わせを確認することもできる。

外出して地下鉄に乗ろうとすると、運転見合わせという情報が自動的に飛び込んできて、じゃあ歩くかとなると、目的地までの道順が表示される。本屋の中では目的の本の売り場まで表示してくれるし、手ぶらで写真を撮って Google+ に投稿することもできるというような具合だ。便利と言えばかなり便利である。

ただ、この動画のパロディ版がさっそく投稿されている(参照)。このパロディ動画は、Project Glass を装着して歩き回り、誤操作を修正しようとしてあせりまくるうちに、街灯の柱や通行人にぶつかりまくるという設定になっていて、かなり笑える。

私としては、最近の Google のちょっと傲慢なまでの振舞をみていて、このメガネをかけて歩き回っている人の視線とつぶやきとデータのすべてが、Google のサーバに集積されてしまうことなんてないように、心から願う。そして、Google+ には試しに登録だけしてみたが、実際の活用は控えておこうと思う。

いずれにしても、世の中がヘンテコなメガネをかけてブツブツ何かをつぶやき続けている人であふれかえらないように願いたいものである。

 

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2012年4月 6日

光学 18倍モデルを衝動買い

一昨日の 「最新のコンデジはすごいらしい」 という記事で、最新の光学 20倍ズームのコンパクト・デジカメのニュースを読んで、物欲が大いに刺激されたと書いた。値段も 3万円ちょっとらしいので、かなり現実味のある話である。というわけで昨日の仕事の帰りに、さっそく近所の家電量販店に寄ってみた。

ところが、さすが茨城県つくばの里である。最新型のコンデジはまだあまり入荷されておらず、唯一オリンパスの光学 24倍の機種のみが見つかった。ところが触ってみたところ、ユーザーインターフェイスが、今イチなのである。どうも私の感覚に合わないのだ。これだと、咄嗟の時にシャッターチャンスを逃してしまいそうだ。

「しばらくしたらまた来よう」と諦めかけて、ふとその隣の棚に目をやると、そこには型落ちのため 1万円ちょっとまで値引きされた、ペンタックスの Optio RZ 18 という機種がある。ズームは光学 18倍で、デジタルズームを併用すると、なんと 130倍相当まで大きくなるという。

最新モデルを待たなくても、こんな高スペックのコンデジが発売されていたとは、まったく知らなかった。せいぜい 12倍ぐらいがコンデジの最高峰だと思っていたのである。最近は iPhone のカメラで満足していたので、この分野の情報が不足していたようだ。

衝動買いの虫が騒いでちょっと手にとって操作してみると、シンプルで使いやすい。私の感覚に合う。私はスペックの数字よりも使いやすさ重視の人なのだ。それに光学 20倍が 18倍に落ちただけで、値段が 3分の 1 以下になるのなら、これはお買い得だ。

というわけで、その場で買い求め、帰宅してさっそく使ってみた。それが昨日の和歌日記である。裏の川で泳いでいるコガモを、遠くからズームを思い切り効かせて撮影すると、こんなにも自然な感じで撮影できた。(画像クリックで拡大表示される)

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コガモというのはあまり水に潜ったりせず、浅瀬で逆立ちするように、頭を水に突っ込んでエサをあさるというのだが、思いっきりズームを効かせたおかげで、生まれて初めてそれを確認できた。

3年前に買った Panasonic の Lumix DMC-TZ5 は光学 10倍ズームで、当時としては最高峰だったが、さすがにこうはいかない。せいぜいこの程度(今年 3月 14日の和歌日記より)である (同じく画像クリックで拡大表示される)。これでも多少トリミングしてあるのだが、それでも迫力が全然違う。

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それに私の Lumix は最近、液晶がいかれ気味で、左上の部分が黒くつぶれてしまっている。そろそろ引退の時期が来たようだ。

ペンタックスのおかげで、しばらくは和歌ログの写真撮影に不満は感じなくて済むだろう。ただし、一昨日の記事でも書いたが、普段持ち歩くのは iPhone だけで、新しいのは裏の川の鳥を撮ったり、旅行に持っていったりという程度のことになりそうだ。

 

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2012年4月 5日

尊厳死ということ

「尊厳死法制化を考える議員連盟」という集まりがあって、この議員連盟が「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」というのを公表して、超党派の議員立法で国会に提出する予定と報じられている。

これについて昨夜の TBS ラジオの "Dig" という番組で、聴取者を交えた討論があった。私は途中から 15分ぐらい聞いただけなので、この番組での討論の全貌を客観的に伝える材料を持っていないが、いずれにしてもなかなかやっかいな問題だという気がした。

番組にゲストとして登場したのは、上述の議員連盟側の人なんだと思うが、終末期医療に関して、患者本人が延命措置を希望するかどうかを自己決定できるような法制化が必要だというトーンで持論を述べていた。なんと、現状ではこれに関する自己決定を保証する法律がないのだそうだ。

この問題に関する詳細は、「法律要綱案骨子案」要旨 - 日本尊厳死協会」に詳細が述べられているので参照していただきたい。

このウェブページによると、議員連盟の法律案では、患者本人の希望により延命措置を開始しなくても医者は法的責任を問われないこととしているが、この問題を積極的に推進している日本尊厳死協会という団体はさらに、既に始めている延命措置を 「中止」 した場合でも、医者は責任を問われないとするように修正を求めているようだ。

ところが、昨夜の番組に電話で登場した聴取者の女性は、「尊厳死」の法制化に強烈に反対しておられた。終末期における医療・介護・福祉体制の十分な整備がなされていない現状では、患者が本心では生き永らえたくても、家族に負担をかけることを遠慮して、つい延命措置を講じないように希望してしまうこともあるだろうというのである。

彼女の意見の骨子は ネット上の「日弁連の会長声明」「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」のページに書かれていることとほぼ同様の中身なので、そちらを参照していただきたい。つまり、現状では「患者の自己決定」が本当に自由意志でなされたものか怪しいもので、それでは生命の尊厳が冒されかねないというのだ。

なるほど、これには一見もっともらしい面があるが、私は個人的には尊厳死を認める法案を早く通してもらいたいと思う。というのは、「医療・介護・福祉体制の十分な整備」なんていうのを待っていたら、この国では多分、何年経っても尊厳死は法制化できないだろうからだ。

それに単純な話として、尊厳死を保証する法律は、延命措置を「希望する/しない」の二者択一ではない。あくまでも、「希望しない」 という意志表明に沿ってのみ尊厳死が適用される。しかも患者の意志の確認には、慎重な手続きが決められている。

患者が延命措置を講じてもらってでも生き延びたいというのであれば、ただ黙っていればいい。「自分は尊厳死したいので延命措置を希望しない」と言い出しさえしなければ、尊厳死は適用されない。

また、ちょっと嫌な言い方かもしれないが、「医療・介護・福祉体制の十分な整備」ができていない世の中だからこそ、「こんな世の中でぐずぐず生き延びるより、さっさとあの世に行ってしまいたい」と願うということだってある。それは不十分な現状による強制というより、個人的な価値観とか好きずきとか美学とかいうようなものだ。

だから私の個人的な印象では、尊厳死反対は「反対のための反対なんじゃないかなあ」という気がするのである。まあ、反対している人は「決してそんなものじゃない」とおっしゃるだろうが。

他の人はどうだかしらないが、昨年死んだ私の父は生前、「もうダメだとなったら、延命措置はしないでもらいたい。ただし、痛いのだけは嫌だから、麻酔だけはよろしく頼む」と言っていた。ちなみに私も同様に希望するし、妻もそのように希望している。

これは少数意見ではないと思う。私の周囲の人に聞いても、多くは「延命措置でだらだらと生き延びるのだけは勘弁してもらいたい」と言っている。たとえ「医療・介護・福祉体制の十分な整備」ができたとしても、「そこまでして生き延びてもしょうがないじゃないか」というのは、案外本心だ。

しかし、そうした希望をいくら明確に表明していても、尊厳死を保証する法律がなければ、医療現場では当然のようにだらだらと延命措置が講じられてしまうだろうし、一度開始されたら、それを中止してくれと申し入れてもなかなか受け入れてもらえないだろう。下手したら、中止した医師がお縄になってしまいかねないのだから。

いや、それ以前に、一度開始された延命措置を家族が「中止してくれ」と申し入れること自体、どうしようもなく困難だろう。いくら患者本人の希望とはいえ、それを言ったら、周り中からいかにも薄情な家族というレッテルを貼られかねない。それだけに、尊厳死協会の「措置の中止も含めて法律で保証すべき」という要望はもっともな話だと思う。

 

つまり私としては、「生き永らえたくても、それを言い出せないのではないか」という危惧よりも、「すっきりとあの世に行きたいのに、なかなか行かせてもらえないのではないか」という危惧の方が先立つのである。

これを言い出すと、「延命措置によって命を取り留め、補助器具を付けながらも日常生活を続けられるまで回復した人もいる」という反論が、ラジオ番組の中でも出ていた。しかし私個人としては、たとえ回復の可能性が 0パーセントではないとしても、さっさと見切りをつけてしまいたい。

生き永らえることを無条件に善とする考え方は取らない。どうせ人間、いつか必ず死ぬのだから、延命措置を講じなければ生きられない状態になったところで、寿命が来たのだと見切りを付けることにしたい。それに私としては「来世だってあるし」と思っているのだよね。

 

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2012年4月 4日

最新のコンデジはすごいらしい

2ヶ月前に 「デジタル一眼を買うべきかどうか」という記事の中で、近頃では iPhone のカメラで十分だと思っていると書いた。私は 和歌ログというサイトで毎日写真入りで和歌を更新しているので、デジタルカメラに関してはヘビーユーザーなのだが、もっぱら iPhone のカメラで足りてしまっているのである。

最近はやりのデジタル一眼は、ミラー付きに比べればコンパクトではあるが、それでもやっぱりかさばるので、あちこち気軽に持ち歩いて写したいという私のニーズに合わないし、それどころか、iPhone さえあればコンデジすらも要らないというトーンで書いたのである。

しかしそのトーンが今日、突然ぐらついた。急に物欲が刺激されてしまったのである。日経 BP net の「光学 20倍ズームの薄型デジカメがすごい! 手ブレ補正、低ノイズ、高解像技術に Wi-Fi 付きも」という記事を読んでしまったためだ。

相変わらずデジタル一眼はそんなに欲しいとは思わないが、最新スペックのコンデジなら 「欲しいかも!」 と思ってしまったのである。

なにしろ、最新のコンデジはすごいらしいのである。急に「光学 20倍」なんていうスペックの機種が複数発表され、しかもそれが、3~4万円という値段で買えるというのだ。さらに、光学 20倍にデジタル・ズームを組み合わせると、40倍という望遠機能も可能だという。

昔の 100万とか 300万とかいう画素のカメラだと、デジタル・ズームなんかを使うと画素が粗くなりすぎて、ウェブページに載せるのもはばかられるほどだったが、最近の 1000万画素超のカメラなら、デジタル・ズームをかなり効かせても、実質 300万画素ぐらいの写真にできる。それならなんとか OK だ。

「iPhone で十分」 と言ってきた私だが、唯一の不満は、ズームを効かせられないということだったのである。遠くにいる鳥なんかを撮りたいと思っても、まるでちっちゃくしか写らない。かといってデジタル・ズームを最大限に効かせると、今度は写真が粗くなる。

光学 20倍というスペックのコンデジなら、ズーム性能に不満はないし、そこそこコンパクトのようで、持ち運びに不便はない。値段にしてもそれほど高いわけでもないし、かなりそそられてしまうのである。

とはいえ、普段は iPhone で十分という気持ちには変わりなく、光学 20倍というコンデジを買っても、裏の川を泳ぐ鴨を撮る時や、旅行に出かける時などに使うということになると思う。

iPhone のカメラは 「必要十分・レベル 1」で、光学 20倍コンデジは「必要十分・レベル 2」ということになるかもしれない。そしてデジタル一眼は私にとっては、まだまだ「必要十分以上」ということになるだろう。

 

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2012年4月 3日

エイプリル・フール・ジョークと「笑いのツボ」

emi さんが 「カレンダー上イベント不足の時期に/ちょうどいい立地の 4/1 でありながら/エイプリルフールは日本に根付かない」 と指摘しておられる(参照)。「エイプリル・フールが日本に根付かない」なんて言われると、多くの日本人は「日本でも根付いてるんじゃないの?」と思いそうだが、根付き方のニュアンスがずいぶん違うようなのである。

emi さんは前にもこの件で書かれているのだが、再び書くことになった直接のきっかけは、NHK がエイプリルフールの件で謝罪したというニュースのようだ。こんなことである (参照)。この際だから、全文引用しちゃう。

NHK 広報局が公式ツイッター上で、エープリルフールのジョークとして書き込んだ内容が不適切だったとして、削除し謝罪していたことが 2日、分かった。

NHK によると、広報局の担当者が 1日午前 0時すぎ、「本日、NHK と民放局が合併して国営放送となりました。着物を着たアナウンサーが、やや絶叫気味にニュースをお伝えする予定です #エープリルフール」 などと書き込んだ。

その後「内容が不愉快だ」などの批判が数件寄せられた。そのため同 10時 40分ごろ、「一部の方に不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした」と書き込んだ上で、問題となった部分を削除した。

とまあ、こういうお話である。わざわざハッシュタグで 「#エープリルフール」と断ってある tweet に、いちいち「不愉快」なんて反応するのは、たとえ本当にそう思ったとしても、私なんか無茶苦茶面倒だと思うのだが、面倒を厭わない人がこの国にはいるようなのである。

emi さんはこの件で次のようにコメントしておられる。

2年前、日本におけるエイプリルフールは
「『嘘をついてもいい日』 と伝わっている」 と書いたが
昨今は 『気合の入ったオフザケをしてもいい日』 になっている印象。
でも、エイプリルフールの真髄である『ジョーク』というものについては
あいかわらず理解されていないと思う。

うぅむ、「嘘をついてもいい日」という伝わり方も、いかにも日本らしくて、大分ニュアンスが違うなあと思う。単に「嘘をついてもいい」というだけでは、ちっともおもしろくない。やっぱり「ジョーク」を楽しむ日ということでないとね。で、日本では「ジョーク」というものが理解されていないというのは、確かなことのようだ。

そういえば、このことについては大分前に書いたことがある。"日本では受けない 「世界一おもしろいジョーク」" という記事だ。英国科学振興協会が実施したオンライン投票で、トップに輝いた「世界一おもしろいジョーク」が、日本では今イチ受けなかったのである。

どうやら、西欧と日本では、笑いのツボが違うようなのである。そのことについて私は、次のように書いた。

西欧のジョークはなんで面白いのかを、とても論理的に説明できる(実際には説明しないからいいのだが)。一方、最近の日本のギャグは 単に奇異で滑稽であること」によって笑わそうとするものが多い。「考えオチ」というのは流行らないようだ。

これだけで西欧のジョークと日本の「滑稽」を十分に比較したことにはならないのだけれど、比較のきっかけぐらいにはなるかもしれない。極端に言ってしまうと、西欧風のジョークはインテリジェンスから生まれて、日本流の「滑稽」は馬鹿を装うことから生まれる。

馬鹿を装いきれなくて、本当に馬鹿っぽいことが露見すると、それは「スベった」ということになる。それだけに、日本流の「滑稽」にインテリジェンスがないとは言えないのだが、それがあまり表面に出ると笑ってはもらえない。

上述の「世界一おもしろいジョーク」は英国科学振興協会選定だけに、インテリっぽさが強調されすぎているというところもあるのかもしれないが、それにしても、日本人の笑いのツボに全然はまらなかったというのは、なかなかおもしろい現象である。

私自身、ここ 8年間というもの、毎年 4月 1日にはエイプリル・フール・ジョークをかましているので、ジョークの難しさは身に浸みている。大抵は半年がかりぐらいでネタを仕込むのだが、すかっとするほどおもしろいネタがなかなかできないのが悲しいぐらいのものである。

とくにこのところはあまり満足できるようなできになく、「サラ金 CM のサブリミナル効果」(H 18年)と 「地方空港とハエ取りリボン」(H 19年)を越えるネタを生み出せていないのが痛恨だ。私のジョークのセンスは、5~6年前にピークを越えてしまったのかしらん。

 

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2012年4月 2日

日本は「わびさび」の世界でやっていく方がいい

先日、水戸方面での仕事の帰りに 1時間以上車を運転しながらカーラジオを聞いていると、某評論家(とくに名を秘すわけではなく、単に誰だか忘れたので「某」である) が、最近の日本経済の舵取りについて大いに苦言を呈していた。

日本経済の舵取りの失敗は、製造業にこだわりすぎたことなのだそうである。うむ、それについては、私も半分は同感だ。

「半分」というのは、製造業の中身によるということで、同じ製造業でも、日本でなければできない製造業を保持するには、ある程度すそ野だって広くなければならない。問題は、あまり重要でもない、つまり「すそ野」にもならない分野にしがみつく人が、今でも多いことである。

評論家氏のお説に戻ろう。じゃあ、日本はどうすればよかったのかというと、米国や英国のように、新しい産業にシフトすればよかったのだそうだ。英国は金融に、米国は IT にシフトして、経済の低迷から立ち直ったのだから、日本もそうすべきだったのだというのである。

それを聞いて、「おいおい、それはちょっと無責任な指摘だろうよ」と私は思った。金融と IT って、日本人が一番お下手で苦手な分野じゃないか。そもそも、あの「バブル経済」とその後に続く「バブル崩壊」そのものが、日本人が「金融方面へのシフト」に雪崩を打った結果なのだから。

バブル前夜、中小企業の社長連中は、銀行と経営コンサルタントのいうがままに金を借りて株を買い、土地を買い、ゴルフ会員権を買って、数年後にはそれがすべて紙切れになった。そして、それまで健全経営していた会社を潰すことになり、銀行は膨大な不良債権処理に追われた。

つまり、バブル期からバブル崩壊に至る時期に、日本人は慣れない金融に踊りすぎ、大失敗して、徹底的に懲りてしまったのだ。後悔のあまり、「やっぱり額に汗して、地道に働くのが人としての正しい道なのだ」ということになったのである。

つまり、従来の産業ではないニュー・カマーが経済をリードするという構造を確立しようとすると、寄ってたかって潰されたのである。こうした「羮に懲りて膾を吹く」という状態の日本経済に、「金融にシフトしましょう」なんて言っても、聞かれるわけがなかったのである。

某評論家氏の言うもう一つの柱、「IT」にしても、話が発端からおかしかった。そもそも IT というのは、余計なコストをカットして業務を効率化するためのもののはずが、日本の IT 業界は 「遅れてきたバブル」という状態で、要りもしないシステムを企業に押しつけて余計な金を出させようとしたのである。

バブル末期に IT 屋の言うがままに過剰なシステムを導入したおかげで、維持費に四苦八苦している企業経営者が、「もうあいつらの口車には乗らん」と思うのもしかたのないところで、日本の中小企業のほとんどは、IT 活用といえば、PC の最低限の利用にとどまっている。

おまけに、国策として IT 分野に補助金を出そうということになったおかげで、日本の IT 分野は余計な手続きに時間がかかるばかりで、機敏な動きができなくなった。そして単に補助金をもらいさえすればいいという思惑の企業が群がるばかりの世界になったのである。

私なんか、中小企業が本当に使える必要十分でコンパクトなシステムの提供こそが大切と思って、いろいろやったのだが、この「バブリー・イメージ」に邪魔されて、なかなか理解されなかったという経験をもつ。

ちなみに今は、額に汗して滅私奉公するというコンセプトの企業の元気がいいが、その多くは「ブラック企業」かそれに近い内情をもつ。これもまたやりすぎで、ちょっと景気が改善しさえすれば、まず従業員がいなくなるはずだ。

日本はあまり余計なことをせず、しばらくは「わびさび」の世界でやっていく方がいいと、私は思っている。

 

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2012年4月 1日

ビッグ・データの限界は遠くないらしい

米国の IT 関連専門リサーチ会社、ルーフ&ラーパ社の調査によると、デジタル・データを安心して保存できる期間は、わずか 5年でしかないのだそうだ。それ以上の時間が経過するとデータの保存状態にかかわらず、劣化して失われる部分が多くなりがちだというのである。

データを失わないようにするには、時々新しいメディアでバックアップを取り直すことが必要なのだそうだ。例えば、ハードディスクに保存したデータは 5年経つと壊れやすくなるから、5年以内に別の新しいハードディスクにコピーしなければ、いつ壊れてしまうかしれない。

個人で使っている PC などは、大体 5年も経てば新しい PC に買い換えて、データも新しいハードディスクに置き換わるから、あまり大きな問題は起きていないが、これから大変なのは、クラウドである。

クラウドを運営する会社は、大きなデータ・センターに企業や個人からアップロードされたデータをを保存する。なにしろ 「お預かりしているデータ」 なのだから、壊すわけにいかない。何重にもバックアップを取っておくことが求められる。

普段のバックアップは、時々差分を取っていればいいだろうが、それでも長い年月の間には劣化する。だから劣化する前に丸ごとのコピーをどこかに取っておかなければならない。それを 5年ごとにやっていると、そのうちデータ量が加速度的に増えてしまったら、年がら年中データのコピーをしていなければならなくなる。

ルーフ&ラーパ社の試算によると、今の形のシステムが継続すると仮定すると、年がら年中データ・バックアップに追われて、新たなデータの蓄積が間に合わなくなるクルーシャル・ポイント (決定的瞬間) が訪れるのは、それほど遠い未来ではなく、早ければ 5年後、遅くても 10年後なんだそうだ。そうなると、大規模サーバは機能しなくなる。

今でこそ「最も注目されるシステムはクラウド」なんて脚光を浴びているが、遅くとも 10年も経てばシステムがバックアップばっかりし始めて、アップロードも参照もやたらと手間がかかるようになる。下手すると、「バックアップ作業中につき、少々お待ちください」という表示が、一日中出っぱなしになる。

それでは困るからと、バックアップをテキトーにさぼっていると、5年経ったらデータがいつ壊れてもおかしくない状態になる。サクサク動くことを重視するか、信頼性を重視するかで、クラウドなどの大規模サーバの動き方は大きく変わってくる。いずれにしても、近いうちに使いづらいものになるのは確実だ。

これを防ぐには、データを大きなものにせず、細切れにして自宅やオフィスの小さなサーバに保存することが最も効率的なのだそうだ。大規模データ・センターとかクラウドなんていうのものの将来は、語られるほど明るいものではない。今から小規模サーバで自衛しておくに越したことはないようだ。

いずれにしても、データは大きなものにせず、細切れにしておくことが重要ポイントだ。「スケール・メリット」なんてものが語られる時代は、もう終わりかけているのである。最近は「ビッグ・データ」なんてものがもてはやされているが、これは一時の徒花だ。

ビッグ・データは単体のツールでは扱いきれず、それだからこそ、クラウドの集積など、超並列的システムとそれを制御するプログラムが必要だが、その中の一つが「バックアップ作業中につき、少々お待ちください」になってしまうと、全体が動かなくなってしまうおそれがある。

大企業にとっては冬の時代がもうすぐ来る。中小企業、零細企業、個人事業主、万歳である。中央集権が効率悪くなるのは、何も行政の世界だけではないようで、デジタル・データの世界でも地方分権にする方がいいのだ。詳しくは、ルーフ&ラーパ社のサイトに飛ぶと、一瞬にしてわかる。英語標記だが、信じられないほど楽に読める。

 

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