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2012年5月10日

芝居小屋の無駄な広さと、英語を学ぶ意味

歌舞伎は江戸の庶民の最大の娯楽だったが、そうは言っても、フツーの江戸っ子がしょっちゅう歌舞伎見物に通っていたというわけじゃない。なにしろ歌舞伎上演が御上に認可された劇場は、江戸に三つしかなく、江戸三座と言われていたが、それはちょっと辺鄙な場所にあったのだ。

江戸の中心から離れた浅草の先の街外れに、吉原と同様 「悪場所」 として隔離されていたから、「ちょっと芝居見物にでも行っつくらぁ」なんて言って、気軽に出かけるようなところでもなかったのである。というわけで、いつも満員盛況というわけじゃなかった。

大抵の興業では閑古鳥が鳴くとまでは行かなくても、広い芝居小屋の客席で、余裕たっぷりに座ったり寝ころんだりして見ていられるぐらいの入りでしかなかったらしいのである。まあ、そんなものなんだろう。

で、当時もそれを不思議がる者がいたのは当然の話で、「どうして芝居小屋は、大した客も入らないのに、無駄に大きくしつらえてあるのだ」と、ある若い男が常連客に聞いたというのである。その疑問に、見巧者の常連はこう答えた。

「いつもはガラガラでも、年に一度の顔見せや、大立者の襲名披露などでは、押すな押すなの大入りになる。芝居小屋というのは、その年に一度か二度の大入りのために、無駄に見えるようでも大きく作ってあるのだ」

不意にこんなことを思い出したのは、英語教育を専門とされる emi さんがブログで、こんなふうなことを書いておられるからだ。(参照

ものすごい "そもそも論"だけど
日本人に英語教育なんて要るんだろうか。

"9割" かどうかはともかく
日本にいる日本人のほとんどは英語を必要としない。
中途半端にかじった学習者を増やすことは
英語力の向上になんら貢献しないどころか、有害でさえある。

なるほど,確かに私は今、日本に住んで英語をほとんど必要としない生活をしている。時々和歌ログの和歌を英語の haiku にしたりしてはいる(参照)が、それはせいぜい趣味の世界の話で、必要に迫られてやっているわけじゃない。

昔、外資系に勤めていた頃は、毎日英語で考えている時間の方が長いぐらいだったが、あのちょっと特殊な仕事を離れてしまったら、英語がなくてもとくには困らない。

しかし、と、上述の芝居小屋の比喩を思い出すのである。年に 1度か 2度、ここぞという時に英語が必要になった時、なんとかこなせるのと、尻込みして逃げるのとでは、やっぱり人生に対する関わり方まで違ってくるほどの差異を生じるだろう。

さらに、同じことでも日本語で考えるのと英語で考えるのとでは、思考の経路どころか結論まで変わってくることがある。母国語以外の外国語を学ぶというのは、デュアル思考をするためでもあるんじゃなかろうか。それで、日本語思考のドツボにはまりすぎないで済んだり、逆に日本思考の素敵さが際立ってわかったりすることもある。

とは言っても、年に 1度か 2度の「ここぞという時」に、尻込みして逃げたところで人生が台無しになるわけじゃないから、「別にいいじゃん」と言われれば、まあ、それはそれで、それっきりではある。結局は「趣味の世界のモノ」でしかないのかもしれない。

ただ、小さいけれど確実なメリットとしては、PC を比較的自然に使いこなせるということがある。PC というのは所詮アメリカ人だから、基本的に英語の世界で動いている。PC 用語を「わけのわからないカタカナ語」としてしか取り扱えないよりは、「なるほどという意味のある英語」として捉えられる方が、「体感的な使い方」ができると、私は思っている。

 

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

いつも楽しく(時々意見が合わずに、むっ!)としながら、
楽しく拝見させております。
Sennaです。

私は、SE(システム エンジニア)なのですが、
今現在稼働しているシステムでは全く必要もない
「プログラム言語」「プロトコル」等は発表されると、
なるベく早い段階で習得とまではいかなくても勉強、せめて理解するように努めているつもりです。

この先、役に立つかどうかの確証は無いのですが…。

でも、意外と年に一度とか、数年に一度とか、「あっそれ知ってるよ!」と役に立つことがあります。

何が言いたいのかだんだん分らなくなってきましたが、現在必要としている事だけやってても、成長って見込めないのではないのかなぁ?と個人的には思います。
後、意外と無駄と思われる事、作業に、宝物が隠れてたりもしますよね?

「あっ!それっ!」って!
この度の記事は、少し前流行った、茂木先生の考え方にも通じるものを感じました。


長々とすませんでした。

投稿: Senna | 2012年5月10日 18:24

ウチの上司(拙も江戸転勤で以前と違う上司)ったら、「その件はペンディングなの?」とか、「営業マターでしょ?」とか、「上層部フィックスだから。」など、よく解らないお言葉を降りかけて来ます。


こちとら、メモる、アポ取る、ぐらいしか横文字使えないので、常々頭を痛めております。


やはり、二極からモノを見る目を養うために、外国語を覚えるべきなのでしょうか。

投稿: 乙痴庵 | 2012年5月10日 21:24

「2つの言語が使えるようになるとデュアル思考ができるようになる」というのはバイリンガル教育推進派の基本的な考え方ですね。(takさん、前に『バイリンガル脳』のこと書かれてましたよね。)多元的なものの見方はモノリンガルでもできる人はできますが、第二言語習得から入ると近道かなと思います。

ただし、複数言語の使用が多元的な思考の発達を促すのは、バイリンガル(2言語に堪能な人)が同時にバイカルチュラル(2文化に堪能な人)であるからこそだと思います。この場合の文化とは、たとえば英語なら、英語圏の生活様式などの他、英語的発想を含みます。文化的に単一の環境のままで言語だけを入れ込んでも思考は一元的なままでしょう。その意味で、日本の英語教育は言語に特化しすぎているように私には見えます。

takさんは日本語カテゴリー内だけでも、現代語と古語、そして“標準”語と庄内弁のそれぞれの文化にお詳しいのですから、素晴らしいと思います。私は日本語も英語も1種類ずつしかできません。

投稿: emi | 2012年5月11日 00:31

emi さん:

>文化的に単一の環境のままで言語だけを入れ込んでも思考は一元的なままでしょう。その意味で、日本の英語教育は言語に特化しすぎているように私には見えます。

なるほど。
単に英語を学ぶだけではダメで、発想を含む文化にもどっぷり入れ込まなければならないのですね。

ただ、それだと自分のルーツが曖昧になりがちなので、しっかりとした軸足が必要ですね。

私が歌舞伎だの和歌だの庄内弁だのにこだわるのは、軸足設定の欲求からかもしれません。

投稿: tak | 2012年5月11日 09:10

senna さん:

>現在必要としている事だけやってても、成長って見込めないのではないのかなぁ?と個人的には思います。
>後、意外と無駄と思われる事、作業に、宝物が隠れてたりもしますよね?

同感!

脳のキャパシティって、革靴と違って、いろいろグリグリ突っ込むと、ちゃんと広がるみたいですね。

投稿: tak | 2012年5月11日 09:15

乙痴庵 さん:

>ウチの上司(拙も江戸転勤で以前と違う上司)ったら、「その件はペンディングなの?」とか、「営業マターでしょ?」とか、「上層部フィックスだから。」など、よく解らないお言葉を降りかけて来ます。

わはは (^o^)

前世紀末に訪問した、某商社の香港現地法人の社長(関西人)は、コーヒーをもってきてくれた香港人の秘書に

「These people はやなあ、my important guest やねん。Understand?」

すると秘書は慣れたもので、

"Yes, boss."

関西弁の英語親和力、恐るべし。

ところで、「上層部フィックスだから」 って、どういうことですか?

「上層部で決定したことだから、あれこれ言わずに従え」 という意味なんでしょうかね。

あるいは、「上層部に押しつけといて、ヘタに関わるな」 ってことを裏に隠しているとか (^o^)

投稿: tak | 2012年5月11日 09:24

以前、ここで山辺静さんに「お前ほどバカな人間はいない」と罵倒されて以来、コメントを控えていたのですが、本件だけは、バカな私も、総合商社勤務の経験から一言を

そもそも物事は静態・短期のみで論じるべきではありません
長期・大局から論ずべき
言語教育などはその最たるものです
さらに、いつか、一度だけ、役に立つ・・・、例えば外国人に道を聞かれた場合・・・ぐらいならその価値は無いに等しい
そういうことで外国語を評価するものでは無いでしょう?
米国在住で英語教育にたずさわっておられるemiさんが否定的なご意見を述べられておられることも残念です
今、この時点で、我々のdaily lifeにそれほど役に立たないと言うだけで国家100年の大計からして否定すべき事でしょうか?
歴史的・環境的な違いがあっても、アジアをとってもインド・パキスタン・シンガポール・フィリピン・香港、さらに欧州では英語がしゃべれない人間はインテリとして認められない
発展途上国もさらにその携行を増すでしょう
さらに、英語は、私がいうまでも無くすでに現時点で圧倒的な世界語です
空港・ホテルは言うに及ばず、インターネット・サイエンスなどの国際科学論文は英語です
今や世界の知性は英語の世界なのです
今はまだその影響は小さいと見えるかも知れませんが、ほんの一例ですが、科学の世界で英語が出来なければ世界の最新の知識を得ることも出来ず、発信の機会もありません
医学の世界においてさえドイツ語は過去のものです
片田舎の農夫が英語をしゃべる必要があるのか?と言う問いは典型的な否定論ですが、逆にそういう人達さえも英語をしゃべる国でないと、外資が入って来る環境ではなく、将来はだめです
動態的に長期的に、このグローバリゼイションの世の中を、観念して(笑)受け入れることが必要なのです
シンガポールの人間に出来ることが、どうして日本人にできないのか?
それは、ただ、覚悟がないだけです
国際会議で英語で発信できない、各国閣僚と英語でコミュニケーション出来ない大国は日本だけです
まさに、ガラパゴスの日本です
日本に資源があるとすれば、それは人的資源だけです
その人的資源が、国際社会で発信力皆無だとしたら資源と言えますか?
帰国子女は英語はしゃべれるが仕事が出来ないとほざく中高年の上司がいますが、外国企業と交流のある一流企業では英語がしゃべれないでは仕事も出来ない時代です
中小企業も海外進出を果たすには英語です
総合商社は歴史的に「通弁」として機能してきましたが時代はとまってくれません
言葉は人格であり思考方法です
和歌俳句の雅の大和言葉は大切にしつつ、バイリンガルとしてロジカルな世界語を習得することこそ、日本人の将来への希望です
英語は、語彙が極めて豊富で、文法はあって無きがごとし
最もロジカルで分析的な奇跡の言語でまさに世界語の条件を備えている最優秀な言語です

投稿: alex99 | 2012年5月11日 09:48

alex さん:

emi さんがブログで書かれているのは、alex さんがおっしゃっていることはすべて当然の前提条件として、その上で、今の日本の英語教育の反省すべき点と、それに関連する自らのスタンスへの (さらに向上するための) 疑問なのだということを、お読みとりください。

投稿: tak | 2012年5月11日 12:00

alex さん:

【追伸】

「alex さんがおっしゃっていることはすべて当然の前提条件として」 と書きましたが、

>英語は、語彙が極めて豊富で、文法はあって無きがごとし
>最もロジカルで分析的な奇跡の言語でまさに世界語の条件を備えている最優秀な言語です

に関しては、ちょっと筆がすべったのではないでしょうか。

世界語たりうるための条件を設定 (わかりやすい、単純な文法、使われる文字が簡単明瞭など) すれば、英語が最もその条件をクリアしていると、私も思います。

しかしその条件を外してしまったら 「最もロジカルで分析的な奇跡の言語」というのは、かなりの異論のあるところだと思います。

私の思うところ、英語にも大きな欠点があって、その最たるものは、スペルと発音の関係が滅茶苦茶なことです。アルファベットという 「表音文字」を使っているにしては、欠陥ありすぎです。

英語のスペルは、日本語でいえば 「ちょうちょう」 が 「てふてふ」 になる 「旧かな表記」 みたいなもので、昔は確かにスペル通りの発音をしていた (だからこそ、そのスペルになった) のでしょうが、現代英語になってしまっては、その読みにくさはフランス語と双璧です。

私の友人のブラジル人 (ポルトガル語が母語) は、「英語は読みにくくてたまらない」 と言っています。

手放しで讃嘆するほどの言語ではないと、私は思っています。

投稿: tak | 2012年5月11日 14:34

いやぁ、
このブログは本文はさることながら、
コメントのやり取りの緊張感とマナーのバランスを保とうとするような
「場の力」も僕は大好きです。

「やっつけよう」としたり「議論を広げる場を守ろう」としたりしてるようなコトバのセッション。

僕個人的にはこういう、応酬の形をした議論の陳列が
各々の思考を深める気がしてて、
そういうセッションに関しては、日本語て結構なビンテージ楽器の音色を持ってるな、と
ここのコメント欄を読むたびに感じます。

率直に、なんか嬉しいです。

投稿: ミギヤマ | 2012年5月12日 00:17

ミギヤマ さん:

ありがとうございます。

>コメントのやり取りの緊張感とマナーのバランスを保とうとするような
>「場の力」も僕は大好きです。

それは、ウチのブログの読者が素晴らしいからだと思います。

ありがたいことです。

投稿: tak | 2012年5月12日 09:37

上層部フィックス、正にその両方です。

報告書でも、一旦ウチの上司から上へ流れたら、上の判断だから、望む結果にならんくても文句垂れるな!

会議の席上で、上層部が「係わる」と言えば、指示があるまで掻き回すな!


拙はどうも、組織的な動き(会社員としての慣習)に慣れてないので、そんな注意を今でも受けております。


今度、横文字と関西弁の融合、機会があったらやってみます。

投稿: 乙痴庵 | 2012年5月12日 16:52

乙痴庵 さん:

>今度、横文字と関西弁の融合、機会があったらやってみます。

Top executives はやなあ、fix しとんねん。Disappointed でも、until direction で、 disturb しよったら no good やからな。Understand?

投稿: tak | 2012年5月12日 19:36

笑。takさんは英語風関西弁も流暢なんですね。なんという守備範囲の広さ。

投稿: emi | 2012年5月12日 21:36

こんにちは!

>日本にいる日本人のほとんどは英語を必要としない。

これ、そうです、その通り!
私、ここを最初に読んだ時は
もう、英語なんか勉強しないようにしようっと思ったんです。(してないけど・・)

でも、今日、もう一度読んで
やっぱり捨てずにがんばるぞ・・と思いなおしたんです。
(やっぱりしないけど・・)
いつも、右むいたり、左むいたり、思うだけであかんです。

投稿: tokiko | 2012年5月13日 13:40

emi さん、

長年繊維業界でメシを食うと、関西の言葉に嫌でも馴染むんです ^^;)

投稿: tak | 2012年5月14日 06:38

Tokiko さん:

日々新たですね (^o^)

投稿: tak | 2012年5月14日 06:40

英語が際立ってロジカルで分析的というより、少し前のこのブログの記事(4/29「外国語で考えると冷静な判断ができるらしい」)にもありましたが、「外国語で思考し表現しようとすると論理的になる(というか論理的にならざるを得ない)」というのが実情なのではないかと思います。だから、日本人が英語を学んで活用しようとすると、自然に論理的になる(これ自体は悪いことではないと思いますが)。

逆に、英語であっても、感情の機微に触れるような繊細な表現というのは、自分でそれを表出することはもちろんできませんし、書いてあるものを読んでも、なかなかピンと来ない。逆説的に言えば、英語で「論理的・分析的でない」ことを表現・享受できる人が、ネイティブに近いという意味で英語に通じた人なのだろうと思います。

あ、それからtakさん、フランス語の発音は単語の読み方というレベルでは、きわめて原則的で簡単ですよ。ほとんど例外がない。ただ、リエゾンの有無を直されることが(よく)あります…。

投稿: 山辺響 | 2012年5月14日 11:52

山辺響 さん:

>英語が際立ってロジカルで分析的というより、少し前のこのブログの記事(4/29「外国語で考えると冷静な判断ができるらしい」)にもありましたが、「外国語で思考し表現しようとすると論理的になる(というか論理的にならざるを得ない)」というのが実情なのではないかと思います。

その可能性が高いと思います。

関連で、私は古語でものを書くと、論理的、感覚的の両極端になることがあります。

論理的になるのは、外国語感覚でいけるからかもしれません。

>フランス語の発音は単語の読み方というレベルでは、きわめて原則的で簡単ですよ。ほとんど例外がない。

なるほど。
ただ、その原則を理解するのに苦労します ^^;)

投稿: tak | 2012年5月15日 07:26

Yes,Boss!

投稿: 乙痴庵 | 2012年5月16日 08:58

乙痴庵

>Yes,Boss!

わはは (^o^)

投稿: tak | 2012年5月16日 12:59

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