入れ墨と、社会の多様性
ちょっとばかり旧聞気味だが、毎日新聞の 5月 18日付「余録」に、橋下市長の「入れ墨狩り」に疑問を投げかける記事が載っていたらしい。ネットで検索すると、ちゃんとそのコラムが生きていた(参照)。
このコラムでは、あの遠山の金さんも若い頃に入れ墨をしたということに触れながら、「幕府で昇進をとげてからは常に肌着をきつくまとい、夏も脱ぐこともなかった」とフォローしている。つまり北町奉行になってからの遠山左衛門尉が、「この桜吹雪が目に入らねぇか!」なんて言って、諸肌脱いだなんていうのは、後世の創作ということになる。
とはいいながら、元幕臣の漢学者、中根香亭の説を借りて、「奉行としては若い時の体験ゆえに下情に通じたみごとな裁きをした」と、フォローのフォローをしている。その上で「未来の景元(遠山の金さんのこと)を失わぬようにするのも組織の『マネジメント』だ」 などと、ごくやんわりと結んでいる。まあ、マスコミとしてはこの辺が限界なのだろう。
ところが同じ毎日新聞で、茨城版のコラムとはいいながらも、その想定された限界を遙かに超える記者が現われたようなのだ。News ポストセブンの記事によると、杣谷健太という記者が「多様性こそ社会」と題したコラムで、「大阪市で行われた全職員を対象としたタトゥー (入れ墨) 調査を、私は疑問に感じている」 と書いたらしい。(参照)
そこまでは先行する「余録」と変わらないが、彼はさらに、「私は米国留学中にタトゥーを入れた。もちろん今も体にある。(中略)タトゥーを彫ったことを後悔したことはない」と書いているという。
ただし、そこまではかなりの硬骨漢ぶりなのだが、週刊ポストの記者の直撃を受けると 、「私が会社の人間じゃなければお話しさせてもらいたいとは思うのですが……、今回は東京本社に聞いてもらえますか」と逃げられたという。で、東京本社に聞いてみると、次のような説明だったとある。
「執筆した記者のタトゥーについては入社前の健康診断で判明し、入社までに消すことを指導しました。本人もそれを了承し、通院し、消す治療を受けましたが、完全に消すことができないまま入社しました。
入社後は、人目に触れないようにしていました。毎日新聞社は、社員に社会人としてふさわしい行動を求めており、今回の記事が掲載された経緯などについて調査しています」 (社長室広報担当)
東京本社としても、「未来の景元を失わぬようにするのも組織の 『マネジメント』 だ」 なんて書いてしまった以上は、あまり表立って咎めるわけにも行かないのだろうが、まったく拍子抜けのお話になってしまっているようなのである。
魏志倭人伝にまで遡り、入れ墨は古くからの文化に根ざしていると強調しても、その論調は両刃の剣だ。今の日本文化では、西洋のタトゥに対する態度と比較しても、入れ墨に対する拒否反応が強いからだ。外国のスポーツ中継を見ると、スポーツ選手の多くが入れ墨をしていることに驚く。日本ではあまり見られないことだ。
私は個人的には入れ墨は好きじゃない。ただし「多様性こそ社会」という主張は、まったくその通りだと思う。問題は、入れ墨に関する「許容限界」の意識が、個人や階層によってバラバラで、「社会常識」がビミョーに設定しにくい状態になりつつあることだ。
公務員の世界では、その「社会常識」が最も保守的なレベルで運用されるのも仕方ないのかもしれない。ただし大阪の橋下市長のやり方を見ていると、「保守性を無闇に徹底すると、革新的に見えないこともない」ということなんじゃないかと思うのだ。
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コメント
遠山の金さんが、入れ墨を人の目に触れさせないようにしたのは、それへの人々の反応を知っていて、身体に色を染み込ませたしまった重みを十分理解していたからだと思います。
今みたいにファッションの一部として、気軽に刺すものではなく、それなりの覚悟を持っていたでしょうから、昔の人は。その道に入る証として。
それなりの覚悟がある人は、強力で怖いですしね。だからみんな一線を引いていたのでしょうね。また、親から刷り込み(私の場合は、ばあちゃんやお母さん←コレってめっちゃ強力です。)もあるし。
わたしも、それなりの覚悟がある人が悪い方へベクトルが向いているときは近づきたくありませんもの。
リンクしたのでここに書きますが、本日読んだ6/13付記事の小沢さんは、多分ある行為をした重みを十分熟知していると思います。人は重みにに引き寄せられますから、小沢さんが良いように働き変えたらものすごい強力だろうなぁ。そうしたら離れることなく協力的な人が周りに増えるかもね☆ミ
人は主体的に考えたら、悲しくなるので考えたくないのでしょうかね。重いですもん、しんどいですよ、きっと。
あっ!、その分喜びも思い分大きいのでしょうね(LOVE)
投稿: BEKAO | 2012年6月14日 17:57
BEKAO さん:
今の世の中で入れ墨に関する意識がバラバラになってしまったのは、「それなりの覚悟」があるのかどうかわからなくなってしまったからなんでしょうね。
当人は「単なるファッション」で入れたつもりでも、周囲は「それなりの覚悟」と見てしまうから、話がややこしい。
ということは、この国では「単なるファッションの入れ墨(なぜか「タトゥ」と呼ばれる)」をする時でも、「それなりの覚悟と思われてしまうことを覚悟する」必要があるということですね。
小沢さんに関しては、60歳過ぎてあんななんだから、もう変わることは期待できないと思っています。
変わる可能性があるとすれば、死に際ぐらいでしょうね。
投稿: tak | 2012年6月14日 19:41
こんばんは~
tak-shonaiさん
私は刺青は、やくざのすることなので、
そういう感覚の人間が役所にお勤めできるのは
今の社会でも、重いと思っています。
しかし、
最近はやりのお洒落感覚のタトゥーは
いいと思っています。
もちろん私は入れませんよ。何故なら
タトゥーの色は、冴えた色が出ないし、
一度入れた模様が嫌になっても絵のように
塗り替えることができないですから
結局お洒落でなくなっちゃいますよね?
日本人の感覚ではまだまだタトゥーは
やくざ者のすることか・・?という
社会の気分と目がありますから、おしゃれでも覚悟がいります。
でも、若い子は気軽にする時代になったのですから
早く世間様も受け入れてもらいたい気もします。
私が26才のころ流行したボディーペインティングというのがありました。(あれは44年前です。)
タトゥーとちがって、描きなおしができてきれいだったんですよ。
私も自分で左の腕に描きました。うふふ・・・
投稿: tokiko | 2012年6月14日 20:17
tokiko さん:
tokiko さんは、やっぱりアバンギャルドなんですね (^o^)
投稿: tak | 2012年6月14日 23:36
昔々、数十年も前のことですが、私の生まれ故郷の港町では遠洋漁船が入った日の銭湯は刺青のおっちゃんたちでごった返したものでしたが。
お武家さんはともかく下々にはそれなりの覚悟ってのは無縁だったんじゃないすかねぇ。(ここでいう「覚悟」ってのは社会の主流から外れる覚悟のことで、成人とか集団への帰属のための刺青ってのとはまた別ですよね?)
明治以降、おそらくは軍隊を通して、「みんながお武家さんみたいになる」運動があったんじゃないかと。
それは戦後も継続して、ついには刺青は「お武家さん」運動からドロップアウトしたグループ――ヤクザさん用という意識が成長してきたのではないかと思ったり。
――まあ、単なる思いつきです。
ちなみにその故郷は昨年の震災で流されちゃいました。
これはまた別の話。
投稿: Cru | 2012年6月15日 22:39
もの知らずを暴露する書き込みになりますが…
去年帰国して温泉に行った際に「タトゥー、入れ墨の方お断り」みたいな掲示があってびっくりしたことを思い出します。私も若いとき(もうアメリカに住んでいて完全にアメリカかぶれでした)足首にアンクレット感覚で入れようかと真剣に思ったことがあったので。でも、子供が小さかったのと、高いお金を払ってまでするほどのことではなかったので未だにタトゥーなしです。
大阪市の入れ墨調査にはもっとびっくりです。日本だからこういうことができるんですね。
でも、皆さんのコメントを見ると、日本でも若い人はファッション感覚でする時代になってきてるんですね。私も個人的には消せるシールのタイプ
http://image.made-in-china.com/2f0j00vBMtngrHnIqS/Transfer-Temporary-Tattoo-Sticker-YFA-101-.jpg
とか、ボディペインティングの方がいいです。ヒッピーの間に流行ったこういうやつですよね。
http://1.bp.blogspot.com/_g2Xh6zuhqQw/TTKOYz_VY8I/AAAAAAAAAHY/9gLt-HRLoAw/s1600/5.jpg
tokikoさん、カッコいいっす。(゚▽゚*)
> 入れ墨に関する 「許容限界」 の意識が、個人や階層によってバラバラで、「社会常識」 がビミョーに設定しにくい状態になりつつあることだ。
こうやって試行錯誤しながら社会通念というのは変わっていくんですね。私が高校生のころは「親にもらった大事な体を傷つけるなんてとんでもない」派がまだ優勢だったように思いますが、私もピアスの穴だけはあけました。
投稿: めぐみ | 2012年6月16日 00:10
Cru さん:
>明治以降、おそらくは軍隊を通して、「みんながお武家さんみたいになる」運動があったんじゃないかと。
それは鋭い指摘!
日本の社会意識というのは、明治を境にかなり変わったんだと思います。
あるいは江戸時代までは裸になるのが平気だったように、刺青も案外抵抗なかったのかも。
(まあ、着物を着ていて当たり前という程度に、刺青してなくて当たり前といことはあったんでしょうが〕
投稿: tak | 2012年6月16日 08:51
めぐみ さん:
大阪市の刺青狩りは、あまり表立った批判がないようですが、あれって「表現の自由の侵害」には違いないですよね。
温泉や銭湯の「刺青の方お断り」も、「当局の指導」ということですが、「差別」に違いないし。
日本は本当に「空気」の国です。
それから、シールやペインティングは、「リアル・タトゥ派」から見ると「根性が足りない」ってことになるのかもしれないと、つい思ったりします。
その辺は、入り込まないとよくわかりませんが。
投稿: tak | 2012年6月16日 09:00
タイミングずれますが・
それなりの覚悟とは、その重みを背負うことで言いました。
責任を持つということです。
他の人がどう感じようがそれに耐えられるのであれば、入れ墨をいれればいいと思います。
Cruさんの地元の漁師たちは、入れ墨は入れるとき痛いから男儀+またみんなですることなので団結感みたいな象徴なのだったのだと思いました。
しかし団結を崩すようなことがないよう覚悟がいりそう。一員として認められるような行動を取る責任がありそう。
昔よく見ていた時代劇では、前科がある人の印として腕に入れ墨を入れたと記憶しています。危ない人から守るには分かりやすくする目印もひつようだったのでしょう。
ですから、江戸時代でもヤサグレものがする象徴だったように思います。
ですから遠山の金さんは、入れ墨を入れた当初はヤサグレものになりたかったのだと思います。
自分にはできないことや、普通でないものに人間、惹かれますし、ものの考え方は、いろんなものが含まって今の状態なのでしょうね。憧れや、かっこいいとか、ただ単にファッションとしてとか。
悪いイメージがなかったら、今TATUを入れている人の大半は入れたのかな。
お宅の証明みたいのであったら、入れていたのかな?
ラムちゃんとかアヤナミレイとかを入れる。どれだけ好きかの証として、「おたく誰が好きなの?ボクも好きなんですよ。じゃあ証拠見せて」で、半袖をまくって同志の意志コミニケーションを図るアイテムとカだったら・・・銭湯出入り禁止になるのかな?と考えた。
インドでは結婚式などに消える入れ墨(ヘンナ)を入れるそうです。特別な時にするものは特別なので、インドで結婚式など挙げるのなら私もやりたいと思う。でも皮膚にぎっしり模様を埋めるのではなく、シンプル模様での線なんか素敵だな☆ミ
・・さすがに人生経験が豊富な人は、物の見方が大きいと、感服いたしました。
投稿: BEKAO | 2012年6月20日 12:16
BEKAO さん:
入れ墨に関しては、文化論の本が何冊も書けそうです。
入れ墨文化論
刺青文化論
文身文化論
タトゥ文化論
それぞれ別の文化論を語り出しそうです。
投稿: tak | 2012年6月20日 21:20