世の中では 75歳以上を「後期高齢者」というらしい。ちなみに 65歳から 74歳までは「前期高齢者」だが、その中でも障害のある者は後期高齢者に含まれるらしい。ただ、「障害」ってどの程度のものをいうのかわからないので、フツーは 75歳以上の者のことだと思われている。
で、この「後期高齢者」という呼称に、ことさらに反発する人がいる。先日も、前期高齢者の知人(66歳)との間でこんな会話を交わした。
私: 「『後期高齢者』 っていう言い方、そんなにイヤかね?」
知人: 「そりゃ、イヤだよ。『早く死ね』 と言われてるようなもんじゃないか」
私: 「そんなこと言ってないって。だから、年寄りはひがみっぽくてイヤだよ (笑)。そんなの、単なる行政上の分類なんだから、言わせておけばいいじゃん」
知人: 「あんた、そんな呑気なこと言えるのは、自分がまだ 75歳になってないからだよ」
私: 「そっちだって、まだなってないじゃん (笑)」
とまあ、世の中には、前期高齢者のうちから「後期高齢者」という呼称に立腹している人が少なくない。私にはそれが不思議でしょうがない。私の父は 80歳過ぎてからは 「俺は『末期高齢者』だから、気楽なものだ」と達観していたが、実は私もそんなところがある。何と言われようと、笑っていられると思う。
私: 「常に枕詞みたいに『後期高齢者の〇〇さん』と呼ばれるわけじゃあるまいし、気にしなければ、全然気にならないじゃん」
知人: 「そうじゃないだろ、そりゃ、イヤな気がして当然だろう」
私: 「別に当然じゃないでしょ。初めから嫌がろう、文句言おうと決めてるから、イヤなんでしょ。私なんか不精だから、いちいち気にする方がずっと面倒だよ。単なる行政上の用語にこだわって、『何か別の言い方を考えろ』なんて、もう、その方が死ぬほど面倒 (笑)」
中には「高貴高齢者」 と書くようにすればいいなんて人もいるが、そんなこと、聞いてる方が恥ずかしくて、私はよう言わん。自分で思っている分にはいいけど。
自分が「後期高齢者」と呼ばれるようになったら、そんな呑気なことを言っていられなくなるなんて、よく言われるが、74歳の最後の日までヘラヘラ笑っていて、75歳になった途端に腹を立て始めるなんていう、その方がずっとわざとらしいというか、あざといというか、おかしいだろうよ。
常々 「ピンピンコロリ」 がいいと言いながら、「ピンピン」だけ求めて「コロリ」はイヤだなんていうのは、そりゃ、わがままというものである。私は還暦のだいぶ前頃から、どんな風に死ねばいいか考えるのが習性みたいになってきていて、うまく死ぬのを楽しみにしている。まあ、実際に死ぬのは多分、ちょっと先の話だろうけど。
本当に問題にしなければならないのは、実は「後期高齢者」という呼称なんかではなく、「後期高齢者医療制度」というシステム、さらにはそれを包括した医療システム全般についてである。呼称レベルでブツブツ言われるだけなら、行政としては痛くも痒くもない。
後期高齢者医療制度というシステムによって、保険金を年寄りの年金から天引きできるというのは、行政側としてはそりゃ、手間が省けていいだろうが、年寄りにしてみればむっとくるところもあるだろう。
ただ、どうせ取られるなら、後で収めるよりは天引きしてもらう方がいいという考え方もある。独立して仕事を始めると、サラリーマン時代の源泉徴収システムの方がずっと楽だったと実感するし。
それより大きな問題は、もう、誤解を恐れずに思い切って言っちゃうけど、老人医療に金をかけすぎることだ。放っておけば安らかに死ぬ人の、腕だの口だの喉だの腹だのに何本もパイプを付けて無理矢理生かし、苦痛を長引かせることに、何の意味があるだろうと、私なんかシンプルに疑問を感じる。
だから、私は死が近づいたら余計な医療はしないでくれと、妻と子どもたちに言ってある。せっかくさっさと死ねるところまで辿り着いているのに、無理に娑婆にとどめ置かれるのは金輪際ごめんである。その旨は、そのうち文書にして残そうとも思っている。
というわけで、私はいつ死ぬことになっても OK である。「死ぬのが恐い」なんていう臆病な人が、娑婆で生き永らえることの苦痛には案外平気でいられるというのも、私には不思議でしょうがない。うんざりするほどの娑婆の長丁場にすがるよりも、死ぬ時が来たらあっさりと受け入れる方がずっと楽だろうに。
釈尊は 「仏心とは四無量心是なり」 とおおせられた。「四無量心」とは「慈悲喜捨」の心であり、最後の「捨徳」というのは、要するに「捨てて放つ」ことである。こだわらないことである。こだわらなきゃ、なんでもありがたいのだよ。もちろん、「死」でさえも。
だから、急に制度が変わって今日から「後期高齢者」と呼ばれることになろうと、私はちっとも構わない。むしろ、人間いつだって後期高齢者のつもりでいれば、もっといい生き方ができようというものである。
「年寄りはカッコ悪い」と思うから、「後期高齢者」という呼称がカッコ悪く感じるのである。むしろ「年は取るほどカッコいい」と思えば、「後期高齢者」というのは頼りになる長老みたいで、なかなかいいじゃないかとさえ思える。そう思えないのは、年寄りをリスペクトしていない裏返しの証拠だ。
さらに「末期高齢者」なんてことになったら、もう寝たきりでオムツをしていようと、神に近い存在として崇められてもいい。死んでから急に手を合わせられても、しょうがない。
最近のコメント