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2012年11月に作成された投稿

2012年11月30日

天気に関する余計な心配

ここのところの天気は、真冬の寒さと秋の不安定さが同時並行していて、まことにぱっとしない。寒いなら寒いでいいから、凛とした真冬の青空になってくれれば、いっそすがすがしいのだが、中途半端が一番うっとうしい。

天気図的には今週初めには早々と、西高東低のものすごい冬型の様相を呈して、北海道などでは猛吹雪になった。とはいえ翌日には回復して、吹雪の影響の大停電で寒さに震えた登別や室蘭でも、最悪の事態にはならずに済んだ。なんだか知らないが、天気がものすごく変わりやすいのである。

今月 23日の "暖冬予報から「厳しい寒さ」に一転" という記事でも書いたように、エルニーニョがあっさりと終息したので、暖冬予報が一転して、この冬は厳しい寒さになるのだという。日本海側は前の冬も大変な豪雪だったから、2シーズン連続で大変なことになる。

いや、もしかしたら、この冬はそれほどの豪雪にならないという期待もある。「カマキリの卵が高いところに産み付けられていたら、その冬は豪雪」 という俗信があるが、前山形県知事の斎藤弘氏によると、この秋はカマキリの卵が低いところにあるのだそうだ(参照)。

これは単なる俗信で科学的根拠は薄いのだが、それはまだ科学的に解明されていないというだけなのかも知れないから、一応注目しておこう。以前、車を運転しながら効いていたラジオ番組で、この「カマキリの卵の位置と積雪の関係」について語られているのを聞いたことがあり、それについて 平成 20年 1月 19日の和歌ログ に書いている。

要するに、あれはカマキリ自身が積雪量を予測しているわけではなく、草木の内部を水が上昇する音を聞いて、それによって卵を産み付けるべき高さを知るらしいのである。つまり、草木が積雪量を予測して、カマキリはそれに従っているということなのだ。

あるいは、今年は急にエルニーニョが終わってしまったので、草木の予測能力も狂ってしまったのかもしれないが、そうでなかったとしたら、もしかしてこの冬は「厳冬だけど豪雪じゃない」ということになるかもしれない。冬で困るのは寒さよりも雪だから、2シーズン連続の豪雪が避けられるなら、日本海側の人たちは助かる。

北西の季節風の一番ひどいところが北か南にずれれば、日本海側の豪雪地帯の積雪は、思ったほどじゃないということにならないとも限らない。近頃は地球全体の空気の流れが不安定だから、考えられないこともない。

ただ、日本海側が豪雪じゃなくて寒気だけがじわりじわりと南下してくるとすると、今度は太平洋側の雪が心配になる。冬の雪に関しては、日本海側と太平洋側は正反対の様相を呈するからだ。関東でフツーなら「冬の雨」になるところが、しっかりした雪になってしまうなんてことも、もしかしたらあるかもしれないではないか。

関東の人たちは雪に慣れていないから、ほんの少しの雪でも交通が大混乱する。ああ、今からこんなことを言っても仕方がないが、とくに春先の雪が心配である。

 

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2012年11月29日

ノロウィルスと、「単なる胃腸風邪」と「単なる下痢」

一昨日の "なんと、「胃腸風邪」 というものだったのだよ" という記事を読まれて、ノロウィルス大流行の時節でもあり、私までその「ノロ」になったと思った方もおられたようだが、医者の言うには 「単なる胃腸風邪」 というもので、確かにしんどいにはしんどかったが、ノロウィルスほどのひどさではないようだ。

とはいえ、吐き気とムカムカ感とぐったり感があまりにもひどいので、医者嫌いの私がしょうがなく自発的に医者に行ったというのも、なかなか画期的なことである。正直言って、待合室で椅子に座り、名前を呼ばれるのを待っているだけでも辛かった。

ようやく診察室に入れられて症状を説明し、「ノロウィルスじゃないですよね」と聞くと、医者は、「ノロウィルスなら、10回吐いて 10回下痢します」とおっしゃる。

「そこまでひどくはないです」
「吐きましたか?」
「胃がムカムカするので、指突っ込んで 1回吐きました」
「ノロウィルスなら、そんなことしなくても自然にゲボゲボ吐きます。下痢は?」
「してません」
「だったら、ノロウィルスじゃないでしょう。単なる胃に来る風邪、胃腸風邪ですね」

ということで、一応納得し、薬をもらって帰ってきた。そしてこの薬が結構効いて、あのしんどさから解放されると、「ところで『胃腸風邪』って、一体何なんだ?」というのが気になってきた。私は病気に関しては本当に知識不足なのだ。

インターネットで調べても、詳しいことはさっぱりわからない。ただ、「胃腸風邪∋ノロウィルス感染症」という感じで、「含む、含まれる」ということのようである。特別ひどい症状の、ノロウィルスによる胃腸風邪を「ノロウィルス感染症」というのだと思っていればいいようだ。

で、「単なる胃腸風邪」というのは、その実体はさっぱりわからないけれど、「ノロウィルス感染症ほどではない、胃腸にくる風邪」と、漠然と考えていればいいようなのである。これ以上追求しても別に利益はないみたいだから、こんなもんでいいだろう。予防のためには、体力を落とさないようにして、あとは手をちゃんと洗っていればいいようなのだ。

そうえいば 6年前に「歴史的パリの夜と、ノロウィルス疑惑」という記事を書いているように、私は 1981年のフランス大統領選挙でミッテランが勝利した夜に、パリのレストランで生牡蠣を食い過ぎて、半日だけ下痢になってしまったことがある。

「あれはノロウィルスのせいだったのかなあ」と、漠然と思っていたのだが、どうやら「単なる下痢」だったようだ。吐いてないし、半日で治っちゃったし。要するに 「食べ過ぎ」 だったんだろう。

 

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2012年11月28日

へその生態系は熱帯雨林並みなんだそうだよ

生物多様性の維持は生態系保護の結果であると同時に、生態系そのものを支えるシステムでもある。つまり、生態系は生物多様性によって支えられ、またそれによって生物多様性も維持される。つまり生物多様性の維持は、環境保護の基本なのだ。

熱帯雨林は生物多様性の宝庫といわれる。大は象のような大型ほ乳類から、小は多種多様な微生物、細菌にいたるまで、未発見のものまで含めて、ものすごい生物多様性がみられる。そしてなんと、人間のへそというのは、生物多様性において熱帯雨林とよく似ているというのである。意外なフラクタル。

ナショナルジオグラフィック ニュース によると、ノースカロライナ州立大学・生物学部の Rob Dunn 氏らの生態学者チーム研究の結果、人間のへそは意外なほどの生物多様性に満ちていて、それは熱帯雨林によく似ているとわかったのだそうだ(参照)。なんと我々は、体表面に熱帯雨林的生態系を持っているのである。ちょっと引用してみよう。

調査の結果、60人のへそから 2368種の細菌が見つかり、そのうち 1458種は新発見の可能性があるという。

細菌は少ない人では 29種、多い人では 107種もいたが、平均では約 67種が見つかった。92%の細菌種は、サンプル提供者全体の 10%足らずにしか存在しなかった。これはすなわち、ほとんどの細菌種が 60人中 1人からしか見つからなかったことを意味する。

例えば、あるサイエンスライターからは、これまで日本の土壌でしか発見例のない細菌と思しき種が見つかったが、この人物は日本への渡航歴はなかった。そのほか、数年間へそを洗っていないというかぐわしい人物からは、いわゆる極限環境微生物 2種が見つかった。通常は氷冠や熱水噴出孔などの過酷な環境に生息するものだ。

このように多様性に富んだ細菌が見つかったが、調査結果からは特定の傾向も浮かび上がった。すべての被験者に共通して見つかった菌が 1つもない一方で、8種の菌はサンプル提供者の 70%以上に見つかったのだ。そして見つかった場合、それらは決まって大量に存在した。

この「特定の傾向」というのが、熱帯雨林の特徴とそっくりなんだそうだ。それにしても、人間のへそというのがそれほどまでに生態系的に個性的なものであるとは、ちっとも知らなかった。

日本への渡航歴のない人のへそに、どんなようにして「日本の土壌でしか発見例のない最近と思しき種」が紛れ込んだのか、これは謎というよりロマンというべきだろう。また、「通常は氷冠や熱水噴出孔などの過酷な環境に生息する」細菌をへそに飼っていた人というのは、いったいどんな変わった人なんだろうと、興味は尽きない。

私にしても、普段風呂に入るたびにへそを念入りに洗うなんていう習慣はない。ということは、私のへそにも、かなり変わった細菌が住み着いているかもしれないではないか。調べてもらいたいぐらいのものである。

体に存在する微生物というのは、その人の免疫機能からニキビ、肌の柔らかさにまで影響を及ぼしていると考えられるのだそうだ。そういえば昔は、へそをいじったり洗いすぎたりすると腹痛になるなんていわれていたが、それは単なる俗説ではなく科学的な根拠があるのかもしれない。

我々の免疫機能のいくばくかは、へそに棲息する微生物によって保証されている可能性があるとしたら、あまりきれいに洗い流したりせずに、むしろ 「仲間」 として共存すべきなんだろう。

 

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2012年11月27日

なんと、「胃腸風邪」 というものだったのだよ

一昨日あたりからちょっと体がかったるい気がしていて、このブログにもまともなことを書けずに、一部にはご心配をおかけしたかもしれないが、順調に快方に向かっているのでご安心頂きたい。

昨日の夕方から吐き気がして、「悪いモノでも食ってしまったかな?」と思っていたのだが、実は吐き気は食い物のせいなんかではなく、「胃腸風邪」によるものだったと判明した。朝起きてもまだ胃のムカムカが治らないので、さすがにしんどくて医者に行ったところ、そのように診断され、処方された薬を飲んだら、かなり楽になった。

本当に病気がちで苦しい思いをしている人から見れば、こんなのは大したことはないのだろうが、私個人としては、一晩寝てもぐったりしたままなんていうのは、ここ何十年もなかったことなので、ちょっとショックだった。夕方過ぎからようやく PC に向かってキーボードを打つ気力が出てきて、安心しているところである。

4年以上前に初めて告白している(参照)ことだが、改めて書くと、実は私は小学校の 5年生頃までは虚弱体質で、しょっちゅうお腹をこわして寝込んでいた。ところが 6年生になった頃から急に丈夫になり始めて、中学校では無欠席だった。高校になって 「サボり」 による欠課が増えたが、それは全然病気のせいじゃない。

だから今の私を知る人には、私が虚弱児童だったなんて言ってもほとんど信じてもらえないが、今日はやっとの思いで自力で医者に行き、薬をもらって帰って半日寝込んでいて、小学校を休んで昼の NHK ラジオの放送を寝床で聞いていた、子供の頃の遠い記憶を思い出してしまった。

近頃ではあまり健康になってしまったので、体というのは酷使して放っておけば自然に元気でいられるものと思いこんでいたのだが、さすがに還暦を過ぎた今となっては、少しは大事に使わないと、体も不機嫌になってしまうものかと気付いた次第である。今後、少しは気を付けよう。

昨日の昼から何も食べずに、夕方まで 24時間以上絶食状態で寝ていたら、胃はすっかり快調になったわけではないが、空腹で頭がクラクラし始めたので、恐る恐るうどんを一杯食べた。腹が減っているのに食欲がないなんていうのは、生まれて初めての経験である。

食べた途端に吐いてしまったら嫌だなあと思っていたが、別になんともなく平らげてしまって、胃のムカムカもかえって落ち着いてきてしまった。もう安心という気がする。薬なんて飲み慣れないので、たまに飲むと、たった 2度飲んだだけで効き目が現われる。基礎体力があるというのは、我ながらありがたい。

 

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2012年11月26日

ごめんなさい、今日も早寝します

いやはや、昨夜からたっぷり眠ったおかげで疲労感は取れたのだが、内臓の疲れがまだたまっているらしく、某所での食事会の後、胃が苦しい。2日続けてこんな感じというのは、初めての経験だ。

さすがに還暦を過ぎると、あまり無理をしちゃいかんということなのだなと感じている。

というわけで、2日続けて早寝させていただく。明日は回復しているはずなので、よろしく。

 

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2012年11月25日

疲労の極地

近頃、いろいろ飛び回りすぎて、疲れがたまってしまっている。若い頃は一晩眠れば回復してしまった疲れも、還暦を過ぎるとなかなか回復しない。回復しないうちにいろいろやりすぎると、蓄積疲労になってしまう。

かなり蓄積して、初めて「あれ、俺って、疲れてる?」と気付くものだから、やっかいだ。

というわけで、今日は早々と眠らせていただく。これにて失礼。

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2012年11月24日

平成25年用のカーボンオフセット年賀葉書が発行されないんだと

昨年 10月に父が死んだので、今年の年賀状は出さなかった。平成 25年正月に向けては、またいつものように年賀状を出そうと思う。

私は平成 22年用から 2年間、「カーボンオフセット年賀葉書」というのを使ってきた。フツーの年賀葉書は 50円だが、カーボンオフセット年賀葉書は 5円の寄付金が上乗せされて、55円になる。この寄付金で植林やクリーンエネルギー事業などを支援することにより、年賀状に使われる紙で排出される CO2 を相殺するというものだ。

年賀状なんていう、いわば酔狂な慣習に乗って楽しむからには、それによる CO2 増加を埋め合わせるぐらいのことはしようと、私は葉書 1枚につき、5円の寄付金を払ってきたのである。100枚使っても 500円、200枚でやっと 1,000円なんだから、痛い負担というわけじゃない。これぐらいは喜んでするべきだと思うのだ。

ところが先日、平成 25年用には、カーボンオフセット年賀葉書が発行されないという話を小耳にはさんだ。にわかには信じられないので、あちこち調べてみたが、どうやら本当のようなのである。

日本郵便株式会社のサイトの「平成 25年用年賀葉書 当初発行枚数の種類別内訳」というページに飛んでみると、平成 24年度用カーボンオフセット年賀葉書は、インクジェット紙で 800万枚、四面連刷 (4枚がつながって一度に印刷できるタイプ)で 340万枚、さらに「オリジナル年賀」というのが 8万 4,000枚、合計で 1,148万 4,000枚発行されたとわかる。

ところが、平成 25年の欄には素っ気なく「-」とあるだけで、備考欄に「(平成25年用の発行はありません。)」と書いてあるのだ。「なんじゃ、こりゃあ!?」である。日本郵便株式会社は、年賀状で紙を大量消費する際の、せめてもの罪滅ぼしをしたいという消費者ニーズを無視するというのである。

合点がいかないのでさらに調べてみると、"「地球環境保全 カーボン・オフセット活動事業」に関するQ&A" というページがあって、「平成 24年度を持ちまして当初お約束しました 5年間を終えますので、『カーボンオフセット年賀はがき』の発行は終了いたしました」とある。なんだ、これって、期間限定だったのか。知らなかった。

それにしても、当初の予定が 5年間だったとしても、ニーズは確実にあるのだから、もっと延長してくれてもいいじゃないかと、かなり残念に思うのだよね。エコ活動というのは、継続してこそ意味があるのだから。

 

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2012年11月23日

暖冬予報から 「厳しい寒さ」 に一転

3日前に、気象庁の「この冬は暖冬傾向」という季節予報は、エルニーニョの継続を前提としていたので、それが思いのほか早く終息してしまった以上、予報も変わるというようなことを書いた。すると早速、「広い範囲で平年より寒さが厳しくなりそう」という予報が発表された(参照)。

今日なんぞはやたらと寒い。つくば辺りでは最高気温が一桁台という、真冬並みの冷え込みだ。このまま季節が進んだら、本当に厳しい寒さになりそうである。

晩秋に真冬並みの寒さになると、「地球温暖化なんて、嘘なんじゃないの?」と言い出す人が出てくる。今はさすがにそんな人は少なくなったが、2~3年ぐらい前まではずいぶんいた。「地球は温暖化なんてしていない。むしろ寒冷化に向かうサイクルにある」と主張するのも、そんなに恥ずかしいことじゃなかった。

ところが今や客観的な統計としても、北極海の氷が激減しているなど、温暖化の事実は否定できないところまできた。さらに、米国海洋大気庁の最新データによれば、地球全体の平均気温(全球平均気温)はこの 27年間、それまでの平均以下になったことが一度もないということまで確認された(参照)。

地球の気候サイクルとしては、本来なら確かに寒冷化に向かうべきなのに、事実として温暖化してしまっているというのは、人為的な要因がよほど大きいとみられる。これが本当に恐いところである。

寒冷化に向かうべきところを、人為的な要因で食い止めて温暖化させていられるなら、かえって歓迎すべきじゃないかという人もいる。しかし、これもそうは問屋が卸さない。

「温暖化したら、シベリアで農業ができるようになるから、食料問題が解決される」などとノー天気なことを言う人が、前はかなりいたが、そんな都合のいいものじゃないようなのである。地球上の広い範囲でまんべんなく平均的に暖かくなるならいいが、そうではなく、極端な形で現われるから困るのだ。

「温暖化」というからノー天気でいられるのだが、本当は「極端化」なのである。だから、夏は死ぬほど暑く、冬はやたら厳しいということになったり、穏やかな天気のはずの春や秋に、突然雹が降ったり竜巻が起ったりする。水不足が心配されるほど雨が降らないと思っていると、突然ゲリラ豪雨になったりする。

この冬もどんな冬になるかわからない。せいぜい覚悟だけはしておこう。

 

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2012年11月22日

九州から帰ってきた

九州への二泊三日の出張から帰ってきた。

今回の出張先はケータイの接続すらも危うい田舎である。今年の夏に訪れた時には、E-mobile の接続はおろか、Softbank Mobile の接続も怪しくて、建物の玄関先に出ないと通話もおぼつかない状況だった。ところが今回は、iPhone のアンテナ表示がしっかり 5本立っていた。なるほど、孫さんはつながり具合の改善の努力をしているようである。

そんなわけで、当ブログの記事は予め書いていた予定原稿を、iPhone で操作してアップしていたが、和歌ログの方は写真も入るので、現地で書いたものを帰宅してからアップロードということになる。

で、気付いたことがある。それはテザリングの問題だ。

私の iPad は Wifi 版だから、自力で回線につながることができず、外出時には E-mobile の Pocket Wifi のテザリング機能でインターネットに接続する。PC も当然そうだ。今回は、E-mobile のカバーエリア外だったので、インターネットの接続は iPhone でしかできなかった。

私は iPhone のテザリングが解禁されても、あまり使い物にならなかったらどうしようと心配していた。どうしようもなかったら、E-mobile を使い続けるほかないと覚悟していたが、今回のケースだったら、逆に iPhone でしかテザリングできないということになる。

いずれにしても、来月以後の iPhone でのテザリング解禁を待って、実際にあちこち行ってつないでみないことにはわからないので、今からどうこう言ってもしょうがないのだが。

 

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2012年11月21日

iPhone 5 の使い心地レポート その 3

先月 27日に iPhone 5 をゲットして、その日の内に第一印象をレポートし、そのほぼ 1週間後の今月 3日に LTE のつながり具合に重点をおいた使用レポートを書いた。

それから半月以上経った今でも、印象はそれほど変わらない。iPhone 5 は相変わらずきびきび動くし、LTE の接続具合は「そこそこ」 ではあるが、「東京の山手線圏内は全て LTE 接続可能な状態になった」という孫さんのアナウンスに対しては、「そりゃ、よっぽど条件のいい時間帯にリサーチしたんだろ」と言わざるを得ない。

今でも相変わらず、LTE の接続は不安定で、山手線沿線でもつながらないところが多い。広範囲で当たり前に使える状態になるには、まだまだ時間がかかりそうだ。ただ LTE の接続状態が画面に表示されるアンテナ 5本のうちの 2本が立っている程度でも、3G で 5本立っているよりもずっとサクサクつながる。

今日は Siri とバッテリーの持ち具合に関するレポートである。Siri というのは、音声に反応する機能で、例えば「明日の朝、5時半に起こして」と、iPhone に話しかけると、希望通りに アラームをセットしてくれたりする。

調べものをしたい時など、「○○について調べたい」というと、「すみません、○○では何も見つかりませんでした なんて、つれないことを言ってくる。それでも、罪滅ぼし的フォローで、おずおずと「ウェブで検索しましょうか?」なんて聞いてくる。どうせ自分が手動でやってもそういうことになるのだから、大抵はそうしてもらう。

まあ、これだったら初めから Google 検索する方が速い。それに iPhone の Google アプリも音声検索に対応しているから、面倒な場合はキーワードを口で言えばいい。ただ、いくら認識精度が高まったとはいえ、頻繁に誤認識してとんでもない聞き違いをしてくれるから、今のところはキーワードを手動で入力する方が速い。

それにいくら何でも、電車の中などで iPhone に向かって 「○○について、ネットで調べて」 なんて話しかけたら「ヤバイ人」に思われかねないから、やっぱり手動入力の方がずっと現実的だ。

それに、Siri で音声対応してくれるオネエサンの日本語は、イントネーションがたどたどしくて、まるで日本語の不自由な人を相手にしているような気にさせられる。英語の Siri は、結構スマートなしゃべりをしてくれるので、言語間のギャップはまだ大きいようだ。

iPhone 5 のバッテリー容量は結構大きくなっているらしいが、長時間もつかといえば、それほどでもなく、iPhone 4 と、体感的な違いはほとんどない。とはいえ、これだけハードの性能が上がっているのに、バッテリーのもちが前と同じということは、それはそれで素晴らしいことだとは思う。

ただ、出張などで頻繁に電話をしたり地図のナビ機能を使ったり、特急電車の中で退屈のあまり SNS なんかを多用したりすると、あっという間にバッテリーが消耗する。予備の充電用バッテリーは、持ち歩く方が安心だろう。

あとはテザリングが解禁されて以後の接続具合を検証したいのだが、こればかりは 12月半ば以後に、実際にやってみなければわからない。実際に試してみて、使い心地が悪すぎるようだったら、E-mobile を解約せずに使い続けることになる。

 

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2012年11月20日

近頃、ごく控えめに暖房を使っている

秋の半ばまでの気象庁の季節予報は、この冬は暖冬傾向とみられるというような話だった。これはどうやら、エルニーニョが継続するという前提で立てられた予報だったようで、今月 9日頃に「エルニーニョ終息」とのニュースが報じられて以後は、「平年並みの冬」というようなことを言い始めた。

確かに昨日の夕方あたりから、急に冷え込んできてブルブルしている。昨年の震災以後、「原発を再稼働させないと、電力がもたない」なんていう人が多いので、「じゃあ、電気使わなきゃいいんだろ、使わなきゃ」とばかり、エアコンのコンセントを抜きっぱなしにしているのだが、近頃はオイル・パネル・ヒーターを控えめに使って、少しは体を温めるようにしている。

というのは、最近どうも寒冷じんましんぽくて、体を冷やすと皮膚がかゆくなってしまうのだ。それで心ならずも、少しは暖房を入れるようにしている。といっても、厚着をして、暖房自体はものすごく控えめな温度設定(20度以下)にしている。

いやはや、それにしても、寒冷じんましんなんて、我ながらヤワな体になってしまったものだ。還暦になってしまうと、少しは体の抵抗力というのが弱くなってしまうものなのかしらん。いやいや、まだまだ体を甘やかさずに、電力消費抑制は続けていくぞ。

 

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2012年11月19日

小沢さんの無罪確定について

小沢さんの無罪が確定した。12日の東京高裁判決について、検察官役の指定弁護士 3人が、最高裁への上告を断念したため、ようやくの無罪確定である。

私は過去に何度も書いているように、小沢一郎という政治家が嫌いである。人を好き嫌いで判断することをなるべくしたくないと思っている私だが、小沢さんと田中真紀子さんは特別で、とにかく嫌いなんだからしょうがない。

ただ、嫌いだからといって、今度のような裁判で有罪にしていいとは思わない。これはもう、無罪に決まっている。こんなので有罪になるようだったら、日本という国はアブなくておちおち暮らしていられないことになる。

ただ、これも何度も書いているように、「推定無罪」 と 「清廉潔白」 とはビミョーに別なお話である。2000年 10月に "「推定無罪」 と 「本当に潔白」 とのビミョーな差" という記事で書いたことを、もう一度繰り返しておく。

こうした場合、「裁判で無罪になったんだから、俺は潔白」 と大いばりで言い張るのは、理屈から言っても、実はおかしい。だって、「無罪判決」 には 「無実 (潔白) の証明」 が必要ないんだから。この二つって、実はビミョーに別のことなんでしょ。「推定無罪」 って、そもそもそういうことなんでしょ。

というわけで私は、小沢さんが 「無罪」 であるということに関してはしっかりと支持するけれど、心の奥底で拭いがたい 「偏見」 を持ち続けるのも、こちらの自由であると思うのである。

とはいいながら、これ以上無駄であほらしい裁判が続かなくて済むことになって、まことにめでたい限りである。

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2012年11月18日

総選挙で投票する先が見当たらない

衆議院が解散して来月の 16日には総選挙になってしまうわけだが、さて、どの党に投票すればいいのか、途方に暮れている。

民主党には愛想が尽きたが、かといって自民党に回帰すればいいのかといえば、それも気持ち悪すぎる。自民党はあんなにも賞味期限切れになっていたのだ。それが 3年ちょっと野党にいただけで自動的に再生するなんて、ちょっと考えられない。

そうなると、流行りの「第三極」ということになるのかもしれないが、私が小沢さんも石原さんも橋下さんも、支持しない人であることは、しばらく当ブログを読んでくれている人なら既におわかりかと思う。

ということは、私は次の総選挙で投票する先がないではないか。こんなにいろんな党が乱立してしまっているのだから、探せばどこか見つかるだろうと言っても、自分の選挙区に全ての党から立候補者があるわけじゃないから、比例区以外では選択の幅が限られる。

こんなにも日本の将来を決定づけそうな重要な総選挙だというのに、自分の投票する先がないというのも、ちょっと切ない。こうなったら、「支持するから」 という理由ではなく、消去法で消していって最後に残ったところを、嫌々ながらでも支持した振りをするしかないのかもしれない。ああ、本当に悲しいことである。

 

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2012年11月17日

本国でのサムゲタン裏シーズンを、日本で埋める戦略?

私は焼肉料理店にすら、この 10年間で一度も行ったことがなく、韓国の食い物でお馴染みなのはキムチだけという人なので、「サムゲタン」と聞いても、「多分食い物なんだろうな」と思うだけで、イメージが浮かばなかった。このところの「サムゲタン/ステマ」騒動につられてググってみて、どんなものだか初めて知った。

ステマ騒動のきっかけは、『さくら荘のペットな彼女』というライトノベルで、原作では「おかゆ」だった設定がアニメではなぜかサムゲタンに変わっていたため、ネットで祭りになったことらしい。ふぅん。

それ以後は、サムゲタンについて何を書いてもステマ扱いされかねない風潮なんだそうで、かの乙武さんも、「きのう友人宅でいただいた参鶏湯をつくってもらえることになった。楽しみヽ(´▽`)」 と tweet しただけで、「乙武、お前もか!」とやり玉に挙げられている。気の毒に。

近頃急に話題になっているような印象のサムゲタンだが、『煩悩即道場』の ululun さんによれば、 「Google トレンドで調べたら、サムゲタンは寒くなると話題になっているみたい」ということで、とくに今年に限ったことではないようなのだ(参照)。ちょっと引用させていただこう。

日本国内過去「サムゲタン」 が一番話題になったのは今年の 1/7 にニュースに掲載された 『炊飯器でサムゲタンをつくったら、あまりのおいしさに驚愕』 だということがわかりましたよ。

へえ、今年の正月の時点で既にそんなにも話題になっていたとは、まったく知らなんだ。

とまあ、小説では「おかゆ」だったものがアニメになったとたんにサムゲタンになったことに関しては、本当にステマだったのかもしれないが、ネットの世界に関しては、毎年寒くなると定番の話題として登場機会が増えるようなのである。とくに変わったことでもないようなのだ。

とはいえ、このところはちょっと異常なまでに話題になっているので、もしかしたらサムゲタンの売上げは急カーブで上昇しているかもしれない。ちょっと調べてみたら、レトルトのサムゲタンだけで、こんなにも市場に出回っているようなのである。

で、さらに調べてみると、日本では寒くなるとネットに登場する頻度が増えるサムゲタンではあるものの、実は本場韓国では「夏の強壮食」なんだそうだよ。Wikipedia の記述を引用してみよう。

熱いスープ料理であるが夏の料理として知られ、専門店も多い。ちょうど日本の土用の丑の日におけるウナギのように三伏の日に食べると健康によいとされ、夏バテ時の疲労回復としてよく食べられている。

ここに出てくる「三伏の日」というのは、陰陽五行説に基づく夏の間の 3回の庚 (かのえ)の日のことだそうで、詳しくは こちら をどうぞ。日本の「土用丑の日」より 3倍の営業機会があるとはいえ、本来は「夏向けの季節商品」だったのである。

ということは、韓国のレトルト・サムゲタンのメーカーにとっては、本国での裏シーズンの寒い季節を日本市場が埋めてくれるならば、そりゃ、ありがたくないはずがない。私が韓国の業者だったら、迷わず日本で「寒くなったらサムゲタン」と訴求するだろう。

もしかして本当に、綿密なマーケティング戦略に基づくステマだったりして。

 

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2012年11月16日

野田さんの皮肉な 「さっぱり感」

衆議院は本日解散となる運びなのだそうだ。野田さん、前から「その気」ではあったんだろうが、やっと実行してくれるというわけだ。

私は昨年の 9月 4日に、「野田内閣、もしかしたら案外もつのかも」なんていう記事を書いた。野田さんが首相になったのが、去年の 8月 30日。そして今日衆院は解散されても、次の内閣が決まるまでは内閣総理大臣としていられるのだから、約 1年半はもつということだ。

野田さんの前の菅直人がだらだらと 452日(ほぼ 1年 3ヶ月)もったが、政権交代前は、安倍さんが 366日、福田さんが 365日、麻生さんが 358日と、ほぼ 1年内外しかもたず、民主党になってからの鳩山さんが最悪の 266日である。野田さんは「しっかりもった」というほどじゃないが、とりあえず「案外もった」とは言えるかもしれない。

どうせ最大限にもっても来年 8月の衆院任期切れまでで、既にレイムダック状態なんだから、解散しなかったら年明けには「超」の字のつくレイムダックになって、政治は何も進まなくなるだろう。野田さん、ここに来て「最後のまともな仕事」をしてくれたわけだ。

しかし民主党内部は目も当てられない状況で、できれば解散させたくない人ばっかりだったようだ。どうせ次の選挙では当選できそうにないのに、国会議員のバッジを失う日が 8ヶ月早まるのは、政治が膠着して動かないことよりずっと困ると言わんばかりなのは、やっぱり見苦しいわなあ。

3年ちょっと前に、ムードに乗って当選しただけの民主党議員は、日本人がついぞ知らなかった「政権交代」というものを経験してみるための、ワンポイント・リリーフに過ぎなかったのである。その使命は曲がりなりにも果たしたのだし、しかもあっという間に、こんなにも火だるまになってしまったのだから、あとはさっさと降板するのが仕事なのだ。

その点、野田さんの「年内解散実行」という決断は、ある意味さっぱりしている。本来なら、民主党政権にはこんなような感じの「さっぱりした政権運営」をしてもらいたかったのだが、最後の最後でやっと、しかもトップのみが「さっぱり感」を表現してくれることになるとは、まったく皮肉なことである。

 

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2012年11月15日

人間の世の中はカオスに満ちているので

今月 11日の記事で書いた「科学的知見というのは絶対的なようでいて、実は時代とともに案外ひょこひょこ変わる」という話の続編である。

話の行きがかり上で言えば、例えば 「血液型と性格は無関係」という知見も、ちょっと嫌らしい言い方かもしれないが、「ビミョーにビミョー」だと私は思っている。というのは、純粋に生理学的にみれば無関係でも、集団的既成概念のすり込みによって、A型の人間が期待通りの「勤勉で堅実な性向」を示すこともないとはいえないだろうからだ。

つまり単純生理学視点のみでみるのではなく、文化人類学的視点まで広げるという作業を行えば、「とくに血液型と性格の関連についての思い込みの強い日本では、実際に一定の偏向が認められるケースもある」程度のことが言われたとしても、まんざらおかしくはない。

もっとも、これを「社会心理学的に意味がある」とするか 「迷信による単なる気の迷い」と取るかは、立脚点や定義のしかたにもよる。だから 「社会心理学なんて純粋科学じゃないから、血液型性格判断なんて、どこまで行っても疑似科学に他ならない」と言う人がいても、「まあ、確かにそりゃそうなんだろうけどね」と言うほかない。

とはいえ、少なくとも人間の世の中が純粋に科学的法則だけで動くものじゃないということは、日常の経験則からいっても認めてもらわなければならない。社会は複雑系であり、カオスに満ちている。科学の担当する領域の視点からみたらあまりにも割り切れないことが、日常的に起き過ぎている。

「だから世の中、間違ってる」と取るか、「だからおもしろい」と取るかは、これまた立脚点による。さらにその中間では、「それが世の中なんだから、しょうがない」という諦観派もかなりの比率にのぼるだろうが、私は 「だからおもしろい」と思うタイプの人である。

 

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2012年11月14日

純正以外の Lightning ケーブルが、ようやく出始めたみたい

iPhone 5 をゲットして、とても満足して使っているのだが、何しろ問題は、あの lightning cable(ライトニングケーブル)だったのだよ。これまでの 30 pin コネクタのタイプよりずっと小型で、裏表がないからスッと抜き差しできるので、とても便利なのだが、純正品以外のケーブルが店頭で販売されていない。しかも極端な品薄だ。

iPhone を買えば、電源アダプタと USB - Lightning のケーブルが 1本付いてくるのだけれど、それだけではどうにも心許ない。私はこれまで、iPhone 4 の自宅での充電用、外出時の充電用(持ち歩き)、車のシガレットライターからの充電用、さらに予備の 1本と、4本のケーブルをもっていた。ヘビーに使っていると、このくらいは必要である。

しかし iPhone 5 を購入してみると、ソフトバンク・ショップでもケーブルは品切れだし、家電量販店でも当然入荷なし。どこに行っても買えないのである。しかたがないので、ネットの Apple Store で純正品を 3本まとめ買いした。値段は 1本 1,880円だから、合計 5,640円。たかがケーブルごときに、ずいぶん高い買い物である。

ところが最近、ようやく Apple の純正以外のケーブルが出始めたようなのである。まだ家電量販店の店頭までは出回っていないが、Amazon のサイトで買える。ちょっと覗いてみると、値段は 790円から 950円の間。巻き取りリール付きでも 980円(参照)。なんだ、安く買えるじゃないか!

これだったら、予備は純正品で 1本だけ買っておいて、あとはもう少し待ってから安く買えばよかった。とはいえ、やっぱり 持ち歩き用のリール付き (980円) を 1本買い足してしまったのであった。

 

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2012年11月13日

「よむ」 「きく」、そして 「かげ」

日本語への旅」というブログではこのところ、「聞く」「読む」という日本語について考察されていて、11月 9日付の "「聞く」と「読む」(その4)" というという記事に、とてもおもしろい指摘がある。ちょっと引用しよう。

「歌を詠む」という言い方を取り上げて、「よむ」という動詞は言語の受信だけでなく、言語の生成発信という正反対の意味も併せ持つ、という不思議な現象についてお話しした。

(中略)

その時はうっかり気がつかなかったけれど、実は「きく」という動詞だって同じように正反対の意味を持つことができる。

ほら、「生意気な口をきくな!」なんて言い方がありますよね。
この場合は、「きく」という動詞を用いながら発話行為を意味している。

まさに、日本語というのは摩訶不思議な言語であり、高度に洗練された言語であるにも関わらず、受信と発信の区別にはかなり無頓着だ。「よむ」 の場合は「手紙を読む」「歌を詠む」などと漢字で区別しているが、外来文字としての漢字を使用する段階になって初めて、その区別が意識されたのだろう。それ以前は、同じ「よむ」でしかなかったのだ。

「きく」に至ってはさらに微妙で、「聞く」「聴く」「訊く」「利く」 「効く」 など、かなりいろいろな意味、ニュアンスがある。「口をきく」というのは漢字では「口を利く」と表記し、さらに香りを楽しむことなどは「香を利く」などという。「利き酒」(「聞き酒」という表記もある)というのもある。

こんなにもいろいろな漢字で「きく」を区別しているのも、「よむ」の場合と同様、漢字輸入以後のことで、それ以前は、いろいろな意味とニュアンスをひっくるめて、ざっくりと「きく」と言っていたわけである。

動詞ではないが、「影」という名詞も、なかなか深いところがある。4年半前に "「影」って、「光」でもあるのだ" という記事で、「私の青空」という歌の日本語訳で「愛の日かげの指すところ」という一節の「日かげ」は、「日陰」ではなく「日影」であって、「太陽の光」の意味であるというようなことを書いた。

同様に 「星影のワルツ」というのは、「星の光のワルツ」という意味である。「影」という言葉には「光」と「陰」という、現代の概念では正反対の意味があるのだ。

もっとも、「日陰/日影 と書き分けて意味の違いを表現するのは、これまた漢字が入ってきてからのことで、それ以前は「ひかげ」はそのまま「ひかげ」という、現代人にしてみれば曰く言い難い言葉であったのだ。

「陰」があって初めて認識される「光」というものを、認識の端緒となった「陰」も含めて「影」と言ったのである。 「光」と「陰」を区別するよりも、ひっくるめて一つのものと考えていたのだね。

日本語というのは、西欧的な 「論理」 から逸脱しているというか、かなり自由なところがあって、それだけにとても感覚的なおもしろさがある。根本的なことを言えば、純粋な意味での一人称、二人称、三人称というのが存在しないし、五感も明確に区別されていない。なにしろ聴覚だけでなく、臭覚や味覚でも「きく」のだから。

ちなみに英語にだってそうした傾向が皆無というわけではなく、4年半前の記事でも触れたが、"shade" という単語には「陰」とか「日除け」とかの意味の他に、「色合い」という重要な意味もある。また「聞く」だけでなく「便りをもらう」のも "hear" だ。

言葉というのは本当におもしろいもので、論理的にすっきりと整理する前のプリミティブな段階で、そのプリミティブな感覚のまま昇華させてしまうと、ものすごく洗練された感覚表現が可能になる。

『荒城の月』の歌詞の「巡る杯 影さして」というのは、「杯に月の光が映っている」というのが一番表に出た意味だろうが、さらにその陰影による松の枝のリフレクションと解釈してもいいし、もっと突っ込んで、凋落して荒れ果てた城の情景を暗示するとみることもできる。

詩歌というのは、左脳が論理的に進化させてしまった言葉を一度右脳に取り戻して、感覚的に洗練させた芸術であるのかもしれない。

 

 

 

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2012年11月12日

「泡」 の可能性

今年の 6月 9日に「バイオミミクリーの可能性」という記事を書いた。これは生物を模倣することで、人間の役に立つ製品やシステムを作ろうというもので、有名なところでは、植物のイガがくっついて離れにくいことから発想したベルクロ(マジックテープ)や、カジキマグロの肌を模倣して作った高機能の競泳用水着などがある。

さらに、カニの泡吹きから発想した「フォーム(泡)」というのが、私はこれからの有望株だと思っている。カニの泡吹きは、えら呼吸するカニが空気中の酸素を取り入れるために体の表面に水分を出すのだが、まともに出したのではすぐに自分の体が干からびてしまうので、あのフォームという形で出すのだそうだ。フォームは効率がいいのである。

現在は手洗いの石けん(いわゆる「ハンドソープ」)が開発されている。ハンドソープの多くは、容器に付けられたポンプをプッシュすることによって、液体石けんが手に飛び出すようになっているが、これだと結構無駄が多い。

ショッピングセンターや百貨店などのトイレについている液体石けんの容器は、とくに必要以上の量が飛び出すようになっている。これは、液体石けんを供給する業者が、初回にポンプを無料で設置することが多いのだが、この無料容器のポンプが必要以上の量を噴出させて、液体石けんの売上げが伸びるしかけになっているらしい。

必要以上の液体石けんが手に噴出されると、いかにもきれいに洗えるような「気分」になるが、それはあくまでも単なる「気分」であって、石けんの量と洗浄効果が比例するわけではない。そしてその必要以上の石けん分を洗い流すのに、水道代まで余計にかかる上に、積もり積もって浄水場にも負担がかかる。

泡工房という業者によると、ハンドソープをフォーム状で出るようにすると、液体石けん購入のコストが通常のメソッドより 50%以上節約できるという(参照)。さらに水道料も節約できるだろうし、環境負荷削減の効果も大きい。

ハンドソープだけではない。洗顔用フォームだっていいだろう。最近は女性の間で、ネットで泡立てるタイプのものが流行っているらしいが、初めからフォームで出てくれば朝の忙しい時間に助かる。

それから、日焼け止めクリームなんかはもっといいだろうと思うのである。今の日焼け止めは、伸びが悪くて塗りにくいが、フォームタイプにすれば塗りやすくなるだろう。これは機能との両立のためにいろいろと開発のハードルもあるだろうが、金をかけてやってみる価値はある。

「泡」の可能性は、泡と消えるようなものじゃないように思うのである。

 

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2012年11月11日

ガラスは液体で桐は草本というお話と、知ったかぶりの危うさ

世間の常識を覆すもっともらしいトリビアとして代表的なのが、「ガラスは液体」、「桐は草本」というお話である。「えっ、そうだったの? 知らなかった!」 という反応が高レベルで期待される。

しかしこのお話、ちょっと前までは大いばりでひけらかしても大丈夫だったが、最近ではかなり様子が違ってきている。科学的知見というのは絶対的なようでいて、実は時代とともに案外ひょこひょこ変わる。

大昔の「天動説」は言うに及ばず、科学者の間の「定説」というのは、いつ変わってしまうか知れたものではないのである。現在の知見を無闇に信頼しすぎるのは、危なくてしょうがない。「いろいろな説があって、実はよくわかっていない」というのが、最も信頼できる説明だったりする。

まず、「ガラスは液体」というお話である。この説の根拠は、ガラスは分子構造的には、液体と同じランダムさを持ち、つまり結晶化していないので、固体ではなく「超高粘度の液体」と見るべきということだった。実際にある時期まではこの説は結構な説得力をもっていたようなのだ。

しかし現在では「昇温によりガラス転移現象を示す非晶質固体。そのような固体となる物質。このような固体状態をガラス状態と言う」ということに、一応は落ち着いているようだ。だから「知ってる? ガラスって液体なんだよ」と知ったかぶりをする奴は、古い知見をアップデートしていないのだとバレる。

(ちなみにこの辺のことを取り扱った小難しい「科学的な」ウェブページには、「固体」を「個体」とミス変換しているのがやたらとたくさんあって、その中には安直なコピペと思われるのも少なくなく、ちょっと腰砕けになった)

もう一つ、「桐は草本」という話。桐は木のように見えるけど本当は「ゴマノハグサ科」(「ゴマノハエ」ではない)に属する「草」で、「木と同じように加工できるから、漢字でも『木へんに同じ』と書くんだよ」と、知ったかぶりをする人が、昔はかなりいた。

実を言えば、「ガラスは液体」という話に関しては、「そりゃ、定義のしかたの方がおかしい」と疑った私も、「桐は草」と聞かされた時には、「そうだったのか。だから桐の箪笥や桐の箱は、あんなに軽いのか!」と、感動的に信じてしまった一人である。

ところが最近では、「草か木かというのは、植物分類学的にはあまり意味のない話」ということになっていて、「大多数の専門家が同意するような明瞭な植物学的な定義は提唱されていない」というのが、本当のところらしい。

ということは、「桐は木か草か」という議論自体がナンセンスということであり、Wikipedia の「キリ」という項目にも、「古くから良質の木材として重宝され」という記述はあるが、草本とか木本とかいうことは全然シカトされてしまっている。

つまり「桐が草か木か」なんてことを気にするのは馬鹿馬鹿しいということで、 フツーに木材として利用されているのだから、一般的には「木」と考えて何ら問題はないということだ。あえて意表を突いたことを言って知ったかぶりをしても、「その考えは古いんだよね」と言われて一発でアウトになる。

ああ、知ったかぶりをするというのは、何だかんだで本当に危ないことなのである。当ブログとしても、よっぽど気を付けなければいけない。

 

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2012年11月10日

iPhone の辞書/図鑑系アプリ

iPhone アプリで使用頻度の高いのは、ブラウザの Safari、マップのほか、「辞書・図鑑系」である。これらはなくてもほとんど困りはしないが、あるとかなり重宝するという類のものだ。入れておいて損はないと思う。

私は iPhone のスタート画面の "Reference"(「引用」とか「参照」とかの意味)という名前のフォルダに、英和/和英辞書の "Wisdom"、日本語辞書の「大辞林」、英英辞書の ”LexicEN" という語学系の他に、「年齢早見+」という便利系、「野鳥図鑑」、「花しらべ」という図鑑系を入れている。

Wisdom は 2,800円、大辞林は 2,500円で、これだけで 5,000円を超える。残りの 4つは全部足しても 1,025円だが、考えてみれば私の "Reference" フォルダには、6,325円分の辞書/図鑑が入っているのだ。こんなにあると、紙の本の形では持ち歩けないわけじゃないが、毎日となったら絶対にご免だ。

電子辞書だと、もっとてんこ盛りの辞書を入れているのもあるが、スマホと別に持ち歩くというのはうっとうしい。やはり、いつも使うスマホの中に辞書も図鑑も入っているというのがいいのである。

私はスマホを持つ前から、GEM という小さな英和/和英辞書を常に持ち歩いていた。辞書というのは、身近になければほとんど使わない。しかし常に持ち歩いていると、本当によく使うのである。しかしそれも、バッグの底の方から取り出すよりも、スマホに入っているという方がより手軽なので、使用頻度はさらに増える。ありがたい限りである。

「野鳥図鑑」 と「花しらべ」 の図鑑アプリは、さらにありがたい。とくに 「花しらべ」 は芸ありのアプリで、名前のわからない花があったら、iPhone のカメラで撮影して読み込ませ、「花の大きさ、高さ、草か木か」といった設問に答えると、あっという間に候補を絞り込んでくれる。紙の図鑑では、到底こうはいかない。

私はここの他に「和歌ログ」という酔狂なブログをやっていて、一日一首の和歌を詠むのだが、花や鳥の名前がわからないと、なかなか歌にならないのである。前は家に帰って図鑑をめくっていたが、今はすぐに iPhone で調べられる。

思えば本当に便利な世の中になったものである。私が iPhone を使い出してからまだ 3年しか経っていないが、「iPhone のない昔はどうしてたんだっけ?」なんて思うことがよくあるほどだ。

 

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2012年11月 9日

『ゲバゲバ 90分』 の DVD Box をゲット!

その録画が残されていことを知り、しかもそれが DVD で入手可能というので、つい脊髄反射的に Amazon でポッチリしてしまった 「巨泉×前武 ゲバゲバ 90分 傑作選 DVD-Box」 が、今日届いた。開けてみると、ディスク 2枚組である。

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この伝説的バラエティ番組は、第 1期が 1969年 10月 7日から 1970年 3月 31日まで、第 2期が 1970年 10月 6日から 1971年 3月 30日まで、日本テレビ系列局で放送された。リアルタイムで見て知っている人には余計なお世話だろうが、知らない人には Wikipedia の解説がオススメだ。

高校生だった私は、この番組が始まるとテレビの前に釘付けになっていたのである。放送の時期を見ればわかるように、野球のオフシーズンの番組だった。第 1期の放送が終了した時は大きな楽しみを奪われたような気がしていたが、第 2期が始まって狂喜したものである。なにしろ、野球なんかよりずっとおもしろいのだから。

ちなみに、下の写真は知る人ぞ知る 「言いたいこと言ってら〜 Say Say」 の場面である。これ、高校で流行ったなあ。

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この番組の放送が 1971年 3月までだったというのは、私にとって大きな意味がある。というのは、この年の 4月、私はワセダに入学して上京し、テレビのない生活に突入したからである。当時の一人暮らしの大学生にとって、テレビは贅沢品だった。私がテレビに縁遠くなると同時に、「ゲバゲバ 90分」も終了した。

私にとって人生の大きな転機にさしかかる直前の、ギフトのような記念碑的番組が、この「ゲバゲバ 90分」だったのである。

一般的にこの頃のテレビ番組の録画なんて、まず残っていない。なにしろあの NHK の名番組「ひょっこりひょうたん島」のビデオでさえほとんどないぐらいのものである。当時はビデオテープがまだ貴重品だったので、「NG 大賞」なんていう企画はあり得なかった。何しろエビデンスが残らないのだから。

ところが、日本テレビが麹町から汐留に移転する際に、倉庫の整理をしていたスタッフが偶然、旧式ビデオテープを発見したというのである。探してみるものである。日テレの技術スタッフが映像の修復作業を試み、辛うじて再生に成功した映像を集めたのが、この DVD-BOX なんだそうだよ。

というわけで、ゆっくり時間をかけて楽しもうと思う。そういえば、「シャボン玉ホリデー」の方は、今 Youtube で見られる(参照)以上の内容でこんなような DVD Box を作れるほどの遺産は、残ってないのかなあ。

 

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2012年11月 8日

ちょっとした仮眠はいいが、寝過ぎるとダメ

車の運転をしていて眠くてたまらなくなるのは、多くの人が経験しているだろう。私は 20年近く前、夜中に東名高速を走っていて、左側の車線にいたはずなのに、ふと気付くと右側の追い越し車線にいたということがある。ほんの数秒間(あるいは 10数秒間?)眠ってしまったのだ。そのまま眠り続けていたら、中央分離帯に激突するところだった。

ぞっとして次のパーキングに入り、そのまま眠ってしまった。その時は 2月初旬だったので、車に積み込んでいた寝袋を広げ、シートをフルリクライニングにして、朝までぐっすり眠った。目を覚ましたら大雪になっていて、びっくりした憶えがある。

一晩ぐっすりと眠らなくても、普通は 大体 20分ぐらいの仮眠をとると、眠気がとれてすっきりすると言われている。長くても 30分だ。それ以上眠ってしまうと、本格的睡眠モードに入ってしまって、起きられなくなってしまう。

今年の 5月に、車で仙台から盛岡、宮古まで、東北方面に三泊四日の出張をした時、最終日の昼過ぎに盛岡から東北道に乗って帰路につき、宮城県に入った辺りでさすがに疲れが出て、眠くてたまらなくなった。

20年前の記憶がよみがえり、早々にパーキングエリアに入って仮眠をとらないと命が危ないと思うのだが、そのパーキングエリアに行くまでの間にも眠りそうになる。目を閉じてはいけないと思っていると、一瞬、目を開いたまま白目になっている。これはヤバイ。かなりヤバイ。

ようやくパーキングエリアに入り、シートを倒して仮眠を取った。この時は夜中というわけでもなかったので、30分泥のように眠って目が覚め、あとはすっきりとして、余裕で帰ってくることができた。やはり 20~30分の仮眠の効果は素晴らしい。

電車で眠ってしまうこともよくある。上野駅から私の利用する取手駅まで、常磐線快速電車で 42分ぐらいかかる。上野駅で始発電車に乗ったとたんに眠ってしまい、取手駅に着いてしばらく経ち、車内ががらんとしてしまった頃に目が覚めてしまったりすると、かれこれ 1時間近く眠ってしまったことになる。

するともう、目が覚めてからも眠くてたまらない。なかなかすっきりしないのである。よろよろと歩いて、取手駅近くの駐車場に停めてある車に辿り着き、ハンドルを握る頃になって、ようやくまともに目が覚めた気分になる。眠りすぎるのは逆効果なのだ。

Wired に「30分の昼寝は効果的だ!?」という記事がある。この記事によると、数分の深い眠りによる小休止 (米国では「マイクロスリープ」とか「パワーナップ」とか言うらしい) は、仕事にも効果的だということがわかったというのだ。短い眠りの間は、右脳が活発に働くらしいのである。

こうした短い眠りの間に、人間の脳内では、覚醒時において接する事柄についての記憶や概念を、かなり創造的なレベルでまとめる仕事が行われているようなのだ。それで目が覚めたとたんに、いいアイデアが浮かぶなんてこともある。右脳様々である。

しかし、ヴェネツィアのドーロ市立病院睡眠医学学際センターの神経科学専門家、メネガッツォ博士は、「この休憩は、回復のために深い眠りに落ちることがあるにしても、最大で 20〜30分にとどめるべきです。そうでないと、集中と学習を助けるどころか、結果的に寝ぼけてしまう危険があります」と警告している。

なるほど、やっぱり 30分以上眠ってしまうと、寝ぼけてしまうのだ。薄々勘付いていた通りである。

 

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2012年11月 7日

左脳と右脳の両刀遣い

昨日の「エンパシーは分析的思考を抑圧し、逆もまた真」というお話の続編である。私は昨年までは「エンパシー」というのは外来語としてさえ定着していないと思っていたので、 "empathy" と横文字で表記していたが、昨日からはカタカナで書くことにした。逆に、日本語の中に定着させたいという願望を込めて。

エンパシー(「共感」とか「感情移入」とかに近い意味合い……念のため)と分析的思考が両立しないのは、頭の中の回路が全然違っているからで、それを融合させてしまうというのは、ちょっと無理なお話のようなのだ。それならば、融合なんてしなくていいから、一人の人間の中で両方ともできるようにすればいい。両刀遣いになればいいのだ。

エンパシーなどの情動的、直観的な思考というのは「右脳」の領域で、分析的思考は「左脳」の働きであるというのは、既に広く知られている。私は前に、脳梗塞で倒れた長嶋さんが見事に復活された時、右手をポケットに入れたままだったことに関して、次のように書いている。

そして、右手がやられたということは、左脳がやられたということ。右脳でなくて、不幸中の幸いだった。

長嶋さんの脳のダメージが、左脳でなくて右脳だったとしたら、大変だった。直観を司る右脳にダメージが残ったら、長嶋さんが長嶋さんでなくなるところだった。(参照

長嶋さんは、こう言っちゃなんだが、昔から左脳なんてあまり使っておられなかったから、脳梗塞で倒れられた後も、あの人間的魅力に溢れたキャラクターをしっかりと維持しておられる。これは本当に不幸中の幸だった。私は、人間的魅力というのは、左脳よりも右脳の働きで現われると思っている。

一時かなり話題になった YouTube の動画に "「奇跡の脳」 脳卒中体験を語る / ジル・ボルティ・テーラー" というのがある。脳科学者のジル・ボルティ・テーラーという女性がある朝、脳卒中に襲われた。彼女の脳卒中は左脳の領域で起ったようで、そのため、論理的思考がほとんど停止し、病院に運び込まれるまで右脳の働きのみになっていた。

その時どんな状態だったかというと、彼女は "euphoria" (歓喜にあふれた幸福感) だったというのである。自分と外界との境界がなくなり、すべてと一体になり、「もう、戻りたくない」 と思うまでの素晴らしい世界にいたというのである。時間があれば、下の動画を再生してご覧いただきたい。

とまあ、私としては脳卒中になるなんていうのは嫌だから、せめて時々は瞑想をして、右脳を活性化させておきたいと思うのである。

 

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2012年11月 6日

脳は共感と分析的思考を同時に行えない

Slashdot の「脳は他者への共感と分析的思考を両立できない」という記事は、とても注目すべきものだ。なにしろ 「脳に構造的な制約があり、共感することと分析的思考を同時に行えないことを示す初めての研究」 というのだから。

「そんなこと、改めて言われなくても昔から十分に勘付いてたよ」と言いたくなるとはいえ、それに関する実証的な報告というのは、確かに初めて見た。ちょっと引用してみよう。

脳には社会的/道徳的/感情的に他者と繋がるときに使われるネットワークと、論理的/数学的/科学的思考に使われるネットワークがあるという。脳が休息状態にあるときはこれらのネットワークが交互に使われるが、どちらかの機能を要するタスクを行う場合、もう片方のネットワークが抑圧されることが示されたという。

ここでしっかり注目すべきは、「脳が休息状態にあるときはこれらのネットワークが交互に使われるが、どちらかの機能を要するタスクを行う場合、もう片方のネットワークが抑圧される」という記述だ。

「脳が休息状態にある」時、つまり、どちらかに集中しているわけではないという時には、「社会的/道徳的/感情的ネットワーク」と「論理的/数学的/科学的ネットワーク」が交互に働く。ということは、ものごとを割と「トータルに見る」ということが可能になるということだろう。

しかし、「どちらかの機能を要するタスクを行う場合」は、「もう片方のネットワークが抑圧される」というのである。つまり、高度に論理的/数学的/科学的なタスクに集中していると、社会的/道徳的/感情的な脳の働きができなくなり、その逆もまた真だというのだ。

これはゆゆしき問題である。専門的なタスクを行うと、それ以外の心的働きが抑制されてしまうと言うのだから。

この記事の英語の元記事をみると、問題はよりストレートに伝わる。タイトルは "Empathy Represses Analytic Thought, and Vice Versa" となっていて、日本語では 「エンパシーは分析的思考を抑圧し、逆もまた真」 ということだ。

「エンパシー」という言葉は日本ではまだあまり一般的ではなく、和英辞書的には「感情移入、人などへの共感」などということになっているが、今イチ訳しきれていない気がするので、私としてはそのまま「エンパシー」という外来語として使う方がいいと思っている。このことについて私は過去に何度か言及しているので、以下を参照していただきたい。

"Empathy" の時代
「葉っぱはなぜ緑色なのか」への、稲本正氏の回答
ネズミもすなる「思いやり」というもの

私はここに示した過去記事の中で、エンパシーのコンセプトは人類の次に進むべきステージのテーマを暗示しており、これによって「現代の危機的状況を脱することができるのではないか」とまで言っているのだが、問題は、この エンパシーというのがあまり論理的なものではないということだ。

論理こそが万能だと考えている人には、「エンパシー」なんて戯言か夢物語ということになるだろう。しかし私は、競争原理に傾きすぎた人類史のコンセプトを、「エンパシー」という情動的な働きで修正していくことが必要だと考えている。当然ながら、エンパシーだけで生きろと言っているわけではない。それは不可能だ。

論理に傾きすぎると、人間は冷徹になる。しかし情感に傾きすぎれば、理屈の通じない困った人になってしまう。重要なのはバランスだ。これらの 2つの働きを、脳は同時にはこなせないというのだから、片方に集中したら、常にもう片方を思い出すというように、トータルな思考を取り戻す必要がある。

瞑想が心の平安を取り戻すのに役立つというのは、そういうことなのだろう。

 

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2012年11月 5日

4ドア・セダンはお好き?

先日、同年代の友人と話していて気付いたことがある。それは「俺たちって、4ドア・セダンにはまず乗らないよね」ということだ。2人とも車は何台も乗り換えているが、「自分が 4ドア・セダンのオーナーになっている姿を想像できない」という点で、見事に一致した。

それで、車としての先進性やエコロジカルな価値は十分承知しながら、プリウスにはあまり魅力を感じない。エコ・カーを買うなら、別の車種を選びたい。

同年代の友人たちを見渡しても、4ドア・セダン派はいないわけではないが、極少数派である。彼らは仲間内ではかなり「おっさんくさい」存在とみられている。いつ見てもスーツにネクタイか、ゴルフウェア姿。クラス会の後の二次会には馴染みのホステスがいるクラブに行きたがり、チークダンスに目がない。

考えてみると、こうした 4ドア・セダン派の趣味は、我々の世代(還暦以下)にとっては「オッサンくさい」と映るが、団塊の世代より上の連中にとっては、それはもう立派な「スタンダード」なのである。なにしろ「いつかはクラウン」というぐらいのものだ。

そういえば周りを見渡すと、65歳以上には見事に 4ドア・セダン派が多い。車を買う際には、それ以外の選択肢はあり得ないと考えているかの如く、ほぼ自動的に 4ドア・セダンを選んでいる。65歳より下になるにつれてその比率が減り、60歳を境にほとんど皆無に近くなる。

モノを所有することに関して、「ステイタス・シンボル派」と「ライフスタイル派 に大別するとすれば、4ドア・セダンは明らかに前者の趣味で、左ハンドルのジャガーに乗りたがるなんていうのは、その歪んだ典型である。我々の世代では、左ハンドルのジャガーなんて恥ずかしくて乗れない。

私は世代論を振りかざしすぎるのはあまり好きじゃないが、4ドア・セダンに乗っているかどうかというのは、かなり明確な指標になりそうに思う。自動車メーカーは数年ごとのサイクルで「4ドア・セダンの復権を」なんてことを言い出すが、それは多分「演歌の復権を」というのと同じぐらい無理な相談だ。

4ドア・セダンも演歌も、消えてなくなりはしないが、市場性はどんどん低下する。ちなみにかの友人と話していて、「クラウンとカローラの存在意義はまだわかるけど、"マーク X" って車種は何のためにあるんだかわからない」という点でも、見事に一致した。

 

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2012年11月 4日

Windows 8 のタッチスクリーン操作って

先日、近所の家電量販店に寄ってみたら、Windows 8 を搭載した新型 PC がずらりと並んでいた。やれやれ、これで新規に Windows PC を購入するユーザーは、自動的に Windows 8 ユーザーにされてしまうのである。気の毒に。

それが嫌な人は、あの変な UI から逃れるために、先月末頃までに駆け込みで Windows 7 の PC を購入し、少なくともあと 3年以上、できれば 5〜6年は使い続けようと思っている。私は懸命な選択だと思う。

ところで、あれだけズラリとタイル状の「モダン UI」とやらの画面が並んでいると、あれを指でタッチしてやるとどんな反応なのか、ちょっと好奇心を起こして、触ってみたのである。

ところが、何の反応も示さない。ズラリとならんだデスクトップもノート PC も、全然反応しない。「何じゃこりゃ?」と思いつつ、マウスやタッチパッドで「デスクトップ」と書かれたタイルをクリックすると、見慣れた従来のデスクトップが表示される。

やれやれ。でも、これでいいのなら、何もわざわざ OS をアップデートする必要なんてないじゃないか。

店員に聞いてみると、まだタッチスクリーンに対応した機種は少なくて、各メーカーの最高位ぐらいでないと、タイルをタッチしての操作はできないのだそうだ。なんだ、ハードウェアの対応状況って、まだその程度だったのか。

先日来、手持ちの PC に Windows 8 をインストールしたのに、タッチスクリーン操作ができないと騒ぐ初心者が多いと報道されているが、自前で OS のアップデートをしたケースでなくても、同じことが起こる確率はとても高いわけだ。

ビギナークラスのユーザーが 「Windows 8 が初めから入っている PC を買ってしまえば間違いなかろう」 と考えて、店頭で手頃な値段の新型 PC をよく確かめずに買って来ると、やっぱりタッチスクリーン操作ができないのである。

「これだったら、もっともらしく新デスクトップを表示させておく意味がないじゃん」と店員に言うと、「まあ、確かにそうなんですが、こうしておかないと、Windows 8 をアピールできないもので」 と、ニヤニヤ笑っていた。

ふぅん、それってユーザー利益というより、マイクロソフトと店の都合でしかないよね。

もっとも、ノート型ならいざ知らず、デスクトップでディスプレイに手を伸ばしてタッチしたがるユーザーはあまりいないだろうから、別にいいんだけれど、どう考えても、かなり馬鹿馬鹿しいことになっているとは思うわけである。

 

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2012年11月 3日

ソフトバンク版 iPhone 5 の LTE 接続具合

先月 27日に iPhone 5 をゲットして 1週間が経過した。この辺で少し、使い心地をレポートしておいてもいいだろう。テザリングはまだ解禁になっていないが、LTE などのつながり具合は、何となく感覚的にわかってきた。

LTE のカバーエリアでインターネット接続すると、それはもう、速い。アンテナが 5本のうち 2本しか立っていなくても、3G 回線と比較して、スポーツカーと原付との違いぐらいのイメージで速い。

しかし LTE のカバーエリアは、まだそれほど広くない。ソフトバンクのウェブページで確認すると、東京都区内はもちろん、私の居住するつくば近辺も、十分にカバーされていることになっている。ところが実際につないでみると、そうはいかない。

我が家は、夜間には LTE で接続される。アンテナは 2本しか立たないが、十分に速い。しかし夜が開けてしまうと、3G になってしまう。これは、LTE 接続が増えて回線が一杯になってしまうと、自動的に 3G に回されてしまうのだろう。

常磐線に乗って都心に向かうと、LTE になったり 3G になったり、安定しない。それどころか、都心の山の手線の駅でも、LTE 接続できないところが多い。

ソフトバンクの孫社長は、先月末の会見で山の手線の全駅で LTE 接続が可能になったと発表したようだが、今月 1日の段階でまだつながらない駅が存在することを、私は自分で確認している。

しかし現在滞在している、愛媛県の伊予西条駅前のホテルでは、快適に LTE 接続できている。どうやら、あまりユーザーの接続が多いところでは、カバーエリア内でもつながりにくくなるが、適度に地方に出てしまうと、逆につながりやすいようなのだ。

ただ接続に関しては、これからどんどん変わってくるだろうと思うので、改善に期待している。

 

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2012年11月 2日

ネット予備校への危惧

日経ビジネス On Line に、"「ネット予備校」 が広げる教員格差  人気集中が招く画一化" という記事がある。こんな書き出しである。

suffice、serene、connote。

パソコン画面に表示された動画の中で、チョークを手にした講師が黒板にリズムよく英単語を書き付けていく。口調は歯切れがいい。「語尾に e がある場合は、子音の前が長母音になります。この法則を知っていれば、初めて見た単語でも、どう発音するか判ります」。

この書き出しを読んだだけで、記事が紹介するリクルートマーケティングパートナーズがネット上で配信する「受験サプリ」というプログラムを信用してはいけないなと判断しなければならない。

動画の中で講師が歯切れの良い口調で説明する「法則」というものが真っ赤な出鱈目であることは、"one" "give" "live" "bubble" "infinite"  "tackle" "practice" "requisite"  "exquisit"などの単語を挙げるだけで、簡単に証明できる。

さらに、"active" "negative"  "inclusive" "exclusive"など、あまたの "tive" "sive" という語尾の単語はどうしてくれるのだ。こんなにも 「例外」の多い話を「法則」と言い切る英語教師の頭の中身は、一体どうなっているのだろうか。

日経ビジネス On Line の記事は、予備校の授業がネット配信されれば、人気講師への生徒の人気の集中が加速され、画一化につながると危惧しているが、それ以前に、もっともらしい間違いが広がることの方が心配である。

 

 

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2012年11月 1日

「蛇の目でお迎え」 という文化

「あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな」という歌詞の歌は、「あめふり」というタイトルの童謡だが、作詞が北原白秋というのは、今しがた Wikipedia で調べてみて初めて知った。この歌、最近の小さい子たちは、多分知らないだろう。

今日カーラジオを聞いていると、ある年配の女性からの投書が読まれた。小学生の頃、学校が終わる前に雨が降り出し、友達は皆、母親に雨傘をもって迎えに来てもらっているのに、自分の母は仕事をしているので来てくれず、たった一人で玄関に取り残された。その時、学校の先生にやさしく送ってもらったという思い出をつづったものだった。

ふぅむ、そういえば昔は学校が終わる前に雨が降り出すと、家の者が傘を持って迎えに来るという風習があったものなのだよね。おかげで、学校の玄関はごった返していた。テレビの「サザエさん」のアニメでも、夕方、傘を持って波平さんとマスオさんを駅まで迎えに行くという場面が時々出てくる。古き良き時代のお話だ。

振り返れば、私も傘をもって迎えにきてもらったことが 2度ある。最初は幼稚園の頃で、母が迎えに来てくれた。その母は間もなく勤めに出たから、2度目は小学校の低学年の頃で、迎えに来たのは祖母だった。病弱な祖母はその迎えで大儀な思いをしたというので、以後 2度と来てくれなくて結構ということにしたような気がする。

というわけで私はそれ以後、家人に傘をもって迎えに来てもらったことはなく、雨が降ればずぶ濡れになって走って帰った。私としても、迎えを待つより走って帰った方が早いし気楽なので、それで風邪をひくなんてことも、淋しい思いをするなんてことも、まったくなかった。

私が今に至るまで、多少の雨では傘をさす気になれないというのも、実はこの頃に養われた感性なのかもしれないと、ここまで書いて思い当たった。

そして自分が親になって子供を持つ頃になると、私の妻は多分、学校に傘を持って子供を迎えに行ったことなんて、一度もないだろうと思う。これは決して親が薄情になったというわけではない。ただ、日本はそういうふうに傘を持って子供を学校まで迎えに行くという文化の国じゃなくなったんだと思う。

今でも傘を持って迎えにいく母親が少しはいるのかもしれないが、少なくとも迎えの親たちで、学校の玄関がごった返すなんていう光景は、絶えて久しいだろう。

この変化の最大の要因は、天気予報の進歩だろう。昔は鉄砲の弾と天気予報は滅多に当たらないと言われたほどで、ラジオの天気予報が 「晴れのち雨」 なんて言っても、あまり真に受けなかった。だからたまに天気予報が当たると、傘を持って迎えに行くという光景が見られたのである。

ところが最近の天気予報は、少なくとも当日と翌日の天気ぐらいなら、とてもよく当たる。お天気キャスターが「今は晴れていても、昼過ぎから広い範囲で雨が降ります」と言ったら、大抵の人は素直に傘を持って出かけるようになったのである。だから当然、迎えもいらない。

「帰る頃には雨になるから、ちゃんと傘を持つのよ」と母親に言われても、それを聞かずに学校に行ってしまったら、それはもう、いくら子供とはいえ自己責任というものだ。何しろ母親としても、子供はちゃんと傘を持って行ったと思い込んでいるし、近頃は共働きが多いから、「蛇の目でお迎え」なんていう文化は廃れてしまったのである。

それにしても、日本人は本当に 「雨が降ったら傘をさす」 民族なのだなあと思う。先月 7日に「ビニール傘と日本人」という記事で、そんなようなことを書いたのだが、わざわざ学校や駅まで傘をもって迎えに行くという文化がつい最近まであったことまでは、書きそびれていた。

 

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