「よむ」 「きく」、そして 「かげ」
「日本語への旅」というブログではこのところ、「聞く」「読む」という日本語について考察されていて、11月 9日付の "「聞く」と「読む」(その4)" というという記事に、とてもおもしろい指摘がある。ちょっと引用しよう。
「歌を詠む」という言い方を取り上げて、「よむ」という動詞は言語の受信だけでなく、言語の生成発信という正反対の意味も併せ持つ、という不思議な現象についてお話しした。
(中略)
その時はうっかり気がつかなかったけれど、実は「きく」という動詞だって同じように正反対の意味を持つことができる。
ほら、「生意気な口をきくな!」なんて言い方がありますよね。
この場合は、「きく」という動詞を用いながら発話行為を意味している。
まさに、日本語というのは摩訶不思議な言語であり、高度に洗練された言語であるにも関わらず、受信と発信の区別にはかなり無頓着だ。「よむ」 の場合は「手紙を読む」「歌を詠む」などと漢字で区別しているが、外来文字としての漢字を使用する段階になって初めて、その区別が意識されたのだろう。それ以前は、同じ「よむ」でしかなかったのだ。
「きく」に至ってはさらに微妙で、「聞く」「聴く」「訊く」「利く」 「効く」 など、かなりいろいろな意味、ニュアンスがある。「口をきく」というのは漢字では「口を利く」と表記し、さらに香りを楽しむことなどは「香を利く」などという。「利き酒」(「聞き酒」という表記もある)というのもある。
こんなにもいろいろな漢字で「きく」を区別しているのも、「よむ」の場合と同様、漢字輸入以後のことで、それ以前は、いろいろな意味とニュアンスをひっくるめて、ざっくりと「きく」と言っていたわけである。
動詞ではないが、「影」という名詞も、なかなか深いところがある。4年半前に "「影」って、「光」でもあるのだ" という記事で、「私の青空」という歌の日本語訳で「愛の日かげの指すところ」という一節の「日かげ」は、「日陰」ではなく「日影」であって、「太陽の光」の意味であるというようなことを書いた。
同様に 「星影のワルツ」というのは、「星の光のワルツ」という意味である。「影」という言葉には「光」と「陰」という、現代の概念では正反対の意味があるのだ。
もっとも、「日陰/日影 と書き分けて意味の違いを表現するのは、これまた漢字が入ってきてからのことで、それ以前は「ひかげ」はそのまま「ひかげ」という、現代人にしてみれば曰く言い難い言葉であったのだ。
「陰」があって初めて認識される「光」というものを、認識の端緒となった「陰」も含めて「影」と言ったのである。 「光」と「陰」を区別するよりも、ひっくるめて一つのものと考えていたのだね。
日本語というのは、西欧的な 「論理」 から逸脱しているというか、かなり自由なところがあって、それだけにとても感覚的なおもしろさがある。根本的なことを言えば、純粋な意味での一人称、二人称、三人称というのが存在しないし、五感も明確に区別されていない。なにしろ聴覚だけでなく、臭覚や味覚でも「きく」のだから。
ちなみに英語にだってそうした傾向が皆無というわけではなく、4年半前の記事でも触れたが、"shade" という単語には「陰」とか「日除け」とかの意味の他に、「色合い」という重要な意味もある。また「聞く」だけでなく「便りをもらう」のも "hear" だ。
言葉というのは本当におもしろいもので、論理的にすっきりと整理する前のプリミティブな段階で、そのプリミティブな感覚のまま昇華させてしまうと、ものすごく洗練された感覚表現が可能になる。
『荒城の月』の歌詞の「巡る杯 影さして」というのは、「杯に月の光が映っている」というのが一番表に出た意味だろうが、さらにその陰影による松の枝のリフレクションと解釈してもいいし、もっと突っ込んで、凋落して荒れ果てた城の情景を暗示するとみることもできる。
詩歌というのは、左脳が論理的に進化させてしまった言葉を一度右脳に取り戻して、感覚的に洗練させた芸術であるのかもしれない。
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