原発事故を 「本気で防ごうと思う」 ことは、当事者にとって可能なのか?
東京電力は今月 29日に、福島第1原発事故について「天災と片付けてはならず、防ぐべき事故を防げなかった」と結論づけた最終報告書をまとめたと伝えられている。私はそれを読んでいないのだが、MSN 産経によると、事故原因は次のように総括されている。
報告書では事故原因について、「設計段階から地震や津波で設備が故障するという配慮が足りず、全電源喪失という過酷な状況を招いた」と言及。「海外の安全性強化策などを収集・分析する努力が不足していた。結果、炉心溶融し、広域に大量の放射性物質を放出させる深刻な事故を引き起こした」とまとめた。
とまあ、かなりずさんな安全管理だったことが明らかになったわけだ。こんなことで「安全神話」を吹きまくっていたのだから、東電にはよほど楽観的な人しかいなかったのか、あるいはよっぽど急いで原発をスタートさせる政治的プレッシャーがあったか、そのどちらか、あるいは両方だったかである。
フツーに考えると、やっぱり東電の過度の楽観主義と政治的プレッシャーの合わせ技だったのだろうけれど、それにしても、この報告書をまとめた意図がどんなものなのかというのも気にかかる。
どうやら東電は「事故は人災だった」と結論づけることで、その「人災ファクター」を取り除きさえすれば、原発は安全に稼働できると言いたいみたいなのである。
しかし私としては、あの震災前でもいろいろの「ちょっとした不具合」を頻発させていた原発の「人災ファクター」とやらが、そんなに簡単に取り除かれるとは思っていない。そんなに単純なものじゃなかろうという思いがある。
私はちょっとしたコネクションで、原発がいかに頻繁に不具合を発生させて、その度にメーカーの担当者が応急対策のために現場に飛んで、長期出張を余儀なくされていたかを知っているので、「はい、人災ファクターをすべて取り除きましたよ!」という宣言なんて、そうそうできるはずがないと踏んでいるのである。
いずれにしても「人災ファクター」が存在したまま稼働を要請する政治的プレッシャーというのが、消えたわけでは決してない。つまり原発を要求する体質というのは依然として強力に存在するのだから、「人災ファクター」だってすっかり消えるはずがない。
福島の原発事故は、東電自らが「防ごうと思えば防げた」と宣言した。しかし「そんなことを言っても、実際には防ごうとしてこなかったじゃないか」というツッコミは常に入れられなければならない。さらに「そもそも、本気で原発事故を防ごうと思うことは、原発稼働と矛盾するんじゃないか」とまで、私は言いたいところなのである。
原発事故を引き起した怠惰は、技術論を超えたいろいろなシガラミから生じている。そのシガラミにメスを入れる必要がある。「そもそも本気で事故を防ごうと思うこと自体が、原発推進論者にとって本当に可能なことなのか?」を問いつめなければならない。
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