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2013年3月に作成された投稿

2013年3月31日

原発事故を 「本気で防ごうと思う」 ことは、当事者にとって可能なのか?

東京電力は今月 29日に、福島第1原発事故について「天災と片付けてはならず、防ぐべき事故を防げなかった」と結論づけた最終報告書をまとめたと伝えられている。私はそれを読んでいないのだが、MSN 産経によると、事故原因は次のように総括されている。

報告書では事故原因について、「設計段階から地震や津波で設備が故障するという配慮が足りず、全電源喪失という過酷な状況を招いた」と言及。「海外の安全性強化策などを収集・分析する努力が不足していた。結果、炉心溶融し、広域に大量の放射性物質を放出させる深刻な事故を引き起こした」とまとめた。

とまあ、かなりずさんな安全管理だったことが明らかになったわけだ。こんなことで「安全神話」を吹きまくっていたのだから、東電にはよほど楽観的な人しかいなかったのか、あるいはよっぽど急いで原発をスタートさせる政治的プレッシャーがあったか、そのどちらか、あるいは両方だったかである。

フツーに考えると、やっぱり東電の過度の楽観主義と政治的プレッシャーの合わせ技だったのだろうけれど、それにしても、この報告書をまとめた意図がどんなものなのかというのも気にかかる。

どうやら東電は「事故は人災だった」と結論づけることで、その「人災ファクター」を取り除きさえすれば、原発は安全に稼働できると言いたいみたいなのである。

しかし私としては、あの震災前でもいろいろの「ちょっとした不具合」を頻発させていた原発の「人災ファクター」とやらが、そんなに簡単に取り除かれるとは思っていない。そんなに単純なものじゃなかろうという思いがある。

私はちょっとしたコネクションで、原発がいかに頻繁に不具合を発生させて、その度にメーカーの担当者が応急対策のために現場に飛んで、長期出張を余儀なくされていたかを知っているので、「はい、人災ファクターをすべて取り除きましたよ!」という宣言なんて、そうそうできるはずがないと踏んでいるのである。

いずれにしても「人災ファクター」が存在したまま稼働を要請する政治的プレッシャーというのが、消えたわけでは決してない。つまり原発を要求する体質というのは依然として強力に存在するのだから、「人災ファクター」だってすっかり消えるはずがない。

福島の原発事故は、東電自らが「防ごうと思えば防げた」と宣言した。しかし「そんなことを言っても、実際には防ごうとしてこなかったじゃないか」というツッコミは常に入れられなければならない。さらに「そもそも、本気で原発事故を防ごうと思うことは、原発稼働と矛盾するんじゃないか」とまで、私は言いたいところなのである。

原発事故を引き起した怠惰は、技術論を超えたいろいろなシガラミから生じている。そのシガラミにメスを入れる必要がある。「そもそも本気で事故を防ごうと思うこと自体が、原発推進論者にとって本当に可能なことなのか?」を問いつめなければならない。

 

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2013年3月30日

POS レジは敵と気付いた

時々スーパーに買い物に行くといつも思ってしまう。「この店内の陳列棚の少なくとも 6割以上には、全然興味ない品物が並んでる。こんなもの、一体誰が買うんだろう?」

あの変てこなスナック菓子、訳の分からないレトルト食品、着色料たっぷりのハム、多種多様のカップ麺、ちっとも清涼な気がしない清涼飲料水、怪しい名前の調味料、趣味の悪いパン、合成洗剤、クエン酸さえあれば必要のない各種「住まいの洗剤」等々……。あるだけ邪魔とさえ思えるものばかりだ。

ここ何十年もずっと同じことを思い続けてきたが、最近になって忽然と疑問が晴れた。当たり前のことに気付いたのである。「そうか、何のことはない。売れるから陳列されてるんだ。これらの商品は、信じられないことに、売れてるんだ!」

恥ずかしながらずっとビジネス社会に関わってきて、気の利いた小売店は POS レジで売れ筋を綿密に分析し、最も効率的な売り場構成を考えた上で商品を陳列していると、常識として知っているのである。しかし自分がスーパーに買い物に行くと、そうした知識がどこかにすっ飛んで、単なるプリミティブなおっさんに変身していたのだ。ここ何十年も。

よく考えれば、いや別によく考えなんかしなくてもごく常識的に考えれば、スーパーで売られているものは、大抵はちゃんとした「売れ筋」なのである。私と我が家が、たまたまそれらの売れ筋にちっとも興味がないだけだったのだ。

これって何かに似ている。そうだ。ベスト・セラーと雑誌とコミックスしか置いていない街の本屋と同じだ。ヒット・チャートに登場するような CD しか置いていない街の CD 屋と同じだ。どうやら巷では売れているらしいけど、私は買う気がしない商品ばかりである。

こうしてみると消費者は、「フツーの店でフツーの買い物して、フツーのサービスを受けたかったら、ゴチャゴチャ言わずに、みんなと同じものを買いな」と強要されているわけだ。「お前たちの欲しいものなんて、全部 POS レジで把握済みなんだから」という誤解のもとに。

どんなふうに誤解なのかは、そういえば、8年も前にちょっと書いていたのを思い出した。「欲しい商品が買えないパラドックス」という記事だ。

そうか、POS レジって、いずれにしても、あれは私の敵なのだな。小売店があんなものに頼ってマーケティングしているうちに市場はどんどん同質化して、マイナーだけどこだわりがあるというタイプの消費者は、街で買い物できなくなってしまう。

なるほど、ロング・テールのネット販売が成長するわけだ。

 

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2013年3月29日

「1円玉を拾うのは損」という哲学

いつ頃だったか忘れたが、大分前のこと、多分私がまだ中学生ぐらいの頃だと思うが、「落ちている 1円玉を拾うのは損」ということが言われ始めた。1円玉を拾うために前屈みになって手を伸ばすことで消費されるエネルギーは、1円では到底補えないのだそうだ。それで 1円玉を拾うのは、損得勘定でいえば損だというのである。

こんなことが言われたのはインフレで 1円の価値が下がりに下がってしまってからのことだから、日本の高度成長期のことには違いない。何でもかんでもお金に換算して損得の判断をするというのも、いかにも当時のものの考え方である。

私としては、そんなのは単なる「話のネタ」と軽く考えていたのだが、中にはマジで受け取るやつも結構いて、 友人にも「知ってるか? 1円玉は拾う方が損なんだぜ」なんて、得々と語るヤツが何人もいた。

実際には 1円玉を拾うことで使われるエネルギーなんて、他の動作との紛れも考慮すれば無視していいほどのもので、人間が普段、どんなに無駄な動作をしているかを考えれば、そんなことにこだわる方がどうかしている。しかし当時は、「1円玉を拾わない」のが「スマートな考え方」ということになってしまっていたようなのである。

ちょっとだけ見方を変えよう。これが言われ始めた頃はまだ、強制されたわけでもないのに、消費するエネルギーに見合わない見返りのために体を動かすのは損だと、単純に考えられていた。

しかし今、世の中は大きく変わってしまった。周囲を見渡すと、ウェストの周りに高カロリーの脂肪という形で貯えられたエネルギーを持て余してしまっている人だらけである。そしてなお驚くべきことに、月に数万円という会費を払ってまで、まとまったエネルギーを消費するためにジムに通う人がいる。

高度成長時代の単純素朴すぎる「スマートな考え方」に沿って行動した結果、我々は今、進んで損をしまくらなければならない状況に追い込まれてしまった。1円玉とか腹の周りの脂肪とかをメタファーとして考えると、今地球上で起こっている不都合な現象の多くは、人間が底の浅い損得勘定で動いた結果なのだとわかる。

蛇足だが、その昔、教室の隅に 1円玉が落ちていた時、「そんなの拾う方が損」と言って拾わなかった奴が、私が軽い気持ちで拾うのを見て、ほんの一瞬だが、ちょっとうらやましげな視線を送ってきた。私としては、うらやましがられるほどの得をしたわけじゃないのだけどね。

人間心理のアヤというのは、なかなかおもしろい。

 

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2013年3月28日

「新・歌舞伎座」 という言い方について

リニューアルした歌舞伎座の開場式が昨日行われて、歌舞伎役者が賑やかに銀座の街の「お練り」をした。そうか、ようやくやっとまた、歌舞伎座で歌舞伎が見られるようになるのか。嬉しいことである。

歌舞伎座がリニューアルしたのは、単に老朽化したから建て直したのである。ところが近頃、団十郎と勘三郎という大看板が相次いで若死にしてしまって、これは歌舞伎界にとっては大きな災難だったので、なんだか歌舞伎座も災難で崩壊して新築したみたいな錯覚にとらわれていた。今回の開場が、歌舞伎の新たな出発になってくれれば嬉しい。

今回のリニューアルで何がありがたい言って、前の座席に膝をつっかえさせながら窮屈な思いで芝居見物をしなくてもよくなるのが嬉しい。前の歌舞伎座の座席は本当に窮屈で、通路から少し入った席に座る場合なんか、先に座っている人の膝をまたぐようにして移動しなければならなかった。

私は「五尺の体が標準だった頃の基準で建てられてしまったので、こんなに狭いんだろうなあ」と思っていて、古典芸能を見る時は、座席の窮屈なのは仕方のないことと、半分は諦めていた。ところが、その気になればちゃんとゆったりとした席で見られるんじゃないか。早くゆったりとした席で芝居見物したいものである。

とはいえ、こけら落としからしばらくは料金が高い上に、予約も取りにくかろうから、一段落するまで待った方がいいかもしれない。秋の顔見世は是非見たいので、スケジュールをしっかり調整しておこう。

ところで、いろいろなニュースで「新歌舞伎座開場」なんて言ってるのが、私にはちょっと気にかかる。あれはあくまで「歌舞伎座」であって、「新歌舞伎座」なんかじゃない。歌舞伎座がリニューアルしたからといって、ノー天気に「新歌舞伎座」なんて言ってもらっては困る。

「新歌舞伎座」 というのは、大阪にある劇場の固有名詞である(参照)。もっとも、この劇場は歌舞伎公演は年に 2回ぐらいしかやらずに、もっぱら古典じゃない商業演劇や歌謡ショーで稼いでいる。 「北島三郎特別講演」とか「コロッケ特別講演」とか「水戸黄門」といった感じのやつだ。

関西では京都に南座という劇場もあるから、歌舞伎を見たかったらどちらかに足を運べば、年に 5回ぐらいは見られるようで、そんなに不自由しなくてもいいのかもしれない。いずれにしても、東京の歌舞伎座はほとんど歌舞伎オンリーだから、よく頑張っているものである。

というわけで、リニューアルした「歌舞伎座」は、メディアによっては大阪の「新歌舞伎座」と区別するために 「新・歌舞伎座」 なんていう表記になる場合もあるようだ。これならまあ、許せる。いずれにしても、ほどなく「新」の字が取れて、本来の「歌舞伎座」に落ち着くだろう。

そういえばそんなようなことを書いた憶えがあるなあと、検索してみたら、昨年の 10月 3日に "「新幹線」と「新妻」の違い" というのを書いていた。「新幹線」の「新」の字は半世紀以上も付きっぱなしだが、「新妻」の「新」の字は、じきに取れるというような、くだらないことを書いている。

してみると、大阪の「新歌舞伎座」は、「東京の歌舞伎座よりも新しい歌舞伎座」という意味合いなので、「新幹線」や「新宿」と共通している。それに対して、昨今のニュースで言われている「新・歌舞伎座」は、「新婚さん」とか「新妻」と共通した言い方なので「新」の字が取れるのはあっという間だろう。

 

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2013年3月27日

今年の杉花粉は、かなりヘビー

1月末あたりから、「今年は早いな。かなり来てるな」という気がしていた。いくら気象予報士の面々が「杉花粉飛散の本格化は 2月中旬頃から」なんて言っても、来てるものはしょうがない。こればかりは都心の観測で数値化されたデータよりも、体の方が答えを持っている。

このところ、春先の杉花粉アレルギーは案外軽く済んでいた。一時、四十歳をちょっと超えた頃が一番ひどくて、マスクが離せなかったのだが、ここ数年はそんなにひいひい言わなくてもよかったのである。

ところが、今年はひどい。いつもの年は鼻水で苦労する程度だったのに、今年は鼻づまりがひどいのである。鼻が詰まるから、つい口呼吸になる。口呼吸になると喉が乾く。それで鼻炎スプレーというやつを多用するのだが、このスプレーも使いすぎると効果がなくなるので、数時間に一度しかプシュプシュできない。その間は我慢である。

家の中にいる間はいいのだが、外に出ると目が痒い。瞼の裏側がじんましんになったんじゃないかと想うほどゴロゴロする。思いっきり目をこすって刺激し、涙で流してしまうと一瞬はすっきりするが、すぐにまたゴロゴロになる。

それでも、私はまだマシな方かも知れない。車を運転していてちょっと暑くなるとエアコンを点けるより窓を開けて春風を入れる方を選択する。とたんに目が痒くなって鼻づまりがひどくなるが、それでも自然の風を受けるのはいい気持ちだ。多少の不具合は我慢しようという気になる。

知人でもっとひどい花粉症がいて、彼は外出するのにマスクが欠かせない。マスクを外すのは 「決死の覚悟」 だそうだ。

花粉症の季節も、多分あと半月で終わる。いや、この 2~3日は少し軽くなったような気がする。来月になったら、もっと楽になるだろう。しかし完全に終わった頃にはもう、夏の暑さになっているのだろうなあ。やれやれ。

 

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2013年3月26日

季節感の微修正

この春は、桜の開花がめっちゃ早かった。今年の東京の開花宣言は 3月 16日で、2002年と並び、観測史上最も早かったのだそうである。今年はやたらと寒い冬を経過して、3月中旬から突然「もう夏か!」と思わせる陽気になってしまったので、あっという間に「休眠打破」ってやつが促進されてしまったんだろう。

東京の花見は週末の 23、24日が最高潮だったらしいが、北関東の桜はまだこれからである。今週になってから「プチ寒の戻り」になったので、一気に咲くというわけではなく、つくば周辺では今日あたりからようやく満開にさしかかった。週末(月末とも重なる)には盛りを過ぎてしまうだろうから、花見には都合がよろしくない。

桜というのは、ぱっと咲いてぱっと散る。それで「諸行無常」のシンボルみたいになっている。ところがこの春は、東京でぱっと咲いたものの、ちょと北にずれるとあまりぱっとは咲かなかった。桜としては、「あれ? 急に暖かくなったから急いで咲こうと思ったのに、また冷えて来ちゃったぞ」と、二の足を踏んだのだろう。

このせいで、北関東では桜の醍醐味がちょっと損なわれている。東京でぱっと咲いてしばらくしてから、当地ではぐずぐず咲き始め、そして 4月の声を聞く頃まで、ぐずぐず散るということになりそうなのだ。

人間の方の心理としても、「さてこそ、咲きたるぞ!」とばかりに、その場の勢いでどっと花見に繰り出し、そうこうしているうちに、うららかな春の日射しの元で壮絶なまでの桜吹雪となって一斉に散るという幻想的風景を期待しているのに、この春の北関東はどうもそんな感じじゃない。

地球温暖化がいわれ始めてから、季節感というのは微修正に微修正を重ねなければならなくなっているようなのだ。

 

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2013年3月25日

PC とキーボード文化 (その 2)

昨日は、キーボード文化の底が浅い日本では、もしかしたら「ポスト PC 時代」の進展が速いかもしれないという話をした。日本人は QWERTY キーボードに慣れるという訓練を学校で受けていないし、そもそもの話をすれば、ローマ字入力ということだけで大きなハンディキャップを負っている。仮名入力はさらにハンデが大きい。

英語の入力に(極限的にというわけではないが)最適化されているキーボードを使って日本語の文章を打つというだけで、日本人の PC を使った作業効率は、欧米に比べてかなり落ちる。それはキーボード文化に英文タイプから入った私の実感だ。

これについて私は 10年以上前に「和才洋コン キーボードのストレス」というタイトルで書いている。それは次のような書き出しだ。

つくづく思うのだが、コンピュータというのは、基本的にアメリカ人である。アメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のためのツールであって、日本人は、IME のおかげでおこぼれ頂戴しているだけだ。

この記事の中で私は、英文を快速入力する経験なしに、QWERTY キーボードを日本語のローマ字入力をするための道具だと思っている人は、自動車のギアをトップに入れて走ったことがないようなものだと指摘している。

それは上述の記事でも書いているように、英文をいい調子で「タッタカタッタッター」と打っている真っ最中に、テキスト中に "Mr. Yamamoto" という日本人のオッサンが登場するだけでとたんに指がもつれるという経験をすれば、すぐにわかる。

というわけで、英語のために作られたキーボードを使って日本語を書くのはなかなか大変だ。そんなこともあって、中には「PC を使うと文体が変わってしまう」なんてことをいう人が出てくる。もっともらしく聞こえるかもしれないが、それは愚にも付かない虚言だ。

QWERTY キーボードが日本語入力に向いていないというのは確かだが、だからといって人間の文体を変えてしまうほどの暴力的装置というわけでもない。それは、入力に慣れてしまいさえすれば済む問題を、PC 固有の特性に影響されているのだと言い張っているに過ぎない。

PC で文体が変わるというのが正しいなら、PC だけでなく、使う道具によって文体が規定されるということになる。それで、「毛筆とボールペンでは、書く文体も確かに変わる」と主張する人まで出てくる。しかしそれって、どう考えてもおかしいだろう。

私はこのことについて 8年も前に「ワープロと文体」 というタイトルで、次のように書いている。(参照

毛筆で書く時に文体が変わるのは、毛筆という道具によるのではない。改まった文体で書く必要がある時に、毛筆を使う場合が多いというだけのことだ。その下書きをボールペンで書いてみれば、如実にわかることである。改まった文書の下書きが、ボールペンではできないなどとということは、ありえない。

私なんて、手紙を毛筆で書くことが時々あるが、大抵 PC で下書きしている。PC で使えるフォントが多様化した現代では、毛筆フォントを使ってちょっと古風な見た目の文書を作ることだってできる。使う道具によって文体が変わるなんて、思い込みによる幻想だ。

私は日本語入力に ATOK を使っているが、「和歌ログ」というサイトで文語の和歌を毎日更新していることもあり、「文語モード」に設定している。このモードをフルに使うと、PC で古文調の文章を書くのが容易だ。ウソだと思ったら、5年ほど前に書いた「ATOK の文語モード試しみむとて」という記事を読んで頂きたい。

私は文語で和歌を詠む時だけではなく、現代文を書く時も ATOK を文語モードに設定しっ放しにしてある。いちいちモードを変えるのが面倒だからだ。これで現代文を書くのに不便を感じることはほとんどない。

逆に、ATROK に文語モードというものがあると気付く前も、和歌ログでは標準モードのままで文語の歌を詠んでいた。ちょっと面倒だったが、意識して入力すれば簡単にできる。このことをみても、文体が PC に規定されるものではないとわかるはずだ。入力する人間の方が、PC をコントロールすればいいだけのことだ。

私は上述の「ワープロと文体」という記事を次のように締めくくっている。

はっきり言わせてもらえば、ワープロごときで文体が変わってしまうなどというのは、実は、その人は「文体」と称するに足るスタイルを、元々持ち合わせていなかっただけなのである。単にそれだけのことだ。

結論。QWERTY キーボードでローマ字入力をするのが、究極ではないにしろ、現状ではベストなメソッドになってしまっているのだから、我々は甘んじてそれに習熟するしかない。たとえそれがセカンドか、せいぜいサード・ギアでしか走れない車に乗っているようなものだとしてもだ。

 

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2013年3月24日

PC とキーボード文化

昨日の記事で私は、「ポスト PC 時代は既に到来している」と書いたが、一方で米国の PC 普及率が 93%という事実も紹介した。この数字はすごいことである。テレビや冷蔵庫の普及率がほぼ 100%というのには及ばないが、それに近い。フツーの家庭ならば PC があって当たり前ということだ。

翻って日本での普及率をみると、77%ちょっとである(参照)。これにしてもかなりのレベルであることは事実だが、米国との 10数%の差は、タイプライター時代からのキーボード文化が深く浸透しているかどうかの、底力の差だと私は思っている。

私は近頃、PC に習熟できるかどうかは、OS がどうのこうのとかいう知識の差よりも、キーボードを速く打てるかどうかにかかっていると思うようになった。タイピングが速ければ、PC を使うことを厭わない。厭いさえしなければ、習熟は速いのである。

ちょっと考えても、普通は 2秒以下でサクサクっと入力できる単語を、人差し指だけで、とつおいつ、10秒かけて打たなければならないのでは、見ている方もイライラするが、当人にとってもかなりのストレスだろう。

これは例えば、SNS アカウントを新規登録する作業が、私なら面倒くさいものでもせいぜい 5分で終了するするのに、入力の遅い人は 30分近くかかるということだ。下手すると、もたもたしている間に 1時間かかるだろう。

そんなストレスの大きい作業を独力でやれる人は、超人的にねばり強いか、よほど暇を持て余しているかのどちらかだ。フツーはそのどちらでもないから、タイピングの遅い人は、いろいろな設定や手続きの途中で力尽きてしまい、あきらめてしまいがちだ。いや、むしろ初めからチャレンジしないだろう。

つまり、キーボード入力が(人並みに)速いというだけで入っていけるいろいろな世界に、遅い人はなかなか入ることができない。結局、タイピングの速さで、PC を使う能力にどんどん差がつくのである。

これは卵とニワトリみたいな関係かもしれないが、とにかく、タイピングは遅いけど PC を使った作業は得意という人なんて見たことがないから、逆もまた真なりで、PC に習熟するためにはタイピングを速くしなければならないのである。遅いままでは、いつまでもビギナー・レベルにとどまる。

だから PC に習熟したければ、パソコン・スクールなんかに通うより、ただひたすらタイピングし続ければいいのである。それについては、今年初めに「カッコよく快速タイピングできるようになりたいという幻想」という記事で触れた通りで、多くの人が「パソコンなんて、『慣れ』ですよ」というのは、そういうことだろう。

ここで PC の普及率の話に戻るが、日本の単身世帯での普及率が 2006年から 10年までは 80%を越えていたのに、11年以降は急落して、2人以上世帯の数字との差がなくなっていることが注目されるポイントである。これはスマホが登場して普及率が高まった頃と重なる。

新たに親元を離れて一人暮らしを始める若い層は、「PC なんてなくてもスマホがあれば、インターネットするには十分」と気付いているようだ。長文のレポートを書かなければならない学生や、業務を家でもしなければならない人などを除けば、確かに PC なんてなくても済む。

長文を書かなくてもいいならば、キーボード文化の歴史が短い日本では、スマホの方がずっと親しみやすいのである。というわけで日本では、QWERTY キーボードに親しむ歴史が浅い分、「ポスト PC 時代」の進展は速いのではないかという気がする。

 

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2013年3月23日

スマホ+タブレットの数が PC を超える

Wired に「スマホ+タブレットの数が PC を超える: 米国家庭」という記事があった。市場調査会社の NPD Group の報告書 "Connected Intelligence" によると、米国の家庭にはインターネットに接続している端末が 5億台以上あり、スマートフォンとタブレットを会わせた数が、集計史上初めて PC を超えたのだそうだ。

この報告書にによると、家庭には平均 5.7台の端末がある。この 3カ月で、5.3台から 0.4ポイント増加した。この増加はスマホとタブレットの増加に牽引されたものというのは明かである。米国でタブレットを所有している家庭は、3ヶ月間で 35%から 53%に増え、スマホは 900万台増加して、米国内の携帯電話市場の 57%を占めるほどになった。

それでも NPD Group は、「ポスト PC 時代」と呼ぶのは少し早いかもしれないとしている。それは、PC が米国の 93%に普及しているからだ。それに比べれば、タブレットの 53%はまだ見劣りがするし、スマホも、ケータイ市場で過半数を達成したばかりだ。

コンシューマー市場の普及率では PC の方が圧倒的に優位にあるのに、台数ではスマホ + タブレットが上回るというのは、個人ベースで複数のインターネット端末を所有する傾向があるからだろう。PC とスマホ、タブレットをそれぞれ 1台所有すれば、PC のシェアは 3分の 1 になる。

翻って我が家をみれば、PC は 2台(Windows ノートと 次女の MacBook Air)、そして iPad が 2台と iPhone が 3台、それに iPod が 1台だ。合計 8台で、米国の平均 5.7台をあっさり上回る。さらに 1人暮らししている長女の所有する MacBook Pro と iPhone を加えると、PC 3台に対し、スマホ + タブレット (iPod 含む) は 7台。「PC を上回る」 どころか、2倍以上になっている。

私個人としては、数年前まではデスクトップ PC 1台とモバイル用の ノート PC 1台、そしてガラケーという組み合わせでやってきたが、今はノート PC 1台に iPad と iPhone という体制に置き換わった。「デスクトップがノートに」「モバイル・ノートが iPad に」そして「ガラケーがスマホに」という流れである。

「ダウンサイジング」という言葉は近頃あまりにも当たり前になったので聞かれなくなったが、確実に進展していることがわかる。そしてダウンサイズの最前線のケータイ市場ではスマホ化が進展して機能を拡充している。

スマホとタブレットは、これまで PC が担ってきた機能のかなりの部分を代替できるのだから、インターネットを見てメールができればいいという程度のユーザーがスマホとタブレットを入手すれば、PC を起動させる回数は劇的に減少する。

その意味で、「ポスト PC 時代」は既に到来しているのだ。どんどん進展中で、まだ完成の域に至っていないというだけである。

それにしても、我が家のインターネット端末 10台のうち、Windows は 1台だけで、残り 9台は MacOS か iOS である。そして私は近く、Windows から Mac に乗換えようとしている。この流れを Apple が牽引してきたのは確かである。

 

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2013年3月22日

「義経神社」という神社

北海道の平取町に「義経神社」という神社があると、つい最近初めて知った。私はそれまで、菅原道真や平将門や和気清麻呂や上杉謙信や吉田松陰などの実在の人物を祭神とする神社はあるが、源義経を祭神とする神社は存在しないものと思っていた。あんなに人気のあるキャラクターなのに。

どんなに人気者かというのは、私の 8年も前の記事、"「判官贔屓」の正しい読み方" の「付記」 をお読みいただきたい。

本題に戻る。平取町の義経神社について、Wikipedia には次のように記されている。(参照

1798年(寛政11年)に近藤重蔵らが建造。源義経の御神体を奉納した。
アイヌはオキクミという英雄を崇敬していた。北方調査のため蝦夷地に来た近藤重蔵は、これを源義経と同一視し、像を与えた。以後、アイヌは義経を祀るようになった。

へえ、大黒天が大国主命と同一視されて大黒様になったように、義経と重ね合わせられるような英雄伝説が、アイヌ民族にはあったのか。そこで、オキクミというのを調べてみようと思ったのだが、インターネットの世界にはまともな記述が見当たらない。代わりに 「オキクルミ」 というのが散見される。

親父の形見の 『萱野茂のアイヌ語辞典』 (三省堂・刊) を引くと、次のようにあった。

オキクミカムイ 【okikurm kamuy】

オキクミ神: アイヌに生活文化を教えた神の名。
* 沙流川に降臨したということでオキクルミの砦伝説などがある。

インターネットの世界を 「オキクルミ」 でググると次のようになっている。(参照

アイヌラックル

アイヌラックルは、アイヌ民話における神。地上で誕生した初めての神であり、地上と人間の平和を守る神とされる。オイナカムイ、オキクルミなどの別名でも伝えられている。

ここに出てくる 「オキクミ」と「オキクルミ」が同一なのかどうか、結論は「わからない」というしかないが、いずれにしても「オキクミ」は 源義経で例えられるほどの人気者であったらしい。ふぅん。

ただ、内地において義経神社がみられないのは、義経のイメージがあまりにも「少年武将」に傾いているからかもしれない。神として祀るには、年が若すぎるからなのではあるまいか。

それが北海道に渡り、「オキクミ」と結びつくことによって、初めて神社の祭神たり得たというのはおもしろい。

 

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2013年3月21日

迷子になれるのも才能

ウチの娘たちは子供の頃、どこかに連れて行くとあっという間に迷子になっていた。迷子になってもしばらくは当人としては迷子になったとは気付かず、親の方が必至に探して、ようやく何か(ホームセンターのペット売り場の犬とか、ガチャポンとか、何かのイベントとか)に夢中で見とれているのを見つけるのだった。

何かに夢中になってしまっているので、迷子になっているとの自覚がない。自覚が生じる前に、親が見つけて事なきを得るのだが、見つけるのが遅れると、ようよく自分が迷子になっていることに気付き、大声で泣いて保護され、店内アナウンスで呼び出される。しかしそうなったことは、長女がたった一度経験しただけで、大抵はノー天気なものだった。

どうしてこんなことを言いだしたかというと、今日仕事で会った女性が、「私は子供の頃、迷子になることができなかった」と言っていたからだ。「我を忘れて何かに夢中になることができず、いつも周囲から一歩引いたところで、しかも離れすぎるのは不安なので、微妙な距離感を保つのに必死だった」というのである。

彼女は家族に対してさえ本当に心を開いたことがなかった。悪いことに、彼女は家族に「手のかからない子」「放っておいても安心な子」と思われていた。「つかず離れずの距離」を細心の努力で保っている彼女を、親は安心して放っておいた。

親は安心していたのだが、彼女にはそれは通じなかった。幼い彼女の心には、「私は親に愛されていないのではないか」という疑念を生じさせた。彼女は、自分が親の関心の対象たり得ていないと思って育った。

彼女は成人して神経症になった。長い時間かかってようやく親の愛に気付き、30歳を過ぎてやっと心の病から立ち直った。

子供は親に少しは心配をかけて、心配してもらって親の愛を確認する。「いい子すぎる」というのは、かなり問題なのだ。いい子すぎて心の病になった人を、私は数人知っている。彼/彼女らは、本当にいい子たちなのだ。ただちょっと「できすぎ」なだけなのである。そして「できすぎ」ほどやっかいなことはない。

それで私は、簡単にさっさと迷子になれるというのも才能の一つなのだということを、初めて学んだ。親に「適度な心配」をかけるというのは、かなりの才能なのだ。

 

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2013年3月20日

今回の iOS アップデートはためらってはいけない

"アップル、iOS 端末向けに「iOS 6.1.3」 日本のマップが改善" というニュースが流れたので、さっそく iPhone と iPad の両方でアップデートしてみた。

iOS 6 が公開されたのは、昨年の夏の終わり頃だったか秋の初めだったか、まあ、そんなようなタイミングだったと思うが、私はしばらくはアップデートをためらっていた。その間のことは、昨年 9月 23日の「iOS 6 へのアップデートをためらっている」という記事に書いてある。マップ・アプリのできがあまりにもひどいと聞いて、恐れをなしてしまったのだ。

ようやく意を決してアップデートしたのは、それから 1ヶ月以上経った 10月 5日である。その時の記事には、「心配した地図アプリは、確かに見た目の印象が『スカスカ』だ」 と書いてある(参照)。あれから、昨年末に iOS 向けの Google Maps が公開されるまでは、Safari で Google Map を表示させることで我慢していた。

で、今回の iOS 9.1.3 のウリは、パスワード迂回で電話が使えてしまう問題の修正と、日本の「マップ」の修正だというので、期待してアップデートしたのである。パスワード迂回問題は、あまり気にしていなかったが、マップだけはやっぱりなんとかして欲しかったしね。

アップデートしてさっそくマップを表示させてみたのだが、第一印象としては「おぉ、地図らしくなってきたな」と感じた。とりたてて良くなったというわけじゃないが、やっと使える程度にはなったかなという感じである。

これまでのマップは、鉄道と駅がまともに表示されないのが不便でしょうがなかった。どこに行くにも自動車でというアメリカならいざ知らず、日本では鉄道と駅が道案内のベースになる。今回のアップデートで、ようやくあまり拡大表示しなくても鉄道と駅の存在がわかる程度には改良されている。

これだけでも、今回の OS はためらわずにアップデートした方がいいと思う。

 

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2013年3月19日

暑さ寒さは彼岸から

明日は春分の日。今日は久しぶりで仕事で都心に出たが、汗ばむ陽気だった。まるで急に夏が来たような暑さである。「暑さ寒さも彼岸まで」というが、最近はこの常識が通用しない。試しに「暑さ寒さは彼岸から」というフレーズでググってみたら、11,300件がヒットした。

今年も、ついこないだまで寒さが続き、先月 23日に 「今年も「春はまだか」と呟いている」 なんていう記事を書いたばかりなのに、彼岸の入りを過ぎた今日は、「もう夏か」と呟いているのである。本当に天候が極端化している。

近頃では、春と秋の彼岸は、寒さと暑さが一段落する頃ではなく、暑さと寒さがスタートする頃と認識しなければならない。本当に、ダウンパーカが要らなくなったと思ったら、すぐに半袖シャツに衣替えしなければならないというめまぐるしさである。

こうなると、桜ものんびりしてはいられない。冬の間は結構寒いし、春になったと思ったら今度はすぐに初夏に移ってしまうから、急いで咲かなければ花の時期がなくなってしまう。関東ではもう、今週末が花見時だそうだ。

てことは、来月に入ったらもう、半袖のポロシャツの上に薄手のジャケットを羽織ればいい頃になり、中旬を過ぎれば、それでも暑く感じるかもしれない。快適な季節感の時期というのが、どんどん削られていく。

 

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2013年3月18日

「メタボ」 の次は 「ロコモ」

先週の土曜日の TBS ラジオ 「土曜ワイド」で、永六輔さんが「ロコモティブ・シンドローム」を話題にしていた。リハビリでかかっている医師に、「ラジオでロコモティブ・シンドロームを話題にしてください」と言われたのだそうだ。ところが当の永さんが「ロコモティブ・シンドローム」という言葉は初耳で、よくわかっていなかったという。

日本臨床整形外科学会のサイトの 「ロコモティブ症候群」 というページにある説明によると、ロコモティブ・シンドロームというは、"「運動器の障害」 により「要介護になる」リスクの高い状態になること" と定義されている。こちらの「ロコチェック Locomotion Check」というページでは、以下の 7項目の 1つでも当てはまれば、疑わなければならないらしい。

  1. 片脚立ちで靴下がはけない

  2. 家の中でつまずいたり滑ったりする

  3. 階段を上るのに手すりが必要である

  4. 横断歩道を青信号で渡りきれない

  5. 15分くらい続けて歩けない

  6. 2kg 程度の買い物(1リットルの牛乳パック 2個程度)をして持ち帰るのが困難である

  7. 家の中のやや重い仕事 (掃除機の使用、布団の上げ下ろしなど) が困難である

人によっては 40歳を過ぎるとどれか一つぐらい当てはまってくるらしいが、幸いなことに、私は還暦を過ぎてまだ一つも当てはまらない。いや、待てよ、先日デスクワークが続きすぎて腰痛になった時、単に片足立ちするだけでも辛かったことがある。今はもうすっかり治ったが、これも「当てはまる」と言わなければならないのか?

さらにそういえば、昨日知人宅を訪問した時に、やや高い敷居に爪先をぶつけてしまった。つまずいてよろけたというわけではなかったが、爪先が大いに痛かった。そしてまた、とても疲れたりした日の夜なんか、自宅の階段の手すりにつかまって昇ったりすることがある。

これって、「私は初めの 3つが、ほんのたま~にですけど、当てはまります」と申告しなければならないのか? 1つでも当てはまれば、疑わなければならないというのに、3つというのはヤバすぎはしないか?

もっとも 4番目以降は、私は横断歩道の信号が変わりそうだったらダッシュで駆け抜けるし、15分どころか、2時間でも 3時間でも続けて歩けるし、その気になれば 2kg どころか 20kg の買い物でもできるし、冷蔵庫だって抱えて動かせる。まだまだ大丈夫だろう。この状態を維持するために、運動を心がけようと思う。

団塊の世代が既に 65歳を越えてしまった今、「メタボの次はロコモ」と言われるようになった。メタボはまだ冗談の種になるところもあったが、ロコモは深刻である。転んで大腿骨を折って、そのまま寝たきりになり、頭までぼけ始めたなんていう人が、結構いるのだよ。

「僕は 7項目全部当てはまる」 とおっしゃる永さんだって、以前はものすごい早足で街を歩いておられた。ロコモティブ・シンドロームは、個人的に気を付けるというレベルの話では済まず、社会全体としての対策が必要になる時期に、既になっている。

 

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2013年3月17日

「ぶれない人」という褒め言葉

「ぶれない人」というのが褒め言葉として使われる時期が、つい最近まであった。「軸がしっかりしている」とか「ぶれない」とか言うと、なんとなく信念のある人なんじゃないかと思わせられたものだ。しかしこの言葉もだんだん死語になりつつあるようで、私としてはこれはいいことなんじゃないかと思う。

私の知り合いにも、政治家の某氏を「彼はぶれない」というだけで褒めそやす人がいた。「ぶれない」というのは、まあ、「主義主張を変えない」ということなんだろうが、それだけで支持するというのは、私にはちょっと信じられない。主義主張の中身を問題にせず、「変えない」というだけで支持するなんて、ありえないじゃないか。

見方を変えれば、長年にわたってずっと同じ主張を繰り返しているというのは、一つには浮き世のしがらみで妥協しなければならないという必要が生じるような責任ある立場に、その人は立ったことがないということだ。さらにその人がビミョーに時代に付いていけない存在であることをも物語っているだろう。

そしてそうした政治家を支持するのは、支持する側がかなりの度合いで時代に付いていけなくなっているからである。時代の変化に対応できない意固地者同士が、「ぶれないことはいいことだ」とお互いを慰め合ってきたという側面が、確かにある。本当は世の中が変わっているのだから、人間が変わらないでいいわけがないではないか。

一方、「あの人はぶれる」とか「ぶれが大きい」とか言って非難するという論調もあった。これは多くのマスコミに見られたことで、私としてはかなり問題だと思っていた。基本的な信念を曲げるというのではなく、方法論の部分でよりよい選択が見つかったのでそっちに大きく舵を切ったというだけで、「あいつはぶれる」と言われたのではたまらない。

そもそも「ぶれる」という日本語自体が怪しい。元々この言葉は、写真用語でシャッターを切った時の動きで画像が定まらなくなる状態を指していたと思う。ところがちょっと前から多くのデジカメに 「手ぶれ防止機能」 とやらがついて、ぶれた画像を滅多に見ることがなくなったので、目先を変えて人物評に使われるようになった。

ちょっと掘り下げて考えてみると、態度や手法の変化を連続させて、大衆の支持を得られれば「対応力がある」と褒められ、得られなかった場合に、「あの人はぶれる」とこき下ろされる。それだけのことだ。

だったら「ぶれる人」と言われたくなかったら、変わらなければいい。本当は 「意固地」か、逆に「意気地なし」か、あるいは単に「怠惰」なだけなのかも知れないが、周りが「あの人は、ぶれない人」と言えば、いかにも誠実な人のように聞こえる。

逆に、変化への対応が結果的に失敗に終わった場合、その失敗の原因が、周りが付いて行けなかっただけだったというような場合でも、周りで「あの人はぶれる」と言ってしまえば、付いていけなかった者にとっての免罪符になる。都合の良すぎる言葉である。情動的すぎて、まともな掘り下げを拒否する言葉だ。

「君子は豹変す」と言われる。豹変が結果的にうまくいかなかったら、本来なら「対応に失敗した」と言えばいいだけのことなのに、周りから 「ぶれた」 なんて妙な言い方をされるような世の中では、変化への迅速な対応がしにくくなる

 

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2013年3月16日

TPP と、中国を見据えたパワーバランスの問題

政府は 15日の記者会見で、TPP 交渉の席に着くことを正式に表明した。

私としても TPP はかなり微妙な問題と思っているので、あまり正面切って語ろうという気にならず、一昨年 11月の「TPP 交渉のごたごた」という記事以外では、積極的な言及を避けてきた。結構ずるく振舞ってきたのである。

この記事の中で私は、当時の野田首相がホワイトハウスに表明したという条件と、それを受けたホワイトハウス側の解釈が全然違ってしまっていることを切り口として、これまたずるいことに、かなり遠回しなことを言っている。

穏便な調整型の野田さんと、言辞を(あえて恣意的に)ストレートに解釈したホワイトハウス側の「言語感覚」(あるいは「言語戦略」?)の違いを問題にしたのだ。そこへ行くと今回の安倍さんは、もちろん周到な事前ネゴをしたのだろうが、結構ストレートに意志を伝えたようだ。

安倍さんのいう「聖域」がいつまで聖域であり続けるのか、保証の限りではないので、ヤバイ要素はまだまだいくらでもあるが、今回は前の野田さんの時とは違って、少しはまともなコミュニケーションになったようだ。

TPP について原則的なことを言えば、私は参加することには賛成の立場である。一昨年 11月の「ずるい記事」でも、「(交渉のテーブルに着く前の段階で、既にボコボコにパンチを食らい始めているが)だからといって TPP に参加するのが間違いだとは言えない」と、最低限の態度表明はしている。(我ながらずるいレトリックではあるが)

参加することによるデメリットもいろいろと語られていて、それぞれもっともな指摘もあるにはあるのだが、それでも大局的に見ると、TPP という枠組みに参加しておかないと、後々でやっかいなことになるだろうと思うのである。

一番気になるのが、環太平洋地域で TPP による経済的結びつきを強固にしておかないと、中国主導で別の経済圏が東南アジアに出現し、うっとうしいほど強い存在感を発揮してしまう可能性があるということだ。

全然目立たないけれど、TPP と並んで進められようとしているプログラムに RCEP(東アジア地域包括的経済連携)というのがあり、中国はこっちの方で影響力を発揮したい様子なのだ。これは何も中国が言い出しっぺというわけではなく、日本だって関わっているのだが、中国としては行きがかり上、RCEP で主導権を取って TPP に対抗するしかない。

となると、TPP に日本が初期の段階からある程度の影響力をもって参加するというのは、何も日本一国だけの都合で損だとか得だとかいう以上に、東アジア、環太平洋地域のパワー・バランスをも左右する問題になるはずなのだ。

そんなわけで私としては、中国の影響がやたら強い経済圏で暮らすよりも、いろいろと問題はあるだろうが、TPP の中で暮らす方が、少しは気分が良さそうだと思っているのである。

それならば、当初は TPP 不参加の立場を取っていて、後になってから 「中国は嫌だから、やっぱりこっちの方に入れて下さい」 なんて頭を下げるより、始めから日本の主張を盛り込んだ TPP にしていく方が得策である。そのためにも、日本が苦手な外交的ネゴシエーションの訓練にもなるぐらいのつもりで、交渉にも早いうちに参加した方がいい。

 

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2013年3月15日

「フランチェスコ 1世」という名のローマ教皇

新しいローマ教皇が決まった。ちなみに日本のマスコミでは "The Pope" を「ローマ法王」と言い習わしているが、私は カトリック中央協議会の要請 を尊重して、「ローマ教皇」と言うことにしている。これに関しては、約 8年前に書いた ヨハネ・パウロ 2世の死去」という記事もご覧いただきたい。

マスコミ「初の中南米出身」ということを強調して報道しているが、私はそれよりも「フランチェスコ 1世」という名前に注目したい。カソリックで「アッシジのフランチェスコ」といえば、日本では「聖フランシス」という呼び方の方が親しまれていて、「サンフランシスコ」の地名の元になった人でもあるが、なにしろ中世イタリアにおける最も重要な聖人の一人である。

聖フランシス - アッシジのフランチェスコという人はちょっと変わった人であったらしく、「裸のキリストに裸で従う」ことを旨として、裸足で歩き、革のベルトではなく縄を腰に巻いて、托鉢修道僧としての暮らしを貫いた。「心貧しいことこそ神の御心にかなう」として、清貧の中に生きたのである。

この辺り、私が時々引き合いに出す父方の祖父、得明和尚も似たところがあった。「坊主は金持ちになってはいけない」と言って、清貧を尊び、決して金のための活動をしなかった。そして私は金儲けの下手さ加減を、祖父から喜んで受け継いでしまった。

聖フランシスはただひたすら神を讃美し、人間だけでなく神のあらゆる被造物を自分の兄弟姉妹のように愛し、福音を伝えた。ウサギ、セミ、キジ、ハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれるほどである。そのため、先々代の教皇、ヨハネ・パウロ 2世は彼を「エコロジーの聖人」に指定した。

アルゼンチン・ブエノスアイレス大司教のホルヘ・ベルゴリオ枢機卿が、ローマ教皇に就任するにあたり、「フランチェスコ」の名を選んだということは、こうした背景からアプローチすると、なかなか深い意義を感じる。なにしろ、彼の前にこの名を称したローマ教皇は 1人もいなかったのである。だから「フランチェスコ 1世」なのだ。

初めての新大陸出身の教皇であるということも大きなメッセージではあるだろうが、新教皇が化学者でもあり、木製のシンプルな十字架を首に下げ、質素な暮らしを好み、エコロジーの聖人である「フランチェスコ」の名を名乗るという、さらに大きなメッセージに、我々は注目しなければならない。

カソリックの世界にも新しい価値観が導入されるのではないかと、期待されるというものではないか。

 

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2013年3月14日

公開の文章を書く意味

とりあえず、まずは一般論。

文章の中で「あれ」とか「それ」とか「これ」とか、「あること」とか 「あの時のこと」とか、そんなような漠然とした言い回しを明確なつながりなしに使うのは、自分の覚え書きの中でなら当座は OK だろう。しかし時間が経ってしまったら、自分でも何のことだかわからなくなるかもしれない。

時が経ったら自分でもわけがわからなくなるかもしれない言い回しを、個人的覚え書き以外のケース、つまり他人に読ませるためのテキストで安易に使ってしまったら、それは「理解不能な文章」になる。

また、書き手のエキセントリックな思い込みを前提として、初めて辿ることのできる論理展開というのもある。世の中の多くの人が自分と同じ思い込みを抱いているという信念の元に書かれた、妙にアグレッシブな文章、あるいは、自分の思い込みを自分でも客観化できないうちに短兵急に書かれた文章というのも、読んでいてとても疲れる。

そこには、自分の考えを他人にきちんと伝えようという明確な目的意志が感じられない。そうした文章がどうして出現するのかというと、単に自己満足で書いているからである。だったら、人知れず日記にでも書き留めておけばよさそうなものだが、あえて公開のテキストとすることは、どうやら自己満足を完結させるための重要な要素みたいなのだ。

そしてここからは、ちょっとだけ一般論を外れるかもしれない。

私がこうして毎日ブログを書いていることに、「自己満足」の要素が全くないと言ったら大嘘になる。しかし私としては、それ以上に一種の「サービス」だと思っている。このブログを読んでくれた人が何らかの共感を得てくれたら、そしてその人の人生の味わいを深めるために少しでも役立てたなら、それは自己満足以上の喜びだ。

というわけで私は、読み手にわけのわからなさと徒労感しか残らないような文章だけは、書きたくないと思っているのである。読んでいて、頭の中で電球がポッと灯るような、そんな文章が書きたいのだ。実際に書けているかどうかは、読者の判断に委ねるが。

 

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2013年3月13日

原発の健康被害に関する WHO 報告の、当たり前の理解のしかた

アゴラに「放射能被害の発生を声高に訴えてきたオオカミ少年は、悲劇を望むようになる」という記事がある。Twitter では「文書化能力向上コンサルタント」と自己紹介している開米瑞浩氏の文章である。

この文章の中で開米氏は、「福島で健康被害が出る恐れは極めて小さい」という WHO の報告書や、環境省からの「子供の甲状腺調査結果でも福島県で他県と比べて異常な結果は出ていない」という喜ばしいニュースが出たにも関わらず、「不思議なことに『脱原発』に熱心な人々からはあまり『よかった』という声が聞こえてきません」と書かれている。

開米氏によると、原発は危険だ危険だと言い続けてきた人にとって、「今回の原発事故による健康被害のおそれは極小」という情報は「都合の悪いこと」であるため、「どうせ国は真実を隠しているのだろう」といった陰謀論に走る人々も出てくるほどだというのだ。

ふぅん、そういう見方をすれば、確かにそう見えるのだろうね。

私は「脱原発」どころか「反原発」派だが、今回の WHO からの情報を読んで「あぁ、よかった」と思ったし、環境省からの発表を聞いても意外とは思わなかった。子供を連れて沖縄あたりまで逃げた人には甚だ恐縮だが、健康被害については、そんなに極端な影響が出るとは元々思っていなかった。

何しろ日本は、広島と長崎にまともに原爆を落とされても、壊滅はしなかったのだ。あの震災の 2ヶ月半後に、私は「放射線リスクが煙草のリスク並みだというなら」という記事の中で、次のように書いている。

国立がん研究センターによると、放射線による発がんリスクが出始めるとされる年間 100ミリシーベルトを浴びた場合、そのリスクは、受動喫煙や野菜不足とほぼ同程度なのだそうだ (参照)。

これをもって、「放射線なんてむやみに恐れる必要はない」 という主張の根拠としている方が少なからずおられるのである。しかし、それって話が逆なのではあるまいか。このデータを使うなら、煙草の害は放射線並なのだから、一刻も早く公共の場での喫煙を禁止するという話の根拠にすべきだろう。

で、今回の原発事故の場合は、高度の汚染地域からの避難や除染対策、子供をあまり外で遊ばせないなどの対策を、まがりなりにもやったおかげで、目立った健康被害は、これまでのところ出ていない。受動喫煙や野菜不足によるリスク以下で済んでいるのは、不幸中の幸いである。

もっと長期的に見たらどうなるかわからないが、とりあえずは、脱原発とか反原発とか言っている人間でも、普通はこんな風に思うだろう。「やべ、もっと健康被害が出てくれなきゃ、俺の立場がまずくなる」なんて思うやつは、そりゃ、少しはいるかも知れないが、マジョリティじゃない。

ただ私は、「だから、原発事故の健康被害なんて、ちっとも心配する必要はない」なんてことを言いたいわけではない。この程度の数字で済んでいるのは、上述の通り「不幸中の幸い」であり、ある程度の対策を取っているからである。それを無視してはいけない。何の対策も取らずに WHO の発表通りの数値になったわけではないのだ。

原発推進派の中には、「こんな事故が起きても、健康被害なんてなかったんだから、原発はそんなに危険なものじゃない」なんて言いたそうな人もいるように見受けられるが、それは乱暴すぎる。だって、一番危ない地域には、今は人が住んでいないのだから、その地域のデータは存在しないのである。

存在しないデータを元に、「原発事故で健康被害なんて出ない」という結論を出すわけにはいかない。より重要なことは、原発事故によって故郷を追われた人がいて、何年経ったら帰れるのか予測もつかないという、より客観的な事実である。彼らは多分、故郷を捨てなければならないだろう。

私としては、「WHO のデータは、そんなに都合のいい数字じゃないのだよ」という当たり前のことを言っておきたいのである。

 

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2013年3月12日

ソースで天ぷらを食う人たちは、鉄板系コナモンも好き

一昨日の 「ソースで天ぷらを食う文化」の続編である。ソースで天ぷらを食うという文化圏は、フォッサマグナより西にきれいに集中しているが、日経の「食べ物新日本奇行」を見ていて、この傾向は「鉄板系コナモン」(「お好み焼き」とか) を好む地域の傾向と重なることを発見した。

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一昨日の「ソースで天ぷら」の地図とよく似ていることに気付かれるだろう。ソースで天ぷらを食う文化圏というのは、鉄板系コナモン、つまりお好み焼きを好む文化圏とものすごく共通しているのだ。

鉄板系コナモンとソースは、ほぼ不可分の関係である。ということは、ざっくりと言ってしまうと、お好み焼きが好きな人たちが、ソースで天ぷらを食うのである。

ちなみに上記のページで詳細を辿ると、大阪府では「鉄板系コナモンがなかったら生きていけない」という回答が 34%もあった。「大好き」の 46%を加えたら、80%となり、さらに「まあ好き」の 16%を加えれば、96%に達する。圧倒的な人気だ。

昨日の記事で私に「西日本では、天ぷらはソースをかけて食べるんですわ」と教えてくれた大阪在住のカメラマンなどは、昼飯はほとんど毎日うどん、週に 1度以上は家族でお好み焼き屋に出かけ、家庭にあるたこ焼き器で、しょっちゅうたこ焼きを作るという。

「ボクの体の 8割はコナでできてますから」というぐらいのものである。

翻って、私の生まれた山形県を含む東北地方は、お好み焼きに冷淡な文化圏である。青森県で「なくてもいい」と思われている以外は、「どうでもいい」という態度だ。「どうでもいい」というのは「嫌い」というよりずっと冷淡な態度である。つまり、まともに意識すらしていないのだ。

山形県は人口当たりのラーメン消費量は日本一らしいが、同じ小麦粉系でも、鉄板で焼いてソースをジョバジョバかけるものには、ものすごく冷淡なのだ。そんなわけで私は今でも、お好み焼きの作法を知らない。茶道を習ったことのない人が抹茶をいただくのに戸惑う以上に、私はお好み焼きにうろたえる。

というわけで、お好み焼きというものに全然馴染めない私は、ソースで天ぷらを食うという文化にも馴染めない。嫌いとか不味くて食えないとかいうのではなく、「馴染めない」のである。「食」に関する文化の違いは、「うまい/まずい」ではなく、「馴染める/馴染めない」の感覚から生じるのだ。

そして小麦粉とソースの組み合わせに関する文化は、ソースで天ぷらを食うことも含めて、本当に西と東でかなりきれいに分かれるみたいなのである。

 

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2013年3月11日

あれから 2年

昨日は昼頃までやたらと暖かかったのだが、昼を過ぎてからにわかにものすごい風が吹き始め、500メートル先が見えないほどの砂嵐になった。これ、「煙霧」というんだそうだが、昭和 30年代に聞いて以来、忘れていた言葉である。その風が少しは収まったと思ったら、急に気温が下がり始め、今日の夜明けは久しぶりに氷点下になった。

東京では昨日の最高気温が 25度を上回る夏日にまでなったのだから、「もうそろそろ春本番」と思った途端に、この寒の戻り。つくば周辺は辛うじて最高気温が 10度に達するという、冬の寒さである。

そういえば、2年前の 3月も寒かった。あの東日本大震災の年も、彼岸を過ぎてからも冷たい木枯らしが吹き荒れた。

今から思えば、福島の原発の水素爆発で放射性物質が最も大量に飛散したタイミングで、福島では陸から海に向かう北西の季節風が強く吹き続いたおかげで、少しは汚染が軽減されたのだと思うが、当時は避難所で震える人もいるのに、なんと無慈悲な風かと思ったものである。

そして、あれから 2年経った。

あの年、3月下旬までは常磐線が動かず、ガソリンも入手難ということで動きが取れず、近所の家の地震被害の後始末を手伝うだけの毎日だった。仕事がほとんどぶっ飛んでキャンセルになり、私はサラリーマンではないので、翌々月の収入が 1桁万円に落ち込んで、ちょっと青ざめた。

我が家は電気も水道も一度も止まることなく、ただ動きが取れなかっただけで済んだのだが、水戸から先の友人たちは 2週間以上も続いた断水で困り果てていた。海岸は津波被害で滅茶苦茶になったし。さらに北の福島県の原発事故は、その余波がいつまで続くかわからない状態だ。

2年経って、落ち着くところは落ち着いたが、まだ変わっていないファクターも多く残されている。そして最も変わらないのは、失われた命が戻らないということだ。

 

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2013年3月10日

ソースで天ぷらを食う文化

大分前に岡山に出張した際に、仕事先で昼食に仕出し弁当を取ってくれた。かなりゴージャスな弁当で、食いきれないほどのおかずが付いていたのを覚えている。ところがその弁当には天ぷらがついていたのだが、醤油がない。例の小さなビニール袋に入ったソースが付いているだけだ。

思わず「ありゃ、醤油がないな」と呟いたら、その日クルーを組んでいたカメラマン(大阪在住)が、隣でものすごく意表を突いたことを言う。

「tak さん、西日本では、天ぷらはソースをかけて食べるんですわ」

あまりに衝撃的な発言だったため、つい「え? ウソ!」と反応してしまった。一瞬からかわれているんじゃないかと思ったが、周り中「天ぷらにソースで、当たり前じゃん。何がおかしい?」みたいに平然としている。

無茶苦茶な違和感を覚えながらも、郷に入ってしまった限りは郷に従ったつもりで、ソースで天ぷらを食ったのだった。まあ、不味くはなかったけどね。

あれから妙に気になって、西日本出身の人間に会うたびに「天ぷらにソースかける?」 と聞いていた時期があった。すると彼らの多くはごくあっさりと、「かけますよ。変ですか?」と答える。

たまに「個人的には天つゆの方が好きですけど、家庭ではソースですね」と言う人もいるが、本当に西日本では「ソースで天ぷら」がごく一般的らしいのである。

これは東日本出身の人間には、かなり衝撃的なことだ。日経のサイトに「食べ物新日本奇行」というのがあって、その連載の記念すべき第 1回が、まさに「ソースで天ぷら」というのを見ても、その衝撃度がわかろうというものだ。

この記事で明らかにされたところでは、「ソースで天ぷら」を食う文化は、完全にというわけではないが、ほぼフォッサマグナを境界にして西側に存在するようなのである。地図をみるとあまりにきれいに色分けされているので、下にこの連載の「ソースでてんぷら (その3)」 というページから転載しておく。

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東日本で唯一、埼玉県での「ソースで天ぷら」率が高く、「関東の西日本」的様相を示しているのは、「転勤二世」問題によるのではないかと推測されている。関西から関東に転勤すると、その住まいは地価の安い埼玉県に集中しがちというのである。

さらに、西日本でも香川県の「ソースで天ぷら」率が意外に低いのは、香川県民は、天ぷらはうどんと一緒に食うものと思っていて、つまり 「ソースをかけるより美味い食い方を知っている」と自負しているかららしい。

ちなみに、私の生まれた山形県の 「ソースで天ぷら」 率は、潔くも 0%。さらに学生時代から 30代まで暮らした東京都と、現在居住している茨城県では、10%だった。0%というのが、山形県の他に福島、岩手、山梨の 3県しかないということさえ、私にとっては驚きである。

つまり、「ソースで天ぷらなんてあり得ない」という文化圏で生まれて育ち、高校を卒業してからは 10人に 1人しか天ぷらにソースをかけない東京と茨城でしか暮らしたことのない私が、岡山で衝撃を覚えたのは、あまりにも当然なのだ。

【2022年 1月 25日 追記】

その後のケアをすっかり忘れていたのだが、2件の興味深い関連記事を書いていることを報告させていただく。(今頃になって何なんだと言われそうだが)

ソースで天ぷらを食う人たちは、鉄板系コナモンも好き(2013年 3月 12日付)

「天ぷらにソース」の謎が、また少しほどけた(2021年 5月 6日)

 

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2013年3月 9日

いくら何でも暖かすぎる!

体の慣れというのはちょっとしたもので、夏から秋になった頃の摂氏 20度というのは肌寒いぐらいに感じるが、冬から春になっての 20度というのは、かなり暖かい。20度でさえ暖かいのに、昨日は東京都心で 23度を超え、3月上旬としては、過去 50年で一番高い気温だったと伝えられた。さらに今日はもっと暖かかったんじゃあるまいか。

これはちょっと極端ではないか。日本人の常識では、3月は「日向に出ると暖かい」ぐらいの感覚だと思うのだが、最近は、「日向に出ると汗ばむ」 ほどで、いくら何でも暖かすぎる。いや、これは「暑い」と言っていいレベルだ。

こんなに急に暖かすぎる陽気になってしまうと、杉花粉の飛散がすごいことになっている。私は 1月下旬頃から花粉が飛んでるという気がしていたが、最近はもう、ティッシュペーパーが離せないほどになっている。

ちょっと前までは、2月下旬から 4月下旬まで花粉症に悩まされていたが、最近は 1ヶ月早まっている気がする。おかげで、4月に入ると急に症状が和らぐ。これも温暖化の影響なんだろうか。

4月といえば、最近では最も季節感が極端な月になってしまった気がしていた。3月の終わり頃から桜が咲いてお花見気分が抜けないうちに、しょっちゅう最高気温が 25度以上の夏日になるかと思えば、関東でも急に雪が降ったりする。

「4月に関東で雪が降るなんて、いくらなんでもないだろう」なんていう人は、記憶力が弱い人で、つい 3年前の 4月17日に関東で雪が降ったことを忘れている。その前日から、私は出張で関西にいて、雪にはならなかったが、ガタガタ震えるほどの冷たい雨が降ったのを覚えている。

その天気の悪条件のおかげで、京都の国立博物館で、当初は大混雑の予想されていた長谷川等伯展を、ゆったりと見ることができたのだった。さらにその日は金曜日で、いつもは夕方 6時で閉館となるところを、8時までたっぷり楽しめたのである。その間のことは、当日の Today's Crack に書いてある。

晴れ男の私が珍しくも出張先で雨に降られたのは、長谷川等伯展をゆっくり見るための、天の計らいだったようなのだ。そしてその冷たい雨が、関東に行ったら雪 (東京都心はみぞれ) に変わっていたらしい。そんなわけで、私にとっての天の計らいが、関東での最も遅い雪の記録という結果を生んだと、個人的には思っているのである。

話は横道にそれかかったが、その「天気の極端な 4月」が、直近では 3月まで繰り上がってきているんじゃなかろうかと、ちょっと心配になっている。これから先、23度どころじゃなく本当に夏日になったり、そうかと思うとまた雪が降ったりなんていうことになったら、天気の極端化もいよいよ本物だ。

 

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2013年3月 8日

JR 東日本のロゴ表示

へえ、ちっとも知らんかった!

JR 東日本の正式名称の標記が、最近にわかに話題になっている。登記上の正式名称は「東日本旅客鉄道株式会社」なのだが、ロゴの字体は「鉄道」の「鉄」の字が、「金失」(かねへんに「失う」)ではなく、「金矢」(かねへんに、弓矢の「矢」)になっているというのである。

JR 東日本のサイトで確かめてみたら、確かにその通りだった。こんなのである。(画像は同社トップページより。わかりやすいように、150%に拡大表示してある)

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確かに、「金矢」なのである。国鉄が分割民営化される際に、「金 + 失う」では縁起が悪いからと、こんな字にしたらしいが、「鐵」の字は異体字として認められていても、「金矢」は誤字扱いなので(参照)、それもあってか登記上は通常の「鉄」の字にしたらしい。JR グループでは、JR 四国以外はすべてこの方式にしているというのだから、ちょっと笑える。

なんでこんなことに気付いたのかというと、例の秋田放送の記者が撮影中に秋田新幹線を緊急停止させてしまった件についての、インターネットでのお詫び告知が、一部でずいぶん話題になったと聞いたからだ。このお詫び告知が、当初はテキストではなく、画像だったというのである。

その画像は今でも残っていて (いつ取り下げられるかわからないけど)、こんなのである。確かに、文字を画像にして (つまり、紙に印刷した状態を画像化したような状態で)、表示されている。

で、画像でお詫びするなんていうのは、Google 検索でヒットさせないためのあざといやり口ではないかなどと言われたためだかどうだか知らないが、現在はこのように、通常のテキスト・ベースになっている。

ところが、テキスト中の 「東日本旅客鉃道株式会社」 の 「鉃」 の一文字だけが、今でも画像なのだね。秋田放送はどうも、この文字の表記にだけ妙に律儀にこだわって、当初は全部画像にし、テキスト化してからさえも、この一文字だけは画像のままにしているようなのである。

それで、この件に触れた Slashdot の記事でも、「当初、画像化していたのは、これが理由だということなのだろうか?」 と、やや皮肉混じりに書かれている。

ちなみに、「鉃」 の字はわざわざ画像にしなくても、私の PC 上ではテキスト・ベースできちんと表示されている。ただ、どうやら機種依存文字であるようで、これを Cocolog 上にアップしてから、閲覧する際にどうなってしまうかは、この原稿を書いている時点では知るよしもないが。

とても好意的に取ると、秋田放送は Google 検索を避けたというよりも、JR 東日本のロゴにおける表示に、ナンセンスなほど必要以上に気を使ったようなのである。

「ナンセンスなほど必要以上に」というのは、冒頭にも書いたように、同社の登記上の正式名称は「東日本旅客鉄道株式会社」でいいらしい(参照)し、JR 東日本自身の ウェブサイトでも、トップページのタイトルは 「JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社」 となっているからだ。

秋田放送としては、ロゴ通りの表記でお詫び告知しないと、JR 東日本の心証を害して、とてつもない賠償金請求をされてしまうとでも思ったのかなあ。

 

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2013年3月 7日

すっかり 「過去の人」 になってしまった小沢さん

小沢一郎さんもすっかり過去の人になってしまったものである。

フジテレビ系「新報道 2001」の最新世論調査で、「生活の党」の支持率が、国民新党、新党改革と同じく 0%だったんだそうだ(参照)。社民党(0.4%)をも下回ったんだから、ひどいものである。

「フジテレビ系の世論調査なんて、信用できない」という向きもあるだろうことを、彼らもしっかりわかっているのか、この記事には共同通信が先月 23、24日に実施した世論調査の結果も紹介されていて、この時も生活の党は、社民党の 1%を下回る 0.8%だったんだそうだ。

で、生活の党の落選議員からは、「小沢氏をマスコミに露出してアピールすべきだ」という意見が多く出ているというのである。この人たち、わかってないなあと思う。小沢さんはマスコミ受けする人じゃないのだよ。露出すればするほど逆効果である。

この人、これまではあまりマスコミに出ないで(どっちかというと、隠れてばかりいて)、周りが勝手に大物扱いしてくれることによって、世間には大物だと思わせていたのである。自分からしゃしゃり出てしまっては、これまでの虚像が崩壊するばかりだ。

私は 7年近くも前に「小沢一郎って、本当に大物?」という記事の中で、彼の「大物性」に根本的な疑問を投げかけている。今でも基本的な考えは変わっていないから、核心部分を引用する。

(前略)実は「大物」なんかじゃなく、(自民党の)田中派から竹下派に続く歴史の中で、じいさんたちに可愛がられて、楽屋裏の重要ポストをあてがわれ、背後のじいさんたち(とくに金丸さん)の威光で、強引に物事を進めた経験があるというだけのことなんじゃあるまいか。

あの頃の世の中は、政治の世界に限らず、実力者といわれるじいさんのお気に入りになれば、大抵のことはできたのである。「お前の好きなようにやってみな。何かあったら、わしが出てって口きいてやるから」ってなもんだ。

こうした構造があって、周囲としても、下手に逆らうとややこしいじいさんが出てきてやっかいなことになるとわかっているから、逆らわなかったのである。

だから、後ろ盾の効かない表舞台に立ってしまうと、物事をスムーズに進めるための方法論というのを持ち合わせていないのではないかと思うのだ。この人、じいさんを相手にするのは得意でも、年下を相手にするのは、基本的に下手なんだろう。

しかし、今や、じいさんのほとんどはあの世に行ってしまって、苦手な年下ばかりの世の中になったのだ。以心伝心で通じる相手を引き寄せて、手下にしてしまうという手法は、もはや通用しない。

というわけで、小沢さん、ようやく等身大の存在になったということだと思うのである。何しろ、いくら周囲が大物扱いしても、自民党を飛び出してからというもの、この人のやることなすこと、全部裏目に出てしまっているのだから、政治家としての将来を見通す目のなさというのも、既に明らかになってしまった。

一部では「理念型の政治家」なんて言われることもあったが、それがとんだ見当違いで、「票のためなら節操なく心変わりする人」というのもバレバレになってしまったので、今となってはもう、アピールポイントが何もなくなってしまった。

それにしても、「支持率 0%」というのもひどいなあ。本当に「生活の党」という回答がゼロだったんだろうか。それとも、0.03%ぐらいだったのを切り捨てたんだろうか。いずれにしても、「あ、そういえば、そんな党もあったんだっけかね」程度の存在になってしまったのは確かである。

 

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2013年3月 6日

iBooks 日本版スタートと、Kindle との違い

Apple が日本版 iBookstore の開設を正式に発表した。(参照

2~3日前から「ひっそりとオープン」というニュースが、これまたひっそりと伝えられていて、iBook アプリの "store" ボタンをクリックしてもいつもと変わらないが、次に「ランキング」をクリックすると、日本版電子書籍がずらりと出てきていた。それで「ああ、始まりつつあるんだな」と思ってはいたのである。

そして今日の正式発表以後は、"store" ボタンをクリックしただけで、日本版のストアが表示される。さらに「カテゴリ」ボタンをクリックすると、「ビジネス/マナー」「フィクション/文学」「マンガ」「ミステリー/スリラー」「ライトノベル」の 5カテゴリーが表示される。

ちなみに「ミステリー/スリラー」と「ライトノベル」は文学扱いされていないのが興味深い。確かにこの 2つを「フィクション/文学」の中に入れてしまうと、オーソドックスな文学ファンにとっては探しにくくてうっとうしいだろうから、しかるべしである。ただ Kindle の充実したカテゴリーに比べると、これっぽっちではまだまだ見劣りがする。

とはいえ Kindle の場合は、あくまでも Amazon のサイトの中の「Kindle 本」に行って選んだり購入したりするというシステムで、Kindle アプリは「閲覧」のためと、はっきり切り分けられている。一方 Apple の場合は、PC 版 iTunes からは iBooks に入れるが、iPhone アプリの iTunes からは、今のところ入れない。

この辺りが、Amazon と Apple のコンセプトの基本的な違いのようだ。Amazon の場合は、とにかく Amazon のサイトで買ったものを、Kindle アプリで読む。Apple の場合は、電子ブックを買って読むなら、わざわざ iTunes まで行かなくても iBooks だけでこと足りる。

元々書籍からスタートした Amazon と、音楽からスタートした iTunes の違いなのかもしれない。いずれにしても、Windows 版の iTunes は重いので、iBooks だけで済むのはありがたい。

 

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2013年3月 5日

「ファブレット」 という怪しい新語

動きの盛んなマーケットほどいろいろな新語が飛び交う印象があるが、IT の世界では 「ファブレット」 なる言葉ができてしまっているようだ (参照)。スマートフォンとタブレットの境界線上にあるデバイスで、多分 "phablet" と綴るんだろうと思う。こんなのは言葉として定着して欲しくない気がするのだが、傾向としては一応注目しておこう。

先月末にスペイン・バルセロナで開催された「モバイル・ワールド・コングレス 2013 (Mobile World Congress)」(世界最大規模の携帯電話見本市)で最も注目されたのが、この「ファブレット」なんだそうだ。

アプローチはスマホとタブレット端末の両方からなされているようで、「ぎりぎり片手で持てるほど大型のスマートフォン(多機能携帯電話)や、劇的に小型化されたタブレット型端末」 が、多数出品されたのだそうだ。大きなスマホなのか、小さなタブレットなのか、そのあたりはかなり微妙なところである。

そういえば、Slashdot にも 「Steve Jobsの最大の過ちはタブレットサイズの選択?」 という記事があって、タブレットの画面サイズの中心は、9インチから 7インチに移りつつあると報じられている。

iPhone と iPad の両方を使っている私としては、どちらもベストサイズと思っているのだが、中間サイズの 1台で済ませようという発想だと、7インチのタイプが欲しくなるのかもしれない。

 

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2013年3月 4日

「ポアンカレ予想」を出発点とし、横道にそれてまで考えたこと

NHK の BS プレミアムで、プレミアムアーカイブス HV 特集 「数学者はキノコ狩りの夢を見る ~ ポアンカレ予想」 という番組を見た。「人類が長年問い続けてきた謎に迫る数学上の難問が、2006年に証明された。その難問は 『ポアンカレ予想』。解けるまでの 100年にわたる天才たちの格闘のドラマに迫る」と紹介されている。

ポアンカレ予想というのは、数学(位相幾何学)における予想の一つで、フランスの数学者アンリ・ポアンカレによって 1904年に提出された。その内容は「単連結な 3次元閉多様体は 3次元球面 S3に同相である」というもの(参照) だが、大方の人はリンク先の Wikipedia を読んでも私同様、チンプンカンプンだろう。

表面的に一言でいえば、それは宇宙の形の解明に関わるほど重要な幾何学問題である。提出の約 100年後、遂に証明に成功したロシアの数学者グリゴリー・ペレルマンは、2006年に数学界のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞受賞者に選出されたが、本人は受賞を辞退した上、それ以後はたまに森にキノコ狩りに出かけるのみの、隠遁者のような生活をしている。

ペレルマンによる証明は、アメリカの数学者ウィリアム・サーストンがポアンカレ予想の証明に取り組む過程で 1982年に提出した「幾何化予想」をも、同時に証明した。

この幾何化予想というのは、「コンパクト 3次元多様体は、幾何構造を持つ 8つの部分多様体に分解される」という命題である。これまたチンプンカンプンだろうから、素人の分際で乱暴に言い換えると、「トポロジー視点からすると、宇宙には最大でも 8種類の幾何学的構造しかない」 ということらしい(微妙に正しくなかったらゴメン)。

数学者の感覚では、このような数学理論というのはとても美しいものであるらしい。それは私のようなものにでもわからないではない。一見するとバラバラでとりとめのない現象の中に普遍的法則を見いだし、単純な数式や幾何構造で一般化する。それは胸のすくほど爽快なことに違いない。

「とりとめのないことの中に法則を見いだして一般化する」というのは、知的快感の中でもかなり大きなものだ。「一を聞いて十を知る」ことが可能なのは、「一般化」という作業を通じるからこそである。

「一般化」というのは、複雑なことを単純な共通項に還元することである。「頭のいい奴は複雑なことを単純に考える」というが、それができるのも「一般化」(あるいは「抽象化」)という作業をサクサクっと行えるからだ。

これができないと、「話のわからない人」 になる。「A=B」と「B=C」は理解できても、「よって A=C」を理解できない人が、世の中には結構いる。彼らは決まって 「それとこれとは違うだろう」と言い出すのだ。それで、過去に学ぶこともできないし、ケーススタディも成立しない。

一般化、あるいは抽象化というのは、枝葉の相違を切り捨てて根本的な共通点に注目することが必要になるが、どうでもいい相違に目を奪われてこだわる人が混じると、この基本的プロセスで作業が頓挫する。だから要領のいい「単純化」というのは知的思考における必須事項なのだ。

ところが、ここに落とし穴もある。隠された共通項を拾いだすことによる単純化の知的快感に酔いすぎると、こんどは過度に単純化してしまい、「すべてのトランザクションは個別である」(経済人類学者 カール・ポランニーの言葉)という基本事項を忘れてしまうことがある。

経済学者の景気予測の多くが外れてしまうのは、実経済における「ノイズ」の部分を切り捨てて、安易にアカデミックな「経済モデル」に当てはめて考えるからでもある。ノイズと思われたことが、実際にはかなりの影響力をもつことだってある。同じ雑音でも大きな雑音は無視できない。

頭のいい奴は複雑なことを単純に考えるが、もっと頭のいい奴は、単純化した時点で切り捨ててしまったことが多くあるかもしれないことに自覚的だ。今や「複雑系」の世の中なのである。私はこのことについては結構何度も書いていて、最近では去年の秋の「複雑なことを単純に考えて満足するのは、中途半端に賢い奴」という記事がある。

ただ数学というのは、かなりの部分が人間の頭の中の概念で処理されるので、とてもピュアな世界である。ノイズが極小だ。それでこの一般化がものすごく美しく機能する。かなり魅力的な学問ではある。社会問題においてまでこのメソッドを信じすぎると、オタッキーになってしまうが。

 

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2013年3月 3日

気候の極端化

昨日は 「春一番の翌日がいつも寒くなるのは」 なんていう呑気な記事を書いたが、今回の場合は呑気では済まないほど深刻で、北海道では吹雪による死者が 8人にのぼっていると知って驚いた。登山での遭難などとはわけが違い、車に乗ったまま雪に埋もれたり、家の近くで行き倒れになったりして、いたましくも命を奪われている。

子供の頃は人里離れた山の中で行き倒れになるなんていうのを聞いたことがあるが、21世紀の世の中で、しかも自宅からそれほど離れていないところで、吹雪で死ぬなんていうのは、ここしばらく聞いたことがなかった。「近頃、天気が極端」というのは多くの人が感じていることだと思うが、極端にもほどがある。

山形県庄内で暮らしていた子供の頃、「外に出たら行き倒れになるかも」と思うような猛烈な地吹雪の吹き荒れることがあった。とくに夜などは、かなり本気で恐ろしくて、よほどの用事でもなければ誰も外には出たがらなかった。最近は車が普及したのでなんとかなるが、今回はその車さえ雪に埋もれてしまって、悲劇につながっている。

雪国の車はほぼ 100%がスタッドレス・タイヤを装着しているが、それでも立ち往生してしまうのだから、大変な雪なのだろう。そんな中を運転しようという気には、とてもなれない。幹線道路だと数珠繋ぎで立ち往生してしまうから、近所の人が焚きだしをしてくれたりするが、裏道で一台のみの立ち往生となると、本当に命が危ない。

気候の極端化は今後も進むとみられるので、吹雪だけでなく、台風、爆弾低気圧、竜巻、ゲリラ豪雨、高潮などで、これまでの常識にはかからないような被害の発生が増えるだろう。

地震だけでなく、いろいろな災害が増える。用心しなければならない。

 

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2013年3月 2日

春一番の翌日がいつも寒くなるのは

昨日関東に春一番が吹いたと思ったばかりなのに、今日はまた冷たい北風が吹き渡った。どうしていつもいつも、春一番が吹いた途端にすぐに冬の寒さに戻るのだろうと思っていたら、春先の天気のメカニズムというのはそういうものなのだそうだ。

春一番が吹く時の天気図というのは、日本海に強い低気圧がある場合が多い。この低気圧が関東に強い南風を呼び込み、それが「春一番」となる。

ところがこの低気圧はあっという間に東に移動して、太平洋側に抜ける。元々が強い低気圧だから、太平洋側に抜けた途端に、天気図は縦縞ばかりになり、西高東低のいわゆる冬型の気圧配置になってしまう。

そのため春一番が吹くと、翌日からはまた冷たい木枯らしになりやすいのだそうだ。なるほどね。要するに春先というのは、かくも猫の目のように天気が変わりやすいということだ。天気が安定するのは、桜の咲く頃まで待たなければならないのかしらん。

 

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2013年3月 1日

理系/文系 (蛇足)

emi さんが、「理系・文系 (完)」というとても衝撃的なタイトルの記事を書いておられる。

もやもや考え、ごちゃごちゃ書いてきたことが恥ずかしい。
とっくの昔に、こんなにちゃんとした答えが出ていた。

「理系・文系」のこと。
この2つの記事を読めばよかったんだよ。

として紹介しておられるのは、"サルでも分かる人文科学/社会科学/自然科学の見分け方" と、そのレビューである "「理系」「文系」の区分は日本だけ 「人文科学」「社会科学」「自然科学」の違い" という 2本のブログ記事である。これらはなんと、3年以上も前に書かれている。

どちらも「人文科学」「社会科学」「自然科学」という学問の 3カテゴリーを、「理系/文系」「humanities/the science(あるいは arts/sciences)」「本質主義(essentialism) /構成主義 (constructivism)」という 3つの軸で、わかりやすく分類している。

確かにこの分類はとても納得もので、これまでのモヤモヤがきちんと解決されている。それで emi さんは、「そう。そういうことが言いたかったの」「『理系・文系』の話はこれにて完結。めでたし、めでたし」として、すっかりおしまいということにしておられる。

私としてもかなり納得して、「めでたし、めでたし」ということにしたいところだが、これまでの行きがかり上、ちょっとだけ蛇足をくっつけておきたい。

それは、2年半ほど前に "Word 使いと Excel 使い" "「文系/理系 と「論理的/感覚的」" という 2日間に渡る記事で論じたことだ。私はこの 2本の記事の中で、学問のカテゴリーについてではなく、人間の傾向について論じている。いわゆる「文系人間/理系人間」というキャラ付けだ。

そしてこのいわゆる「文系/理系」という二元論キャラは、単に便宜的なもので、あまり本質的な意味はないと断じていて、それよりも、「論理的/感覚的」という視点で見ると、人間のキャラがよく見えたりすると主張した。

これらの記事の中で私は、「一見理系に見える人」の中にも、全然論理的じゃない人というのがかなりいて、彼らは自分の「理系」的仕事を、ごく感覚的、言い方を変えれば「職人的」にこなしていると言っている。

彼らの特徴は、自分が理解している「科学的な知見」を、自分の言葉で論理的に説明するのがものすごくお下手ということだ。どうやら「そんなの、当たり前じゃん、説明なんていらないじゃん」とでも思っているようなのである。

つまり、彼らはとても感覚的に、1枚の設計図を見て構造がぱっとわかっちゃうような、あるいは写真に撮って一瞬のうちに頭の中に画像として焼き付けるようなやり方で、数式や構造式を理解しているとしか思われない。

彼らは瞬間的に「当たり前じゃん」と理解しちゃうので、職人的仕事をさせるととても速い。だから有能な研究員だったりする。しかし自分の研究成果を人に説明するのが下手なので、管理職になってしまうと、はっきり言って無能だ。

一見「理系」と見なされている彼らがあまりにも口べただから、対照的に「チョー文系」と目される私が、彼らの「理系そのもの」のプレゼンの手助けをしてあげたことが何度もある。

私は自分の感じた疑問を、彼らが「イエスか、ノーか」で単純に答えられる簡単な質問にしてたたみかけていく。そのプロセスで、ようやく素人にも理解されるような論理展開が構築できる。彼らは自力ではこのプロセスは辿れない。「当たり前じゃん」と思っているから、疑問が生じないのだ。

別の言い方をすると、私は彼らの頭の中にある画像を、言葉を使ったストーリーに翻訳してあげる。こうして私が筋道を付けてあげないと、感覚的職人派の研究員は、自分の仕事の成果をきちんとした言葉で説明できないのである。つまり、感覚的職人派の科学研究員より、「チョー文系」と思われている私の方が、実はずっと論理的だったりする。

言葉で説明するのが苦手な感覚派は、「いわゆる文系」の中にもいる。感覚的なことしか言えず、人を納得させるような論理展開ができない。工芸的、あるいはファッション的な仕事をしているデザイナーに、この手のキャラが多い。

つまり論理的かどうかということには、文系も理系もない。非論理的な科学研究員というのが確かに存在して、それは元々感覚的職人肌の人間が、たまたま工芸的な方向ではなく、科学の方向に向かっただけという気がする。だから、一見「科学」と思われている世界にも、ちょっとアブナい要素はある。確実にある。

それは案外、人文科学や社会科学の分野より、自然科学の分野の方に多い気がする。人文科学と社会科学は、言葉で人に説明するのが仕事みたいなところがあるから、単なる感覚的職人派では勤まらない。

とまあ、そんなようなことを言いたかったのである。

 

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