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2013年4月に作成された投稿

2013年4月30日

鯉のぼりの老人ホーム

最近地方で、川越しとか谷越しとかに鯉のぼりをずらりとさしかけて、それがらみのイベントをするのがはやっているようだ。「鯉のぼり」 をキーワードに画像検索すると、そんなのがわんさとヒットする(参照)。我が居住するつくば周辺でも、川の両岸に満艦飾の鯉のぼりを立てて、屋台の店なんかが出ている。

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それでなくても、ここ茨城県南部は鯉のぼりの盛んな地方のようで、30年前に引っ越してきた時は、一軒の家の庭に、20匹ぐらいの鯉のぼりが圧倒的に泳いでいるのを見てたまげた。1本の柱に沿って上げるのでは足りないので、柱のてっぺんから逆V字型に 2本のロープを張り、そこにびっしりと鯉が結ばれるのである。

聞けば、この地域では男の子が生まれると初節句前に、親類縁者から次々と鯉のぼりが贈られるのだそうである。本家だの分家だのいう「格」によって、贈る鯉の大きさまで決まっているという話さえ聞く。それで 1本のロープでは足りなくなるほどの「大家族の鯉のぼり」になってしまうのだ。

初節句ばかりでなく、七五三なんかもかなり派手にやるようで、親類縁者一同が料亭に集まり、主役の子供が「お色直し」をするほど金をかけた宴会をするのだそうだ。私は地元出身ではなく、いわゆる「新住民」なので、そうした宴会は話に聞くばかりだが、とにかくそういうことには金をかけるらしい。

しかし近頃、その「大家族の鯉のぼり」を見ることが、めっきり少なくなったのである。

私がここに引っ越して来た頃に初節句を迎えた男の子たちは、もう 30歳を過ぎた。ちょっと前の感覚だと、とっくに結婚して子供がいてもいい年頃だが、最近はそうはいかない。30歳を過ぎて独身というのが少しも珍しくないどころか、どちらかと言えば多数派と思えるぐらいだ。農家では 40歳を過ぎた独り者ばっかりである。

そんなわけで、お定まりの少子化なのである。夫婦がバース・コントロールをして産む子供の数を減らしているというよりも、なにしろ結婚しないのだ。子供は結婚しなくてもできないわけじゃないが、この辺りの状況では、未婚の母みたいな存在も少ない。子供が減って、年寄りばかりが増えるのである。

そうなると、親類同士であれだけどっさりあげたりもらったりした鯉のぼりが、今は押入の奥で山のように死蔵されることになる。子供は育っておっさんになるが、高度成長期以後の鯉のぼりは合繊なので、いつまでも長持ちするのだ。

それで、せっかくの鯉のぼりを押入の奥で日の目を見ることもなく死蔵するのはあまりにも不憫だというので、年に一度の虫干しというわけでもないだろうが、川越しや谷越しにずらりと並べて満艦飾にするイベントが、田舎に行くほど盛んになっている。何しろ鯉のぼりはどこにでも売るほどあるので、飾るのに事欠かない。

あれは見た目はなかなか派手だが、実は鯉のぼりの老人ホームみたいなもののようなのである。

 

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2013年4月29日

"SMARTPHONE IS MEDIAS" って、一体何なんだ?

"MEDIAS" という名前のスマホがあるということは、前からちらっと見て知ってはいた。

"Media" という言葉は "Medium" という単語の複数形で、"data" が "datum" の複数形であるのと似ている。だから複数形にさらに "s" を付けて "MEDIAS" というのはおかしい。"Datas" と言ってしまうぐらいおかしい。しかし、そこはそれ、商品名でもあるし、「おかしいんだけど、まあ、お好きにどうぞ (決して買わないけど)」 と思っていた。

ところが今日、電車の吊り広告で見かけた "SMARTPHONE IS MEDIAS" というキャッチ・コピーには、正直たまげた。こうまで無茶苦茶だと、いくら何でも「お好きにどうぞ」とは言いにくいのである。

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作る方は、単に雰囲気のモノで、アルファベットがそれらしく並んでさえいればいいと思っているのだろうが、それを受け取る方には、「意味のある文字列」として、「つい読んじゃう」者が少なくないんだということを、ちゃんとわきまえてもらいたいと思うのだ。

こういうヘンテコな文字列が堂々と吊り広告でぶら下げられてしまうと、「迷惑」というわけでは決してないが、「つい読んじゃった」者は「気持ち悪くなってしまう」のである。この商品、元々「決して買うまい」と心密かに思っていたけど、ここまできたら、「心密かに」では済まなくなって、こうしてブログに書いちゃったわけなのである。

スマートフォンをここまで 「スマートさのかけらも感じないキャッチ・コピー」で売ろうする会社って、一体どうなってるんだろう。仮に「製品はいいかも」と思っても、ネーミングとキャッチ・コピーが気恥ずかしすぎて、どうしても買えなくなっちゃう。

【同日追記】

試しに "SMARTPHONE IS MEDIAS" でググったら、いろいろなページがヒットした。Ascii.jp のページによると、このキャッチコピーの意味はこんなことなんだそうだ。(参照

このキャッチコピーの意味するところは、「スマホと言ったらほとんどの人が iPhone、GALAXY、Xperia を思い浮かべるだろうが、 (中略)今後は、これぞスマートフォンと呼ばれるようなものを作るという意味が込められている」と解説した。

つまりこの記事の見出しにあるように、「スマホ=MEDIAS を目指す!」ってことを言いたいらしいんだけど、その願いが実現しないことの裏には、ネーミングからキャッチ・コピーまで、アルファベットを使ってはいるものの、思いっきりドメスティックな姿勢だからということもありそうな気がする。

 

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2013年4月28日

「世界」 と 「社会」

かなり前から、というのは、漢字を習った小学生の頃から、「世界」の「界」と「社会」の「会」は、どうして別の漢字が使われているのだろうと疑問だった。私はどうも、こうしたどうでもいいことを不思議に思ってしまうところがある。

で、ずっと「世界」は「世の中の界隈」のことで、かなり雑ぱくなものであり、それに対して「社会」というのは「あたかも会合を開いて決めたような、契約みたいなものに縛られるもの」なんだろうと、ぼんやりとしたイメージを構築してきた。とはいえ、それは勝手に抱いたイメージだから、この際、きちんと調べてみようと思ったのである。

Goo 辞書 (『大辞林』) で 「世界」 を引くと、次のようなことになる。

地球上のすべての地域・国家。 「―はひとつ」 「―をまたにかける」

自分が認識している人間社会の全体。人の生活する環境。世間。世の中。「新しい―を開く」 「住む―が違う」

職業・専門分野、また、世代などの、同類の集まり。「医者の―」 「子供の―」

ある特定の活動範囲・領域。「学問の―」 「芸能の―」 「勝負の―」

歌舞伎・浄瑠璃で、戯曲の背景となる特定の時代・人物群の類型。義経記・太平記など、民衆に親しみのある歴史的事件が世界とされた。

自分が自由にできる、ある特定の範囲。「自分の―に閉じこもる」

《(梵)lokadhātuの訳。「世」は過去・現在・未来の3世、「界」は東西南北上下をさす》仏語。
㋐須弥山(しゅみせん)を中心とした 4州の称。これを単位に三千大千世界を数える。
㋑一人の仏陀の治める国土。
㋒宇宙のこと。

このあたり。あたり一帯。「―暗がりて」〈竹取〉

地方。他郷。「―にものし給ふとも、忘れで消息し給へ」〈大和・六四〉

遊里などの遊興の場。「京町に何かお―が、おできなすったさうでござりますね」〈洒・通言総籬〉

「世界」 という言葉が、現代的な「地球上のすべての地域・国家」という第一義的意味を持つようになる以前の、最も古くからの用法は、上述の 7番目の仏教用語から来ていると思われる。梵語が漢訳された時に、過去・現在・未来の3世を指す「世」と、東西南北上下を指す「界」の二文字による熟語となったのだ。

となると、元々の「世界」というのは、空間的のみならず、時間的広がりをももつ言葉だったようなのである。ふぅむ、なるほど。「世界」というのは、そんなような深い意味合いをもっているのだね。それで、『大辞林』にあるように、派生的に多様な意味になっているのだ。

一方、「社会」 は、次のようになっている。

《明治初期、福地源一郎による society の訳語》

人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営みをいう。「―に奉仕する」 「―参加」 「―生活」 「国際―」 「縦―」

人々が生活している、現実の世の中。世間。「―に重きをなす」 「―に適応する」 「―に出る」

ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。「学者の―」 「海外の日本人―」 「上流―」

共同で生活する同種の動物の集まりを1になぞらえていう語。「ライオンの―」

「社会科」の略。

こちらは成り立ちからして新しい造語で、"society" の訳語だから、深みはないが、案外論理的に割り切れる。

一方、漢和辞典 (三省堂・刊、『携帯新漢和中辞典』)で 「界」 と 「会」 を調べると、次のようなことである。

「界」 : 「堺」 「境」 と同義で土地の仕切を指す。

「会」 : 上の 3画分 (「集」 の本字) と 「增」 の省略形の合字。集まる意。

なるほど、「世界」 は元々は時空がらみのことで、「社会」 は人の集まりであるわけだ。私の抱いてきたイメージは、当たらずといえども遠からずといったところのようである。

 

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2013年4月27日

Mac 購入のタイミング

今月 10日に 「Mac の購入を急がなければならないかなあ」という記事を書いた割には、まだぐずぐずしている。何しろ 1994年からずっと、20年近くも Windows でやってきたものだから、Mac はほとんど未体験で、初心者のレベルまでも達していない。それで、Mac への乗り換えはとっくに決心しているものの、タイミングを図りかねているのだ。

思えばほぼ 20年前、最初に購入する PC を Windows にするか Mac にするか、思いっきり迷ったのである。それまでは、長らく富士通のワープロ専用機 OASYS を使っていて、それに MS-DOS を走らせて、英文ワープロの Wordstar なんかまで使っていたのだ。IT の世界では、完全に大昔の話である。

選択にあたっては、個人的嗜好で言えばだんぜん Mac だったのだが、周囲での Windows 導入が進んでいたため、互換性を配慮したのと、あとは何といっても値段の問題で、Windows にしたのだった。

Windows といっても、"Windows 3,1" という OS で、これはそれまでの MS-DOS の上に GUI のシェルをかぶせただけみたいな代物だった。とはいえ、それまではファイル移動だけでも長々とキーボードで打ち込まなければならなかったのだから、マウスでドラッグすればいいというのは、天国みたいに楽だった。

それまでの MS-DOS(若い人たちは、歴史としてしか知らないだろうなあ)と比べるとあまりにも楽だったので、そのままずっとだらだら Windows で来てしまったのだが、個人的には「自分は本来ならば Mac ユーザーであるべきだった」との忸怩たる思いを抱き続けてきたのである。

で、この度の Windows 8 という OS のマシンを店頭で触ってみて、そのあまりの使いにくさに驚き、「いよいよ、本来の姿の Mac ユーザーになるべき時が来たのだな」という思いを抱いたのである。私も去年の夏で還暦過ぎたのだから、もう自由にさせてもらう。

ところが、いざ本当に Mac に乗り換えようとすると、そのタイミングが難しい。MacBook Pro の 15インチ版で、Retina ディスプレイにするというのは、もう確固として決定済みなのだが、なにしろ、これって高いのである。25万円もするのだ。下手すると、安い Windows マシンなら 2台買えちゃう。

次のモデル・チェンジまで待つべきなのかと思ったが、MacBook Pro のモデルチェンジはまだ先らしい。MacBook Air は近く Retina ディスプレイになるらしいが、同時に MacBook Pro までモデルチェンジされるという情報はない。

だったら、ぐずぐず待っている意味はない。さっさと購入して、今使っている Let's Note が元気なうちに Mac 環境への移行をゆっくり進めるべきだろう。近頃何かと忙しいのだが、忙しい時ほど、さっさと新しいマシンを購入して、余裕を持って移行作業を進める方がいいという思いが、だんだん強くなってきた。

ああ、Mac 購入のタイミングは迫ってきたようなのである。20年前の、Windows にすべきか Mac にすべきか迷っていた頃の、妙なわくわく感覚が再現されている。あとは、Apple Store で正規に買うべきか、激安店でバーゲン価格のものを買うべきかの検討をするだけだ。

 

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2013年4月26日

私は途上国に行っても全然平気なタイプのようだ

はてなブックマークで 「こんな人は発展途上国に行かない方が良い 10項目」 というのに目を引かれたので、思わずクリックしてみた。「セブ島にて最新・最先端の英語教育を実践・研究をしています」 という、はるじぇー 【サウスピーク塾長】 さんの Togetter である。10項目というのは、こんなのだ。

  1. ウォシュレットがないと用を足せない。また、紙をトイレ流せないことや便座がないトイレに耐えられない。 ⇒ 日本のトイレは世界一綺麗です。

  2. ベットのマットレスが薄いと眠れない。 ⇒ たいてい薄いです。

  3. 水のシャワーに耐えられない。シャワーは温水じゃないと嫌。 ⇒ 水シャワーも珍しくないです。

  4. アトピーなどで皮膚が弱い ⇒ アトピーの人が途上国に滞在した際、朝起きたらベットが血まみれになっていることも。

  5. その他、とにかく身体が弱い ⇒ 外国は日本と比べて過酷なので身体が弱い人にはお勧めできません。

  6. 食べ物の好き嫌いが多い。また、それにも関わらずに現地で食料調達が出来ないし、料理も出来ない。 ⇒ 好き嫌いが多い人はやっていけないです。現地の料理は日本のそれと比べるとたいていマズイですし。

  7. 食事に過度に清潔さを求める。多少ハエがたかっても涼しい顔をして食べられない。 ⇒ 多少汚れていてもパンパンして食べられるくらいの余裕はほしい。

  8. 虫が苦手。虫を触れない。 ⇒ 途上国で虫の発生は日常茶飯事。

  9. その土地にあるしきたり・慣習・宗教にとりあえずいったん従うことが出来ない。 ⇒ 納得いかなくてもとりあえず従いましょう。

  10. 不愉快なことをシカトできない。嫌なことから逃げられない。 ⇒ 不愉快なことは日々発生します。

だいたい「そんなところなんだろうなあ」という内容だが、実感としてはまだわかっていない。実は私は、途上国と言われるところに行ったことがないのである。何度も海外旅行をしているようだが、行った先はかなり限られていて、ドイツ、米国、フランス、香港にしか行ったことがない。同じ所に何度も行っているのだ。

人によっては「香港は途上国では?」と言う人がいるかもしれないが、あそこは十分に先進国である。少なくとも、よっぽどのところに探検して入り込まない限りは、他の 3カ国とそれほど変わったところはない。

で、私自身は紹介した 10項目をパスできるかというと、案外余裕で大丈夫そうだ。

トイレに関しては、よっぽどウンコまみれのど汚さでなければ、何とかなる。アウトドアにはかなり馴染んでいるから、野糞も大丈夫だ。ベッドのマットレスの薄さも、大丈夫。何なら、床の上でも寝られる。

シャワーはできれば温水が出てほしいところだが、冷水でもなんとかなる。日本でも、80年代前半までの「海の家」なんて、冷水シャワーばっかりだったが、しょうがなく鳥肌だらけになって浴びていたことだし。

皮膚は強い方で、アトピーとは無縁だから、大丈夫。体は野獣並みとは言わないが、そんなにヤワではないから、大抵のことには耐えられる自信がある。

食べ物の好き嫌いは一切ない。ハツカネズミの躍り食いとかはちょっと困るが、大抵どこに行っても、どんなものでも食べられる。それに、市場に行って食料調達して自分で料理するなんていうのもかなりそそられるから、食い物で困ることはないはずだ。

それから、潔癖性でもないので、多少汚れていても大丈夫。地面に落とした食い物も「3秒ルール」どころか「5秒ルール」でも拾って食える。というか、食欲に負けて捨てられず、つい食っちまう。

虫は得意。虫にさわれるなんて当たり前で、それどころか、大抵の虫は焼くなり炒めるなり佃煮にするなりすれば食えると思っている。イナゴの佃煮は大好物だ。

それに行った先のしきたり、慣習、宗教に従うのは当然と心得ている。異文化の土地で多少不愉快なことがあっても、やり過ごせるどころか、かえっておもしろく感じてしまうクチなので、そのあたりは全然問題ない。異文化度が高いほど好奇心が刺激されて、楽しめそうな気がする。

となると、私は幸か不幸か、途上国に行ってもかなり大丈夫なタイプの人間のようだ。これまで先進国ばかりに行ったのが残念なほどである。何かの機会があったら、フィリピンに行ってみたいものである。

 

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2013年4月25日

「民主党の尻ぬぐいをしないのは自民党の怠慢」 と言わんばかりの蓮舫さん

今日、たまたま見たテレビの国会中継で、民主党の蓮舫議員が、東日本大震災の復興関連基金の、予算の無駄遣いについて追求しているところを見た。例えば再生可能エネルギー設備関連で、栃木県の太陽光発電設備など、震災との関係の薄い事業への流用が続いているというのである。

これに対して安倍首相は、この基金は民主党政権時代に作られたもので、自民党政権は「負の遺産」を引きずっていると指摘した。すると蓮舫議員は、「猛省を込めて質問している」として、被災地の復興に関係の薄い事業への基金拠出を執行停止するように迫った。

再生可能エネルギー設備を栃木県に作るより、家屋や建物が倒壊して、そうした設備を上げることもできない被災地を何とかしろというのである。

これを聞いていて私は、「蓮舫さん、すごいなあ!」と思った。「民主党のしでかした不始末の尻ぬぐいさっさとやらないのは、自民党の怠慢」と言わんばかりなのである。「猛省を込めて」と言う割には、ちっとも申し訳なさそうには見えないのだ。

こういうことをこんなにも声高に言い立てたら、自らの無能と厚顔無恥をさらすようなもので、完全に逆効果だと思わないのかなあ。

あるいは、被災地の中心では太陽光パネルを載っける建物の復興すらできていないというのなら、再生エネルギー関連につけるべき予算は、近辺の設置可能なところからつけて行けばいいという見方だってできる。太陽光パネルはとりあえず全然無駄な設備じゃないし、作った電気は周辺に流せるのだから。

こんな状況では、夏の参院選での民主党惨敗は目に見えている。自民党は第二期の政権独占時代に入るだろう。我々の不幸は、まともに政権を担える野党を、未だに持ち得ていないということだ。

 

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2013年4月24日

ネット選挙に、大金を投じるがいい

ずっと 「選挙に web を使わせろ」 というサブサイトをやってきた上に、今月 14日には "ネット選挙は、まだ「全面解禁」なんかじゃない" なんて勇ましいことを書いちゃったものだから、tak-shonai はずいぶんネット選挙に入れ込んでいるなんて思われているかもしれないので、ちょっとクールダウンしておこうと思う。

元々 「選挙に web を使わせろ」を始めたのだって、特別な思い入れがあってのことというより、「当たり前のことが、この国では何で当たり前にできないんだ !? 」という驚きからである。だから、今頃になってネット選挙が解禁になったとたんに、何も知らない政治家が広告代理店の餌食になるかもしれないという気はしていた。

そんなことなので、"ネット選挙解禁・有料バナー広告で格差 無所属不利、「金権」に拍車懸念も" なんていう記事が出ても、別に驚かなかった。無駄に失っても惜しくない金のある政党は、どんどん無駄遣いすればいい。ネットを上手に使えるスマートな候補が、きちんとした使い方をしてくれさえすればいい。

そもそも、これまでの投票率を辛うじて支えてきたような、地方のじいさんばあさんは、ネットなんて見ない。だから 「ネット選挙解禁」 なんて言っても、「よくわかんないけど、なんだかやってるみたいね」 ぐらいにしか思っていない。ネット選挙の効果が及ぶのは、普段フツーにネットをやっている有権者に対してである。

例えば、フツーにネットをやっている有権者は、政党から選挙キャンペーンのメールが来たって、そんなのまともに読まない。ただでさえ毎日毎日膨大な数のメールが届いて、本当に読むのはその 10%もないぐらいなのだから、開いてみるのもうっとうっしい。

それに、たとえ開いてみたところで、どうせ歯の浮くような、そして選挙が終われば忘れ去られてしまうような、どうでもいいことがちりばめられているだけなのは、わかり切っているではないか。

さらにそれから、地元関係のウェブサイトに政党の選挙キャンペーン・ページに誘導するバナー広告が貼られたところで、まあ、一度ぐらいはどんなものか見るためにクリックするかもしれないが、行った先で 10秒以上滞在することもなかろう。知りたい情報があったら、自分でググって行く。

ネットに慣れた有権者は、政党や候補者の都合だけで運用されるメールは読まないし、いかにも急ごしらえのキャンペーン・ページにも行かない。そして、そもそも 「ネット選挙って何?」 というようなじいさんばあさんにとっては、そんなの全然関係ない。つまり、ネット選挙に金をかけても、効果は悲しくなるほど薄いだろう。

ネット選挙解禁といっても、私が期待しているのは、なにも特別なことじゃない。そもそも「ネット選挙」なんて言うからまぎらわしいのである。ネットは選挙対策のためにあるんじゃない。日常的な情報発信のために使ってこそ、選挙でも生きるのである。

だから、普段からフツーにブログや SNS を通じてまともな情報発信をしてくれている政治家が、選挙期間中もしっかりとリアルタイムの情報発信を継続してくれさえすればいい。私の期待は、言ってしまえば、この一点に尽きる。これまでは、こんな当たり前のことができなかったという、それだけのことなのだ。

他のことに関してはすれっからしだけれど、IT 関連についてはどうしようもないほどウブな政治家が、広告代理店の口車に乗って、役にも立たないウェブサイトやバナー広告に大金をはたくなら、それはそれで 「お好きにどうぞ」 ということである。

そんなような、地元のボスとつながってるだけの「おっさん政治家」たちが、選挙が終わってから 「インターネットに大金使ったけど、全然効果がなかった。やっぱりインターネットなんてものはダメだ」 とこりごりして、ネット対策からすっかり引き上げてくれれば、なおありがたい。

この夏の参院選は、ウェブ上にどんなずっこけキャンペーンが登場するか、みものである。そして次回からは、まともな候補者がまともにネットを使いこなしてまともな情報発信をすることで、少しはスマートな選挙ができることだろう。

 

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2013年4月23日

「意志の力」 というのは、消耗品らしい

ちょっと古い話で恐縮だが、昨年 10月 10日付の Wired.jp に、「意志の力というものは、物語のコンセプトのようなものではなく、自動車のガソリンのようなものだ」という記事が載っている。(参照

意志の力というのは、確固として備わったものではなく、使えば消耗するガソリンみたいなものだというのだ。ということは、この世に存在するのは「意志の強い人」ではなく、「意志の強い状態の人」ということのようなのである。

「意志が強い」と思われている人でも、ガソリン補給することなく意志の力を発揮し続けていると、ついには音を上げてしまうことになるみたいなのだ。フロリダ州立大学の心理学者ロイ・バウマイスター氏は、これを「自我の消耗」と呼んでいる。

意志の力はグルコース(ブドウ糖)で補給されるという研究がある。これが正しいとすると、ダイエットを継続する意志の力は、危ういパラドックスの上に成り立っていることになる。バウマイスター氏と共同研究を進めるジョン・ティアニーによると、「食べないでいるためには意志の力が必要だが、意志の力を得るためには食べることが必要」なのだ

人間はこうした危ういパラドックスの上で、何とか意志の力をコントロールしなければならない。そのためには、以下のような 2つの方法論があると指摘されている。

まずは、意志力は有限な資源なので、無理に手を広げすぎてはならない。決心は、たくさんではなくてひとつにすべきだ。そして、たとえば1週間の禁煙などをやり遂げることができた場合は、おいしい夕食を楽しむなどして、意志力を一休みさせる。

もうひとつの戦術として、「自制心の外注」がある。ジムの仲間やトレーナーのような存在を見つけるのだ。

なるほど、生活全般で頑張りすぎるとろくな結果にならず、時には「自分へのご褒美」が必要になる。そして運動を継続するために、余計な金を使ってでもジムの会員になるというのは、あながち贅沢な無駄遣いというわけでもない。

どうやら「意志の強い人」というのは、「自分が意志力を発揮すべき分野をある程度限定して、その分野において意志の強い状態をコンスタントにキープできる人」ということのようなのだ。人間は自分自身に対しても、うまい具合に飴と鞭を使い分けなければいけないみたいなのである。

 

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2013年4月22日

「自信」 と 「やる気」 って、本当に人それぞれみたいなのだ

はてなブックマークで「自信を持てばうまくいく!が真実である7つの理由」というページがあることを知り、どんなことが書いてあるのかと思って行ってみて、ちょっとボーゼンとしてしまった。

別にアブないウィルスが仕掛けられているわけでもないようなので、試しに行ってみれば、私の「ボーゼン」がどんなものかおわかりになると思う。こちら のページである。

このページによると、冒頭の  「自信を持てばうまくいく!が真実である7つの理由」 というのは、要するに次のようなことなのだそうだ。それぞれの項目についてはページの中で詳しく述べられているのだが、申し訳ないけど、まともに読んでみる気になれなくて、チョー斜め読みしてしまった。

その1:自分と繋がる
その2:ぶれない軸をもつこと
その3:自分を愛すること
その4:すべてに責任をもつということ
その5:一歩踏み出す勇気
その6:ポジティブになる
その7:自分の色を出せる

なんだか、「そんな当たり前のことを、今さら、そんなに高らかに謳わなくても……」という感じなのだよね。この類のことは、ちょっと控えめにじっくりとやるのが、私の趣味なんだがなあ。

で、ごていねいなことに、ページの下の方には「だまされたと思って試してみてください」と注釈された「自信満々になってやる気を取り戻す音声」というのまである。どんなのかと思ってクリックしてみたところ、さっきの「ボーゼン」の100倍ぐらいすごいことになってしまった。

こればかりは人それぞれなので、これを聞いて本当に  「自信満々になってやる気を取り戻す」 ことができる人がいないとも限らないが、正直なところ、私は久々に「しらけ」という感覚を覚えてしまって、そのダメージからまだ回復しきっていない。

「世の中、本当にいろいろだなあ」と思うばかりである。ここはもう、「自信」と「やる気」というのがどんなものであるかという、とても基本的な問題から問い直さなければならないんじゃじゃかろうか。

 

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2013年4月21日

iPhone でプレゼン

愛用の iPhone 5 で使う 「Lightning - VGA アダプタ」 というものを買った。値段は 4,400円と、ちょっと高い気もするが、まあ、使用頻度も多くなりそうなのでいいだろう。とくに、プレゼンテーションにも iPhone だけでいけるから、座りっぱなしで PC 操作しながらでなくても済むのがありがたい。

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写真で、上にあるのが今回買った 「Lightning - VGA アダプタ」 で、下にあるのが従来の 「30ピン - VGA アダプタ」 である。

私は近頃、PowerPoint などを使ったプレゼンテーションで、PC を使わなくなりつつある。ここ最近は、iPad を主に使っているが、それは iPhone 5 とプロジェクターをつなぐケーブルがなかったというだけの理由による。これまでは 30ピン - VGA アダプタしかもっていなかったのだ。

私は iPad 2 を使っているので、ケーブルが 30ピンである。iPhone 4S までは同様に 30ピンのケーブルだったので、どちらでも使えたが、iPhone 5 では Lightning ケーブルになったので、iPad でしかプロジェクターに接続できなくなっていた。

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ところが今回の買い物で iPhone からもプロジェクターにつなげるようになった。次のプレゼンでは、当然のように iPhone を使おう。今や、プレゼンに PC なんていらない時代なのである。写真は iPhone をモニターにつないでみたところ。

プレゼンテーション・ファイルを作る時には、PC で PowerPoint を使っている。私の iPad と iPhone には Apple のプレゼン・ソフトである Keynote がインストールしてあるが、さすがに作成する時は PC で PowerPoint を使う方が楽だ。

しかし一度作成してしまえば、それを iPad と iPhone の Keynote で読み込んで、ほとんど何の問題もなく使える。唯一使えないのは、縦書き表示でのテキストだけだが、今どきプレゼンで縦書き表示をすることなんてほとんどないから、実質的には制限なしで使えるということだ。

プレゼンテーションで、片手に持った小さな iPhone だけで、画面がどんどん切り替えられるというのは、それ自体が「時代は PC 離れ」ということのデモンストレーションになる。それに、PC を使うとあまり動き回れないが、iPhone だとかなり自由に動けるのがうれしい。

 

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2013年4月20日

何度も言うが、天気が極端

一昨日の朝、仕事で大阪に発つ時に、何を着ていこうかと一応迷った。天気予報で翌日から気温が下がるというのは知っていたが、その朝は汗ばむほどの陽気だったのである。何が困るといって、こういうのが一番困る。

その日は大阪で半日仕事し、翌日は甲州に入る。大阪では暑くても、甲州は冷えるだろう。だったらというわけで、一度は冬用の厚手のジャケットを着て外に出た。しかし耐えられなかった。むっとするほど暑い。

仕方なく、半袖 Tシャツの上にコーデュロイのシャツを着て、その上に夏用のジャケットという、まことに中途半端な組み合わせで出かけることにした。鞄の中には、一応ウールのベストとマフラーを忍ばせてはおいた。

大阪では暑かった。コーデュロイ・シャツの袖を腕まくりし、ジャケットまで腕まくりした。それでも暑い。「ベストとマフラーなんて、いらなかったかな?」 と、半ば後悔までした。その日は名古屋まで戻って駅前のホテルに泊まった。

名古屋の夜は蒸し暑いほどだったが、そのホテルのエアコンは集中式で、まだ冷房に切り替えられていない。私は自宅でも冷房は使わないのだが、ホテルの風通しの悪い部屋は妙に暑い。しかたなくエアコンの 「送風」 を目一杯効かせて寝た。

ところが、夜中の 3時過ぎに目が覚めた。送風で吹き付ける風が、今度は妙に冷たくなっていたのである。「客から 『暑すぎる』 と苦情でも入って、急に冷房に切り替えたのかな」 とも思ったが、どうやらそうではないようだ。送風で自然に入ってくる外気が、冷たいのである。

手探りでエアコンのスイッチを切って寝て、朝に出発しようと外に出ると、前日とはうって変わって涼しい。換えのシャツもコーデュロイにしといてよかったと思いつつ、バッグからマフラーを取り出して首に巻いた。

中央本線の特急に乗っている間は気付かなかったが、長野県の塩尻で乗換えるために電車を降りると、外は寒いぐらいである。バッグからウール・ベストまで取り出して、ジャケットの下に着込んだ。

そしてさらに一夜明けた今朝、甲府駅のホームで新宿行きの特急を待つ間は凍えそうな寒さで、足踏みをしながら体を温めた。ウールのベストとマフラーぐらいでは、全然足りない。やはり夏用ジャケットじゃなく、冬用にしとけばよかったと後悔した。そうでなければ、コートを持ってくるんだった。

帰宅してパソコンに向かい、仕事をしている今、夜の 9時過ぎだが、しんしんと冷え込んでいる。私はこのくらいでは暖房は入れない主義だから、一度はしまった冬用の肌着と分厚いセーターをまた引っ張り出して、着込んでいる。

陽気がよくなれば初夏の暑さだが、ちょっと日が陰ると初春以前の寒さに戻る。さらに、ちょっと吹けば春の嵐だ。今月 17日付の和歌ログに書いたことだが、気象予報士の森田正光さんが、「春の嵐は、前はシーズンに 1度か 2度だったのに、最近はしょっちゅうになった」 とおっしゃっていたのを思い出す。

このブログでは何度も書いていることだが、近頃本当に天気が極端すぎる。天候が急変するタイミングで出張に出たりすると、本当に体調を崩しかねないほどだ。よくよく気を付けようと思う。

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2013年4月19日

2つ並んだトイレット・ロール・ホルダー

今日はどうでもいいような細かい話である。自分としてもまるで口うるさいオバサンみたいなこと言うことになりそうな気がしているが、かなり前から気になっていたことなので、辛抱してお付き合い願いたい。

どんなことかというと、ビジネスホテルに泊まった際に時々感じることである。実はまた出張でドサ廻りをしていて、大阪、名古屋、甲府の順に廻るスケジュールで、昨日は名古屋駅前のビジネスホテルに泊まった。

ホテルのバスルームでは、トイレット・ペーパーが 2つ備え付けられていることがかなりあって、昨日泊まったホテルでもそうなっていた。ホテルばかりでなく、デパートや大手量販店のトイレでも、トイレット・ロール・ホルダーが 2つ並びで取り付けられていて、ロールペーパーも 2つ付けられているのをよく見かける。

これって、片方がなくなっても、もう片方を使うことができるようにということなのだと思う。さらに、ホテル・メイドのおばさん(変な言い方だが)やトイレの清掃員が、2つのホルダーのロールペーパーを 1つずつ交代で交換できるようにという措置でもあるはずなのだ。

ところが、どこのトイレを見ても、2つのホルダーのペーパーがほぼ均等に減っているのである。つまり、トイレの利用者は片方から使い切ろうとはせず、なぜだか知らないが、そして意識的にか無意識的になのかもわからないが、両方を均等に使っていこうとしているようなのだ。しかし、これでは当初の意図が実現しないではないか。

本来ならば 1つずつ交代で交換すればいいはずだったのに、結局のところは、2つを一度に交換しなければならないことが多くなるだろう。メイドさんや清掃員としては、片方ずつ順にローテーションで交換できたらありがたいだろうなあと思う。

使用者にしても、ケースによっては 2つのホルダーのどちらもなくなっていたり、残りがほんの僅かになってしまっていたりして、不都合なことになるだろう。片方がなくなっていても、もう片方が丸々残っているということの方が、ずっといいはずなのだ。

人間心理として、2つの同じ消費物が並べられていると、均等に処分していこうとする心理が働いてしまうのだろうか。しかし、冷蔵庫の中に牛乳パックやミネラルウォーターのペットボトルが 2本あったら、どちらかを先に空けてしまおうとするだろうになあとも思う。

あるいはこうした場合は、牛乳パックやミネラルウォーターとは別の心理が働いて、とくに横並び(トイレット・ロール・ホルダーは縦に並んでいる場合もあるが)が大好きな日本人としては、どちらかが目に見えて減っているのを見ると多少気持ちが悪くなっちゃって、「平等に、平等に」なんて思ってしまうのだろうか。

 

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2013年4月18日

「はやあし」の表記が「早足」であって「速足」じゃないわけ

実はずっと、「はやあし」と入力して変換すると「早足」になるのが不満だった。ATOK の辞書には「はやあし」の変換候補は(カタカナ以外には)「早足」以外になく、「速足」とは素直に変換されない。これについて「ま、いいか」とあきらめがついたのは、50歳を過ぎてからのことだ。

しかしおかしいではないかと、今でも思うのである。「はやあし」とは 「速く歩く」ことで、「早くから歩き始める」ことじゃない。ところが大辞林を引くと、「早足」と「速歩」が出てきて「速足」という熟語は見当たらない。

さらに「はやぐい」も「早食い」としか変換されない。大辞林では「食物を早く食べること、食い方の早いこと。「―― 競争」とある。「食い方の速いこと」ではなく「早いこと」とあることにはびっくりで、両方とも「早食い」と標記されるのである。

「早い」と「速い」の使い分けに関しては、かなりの方が苦労されているようなのだ。一般的には「時間的にはやい」のが「早い」で、「スピードのはやい」のが「速い」と使い分けられているにも関わらず、「早足」や「早食い」に限らず、「早回し」「早口」「早駆け」など、例外がくさるほどある。

漢字の起源からすると、「早」と言う字は地平線の上に太陽が昇りかけている早朝を表す象形文字なのだそうだ。なるほど、時間的に早いという意味そのもののような気がする。それに対して「速」の字は「のろのろ歩いている人をせかせること」という意味なのだという。

ところがこれは漢字の世界のお話で、和言葉としての「はやし」(古語で考えるのでこうなる)は、時間的なこともスピード的なこともまったく区別なく「はやし」と表現して平気だったのである。古代の日本人はそんな区別には無頓着だったようで、これはかなりプリミティブな感覚といえる。

それで、「早い」「速い」の使い分けに関しては、一応の原則があるとはいえ、慣用によって例外だらけの世界になっているようなのである。これはもう、我々も古代日本人に戻って「固いことは言いっこなしよ」と、あっけらかんと構えているよりほかないようなのである。

そういえば「かたい」も「固い」「堅い」「硬い」「難い」と、いろいろな意味をひっくるめて「かたし」と言い習わしてきたのであって、日本語というのはなかなか微妙なニュアンスでもっている言語のようなのだ。

 

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2013年4月17日

「浸透圧の原理」 に関する誤解

「サイエンスあれこれ」 というブログの 4月 16日付「浸透圧の原理」という記事を読んで、私はびっくりこいた。浸透圧というのは、水が高きから低きに流れるような単純な現象ではないというのである。これに関する限り、私は今日まで完全に間違っていたようなのだ。

これは私が極端な文系(このことについてのきちんとした掘り下げは、こちら を読んでいただくとして)だからというわけではなく、大方の人が誤解しているだろう。なにしろ、Wikipedia の説明からして間違ってるというのだ。

Wikipedia の説明は、ものすごくかいつまんで言えば、半透膜で隔てられた溶液は、「拡散の原理」によって、溶媒分子が[高]→[低]へと、平衡状態に達するまで移動するためだとしている。(詳しくは Wikipedia のページへどうぞ。いつ変更されるかわからないけど)

しかし、米・バードカレッジ物理学教授 Eric Kramer 氏によれば、この説明は間違っているんだそうだ。というのは、水の拡散だけによる力は、浸透圧の 1/2 から 1/6 程度の力しか生み出さないことが明らかになっているからだ。

実は浸透圧の原動力は、「拡散の原理」(両者の平衡が取れるまで高きから低きに流れるイメージ)にあるのではなく、溶質のランダムな運動、すなわち「ブラウン運動」なのだそうだ。

半透膜の穴は、溶質が通過するには小さすぎるので、ブラウン運動で動き回る溶質の分子は、半透膜にぶつかるたびに跳ね返されてしまう。しかし単に跳ね返されるだけでなく、その跳ね返された勢いで、周りの分子も一緒に引っ張ってしまう。これは溶質の周囲の粘性によるのだという。

この過程における勢いで、半透膜の向こう側から穴を通して顔を出しかけた溶媒分子を引っ張り込んでしまうんだそうだ。濃度の高い方がブラウン運動が活発で、半透膜に盛んにぶつかっては、反対側から溶媒分子を引っ張りこむので、結果として半透膜の両側の水溶液は濃度の平衡が取れてしまうというのである。

つまり水溶液で言えば、溶け込んでいる物質の分子が、繰り返すけれど「高きから低きに流れるように」半透膜の向こうに飛び出してしまうんじゃなく、逆に、跳ね返される勢いで、半透膜の向こうから水の分子を引っ張り込んでしまうのだ。

おもしろいのは、物理学の世界では 60年以上も前の 1951年の時点でこの原理が明らかにされていたにも関わらず、生物・化学系の研究者の間では、今でも誤解が多いという事実なのだそうだ。だから、文系の私が誤解してきたのは、別に恥ずべきことでもない。

Kramer氏は 「物理学者が60年以上もの間、化学者とこの問題について十分な話し合いを持たなかったことは驚きに値する」 とコメントしている。「一見して当然すぎるほど当然の現象」ほど、思い込みを修正するのはむずかしいということなんだろうね。

 

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2013年4月16日

管理人の死後のウェブサイトの扱い

昨日に引き続いて Slashdot の記事についてである。今日は「自分の死後、データはどう扱われるべきか」というお話だ。個人でウェブサイトやブログを運営している人にとって、自分が死んでから、そのサイトはどうなるかというのは、少なからぬ関心事だろう。

IT Media ニュースによると、米 Google は "Inactive Account Manager" というプログラムを開始し、ユーザーが自分の死後にアカウントのデータをどうするかをあらかじめ決められるようにした(参照)。以下、引用である。

ユーザーはこの機能で、自分のアカウントへのアクセスが一定期間 (3カ月、6カ月、9カ月、12カ月から選べる)なかった場合、Google がそのアカウントにどう対処するかを指定できる。

例えば、Gmail のメールなど、Google の各種サービスで保存されたすべてのデータを自動的に削除できる。あるいは、あらかじめ選んでおいた信頼できる連絡先10人までに本人がアカウントにアクセスしなくなったことを通知したり、データの一部あるいはすべてを送ることも可能だ。

つまり、当人が死んでしまってアカウントへのアクセスが途絶えたら、一定期間の後にそのアカウントが自動的に消滅するようにセットすることができる。あるいは、信頼できる知人に「○○さんのアクセスが長いことないんだけど、もしかしたら死んじゃったんじゃない?」と通知してもらえる設定も選べる。

さらにご親切なことに、アカウントに保存されていたデータの一部あるいはすべてを、信頼できる知人に送ることもできる。「私のウェブ上の遺産の管理は、あなたに任せた」というようなものだ。

私はこうした問題について、10年近くも前に「ホームページの永代供養 ドッグイヤーの世界で、人間の寿命を考える」という記事を書いている。この中で、次のように述べている。

案外サーバのディスクスペースなんてそのうちに無料同然になり、管理人が死んだからといって、いちいち対応する方が面倒だし、コストもかかる。あって邪魔になるものでもなし、削除なんてしないという世の中になるかもしれない。そうなったら、いったんアップロードしたら、自動的に永代供養である。

10年前のこの予言 (?) は、今回の Google の措置をみる限り、外れてしまったようである。ただもう 10年経ったらどうなるかは、誰にもわからない。 

 

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2013年4月15日

MS には、これまで十分以上に儲けさせてやった

Slashdot に「パソコンが売れなくなっているのはWindows 8 のせい」「パソコンが売れない理由は古くても使えるから?」という、一見相反する記事が出ているが、よく読むとこの 2本は矛盾しているわけではなく、最近パソコンが売れないのは、この 2つの要素の合わせ技なんだとわかる。

「新しく出た Windows 8 って、ユーザー・インターフェイスがこれまでとがらりと変わって、慣れるのに手間がかかりそうだし、今使っている古い PC でとりたてて不便は感じないから、もうしばらく使い続けよう」というのが、昨今のユーザー意識の平均値だろう。つまり、「買い換える必要もないし、むしろ買い換えたら面倒そうだし」 ということだ。

さらにいえば、今使っている PC が壊れないうちに、もう少し使いやすく改良された(もっと言えば、クラシック・デスクトップで「スタートボタン」 が復活した)Windows の新バージョンが出てくれればありがたいと思っているユーザーも少なくなかろう。それまでは、使い慣れたマシンでで引き延ばしておこうというわけだ。

Windows 8 が世に出て間もないというのに、次期 Windows がこれほどまでに待たれているという状況は、Windows 95 や XP の展開前夜以来、久しぶりのことだ。それほどまでに Windows 8 はできそこない感が強いということで、多分 Windows Me や Vista 以上に悲惨な道をたどるだろう。

ある意味、次期 Windows を待ってくれるユーザーは、Microsoft にとってまだまだありがたい存在である。MS に全然ロイヤルティを感じておらず、他にも選択肢があることをきちんと認識している私のようなユーザーは、この際とばかりに Windows から離れようとしている。

MS には、これまで十分以上に儲けさせてやった。これ以上付き合い続ける義理はない。

 

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2013年4月14日

ネット選挙は、まだ 「全面解禁」 なんかじゃない

公職選挙法改正案が 12日の衆院で全会一致で可決され、参院に送付した。今月中に成立して、、夏の参院選では、インターネットを使った選挙がようやく解禁される見込みになった。全会一致で可決されるような当然の話が、どうしてこんなに長くかかったのか不思議だが、まあ、とりあえずはおめでたいことである。

私は 6年近く前から 「選挙に web を使わせろ」 というサブサイトを運営していて、その中で、選挙でのインターネット使用禁止にとどまらず、数々のあほらしい規制が日本の選挙をお馬鹿なものにしていることを指摘してきた。

このほどようやく、選挙に web を使えるようになるので、このサブサイトの使命はめでたく終わることになりそうだが、だからと言って手放しで喜んでばかりもいられない。そもそも、日本の選挙のお馬鹿さ加減は、公選法のお馬鹿さ加減にかなり規定されているからである。インターネット選挙の解禁ですべて解決というわけにはいかないのだ。

例えば、選挙期間中の選挙カーの「連呼」に関しては、多くの人が不愉快さを感じているが、公選法では移動中の選挙カーでは、連呼以外のことをしちゃいけないということになっている。

これまで何度も書いてきたことだが、 公選法 第141条の 3 の 「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」 という条文は、どうみても日本一お馬鹿な法律条文だと思う。これを考えたお役人の頭の中は、一体どうなっていたのだろうか。

日本の公選法は、「選挙運動は原則自由にしてもいいけど、これこれのことはしちゃいけないよ」という、普通の法律のコンセプトで書かれているのではなく、「そもそも、選挙運動はしちゃいけない」 という基本原則で成立しているのだ。その上で、「とはいえ、これこれのことだけは許してあげる」というコンセプトなのである。

だから、選挙運動で配る文書の枚数とか、いろいろくだらない規定がたくさんあって、素人にはチンプンカンプンみたいなところがある。そのため、当局の恣意的な可能になって、嫌な感じのところがたくさん出てくるのだ。

私としては、公職選挙法は、「改正」というのではなく、一度破棄してリセットし、改めて本当に民主的なコンセプトのものを作る必要があるとまで思っている。

今回の公選法改正に関しては、SNS やブログを含むウェブサイト上の選挙運動が全面解禁され、政党と候補者はメールによる投票呼びかけをすることも可能になった。しかし、一般有権者はメールでの投票呼びかけができない。一部のマスコミでは 「全面解禁」 と報じられているが、これではとてもその名に値しない。

というわけで、私のサブサイトはもう少し継続しなければならないようなのである。

 

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2013年4月13日

Android は、どこまで行っても PC と仲良し

Wired に「iOS より利用頻度が低い、Android ユーザーの謎」という記事がある。複数の調査会社のデータによると、最近のスマートフォン販売においては、Android 端末が全体の 70%で、iOS のシェアは 21%しかないという。しかし、モバイル端末からのウェブブラウザ利用では、iOS (Safari) が 61%なのに Android ブラウザは約 3分の1だった。

つまり、ハードの数では圧倒的に少ないはずの iOS 端末(iPhone などね)が、インターネットの世界における実際の使用では明確にマジョリティの地位を占めているというのである。これは確かに、謎といえば謎である。

Wired の記事はこの理由を、次のように推測している。

1つめは、iOS ユーザーが Android ユーザーに比べて、やや年齢層が低いため、四六時中スマートフォンの画面に触れている傾向が強いこと。そして 2つめは Android ユーザーが外出先で携帯ネットワーク経由で使うことが多いのに対し、iOS ユーザーはじっくりと腰を落ち着けて Wi-Fi ネットワーク経由で使う時間が長い傾向があることだ。

ただ年齢層の違いということに関しては、そんなちょっとした違いが圧倒的な結果の違いとして現われるかなあと、私としては疑問だ。iOS ユーザーのネット接続時間が圧倒的に長いのが、単に 「平均年齢がほんのちょっとだけ若いから」 というのでは説明がつかないだろう。

それに対して、2番目の理由はずっと説得力がある。Android ユーザーのモバイル端末使用が、外出先でちょっとメールのチェックをしたり、ネットで調べものをしたり、あるいはマップでナビしたりというのが主たる用途ということがうかがえるのだ。それに対して、iOS ユーザーは自宅やオフィスでも、じっくりと端末を使っているらしい。

これをちょっと深読みすると、Android ユーザーは自宅やオフィスでは、依然として PC を主として使っていて、モバイル端末は外出先での使用にとどまるのに対し、iOS ユーザーは自宅やオフィスでも、PC を起動させるよりモバイル端末を手に取る機会が多いということだ。

もっと言うと、Android 端末は PC の補完的役割と思われていて、「そりゃ、PC の方が使いでがあるけど、持ち運ぶのは重いから、外ではスマホを使っちゃうよね」 という感覚だが、iOS ユーザーの方は、「たいてい iPhone や iPad で事足りるから、PC は専門的業務用だよね」 ということなのだろう。

現に私がその通りで、PC はデスクに向かっての業務 (Web ページやこみいったスプレッド・シート、プレゼンの作成、長文テキストの執筆など) 以外ではあまり使わずに、メール、ニュース、SNS のチェック、ネット・ショッピングや予約などは、ほとんどソファでくつろぎながら iPhone か iPad でやっている。

まあ、それは私が自宅をオフィスとしているからということもあって、フツーのオフィス・ワーカーとしては、勤務中にデスクを離れてソファにひっくり返りながら、モバイル端末を使うというわけにもいかないだろうけどね。

このブログで何度も主張していることだが、「こみいった業務なんて、縁がないもんね」 というライト・ユーザーは、はっきり言って自分専用の PC なんて持つ必要がなく、スマホやタブレットがあれば十分だ。

しかしながら、Android ユーザーは Wi-fi 環境にいてもつい、PC の方を起動させちゃうんだろうね。iPhone や iPad だと、「PC よりこっちの方が楽チンだもんね」 ということになりやすいが、Android 端末だとそうはいかないというのは、操作感覚のちょっとしたギャップが、大きな違いをもたらすということなんだろうなあ。

iOS だと PC 離れを加速しやすいが、Android は PC と仲良しという感覚は、現実にあるという気がするのである。

 

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2013年4月12日

Windows XP のサポート停止は、PC 離れの絶好の機会

Microsoft による Windows XP のサポートが、来年の 4月 9日で終了してしまうのだそうだ。これに伴い、PC watch は「日本マイクロソフト、1年後の XP サポート終了に向け移行支援を強化」という記事を発表している。

移行支援の内容は、「告知強化、相談窓口の設置、購入支援」 の 3点で、その内容は以下のように報道されている。

告知については、移行情報を一元化し、特設サイトや広告などで告知を図る。個人向けに販売店店頭でも、パンフレットを配布するなどしていく。相談窓口は、専任の IT 担当者がいない中小企業向けのもので、フリーダイヤルでユーザーからの質問に答える。購入支援については、買い換えに際して最大で 15%の割引を行なう。

要するに、「いつまでも XP を使い続けていると、ヤバイよ、ヤバイよ」と告知し続けることがメインで、この度のパブリシティ強化はその一環だろう。さらに中小企業からの質問には、フリーダイヤルで答えるということのようだ。だがいくら中小企業でも、こんなことで MS に電話して聞いてみようなんて人は滅多にいないだろう。

「最大 15%の割引」の購入支援をする ということに関しては、今どき、Windows 7 や 8 を買ってきて古い XP マシンにインストールしようなんていう人はあまりいないだろうから、実質的な意味はほとんどなく、結局ハードウェア丸ごとの購入で、15%の割引はうやむやになってしまう。

私としては、この期に及んで、法人ユーザーの 40.3%(1,419万台)、個人ユーザーの 27.7%(1,170万台)が XP を使い続けていることにうんざりしている。いや、XP が嫌いというわけじゃない。個人的には、「XP が最後の Windows」ということで十分だったと思っているぐらいである。

ただ、5~6年以上(その多くは 7~8年以上という強者)も同じ XP マシンを使い続けている人で、PC リテラシーがまともな人というのは、皆無というわけじゃないが、とても少ない。個人的には XP にはどちらかといえば好意すら抱いているが、とはいえ、今でも XP を使い続けている人に接すると、とても疲れるということなのだ。

というわけで、MS が買い換えを促進してくれることは、半分だけ歓迎である。ようやく XP を卒業する人にとっては、かえって面倒くさくなるだけだろうが、こちらとしては「操作がわからないから教えてくれ」と言われ、出張して彼らのマシンを操作する時に、少なくともお古の XP マシンよりはサクサク動いてくれるだろうから、ストレスが軽減される。

ただ、新しく買い換えるのは Windows 8 マシンになるだろうから、それがうっとうしいといえばうっとうしい。あの OS ははっきり言ってできそこないだから、XP マシンにしがみついてきた人たちが、すぐに Win 8 に慣れるとは到底思われない(私だって思いっきり戸惑ってしまうのだから)。ということは、面倒がますます増幅される可能性が大きい。

というわけでこの際だから、私としては昨年 5月に "「PC 定年問題」 の根本的な意味" という記事で書いたように、今でも XP マシンで何の不便も感じていないようなライト・ユーザーには、もう PC はすっぱり諦めなさいと薦めたい。

今回の XP のサポート停止は、その絶好の機会だ。どうせ MS に見放されたのだから、それならば面倒のない iOS に乗換えればいいのである。ライトユーザーは元々、PC でないとこなせないような専門的業務なんてしたことがないのだから、iPad で十分なのだ。

ただ、「せっかく PC に慣れたのに……」(「全然慣れてないくせに、よく言うよ」 というぐらいのレベルなのだが)なんて言う人がいるので困りものではあるのだが。(参照

【同日 追記】

最近は確実に PC 離れがすすんでいるようで、Windows 8 が受け入れられていないこともその一因になっているようだ。参照 → 世界のパソコン出荷、過去最大の 14%減 1~3月期

 

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2013年4月11日

お気に入りの定番品を、ずっと買い続けられるというメリット

4年半ぐらい前に 「消費者からの不思議な電話」 という記事に、アパレル・メーカーに「お友達と同じ服が欲しいの」という電話がかかってくるということについて書いた。お友達の着ている服が気に入ったからといって、そのお友達が前年の春に買った服が、ファッション商品であればあるほど、その年の秋になって買えることは稀である。

しかし、それは消費者にとって少々不幸なことでもある。そのシーズンの流行に乗ったトレンド商品ならばしかたがないが、ベーシックなデザインの商品が、シーズンが変わったとたんに買えなくなってしまうのは残念だ。

私が普段愛用している靴は、履き続けて 10年近くになる。残念なことに 1足の同じ靴をずっと履き続けているというわけではなく、同じ品番の靴を買い換えながら履いていて、今の靴が 3足目だ。最初の靴はさすがに処分してしまったが、2足目は普段着ならぬ 「普段履き」 として今も履き続けている。

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靴の商品名は "HYDRO-TECH" というブランドのウォーキングシューズで、写真は手前が 一昨年買った 3足目、その奥のだいぶくたびれているのが、6年以上履き続けている 2足目だ。よく見るとデザインがビミョーに変わっていて、新しい方はアキレス腱に当たる部分に補強策が施されているとわかるが、基本的にはほとんど同じに見える。

この靴、歩きやすいことはもちろんだが、その奇をてらわないシンプルでベーシックなデザインがとても気に入っている。この 「シンプルでベーシック」 というのが、ありそうでなかなかないのである。形だけベーシックというのはないではないが、値段が高すぎたり安すぎたりする。安いのはディテールがいかにもヤワそうだ。

HYDRO-TECH はその名の通り、防水機能がめちゃくちゃ優れている。どんな大雨の日に歩いても、靴の内側に水が浸みてくるということがなく、靴底のギザギザの具合もいいらしくて、水に濡れた石の床を歩いてもスリップしにくい。その上、通気性もよくて足の蒸れも少ない。

で、この 10年近く、同じ品番がずっと展開されているのがありがたいと思ってきたが、3足目を購入した時に、店員さんに 「実はこの品番は、これで終わってしまうんですよ。HYDRO-TECH 自体はずっと続くんですけどね」 と言われた。というわけで、今履いている 3足目は、最後の在庫だったのである。

HYDRO-TECH 自体は存続し、コレクションの中身も結構豊富なので、4足目もこの中から選ぼうと思っているが、同じデザインのものが選べないのははなはだ残念である。

 

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2013年4月10日

Mac の購入を急がなければならないかなあ

近頃、愛用のノート PC、Panasonic の Let's note CF-S9 がほんの少しだけご機嫌斜めである。致命的な不具合が頻発というわけではないのだが、時々起動にやたら手間がかかったりするし、たまにセーフモードで立ち上がったりすることがある。

このマシンを購入したのは、平成 22年の 5月 11日と記録されている(参照)から、もうそろそろ 3年になろうとしている。その前の CF-W7 を買ったのが 平成 20年の 3月で、この時はそれまで 4年 4ヶ月も使った 一番小さなタイプの Let's note(型番は忘れた)からの買い換えだった。

私はこれまで、平均するとほぼ 3年周期で PC を買い換えている。周囲の人からは「tak さん、ずいぶん頻繁に買い換えてるんですね」などと言われるが、実際にそのくらいで壊れてしまうのだから仕方がない。

何しろヘビー・ユーザーでずっと酷使しっぱなしだから、ハードディスクがへたるのも早いのかもしれない。前回の 2年 2ヶ月目というのはやや早かったが、これは HD の容量不足で動作が不安定になってしまい、Vista という OS も気にくわなかったので、思い切って買い換えたのである。

で、今回もそろそろ 3年目に達しようとしているので、マジに買い換えを検討しなければならない時期になった。おもしろいもので、PC でも車でも、「そろそろ買い換え時期かなあ」と思い始めると、とたんにマシンの方でも機嫌の悪さが加速するような気がする。

これは別にマシン方がこちらの気分を察して機嫌を損ねてしまっているわけじゃなく、そもそも「そういう時期」ということなんだろうが、「あ、ごめんね、もう少し長く使ってあげるから、ご機嫌直してね」などと声をかけながらなだめてやると、気のせいか少しは気を取り直してくれるような気がするのも不思議だ。

とはいえ、私としては次の PC は Mac と決めているから、Windows 環境からの移行に手間がかかる分、早めにゲットしておく方がいいかなあと思っている。まったくもって物いりなことである。

 

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2013年4月 9日

LINE が便利なツールであることは確かなのだろうが

ちょっと前に、大変遅ればせながら、話題の LINE というアプリを iPhone にインストールした。インストールが完了して立ち上げてみたら、「友だち」というのが 36人も表示されたので、ちょっとびっくりした。

私の iPhone の 「連絡帳」(いわゆる住所録みたいなものね) には、本日現在 455件の連絡先が登録されている。その中の Line ユーザーが、自動的に表示されるという仕掛けのようで、つまり私の 連絡先として登録されている中で、36人とは LINE を介して無料通話できるということのようだ。

455件のうち、ほぼ 3分の 1は法人なので、登録されている個人は 300人ぐらいのものだ。そのうち 1割以上の 36人が LINE のユーザーというのは、果たして多いとみていいのか、少ないとみていいのか、ビミョーなところだろう。

私の場合、常日頃音声通話をする相手というのは、個人よりも法人(つまり事務所とかお店の電話ね)が多いので、この場合はなかなか LINE を使って無料音声通話するというわけにはいかない。

それに、私は圧倒的に音声通話よりもメールを利用する。相手がメールを使えない年配者だったりすると、しかたなく音声通話ということになるが、なにしろメールを使えない相手だから、スマホに LINE をインストールなんてことを、してくれているわけがない。だから基本的に、昔ながらの固定電話にかけることになる。どう工夫しても、無料にはならない。

私は FAX 黎明期のことを思い出す。音声通話では伝えきれない内容を、画像や文書で送るために FAX を使いたいのだが、相手が FAX を持っていない場合はどうしようもない。今となっては、オフィスや店舗で FAX がないなんてことはほとんどなくなったが、個人の家ではまだ、FAX 対応していない家がいくらでもある。

「ああ、向こうが FAX をもってくれていさえすれば、一発で送れるのになあ!」 とくやしい思いをしたことは何度もあるが、やがて FAX は時代遅れになって、メールの時代になった。しかしメールの時代になっても、「ああ、向こうがメールを受信するぐらいのことをしてくれたら、一発で送れるのになあ!」 とくやしい思いをするのは、FAX 時代と同様である。

FAX にもメールにも対応していない遠方の相手とコミュニケーションを取るには、21世紀の世の中になっても、音声通話をするか、郵便を利用するかしかないのである。「今どき、FAX もメールもできない人なんているのか?」 と言われそうだが、田舎の親戚なんて、軒並みそんなようなものである。

つまり、頻繁にメールでやりとりしているような相手とは、別にあまり音声通話なんてしないので、Line なんて必要ない。そして、音声通話がメインのコミュニケーション手段とならざるを得ない相手は、何年待っても LINE なんてものは使ってくれそうにない。

実際のところ、これまで LINE を使って無料通話をしたのは、先日、知人に 「tak さんも、そろそろ LINE を入れてくださいよ」 と言われて、「OK、わかった」 とその場でインストールし、直後にその目の前の知人と試験通話しただけである。あれから 1ヶ月以上経つが、実際の場面で LINE を使って無料通話したことは一度もない。

というわけで、LINE というのがとても便利なシステムであることは間違いのない事実なのだが、私個人に限っては、「これまで高い金を払っていた音声通話を、軒並み無料に置き換えることができて、ありがたくてたまらない」 なんてことは、まったくないのである。

 

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2013年4月 8日

学校の授業は、セレモニーのようなもの

小学校の少なくとも低学年の頃、学校の授業というのは「セレモニーのようなもの」と信じていた。教科書を読めば一瞬で理解できることを、わざわざ大勢の生徒を集め、ばかばかしいいほどの時間をかけて説明する。そして生徒の方もわからないふりをして教師に付き合う。これが「セレモニーのようなもの」でなくて、一体何だろう。

だから私は、小学校の授業というものをまじめに受けたことがない。年度が始まったばかりの頃は、退屈だから勝手に教科書の先の方を読んでいた。どんどん読み進める。とくに国語の教科書なんていうのは、最初の 2~3回の授業で最後まで読み終えてしまう。授業中に半期分(今はどうだか知らないが、昔の教科書は「上」と「下」に分かれていたので)の予習完了である。

算数だけは、教科書にある問題を一々解くのに多少の手間がかかるから、最初の 2~3時間というわけにはいかないが、まあ、4月中か 5月の半ば頃までには、教科書 1冊分の予習完了である。

授業中に予習するなんていうのも、別に勉強が好きだったからというわけではない。他にすることがないから、目の前に拡げてある教科書を先まで読み進めるほかに、退屈しのぎの方法がなかったというだけのことである。

ところが、教科書 1冊を読み終えてしまうと、それから先はもう、退屈でしょうがない。ついいたずらをしたくなる。だから私は 「授業をまじめに受けない生徒」の筆頭格として、教師にはいつも睨まれていた。ただ、授業をまじめに受けはしないが、何しろ新年度が始まってから遅くとも 1ヶ月半で教科書 1冊分の予習ができているのだから、成績は良かった。

小学校の 3年までは、テストに 100点以外の点数があると知らなかった。ただ漫然と回答していればほぼ自動的にすべて正解になり、誤回答をするには余計なボケを考えなければならない。だったら 100点取る方がずっと楽で、人間はどうしても楽な方を選ぶ。友達が 90点を取って喜んでいるのを知って、その「簡単に間違える才能」がうらやましかったりした。

小学校の高学年になって、ちょっとしたケアレスミスで 98点とかを取ることもあるようになって、自分もそうした中途半端な、しかし新鮮な深みのある点数を取ることができるのだと、新しい発見をしたような気がした。自分の守備範囲が拡がったようで、逆に嬉しかった。人間、ちょっと抜けている方が楽しいと悟った。

教師には「もったいない。ちゃんと 『見直し』 をしていれば 100点取れたのに」と言われたものだが、慎重を期してツルンとしておもしろみのない 100点なんか取るより、陰影のある 98点をあっさり取ることの方がずっとかっこいいと思っていた。それに依然として、フツーにやれば 100点取れてしまっていたので、98点の方が新鮮だったのである。

それ以来、私は完全よりも間抜けを愛する人間になってしまったのである。困ったものである。

まあいずれにしても、小学校ぐらいの授業は、「本を読むのがちょっと得意な生徒」にとっては、今も「セレモニーのようなもの」であり続けているに違いない。それだけならまだいいが、さらに今度は高校の英語の授業も、そんなようなものになってしまいそうな気がしている。

というのは、この 4月からの新学習指導要領完全実施で、高校の英語は「英語による授業」が基本となるんだそうだ。このせいで、どちらかといえば教師の方がとまどっているらしい(参照)。

で、英語がちょっとできる生徒にとっては、そしてまた英語が全然できない生徒にとっても、英語の授業はばかばかしい「セレモニー」になってしまうのだろう。ああ、どちらにとっても気の毒なことである。

ちなみに、高校の英語の授業は英語で行うことが決まった 4年前、別の視点から「英語の授業と東京タワー」という記事を書いているので、お時間があったらどうぞ。

 

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2013年4月 7日

和英辞書を引いただけで作っちゃったキャッチ・コピー

一昨日の "「腕ずく」 で仕事する美容院が日本中に溢れてるので" という記事の、ある意味では続編ともいえるお話である。

件の記事では、変てこな英語を使いたがるファッションや美容業界の人たちに関して、 「本当に、この手の人たちって、どうして一度でいいから辞書を引いてみようとしないかなあ」と嘆息した。しかし、中途半端に辞書を引いたせいで痛いことになるケースも多いというのを忘れていた。

もうかなり前、バブルの頃のお話である。私が繊維とかファッション関連の記者をバリバリでやっていた頃、あるファッション・ショーの取材をした。そのショーは複数のアパレル・メーカーの共同主催で、構成は 3つのパートに分かれていた。その 3番目のパートのテーマは、"Supple Women" (柔らかい女性)。キャリア・ウーマン向けの提案だという。

私は、どうしてキャリア・ウーマン向けの向けの提案が「柔らかい女性」なんていうテーマなんだろうと不思議に思った。"Supple" というのは、基本的に材質とか人の体とかが柔らかいことを表現する言葉である。とても柔らかくてしなやかな皮とか洋服生地を、ファッション業界では 「サプル」 なんて言ったりすることがある。

ここまで考えて、はっと思い当たった。「もしかして、これって『しなやかな女性』というつもりで言ってるんじゃあるまいか?」 

山口百恵の『しなやかに歌って』という歌がヒットしたのは、たった今ググってみたところ、1979年のことだった。それ以後、「しなやか」というのはことさらにいいイメージで使われる言葉となって、「しなやかな感性」とか「しなやかな生き方」とかいうと、その実体はよくわからないが、とりあえずファッショナブルと思われていたのである。

そのファッション・ショーの主催者に聞いてみたところ、やっぱり "Supple Women" というのは、「現代社会を生き抜くしなやかな女性に向けた、キャリア・ファッションの提案」 ということだった。私は 「ふう」 とため息をついた。

繰り返すが、"supple" というのは基本的には 「材質とか人の体とかが柔らかいことを表現する言葉」なのである。イメージとしては、「しなやかな生き方」というよりは、どちらかと言えば 「くねくねっとした感じ」に近いか、または 180度の開脚ができるとか、脚を伸ばしたまま掌がべたっと床につく女性とかいう感じなんだと思う。

比喩的な意味合いとして使う場合でも、「順応しやすい」とか「(他の要素を) たやすく受け入れやすい」とかいう、どっちかというと「芯がない」という感じで、どうも「凛としたキャリアウーマン」の「しなやかな生き方」という感覚とはちょっと違うんじゃないかと思ったものである。

これは一昨日のお話の、"「arm = 腕 」「腕 = 技術」、よって「arm = 技術 」" という誤解に通じるトホホ感だ。「arm = 腕 」は、英和辞書のお話で、「腕 = 技術」は、国語辞書のお話である。英和辞書の文脈と国語辞書の文脈を結びつけて 「arm = 技術 」とするのは、かなり乱暴なお話だ。「審美眼」とかいう場合の「目 (eye)」ならいいのだが。

「しなやかな女性」を "supple women" としたのは、まさに和英辞書を引いてみて「しなやか = supple」と確認してのことだったのだろう。なまじっか辞書を引いてのことだけに、痛さ加減はさらに増す。

悪いことは言わない。和英辞書を引いたら、英和辞書で引き直すのを習慣にしておく方がいい(本来は英英辞書の方がいいのだが、そこまでは要求しない)。 「和英辞書を引いただけで作っちゃったんだろうなあ」と思わせるキャッチ・コピーや Tシャツのロゴほど、トホホなものはない。

ただ、"arm" には 「腕ずく」的な感覚、"supple" には「芯がない」というニュアンスしか付与できないという単純筋肉思考の英語より、日本語の方がより複雑で陰影のある豊かさをもっているという気はするのである。だから基本的なことをいえば、無理に和英辞書を引いてまで慣れない横文字にしたがる必要はないんじゃないかなあ。

 

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2013年4月 6日

「2~3回クリックすれば OK」 という、ものすごく高いハードル

とくに名を秘す某社で、本当にあったこと。

その会社は本社と支店との月例会議を、支店長を本社に呼んで行っていた。ところが、「わざわざ会議のためだけに、時間と金をかけて本社に来てもらうのは、非効率。今はネット時代なのだから、インターネットを使ってテレビ会議をしようではないか」 と、2代目若社長が提案した。

ところが、支店長は先代社長時代からの番頭格で、IT にはからきしうとい。

「社長、そんなこと言っても、えらく難しそうじゃないですか」
「何言ってるんだよ、今どきこんなこともできないでどうする。うちの中学生の息子だって、友達と延々 PC でテレビ電話してるぞ」
「そんなこと言っても、若い者とは感覚が違って……」

それでも若社長は言う。

「大丈夫だよ。PC の画面に向かって、マウスを 2~3回クリックするだけでテレビ会議ができるソフトを、近々入れてあげるから」
「本当に、画面に向かって 2~3回クリックすれば、テレビ会議ができるんですか?」
「おぉ、できるとも。簡単だ」
「それなら、来月は試しにそれ、やってみましょう」

支店長はごく単純かつファンタスティックに、PC のデスクトップにあるボタンか何かを 2~3回カチカチっとくりっくすれば、テレビ会議ができる画期的なソフトを、社長が入れてくれるのだと期待した。しかし、テレビ会議の当日までに支店長用 PC にセットされていたのは、"skype " だった。

支店長はあわてて本社に電話した。

「社長、この、どこを 2~3回クリックするんですか?」
「Skype 立ち上げて、メニューから僕の名前を選択して、次に『電話と通話』ボタンをクリック」
「はあ? だって、2~3回クリックすればいいなんて、いかにも簡単そうなことをおっしゃるから……」
「だから、この 3回だけクリックすれば OK」
「そんなことを言っても、どこをどうクリックすれば……」
「だから、Skype を立ち上げて、メニューから……」
「さっぱりわかりません」

というわけで、結局は支店長が翌日に本社に出向いて会議をすることになってしまった。実際に顔を合わせた会議で、支店長は言った。

「社長、あんな難しいんじゃなくて、今度こそ、本当に 2~3回クリックするだけでテレビ会議ができる、簡単なソフトを入れてくださいよ」
「だから、あれが 2~3回クリックするだけでテレビ会議ができるソフトなんだよ」
「いやあ、私は本当に、2~3回クリックするだけでテレビ会議ができるものなんだと思ってたんですが」

若社長は絶句するしかなかった。彼の言った 「2~3回クリックすれば、すぐにテレビ会議 OK」 は、まったくその通りでウソ偽りのないところなのだが、たったそれしきのことが、ものすごく高いハードルだったようなのだ。

これが地方の中小企業の実態である。これはもう、支店長の方も代替わりするまで待つしかない。

 

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2013年4月 5日

「腕ずく」で仕事する美容院が日本中に溢れてるので

初めにお断りしておくが、エイプリル・フールはとっくに過ぎているので、これはジョークではない。ごく真面目な記事である。タイトルに惑わされないでいただきたい。

Arms

5年近く前に "「軍備」という名の美容院" という記事を書いた頃からずっと気になってしょうがないことがある。どうして日本中に "arms" という名の付いた美容院がこんなにも多いのだろう。まるで蕎麦屋の世界の「やぶ」か「更科」みたいな様相になっている。

その代表的存在は、件の記事の冒頭でも触れた "Kakimoto Arms" という超々有名店みたいなのだが、私は表参道でこの店の看板を初めて見た時、マジで 「こんなところに武器マニアの店が!」 と思ってしまったよ。上野のアメ横ならいざしらず。

いうまでもなく、"arms" とは「軍備/武器」という意味である。単数形なら「腕」という意味だが、最後に s が付くと、複数形の「両腕」という意味とは別に「軍備/武器」という意味になる。ヘミングウェイの『武器よさらば』の原題は "A Farewell to Arms" だし、「軍備制限」は "arms control"、「軍備削減」は "arms cut" という。

試しに「美容院/arms」という 2つのキーワードでググってみるといい。こんなにたくさん ヒットする。その数、なんと 7,400万件である。当然にも 1軒の美容院がいくつものウェブ・ページで取り上げられているから、まさか「なんとか arms」 という名の美容院が日本全国に 7,400万軒もあるというわけではないが、それにしても異常なまでの数である。

どうして美容院がそんな物騒な言葉を店名にしたがるのか、フツーに考えたら理解できない。ただ、「もしかしたら」ということで、5年前の記事では次の仮説をあげておいた。

ふと思い当たったのは、もしかしたら、「腕前」 という意味のつもりで使っているんじゃあるまいかということである。しかし、英語の "arm" には、テクニックとかスキルとかいう意味合いはない。

昨日、このことをたまたま思い出して、試しに 「美容院/arms/名前の由来」 という 3つのキーワードでググってみたら、名古屋市の店のページが見つかり、その冒頭にはまさに 「arm's の名前の由来」 として、次のように掲げてあった。

(前略)
その為には、技術も接客も 腕(arm)に磨きをかけなくてはならい!!
そんな想いが、サロン名=HAIR MAKE arm's に込められています!

あぁ、やっぱりそうだったか。そのものズバリ、「腕(arm)に磨きをかけなくてはならい!!」(「ならい」 は原文のまま)なんて書いてあるのだから、どうやら 5年前の「腕前仮説」は正しかったようなのである。悲しいことに。

もっともこの店は "arms" じゃなくて "arm's" になってるだけ、「軍備」という意味にはならずに済んでいるが、その代わり文字通り受け取れば、「アームさんの店」という痛いことになっている。

5年前の記事でも触れたことだが、英語の "arm" には、「技術」という高尚な意味合いはまったくなくて、強いて言うならば「権力」「支配力」という意味合いが強く、いわば「腕ずく」というニュアンスである。腕ずくで仕事する美容院というのは、一体どんなものなのか、想像もつかない。

さらにもう一つ、さいたま市には 「ame HAIR (アーム・ヘアー)」という店があって、こちらはフランス語の "ame" (「魂」という意味らしい)になっているが、この店を紹介するウェブページには次のようにある。

サロン名のアームは、英語で腕(技術)という意味もあるが、フランス語で心という意味もある。スタッフさんたちは、腕を磨くのはもちろんのこと、すべてのゲストに対し親身になり接客や施術を行うことを心がけている。

いやはや、これはすごい。「アーム」というカタカナ語を接着剤として、英語の "arm" と フランス語の "ame" というまったく別の単語を一緒にくっつけちゃった上で、元々なかった 「技術」という意味をこじつけている。

そういえば、5年前の記事にも hachi さんという方から「フランス語の『ame』(アーム=魂)を英語と勘違いして『arm』と標記したんじゃないですかね」というコメントがあったが、この件は「英語と勘違い」でないだけ、まさに「腕ずく」の用法である。

というわけで、全国の美容院に "arm" とか "arms" とかいう名前がやたら多いのは、まさにここに書かれているように「アームは、英語で腕(技術)という意味」なんていう、とんでもない誤解が根底にあってのことのようなのだ。

何度も言うが、"arm" という英単語は確かに「腕」という意味ではあるが、そこには「技術」という意味なんてないからね。「腕」という言葉に「技術」という意味まで包含するのは日本語の世界の特殊事情であって、英語の世界では "arm" と "skill" は別のお話なのだと、そこまで懇切丁寧に説明してあげないと、彼らには通じないかなあ。

例えばアメリカ人調理師の腕前を褒めたい時に、まさか "You have good arms." なんて言わないよね。でも、店名には平気で付けて、見当はずれの由来を語っちゃう。本当にこの手の人たちって、どうして一度でいいから辞書を引いてみようとしないかなあ。

まあ、固有名詞なんだから、しれっとして「なんとかアームズ」を名乗るのは勝手だし、蕎麦屋の世界みたいに、その店で修行した美容師さんが独立して「かんとかアームズ」を名乗るのもまた勝手だが、「英語で腕(技術)という意味」なんてことまでさももっともらしく語ったりすると、とたんに痛いことになってしまうのだよね。

ちなみに、洒落の意味でもう一つ。Hot Pepper Beauty という美容関係のサイトに、ヘアークリエイター 中島寛文さんという方が、その名もまさに「武器屋へ」というタイトルで次のような投稿をされている。(参照

実は美容師が使うハサミやドライヤー、ブラシやコーム、シャンプーまですべてがお客様の髪をキレイにするための武器なんです。

もちろん自分達の技術を磨くのも大事だけど道具ひとつでこんなにも違うのか!

と、驚く事もよくあります☆

いう事で立川にある武器屋に休みの日に行ってきました!

ここで中島さんのおっしゃる「武器屋」というのは、美容院向けの道具屋ということのようで、美容院そのものじゃない。その意味で道具屋さんなら洒落で "arms" を名乗ってもいいかもしれない。中島さんのお店の名は「なんとかアームズ」じゃないようで、ご同慶の至りである。

というわけで、5年近く抱き続けた疑問は、ここにようやく晴れたといっていいようだが、爽快感はまったくない。

Tシャツの胸に書かれたとんでもない英語ロゴならほとんど笑って見逃せる。しかし、"「arm = 腕 」「腕 = 技術」、よって 「arm = 技術 」" という「国民的誤解による三段論法」がここまで広まってしまっているのを認識して、「なんだかなあ」という以上のトホホ感に襲われている。

 

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2013年4月 4日

名古屋水族館のイワシとマグロのストーリーに、オチを付けたくて

emi さんが「イワシとマグロ」という記事を書いておられる。例の名古屋港水族館の黒潮水槽で、イワシの群れがだらけてしまって緊張感が薄らいだので、活を入れるために天敵のマグロを投入したというストーリーに関する論評だ。

このお話、なかなかビミョーに込み入っていて、しかもまともなオチがつかなかったために、誠に残念な結末になってしまっていて、emi さんも次のように言っている。私としてもまったく同感である。

あーあーあ。
せっかくおもしろいネタだったのに。
こんなことならニュースにしないで、数日寝かせて上手にアレンジして
完成度の高いエイプリルフール話に仕上げておけばよかったよね。
日本のメディアのセンスでは難しいか。

ことの顛末はご存じの方も多いだろうし、emi さんの記事に手際よくまとめられているので、今さら繰り返す必要もないほどだが、一応ざっとレビューしておこう。

まず、朝日新聞が 3月 26日に、"水族館イワシに迫る危機 「緊張感を」 マグロ軍団投入"という記事を報じたのが発端。実際にそれは実行に移され、28日には "悠々マイワシに緊張走る 天敵クロマグロ、ついに水槽へ" という続報まで出た。

ところがその翌々日、Slashdot に、その水族館の飼育係を名乗る人物からの投稿があり、元々、イワシもマグロも同じ水槽で飼育しているのであり、「実は連日の報道の目的の部分『イワシに喝を入れるためにマグロ投入』はマスコミの創作です」という「告発」が為されてしまった。(参照

で、一時は「またしても、朝日の捏造記事か」とネットの世界は色めき立ったのだが、水族館に対する再取材で、あの飼育係はなりすましで、水族館側ではそんな投稿はしていないと判明。さらに、朝日の記事は不正確ではあるものの「完全な創作というわけではない」なんていう、実に「どーでもいい」ことになってしまった。(参照

まったくもう、同じネタを使うのでも、もう少し上手にお料理してくれないと、読み手としては消化不良状態のまま放って置かれたような気がしてしまう。

ここで話は唐突にぶっ飛んでしまうのだが、私はこの顛末で山之内貘という詩人の『鮪に鰯』という作品を思い出していたのだった。「鮪の刺身を/食いたくなったと/人間みたいなことを/女房が言った」で始まる詩である。

先頃死んだ高田渡が曲を付けて歌っているので、ご存じの方も多いだろう。YouTube でも聞けるので、この際だからえいやっとばかりにエンベッドしておこう。(詩は こちら で読める)

詩人は 「亭主も女房も互に鮪なのであって/地球の上はみんな鮪なのだ」と言っている。「ビキニの灰をかぶって」 核汚染されているとはいえ、マグロであるというのである。貧乏詩人であってもアル中のシンガーであっても、みんなマグロであると思っていられたのだね、あの頃は。

そして今、あの頃に比べてかくも豊かになったというのに、もはや我々は自分がマグロだなんて決して思えない時代に生きている。それどころか、突然外からマグロを投入されてちょっとびっくりこいているイワシであったりするのである。「だらけていて、何が悪い?」なんて、シニカルにうそぶきながら、群れに付かず離れず泳ぐイワシ。

「ビキニの灰をかぶっている」なんていうのは、あの震災以後の現状を振り返るに、あまりにできすぎで気持ち悪いほどなのだが、名古屋の水族館と朝日に代わって、少しはオチをつけてあげられたかな? 大分回りくどくて、無理矢理なオチではあるけれど。

 

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2013年4月 3日

今年の桜はかなりしつこい

昨日あたりからウチのブログへのアクセスが急に増えたなと思ったら、"「花散らし」の艶っぽい元々の意味" という記事への、Google 経由のアクセスが目立っているのだった。試しに「花散らし/意味」でググると、私のこの記事がトップにランクされている(参照)。

昨夜来の猛烈な春嵐で、お天気キャスターが口を揃えて「花散らしの雨になるかもしれません」などとコメントしているので、中には「花散らし」という言葉に興味を覚えてググッてみたくなる人が多いのかもしれない。

何しろ「花散らし」という言葉は、件の記事で述べたように、広辞苑に「3月 3日を花見とし、翌日若い男女が集会して飲食すること」という語義が載っているぐらいで、後は iPhone にインストールしている『大辞林』や、紙の辞書で持っている『明鏡国語辞典』を引いても、『花散らし」という見出語が見当たらないのである。

それで、近頃では「花散らしの雨」とか「花散らしの風」とかいう使われ方をしているが、元々の意味はかなり艶っぽいお話のようだと指摘したのが、前述の私の記事である。これを書いた当時は、この指摘はほとんど見当たらなかったのだが、最近ではずいぶんあちこちのブログに散見されるようになった。でも、一番早かったのは私なんだからね。

で、お天気キャスターたちが言っていた今回の「花散らしの雨」だが、少なくともつくば周辺では、心配されたほどの「花散らし」とはならなかった。関東全域であちこちの電車が遅れたり止まったりしたほどの春嵐(「しゅんらん」と読む)だったが、この辺りの桜は驚くほどのしつこさを発揮して、まだまだしっかりと咲き誇っているのである。

つくば周辺で桜が満開になったのは、先月の 26日のことだ。それは私の 「和歌ログ」 にしっかりと証拠写真入りで載っている(参照)。あれからもう 1週間以上経つのだから、昨夜のような強烈な嵐が吹き荒れたら、いつもの年だったらひとたまりもなく散ってしまっていたはずなのだ。

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ところが、今年の桜は尋常ではない。初夏のような陽気に誘われて急いで開花したはいいが、それ以後のウソみたいな冷え込みのせいで、なかなか散ろうとしない。あのままの暖かさだったら、先月末の土日までもたないんじゃないかと心配したのだが、満開状態のままでいつまでもねばっているのである。こんな桜、初めて見た。

これじゃあ、桜らしさが足りないと言われるんじゃないかと、心配になるほどである。本当に、そろそろ盛大な桜吹雪になってくれないと、桜のありがたみが消滅してしまいそうな気がする今日この頃なのである。

まあ、明日はかなり暖かくなって、週末はまた大荒れになるようだから、その頃には散ってしまうだろうが、いずれにしても今年の桜はかなりしつこい。

 

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2013年4月 2日

もっともらしいエイプリル・フール・ジョーク

折しもエイプリル・フール・ジョークで賑わう昨日、Slashdot に 「夏の参院選からのネット選挙、Twitter は解禁されるがリツイートは禁止」 という記事が載って、ちょっとびっくりした。こんなような話である。

改正案では全国会議員、公設秘書、および政党に対して選挙管理委員会が認定する Twitter アカウントが設定され、そのアカウントにおいて選挙期間中の活動を可能にするが、【拡散希望】が横行する Twitter においては資金力とリテラシーの格差によって選挙活動の成果に著しい差が生じかねないことから公式リツイートが全面禁止されるという。

というわけで、一瞬「選挙期間中のみ使用する選管認定のアカウントなんて、なんちゅうアホらしいことを!」と思い、さらに「怪しげな非公式リツィートが増えるばっかりじゃん!」と腹まで立ってきたが、すぐに「ちょっと待てよ」と思い直した。

「これって、エイプリル・フール・ジョークなんじゃないか?」と気付いたのである。確証はないが、きっとそうに違いない。そうとしか思えない。いくらなんでもアホらし過ぎる。それにしても、一見もっともらしいネタを、よくぞ思いついたものだなあ。

そういう意味では、私の "『猫踏んじゃった』の原曲は、『犬食っちゃった』という韓国民謡だった" というネタも、一部ではジョークなのかどうか疑心暗鬼を生んだようで、似たようなものだったかもしれず、どうか立腹されないように。

エイプリル・フール・ジョークにも 2種類あって、もろにホラとわかる罪のないものと、一見もっともらしくて、「もしかして、ネタ? それとも、本当?」と戸惑ってしまうようなものとに分かれる。

私のブログでは 8年前の 2005年からエイプリル・フール・ジョークを恒例ネタにし始めた。最初のネタ「日米政府間の密約を暴く」というのは、ビミョーにホラ系だったが、翌年の「サラ金 CM のサブリミナル効果」あたりから、意識して「もっともらしい系」にシフトした。

ただ、2007年の 「地方空港とハエ取りリボン」などでは、あまりにも本気でだまされてしまう人が多かったので、その翌年の 2008年はちょっとブレてしまって、他愛もないものに軌道修正しかけたのである(参照)。しかしそれでは、やはり自分としては納得がいかず、それ以後は 「もっともらしいネタこそ、我がスタイル」と正念決めて、今日に至っている。

近頃、日本でも凝りまくったエイプリル・フール・ジョークが市民権を得てきて、だまされた人がマジに抗議してくるなんてことも減ったようで、なかなかいい傾向である。いずれにしても凝ったネタを考えるのは、かなり頭の体操になって、リフレッシュできる。

私としても還暦を超してしまったので、ボケ防止のためにもエイプリル・フール・ジョークは来年も続けたいと思う。よろしくお付き合い頂きたい。

 

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2013年4月 1日

『猫踏んじゃった』 の原曲は、『犬食っちゃった』 という韓国民謡だった

もう 10年前になるのだが、私のホームサイトに "『猫踏んじゃった』 のミステリー  音楽界の裏街道を行く超大物" という記事を書いたことがある。『猫踏んじゃった』という世界的にもよく知られた曲が、実は作曲者すら不明で、どこから発してどう伝わったのか、まったく不明だということを論じたものだ。

この記事は、当時としてはちょっとした反響を呼んで、各地の民間伝承やフォークソングの研究者から、「私もこれについて研究しているが、あまりにも情報が少なくて不明な点が多い」というようなメールを何通かいただいた。そして、もしこの曲に関する新情報が発見されたら、それを共有していこうということになっていたのである。

しかしそんなことを言っても、新情報なんてほとんど見つからず、私としては「この曲は永遠のミステリーになるんだろうなあ」と思っていた。ところがつい一昨日のこと、横浜市にお住まいの 宇津木さんという方から、「『猫踏んじゃった』 の原曲は、韓国民謡かもしれない」 という有力な情報が飛び込んできた。

宇津木さんの祖父は昔、師範学校の音楽教師として、日本が朝鮮半島を支配していた頃、南部の京畿道に赴任しておられた。元々各地の民謡の収集に興味があった宇津木さんの祖父は、京畿道に伝わる朝鮮民謡のいくつかを採譜して残しており。熊本在住の直系の子孫が 10年以上前に遺品を整理していて、その楽譜の束を見つけた。

そして高校の音楽教師だった宇津木さんに、「こういうのは、あんたが持っている方がいいだろう」と、熊本の本家からどさっと送りつけられたのである。宇津木さんは 10年間それを放りっぱなしにしていたが、定年を迎えた昨年、ぼちぼち整理を始めたところ、韓国民謡の楽譜の中に、『猫踏んじゃった』のメロディを彷彿させる曲があることを発見したのである。

この事実に注目した宇津木さんは、先月韓国を旅行した際、京畿道の軍港都市、平沢市を訪れ、楽譜通りに演奏した録音を聞かせて、「この曲を知っているか?」と、手当たり次第に聞いてみた。すると何人かが「ずっと昔、祖父母が歌っていたのは、多分この曲だ」と答えた。

採譜された楽譜にはカタカナの歌詞しかついておらず、意味がわからなかったが、土地の人に聞くと、「仕事しすぎて疲れたけど、赤犬を食ったおかげで元気になった」というような歌詞なのだそうだ。それで宇津木さんは、「なんと『猫踏んじゃった』は、元々は『犬食っちゃった』だったんですよ!」と、興奮して知らせてきたのである。

さらに、土地の音楽好きの老人からほぼ決定的とも思われる証言を得た。朝鮮戦争時代、韓国南部・平沢の軍港に駐留していたアメリカ人兵士の中にジャズ好きが大勢いて、その中のピアノの上手なのが、ジャズ酒場にあったピアノで、覚えたばかりの韓国民謡をジャズ風に即興演奏していたというのである。

その酒場で働く韓国人は、「へえ、我々の民謡が、こんなに洋風の音楽になってしまうのか」と、驚いて聞いていたという。彼の演奏の中でも、ラグタイム風にアレンジされた『犬食っちゃった』は大好評で、しかも演奏がとても簡単なために、真似して弾く者が続出したらしい。

この事実を知った宇津木さんは、「韓国の民謡がジャズ好きのアメリカ人兵士によってアレンジされ、それが各地の米軍基地を経由して広まった」という仮説を立てられたのである。大いにありそうな話で、もう少し詳細な検証が進めば、アカデミズムの世界でもきちんとオーソライズされそうだ。

それにしても、何でもかんでも自国起源と主張したがる韓国がこれをシカトしてきたというのは、『犬食っちゃった』はよっぽどマイナーな民謡だったのだろうか? それとも、さすがにちょっと言い出しにくかったんだろうか?

【4月 2日 付記】

えぇと、いつもの 4月 1日のナニですから、真に受けないでいただくように、どうぞよろしくお願い致します。

 

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