学校の授業は、セレモニーのようなもの
小学校の少なくとも低学年の頃、学校の授業というのは「セレモニーのようなもの」と信じていた。教科書を読めば一瞬で理解できることを、わざわざ大勢の生徒を集め、ばかばかしいいほどの時間をかけて説明する。そして生徒の方もわからないふりをして教師に付き合う。これが「セレモニーのようなもの」でなくて、一体何だろう。
だから私は、小学校の授業というものをまじめに受けたことがない。年度が始まったばかりの頃は、退屈だから勝手に教科書の先の方を読んでいた。どんどん読み進める。とくに国語の教科書なんていうのは、最初の 2~3回の授業で最後まで読み終えてしまう。授業中に半期分(今はどうだか知らないが、昔の教科書は「上」と「下」に分かれていたので)の予習完了である。
算数だけは、教科書にある問題を一々解くのに多少の手間がかかるから、最初の 2~3時間というわけにはいかないが、まあ、4月中か 5月の半ば頃までには、教科書 1冊分の予習完了である。
授業中に予習するなんていうのも、別に勉強が好きだったからというわけではない。他にすることがないから、目の前に拡げてある教科書を先まで読み進めるほかに、退屈しのぎの方法がなかったというだけのことである。
ところが、教科書 1冊を読み終えてしまうと、それから先はもう、退屈でしょうがない。ついいたずらをしたくなる。だから私は 「授業をまじめに受けない生徒」の筆頭格として、教師にはいつも睨まれていた。ただ、授業をまじめに受けはしないが、何しろ新年度が始まってから遅くとも 1ヶ月半で教科書 1冊分の予習ができているのだから、成績は良かった。
小学校の 3年までは、テストに 100点以外の点数があると知らなかった。ただ漫然と回答していればほぼ自動的にすべて正解になり、誤回答をするには余計なボケを考えなければならない。だったら 100点取る方がずっと楽で、人間はどうしても楽な方を選ぶ。友達が 90点を取って喜んでいるのを知って、その「簡単に間違える才能」がうらやましかったりした。
小学校の高学年になって、ちょっとしたケアレスミスで 98点とかを取ることもあるようになって、自分もそうした中途半端な、しかし新鮮な深みのある点数を取ることができるのだと、新しい発見をしたような気がした。自分の守備範囲が拡がったようで、逆に嬉しかった。人間、ちょっと抜けている方が楽しいと悟った。
教師には「もったいない。ちゃんと 『見直し』 をしていれば 100点取れたのに」と言われたものだが、慎重を期してツルンとしておもしろみのない 100点なんか取るより、陰影のある 98点をあっさり取ることの方がずっとかっこいいと思っていた。それに依然として、フツーにやれば 100点取れてしまっていたので、98点の方が新鮮だったのである。
それ以来、私は完全よりも間抜けを愛する人間になってしまったのである。困ったものである。
まあいずれにしても、小学校ぐらいの授業は、「本を読むのがちょっと得意な生徒」にとっては、今も「セレモニーのようなもの」であり続けているに違いない。それだけならまだいいが、さらに今度は高校の英語の授業も、そんなようなものになってしまいそうな気がしている。
というのは、この 4月からの新学習指導要領完全実施で、高校の英語は「英語による授業」が基本となるんだそうだ。このせいで、どちらかといえば教師の方がとまどっているらしい(参照)。
で、英語がちょっとできる生徒にとっては、そしてまた英語が全然できない生徒にとっても、英語の授業はばかばかしい「セレモニー」になってしまうのだろう。ああ、どちらにとっても気の毒なことである。
ちなみに、高校の英語の授業は英語で行うことが決まった 4年前、別の視点から「英語の授業と東京タワー」という記事を書いているので、お時間があったらどうぞ。
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