「世界」 と 「社会」
かなり前から、というのは、漢字を習った小学生の頃から、「世界」の「界」と「社会」の「会」は、どうして別の漢字が使われているのだろうと疑問だった。私はどうも、こうしたどうでもいいことを不思議に思ってしまうところがある。
で、ずっと「世界」は「世の中の界隈」のことで、かなり雑ぱくなものであり、それに対して「社会」というのは「あたかも会合を開いて決めたような、契約みたいなものに縛られるもの」なんだろうと、ぼんやりとしたイメージを構築してきた。とはいえ、それは勝手に抱いたイメージだから、この際、きちんと調べてみようと思ったのである。
Goo 辞書 (『大辞林』) で 「世界」 を引くと、次のようなことになる。
地球上のすべての地域・国家。 「―はひとつ」 「―をまたにかける」
自分が認識している人間社会の全体。人の生活する環境。世間。世の中。「新しい―を開く」 「住む―が違う」
職業・専門分野、また、世代などの、同類の集まり。「医者の―」 「子供の―」
ある特定の活動範囲・領域。「学問の―」 「芸能の―」 「勝負の―」
歌舞伎・浄瑠璃で、戯曲の背景となる特定の時代・人物群の類型。義経記・太平記など、民衆に親しみのある歴史的事件が世界とされた。
自分が自由にできる、ある特定の範囲。「自分の―に閉じこもる」
《(梵)lokadhātuの訳。「世」は過去・現在・未来の3世、「界」は東西南北上下をさす》仏語。
㋐須弥山(しゅみせん)を中心とした 4州の称。これを単位に三千大千世界を数える。
㋑一人の仏陀の治める国土。
㋒宇宙のこと。このあたり。あたり一帯。「―暗がりて」〈竹取〉
地方。他郷。「―にものし給ふとも、忘れで消息し給へ」〈大和・六四〉
遊里などの遊興の場。「京町に何かお―が、おできなすったさうでござりますね」〈洒・通言総籬〉
「世界」 という言葉が、現代的な「地球上のすべての地域・国家」という第一義的意味を持つようになる以前の、最も古くからの用法は、上述の 7番目の仏教用語から来ていると思われる。梵語が漢訳された時に、過去・現在・未来の3世を指す「世」と、東西南北上下を指す「界」の二文字による熟語となったのだ。
となると、元々の「世界」というのは、空間的のみならず、時間的広がりをももつ言葉だったようなのである。ふぅむ、なるほど。「世界」というのは、そんなような深い意味合いをもっているのだね。それで、『大辞林』にあるように、派生的に多様な意味になっているのだ。
一方、「社会」 は、次のようになっている。
《明治初期、福地源一郎による society の訳語》
人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営みをいう。「―に奉仕する」 「―参加」 「―生活」 「国際―」 「縦―」
人々が生活している、現実の世の中。世間。「―に重きをなす」 「―に適応する」 「―に出る」
ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また、仲間意識をもって、みずからを他と区別する人々の集まり。「学者の―」 「海外の日本人―」 「上流―」
共同で生活する同種の動物の集まりを1になぞらえていう語。「ライオンの―」
「社会科」の略。
こちらは成り立ちからして新しい造語で、"society" の訳語だから、深みはないが、案外論理的に割り切れる。
一方、漢和辞典 (三省堂・刊、『携帯新漢和中辞典』)で 「界」 と 「会」 を調べると、次のようなことである。
「界」 : 「堺」 「境」 と同義で土地の仕切を指す。
「会」 : 上の 3画分 (「集」 の本字) と 「增」 の省略形の合字。集まる意。
なるほど、「世界」 は元々は時空がらみのことで、「社会」 は人の集まりであるわけだ。私の抱いてきたイメージは、当たらずといえども遠からずといったところのようである。
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