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2013年5月に作成された投稿

2013年5月31日

「ネット選挙解禁」 なんていうけど

この夏の参院選からネット選挙が「解禁」されることになった。しかし約 1ヶ月半前に書いた「ネット選挙は、まだ「全面解禁」なんかじゃない」でも触れたように、まだ問題が残されていて、「解禁」の名に値するようなものじゃないようだ。

なにしろ、有権者が特定候補者への投票を呼びかけるメールを出しちゃいかんというのである。これって、「草の根」的というか、「勝手連」的というか、要するにそんなような形の投票呼びかけができないってことだ。

ふ~ん。とはいえ、「○○さんに投票して」というメールはいけないけど、「僕は○○さんに投票するよ」とか「○○さんは信頼できる人だよ」とかいう文面ならいいというから、まあ、「ザル」といえばその通りなのだが。

これまでの選挙の時、某政党からの候補者への投票を依頼する電話が、某学会員の知人からかかってきたことはないだろうか。投票依頼の電話をすることはできるのに、メールで依頼することはダメということの理由が、私にはわからない。

迷惑さ加減でいったら、電話されることの方がずっと迷惑だ。メールなら、読みたくなければさくっと削除すればいいのだが、一応友人とか知人とかからの電話だと、一方的に切るわけにもいかない。

余談だが、こうした電話がかかってきたら、本当でもウソでも 「期日前投票したから」 と言えば、すぐに向こうから電話を切ってくれる。向こうとしても、新たな票に結びつかない者に余計な時間をかけている暇はないようで、「本当に期日前投票したの?」 なんて問いつめてくることはない。そんなことをしたら、友達失うことになるだろうから。

話を元に戻す。メール活用にまつわるいろいろの問題が一部で指摘されているが、アホらしいほどの「なりすまし」や「中傷」などにころっとだまされるような人は、そもそもメールなんかあまり使わない。ネットなんてしなくても投票率の高いじいさんばあさんは、元々地縁血縁でギリギリと縛られているから、「ネット選挙解禁」なんて、全然関係ない。

問題は、投票率の低い若年層をいかに投票所に向かわせるかということのはずで、そのためには有権者参加による地道な選挙運動、投票呼びかけが功を奏するはずなのだが、そんなことをすると、これまで地縁血縁で当選してきた従来型政治家にとっては「脅威」になってしまう。

だからこんな妙な「ネット選挙解禁」になってしまうのだろう。

 

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2013年5月30日

史上 3番目に早い梅雨入り

関東甲信地方が、昨日梅雨入りしたらしい。過去 3番目に早い梅雨入りだそうだ。ちなみに、一番早かったのは、1963年の 5月 6日頃で、2番目は一昨年の 5月 27日頃。1963年はべらぼうな早さである。

一昨年の梅雨入りが 5月 27日頃だったということについては、この日に「ずいぶん早めの梅雨入り発表の意味」というタイトルで、次のように書いている。

気象庁が早めの梅雨入りを発表した裏には、もう一つの事情があると思う。それは 3月の震災以後にずっと余震が続いてきたために、東日本の各地で地盤がゆるんでしまい、ちょっとした雨で土砂崩れが心配される状態になっているためだろう。早めに梅雨入りを発表したことには、そうしたリスクをそれとなく意識させるという意味がある。

というわけで、私はこの年の早目の梅雨入り宣言を「グッドジョブ」と褒め称えている。ところが、今年は別に震災の影響というわけでもなかろうに、さっさと梅雨入り宣言された。これって、やっぱり地球温暖化の影響で、夏に向かうのが早くなっているんだろうか。

私が思うに、温暖化の影響もあるのだろうが、もう一つ、気象庁の「思い切りの良さ」のためもあるのではないかと思う。それが、上記の引用で「もう一つの事情」と書いた際の、「一つめの事情」である。

それまでは、気象庁が梅雨入り宣言した途端に、翌日当りから早くも「梅雨の中休み」状態となるということが続いていた。それは私のもう一つのブログ「和歌ログ」の過去ログを見てもらえばわかる。

梅雨入り宣言の翌日から見事なまでの上天気が続いてしまうという、気象庁にとっては不幸な現象が、少なくとも平成 17年から一昨年まで 5年間連続していた。まったく気の毒な限りである。それは気象庁の梅雨入り宣言を行う姿勢が慎重すぎたせいだと、私は思っている。

ぐずぐずした天気が続いて、「よっしゃ、この辺りで間違いなかろう」というわけで、満を持して梅雨入り宣言してしまうと、天気の周期的変化で、翌日から皮肉なまでの上天気が続いてしまっていたのである。とくに最近は地球温暖化のせいか、天気が極端から極端に振れるから、晴れるといったら、それはもう、見事なまでの日本晴れになってしまうのだ。

それで彼らとしても考えを改め、雨が続きそうな天気の初っぱなのうちに、さっさと梅雨入り宣言してしまおうと思ったのではあるまいか。そうすれば、少なくとも翌日からカラカラの晴れの日が続くなんて不名誉な事態は避けられる。

というわけで、多分、昨日からのぐずぐずした天気が一巡すれば、来週末あたりには、お約束の「梅雨の中休み」になるんじゃないか。梅雨の間、ずっと雨が降りっぱなしなんてことはあり得ないのだから、梅雨入りが早かったからといって、そんなに陰々滅々とすることはない。

 

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2013年5月29日

橋下発言と、マグダラのマリアのお話

今月 18日に "橋下さんの「トンデモ発言」について、二重三重に危惧する" という記事の中で、私は 「橋下さん、それほど滅茶苦茶なことは言ってないじゃないか」と、もしかしたら「トンデモ」と思われかねないことを書いた。ある意味、炎上覚悟だったが、今のところは炎上どころか、この記事には 1つのコメントもついていない。

この問題に関して、橋下さんは 「米軍の風俗活用推奨」は、さすがに勇み足も過ぎた発言と気付いたようでわびを入れているが、「慰安婦問題」に関しては、一貫して自分の主張を貫こうとしている。これは煎じ詰めたら、「日本だけじゃねぇんだ、お前らも自分の胸に手を当ててよく反省してみろ」ということだ。

私はこの間のゴタゴタは、「既に結論ありき」同士の、文脈を無視したせめぎ合いでしかなかったと思っている。図式的には、かなり馬鹿馬鹿しいレベルの低い話だ。

橋下さんは、慰安婦問題に関しては「マスコミの誤報」と怒っている。彼の気持ちとしては、「常々僕が主張していることをきちんと理解していれば、『慰安婦は今も必要』なんて言ってるわけじゃないことぐらい、わかって当然だろう」ということなんだろうが、私に言わせれば、「例えわかっていても、そうは書かないのがマスコミ」なのである。

大手マスコミ側には彼らなりの「既に用意された結論」というのがあって、すべての発言は、彼らの結論(というのが言い過ぎなら、「価値観」と言い換えてもいい)に沿って「翻訳」される。だから今回の発言も、彼が依って立つ「前提としての、よく知られていないわけでもない文脈」なんてすっ飛ばして、その部分だけトリミングして報道された。

マスコミというのは、そういうものなのだ。橋下さんが、「前の戦時下では、善悪は別として(慰安婦的な機能が 必要視されていた」というのと同じぐらい、善悪は別として、そういうものなのだ。

だから、私としては 「橋下さん、それほど滅茶苦茶なことは言ってないじゃないか」とは思っても、これはやっぱり、橋下さんの大チョンボなのである。よっぽど周到な手順を踏んで言うのでなければ、それは世間では通りにくいということを理解していなかっただけ、政党の代表としては失格である。人の世は、それほどクールじゃない。

彼の気の合う者同士(つまり「前提」を共有しているもの同士)では当たり前に通じる話でも、そうした文脈を受け入れないマスコミにかかれば、容易に「トンデモ発言」になってしまうのだ。私としては「そんなことぐらい、それこそ当然の前提としてわかっとけよ!」と、橋下さんには言いたいのである。

だから、私は一貫して橋下徹という政治家を支持することはない。こんなのを支持したら、アブナくてしょうがない。私はれっきとした改憲論者(参照)なのに、政治家の中で支持すべき改憲論者が見当たらないのは、悲しい限りである。

ただ、「慰安婦」を "sex slave" なんて「超訳」してまで彼を非難するのは、ヒステリックに過ぎる態度だと思うほかない。私なんぞはつい、マグダラのマリアの話を思い出してしまう。

「汝等のうち、罪なき者、即ちかつて姦淫の罪を犯せしことなき者は、先づ石にて彼女を撃つべし」と、イエスは言ったのだよね。橋下さんの件は、ここまで深いものとは言わないけれど。

 

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2013年5月28日

漱石文学って、もっと読まれてもいいと思うのだが

今をときめく村上春樹は、夏目漱石が好きで川端康成が苦手なんだそうだ(参照)。私は村上春樹は 『ノルウェイの森』 でお腹一杯になってしまって、それ以降の作品は読んでいないが、夏目漱石が好きというのは、なるほどわかるような気がする。

中学生の頃、漱石に夢中になった。あまり親しみすぎたもので、『坊ちゃん』 を読むぐらいは日本人の常識で、少なくとも 3人に 2人は読んでいるものと信じていた。『吾輩は猫である』はちょっと長いけれど、初めの方ぐらいなら誰でも読んでいるものと思っていた。

ところが高校に入った頃に気付いたのだが、『坊ちゃん』を読んでいるのは、クラスの半分もいないみたいなのである。『猫』に至っては、1割もいない。私の通った高校は一応「進学校」と言われていたから、日本全体でみたら、『坊ちゃん』を読んだ者はおそらく 10人に 1人もいないんじゃないかと気付いた。

ましてや、『猫』は 50人に 1人もいないだろうし、私の大好きな『三四郎』なんて、100人に 1人もいないだろう。道理で「トチメンボー」とか「菜めしは田楽と一緒に食うもんだ」とか「ストレイシープ」とか関連のジョークを言っても、全然受けなかったわけだ。

固いものを食って歯が欠けたという人に、「シイタケでも欠けるというぐらいだからね」と応じると、「まさか」とマジで否定され、それどころか、tak-shonai はいい加減なことばかり言う男と思われる。

いやしかし、『猫』に登場する水島寒月君は、シイタケで歯が欠けたのだよ。だから「そんな話もあったね」ぐらいに軽く受けてもらえばいいのだが、それが通じない。もっとも、水島寒月のモデルといわれる寺田寅彦は、実際にシイタケで歯が欠けたという説もあるので、こちらもマジで応じてもいいのだが、それもどうも無粋だ。

歌舞伎や古典落語をベースにしたジョークはなかなか通じにくい世の中になったにしても、漱石の小説に乗っかったジョークぐらいは国民的に通じてもらいたいものだが、それもなかなか叶わない。シェイクスピアの長台詞でジョークになる英国が、本気でうらやましい。

 

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2013年5月27日

「メガソーラーに暗雲」なんだそうだが

IT media ニュースが「メガソーラー暗雲 売電申請の 7割、門前払いも」と報じている。建設計画が集中する北海道で、北海道電力の送電網に接続できる容量に限界があるため、売電申請が受け入れられない可能性があるというのである。

これに対して、「高めの買い取り価格の設定で売電申請の殺到を招いた制度上の問題を指摘する声もある」とのコメントも記されているが、電力会社が「コンペチター」の作った電力を高い金で買い取りたくないので、技術的な問題を隠れ蓑にして、拒否しているとみることもできる。

私自身は何度か書いているように(参照 1参照 2)、メガソーラーはちょっとした「邪道」で、太陽光発電の本来の姿は、「自分のところで消費する電力は、できるだけ自分のところで作る」という、分散型発電だと思っている。せっかく発電を分散できるのに、メガソーラーなんか作って集中型にしてしまったら、またぞろややこしい利権が発生する。

というわけで、メガソーラーもあってもいいが、基本は各家庭の屋根や事業所の屋上などに設置する小型の太陽光発電パネルが、津々浦々に普及することが大切なのだと思っている。

私は何も、太陽光発電だけで電力需要を賄えと言っているのではなく、日本各地に分散した多数の太陽光発電設備で需要多くの部分を賄えば、電力会社が原発をもつ必要はなくなるだろうと言っているのである。太陽光発電は不安定で使い物にならないという人もいるが、それは技術的には蓄電技術で解決済みのことだ。

 

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2013年5月26日

酒をぐびぐび飲めなくなったので

やれやれ。昨日は高校時代の同級会で、三次会まで付き合ってお酒を飲んだら、疲労感が今日まで残っている。そんなに酔っぱらうほど飲んだという気はしていないのだが、適度に酔っただけで、すっきりするまでエラく時間がかかるようになった。

前にもこのブログで書いたことだが、私は近頃、お酒の量がめっきり減っている。前はほとんど毎日飲んでいたのに、最近は週に 3日も飲んでいない。飲んでいないので、すぐに酔っぱらうようになり、ますます酒量が減った。この循環は、いい循環なのだか悪い循環なのだか、自分でも判断できない。

そんな状態で三次会まで付き合ったのだから、近頃の私としては 「かなり飲んだ」 ということになる。ただ 「かなり」 と言っても日本酒換算で 5合も飲んでいないと思うのだが、それでもやっぱり疲労感が残る。

ということは、今後はかなり気合いを入れて飲むとしても、日本酒換算で 3合ぐらいを目安としておけばいいだろうか。えらく安上がりな酒飲みになってしまいそうである。

量を飲めないなら、質で行くしかない。今後はおいしい酒を選んで飲むことに徹してみようかと思う。

 

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2013年5月25日

「株大暴落」 を巡る冒険

一昨日の株式市場が「大暴落」とやらで大騒ぎするのを、私は「ふぅん」と他人事のようにながめていた。

私は株をやらないし、やる気もないから、株が上がっただの下がっただのいう話にはほとんど興味がない。「いくら興味がなくても、日本経済はそれによって変動し、自分の生活も大きく影響を受ける」と言われても、「あぁ、そうですか。でも、死ぬわけじゃなし」と答えるしかない。

すると、「いや、経済変動のために死ぬ人だって出る。他人事のように超然としているのは、カッコいいかもしれないが、無責任だ」と責められる。私は「カッコいい」とか「超然」とかいうのでのほほんとしているわけではなく、ただ本当に「興味をもてない」というだけなのだが。

「じゃあ、文学は人間存在の深いところに関わるもので、それで死ぬ人もいるのだから、あんたももう少し文学に首を突っ込め」と言ってみたくなる。彼はきっと、「文学なんて興味がない」と言うだろう。同じことなのだよ。

人はどうせ死ぬものなのだから、経済苦で死ぬ人の分だけはお前も責任持てと言われるても困る。そりゃあ、究極的にはまったく責任ないわけじゃないが、ああじゃ、こうじゃと議論することで「責任を取れる」というわけでもあるまい。私は同じ責任をとるなら、経済以外の入り口から入って責任をとりたい。

今回の株暴落で、「アベノミクスという物語の終わり」と書いているのは、例の喧嘩好きの池田信夫氏である。

彼は朝日新聞のコラムの「アベノミクスの本質は、人々をその気にさせようという心理学だ」という指摘を肯定した上で、「アベノミクスなるものは経済政策としてはほとんど中身がない」と批判し、「相場は宗教と同じで、中身が嘘でもみんなが信じれば上がるし、みんなが信じなくなれば終わる」と切り捨てている。

ただ彼は自分で「相場は宗教と同じで、中身が嘘でもみんなが信じれば上がるし、みんなが信じなくなれば終わる」と認めているのだから、その論理で言えば、人々をその気にさせさえすれば結果オーライのはずで、だったら、経済政策に「中身」を求めてもしょうがあるまいと突っ込まれそうな気がする。

一方、J Cast News の "株価急落で「アベノミクスの危うさ露呈」 朝日、毎日、民主は騒ぎ立てるが…" という記事は、上武大の田中秀臣教授のブログや、エコノミストの飯田泰之明治大准教授のテレビでの発言を紹介し、今回の株急落はアベノミクスとは無関係で、「調整局面」に過ぎないとしている。

とまあ、経済というのはこのようにいろいろな見方があるもので、どっちが正しいか議論してもあまり意味がないように思える。大抵のことは 「結果が雄弁に物語る」 ということでケリがつくのだが、この分野は一筋縄ではいかない。上述のように「その結果は○○とは無関係」と言い張ることだってできる。こうなったら噛み合うものも噛み合わない。

本当のところは、アベノミクスが今回の株暴落に無関係なんていうことはあり得ないお話で、とはいいながら、「これでアベノミクスは終わり」というほどのことでもあるまい。いろいろとぐろをまきながら、こけつまろびつ進んでいくはずだ。経済に限らず、人間社会のすべての事象はそんなものである。

還暦を超えると、オイルショックや滅茶苦茶な円高のたびに「これで日本経済は壊滅」とか「日本崩壊」とか言われた割には、そうした局面を通り過ぎると、別に壊滅も崩壊もしていなかったという経験を、何度もしてきている。

今回もまた、こけつまろびつ進んでいく他にはないので、いつものように「他人事のように」見守るしかない。だって、自分のありようが経済にまったく影響されないというわけではないが、自分の本質とは別のところで動いているという点において、結局のところは「他人事」に違いないのだもの。

「他人事」と思わず、当事者になりすぎると、それこそ死んでしまわないとも限らない。

 

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2013年5月24日

クラウドサービスのアイコン・デザインを巡る冒険

私は iPhone と iPad のユーザーだから、iCloud は当然のように使っている。というか、写真の同期に使われる「フォトストリーム」という機能も含め、クラウドを意識しなくても、裏で勝手に動いてくれている。

Wifi 環境下に入った途端に私の iPhone と iPad はさりげなく同期されてしまうし、ハードをアップグレードしても、連絡先などのデータがいつの間にか入っている、「クラウドなんて忘れていてもいいですよ」ってな感じのサービスだ。それだけに、ギンギンにカスタマイズして思い通りに使い倒すというような用途は想定されていないようなのだ。

それだけに、「使い倒す」つもりで使うならば、他のクラウド・サービスが必要になる。私は Dropbox と Sugarsync を重宝に使いわけている。Dropbox は業務用ファイル、Sugarsync はプライベート・ファイルの置き場だ。最近は Evernote もそろそろ本格的に使い始めようかなと思っている。

これまでも Evernote は使ってはいたのだが、「iPhone のちょっとしたメモの集積」 以上の使い方はしていなかった。例えば、出張時の案件、ホテル、乗換案内などの情報を保存しておく。出張中はそれをいつでも見られるというだけで、それ以上に踏み込んだ使い方はしていない。それだけに、PC ではウェブ上でアクセスするだけだった。

ところが、まともに使うとかなり便利と知人からも薦められ、自分でも 「確かに便利かも」 と思い始めたので、ついに PC にも Evernote クライアントをインストールし、きちんと使い始めようとしているところである。

ところで、今日の話はそんなことではなく、「どうして Evernote のアイコンは象で、Sugarsync のアイコンはハチドリなのか」ということだ。Dropbox の方は文字通りの 「ハコ」 のアイコン (ちょっと市松模様が入ってるが) だからわかりやすいが、この 2つは不思議だ。

ちなみに Skydrive は Microsoft らしく、何のひねりもない 「雲」 そのものである。同じ雲でも、iCloud の感覚とは雲泥の差がある。

象さんとハチドリについては、前々から不思議に思っていながらつい調べないまま、ずっと心の片隅に引っかかっていたのである。いつまでも引っかけておくのもナンなので、さきほどちょっとググってみたら、簡単にわかった。

まず、Evernote の象さん。これは、"Elephants never forget." (象は決して忘れない)という西洋の諺に基づいているらしい(参照)。何でもかんでも放り込んでおけば、後で簡単に検索できるという Evernote のコンセプトにふさわしい。

さらにEvernote のアイコンをよく見ると、象の耳の端っこが紙のように折れ曲がっていて、それが顔から鼻に続く回線を通って、どこかにシューッと送られるというようなイメージになっている。なるほど、その意味ではよくできたアイコンだ。

次は Sugarsync。これは 2010年 12月の、Sugarsync が日本進出する際の記者会見の記事に出ていた。同社 CEO の Laura Yecies さんが、社名の由来に関する質問に、次のように答えている。

「Sync」はもちろん同期、シンクロナイズで、これが我々のコアテクノロジーです。ではなぜ「Sugar」かと言うと、甘いとか、プレゼントとか、喜びであるとか、そういったいいイメージでの Sugar と Sync を組み合わせました。また、ロゴにはハミングバード(ハチドリ)をあしらっていますが、これはハチドリが甘いものが好きだという点と、とても動きが速いことからロゴに使っています。

なるほどね。疑問が晴れた。

ちなみに Google Drive のアイコンは、トライアングルで何となくわかるような気もするが、それにしても、Google の各種サービスのアイコンは、あんまりスマートな統一性がなくて、もろにバラバラだ (参照)。デザインを軽く考えてるみたいなのは、まあ、なんというか、これも社風なんだろうなあ。

 

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2013年5月23日

「乙武炎上」 を巡る冒険

先週末からいろいろ多忙で、水戸だ、長岡だ、仙台だと飛び回っていたものだから、乙武洋匡さんが Twitter で炎上した「事件」に関しては、全然知らなかった。火曜の夜に帰宅してぐっすり眠り、水曜の午前中に「はてぶ」をチェックしていて初めて知った。そういえば乙武さんの「車」が 100kg あるなんて話が出ていたが、何のことだろうと思っていた。

いずれにしても、申し訳ないが私は乙武さんにあまり関心がないので、個別ケースとしての今回の彼の騒動についても、あまり関心をもてない。だから、「浮気としか思えない」とかいう指摘についても、笑うしかない。

個別ケースとしては関心がないが、一般論としては、「どうしてその時、道行く人にヘルプを頼まなかったんだろうか?」と思った。もし私がそこに通りかかっていたら、軽い気持ちで 2階の店まで抱っこしてあげただろうと思う。乙武さんみたいな有名人を抱っこしてあげたら、その後 3ヶ月ぐらいは、話のタネに困らないだろうし。(有名人じゃなかったら放っとくという意味ではないので、なにぶんよろしく)

そんなことを漠然と思っていたら、日経ビジネスに慎泰俊さんという人が、"「乙武炎上」にみる、日本人の不寛容さの理由 余裕と「マイノリティ経験」が人を寛容にする" という寄稿をされているのを見つけた。

慎さんはこの記事の中で次のように述べておられる。

最近ロンドンによく行くのだが、同じような出来事がロンドンであっても、こんな騒ぎはそもそも起こらなかっただろう。 

車椅子の人が周囲の人に助けを求めて、周りの人が当然のように「いいよ」と言って階段の上まで車椅子の人をお店にまで連れていく。帰りは帰りで、お店の人が「どなたか、彼を下に降ろしてくれませんかー」とお客さんたちに声がけして、2、3人がすぐに「喜んで」とボランティアを買って出て、車椅子の人を下に運び出す。

うん、これって当たり前のことだと思っていたのだが、そうか、日本では当たり前じゃなかったのか。これに限らず、この国では私は時々「ちょっと常識に欠ける人」と思われているんじゃないかと、心配になる時がある。「私の当たり前」って、「日本の当たり前」じゃないことが結構あるのだ。

そうか、「私の当たり前」は「日本の当たり前」じゃないから、そのおかげで、慎さんのおっしゃる "「マイノリティ経験」 が人を寛容にする" という僥倖に浴しているわけか。そうだとしたら何と、ありがたき幸せではないか。

そういえば前に Twitter で、「ベビーカーを乗せる時は、周囲に迷惑がかからないように……」 という電車内のアナウンスに、「それは逆だろう、周囲が気を使うべきだろう」とツッコミを入れている tweet を発見して、「そりゃ、そうだよね」と共感したことがあった。

ところが「日本のフツーの感覚」では、ベビーカーを押して電車に乗り込むこと自体が「迷惑」と思われていることがあるらしく、「ベビーカー利用マナー論争」(参照)なんてものまであったらしい。ふぅん、そんなこと知らなかったよ。

ただ、いくら「非常識」な私でも、自分自身は朝夕のラッシュ時に自分の子供をベビーカーに乗せて電車に乗り込もうとは、決して思わなかった。それは「遠慮」というよりも、単純に「自衛」の問題だ。あんな混みあったところに、赤ん坊を引っ張り込むなんて「危険」である。小さな子供連れで移動するなら、私は他の時間を選ぶ。

それでも、ラッシュ時にベビーカーで乗り込んでくる親がいたら、そりゃ、仕方がない。私は体を張ってでも、そのベビーカーを守るだろう。親の「自衛意識」が薄いとしたら、それならばなおさら周囲が気を使わなければならない。とりあえず赤ちゃんは、守られなければならないのだから。

今日の話は要するに、「みんな、もうちょっとのほほんと生きようよ」ってなことになるのだ。なんだ、簡単な結論じゃないか。

 

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2013年5月22日

「護憲」 と 「反原発」

こんなことを言うと反発をくらってしまうかもしれなが、「護憲」と「反原発」を同じ人が唱えると、私は少々違和感を覚えてしまう。

まず、原発問題から。

日本列島にこれだけ多くの原発建設が可能だったのは、政府と電力会社が「安全神話」を広めたからである。地元の反対を抑えるために、「原発は絶対安全」というプロパガンダを行った。想定されるリスクとそれぞれに対する対処方法を具体的に示して納得させたわけではなく、「そもそも事故は起きない」という論理で進めてきたのである。

「絶対安全」という根拠の薄弱な建前が一人歩きしたために、実際の運用までそれに沿ってユルユルになり、それが今回の福島の「人災」につながった。もし「原発は危険」という前提であたっていれば、もっとマシな安全対策がとられていたはずである。

で、今度は「護憲」。とくに「第九条」についてだ。

今月 14日に書いた  "「戦争がなくならないのは、「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる」から" ということともつながるが、「平和」 というのは決して「当たり前」の状態ではない。歴史を振り返っても、いつもどこかで紛争があったし、今もある。だから「平和、平和」と唱えてさえいれば平和でいられるというわけではない。

憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれている。しかし「諸国民」は確かに総論では平和を愛するかもしれないが、いつも「各論の都合」で戦争、あるいは少なくも紛争を繰り返してきたのである。

原発の安全が「神話」だったと同じぐらい、世界の平和も「神話」なのだ。これだけ国際紛争が絶えない現実が、それを証明している。だから「諸国民の公正と信義に信頼」するだけで戦争が回避できるなどとは、私は考えない。少なくとも「各論」のレベルで実効性のある抑止力をもたなければならない。

というわけで、「反原発」と「護憲」を現実に運用しようとしたら、根本的な部分で必ず矛盾が生じると思ってしまうのである。

 

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2013年5月21日

仙台まで日帰り往復ドライブ

今日は 5時起きして、車で仙台までの道のりを日帰り往復した。天気はそこそこの晴れ。暑くもなく寒くもなく、最高のコンディション。道路の混雑も最小限で、ストレスはほとんどなし。スムーズに行ってこれた。

ところが、それでもやっぱり疲れる。還暦過ぎると、若い頃みたいに「もう 1往復できるぞ!」なんていう余裕はない。へとへとというほどではないが、「これ以上は無理」という感じである。

というわけで、今日はこれにて失礼。

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2013年5月20日

「ガラケーに似たスマホ」 という宿業

NHK が 「ガラケーに似たスマホ 各社が相次ぎ投入」という驚くべき(?)ニュースを伝えている。冒頭部分を引用しておく。

スマートフォンより従来の携帯電話のほうが通話やメールなどは使いやすいという声も根強いことから、携帯電話各社は従来の端末と同じような操作で通話できるスマートフォンを相次いで投入しています。

これについて、Slashdot は「そこまでやるならガラケーでいいじゃん、という気がするのだが、残念ながらガラケーのように薄くてコンパクトで反応のよいボタンを備えたスマートフォンを発売する気はないようだ」とコメントしている (参照)。

私がそれまでのガラケーから iPhone に乗り換えたのは、平成 21年の 8月だから、使い始めてまだ 4年足らずだ。その前から iPhone ユーザーだった友人に使い心地を尋ねると、「単に通話するだけだったら、フツーのケータイの方が使いやすい」と言っていた。そして実際に使い始めての印象も、まさにその通りだった。

ただ、「従来の携帯電話のほうが通話やメールなどは使いやすい」という声には首をかしげる。メールは iPhone の方がずっとずっとずっと使いやすい。iPhone 以前、ケータイでのメールは私の場合、家族とのショートメールぐらいに限られていたが、テンキーを使ってほんの数十字のメールを打つだけでも、神経衰弱になりそうだった。

それが iPhone に変えてからはフリック入力で、不自由なくビジネス・メールだって打てるようになったのだから、まさに様変わりである。「ガラケーの方がメールしやすい」なんて、個人的にはまったく信じられない。

「通話もメールもガラケーの方が楽」というタイプの人は、これはもう、スマホなんか持たない方がいいだろうと思う。どんなに「使いやすいスマホ」なんて提供したところで、どうせ「通話とメール以外は使わない」のだから無駄なことだ。

こうしたタイプの人にとっては「メールができる」というだけでものすごく画期的なことで、それ以上の、インターネットのウェブページに自由にアクセスするなんていうのは、「途方もないこと」ことなのだ。そんなこと、できなくとも別段不便でもなんでもない。

「できる」ことによる「ある種のプレッシャーを伴う便利さ」よりも、「できない」からこその「呑気な居心地良さ」の方が魅力的と感じる人もいるのである。インターネットというのは不思議なもので、使い慣れると手放せないが、一度もやったことのない人にしてみれば、「面倒なことには巻き込まれたくないなあ」と、のほほんと思っていられる。

ところが世の中というのは困ったもので、メーカーはどんどんスマホにシフトしていて、ガラケーの供給は少なくなってしまっている。そして、必要でもない人たちにさえ、「スマホの時代ですよ」と押しつける。

通話とちょっとしたメール以外の用途なんて想像も付かないというような人たちが、スマホなんて持ってもしょうがない。「使いにくいのよねぇ」とこぼすだけの結果となる。

問題は、こうしたタイプの人たち(ざっと言って 50代半ば以上の IT 関連に疎い層)が、あと 20年は生き延びるだろうということだ。メーカーとしては、これから 20年間もガラケーを豊富なラインナップのまま提供し続ける気はないみたいで、何とかしてスマホに一本化したいようなのである。

IT というのはとても便利なものだが、まるで「宿業」のように「余計なお世話」を押しつけたがるという習性がある。

 

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2013年5月19日

使わないキー

Web R25 の "PCキーボード 「使わないキー」 は?" という記事が目にとまった。アイリサーチという会社が、全国の 25~34歳の男女 300人 (男女各 150人) を対象に 「PCのキーボードのなかで使ったことがないキー」 について行ったネット調査の結果が報告されている。結果は以下の通り。

1位 Pause/Break (144票)
2位 F3 (136票)
3位 F6 (130票)
3位 F12 (130票)
5位 Insert (121票)

5位の Insert キーは、上書きモードと挿入モードの切り替えに使われるとは知っているが、今どきは挿入モードがデフォルトなので、そんな切り替えなんて、私も長年したことがない。

同数で 3位の F12 と F6 は、使用するソフトによっていろいろな機能をもつようだが、私は結構使っている。ウェブページ作成に使っている Dream Weaver では、F12 をパンチすると、IE での表示が確認できたりする。

2位の F3 はデスクトップの状態で押すと、ファイル検索ができる。それから私の使っている Let's Note では、プロジェクターにつないだ時の画面切り替えが、F3 に割り当てられているので、結構よく使う。

さて、Pause/Break キーだが、これは私もほとんど使わない。「Windowsの起動画面を一時停止させる」働きがあるらしく、そう言えば、大昔の Windows 3.1 の時代に、何だか必要があって使ったような気がする。あれって、元々は MS-DOS だから、まだこのキーに用事があったんだなあ。

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ちなみに私の使っている Let's Note では、写真のように 「Pause/Break」 というキーがない。2つに分かれている。自分の使っているキーボードが変則だったとは、いやはやこれはもう、長年使っていても全然気付かなかったなあ。

 

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2013年5月18日

橋下さんの 「トンデモ発言」 について、二重三重に危惧する

一昨年の秋に「橋下不支持宣言」という記事を書いていることでおわかりのように、私は橋下徹氏を支持しない。支持しないが、今回の「従軍慰安婦」に関する発言の問題では、条件反射的に噛みつく気になれなかった。どんな文脈で語られたのかを見極める必要があると思ったのである。

で、どんな文脈かがうかがわれる記事が見つかった。SYNODOS の "橋下徹大阪市長 「米軍の風俗業活用を」はいかなる文脈で発言されたのか (2013年5月13日) 大阪市長・橋下徹氏ぶらさがり取材全文文字起こし" というものである。

この記事を読んだ私の率直な感想は、「橋下さん、それほど滅茶苦茶なことは言ってないじゃないか」というものである。ところどころ勇み足的な部分がないではないが、世間でヒステリックに非難されているような発言はしていない。ただ、一部を切り取って副詞を省くと、広く報道されているような「トンデモ発言」になる。

マスコミというのは、ちょっと込み入った回りくどい発言をテキトーにトリミングして「トンデモ発言」に加工することがよくある。順々に諭していかなければならないような話を「ぶら下がり取材」みたいな条件下ですると、大抵 「トンデモ発言」にされてしまうのだ。

橋下さんはそれをして「大誤報された」とかなりご立腹(参照)のようだが、マスコミというのはそういうものなのだと知らなかったわけはないのだから、そんな条件下でのデリケートな発言は控えるべきだった。

ただ、マスコミに加工された「トンデモ発言」は、ヒステリックに糾弾されるばかりでは決してなく、そのまま「橋下さん、よくぞ言ってくれた!」と歓迎する層もある。一杯飲み屋や銭湯、サウナ風呂でのオヤジ談義など、マスコミには登場しない「あまりお行儀の良くない論壇」では、どちらかと言えばそんな感じの「歓迎発言」の方が声高に語られている。

橋下さんのいちびり発言と、それが加工された「トンデモ発言」に関して、よく検証もしないでヒステリックに糾弾する論調が「まとも」と受け取られる「世間の表の顔」と、それとは対照的に、大歓迎して喜ぶオヤジたちの「世間の裏の顔」。私はこうした状況を、二重三重の意味で危惧するものである。

 

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2013年5月17日

最近は Zip に圧縮しなくなったなあ

ASCII.jp の 「えっ???メールに Zip ファイルを添付しちゃダメなの?」 という記事のタイトルを見ただけで、「うん、確かに最近は、ウザがられるだけかもね」 と思った。私も近頃は、複数のファイルを添付する時でも、そのまま圧縮せずに送っている。

ASCII の記事では、Zip が嫌がられる理由はスマホでの受信が増えたことと、ウェブメールの普及を挙げている。しかし私が近頃圧縮をあまりしなくなった理由は、ちょっと別のところにある。

それは、最近は光ファイバーが一般的になって、別に圧縮なんかしなくてもさくっと受発信できるからだ。

昔、せいぜい ISDN なんていう規格が「高速」なんて言われていた頃は、ちょっとしたファイルの送受信でも結構手間がかかったので、ファイルを圧縮して送ったりしていた。なにしろ、フロッピー・ディスク 1枚分(1.4 MB ぐらい)のファイルを送るのに、30分ぐらいかかっていた時代である。

ところが最近では、そのくらいのファイルサイズだったら、あっという間に送れるようになった。だから圧縮の必要はあまり感じないのである。要するに、速度の問題だ。

それから、もう一つ理由がある。それは、Zip ファイルを受け取ってもうろたえるだけという人が増えたことだ。昔の PC ユーザーは平均的にスキルが高かったから、Zip だけでなく LHA とか、いろいろな形式の圧縮ファイルを平気で解凍していたが、とくに Windows XP 以後、素人がどっと PC ユーザーになってしまったので、この常識が効かなくなった。

下手に Zip ファイルなんか添付しようものなら、「添付ファイルが開けません」と電話がかかってくる。この手合いに「右クリックして解凍してください」なんて言ってもダメだ。結局のところ、圧縮しないで再送付することになる。だったら初めから Zip なんて使わない方が手っ取り早い。

というわけで最近は、ファイルサイズがそれほど大きいわけでもないのに、複数だからというだけで Zip に圧縮して送ってこられると、「こいつ、オールドタイマーだな」なんて思ってしまう。単に常識とか礼儀だとか思ってそうしてくれる人には、大変申し訳ないのだが。

 

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2013年5月16日

木の中に森を見るために、とりあえず書き始めてみる

はてぶ を眺めていて、「え、ブログは書けないから書くんじゃないの?」 というタイトルの記事に目がとまったので行ってみた。行った先は「ハチナナ・ハチハチ」 という、'87、'88年生まれの複数のライターが運営しているブログだった。

で、この記事は大見謝将伍さんというライターの書いたもので、ネタなんかどこにでも転がっているんだから、とにかく何かについて書き始めてみればいいんだと、次のように主張されている。

ですから...誰の為でなく自分の為に書いてみるのです。頭の中の情報が混沌状況にあってモヤモヤしているとなんだか気持ち悪いですよね。モヤモヤをスッキリに変えるべく、ブログは手段として使えるはずです。

これ、割と言えてる。とにかく書き始めてみると、頭の中で臨月にさしかかっていたようなコンセプトが、するりとご出産あそばしたりするのだ。ちなみに「コンセプト(concept) 」の基になった動詞 "conceive" には「妊娠する」という意味がある。元々の意味は「内にもつ」というようなところだ。

せっかくはらんじゃったんだから、流産させてしまうのはもったいないから、きちんと安産しておきたいのは人情である。頭の中の考えを安産させるためには、「とにかく書き始める」というのがかなり効果的だ。こうして毎日毎日ネタ切れもせずにブログを更新している私が言うのだから、信じてもらっていい。

今月 9日の「玄人さん、ご苦労様」という記事の末尾にも書いたことだが、私の思考スタイルって、そんな感じである。「まず木を見て、その木の中に森を見る」のだ。とりあえず手近なことからスタートしてみる。ただ、木の中に森を見るには、かなりじっくり木を見なければならない。

 

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2013年5月15日

イナゴの佃煮

国連食糧農業機関(FAO)が昆虫食を推奨する報告書を発表したんだそうだ。虫を食うなんていうと、ゲテモノ食いの領域と思われそうだが、世界には昆虫を常食としている地域がかなり広がっており、そこに住むのべ人口は 20億人に達するのだそうだ。

かくいう私も、イナゴの佃煮が好物である。子供の頃は本当に、ごく普通の食べ物だった。東京に来てそれを言ったところ、職場の女子が大いに引いてしまい、人格攻撃の領域にまで広がりかかったことがあるが、私の感覚では、それこそ大いに失礼な態度というものである。

私からすると、虫が食えないくせに、どうしてエビやカニは食えるのだろうと思う。シュリンプなんて、気分はほとんど虫だし、カニなんてチョー大型の虫だ。それに、エビを生で食えるくせに佃煮にしたイナゴが食えないなんて、どうにも理解できない。

今後、地球温暖化によって食料問題が取りざたされる時が来る。必ず来る。そうなると牛や豚なんていうのは、生産効率からしたら問題ありすぎだから、食肉業界は遠からず衰退するだろう。そうなったら、動物性タンパク質は魚と虫で摂るのが一番いい。

とはいえ、食べ物の好き嫌いは理屈ではなく、それこそ「宿業」みたいなものだから、「昆虫食が世界を救う」といくら力説しても、食えないという人は死んでも食えないだろう。まことにもって因果なことである。

そういえば近頃、イナゴの佃煮を口にしていない。聞けば今では「珍味」の部類なのだそうだ。世の中、変われば変わるものである。

 

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2013年5月14日

戦争がなくならないのは、「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる」から

昨日も書いたように、私はれっきとした改憲論者である。とくに現憲法の「前文」と第九条は変えなければならないと思っている。前文を変えなければならない理由は昨日の記事に書いてあり、第九条に関しては 6年ちょっと前の、「戦争と平和」という記事に書いてある。

ほとんどの人は戦争を憎み、平和を愛するのに、有史以来戦争がなくならない。その理由を端的に述べるには、たった 20文字で十分である。6年ちょっと前の記事は、それを書いたものだ。

それは「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる」からだ。以下、6年ちょっと前の記事からの、補足的引用である。(このことを最初に書いたのは 10年以上も前の記事だが)

総論は抽象的だが、各論は具体的だ。世の中というのは、せっぱ詰まってしまうと、抽象論は具体論に敵わないのである。腹が減ってしまう抽象論は、満腹にさせてくれる(という幻想を与える)具体論の前では、無力だ。

「美しい総論」は、「せこい各論」によって常に裏切られる。で、日本国憲法の前文と第九条は、「美しい総論」でありすぎるが故に、切羽詰まった時の「せこい各論」に耐えられない。

現に、それほどまでに切羽詰まったわけでもない現状でさえ、国民の多くが「自衛隊がなければあぶなくてしょうがない」と思っているから、普通に憲法を読めば違憲としか解釈できない軍隊が、日本国には存在している。

戦争に突入する理由はいつも「せこい各論」なのだから、そのリスクへの対応というのも、常に「せこい」ものにならざるを得ない。平和というのは、「美しい総論」を唱えているだけで守れるほど甘いものではないのである。戦争を回避するための「せこい対応」の担保として、軍事力はやはり必要なのだ。

悲しいことに、この世は「美しい総論」が問題なく通じるほど上品な国ばかりではないのだから。

 

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2013年5月13日

「米国に押しつけられた」では、憲法改正の理由にならないんじゃないかなあ

この記事のタイトルが一人歩きしてしまったら、おそらく「tak-shonai は護憲論者」と思われてしまうかもしれないが、どうかそのように思わないで頂きたい。私はれっきとした改憲論者である。

今、おそらく戦後初めて「改憲」がまともな可能性として俎上にのぼっている。しかし私は、現在の「改憲論議」にはちょっとした違和感を覚えている。憲法第九条は改正されなければならないと思っている改憲論者の私なのに、どうにも違和感なのである。

ただこれは、最近になって急に言い始めたことではない。6年半前に書いた "「憲法九条を世界遺産に」に、つい共感" という記事で私は次のように書いている。

私は "「何が何でも護憲」 の論理に首をかしげる" というコラムを書いているように、今の憲法にはかなり疑問を抱いている。しかし、多くの改憲論者が主張するように、「現憲法は米国に押しつけられたものだから」 という論理にも、同じくらい首をかしげる。

押しつけられたものだから悪いというのは、単に感情論である。いいものならありがたく頂戴し、悪いものなら放り出してしまえばいいというのが、私の基本的なスタンスだ。

上記引用中にも出てきた "「何が何でも護憲」 の論理に首をかしげる" というコラムは 11年も前に書いたもので、日本国憲法前文の 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という箇所を突いている。

仮にも一国の国民の「安全と生存」という重要なファクターを、「諸国民の公正と信義に信頼」するぐらいのことで守れるというなら、誰も安全保障問題で苦労せんわということだ。その程度のことではどうにもならないので、有史以来いろいろな面倒な問題が起きているのである。

それに、なんだか責任を押しつけられたような形の「諸国民」(つまり「世界中の国々の人々」という意味だろうが)にしても、日本国民の 「安全と生存」を守るために「信頼」するなんて言われても、困ってしまうだろう。「信頼するのは勝手だけど、責任は取らないからね」と、皮肉の一つも言いたくもなるではないか。

しかし話を「憲法改正」という具体的なアジェンダに戻して言えば、「押しつけられたもの」だから、「ボクちゃん、そんなのやだもん! みたいな話で対処してはならないだろう。ここは冷静に、「憲法の中身が、今の世界情勢に適合しないものになっているから」ということで取り組まなければならない

ところが世の改憲論者の多くは、「米国に押しつけられたものだからダメ」と、感情論で大見得を切っているのである。そんなことを言うから、(現実には確かに「押しつけた」側の) 米国だって、ついむかついて過剰反応し、パク・クネの論調に乗っかったりしてしまうのである。感情論は感情論で反発されるというのが、世の常だ。

そんなことだから私は、「憲法九条を世界遺産に」なんていう、太田光と中沢新一の暴論に、つい共感しそうになったりするのである。れっきとした改憲論者のくせに、まったく困ったものである。

 

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2013年5月12日

20歳を「はたち」というわけ

昨日、TBS ラジオの土曜ワイドを聞いていたら、永六輔さんが 「はたち(二十歳)」という言葉の語源を語っていた。神社や相撲力士の幟旗は、縦に 15、横に 5つ、合計 20の旗竿に通す輪(乳) が付いているので、「旗乳(はたち)」になったというのである。

なんとなくもっともらしいが、私は聞いた瞬間に「そりゃ俗説にもほどがある」と思った。尊敬する永六輔さんではあるが、たまにこういうことをおっしゃる。前にも「ミスター・ボージャングルの正体」という記事でも触れたようなことがあったし。

で、念のために調べてみると、「語源由来時点」の「はたち」の項に、次のようにある(参照)。

「はた」 は 「20」 を意味し、「ち」 は助数詞。
「はた」 に助数詞を加えた例として、「二十年(はたとせ)」 「二十巻 (はたまき)」 「二十人 (はたとり)」 などがある。
助数詞の 「ち」 は、「ひとつ」 「ふたつ」 の 「つ」 と同じく 「個」 を意味する。

この項目の説明の中で、「旗乳」を語源とするというのは俗説で、「強引すぎるとしか言いようがない」とされている。「強引すぎる」ということには、私も賛成である。こんなので妙に納得しちゃう人がいたら、ちょっと困ってしまう。

「はた」が「20」を意味するというのは、上記の例の他にも「十重二十重」を「とえはたえ」と読むことからもわかる。何も旗竿を通す輪の数なんか持ち出さなくても、単純に考えればいいのだ。

ただ、どうして 「20」 が 「はた」 なのかについては、依然としてわからないままに残るのが痛恨だ。

 

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2013年5月11日

玄人さん、ご苦労様

東北生まれの私にとっては、九州弁はかなり同じように聞こえる。 もっとも九州でも、福岡から熊本にかけての西側と、大分、宮崎という東側は、ちょっと違った流れのようだと思えるぐらいの聞き分けはできる。ただ大きく言って、西側、東側、そしてかなり究極的な鹿児島弁という、三種類にしか聞こえない。

 

そんなことを言うと、九州地元の人からは「何を言うとる。こんなに違うとろんもん!」(こんな感じでいいのかな、こなれない言い方でゴメン)と反発をもらいそうだということも自覚している。ただ、九州人にしてみれば、東北弁だってほとんど同じに聞こえるのではないかと思う。「やたらと濁点の多い訛り」ぐらいの印象かもしれない。

 

ところが私にしてみれば、十把一絡げに言われる東北弁だって、日本海側と太平洋側ではかなり違うし、同じ県内でも海岸線と内陸ではずいぶん違う。とくに自分の生まれた山形県なんて、海岸に近い庄内と内陸では、別の国というほど言葉が違う。ところが、中部以西の日本人には、その微妙な違いがなかなか明確に認識されないようだ。

微妙な違いが大きな違いに思われるのは、それが身体化されるまでに馴染んでいるからだ。だから言葉に限らずいろいろな分野で、玄人は素人にはどうでもいいと感じられるような微妙な細部にこだわる。というより、素人には玄人のこだわる細部がわからない。それがわかるようになったら、いっぱしの「通」とか「目利き」とかになれる。

言い方を変えれば、玄人というのは素人でいる限りはそんなことで苦労しなくてもいいようなところで、わざわざ好んでこだわって、苦労している人のことである。なかなか因果なものだが、玄人が突っ走ってくれないと、文化の底上げもできない。

言ってみれば、人は皆、それぞれの「こだわり分野」をもっていて、そこで一見どうでもいいような苦労をしてくれているから、その周囲が恩恵にあずかれるのだ。「玄人さん、ご苦労様」である。ありがたいことである。

「九州弁が同じに聞こえる」という話から、ずいぶん飛躍してしまったが、私の思考スタイルって、大体こんな感じである。「まず木を見て、その木の中に森を見る」のだ。

 

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2013年5月10日

NASA が Windows から Linux に乗り換える気持ちはよくわかる

Slashdot が、「NASA が ISS のコンピューターを Windows から Linux へ移行している」と伝えている(参照)。ISS というのは、International Space Station(国際宇宙ステーション)のこと。国際宇宙ステーションの中で使われる PC は、従来は Windows だったようなのだが、さすがに Windows 8 には愛想が尽きたのだろうか。

聞くところによると、宇宙飛行士というのは宇宙滞在の間、いろいろなスケジュールに追いまくられて結構忙しいのだそうだ。ただでさえ忙しいのに、慣れ親しんだはずの Windows の操作感覚が一変して、急に初心者レベルに叩き落とされたような感覚にとらわれてしまう Windows 8 を使わされるのは、とてもじゃないがかなわんと思ったんじゃなかろうか。

「宇宙空間に出てまで Microsoft の酔狂に付き合わされちゃたまらん」というのは、ごく自然な考え方だと思う。私は Mac に乗り換えようと思っているが、NASA は Linux への移行を決めたんだろう。

Mac と Linex の違いはあるが、本当に本当に気持ちはよくわかるのである。今日は無茶苦茶忙しいので、これにて失礼。

 

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2013年5月 9日

「えきねっと」 というもの

10年近く前から JR 東日本の「えきねっと」というものに加入していたのだが、観光やツァー情報のメールマガジンを受け取るばかりで、ほとんど利用していなかった。しょっちゅう常磐線で都心に行く生活だった頃は、新幹線や特急の切符なんて駅の自動販売機でさっと買えるので、ちっとも不自由していなかったのである。

しかし近頃は、以前のように毎日 JR の駅を利用する生活でもなくなったので、「えきねっとで、切符のネット予約ができたら便利だなあ」と思い始めていたのである。ところがあんまり利用していなかったものだから、ログインする際に使用する ID とパスワードすら忘れてしまっていた。

そもそも会員登録の申し込みをする時にも、ほんの軽い気持ちでやったので、私としたことが、メモすることも忘れていたようなのである。そのためログインができず、ということは、読みもしないメルマガを 10年近くも虚しく受け取るばかりで、脱退申し込みすらできなかったのである。

ところが今日、「もしかして、これかな?」と、試しに心当たりの ID らしきものとパスワードを入力してみたら、拍子抜けするほどさくっと一発でログインできてしまった。やってみるものである。

ネット上の説明を読んでみると、切符をネット予約するたびにポイントが加算されるらしい。ちなみに私は 10年近くも幽霊会員だったために、手持ちのポイントはゼロだ。もったいない。そんなことなら、出張の際の切符は、駅で買う前にちゃんとネット予約しておくんだった。そうしていたら、結構な額の商品券と交換できていたのに。

私としては、ツァーやホテル込みの出張(ホテルの予約は楽天トラベルの方が便利そう)の申し込みなんかはあまりせずに済みそうだが、単なる切符予約には使えそうなのである。というわけで、これからはどんどん利用してみようと思う。

 

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2013年5月 8日

脳波が停止しても残る意識

Wired の "「脳波停止の後」に残る意識:蘇生医療の最前線から" という記事をとても興味深く読んだ。「脳波が平坦になったあとでも、数時間は意識が存続する」 と見られる現象が報告されているというのである。

蘇生医療の進展により、心臓の鼓動が止まり脳波が平坦になった状態、つまり「死」と認定される状態から生き返った患者が、脳波が平坦な状態だった時の記憶を正確に語ることが少なくないのだそうだ。

医学の常識で言えば、脳波が平坦になったということは、脳の活動が停止していたはずなのに、それでも患者はその間の周囲の物事を見たり聞いたりし、さらにそれを記憶していたというのだ。

ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校付属病院の医師で、蘇生法プログラムの主任を務めるサム・バーニア氏は、「死は瞬間ではなく、プロセス」とし、さらに、「脳内の電気化学的なプロセスが意識につながっている」という従来の考え方は、もう正確ではないのかもしれないと指摘する。

そしてさらに、「脳の中には、われわれが発見していない、意識を説明する何かがあるのかもしれません。あるいは、意識は脳とは別個の存在なのかもしれません」と語っている。奇異に感じられるかもしれないが、脳波が平坦になってからも明確な「意識」が存続するというのだから、「意識は脳とは別個の存在」と考える方が自然というものである。

Wired のインタビュアーはバーニア氏の言葉を「意識の超自然的な説明に近い」と言っているが、私にとっては上述のように、「より自然な考え方」に思われ、それどころか、とても魅力的に感じられる。

それはもはや、医学と精神世界と宗教のクロスオーバーする世界なのではなかろうか。

 

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2013年5月 7日

iPad ユーザーは、ビル・ゲイツがいうようなフラストレーションを感じていないがなあ

Slashdot がビル・ゲイツの 「iPad ユーザーはドキュメントの作成もできないし、また Office が入っていないため不満を抱いている」というコメントを伝え、「実際に、iPad 上では PC のようにドキュメントを作成できないことに不満を抱えている人はどれほどいるのだろうか」と疑問を投げかけている。(参照

TUAW まで辿ってみると、ビル・ゲイツの元々のコメントは、"iPad users are frustrated because they 'can't type, can't create documents'" (iPad ユーザーはタイピングも文書作成もできないことに不満を抱えている)といったようなことのようだ(参照)。うぅん、ビル・ゲイツもかなり頭が固くなっているのかなあ。

私は iPhone と iPad のユーザーだが、タイピングも文書作成もできないということでフラストレーションを感じたりはしない。むしろ、講演会とか会議の会場、または電車内などでちょこちょこっとメモを取ったりしなければならない時など、おもむろにノート PC を取り出して開くより手軽にできるので、とても重宝している。

確かに iPad では、「PC のように」はドキュメント作成ができない。しかしそれがデメリットというわけでは決してない。「PC のようにではない」気軽なスタイルでのドキュメント作成にならば、むしろ向いているのだ。

もっといえば、iPad ユーザーのニーズはドキュメント作成というよりは、「閲覧」と「短文作成」の方に傾いている。メールや Facebook、Twitter をチェックして、ほんの短い返事やコメントを書く。この程度の用途なら、わざわざ PC を開いて起動させる意味がない。iPad で十分だ。と言うか、iPad の方が有利である。

ビル・ゲイツが言うように「学生に必要なのはキーボード付きのデバイス」というのは確かだろう。私にしても、長文の原稿を書く時には PC を使う。しかしそもそも長文のドキュメントを作成するニーズなんていうのは、一部の層に限られていて、ごく一般的なライトユーザーやホームユーザーは、長文なんて滅多に書かない。ということは、iPad で十分だ。

私の場合は長文作成の準備段階として、メモ書きや下書きなどは、iPad でちょこちょこ書きめておき、最終的に PC で形を整えるというやり方をすることがある。はっきり言って、これはとても便利だ。iPad は本格的にデスクに向かうのではなく、 「隙間時間」の活用に向いている。そしてふと気付けば、日常は「隙間時間」だらけなのである。

さらに言えば、iPad だって 外付けキーボードを使えば、長文作成がこなせないわけじゃない。私も出張先では iPad と外付けキーボードを使うことが多いし(参照)、学生のレポート作成だって、このやり方でできないわけじゃない。

Microsoft としては、「Windows 8 なら、タブレットとしても、キーボード付きの PC としても両方に使える」と言いたいのだろうが、iPad ではとっくにそれが実現されているのである。必要ならば、数千円で Bluetooth キーボードを買い足しさえすればいいのだから。

MS-Office は使えないけれど、それも大した問題じゃない。それと互換性のある Pages, Numbers, Keynote があるし、そっちの方がずっと安上がりだ。

つまり、iPad ユーザーはビル・ゲイツがいうほどフラストレーションは感じていないし、それどころか、とても便利に使いこなしているのである。

 

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2013年5月 6日

最近のトイレは、よくできているのだけれど

最近、我が家の 2階と 1階にあるトイレを 2つともモデルチェンジした。1階のトイレは遅ればせながらシャワートイレにしたが、2階のトイレは節水型にしただけで、シャワーは付いていない。シャワートイレなんて、一家に 1つあれば十分だろう。

さすがに新型のトイレは節水効果が高く、上水道代がこれまでより月額 1,200円以上も安くなった。下水道代は上水道代の半額ぐらいで、もしかしたら両方合わせると月額 2,000円近くのコストカットになるかもしれない。ただ気分としては料金が安くなったことより、水資源節約に貢献していることの満足感が高い。

シャワートイレといえば、私の実家では大分早く、多分 20年以上前に設置した。帰郷した折に「どれどれ、どんなものなんだ」と、トイレの蓋を開けてのぞき込み、「おしりボタン」を押してみると、奥からノズルがするするっと出てきて、まずは冷たい水をジョボーっと排出する。

「おぉ、こんな仕掛けになっているのか」 と感心しながら見ていると、いきなり先端からプシューっと水が噴き出し、まともに顔に浴びてしまった。当時まだ健在だった母に、呆れられてしまったのを覚えている。

ところが最近のシャワートイレは、センサーがうまく作動するようになっていて、人が便座に座っていないとシャワーが出ない仕掛けになっている。だから、のぞき込みながら「おしりボタン」を押しても、顔に水を浴びる心配がない。

その代わり、いつもセンサーが稼働しているようで、その分、私からみれば余計な電力を消費しているようにみえる。シャワートイレの水を顔面に浴びるなんていう、1,000回に 1回もないような事態を防ぐためにこんな電力を使うのは、一体どうなんだという気もする。

しかも便座に腰を下ろしただけで、どういう仕掛けなのか知らないが、便器内の換気機能が作動するようで、ゴーッという低い音がする。臭いが漏れないのはいいが、ここでも何だか余計な電力を使っているようで、かなり気が引ける。

それで私としては、なるべく 2階の単純節水型のトイレを使うことにしようと思っているわけだ。とまあ、今日の話はそれだけのことである。

 

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2013年5月 5日

Windows 8 に無駄金を使うという 「歴史の必然」

昨日と一昨日、Windows 8 に関して思いっきりネガティブなことを書いた。その骨子は、ライトユーザーとホームユーザーの多くは、Windows 8 をまともに使いこなせないだろうということである。少なくとも、操作に慣れるまでにはかなりの無駄な時間を使わなくてはならない。

これまで何度となく書いてきたことだが、ライトユーザーとホームユーザーは、今こそ PC なんていう七面倒くさいものはすっぱりと諦めて、iPad に乗り換える方がいい。小売市場で流通する OS の主流が Windows 8 なんていううっとうしいものになってしまった今、経済的にも時間的にも、精神衛生のためにも、それしか道はないではないか。

客観的にも「時代は脱 PC」なのだと、大抵の業界人は確信している。Microsoft もそれを意識したからこそ、今回の Windows 8 を開発したのだが、意識の仕方があまりにも下手くそだったために、あんな風な失敗作になってしまったのだ。

これも既に書いたことだが、一昨日の記事に登場した知人にも、「恐縮ながら、あなたみたいにインターネットの決まり切ったサイトを巡回して、たまにメールのやりとりをして、ちょっとした文章を書くぐらいにしか使わないんだったら、新しい PC なんかに無駄遣いするより、せっかく iPad を持ってるんだから、そっちをお使いなさい」 と、何度も言ったのである。

何度も言ったのだが、彼はこのアドバイスを受け入れなかった。「PC ぐらいは使えないとカッコがつかない」なんていう一昔前の常識にとらわれたのか、あるいは XP 以外のインターフェイスに怖じ気づいてしまうためなのか、多分、その両方の合わせ技なのだろうが、とにかくまともに使いこなせてもいない PC に固執してしまったのである。

ところが、その固執した PC 自体が、Windows 8 なんていう変わり果てた姿になってしまっていたために、せっかく買って、基本的な設定は全部人任せでやってもらったにも関わらず、これまで以上に手も足も出ないという状態に陥ってしまったのである。

「だから、PC なんてすっぱり諦めて、iPad に乗り換えた方がいいと、何度も言ったでしょう」と言っても、その真意が理解できるまでにはあと何年もかかるだろう。彼がそれをようやく理解する頃には、「PC なんて専門家と好事家の使う道具で、フツーの人はスマホかタブレットがあれば十分」というのが、世の中の常識になっているはずだ。

つまり、Windows 8 を目の前にして手をこまねいているような人は、これまでも常にそうであったように、時代の波には必ず乗り遅れるのである。PC 化の波には、XP が行き渡るまで乗ることができず、インターネットの波には一般家庭のほとんどが光ファイバー化されるまで乗ることができず、今まさに直面している「脱 PC」の波にも乗ることができないでいる。

せっかく「脱 PC」が言われて、さんざん苦労させられている PC から脱出できるチャンスなのに、そのチャンスに乗れず、どうせまともに使いこなせもしない PC に、さらに余計な金を使うなんていうのは、見ているだけでも不憫だが、こればかりは仕方がない。それが市場というものである。

先進的消費者がいて、フォロワーがいる。そして土壇場になってようやく滑り込むが、ついにはその時代の波の恩恵を十分に享受する経験を一度も持つことができないまま、次の時代の波にも乗り遅れるという層が、どうしようもなく存在するのだ。

時代の波に乗ることが、おしなべていいことというわけでは決してないが、少なくとも IT 関連を上手に使いこなそうというなら、大きな波には半歩ぐらい早めに乗っておく方がいい。とはいえ、ヒエラルキーのあるのが市場というものでもあるので、ここはあまりいらいらせずに、「歴史の必然」に委ねて見守るしかない。

せっかちな私も、近頃ようやくこの辺りまでは学ぶことができたので、少しはゆったりして、精神衛生にプラスになっているような気がする。

 

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2013年5月 4日

Windows 8 を高評価するのは、PC 大好き人間に限られる

昨日 「やっぱり Windows 8 は使いたくないと思った」という記事を書いて、改めて世間一般の評判はどうなんだろうと思い、「Windows8/使い心地」 というキーワードでググってみた。「Windows8/使いにくい」でググると圧倒的な勢いでネガティブ評価のページがどっさりとヒットするので、中立を期すために「使い心地」ということにしたのである。

検索でヒットした中から冷静に書かれたページを拾い読みしてみてわかったのは、「言われるほど使いにくくない」「むしろ軽くて快適」「確実に進化しているので、慣れの問題」などといった好意的コメントを発しているのは、コアユーザーを中心とした「PC大好き人間」たちばかりということだ。残りの大多数は「使いにくい」と不満を述べている。

つまり、Windows 8 は、PC 大好きなコアユーザーたちは積極的に受け入れているが、それ以外の一般ユーザーたちは大いに戸惑っているということがわかる。Windows 8 に好意的な人の中には、「これを使いにくいなんていうヤツは、頭が悪いだけ」とか「使いこなせないのは、情弱」とか、かなり傲慢なことを言う向きも少なくない。

世間には「先進的ユーザーの方が正しいに決まってる」という人もいるだろうが、だからといってローエンドのユーザーが軽視されては、市場は混乱する。とくに XP 投入以来、圧倒的な広がりをみせている Windows 市場においては、リテラシー・ギャップがものすごく大きいという問題がある。

そして今回の Windows 8 に関しては、その辺りの問題があまりにも軽視されている。Microsoft には技術の専門家はくさるほどいても、ユーザビリティやマーケティングのプロがいないのだろうか。ユーザビリティに関しては前からお世辞にも上手とはいえず、「わかる人にだけわかる」 という傾向があったが、今回はとくにひどい。

私は一応ヘビーユーザーではあるので、Windows 8 の必要最小限の操作には、例の知人の PC の設定をしてあげている最初の 30分で慣れてしまった。常にデスクトップ画面にしておけば、あとは細かいところまで徐々に慣れていけばいいだけだ。だから、コアユーザーたち同様に 「そんなに使いにくくない」というコメントを発することだってできる。

だが問題は、多くのライトユーザー、ホームユーザーの存在である。彼らの多くは決まり切った単純な業務、いつものインターネット・サイトの閲覧、ちょっとしたメールのやりとりぐらいにしか PC を使っておらず、Google 検索すらまともに使いこなせていない。

会社の方針で、もうすぐサポートの切れる XP を切り替えることになったとか、個人所有の XP マシンがオシャカになって買い換えるとかで、急に Windows 8 マシンと向かい合ってしまったら、多くのユーザーはそのあまりの変わりように、あわてふためいてしまうだろう。

彼らはただでさえ、いつまで経っても 「ド」 が付くほどの初心者レベルから脱出できていないのである。それがいきなり、初心者以下のレベルにまで叩き落とされてしまうのだ。

それで昨日のネタで書いた知人のように、新規購入した Windows 8 マシンの初期設定から MS-Office と Adobe Reader のインストール、メールアカウントの設定まで、人に頼んで 3時間がかりでやってもらったにも関わらず、結局手も足も出せずに、気付いてみれば古い XP マシンを立ち上げているなんてことになってしまうのである。無駄遣いも甚だしい。

少なくとも私の周囲では、「この人、まともに PC を使いこなしているな」 と思われる人の方が圧倒的に少数派で、便利なはずの PC を、わざわざ面倒くさく使っている手合いばかりである。彼らがいきなり Windows XP から 8 にアップグレードしたら、今でも十分に危なっかしいのに、きちんと使えるとは到底思われない。

だから Windows 8 は、コアユーザーにとっては「Windows の順当な進化形」であっても、市場全体としてみれば明らかに「失敗作」である。Microsoft の開発スタッフは、「PC 大好き人間」ばかりをみて、今や Windows ユーザーの多数派であるライトユーザーやホームユーザーの存在を、まともに考えたことがないのだろう。

おもしろいのは、Windows 8 に高評価を与えているユーザーにしても、条件付きの評価が多いことである。

「初めは戸惑うが、すぐに慣れる」とか「カスタマイズすれば使いやすい」とかいうのはまだいい方で、「スタート画面は無視して、常にデスクトップ画面にしておくこと」とか「タッチパネルは肩が凝るし、ディスプレイも汚れるから、ショートカット・キー操作を覚えること」とかいうのは、正しい指摘ではあるが、ある意味、本末転倒だ。

チョー本末転倒意見としては、「スタートボタンを復活させるフリーソフトを入れれば、動作の速い Windows 7 として使える」とか 「BIOS レベルまでいじれば、Windows 7 ライクにできる」とかいうのまである。「個人的には気に入っているが、高い金を払ってまでアップグレードしろとは、他人には薦めにくい」とかいう正直な意見も少なくない。

プラス評価の層までこんな条件付きにしたがる OS が、「成功作」といえないのは当然である。コアユーザーはいろいろいじってカスタマイズするのが楽しいのかもしれないが、一般ユーザーには荷が重すぎる。

というわけで、昨日も書いたことだが、iPhone と iPad を使い続けたおかげでリンゴのエキスが体中にしみわたってきた私としては、「こんなものに慣れるぐらいだったら、Mac に慣れたいわ」 と思うばかりなのである。

 

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2013年5月 3日

やっぱり Windows 8 は使いたくないと思った

昨日、知人に頼まれて、購入したばかりの PC のセッティングをしてあげた。

「恐縮ながら、あなたみたいにインターネットの決まり切ったサイトを巡回して、たまにメールのやりとりをして、ちょっとした文章を書くぐらいにしか使わないんだったら、新しい PC なんかに無駄遣いするより、せっかく iPad を持ってるんだから、そっちをお使いなさい」と何度も忠告したのだが、彼はどうしても PC を使いたいみたいなのである。

どうしても PC を使いたい割には、新規購入マシンの初期設定すら自分でできず、1週間も放置してあった。「段ボール箱から出したまま、指一本触れてません」という。本当に本当に、こういう人には iPad に移行してもらいたいのだが、インターフェイスが Windows XP とちょっとでも違うと、iPad にすら怖じ気づいてしまうようなのだ。

新規購入 PC は、当然の如く Windows 8 モデルである。この PC の、必要なモロモロの設定をしてやらなければならないのだが、これがまた、ものすごくやりにくい。これまでのインターフェイスと全然違っているので、Windows 7 マシンだったらヒョイヒョイっとできることに、一々戸惑う。

コントロールパネルなどは「チャームバー」というモノから呼び出せるのだが、これがまた面倒くさい。マウスを画面右上の隅っこに合わせて表示させるのだが、ものすごく反応が悪くて、ちょっとでもズレると表示されない。さらにせっかく表示されても、またちょっとズレるだけですぐに消える。これでは、肩が凝ってしょうがない。

後になって、「Windows キー + C」 のショートカットで表示できると知ったが、このマシンのオーナーは、ショートカットなんてものは 10年経っても覚えられないだろう。覚えられるなら、とっくに「Ctrl + C」と「Ctrl + V」でコピー & ペーストをしてるはずだ。そもそもチャームバーを必要とする操作には縁がないだろうから、別にいいのだが。

まずメールの設定をしてあげようと思い、スタート画面の左上 (この位置にあるということは、最もよく使うはずということのようなので) の 「メール」 というタイルをクリックした。すると、POP 3 のアカウントは受け付けないと表示される。なぜか IMAP でも反応しない。なんとまあ、あの Outlook Express よりひどい劣化である。

仕方がないので、プレインストールされていた MS-Office の Outlook を使ってもらうことにする。やれやれ、こんな具合でまたまたあの悪名高い "winmail.dat" (参照) という、他のメイラーでは開けない添付ファイル付のメールが増えることになるのだ。

いや、それよりも心配なのは、このマシンのオーナーが Outlook という、余計な機能ばかり多くて私も使う気にならない(スケジュール管理などは、iPhone と iPad でやる方がずっと楽だ)ソフトを、彼が果たしてちゃんと使えるかどうかである。

さらに驚いたのは、IE 10 が死ぬほど使いづらくなっていることだ。これまでのインターフェイスからかけ離れているので、どこをどう触ったらいいのか、戸惑いに戸惑う。いろいろやってみて判明したのは、いわゆる「タイル」をクリックする方式のスタート画面から立ち上げた IE はひどいが、デスクトップ画面から立ち上げると、普通に使えるということだ。

つまり IE には、わけのわからない(いわゆるモバイル・デバイス用なんだろうけど)モードと、何とか使えるモードの 2通りあるのだ。何とか使えるモードで立ち上げるには、スタート画面から Windows キーを押して、デスクトップ画面にした上で、見慣れた IE のアイコンをクリックしてやる必要がある。何をするにも、これまでより一手間も二手間も多い。

ああ、うっとうしい。モバイル・デバイスなら、初期画面があのタイルの並ぶ「スタート画面」でもいいかもしれないが、PC の場合は初めから「デスクトップ画面」が表示されるように設定できないのかと思っていろいろ調べたら、そうするためには面倒くさいいじり方をしなければならない(参照)ようなのだ。ああ、本当にうっとうしい。

どうして初期画面を、コントロールパネルから簡単に選ぶことすらできないんだ。個人的には、次に購入するのは Mac と決めているからいいのだが、作業を進めるうちに、その決意がますます確固たるものになった。Windows 8 も慣れりゃどうってことないんだろうけど、「こんなものに慣れるぐらいなら、Mac に慣れたいわ」と思う。

何とか必要な設定を大方終えて、最後にプリンター・ドライバを入れてあげようとしたら、彼の使っているプリンターは年代物すぎて対応してもらえない。USB 対応ではないので、これまでは誰にやってもらったのか、アダプター経由で USB ポートで受けていたが、Windows 8 はそれを受け付けてくれないみたいなのだ。

仕方がないので、「そろそろ新しいプリンターをお買いなさい。安いから」 と言い残し、ちょっとしたおみやげをもらって帰宅した。

夜になって念のため電話して「ちゃんと使えてますか?」と聞いたら、「いやあ、あれから触ってません。プリンターが使えないんじゃ困るから、古い方を使ってます」という。「古い方」 というのは、メモリが 512MB しか積まれていない「チョー重々 XP マシン」である。おいおい、一体何のために新規マシンを買ったのだ。

「そんなことをしてたら、夜が明けちゃいますから、とりあえず新しい方を使って、できあがったファイルを USB で古い方に読み込ませて、そこから印刷してください」と言ったのだが、彼はそんなことをする方が死ぬほど面倒に思えるようで、「はあ」という生返事しか聞こえなかった。

そういえば前述の如く、彼はインターフェイスが Windows XP と違ってしまったら、怖じ気づいてしまう人だというのを忘れていた。ということは多分、せっかく買って 3時間がかりで設定してもらった新規マシンを、しばらくは使いこなせないだろう。

確かに、私が 「これじゃ、使いたくないよなあ」と思う Windows 8 だもの、彼が手を出せないのも道理である。それで、どんなにいらいらするほど重くても、ついこれまでの XP マシンを立ち上げる方を選んでしまうのだ。

本当に本当に、「どうせイチから慣れなければいけないんだから、iPad の方がずっと楽ですよ」と、折を見てもう一度だけ薦めてみよう。それでだめなら、彼は XP マシンが壊れるまで使い続けるしかない。だから、「新しい PC を買うなんて無駄遣いですよ」 と、何度も言ったのに。

マジな話、彼に限らず、Windows XP をようやく操作できる程度のライト・ユーザーは、8 を使いこなせないんじゃないかなあ。

 

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2013年5月 2日

「メディアス文」 として殿堂入りさせたい "SMARTPHONE IS MEDIAS"

先月 29日の 「"SMARTPHONE IS MEDIAS" って、一体何なんだ?」 という記事に emi さんから、こんなようなおもしろいコメントが寄せられた。

「うなぎ文」「こんにゃく文」に次ぐ「メディアス文」として確立する…かな?

な~るほど。これは言えてる。

ちなみに、「うなぎ文」というのは、日本語の文法を論じる際の有名な喩えである。複数の人間と丼物の食堂に入って「ご注文は?」と聞かれ、「天丼お願いします」「親子丼ね!」と続いた後に、鰻丼を注文しようとして「僕はうなぎ!」と言っても、「僕 = うなぎ」という意味ではないということだ。

だから、英訳しても "I'm an eel." とはならない。ところがあの長嶋茂雄さんが、米国でチキンを注文しようとして "I'm chicken." と言ったという話が伝えられている。長嶋さんならいかにもありそうなことで、これはもう、「うなぎ文」どころではないが、まあ、日本の英語教育の世界でもさすがに長嶋さんに敬意を表してか、「チキン文」とは言わないようだ。

同様に「こんにゃくを食べても太らない」というような意味で「こんにゃくは太らない」と言っても、「こんにゃく自体がもりもり太ったりすることはない」と言いたいわけではないから、英語でも "A piece of konyaku doesn't get fat." とは言わない。

そして、例の "SMARTPHONE IS MEDIAS" である。「スマートフォンはメディアスです」というのである。「僕はうなぎ」と、それほど遠くない。

このコピーを最初に見た時、もしかして "Smartphones are the media" あるいは "Smartphone has become the media" と言いたいのかなあと思った。「スマホはそれ自体、既にメディアの領域に達しているんですよ」というようなことを表現しているのかと。

それで、「いずれにしてもこなれない英語だけど、"media" はそれ自体 "medium" の複数形なんだから、"s" は付けなくていいんだけど」とも思ったのである。

そう思った直後に、「なんだ、これ  "MEDIAS" の広告だったのか」 と気付いた。それで、そこはそれ、「商品名ですから」ということで苦しく逃げてもらってもいいとは思ったが、そうだとしても、まあ、やっぱり「なんだかなあ」となってしまう。

ここはもう、素直に「スマートフォンはメディアス」と日本語で書いた方がずっとましな気がするが、そこは横文字好きが宿業とまで化した広告業界である。どうしてもアルファベットを並べる方が、「雰囲気のモノ」らしくなると考えたのだろう。「雰囲気のモノ」で売れるとは、私としては決して思わないのだが。

こうなったらやはり、「メディアス文」 として殿堂入してもらいたいところである。

 

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2013年5月 1日

「個人ニュースサイト」の時代は終わりつつあるようだ

3~4年ぐらい前までは、このブログや本宅サイトの記事に、突然ものすごいアクセスが集中することがよくあった。

一体どうなっているのかと調べると、いわゆる「個人ニュースサイト」やブックマークからのリンクで飛んでくることがとても多い。調べのつかないのは、多分テレビか何かのクイズ問題の影響でググッた結果、ウチの「森と林の違い」なんかに飛んでくるのがほとんどと思われる。

ところが最近、「突然のアクセス集中」という現象がめっきり減った。その理由は、最近の私の書くネタがいわゆる「ウケ狙い」からずいぶん離れて、ちょっと小難しい方面に向きがちであることだと思っていた。

個人ニュースサイトやブックマークに取り上げられやすい記事には、明らかに一定の傾向があって、トリビアっぽいものか、ちょっとオタクっぽい IT ネタ、そして釣りっぽいまでの政治ネタというのがウケる。一時は「疑似科学ネタ」が一世を風靡したが、今は廃れ気味だ。

「自分としては渾身の力を振り絞って書いた記事」というのは、個人ニュースサイトやブックマークのアンテナ周波数には全然合わないようで、ほとんど取り上げられない。ところが、ふと息抜きでトリビアっぽい記事を上げると、途端に取り上げられて、その影響で急にアクセスが増えるということがよくあったのである。

それで自分としては、「ブロゴスフィアの主流から外れたブロガー」と自己規定してきた。5年ほど前に「ブログの影響力の低下」が話題になった時、私は 「ブログの影響力は捨てたもんじゃない」と題して次のようなことを書いた。

ブログの影響力の低下というのは、実は、ブロゴスフィアで注目されるトピックが、あまりにもこの世界に最適化されすぎているからじゃなかろうかという気がする。ブロゴスフィアの主流と世間との間に、ズレが生じているのかもしれない。

こんな言い方をすると、もしかして反発があるかもしれないが、あちこちでブックマークされまくりのアルファブロガーの記事よりも、ブロゴスフィアではあまり注目されていない極私的ブロガーの記事の方がずっと面白かったりする。

近頃「個人ニュースサイトの衰退」が話題になっていることを知った。私は急激なアクセス増加がめっきりなくなった原因が、「自分がニュースサイトに取り上げられにくいテーマの記事ばっかり書くから」と思っていたが、実はニュースサイト自体が衰退しているのだと初めて知った。

7年近く前に "「個人ニュースサイト」 をどう捉えるか? " という記事の中で、私自身は個人でニュースサイトみたいなことを運営するのにあまり興味を感じられないというようなことを書いたが、今や、これまで運営してきた人たちも息切れしてしまいつつあるのだろうか。

いずれにしても、7年も経ってしまえばインターネット界隈の環境も変わってしまうし、衰退するのも当たり前かもしれない。個人的にも、ニュースサイトからのリンクでアクセスしてくれた人のリピート率なんて微々たるものだから、衰退しても別に痛くも痒くもないしね。

*注: ちなみに私としては、「個人ニュースサイト」 という言い方は不適切で、「クリッピングサイト」 と言うべきだと思っているが、ここは心ならずも世間の用法に従っておいた。

 

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