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2013年5月23日

「乙武炎上」 を巡る冒険

先週末からいろいろ多忙で、水戸だ、長岡だ、仙台だと飛び回っていたものだから、乙武洋匡さんが Twitter で炎上した「事件」に関しては、全然知らなかった。火曜の夜に帰宅してぐっすり眠り、水曜の午前中に「はてぶ」をチェックしていて初めて知った。そういえば乙武さんの「車」が 100kg あるなんて話が出ていたが、何のことだろうと思っていた。

いずれにしても、申し訳ないが私は乙武さんにあまり関心がないので、個別ケースとしての今回の彼の騒動についても、あまり関心をもてない。だから、「浮気としか思えない」とかいう指摘についても、笑うしかない。

個別ケースとしては関心がないが、一般論としては、「どうしてその時、道行く人にヘルプを頼まなかったんだろうか?」と思った。もし私がそこに通りかかっていたら、軽い気持ちで 2階の店まで抱っこしてあげただろうと思う。乙武さんみたいな有名人を抱っこしてあげたら、その後 3ヶ月ぐらいは、話のタネに困らないだろうし。(有名人じゃなかったら放っとくという意味ではないので、なにぶんよろしく)

そんなことを漠然と思っていたら、日経ビジネスに慎泰俊さんという人が、"「乙武炎上」にみる、日本人の不寛容さの理由 余裕と「マイノリティ経験」が人を寛容にする" という寄稿をされているのを見つけた。

慎さんはこの記事の中で次のように述べておられる。

最近ロンドンによく行くのだが、同じような出来事がロンドンであっても、こんな騒ぎはそもそも起こらなかっただろう。 

車椅子の人が周囲の人に助けを求めて、周りの人が当然のように「いいよ」と言って階段の上まで車椅子の人をお店にまで連れていく。帰りは帰りで、お店の人が「どなたか、彼を下に降ろしてくれませんかー」とお客さんたちに声がけして、2、3人がすぐに「喜んで」とボランティアを買って出て、車椅子の人を下に運び出す。

うん、これって当たり前のことだと思っていたのだが、そうか、日本では当たり前じゃなかったのか。これに限らず、この国では私は時々「ちょっと常識に欠ける人」と思われているんじゃないかと、心配になる時がある。「私の当たり前」って、「日本の当たり前」じゃないことが結構あるのだ。

そうか、「私の当たり前」は「日本の当たり前」じゃないから、そのおかげで、慎さんのおっしゃる "「マイノリティ経験」 が人を寛容にする" という僥倖に浴しているわけか。そうだとしたら何と、ありがたき幸せではないか。

そういえば前に Twitter で、「ベビーカーを乗せる時は、周囲に迷惑がかからないように……」 という電車内のアナウンスに、「それは逆だろう、周囲が気を使うべきだろう」とツッコミを入れている tweet を発見して、「そりゃ、そうだよね」と共感したことがあった。

ところが「日本のフツーの感覚」では、ベビーカーを押して電車に乗り込むこと自体が「迷惑」と思われていることがあるらしく、「ベビーカー利用マナー論争」(参照)なんてものまであったらしい。ふぅん、そんなこと知らなかったよ。

ただ、いくら「非常識」な私でも、自分自身は朝夕のラッシュ時に自分の子供をベビーカーに乗せて電車に乗り込もうとは、決して思わなかった。それは「遠慮」というよりも、単純に「自衛」の問題だ。あんな混みあったところに、赤ん坊を引っ張り込むなんて「危険」である。小さな子供連れで移動するなら、私は他の時間を選ぶ。

それでも、ラッシュ時にベビーカーで乗り込んでくる親がいたら、そりゃ、仕方がない。私は体を張ってでも、そのベビーカーを守るだろう。親の「自衛意識」が薄いとしたら、それならばなおさら周囲が気を使わなければならない。とりあえず赤ちゃんは、守られなければならないのだから。

今日の話は要するに、「みんな、もうちょっとのほほんと生きようよ」ってなことになるのだ。なんだ、簡単な結論じゃないか。

 

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世間話」カテゴリの記事

コメント

おひさです。
この件自体に関しては私もほとんど関心ないんですけど、
ロンドンまで行かなくても大阪なら問題にならなかったろうにって思いました。
世話好きというよりは余計なお節介が多いし、有名人をあたかも知り合いのようにちょっかい出すところがあります。あとマイノリティ親和度も高い。変なおっちゃんとかその辺にうようよいてます(あ、いや、最近ちょっと減ってきてるかな〜)。

大阪の場合、のほほんというより、異様な好奇心の塊によりって感じですけど、takさんのお住まいのあたりだとどうなんでしょうね。
声掛け以前に人が通らない? いや、それは偏見か(;;;´Д`)ゝ

投稿: ammnant | 2013年5月23日 13:08

ammnant さん:

なるほど、道頓堀でなくて銀座での出来事だったのが、そもそもの悲劇の発端だったんですね。

「よっしゃ、任しとき!」の精神が、銀座にはなかったということか。

投稿: tak | 2013年5月24日 10:45

日本人の公共心は必ずしも低くないと思うのですが,責任や場の境界の様なものに対して遠慮しがちな部分があると思います.
今回のようなケースでも,店員が出てきたなら通りすがりの自分が口を出す問題ではないと思ったり.

以前,車椅子の友人と駅の階段に差し掛かった時,一人が気付くと必要以上に大勢の人が集まって手伝ってくれようとするのですが,駅員の一人が来ると蜘蛛の子を散らすように去っていくということがありました.
当時は車いす用の階段昇降機が普及しておらず,結局,その一人の駅員だけでは手に負えないので助っ人の駅員を呼び集めるという手間がかかったのですが.

投稿: clark | 2013年5月24日 12:48

clark さん:

>結局,その一人の駅員だけでは手に負えないので助っ人の駅員を呼び集めるという手間がかかったのですが.

助っ人の駅員を集めるより、「すみませ~ん、誰か手伝っていただけませんか~?」と声をかける方がずっと早いはずなんですが、そこは駅員の矜持が許さなかったんでしょうかね。

いずれにしても、私には不思議な現象です。

一人が手伝い始めるとさっと寄ってきて、一人が去ると全員去るんですね。

投稿: tak | 2013年5月24日 23:02

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