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2013年5月13日

「米国に押しつけられた」では、憲法改正の理由にならないんじゃないかなあ

この記事のタイトルが一人歩きしてしまったら、おそらく「tak-shonai は護憲論者」と思われてしまうかもしれないが、どうかそのように思わないで頂きたい。私はれっきとした改憲論者である。

今、おそらく戦後初めて「改憲」がまともな可能性として俎上にのぼっている。しかし私は、現在の「改憲論議」にはちょっとした違和感を覚えている。憲法第九条は改正されなければならないと思っている改憲論者の私なのに、どうにも違和感なのである。

ただこれは、最近になって急に言い始めたことではない。6年半前に書いた "「憲法九条を世界遺産に」に、つい共感" という記事で私は次のように書いている。

私は "「何が何でも護憲」 の論理に首をかしげる" というコラムを書いているように、今の憲法にはかなり疑問を抱いている。しかし、多くの改憲論者が主張するように、「現憲法は米国に押しつけられたものだから」 という論理にも、同じくらい首をかしげる。

押しつけられたものだから悪いというのは、単に感情論である。いいものならありがたく頂戴し、悪いものなら放り出してしまえばいいというのが、私の基本的なスタンスだ。

上記引用中にも出てきた "「何が何でも護憲」 の論理に首をかしげる" というコラムは 11年も前に書いたもので、日本国憲法前文の 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という箇所を突いている。

仮にも一国の国民の「安全と生存」という重要なファクターを、「諸国民の公正と信義に信頼」するぐらいのことで守れるというなら、誰も安全保障問題で苦労せんわということだ。その程度のことではどうにもならないので、有史以来いろいろな面倒な問題が起きているのである。

それに、なんだか責任を押しつけられたような形の「諸国民」(つまり「世界中の国々の人々」という意味だろうが)にしても、日本国民の 「安全と生存」を守るために「信頼」するなんて言われても、困ってしまうだろう。「信頼するのは勝手だけど、責任は取らないからね」と、皮肉の一つも言いたくもなるではないか。

しかし話を「憲法改正」という具体的なアジェンダに戻して言えば、「押しつけられたもの」だから、「ボクちゃん、そんなのやだもん! みたいな話で対処してはならないだろう。ここは冷静に、「憲法の中身が、今の世界情勢に適合しないものになっているから」ということで取り組まなければならない

ところが世の改憲論者の多くは、「米国に押しつけられたものだからダメ」と、感情論で大見得を切っているのである。そんなことを言うから、(現実には確かに「押しつけた」側の) 米国だって、ついむかついて過剰反応し、パク・クネの論調に乗っかったりしてしまうのである。感情論は感情論で反発されるというのが、世の常だ。

そんなことだから私は、「憲法九条を世界遺産に」なんていう、太田光と中沢新一の暴論に、つい共感しそうになったりするのである。れっきとした改憲論者のくせに、まったく困ったものである。

 

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