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2013年5月14日

戦争がなくならないのは、「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる」から

昨日も書いたように、私はれっきとした改憲論者である。とくに現憲法の「前文」と第九条は変えなければならないと思っている。前文を変えなければならない理由は昨日の記事に書いてあり、第九条に関しては 6年ちょっと前の、「戦争と平和」という記事に書いてある。

ほとんどの人は戦争を憎み、平和を愛するのに、有史以来戦争がなくならない。その理由を端的に述べるには、たった 20文字で十分である。6年ちょっと前の記事は、それを書いたものだ。

それは「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる」からだ。以下、6年ちょっと前の記事からの、補足的引用である。(このことを最初に書いたのは 10年以上も前の記事だが)

総論は抽象的だが、各論は具体的だ。世の中というのは、せっぱ詰まってしまうと、抽象論は具体論に敵わないのである。腹が減ってしまう抽象論は、満腹にさせてくれる(という幻想を与える)具体論の前では、無力だ。

「美しい総論」は、「せこい各論」によって常に裏切られる。で、日本国憲法の前文と第九条は、「美しい総論」でありすぎるが故に、切羽詰まった時の「せこい各論」に耐えられない。

現に、それほどまでに切羽詰まったわけでもない現状でさえ、国民の多くが「自衛隊がなければあぶなくてしょうがない」と思っているから、普通に憲法を読めば違憲としか解釈できない軍隊が、日本国には存在している。

戦争に突入する理由はいつも「せこい各論」なのだから、そのリスクへの対応というのも、常に「せこい」ものにならざるを得ない。平和というのは、「美しい総論」を唱えているだけで守れるほど甘いものではないのである。戦争を回避するための「せこい対応」の担保として、軍事力はやはり必要なのだ。

悲しいことに、この世は「美しい総論」が問題なく通じるほど上品な国ばかりではないのだから。

 

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