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2013年6月に作成された投稿

2013年6月30日

中途半端に高級なホテルよりは、安いビジネスホテルの方がいい

実は 1週間前から「ぎっくり腰」でひいひい言っている。別に「ぎくっ」となったわけでもないのだが、接骨院の先生の話によると、座りっぱなしの姿勢でいたために、腰に疲労が溜まって筋肉が硬直してしまったのだという。2~3日で治ると軽く考えていたが、一昨日と昨日の岡山出張でぶり返してしまった。

確かに今月は会議の他に出張などの長旅がやたらに多く、椅子にじっと座っている時間が長かった。出張は岡山以外に、名古屋(2回)、伊勢、長崎に行ったほか、宇都宮にロングドライブし、さらに伯母の葬儀で郡山までロング・ドライブした。ということは、ほぼ 3日に 1回以上、乗り物で長時間缶詰になっていたわけである。

旅に出ていない日は、ほとんど会議かデスクワークで座りっぱなしなので、今月は完全に運動不足の座りすぎだ。先週末、郡山に行って戻ってきた時には、「相当腰に来てるなあ」と思っていたが、その翌日から、座った姿勢から立つ時に、腰の筋肉が痛みで悲鳴を上げるようになった。

接骨院の先生によると、一番悪いのが、腰に疲労が溜まった状態で冷やしてしまうことなんだそうだ。それには憶えがある。郡山で取ってもらったホテルが、普通のビジネスホテルよりちょっと高級なホテルで、分厚い羽毛布団をかけて寝るスタイルのベッドだった。いくら東北でも 6月に羽毛布団なんていらないのだが、それ以外の寝具は用意されていない。

日本では中途半端に高級なホテルや温泉旅館なんかには、一年中分厚い羽毛布団しか用意されないというスタイルがよくある。暑い季節はギンギンに冷房を効かせてでも、羽毛布団にくるまるという理不尽な寝方を、客に強いるのだ。これが「(中途半端に)高級なサービス」だと勘違いしているらしい。

これがエコ派の私には、どうしても納得いかない。その夜は当然のごとくエアコン(全館冷房)のスイッチを切って寝た。だって、暑くも寒くもないのだから、そんな夜に、とくに福島という土地で無駄な電力を使ったら、まさに罪作りではないか。

ところがこの状態で分厚い羽毛布団なんかかけて寝ると、ムンムンに寝苦しい。結局、寝ている間に布団を蹴飛ばしてしまったようで、明け方に気付いてみると、腰がかなり冷えていた。そしてその日の夜に 4時間かけて車を運転して帰ってきたのが、「ぎっくり腰」 発症の直接の引き金になったようなのである。

これだから、中途半端に高級なホテルは嫌いなのだよ、私は。今の季節なら、1泊 5,000~6,000円ぐらいの安いビジネスホテルで、エアコンを入れずに毛布 1枚かけて寝る方が、ずっとぐっすり眠れる。そして本物の高級なホテルには縁がないから、考慮する必要がない。

そういえば、7年半前には、冬に泊まった盛岡のホテルで暖房効き過ぎで暑くてたまらない時があった。この時は暖房をオフにしても、建物自体の暖まりすぎで、どうしようもなかった。多分、ホテルの冷暖房にクレームを言うのは極端な暑がりと極端な寒がりが多いので、ややもするとサービスが極端に振れがちなのだろう(参照)。

とにかく、このぎっくり腰から早く回復して、てきぱき動き回りたいものである。ちなみに、長時間の座りっぱなしは、実は喫煙に負けないぐらいの発ガン要因なんだそうだよ(参照)。

 

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2013年6月29日

ソフトバンク版 iPhone 5 の LTE 接続具合 (最新報告)

昨年の 11月に 「ソフトバンク版 iPhone 5 の LTE 接続具合」 という記事を書いた時点では、その直前の孫さんの 「山の手線の全駅で LTE 接続が可能になった」という発表はちょっと眉唾で、接続は甚だ不安定で、3G でしかつながらないことの方が多かった。私としては「孫さん、ウソばっかり」と思っていた。

その後ずっと、「LTE はつながらない」とばかり思っていたが、今日、それは私の思い違いで、最近ではかなり安定してつながるようになっていることを確認した。

実は昨年の暮れあたりに、iPhone の設定で LTE をオフにしたままだったのだ。この頃、LTE 接続があまりにも不安定で、3G との間を行ったり来たりして、そのせいでかえってウェブページの表示が遅くなったりしていたのである。「こんなんだったら、初めから 3G に専念する方がいいわ」と思ったのだ。

そしてそのままずっと、LTE をオフにしていたので、東京の山手線沿線に行っても 「LTE なんて、ちっともつながらないじゃないか」と、ムカムカしていたのである。実は「つながらない」んじゃなくて「つなげてない」だけだったのだ。孫さん、ごめんね。

今日、「そういえば ……」と思い出して、設定の「一般」‐「モバイルデータ通信」から 「LTE をオンにする」という項目を「オン」にしてみたところ、なんと、半年前はあんなに不安定だった LTE が、きれいにつながるようになっていたのである。

なるほど、LTE に関しては、ソフトバンクは最もつながりやすいキャリアになっているというのが、確かに実感されたのであった。LTE だけでなく 3G でも、前はつながらなかったのに、最近は問題なくつながるようになったところが多い。世の中、変われば変るものである。

 

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2013年6月28日

「南無阿弥陀仏」 とは

最近、浄土宗系(浄土真宗を含む)の葬儀に連続して参列したので、阿弥陀如来のありがたさを説く説法を何度も聞かされた。しかし、一緒にいた参列者にはその意味がほとんど伝わっていなかったようで、皆一様に「さっぱりわからない」と言うのである。

それではあまりにももったいないから、多少かいつまんで説明してあげると、「なるほど、『南無阿弥陀仏』とはそういう意味であったか」と、少しは得心してくれる。そこで、今日はそんな話を書こうと思う。

はるか昔、法蔵菩薩という方がいらして、極楽浄土を実現するための 48の誓願を立てられた。これを「四十八願」という。その中で最も重要なのが 18番目の願で、どんな願いかというと、「全ての人が浄土に救いとられないうちは、つまり、悟って仏にならないうちは、自分は仏にならない」というのである。

弥陀の四十八願はすべて成就して、法蔵菩薩は浄土で阿弥陀如来となられた。つまり、全ての人が浄土に救いとられるという願は叶えられたのである。一切衆生は仏になると約束済みなのだ。その約束を叶えてもらうためにどうすればいいかといえば、簡単な話で、全て阿弥陀如来にお任せすればいいのである。

「南無阿弥陀仏」とは、「己れを無にして阿弥陀如来に帰依し、一切お任せする」ということである。自分を無にして全てお任せするのだから、「他力本願」なのだ。人の力で自分の我欲を満たそうというのではない。

まあ、これは信心の話なので、信心しなければいくら阿弥陀如来にお任せしても救われるという保証は得られない。とはいえ、現代風に合理的に考えると、こんなふうにも言える。

阿弥陀如来に帰依するとは、阿弥陀如来が法蔵菩薩の時代にされたように、「他が救われないうちは、自分は救われなくてもいい」と、徹底的に人のために働くことである。己をなくして他のために尽くすことである。その姿こそが、仏の姿であると、悟ればいい。

曹洞宗では、無になって座る姿が、そのまま仏の姿であるという。無になって他に尽くす姿が仏の姿というのも、同じようにとても魅力的ではないか。

 

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2013年6月27日

一人出家すれば九族天に生まる

仏教には「一人出家すれば九族天に生まる」という聖句がある。自分が一人出家すれば、九族が天に生まれるというのである。

九族というのは、自分から上は父母の代、祖父母の代、曾祖父母の代、高祖父母の代の 4代、そして自分から下の子の代、孫の代、曾孫の代、玄孫の代の 4代を含めている。自分からみて両方に 4代ずつだから、自分の代も入れて、九族になる。

ただ、どうして「族」という字なのかは知らない。「尊属・卑属」は「属」の字を使うしね。

「出家」というのは、必ずしも家を出て僧侶になることとは限らないという説もある。『維摩経』に出てくる維摩詰のように、俗世間にいたままで悟りの境涯に達して、自由自在の生き方をすることでもいいというのである。出家する、あるいは仏道を悟るというのは、それほどの功徳のあることのようなのだ。

ただ、この聖句を「自分が出家した、あるいは悟ったお陰で、九族が悉く救われるのだ」と考えると、結構傲慢なことになるような気がする。本来は「有情非情同時成道」なのだから、別に自分が無理して出家しなくても、九族は既に悉く成仏しているのである。

「気付いてみれば、(自分も含め)九族はことごとく天に生まれており、迷っている霊などどこにもいなかった」ということが、出家してみて初めて、ありありとわかるというのが、本来の意義なのではあるまいか。

ちなみに、この聖句の読み方は、「「一人 (いちにん) 出家すれば……」が正しい。原典は漢語だから、「ひとり」ではなく「いちにん」と読む。「日々是好日」が「ひびこれこうじつ」ではなく 「にちにちこれこうじつ」がよりオーセンティックとされているのと同様である。

 

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2013年6月26日

ASUS が 「アスース」 でなくなっていたので、ちょっと一安心

ASUS という名のパソコン・メーカーがあって、その読み方は長らく 「アスース」 だとされていたのだが、昨年秋、私の知らないうちに「エイスース」になっていたようなのである(参照)。日本法人であった「アスース・ジャパン株式会社」は、昨年 10月 1日をもって 「ASUS JAPAN株式会社」となっていた。全然知らなかったよ。

元々私は「ASUS」の読みは「エイサス」だと思っていて、「アスース」が正しいと聞いた時は、「ダッセー!」と心の中で叫んだものである。

話はちょっと横道に逸れるが、「アヴリル・ラヴィーン」という名の女性シンガーがいる。オリジナルの表記は Avril Lavigne で、カナダ人でフランス語の強いオンタリオ出身なので、日本でのカタカナ表記は英語読みの「エイヴリル」ではなく、フランス語読みの「アヴリル」になっている。日本人だったら 「卯月ちゃん」 というところか。

しかし、だったら「重箱読み」は避けて、苗字の方もフランス語読みで「ラヴィーニュ」にしろよと言いたくなるではないか。ちなみに彼女の活動の本拠地である米国では、当然の如く「エイヴリル・ラヴィーン」という発音の方がお馴染みである。

ちなみに "Abraham Lincoln" は、最近やっと「エイブラハム・リンカーン」という表記が一般的になってきたが、口で言う時は相変わらず「アブラハム」派が多いような気がしている。

で、「アスース」の方は出自が台湾で、フランスやイスラエルの会社ってわけじゃないので、「グローバルでの発音の統一とA+の企業を目指すという思いから」「エイスース」 に変更したというのである。

ただ、やっぱり米国人の多くは「エイサス」と発音するだろうなあと思う。こちら の動画でも「正しい発音は『エイサス』です」 と言ってるし。まあ、それが聞きようによっては「エイスース」に聞こえないこともないからいいけど。

 

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2013年6月25日

冠婚葬祭の標準化ということ

3日前の「所変れば冠婚葬祭の風習も変る」と、昨日の「火葬場の骨拾いの作法いろいろ」という記事で、葬式の風習の違いについて触れた。まあ、言ってみればそんなに大きな違いがあるというわけでもないのだが、こうした分野では、えてして「小さな違いが大きな違い」になる。

2つの記事では、主に地域による風習の違いに注目したのだが、もっと言ってしまえば、同じ地域でも宗派や家によって、ずいぶん違いがあったりする。最近では葬式は斎場でするのが普通になり、細かい部分は葬儀屋のスタッフがすべて取り仕切ってくれるので、あまり問題はないが、昔はずいぶん面倒なことが多かった。

葬式は自宅で行うもので、親類縁者や隣近所が寄ってたかって手伝いをしてくれていた時代には、仕切り屋 A が「これは、こうするのが決まり」と主張すれば、仕切り屋 B が「いや、それは違う、私の家ではこうする」と反論し、そこにさらに仕切り屋 C が割って入って、「いや、本当はこうするもの」などと言い始め、舞台裏はごちゃごちゃだった。

私の祖父母の葬儀は自宅で行ったので、「船頭多くして船山に上る」というが如く、細かいところで仕切屋同士がああだこうだと譲らず、私としては「そんなの、どうせ誰も知らないんだから、どうでもいいじゃん」と言いたくなってしまったものだった。ただ、若いモンが本当にそんなことを言ったら異常なほど激怒されるので、おとなしくしていたが。

翻って、6年前の母の死、一昨年の父の死の時は、どちらも斎場で通夜と告別式、初七日の儀を執り行い、進行は全て葬儀屋のスタッフにお任せした。このくらいにドライにしてしまうと、「いや、それはやり方が違う」なんてゴネ始める親戚も出ず、つつがなく終了した。

かくもスムーズにあっさりと、標準的(何が標準なのかは別として)に執り行われてしまうと、祖父母の時の議論百出は、一体何だったのかと思ってしまう。そして、あまりにも標準的に、つるんとした肌の若者みたいな印象の葬祭になってしまうと、今度は昔のひなびた趣きは消えてしまっているなあという気もするのである。

 

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2013年6月24日

火葬場の骨拾いの作法いろいろ

一昨日の「所変れば冠婚葬祭の風習も変る」という記事でも書いたのだが、福島県郡山市の葬祭というのはとても念の入ったもので、時間もたっぷりかかった。とくに感心してしまったのが、火葬を済ませてからお骨を壺に収める時の作法である。

係員が電気磁石のようなもの(あまりにも雅なデザインなので、最初は何だかわからなかった)で、棺に使われていた釘を除去する。私は何度か親族の骨拾いに立ち会ったが、あんな装置は初めて見た。もしかしたら、実家の酒田だけが遅れているのかしらん。

そして脚の骨から順番に遺族が共同で大きな木の箸で取り上げ、丁寧に壺に収める。その後に親族が順番に拾い、途中で係員がまことに丁寧に小さな破片まですくい取って、崩れないようにそっと壺に収める。

さらに「喉仏」とやらを丁寧にすくって遺族に鑑賞させた後に壺に収める。最後にもう一度遺族が共同で頭の骨を拾い、壺の一番上にそっと収める。こうすることで、壺の中には上から頭、胴体、腰、脚という順に整然と収まる。

それに比べると、酒田の骨拾いなんていうのはざっとしたもので、各自がてんでに小さなチリトリみたいなのに集めて、ざざっと骨壺に入れる。順番なんかお構いなしだから、足だろうが頭だろうが、ごっちゃに収まっていく。

さらに私の父は昭和一桁生まれにしては大柄だったから、骨が壺の口から上にはみ出すほどだったので、係員が上から無慈悲にガシガシ叩いて砕き、無理矢理に押し込めようとする。

私はそれを見ながら、「おいおい、俺の親父なんだから、そんなに叩かないでおくれよ」と思っていたが、係員はお構いなしで、骨が崩れて壺にちゃんと収まるまでガシガシ叩く。さらに、台の上に小さな骨の破片の取り残しがあるのに、委細構わずさっさと片付けてしまう。

郡山の火葬場の係員のものすごく丁重な作法に比べると、その大雑把さ加減が際立つ。私なんか六尺近い体だから、「俺が死んだら、さぞかしガシガシ叩かれるんだろうなあ」と思ってしまったのだったが、郡山のような土地で死んだら、少なくとも叩かれるなんて乱暴な扱いは受けずに済むかもしれない。

でもまあ、どうせ死んでしまって魂の抜け殻なんだから、どんな扱いを受けても別に構わないかと、あっさり思ってしまうのは、私の酒田の血のなせる技である。

 

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2013年6月23日

「アレルギー」の語源について、一石を投じる

今月 19日の "「アレルギー」の語源と、世間が本当にググらないことについて" という記事で、「ギリシャ語の "allos"(奇妙な)と "ergon"(反応) という 2つの単語を組み合わせて、ドイツ語風にアレンジした造語」と書いたが、これについてはちょっと怪しいということがわかったので、改めてこちらに書いておく。

当該記事にも【6月 23日 追記】として触れておいたが、Clark さんの次のようなコメントで、私は自分の甘さを反省した。

allos はプレーンに「他の(other)」を意味する語なので、「正しいもの」と対置して「変わった」となる場合もありますが、一語で「奇妙な」と訳すのは少々怪しい気がします。

この指摘で、私はギリシャ語がさっぱりわからないくせに、ネット上の「奇妙な反応」とした説を鵜呑みにしたことをとても恥ずかしく思ったのである。

で、改めてオンライン辞書で調べてみたところ、"allos" に対応する英語は "other" あるいは "another" であると信じていいようだと思われた (参照サイトは、こちら)。つまり「別の」とか「もうひとつの」とかいう意味である。

ただ、"ergon" というギリシャ語に関してはついに調べがつかなかった。しかし英英辞書で "ergo" を調べると "therefore or consequently" で、おおよそ因果関係のあるところにおいて 「それ故に」という意味で使われるというところから、古いギリシャ語の "reaction" (反応)という意味の言葉が語源だったのだろうと推測できる。

つまり「アレルギー」という言葉は、「(正常な反応とは別の)、もうひとつの反応」ぐらいに考えるのが無難なところという気がするのである。それを突き詰めれば「奇妙な反応」と解釈することもできるかもしれないが、確かにちょっと意訳しすぎという気がする。元々は「過敏な生体反応」を指す言葉として作られたのだから。

というわけで、日本語のネット上では「奇妙な反応」説が優勢だが、ここに一石を投じておくことにする。

 

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2013年6月22日

所変れば冠婚葬祭の風習も変る

叔母が亡くなり、通夜と告別式に出席するため、福島県の郡山市に来ている。従姉妹が仕事の関係で、郡山に定着しているのだ。

冠婚葬祭に関する風習というのは土地によって様々あるもので、通夜の受付に香典を出したら、「これは通夜の香典か、それとも通夜と葬儀の二つ分をまとめた香典か」と聞かれた。

一瞬意味がわからず、「は?」と聞き直すと、どうやらこの街では、通夜と告別式の両方に出席する人は、2回香典を出すのがスタンダードらしい。私が知る限りでは通夜で香典を出したら、翌日の告別式にまで香典を用意するなんてことはしたことがないから、ちょっとカルチャーショックを感じた。

まあ、例えば 3万円包むのであれば、通夜に 1万円、告別式に 2万円と、分割して包むことになるんだろうから、同じことなら 1度に 3万円包む方が、お互いに面倒がないと思うがなあ。でも、郷に入っては郷に従えというから仕方ない…… と思ったが、不祝儀袋を 2つも用意していないので、恐縮ながら 1度でまとめさせていただいた。

明日は午後 1時からの告別式の前に、9時過ぎから火葬をするというのだが、その前に「お別れ」の会をするので、7時 50分に集合するのだという。そんな早くから始まる冠婚葬祭行事というのも、初めてだ。

「所変れば品変る」というが、冠婚葬祭の流れも変るのだなあと、感心した次第。そういえば、私の居住する茨城県では、葬式のことを 「じゃんぼ」というのだよね。どうやら、葬式で銅鑼や太鼓をジャンボンジャンボン鳴らすかららしい。いやはや、日本も広い。

 

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2013年6月21日

抱っこして歩き回ると赤ちゃんがリラックスする 「輸送反応」

ちょっと旧聞になってしまうが、理化学研究所が 「抱っこして歩くと赤ちゃんがリラックスする仕組みの一端を解明」という広報資料をウェブに載せている(参照)。抱っこして歩くと赤ちゃんが泣き止んでおとなしくなるのは、他のほ乳類全般にもみられる「輸送反応」という現象なのだそうだ。

赤ちゃんを抱っこして歩くと、確かにおとなしくなる。これは体験的に知っている。そして、他のほ乳類でも、首筋をくわえて運ぶと、赤ちゃんは体を丸めて運びやすい体勢を取る。つまり、赤ちゃんなりに親に協力しているのだ。

ただ、私は抱っこして歩き回ると赤ちゃんがむずかるのを止めることは知っていても、それがリラックスしたためなのか、あるいはどこかに連れて行かれるのが不安で、少しおびえてしまって、眠りの中に逃避してしまっているのか、わからなかった。

もしかして不安を与えてしまっているのだとしたら、親の都合でおとなしくさせるために、ストレスを与えてしまっていることになるのだから、少しかわいそうかもしれないと思っていた。しかし、今回の理化学研究所の研究成果で、どうやら本当にリラックスしているらしいとわかり、安心した。

安心はしたものの、我が家の子どもたちはとっくに成人しているので、抱っこして歩き回ってやる必要はなくなった。そのうち孫ができたら、しっかり抱っこして歩き回ってやろう。

 

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2013年6月20日

政治家の 「失言」 という宿業

自民党の高市早苗政調会長の、原発事故関連で 「死亡者が出ている状況ではない」 という発言が問題になり、「エネルギー政策に関する発言のすべてを撤回」 というところまで追い込まれた。まったくもう、政治家の失言癖って、「持病」 とか 「宿業」 とか言えるほどのものなんじゃないかという気がする。

直接的な話としては、私は昨年 3月の "原発事故では本当に一人も死んでいないのか?" という記事で、次のように書いている。

救えたかもしれない命を、いわば見殺しにしてしまったケースがあり、さらに強いられた避難生活で命を縮めた人もいるという事実に直面しながら、「少なくとも原発事故では死者は一人も出ていない」 と主張し続ける強引さを、私は残念ながら持ち合わせていない。

私は政治家というのはどうしてこんなにも頻繁に 「失言」 するのかと、いつも不思議でしょうがなかったのだが、多くの場合、次のようなメカニズムで発生するのではないかと思い当たった。

政治家たちは、仲間内で日常的に 「当たり前」 のこととして語ってきすぎたような内容を、あまりにも 「当たり前」 と思いこみすぎて、 公式の場でもつい無警戒に、時にはいらぬ演出まで盛ってしゃべってしまうのではなかろうか。それが運が悪いとリークされるか、新聞記者に取り上げられたりして、「失言」 と位置づけられてしまうのだ。

もっと言えば、仲間内の会話では、親分に楯突くヤツなんかおらず、「まったくその通りですよねぇ」 とおべんちゃらばかり言われるから、「当たり前」 という思い込みが 「正論」 という妄想にまで高まってしまって、それ故にますます無警戒になる。「正論」 を展開するのに、何の遠慮がいるものかということになってしまうのだ。

政治家の失言は、内容的には茶坊主たちのおべんちゃらの渦の中で、いい気持ちで語ってきすぎたことそのものである。とくに右派の人たちの 「問題発言」 なんて、一杯飲み屋や銭湯なんかの 「ちょっとお行儀の悪い論壇」 で語ったら大受け間違いなしみたいな内容だから、「ちょっと待てよ」 と立ち止まって、その論理展開を自らまともに検証したことがないのだ。

というわけで、「仲間内では、いつもいい気持ちで語れた内容」 が、前提となる文脈が共有されていない相手にとっては、「トンデモ発言」 になってしまうのである。そのことを理解していれば、政治家の 「失言」 というのは生じないはずなのだが、茶坊主やいつものお仲間としか付き合わない政治家では、そのあたりがどうもうまく運ばない。

とくに 「講演会」 なんかだと、聴衆はみんな仲間内だと思っているものだから、つい調子にのって、いつものヨタ話にさらに尾ひれをつけて、「ウケ」 を狙ってしまったりする。そんな時、聴衆の中にちょっと意地の悪い新聞記者がいたら、あっという間に 「問題発言」 記事ができてしまう。

今回の 「原発事故では死者は出ていない」 という 「ヨタ話」 にしても、あの池田信夫氏を筆頭に、かなり多くの人がドヤ顔で主張している。そんな 「仲間内意識」 の一環として、あの高市さんの発言もあったわけで、「そうじゃないよ」 というアンチテーゼがきちんと届いていたら、政治家としてあんな発言はできなかっただろう。

さらに気になるのは、政治家が失言の言い訳をする時の、お約束のレトリックである。今回の高市さんも 「発言によって大変つらい思いをされ、怒りを覚えられたとしたら、申し訳ない」 という、いつもの仮定法だ。ということは、「そうでなかったら、問題ないよね」 ということで、つまり 「発言は撤回するけど、考えは変えないぞ」 と、言外に言っているのでる。

しかし、「つらい思いをし、怒りを覚え」 た人が実際に 「いる」 のは明らかなのである。だからこそ、ここまで批判が高まっているのだ。つまり、こうした言い訳に多用される仮定法レトリックは、「既に否定された、あり得ない論理」 であり、傲慢な意識の反映でしかないのである。

このことに関連して、例の大震災の時に被災地に乗り込んで  「チョー・ゴーマン」 な態度を見せつけてくれた松本龍氏の言い訳を、"「傷つけた」 んじゃなく、「怒らせた」 んだろうよ" として無茶苦茶批判した自分の記事を思い出した。

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2013年6月19日

「アレルギー」の語源と、世間が本当にググらないことについて

最近、知人と四方山話をしていて花粉症の話題になった時、彼は「そういえば、知ってる? 『アレルギー』って言葉は、ドイツ語で『よくわからない』という意味なんだってね」と言いだした。

それを聞いて私は直観的に、「どこで聞いたか知らないけど、それは確実にガセネタだと思うよ」と言った。「アレルギー」は確かにドイツ語だろうが、「よくわからない」なんていい加減な言葉を医学用語にするのは、あの理屈っぽいドイツ人のメンタリティからしてあり得ない。

「いやぁ、確かにそう聞いたけどなあ」といぶかる知人を尻目に、私はさっさとポケットから iPhone を取り出し、「アレルギー 語源」のキーワードでググってみた。答えはすぐに出たが、いつものように、念のため複数サイトで確認した (参照 1参照 2参照 3)。

手短に言うと、「アレルギー」という言葉は、1904年に Clemens Peter Freiherr von Pirquet というオーストリアの科学者/小児科医が、ギリシャ語の "allos"(奇妙な)と "ergon"(反応)という 2つの単語を組み合わせて、ドイツ語風にアレンジした造語なんだそうだ。

上述の「参照 2」のリンク先は、なんだかもっともらしいサイトだが、造語した人物の名を「C・V・ピルケール」としている。しかし "Pirquet" はどう読んでも「ピルケール」にはならないだろうなあ。それに恐縮ながら、ちょっと悪文が目立つ。

いずれにしても、オーストリア人がギリシャ語を組み合わせてドイツ語風に造語したというのが、ちょっと奥深いところである。もしかしたら、「奇妙な反応」という意味が伝言ゲーム的に広まっている間に混乱して、「よくわからない」なんてことになってしまったのかもしれない。

ちなみにこれと似た話で、かなり広く信じられている「カンガルー」が「わからない」という意味のアボリジニ語だなんていう説も、実はガセネタなのである (参照 1参照 2)。人に聞いたことを安直に信じすぎることについて、私は先月 12日の「20歳を「はたち」というわけ」という記事でも「困ってしまう」 と書いている。

知人は、「いやぁ、スマホってすごいね。すぐに調べられるんだもんね」と感心していたが、すごいのはスマホではなく、「軽い気持ちでググってみる」という姿勢である。その証拠に、自分だってスマホのユーザーのくせに、都市伝説をあっさり信じてしまっているではないか。

もう 4年前になるが、「世間がそれほどググらないのは」という記事を書いた。インターネットの普及で、ちょっとググリさえすれば大抵のことは調べがつく世の中になったというのに、世間の人はググるより先に人に聞いて済ませたがる。ところが人に聞いて得た知見の多くは不正確なものでしかない。「アレルギー」や「はたち」の語源のように。

私ぐらいに何かというとすぐにググってみたがるのは、案外珍しいみたいで、「どうしてそんなに調べたがるの?」なんて聞かれることがある。「だって、わからないままだと気持ち悪いじゃん」と答えるのだが、その気になればすぐに調べられる道具をもっているくせに、調べずに済ませていられることの方が、私には信じられない。

まあ、とはいっても、私だって興味のないことまでググるなんてこともない。ということはつまり、世間の興味の幅って、ものすごく狭いのであって、私は特別「物好き」ということなのかもしれない。

【6月 23日 追記】

Clark さんから、ギリシャ語の "allos" を「奇妙な」と訳すのは無理があるとのご指摘のコメントをいただいた。

私はギリシャ語がさっぱりわからないのに、この肝腎の部分をググらずに済ませていたことを恥ずかしく思い、改めてギリシャ語/英語の対訳サービスでググってみた。並のサイトでは "allos" に対応する英単語は見つからないと言ってくるが、こちらのサービスで、"allos" に対応する英語は "other" であると出てきた。

となると、元々の意味は 「別の反応」 ということになる。ものすごく意訳すると「奇妙な反応」ということになるかもしれないが、ここは慎ましく、「通常とは違った反応」ということにしておく方がよさそうな気がする。

 

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2013年6月18日

スパム・コメントには、リンク先書き換えで対応しよう

このブログに時々 「とても魅力的な記事でした。また遊びに来ます!!」といったようなコメントが付く。最近では 4月 4日の記事に付いた。あちこちのサイトに同じ文面でスパムしまくってるんだろうというのがみえみえである。試しにこのテキストをキーワードにググってみると、350万件以上ヒットした。明らかに手作業ではない。

コメントには抜け目なく自分のサイトの URL も添えられていて、それをクリックしてみると、大抵いつもの「履歴書バイブル」というサイト (もしかしたら、類似のサイトがいくつかあるのかもしれないが)に飛ぶ。

このサイト、就職活動をする学生(あるいは社会人)のための、印象のいい履歴書の書き方を指導するという体裁になっていて、よくみると、面接の際にどんな服を着ていけばいいかなんてことまで触れている。最近の厳しい就活事情に対応して、「一見するとよくできた良心的なサイト」に見える。

こんな 「一見すると良心的なサイト」が、どうしてこんなスパム・コメントをしまくるのか、ちょっと違和感をもったが、すぐに「一見良心的」な衣の下の金儲け事情が透けて見えた。このサイト、実は広告の塊なのである。アクセスが増えれば増えるほど、広告主から広告料が入る仕組みのようなのだ。

「履歴書の書き方」「お手本」から、「ペン習字」「ビジネスマナー講座」「自分磨きレッスン」「自己啓発」などに至るまで、いろいろなサイトに誘導するようになっている。自分のサイトのコンテンツは最小限で、重要部分はほとんど他サイトに行ってもらうリンクでしかない。要するに、「客集め代行サイト」なのだ。

「客集め代行」だけに、スパム・コメントをしまくってでも、アクセスをかせぐ。ググッた結果は 350万件以上だが、スパムとして削除されているのもかなりの数に上るだろう(私も、上記の 4月 4日のもの以外は、すぐに削除してきた)から、少なくとも 500万件以上のコメントをしまくっているものと思われる。

スパム・コメントをしまくるシステムに投入された金額を、はるかに上回る広告収入があるのだろう。世の中には抜け目のないやつがいるものだと、感心するというよりも、ちょっと呆れてしまったのであった。

ちなみに、4月 4日のコメントを削除せずに残してあるのは、リンク先を書き換えて、もっと楽しいサイトに行くようにしたからである。『天才バカボンのパパ』 のアニメが見られるので、お暇があればクリックしてみるといいかもしれない。(これで私自身がお金をもらっているわけではないので、よろしく)

全国のブロガー諸氏にも、同じようなスパム・コメントが付いたら、別のサイトに飛ばすように、リンク先を書き換えるようにオススメしたい。5月 7日の記事に付いた 「ニューバランス」というスニーカーブランドにリンクするスパム・コメントも、リンク先を雪駄やトイレのサンダルに飛ばすよう細工させてもらった。

ただ、この対応をする際には、飛ばした先の印象を落とさないためと、せっかくスパムを付けても自分のサイトに飛んではもらえないことをアピールするためにも、「リンク先を変えた」 という断り書きを付けるべきだろう。私はそうしている。

 

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2013年6月17日

「どんじょけり」 という庄内弁

先月末に、高校時代の同級会に行った。昭和 46年卒業で首都圏在住の 20数名がちゃんこ鍋屋に集まって飲んだり食ったりした。しかし、「飲んだり食ったりした」という割には、出席した者はみな、ちゃんこ鍋やにふさわしいほどの量の飲み食いは、できない年になってしまっていた。

そのことについては、先月 28日付の「酒をぐびぐび飲めなくなったので」という記事に書いたが、それ以上にショックだったのが、出席した 20数名のうち、「どんじょけり」という庄内弁を知っている者が、私を含めて 3名しかいなかったという事実である。

「どんじょけり」とは「どじょうすくい」という意味である。それは酒田で育った者なら誰でも知っていることだと思っていたのだが、中学校ぐらいの若いモンならいざ知らず、還暦を過ぎた連中のほとんどが「知らない、使ったことも聞いたこともない」というのである。これが驚愕でなくてなんだろう。

「どんじょけり」が私のデタラメではない証拠に、インターネットにだってきっと登場しているはずだと、「どんじょけり」 をキーワードにしてググってみると、"Mr. モシリの『正しい庄内弁講座』-「と」で始まる庄内の方言-" と "みんなで作る和庄辞典" という 2つのページがヒットした。

「そらみろ、ちゃんとインターネットにだって載ってるじゃないか」と、リンク先に行ってみると、前者には「どんじょけり どじょうすくい  《by tak》」とある。なんだ、ネタ元は私か。これじゃあ、客観的なオーソライゼーションにはならないじゃないか。

後者のページに行ってみると、「どじょうすくい →庄内語 [どんじょけり]」とある。さらに用例まで示してあって、「お父さんは、田んぼにどじょうすくいに行った → だだちゃ、たぁさ、どんじょけりいた 情報提供 : tak さん」とある。なんだ、こっちのネタ元も私か。

しょうがないから、酒田では知らぬ者とてない郷土史家にして昔話の達人、最強の庄内弁の使い手である佐藤公太郎さんの著書 『改装 庄内むかしばなし 唐の大王鳥』 (みちのく豆本の会・刊) から引用しておこう。「兄マの正月礼」 (P129) という話に、次のようなくだりがある。

したバノ、肝煎ど田サ泥鰌 (どんじょ) けり行ったでわっで、田サ行たド。せきンどごで泥鰌けりしったナ、見 (め) るもんだサゲ……

(日本語訳)
そうしたらね、肝煎りどんは田んぼに泥鰌すくいに行ってると言われて、田んぼに行ったんだと。堰のところで泥鰌すくいしているのが見えるものだから……

どうだ、「どんじょけり」は、佐藤公太郎さんの著書にまで登場する、由緒正しい庄内弁だと証明されたではないか。

それにしても、方言は衰退の一途である。本気になって保存しないと、我々の世代が死んでしまったら、まともにしゃべれるやつは本当に極々少数派になってしまうだろう。ああ、心配である。

 

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2013年6月16日

写真と記憶の外部化

私のもう一つのブログ「和歌ログ」は、和歌と写真のコンビネーションで成り立っていて、毎日更新するだけに、毎日写真を撮りまくっている。使うのは 1日に 1枚だが、撮る枚数はその何倍にもなる。下手すると、1日に 100枚以上撮るということもある。

私がこんなに写真を撮るようになったのは、デジカメが普及してからのことだ。アナログのカメラの時代は、写真を撮るのはとても面倒だった。面倒が何よりも嫌いな私としては、重いカメラを首からぶら下げて、写し終えたフィルムを巻き戻して写真屋さんにもっていき、現像してもらったのを後日受け取りに行くなんてことは、到底したくないことだった。

いや、業界紙記者をやっていた頃は、仕事としては仕方なく写真を撮ることもあった。だから、写真は下手じゃない。しかしプライベートでまで、そんな面倒なことをしたいとは思わなかったのである。

だから、私は結構海外に行っているのに、その証拠写真が極めて少ない。10年ちょっと前に死んだ犬の写真も、まともなのが残っていない。愛犬の写真ぐらいはきちんと撮っておくんだったと、後悔しても始まらない。

写真を撮るのが死ぬほど面倒だった頃は、「行った先の風景なんか、頭の中に刻んでおけばいいじゃん」 と思っていた。事実、写真をあまり撮らなかった頃の旅先の風景の方が、ずっと鮮明に記憶されている。何かといえばちょこちょこ写真を撮りだしてからは、風景を記憶する力が衰えた気がする。

考えてみれば、写真を撮るというのは記憶の外部化である。脳内にではなく脳の外にあるメディアに記憶させて、必要に応じでそれを見る。だが写真に映っているのは、実際の景色の中から 3×4 の比率でトリミングした一部分だけだから、そりゃあ、脳内に焼き付けられた光景の方が、圧倒的に迫力がある。

写真を撮っている間は、眼前の圧倒的な迫力の光景より、カメラ、あるいはケータイの小さな画面に切り取られた景色に注目してしまって、実際の光景は見ているようで見ていない。これはちょっと、「もったいないこと」ではある。

下手すると、写真に頼りすぎるのは、PC の日本語入力システムに頼りすぎて漢字を書けなくなってしまうようなもので、人間本来の能力を損なうことになるのかもしれない。

さらに言えば、文字にして残すという行為すら記憶の外部化である。古事記は太安万侶によって文字化される以前は、口承で伝えられてきた。文字化されたとたんに、稗田阿礼のように口承で語れる人がいなくなった。アイヌは文字を持たなかったからこそ、『ユーカラ』 を語り継ぐことができたのである。

うむ、これからは意識して、実際の景色を脳内に叩き込んでから、iPhone を取り出そうと思う。

 

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2013年6月15日

「グッポン」 を巡る冒険 (その2)

2年ちょっと前、"「グッポン」を巡る冒険" という記事を書いた。「グッポン」というのは、あの配水管が詰まった時なんかに使う、先の方に半球型のゴムがついた道具である。

正式には「ラバーカップ」または「通水カップ」というらしいが、それは一般には浸透しておらず、関東では「トイレのシュポシュポ」なんて言われている。だが関西方面では確固たる通称があり、大阪あたりでは「グッポン」という名称の方がずっと通りがいいらしい。

ところが、この記事を書いた時に、念のために「グッポン」をキーワードにググってみたところ、想定通りの品物の他に、意外な商品がヒットしてしまった。それは有限会社福島製作所という会社の、ソースや油など調味料の内フタを外すための道具で、まさに 「グッポン」 という商品名だったのである。

私はこの記事を次のように結んでいる。

商品名を決定する際に 「ちょっと待ってください。大阪方面ではトイレのシュポシュポのことを 『グッポン』 というらしいですよ」 と言ってくれる人はいなかったんだろうか。

いなかったんだろうなあ。まことに恐縮ながら、残念なことである。

ところがつい最近、ふとしたことからこの自分の記事を思い出し、「この会社、グッポンをまだ取り扱ってるだろうか?」と、記事中のニッセンへのリンクをクリックしてみたら、「大変申し訳ございません。お選び頂きました商品は現在取り扱っておりません」という表示が出た。

「ああ、よかった、きっと『この商品名、マズイっすよ!』と気付いた社員がいて、取り下げたのだろう。きっと別の名前にして展開しているんだろうな」と思い、「どんな商品名にしたんだろう」と調べてみた。そうしたらなんと、元の名前のままだった(参照) という、まあどうでもいいような、ちょっと残念なようなオチなのであった。

 

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2013年6月14日

当面、ウナギとマグロは食わないことにする

唐突かもしれないが、とりあえず、当面はウナギを食わないと宣言しておく。それからマグロも。ただ、仕事などの出先であてがい扶持の弁当で出てきた場合は、捨てるのももったいないから、仕方なく食う。つまり、自分で選択して食うということは、絶対に止めるということだ。

ウナギは資源枯渇が最も危惧される魚種であるらしい。だったら、簡単な話で、ウナギが増え始めるまで食わなければいいだけのことだ。ウナギを食わない人間が増えれば、ウナギの減少にもストップがかかり、ほどなく増加に転じるだろう。しかし、それは私の生きているうちは実現しないだろうから、生きているうちにウナギを食う機会は激減するだろう。

別段、ウナギなんか食わなくても死にゃしないから、スーパーの店頭からウナギが消え去ってしまっても、個人的には全然困らない。街の鰻専門店で供されるギリギリの供給さえなされればいいだろう。ファミレスや蕎麦屋のチェーンのメニューなどにある、蕎麦とミニ鰻丼のセットとかいう姑息なものも食わない。

それから、土用丑の日だからといってウナギを食うなんてこともしない。流通業界としても、「資源枯渇を食い止めよう」 とか駄洒落みたいなことでもいいから、消費者啓蒙を行うべきだろう。当面食うべきじゃないものは食わないにこしたことはないという、当たり前の共通認識をもつべきだ。

どうしてもウナギが大好きで食わずにはいられないという人も、中にはいるだろうが、そういう人も少し我慢して、毎日食ってたのを三日に一度にするとか、三日に一度を週に一度に減らすとかぐらいのことは、してもバチは当たらないだろう。

マグロに関しては、危ないのはミナミマグロだけだとか、それにしても怪しくて、本当のところはわからないとか、いろいろなことが言われているが、いずれにしても、私は別に特別好きというわけじゃないので、これも自分で選んでまでは食わないと宣言しておく。

寿司を食うにも、マグロは食わない。そういえば私は、この数年間にわたって、回転寿司でマグロの皿を取ったことがない。私はマグロよりイワシやイカの方が好きという、非常に安上がりな人なので、別に我慢してどうのこうのというわけじゃない。

というわけで、多分死ぬまで、ウナギやマグロはほとんど食わずに済むだろうと思っている。

 

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2013年6月13日

「道化」 を巡る冒険

昨日の 「おとがい」 の、語感からの連想で「道化」という言葉を思い出した。「おどける」という日本語は、「道化」から派生したものという説がある。「おどけ」を「お道化」と表記している最も有名な作品は、太宰治の『人間失格』だろう。次のように書かれている。

人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩(おうのう)は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。

ただ、いくら「おとがい」に「減らず口をたたく」という意味があり(Goo 辞書)、それが東北では訛って「おどげ」と言われることがあるとしても、「おとがい」と「お道化」は、言葉としては別物だろう。しかし、意味合いにはある種の共通点がある。

「道化」を国語辞書で引くと、大抵「人を笑わせるようなこっけいな身ぶりや言葉。また、それをする人。おどけ」(Goo 辞書)という語義が出てくる。しかし私の手持ちの『携帯漢和中辞典』(三省堂)では、次のように解説されている。

  1. ふざけた、おかしい身振りをして人を笑わせること
  2. みちびき教える
  3. [仏] 道法をもって人を教化 (きょうげ) すること

なんと、元々は仏教用語にもみられるように、人に道を説き、教化するというようなことであったのだ。確かに、文字通りみればそういうことで、ふざけて笑わすなんて意味は、直接的にはない。

人を教化するという意味の真面目な言葉が、どうしてまた、ふざけて笑わすなんてことになったのか、不思議だが、仏教用語を解説する 「だいご倶楽部の一語一会(いちごいちえ)」 というブログに "真の「道化師」になろう" という記事があり、そこにこう記されている。

さて、仏教でいう 「道化」 は、道法を説くことをあらわしています。
特に仏教が中国に伝わった頃、教えの立場の者(師)が諸国を遊説していました。
法を説くためです。
しかし、その真理は一般庶民にとって難しいものでした。
その為に、今で言う客寄せのために、冗談も言えばおかしな身振りもしたものです。
ここから 「道化師」 という言葉が生まれてきました。

なるほど、そういうこともあったのだろう。信仰と芸能は根っこが一つで、日本でも「浮かれ坊主」や「願人坊主」という存在があった(参照)。道を説くための方便として始めた滑稽芸が、いつの間にか本業になってしまうのである。

信心の世界におけるこうした逆転現象は、案外よくあることだ。私はこれを「聖俗一致の法則」なんて言っている。「聖俗一致」の最も如実に表れているのが、「頓」という字だ。「トンマ」「トンチキ」の「頓」である。このことについては、7年前に "悟って 「トンマ」 になる" という記事の中で書いている。

 

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2013年6月12日

「おとがい」 を巡る冒険

若い人の間では「おとがい」という言葉はとっくに死語になっているのだろうが、「下あご」を指す古語である。古語とはいっても、少なくとも戦前の文学まではよく出てきていたし、東北では今でも「おどげ」とか「おどがえ」 (おとがいの訛り) なんていうところもある。我が庄内でも、昔は 「おどげ」 という年寄りがいたが、今ではあまり聞かれなくなったのが残念だ。

解剖学用語としてのカタカナの「オトガイ」は今でも現役で、「下顎骨の先端部」を指す。そしてそこに付いている筋肉は「オトガイ筋」というらしい。力を込めると梅干しの種みたいになる部分のことだ。

「おとがい」は漢字で書くと「頤」または「頷」で、後者はそのまま「あご」とも読まれるし、また「うなずく」という字でもある。してみると、否定する動作は 首を振る」だが、肯定を表す「頷く(うなずく)」という動作は、「首」ではなく「あご = おとがい」を下げることであると認識されてきたようなのだ。

なるほど、「首を振る」というだけで普通は「横に振る」ことを表して、否定や拒否を意味するのも、縦に振るのは「首を縦に振る」なんていうよりも「頷く」というもっと洗練された言葉が存在するからだったのか。

「おとがい」には「下あご」の他に、「おしゃべり」という意味もある。『大辞林』には、「盛んにしゃべりたてること、口数が多いこと」という語義が記されている。また、Goo 辞書には「減らず口。また、減らず口をたたくこと。また、そのさま」とある。

しかし、手持ちの 『携帯漢和中辞典』(三省堂)で調べる限り、 「頤」にも「頷」 にも「しゃべる」という意味はないようだ。してみると、「おしゃべり」と「下あご」が一体というのは、漢語由来の概念ではなく、日本独特のコンセプトなのかもしれない。

うがった見方をすると、日本語は「口先」ではなく「おとがい」でしゃべるのだ。表面的な理屈ではなく、「頷く」器官である「おとがい」を使って共感要素を表現する言葉が日本語なのかもしれない。

能面の「翁」には、他の能面と比べて一目で分かる違いがある。それは、下あごが分離されて、ひもでぶら下げられているのだ(参照)。これは「翁」は「しゃべる存在」だからと考えられている。祝福の言い立てをするのだ。

下あご = おとがいが動くのは、「祝福の言い立て」の象徴なのである。翁以外の能面は、おとがいが動かない。「幽玄」の象徴である。こんなところから後代の日本では、よくしゃべるのはあまり上品なことではなく、「おとがいをやたらに動かさない方が上品」と思われるようになったのではなかろうか。

日本人が外交下手なのは、根元的にこうした価値観に縛られているからかもしれないね。「大事なことは、ことさらに言わなくても心で通じ合える」なんて考えているからいけない。実際の場面では、「言わなきゃわからない」か、「わからないふりをされる」のである。

 

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2013年6月11日

スティーブ・ジョブズ亡き後の Apple の方向性

私は近頃、Windows 8 なんてひどい OS を見せつけられたからには、もう Windows に見切りを付けて、Mac に鞍替えすると、何度も表明している。この決意は全然変っていないのだが、依然として Windows 7 を OS とする Let's note を使い続けていて、目指す MacBook Pro の購入にはなかなか至っていない。

その理由は、今使っている Windows 7 が案外使いやすいことと、Let's note がいつまでも調子いいことだ。Let's note は、一時ちょっと不機嫌状態の時があったが、久しぶりにデフラグをしてあげたら見違えるように回復した。

このマシンを買ったのは、平成 22年の 5月 11日だから、既に 3年を越えている。私はこれまで、平均 3年ごとに PC を買い換えてきた(酷使してるものだから、大抵そのくらいのタイミングでオシャカになるのだ)ので、もうその時期ではあるのだが、この CF-S9 モデルが調子よすぎて、なかなか買い換えの踏ん切りが付かないのである。

ただ、MacBook Pro の新モデルが発表されたら、多分すぐに買うだろう。問題は、それが今年の夏じゃなさそうで、来年の春以降になるんじゃないかということである。そこまで我慢できるかどうかの綱引きになる。

iPad と iPhone を使い続けてきたことで、急速にリンゴのエキスを体中に染みわたらせてしまったように見える私だが、Apple を手放しで礼賛しているわけでは決してない。何となく嫌な感じがしているのは、将来的に iOS と Mac OSX は統合されるのではないかという噂と、最近進められている UI の 「フラットデザイン化」 に関してだ。

iPhone や iPad に搭載されている iOS と、Mac に搭載されている Mac OSX は、機能の共通化を進めている。iCloud を両方で利用できるようにして、データを共有したり、Siri を Mac でも使えるようにしたりということだ。また、Pages、Numbers、Keynote などのオフィス・アプリを、機能限定ながら iOS でも使えるようにしていたりもする。

この動きを見ていれば、iOS と Mac OSX は、将来的に統合されるんじゃないかと思われてもしょうがない。しかし、Microsoft が Windows 8 で PC とタブレットの両方を制御しようとして、見事にずっこけてしまっているのを見ても、Mac と iPhone/iPad を一つの OS で動かすというのは、あまりにもリスキーだ。中途半端なものになるのは避けられない。

幸い、Apple のティム・クック CEO は、Windows 8 を「トースターと冷蔵庫を合体させようというアイデア」と評し、「MacBook Air と iPad を統合するようなことは決してない」と、両 OS の統合を否定している(参照)。この言葉をしっかり守ってもらいたいものである。

もし、先代のスティーブ・ジョブスのように派手な約束破りをするなら、「ここまで進化させての上なら、約束破りも歓迎だ」と言われるような画期的なものにするところまで、先代に倣ってもらいたい。

二つ目の危惧、「フラットデザイン化」は、スティーブ・ジョブスが生きていた頃は不可能なことだったろう。アップル特有の、グラデーションやシャドウを強調した立体的なデザインは、多分ジョブスのお気に入りだったのだと思う。そしてそれは、私のお気に入りでもある。

私のメインサイトのトップページを見れば、アイコンやボタンやバナーが、結構立体的に作られていることがわかるだろう。これって多分、60年代から 70年代にかけてのカウンター・カルチャーの流れだと思うのだ。だからこそジョブスは、敢えてリソースの消費が大きい立体的デザインを使ってまで、そこにこだわって見せたんだろうね。

それがいっぺんに現代風なフラット・デザインにされてしまったら、なんとなく、Apple が Apple じゃなくて、バナナかマンゴーかなんかになっちゃうような気がしてしまう。私は自分自身のファッションにはあまり構わないんだけど、使うもののデザインには、案外こだわってしまうのだよ。

立体的デザインの UI というのは、オールドタイミーなものになってしまうのかなあ。そうだとしても、あまりのっぺりしたものにしないで、最低限の立体性は残してもらいたいものである。今風の無機質なのっぺりデザインと、どれも同じ顔に見える韓流女性タレントって、私の中では同じ範疇に属してしまうのだよね。

 

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2013年6月10日

「じぇじぇじぇ」と「シェー」

産経のサイトの【『深・裏・斜』読み】 で取り上げられている「じぇじぇじぇブーム」(参照) って何のことかと思ったら、NHK の朝ドラの「あまちゃん」が発生源のお話らしい。基本的にこの手の番組は見ないので聞いたことがないのだが、試しに YouTube で検索してみたら、こちらで聞くことができた。岩手県久慈市の小袖地区のみで使われるレア方言だという。

岩手県では「じぇ」以外にも驚きを表す 「兄弟語」 が点在しているそうで、「じゃ」(盛岡市など)、「ざー」(宮古市)、「さー」(奥州市)、「ばー」(大船渡市)、「だ」(大槌町)などがあるという。産経の記事はさらに、次のように指摘する。

全国に目を転じると、驚きや戸惑いを表現する感動詞は、岩手県以外にも京都から伝わった形跡がある。ドラマなどで幕末の志士、坂本龍馬が発する 「ちゃ」 もその一つ。正確な数は不明だが、全国で少なくとも約 40以上の「じぇ」の “親類語” があるとみられる。

それを言ったら、その昔、おそ松くんに出てくるイヤミが連発した「シェー!」だって、「じぇじぇじぇ」 のお仲間に違いない。私の死んだ祖父も、何かに驚いたり感心したりすると、すぐに「しぇー」が出た。さらに何にでも「のぅ」が付く庄内弁のことだから、ほとほと感心したりすると「しぇーのぅ」なんて言っていた。

赤塚不二雄先生は新潟県で中学生時代を過ごしていて、庄内とはそれほど離れていないところだから、多分「しぇー」とか、それにごく近い感動詞を耳にしていたんだと思う。

そもそも「しぇー」は方言とも言い切れない。歌舞伎でも驚きを表現する時に「しぇー」とか「しゃー」とかいう感動詞が出てくる。「しゃー、そりゃ、まことか?」ってな具合である。六代目歌右衛門の「しぇー」はとても見事だった。

「じぇじぇじぇ」と「シェー」 は、確実に親類なのだと思う。

 

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2013年6月 9日

オセロ・ゲームのアプリ

基本的に、将棋だのチェスだの囲碁だのいう類のゲームにはとんと弱い。将棋とチェスは、駒の動かし方ぐらいは辛うじて知っているが、ただそれだけのことで、初心者の域にも達していない。

そもそも、最初に駒が並べられた状態がとても美しく感じられて、「この素敵なバランスを、どうしてわざわざ崩さなければならないんだ?」なんて思ってしまうほどの「平和主義者」なので、てんでお話にならない。

囲碁となると、いくら説明してもらっても、基本的なルールというか、石をどうおくとどういう意味になるのかさえ理解できない。囲碁好き同士が対戦しているのを眺めても、どっちが優勢なのかすら皆目判断できず、ただ「ファンタスティックだなあ」と思うだけである。

とまあ、これほどまでに盤面に駒や石を置くゲームには才覚がないが、なぜかオセロだけは嫌いではない。愛用の iPhone にも「オセロ」という無料アプリをインストールしていて、電車で移動の時など、ちょっとした時間つぶしに重宝している。

このアプリは難易度が "EASY" "MEDIUM" "HARD" の 3段階に設定できるようになっていて、"EASY" ではあまりに難易度が低くて楽勝しすぎるので、長らく "MEDIUM" というレベルで楽しんでいた。ところが、これでも滅多に負けずにすむようになり、だんだん物足りなく感じ始めていたのである。

ただ、"HARD" に設定してしまうと、iPhone 側が急にやたらと強くなって、全然歯が立たない。"HARD" と "MEDIUM" の差は、ほとんど天と地ほどの開きに感じられるのである。それで、「このゲーム・アプリには、自分に最適のレベルが設定されていない」 と感じて、しばらく手を付けないでいた。

ところが、先日の名古屋出張で、新幹線の中で久しぶりにこのアプリを立ち上げ、"HARD" の設定で対戦してみたら、なんと、いきなり僅差ではあるが勝ってしまったのである。ただ、これはたまたま運がよかっただけのようで、それから先はボロ負けが続いた。

しかしたまたまの幸運のためとはいえ、"HARD" の設定で 1度は勝ってしまったことが忘れられず、帰りの新幹線の中でもトライしてみたら、10回ぐらいやって 2回勝ってしまった。それまでの、「全然歯が立たない状態」からは脱出できたようなのである。

そんなわけで、この 2~3日は 10回対戦したら 2回ぐらいは僅差で勝って、3~4回は僅差で負けるというレベルにまで向上した。ただ、残る 5~6回はやはり大差でボロ負けするので、それほど自慢できるほどのものではない。

私はこうしたゲームをするにも、あまり勝負に執着して入れあげるという性格ではないようで、電車内で 30分ぐらいの間に 10回ぐらい勝負すると 「もうたくさん」 という気分になってしまい、それ以上集中することができない。だから、これから先もそれほどの上達は見込めないだろうと思う。

とはいえ来年か再来年ぐらいに、もしかして "HARD" の設定でも勝率が 5割以上になったりしたら、人間との対戦でも結構勝ちを収めることができるぐらいの腕前になっているかもしれない。そうなれたら、誰かをカモにして威張ってやろうかと思う。本当にそのレベルに達することができるかどうか、あまり自信はないが。

 

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2013年6月 8日

小沢遼子さんのスパムメール騒動

昨日の出がけに、朝の TBS ラジオで評論家の小沢遼子さんが、スパムメールについて「恐いわねえ!」と、例の如くいきり立ったように繰り返していた。「桜井です」というタイトルの携帯メールが来たので、知り合いの桜井さんからのメールだと思って、ついうっかり開いてしまったのだそうだ。

ところが、そのメールは「嵐」の桜井翔というタレントの名を語ったなりすましメールで、そのメールを開いたことがきっかけとなって、その後 1日に 80件以上のスパムメールが届くようになって大迷惑だというのである。

「使い切れない 1500万円振り込みたいから受け取って」みたいな、ネットの世界ではお馴染みパターンのメールが、どんどん届いているらしい。彼女はそういうのに慣れてないみたいで、ものすごく脅威に思ってしまったもののようだ。

この件に関して彼女は、「桜井です」というメールを開いたことが引き金となって、ウィルスに感染したかどうかして、彼女のメルアドが一瞬の間に闇の世界にばらまかれ、大量のスパムが届くようになったかのように思いこんでおいでのようなのである。

しかしそれは単に「最初に届いたスパムが、『桜井です』 メールだった」ということにすぎないだろう。彼女のケータイはガラケーらしいし。

そもそも、桜井翔を騙ったメールは結構出回っているらしく、ネットでは有名な話になっているようだ。 別に桜井翔だけでなく、いろいろなタレントの名を騙ったスパムがあるらしいのである。まあ、だまされちゃうのがいるから絶えないんだろうけど。

で、ちょっと驚いたことに、彼女はこの件で「どうしてくれるのよ、何とかしてちょうだい」と、Docomo にねじ込みに行ったというのである。そんなことを言われても、Docomo のスタッフもちょっと困っただろうなあと思う。

さらに、こんなことをラジオでもっともらしくしゃべったら、スパムが入ってくるのはウィルスに感染したせいで、それはひとえにキャリアの運用が悪いせいだと思ってしまう聴取者も出てくるだろう。政治ネタで毒を吐きまくるのは、それが彼女の仕事だからいいが、わからないネタでいきり立つのは、少し控える方がいいだろうなあ。

 

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2013年6月 7日

Windows のシェア低下を巡る冒険

Slashdot に 「Windowsのシェアは今後急速に低下する?」という記事がある。字面は疑問符付きだが、内容的にはかなり確かなもののようだ。少し引用してみよう。

現在、Windows のシェアは 2013年第1四半期で 60%。2012年の第4四半期の 75%から比べると 15%シェアが低下している。今年中にシェアが 50%を割り込む可能性は非常に高いという。

Windows シェアが短期間のうちにこんなに低下しているのは、いわゆるスマホやタブレット端末まで加えた数字だからで、それを除外していわゆる PC のみに絞ったら、Windows は相変わらず 90%以上のシェアを占めている(参照)。つまり、Windows を OS とするデバイスの数はそれほど減っていないが、他のデバイスが急速に増えているということだ。

それだけに、この記事にある「市場シェアは Microsoft にとってそれほど重要ではない」というのもうなずける。「仮に Windows の市場シェアが 20%にまで縮小しても、ビジネス用途向けの Windows と Office のバージョンアップによる収益で経営的には十分な余裕がある」というのも、まさにその通りだろう。

「iPad と iPhone で重宝しているから、PC まで Mac に乗り換える」という私のようなユーザーは少数派で、大多数のビジネス・ユーザーは Windows を使い続けるのだろう。他の OS に乗り換えるのはハードルが高い。MS Office の代わりに、他の互換ソフトを使うというのも少数派だろう。

ただ、ホームユーザーの多くが「もう、PC なんていらないもんね」と開き直って、スマホとタブレットだけで済ませるようになったら、話は別だ。シェアが減る分にはいいが、絶対数が激減するようだと、MS の収益にもかなり響く。

MS としては OS とビジネス・ソフトの開発を継続して、それによって収益を確保することになるのだろうが、ユーザーとしては機能的には今でも十分満足以上の状態で、これ以上の新開発なんて望んでいない。下手にバージョンアップされても、戸惑うばかりだ。

マイクロソフトが「Office の次期バージョンで実現してもらいたい機能は何か」というアンケートをしたところ、返ってきた要望のほとんどは既に実現されている機能ばかりだったという有名なエピソードがある。つまり、ユーザーが使い切れないほどの機能は既に実現されているのだから、もはや開発余地なんてないのだ。

一昨年の 8月 20日、"MS に高い 「奉納金」 を払うのは、もう止めようじゃないか" という記事で、私は次のように書いた。

MS はこれ以上の商品開発なんてする必要がない。既存のソフトを売り続けてくれればいい。ところが、それではソフト会社として儲からないので、無理矢理新バージョンを作って売ろうとする。新機能の必要がなくなった今、手を付けられるのはユーザー・インターフェイスの部分である。

Windows 8 はまさにこの路線上の産物なわけで、私がいつもいう 「これが自動車だったら、命がいくつあっても足りない」 というような、無茶苦茶なインターフェイス変更になっている。

ユーザーの目的は「PC を使いこなすこと」にあるのではなく、「PC で仕事をすること」にあるのに、今さらながら仕事のかなりの時間を、再び「PC を使いこなすこと」に割かなければならなくなるというのは、迷惑千万な話だ。

Windows のバージョンアップを必要としているのは、ユーザーではなく MS なのであり、Windows というのは、今どき珍しく、ユーザーのニーズではなく、作り手側の都合で供給される商品となっているのである。そういうものである以上、いくら事実上の独占状態にあるとはいえ、徐々にシェアが減るのも当然だろう。

 

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2013年6月 6日

橋下発言に関するマスコミと巷の声のしっちゃかめっちゃか

先月 18日の "橋下さんの「トンデモ発言」について、二重三重に危惧する" という記事で、私は次のように書いた。

ただ、マスコミに加工された「トンデモ発言」は、ヒステリックに糾弾されるばかりでは決してなく、そのまま「橋下さん、よくぞ言ってくれた!」と歓迎する層もある。一杯飲み屋や銭湯、サウナ風呂でのオヤジ談義など、マスコミには登場しない「あまりお行儀の良くない論壇」では、どちらかと言えばそんな感じの「歓迎発言」の方が声高に語られている。

このことを実証するのが、J cast ニュースの "橋下市長発言、大阪視聴者 8割が 「問題なし」「慰安婦の強制性の有無」指摘に支持?" という記事である。6月 1日午後に放送されたテレビ大阪 (TVO) の情報番組「たかじんNOマネー」の電話投票で、視聴者の 79.3%が発言に問題なしとした(「問題アリ」 2011票、「問題ナシ」 7713票) 。

この番組では 8人のパネラー全員が「問題あり」の立場で意見表明していたので、この大差で「問題なし」に軍配が上がった視聴者投票の結果が意外だったようで、「これは大阪ローカルの番組なので、地元の意見であって、日本全体の平均値ではない」といった感じで取り繕われる空気だったようだ。

しかし、日本全体の平均値は確かに「問題なし」が 8割とまではいかないかもしれないが、私の感触では少なくとも 5割以上にはいっていると思う。この問題に関しては、マスコミと巷の声の間には、かなりのギャップがある。

ギャップがあるからといって、私は一貫して橋下氏を支持しないという態度を変えていないが、この発言を発端にした「しっちゃかめっちゃか」に関しては、どちらかといえば、マスコミの論調の方に「ヤバさ」を感じている。論理よりも感情を優先する度合いにおいて、マスコミの方が上回っているからだ。

さらに私が前述の記事で「二重三重に危惧する」と言っているのは、橋下さんのデリカシーのない発言、一般マスコミのヒステリックなまでの反応、そのヒステリックな反応の方が「良識的」なんて思われがちな雰囲気、それと対照的に橋下発言を増幅してまで歓迎する巷の声、さらに断片的な文脈でしか伝わっていない海外での論調等々、はっきり言ってまともな議論になっていないからだ。

海外マスコミにおける理解がまともじゃないのは、「慰安婦」を "sex slave"(性奴隷)なんて「超訳」していることからも十分にうかがわれる。SM ポルノ小説じゃないんだから、もう少しまともに対応してもらいたいものだ。

こうした問題って、どうしてみんなクールに語れないんだろうか。

 

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2013年6月 5日

実は、まだ梅雨に入ってないんじゃないか?

先月 29日に関東甲信地方の梅雨入り宣言があったのだが、宣言当日と翌日にちらほら雨が降っただけで、あとは上天気が続いてきた。今朝も雲はやや多めながら、まぶしい日が照りつけている。薄々思っていたのだが、もうそろそろ大っぴらに口に出してもいいだろう。

「実は、まだ梅雨に入ってないんじゃないか?」

梅雨入り宣言翌日に「史上 3番目に早い梅雨入り」という記事で、気象庁は近頃、思い切りよく早目の梅雨入り宣言をするようになったんじゃないかと書いた。3年前までは、宣言に慎重すぎて、ぐずぐずしている間に、梅雨入り宣言した翌日から上天気が続くタイミングになってしまい、実に気の毒なことになっていたからである。

今年はなんとなく、1週間ぐらいはぐずつきそうだというようなタイミングを見計らって、梅雨入り宣言が出されたと記憶している。だから私も 30日の記事で、「多分、昨日からのぐずぐずした天気が一巡すれば、来週末あたりには、お約束の『梅雨の中休み』になるんじゃないか」なんて、呑気なことを書いた。

ところが、「ぐずぐずした天気の一巡」が思っていたよりずっと早くなって、翌々日からもう「中休み」状態になってしまった。思い切りよく宣言すればしたで、天気の方がそれ以上の思い切りのよさを発揮する。全般的に、大きい落差で短期的に変化する気候になってしまった。

だから 「中休み」 の中身も様々で、「さわやかな晴天」「真夏のようなくそ暑い晴天」「肌寒い晴天」「じめじめした晴天」が日替わりでやってくる。なかなか一筋縄ではいかない。数年前までささやかれていた「近頃、天気がおかしいねえ」という言葉も、あまり聞かれなくなった。「おかしい天気」が当たり前になってしまったからだ。

気象庁はきっと、後になってから梅雨入りの日を修正するのだろうね。(実は過去にも結構修正されている)

 

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2013年6月 4日

市場は Windows 8 の使いにくさを、かなり気にしているようだ

最近、いつもよりほんの少し多めのアクセスが続いているなと思って、ちょっとアクセス解析を覗いてみたら、先月 4日に書いた「Windows 8 を高評価するのは、PC 大好き人間に限られる」という記事がコンスタントに読まれていることがわかった。リンク元は Google で、検索キーワードは「Windows8 評価 または「Windows8 評判」。

試しに 「Windows8 評価」でググってみたら、なんと件の記事がトップにランクされている(参照)。しかし "Windows 8" と、MS の公式表記通りに、きちんと "Windows" と "8" の間にスペースをはさんでググると、ようやくトップ 3 だ(参照)。私はちゃんと公式通りの表記で書いているのだから、なんとなく複雑な気分である。

このキーワードはまだまだ腐っていないので、これから先、「Windows8 評価」という検索結果で私がトップで居続けられる保証はまったくないが、これで私の記事へのアクセスが妙に増えている理由はわかった。

いずれにしても、ユーザーの多くが 「Windows 8 は使いにくい」 という市場の評判をかなり気にしていることがうかがわれる。少なくとも、これまでのような、「Mac 以外の PC を買ったらほぼ自動的に Windows が入っているのだから、黙って受け入れるしかない」 というような感覚からは変化していることがわかる。

とはいえ、いくら評判を気にしても、事実上 Windows か Mac かという二者択一しかない現状では、Mac に宗旨替えするのでなければ、Windows PC を買うしかない。買うしかないが、やっぱり気になってしょうがないという、ユーザーのもどかしさが現われている。

私個人としては、Windows XP のユーザーは早めに Windows 7 に乗り換えておくべきだったと思っている。Windows の 3.1、95、98、98SE、2000、XP、Vista、7 と、評判最悪の Me 以外すべて使ってきた私としては、Windows 7 は、この間の一つの完成型だと評価している。

XP からの買い換えをぐずぐず先延ばしにしてきたユーザーは、評判の芳しくない Windows 8 にするしかなくなってしまった。ただ、Windows 7 にしたとしても、いずれは将来の Windows バージョンに乗り換えることになる。

Windows が今の方向に舵取りされてしまった以上、多少の揺れはあるとしても、今後もしっくりしない方向に進んでしまうのだろう。だとしたら、Windows 7 を数年使い続けた先に PC を買い換える時には、さらにわけのわからない OS を押しつけられないとも限らない。

「さらにわけのわからない OS」 になるかどうかは別としても、Microsoft の志向がビジネス・ユーザーのニーズに最適化されたものからちょっと外れかかっているのは、見て取られる。

「どっちつかず」で、ビジネス・ユースとしては、何をするにも余計な一手間か、二手間かかるものであり続けるんじゃなかろうか。今の Windows 8 が、起動したらまず「デスクトップ画面」が表示されるように変更しなければ、使いにくくてしょうがないのと同様に。

PC 大好き人間たちの中には、「Windows 8 を悪く言ってる連中は、単に使いこなせてないだけ」と批判する向きもあるが、それは考え方が逆である。こんなにも多くのユーザーが「使いにくい」「わけがわからん」と嘆くほどにまともに使いこなせていないからこそ、Windows 8 はマーケティング的に見て明らかに「失敗作」なのである。

というわけで、私は、もう Windows には見切りを付けて、次は Mac にしようと決めている。問題は、いつ買うかだけである。もしかしたら、Windows 8 は、MS の寡占状態が崩壊する始まりなのかもしれない。いや、タブレットまで視野を広げれば、既に明らかに崩壊しているし。

 

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2013年6月 3日

「仕事が趣味」 と 「趣味が仕事」 の違い

「趣味は?」と聞かれて、「仕事が趣味です」と答える人がいる。昔はそう答えるのはオッサンと相場が決まっていたが、最近は女性でもそんな風に答える人が増えた。しかも、割とさっそうとしたキャリアウーマン風に多い。

私は「仕事が趣味です」と答える人に関しては、かなりネガティブなイメージをもっている。偏見かも知れないが、大抵は単なるワーカホリックでしかなくて、話をしてもつまらないし、仕事のレベルをみても大したことはないと思っている。

この考えは昔から変らないが、「趣味が仕事」と答える人に関しては、「仕事が趣味」という人とは全然別の受け取り方をしなければならないということに、最近になって気付いた。「趣味で仕事してる」という人の中には、とてもクリエイティブなタイプが多い。仕事を通じての視野も広くて、決して「無趣味」というわけではないのだ。

「趣味でやる仕事」というのは、やたらと「いい仕事」になったりする。何しろ元々が「趣味」であるだけに、報酬よりも自分で納得することの方が大切だから、市場や発注者が求めるレベルなんて軽くクリアして、それより遙かに質の高い仕事をしないと、自分の気が済まない。

最近中国を発信元としたハッカー被害が急増していて、政府機関や大手企業のサーバに侵入して機密情報を盗み出すプログラムのほとんどは、中国から送り込まれているらしい。

一説によると、中国人のハッキング・プログラムの組み方は、かなり乱暴なのが特徴なんだそうだ。日本人のハッカーはプログラムにも美しさを求め、対象とするシステムに入り込むにも洗練された侵入方法にこだわるが、中国人ハッカーの侵入方法は、例えばドアをハンマーで叩き壊すような、あるいはダイナマイトで破壊するようなやり方だという。

想像するに、これは民族性の違いもあるだろうが、日本人ハッカーは趣味でやるから「高いレベルの自己満足」を求め、中国人ハッカーは仕事(おそらく国策的事業の下請け)でやっているので、プログラムに美しさまで求めるという発想がないからということもあるのではなかろうか。

変な例を出して説明してしまったが、とにかく「趣味でやる仕事」というのは、なかなか馬鹿にならないのである。究極の仕事術は「公私混同」にあるとまで、私は思い始めている。

 

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2013年6月 2日

SIM を抜いた Pocket Wifi の使い道がない

先月 1日の「和歌ログ」には書いた(参照)が、こちらの方には書き忘れていた。実は、2年以上使っていた E-mobile の Pocket Wifi を解約した。「iPhone でテザリングができるようになったから、いらなくなっちゃってね」と言うと、E-mobile ショップのおにいさんは「それじゃあ、持っている意味ないですよね」と、いともあっさりしたものだった。

Wl130501「いや、LTE も使える最新型にしませんか。E-mobile は使用制限がないので安心して使い放題ですよ」なんて言われるかと思っていたが、ちょっと拍子抜けした。

近頃 Softbank と E-mobile は一緒になったので、「別にどっちでもかまわないや」とでも思っているのだろうか。いやしかし、私は 「Softbank の iPhone」 とは言わなかったので、au の iPhone である可能性だってあるじゃないか。そのへんは、一体どういうことなんだろう。まあ、そんなことはどうでもいいか。

ところが問題は、SIM カードを抜いて返してしまってからの、Pocke Wifi 本体の扱いである。和歌ログで、「魂を抜かれし人もかくあるか……」と書いたように、ただぽんと置いてあるだけの、無用の長物(「長物」というには小さいものではあるが)と化してしまっているのだ。

我が家の無線 LAN につなげれば、インターネット端末としては使える。しかし、ほかにいくらでも端末はあるのだから、こんな小さな画面でウェブ・ページを見る意味がない。

されば、和歌ログでも書いたように、外部記憶装置として使う手もある。試しに USB で PC につないだまま起動させてみると、途中で 「外部ストレージとして使うか?」と聞いてくる。「使う」という設定にして、PC 側で確認してみると、容量が 1.86GB の USB メディアとして認識されている。

「なんだ、2GB にもならないのか!」これだったら、SD カードを持つ方がずっといい。容量 2GB 以下のメディアとしては、あまりにも大きすぎる。

というわけで本当に使い道がないのだが、2年以上も大変お世話になったデバイスだけに、妙に愛着が湧いてしまっていて、なかなか捨てる気になれない。一体どうしたものだろうか。

 

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2013年6月 1日

梅雨寒

梅雨寒である。

昨日は汗ばむほどの陽気で、ポロシャツ 1枚で十分だったが、今日同じ格好で外出すると、肌寒い風に震えた。車の中にいつも用意してある、薄手のフリースを羽織ってちょうどいいほどで、夜になるとさらに冷え込んでいる。さらに明日のつくば周辺は、20度に達しないのではないかとみられている。昨日と比べると、10度近い差がある。

ところが、週明けになると日の射す日が多くなり、気温も後半になるほど上がって、夏日になると見られている。体が付いていくのが大変だ。

関東甲信地方の 6月 1ヶ月の予報をみると、平年に比べ曇りや雨の日が多いが、気温は第 2週以降は高めで推移するとみられている(参照)。つまり、じめじめして暑いということだ。3ヶ月予報でも、基本的に気温は高め、降水量も多めということのようだ。

しかし、今日のようにちょっとした変化で急に冷たい風が入ってきて肌寒くなるということもあるから、油断がならない。前線の南側に入ると暑いが、前線が少し下がっただけで急に冷え込むということが珍しくないから、落差の大きな天気になる。

いつになっても厚めの服を羽織れるような準備をしておかなければならないから、なかなか大変だ。

 

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