「南無阿弥陀仏」 とは
最近、浄土宗系(浄土真宗を含む)の葬儀に連続して参列したので、阿弥陀如来のありがたさを説く説法を何度も聞かされた。しかし、一緒にいた参列者にはその意味がほとんど伝わっていなかったようで、皆一様に「さっぱりわからない」と言うのである。
それではあまりにももったいないから、多少かいつまんで説明してあげると、「なるほど、『南無阿弥陀仏』とはそういう意味であったか」と、少しは得心してくれる。そこで、今日はそんな話を書こうと思う。
はるか昔、法蔵菩薩という方がいらして、極楽浄土を実現するための 48の誓願を立てられた。これを「四十八願」という。その中で最も重要なのが 18番目の願で、どんな願いかというと、「全ての人が浄土に救いとられないうちは、つまり、悟って仏にならないうちは、自分は仏にならない」というのである。
弥陀の四十八願はすべて成就して、法蔵菩薩は浄土で阿弥陀如来となられた。つまり、全ての人が浄土に救いとられるという願は叶えられたのである。一切衆生は仏になると約束済みなのだ。その約束を叶えてもらうためにどうすればいいかといえば、簡単な話で、全て阿弥陀如来にお任せすればいいのである。
「南無阿弥陀仏」とは、「己れを無にして阿弥陀如来に帰依し、一切お任せする」ということである。自分を無にして全てお任せするのだから、「他力本願」なのだ。人の力で自分の我欲を満たそうというのではない。
まあ、これは信心の話なので、信心しなければいくら阿弥陀如来にお任せしても救われるという保証は得られない。とはいえ、現代風に合理的に考えると、こんなふうにも言える。
阿弥陀如来に帰依するとは、阿弥陀如来が法蔵菩薩の時代にされたように、「他が救われないうちは、自分は救われなくてもいい」と、徹底的に人のために働くことである。己をなくして他のために尽くすことである。その姿こそが、仏の姿であると、悟ればいい。
曹洞宗では、無になって座る姿が、そのまま仏の姿であるという。無になって他に尽くす姿が仏の姿というのも、同じようにとても魅力的ではないか。
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コメント
「サンタクロース」同様、長年にわたってこのブログの検索上位に来るコンテンツになると予想します(^^)
投稿: 山辺響 | 2013年7月 2日 09:02
山辺響 さん:
望外のお言葉、ありがとうございます。
投稿: tak | 2013年7月 2日 21:40
どんな宗教人もそう思っているんじゃないかしらね。宗教は違ってもね。
投稿: tokiko | 2013年8月15日 16:29
tokiko さん:
そうであるといいですね。
投稿: tak | 2013年8月15日 18:13