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2013年6月25日

冠婚葬祭の標準化ということ

3日前の「所変れば冠婚葬祭の風習も変る」と、昨日の「火葬場の骨拾いの作法いろいろ」という記事で、葬式の風習の違いについて触れた。まあ、言ってみればそんなに大きな違いがあるというわけでもないのだが、こうした分野では、えてして「小さな違いが大きな違い」になる。

2つの記事では、主に地域による風習の違いに注目したのだが、もっと言ってしまえば、同じ地域でも宗派や家によって、ずいぶん違いがあったりする。最近では葬式は斎場でするのが普通になり、細かい部分は葬儀屋のスタッフがすべて取り仕切ってくれるので、あまり問題はないが、昔はずいぶん面倒なことが多かった。

葬式は自宅で行うもので、親類縁者や隣近所が寄ってたかって手伝いをしてくれていた時代には、仕切り屋 A が「これは、こうするのが決まり」と主張すれば、仕切り屋 B が「いや、それは違う、私の家ではこうする」と反論し、そこにさらに仕切り屋 C が割って入って、「いや、本当はこうするもの」などと言い始め、舞台裏はごちゃごちゃだった。

私の祖父母の葬儀は自宅で行ったので、「船頭多くして船山に上る」というが如く、細かいところで仕切屋同士がああだこうだと譲らず、私としては「そんなの、どうせ誰も知らないんだから、どうでもいいじゃん」と言いたくなってしまったものだった。ただ、若いモンが本当にそんなことを言ったら異常なほど激怒されるので、おとなしくしていたが。

翻って、6年前の母の死、一昨年の父の死の時は、どちらも斎場で通夜と告別式、初七日の儀を執り行い、進行は全て葬儀屋のスタッフにお任せした。このくらいにドライにしてしまうと、「いや、それはやり方が違う」なんてゴネ始める親戚も出ず、つつがなく終了した。

かくもスムーズにあっさりと、標準的(何が標準なのかは別として)に執り行われてしまうと、祖父母の時の議論百出は、一体何だったのかと思ってしまう。そして、あまりにも標準的に、つるんとした肌の若者みたいな印象の葬祭になってしまうと、今度は昔のひなびた趣きは消えてしまっているなあという気もするのである。

 

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