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2013年6月16日

写真と記憶の外部化

私のもう一つのブログ「和歌ログ」は、和歌と写真のコンビネーションで成り立っていて、毎日更新するだけに、毎日写真を撮りまくっている。使うのは 1日に 1枚だが、撮る枚数はその何倍にもなる。下手すると、1日に 100枚以上撮るということもある。

私がこんなに写真を撮るようになったのは、デジカメが普及してからのことだ。アナログのカメラの時代は、写真を撮るのはとても面倒だった。面倒が何よりも嫌いな私としては、重いカメラを首からぶら下げて、写し終えたフィルムを巻き戻して写真屋さんにもっていき、現像してもらったのを後日受け取りに行くなんてことは、到底したくないことだった。

いや、業界紙記者をやっていた頃は、仕事としては仕方なく写真を撮ることもあった。だから、写真は下手じゃない。しかしプライベートでまで、そんな面倒なことをしたいとは思わなかったのである。

だから、私は結構海外に行っているのに、その証拠写真が極めて少ない。10年ちょっと前に死んだ犬の写真も、まともなのが残っていない。愛犬の写真ぐらいはきちんと撮っておくんだったと、後悔しても始まらない。

写真を撮るのが死ぬほど面倒だった頃は、「行った先の風景なんか、頭の中に刻んでおけばいいじゃん」 と思っていた。事実、写真をあまり撮らなかった頃の旅先の風景の方が、ずっと鮮明に記憶されている。何かといえばちょこちょこ写真を撮りだしてからは、風景を記憶する力が衰えた気がする。

考えてみれば、写真を撮るというのは記憶の外部化である。脳内にではなく脳の外にあるメディアに記憶させて、必要に応じでそれを見る。だが写真に映っているのは、実際の景色の中から 3×4 の比率でトリミングした一部分だけだから、そりゃあ、脳内に焼き付けられた光景の方が、圧倒的に迫力がある。

写真を撮っている間は、眼前の圧倒的な迫力の光景より、カメラ、あるいはケータイの小さな画面に切り取られた景色に注目してしまって、実際の光景は見ているようで見ていない。これはちょっと、「もったいないこと」ではある。

下手すると、写真に頼りすぎるのは、PC の日本語入力システムに頼りすぎて漢字を書けなくなってしまうようなもので、人間本来の能力を損なうことになるのかもしれない。

さらに言えば、文字にして残すという行為すら記憶の外部化である。古事記は太安万侶によって文字化される以前は、口承で伝えられてきた。文字化されたとたんに、稗田阿礼のように口承で語れる人がいなくなった。アイヌは文字を持たなかったからこそ、『ユーカラ』 を語り継ぐことができたのである。

うむ、これからは意識して、実際の景色を脳内に叩き込んでから、iPhone を取り出そうと思う。

 

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