« 「アレルギー」の語源と、世間が本当にググらないことについて | トップページ | 抱っこして歩き回ると赤ちゃんがリラックスする 「輸送反応」 »

2013年6月20日

政治家の 「失言」 という宿業

自民党の高市早苗政調会長の、原発事故関連で 「死亡者が出ている状況ではない」 という発言が問題になり、「エネルギー政策に関する発言のすべてを撤回」 というところまで追い込まれた。まったくもう、政治家の失言癖って、「持病」 とか 「宿業」 とか言えるほどのものなんじゃないかという気がする。

直接的な話としては、私は昨年 3月の "原発事故では本当に一人も死んでいないのか?" という記事で、次のように書いている。

救えたかもしれない命を、いわば見殺しにしてしまったケースがあり、さらに強いられた避難生活で命を縮めた人もいるという事実に直面しながら、「少なくとも原発事故では死者は一人も出ていない」 と主張し続ける強引さを、私は残念ながら持ち合わせていない。

私は政治家というのはどうしてこんなにも頻繁に 「失言」 するのかと、いつも不思議でしょうがなかったのだが、多くの場合、次のようなメカニズムで発生するのではないかと思い当たった。

政治家たちは、仲間内で日常的に 「当たり前」 のこととして語ってきすぎたような内容を、あまりにも 「当たり前」 と思いこみすぎて、 公式の場でもつい無警戒に、時にはいらぬ演出まで盛ってしゃべってしまうのではなかろうか。それが運が悪いとリークされるか、新聞記者に取り上げられたりして、「失言」 と位置づけられてしまうのだ。

もっと言えば、仲間内の会話では、親分に楯突くヤツなんかおらず、「まったくその通りですよねぇ」 とおべんちゃらばかり言われるから、「当たり前」 という思い込みが 「正論」 という妄想にまで高まってしまって、それ故にますます無警戒になる。「正論」 を展開するのに、何の遠慮がいるものかということになってしまうのだ。

政治家の失言は、内容的には茶坊主たちのおべんちゃらの渦の中で、いい気持ちで語ってきすぎたことそのものである。とくに右派の人たちの 「問題発言」 なんて、一杯飲み屋や銭湯なんかの 「ちょっとお行儀の悪い論壇」 で語ったら大受け間違いなしみたいな内容だから、「ちょっと待てよ」 と立ち止まって、その論理展開を自らまともに検証したことがないのだ。

というわけで、「仲間内では、いつもいい気持ちで語れた内容」 が、前提となる文脈が共有されていない相手にとっては、「トンデモ発言」 になってしまうのである。そのことを理解していれば、政治家の 「失言」 というのは生じないはずなのだが、茶坊主やいつものお仲間としか付き合わない政治家では、そのあたりがどうもうまく運ばない。

とくに 「講演会」 なんかだと、聴衆はみんな仲間内だと思っているものだから、つい調子にのって、いつものヨタ話にさらに尾ひれをつけて、「ウケ」 を狙ってしまったりする。そんな時、聴衆の中にちょっと意地の悪い新聞記者がいたら、あっという間に 「問題発言」 記事ができてしまう。

今回の 「原発事故では死者は出ていない」 という 「ヨタ話」 にしても、あの池田信夫氏を筆頭に、かなり多くの人がドヤ顔で主張している。そんな 「仲間内意識」 の一環として、あの高市さんの発言もあったわけで、「そうじゃないよ」 というアンチテーゼがきちんと届いていたら、政治家としてあんな発言はできなかっただろう。

さらに気になるのは、政治家が失言の言い訳をする時の、お約束のレトリックである。今回の高市さんも 「発言によって大変つらい思いをされ、怒りを覚えられたとしたら、申し訳ない」 という、いつもの仮定法だ。ということは、「そうでなかったら、問題ないよね」 ということで、つまり 「発言は撤回するけど、考えは変えないぞ」 と、言外に言っているのでる。

しかし、「つらい思いをし、怒りを覚え」 た人が実際に 「いる」 のは明らかなのである。だからこそ、ここまで批判が高まっているのだ。つまり、こうした言い訳に多用される仮定法レトリックは、「既に否定された、あり得ない論理」 であり、傲慢な意識の反映でしかないのである。

このことに関連して、例の大震災の時に被災地に乗り込んで  「チョー・ゴーマン」 な態度を見せつけてくれた松本龍氏の言い訳を、"「傷つけた」 んじゃなく、「怒らせた」 んだろうよ" として無茶苦茶批判した自分の記事を思い出した。

|

« 「アレルギー」の語源と、世間が本当にググらないことについて | トップページ | 抱っこして歩き回ると赤ちゃんがリラックスする 「輸送反応」 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

政治家とか、エライ人たちの失言は一向になくなりませんが、彼ら(彼女たち)の釈明会見で必ず出てくる言葉、

「誤解を与えてしまって申し訳ない」

つまり、「表現が悪かっただけで私の思想は間違っていないのだ」と言外に言ってるわけです。

こういう言葉を耳にすると私はいつもこう思う。
「誤解なんかしていないよ。あんたがいかに傲慢で頭が悪いかよくわかったよ」

センセー、センセーと一日に何十回といわれ続ければ、凡人はああいう発言をしてしまうのでしょうね。

病院の会計カウンターで番号で呼ばれたことに立腹し、「ここは刑務所か」と、さえずり、病院に抗議の電話までしたどこかの県会議員がいましたね。その後の会見では背中を丸め、まさに蚊の泣くような声で釈明してましたね。

凡人はこんなことで立腹しませんから、このケースでは凡人以下ですね。

投稿: ハマッコー | 2013年6月20日 23:45

ハマッコー さん:

例の 「ここは刑務所か」の県会議員も、仲間内では 「そうですよね、センセー、まったくその通り」 としか言われたことがないので、自分には 「正論」 しかないと錯覚しちゃったんでしょうね。

下手に名前で呼ばれて、「小泉センセー、病院に来てた。実はもう長くないらしい」 なんて噂が流れるよりは、ずっといいでしょうに。

投稿: tak | 2013年6月21日 10:15

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 政治家の 「失言」 という宿業:

« 「アレルギー」の語源と、世間が本当にググらないことについて | トップページ | 抱っこして歩き回ると赤ちゃんがリラックスする 「輸送反応」 »