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2013年7月に作成された投稿

2013年7月31日

麻生元首相の失言

近頃どうも麻生元首相の人相が悪くなったと思っていたら、ついに洒落にならないことを言ってしまったらしい(参照)。やっぱり人というものは頭の中がおかしくなると、人相に現れるものである。

麻生さん、前に首相だった頃は、漢字の読み方は知らなくても洒落はちゃんとわかっていたし、口は曲がっていても決して悪相というわけではなかった。どうしてこんなことになってしまっものか。

今回の失言にしても「静かにやろうや」とか 「けん騒の中で決めないでほしい」などと言いながら、自ら無意味な喧騒をつくりあげている。

そりゃあ、ナチスを賛美したわけじゃないことぐらい、文脈を冷静に読み取ればわかるが、世の中には文脈を無視して揚げ足を取りたがるのが多いことぐらい、百も承知していなければならない。いくらなんでも、喩えが悪すぎる。

いずれにしてもこの人、最近はあまり気持ちよく動いていないのだと思う。ストレスが多いのかもしれない。

 

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2013年7月30日

日本人の得意技

例の 22日の JR 南浦和駅ホームの件、電車とホームの間に落ちた女性を、乗客らが力を合わせて車両を押して救出したというニュースが、海外でも感動を呼んだらしい。

感動された要因は、主に 2つ。「こんなに大勢の人間が何の打ち合わせもなく協力し合えるのは、世界でも日本人だけだろう」ということと、もう 1つは、「そんな事故があったのに、電車が 8分しか遅れなかったというのは、日本以外ではあり得ない」ということだ。

まず、大勢の人間が一致団結してコト(ただし、シングル・タスクに限られる)をなしてしまうというのは、実は日本人の最も得意とすることだ。国内的にはことさら驚くべきことというほどではないが、世界的には「奇跡」みたいに映るかもしれない。

ただ、日本人は寄ってたかってやっちまうことは得意だが、それの裏返しみたいなことで、個人が率先して何かをやっちまうというのは、かなり苦手である。

今年 5月に書いた "「乙武炎上」を巡る冒険" という記事に、clerk さんが次のようなコメントを付けてくれたのを思い出した。

日本人の公共心は必ずしも低くないと思うのですが,責任や場の境界の様なものに対して遠慮しがちな部分があると思います.
今回のようなケースでも,店員が出てきたなら通りすがりの自分が口を出す問題ではないと思ったり.

以前,車椅子の友人と駅の階段に差し掛かった時,一人が気付くと必要以上に大勢の人が集まって手伝ってくれようとするのですが,駅員の一人が来ると蜘蛛の子を散らすように去っていくということがありました.
当時は車いす用の階段昇降機が普及しておらず,結局,その一人の駅員だけでは手に負えないので助っ人の駅員を呼び集めるという手間がかかったのですが.

これは、かなり考えさせられることである。

今回のようなケースだけでなく、乙武さんの車椅子を、数人が自発的にひょいひょい運んでくれるようなことも、ごく当たり前にできるのであれば、日本人は確実に世界に誇るべき特質を持っていると言えるだろう。しかし、それはちょっとビミョーなところだ。使う筋肉が違いすぎるみたいなところがあるかもしれない。

ただ、電車が 8分しか遅れなかったというのは、掛け値なしにスゴいことである。何もなくても、10分以上遅れるのが当たり前という国だって多いのだから。

 

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2013年7月29日

コメダというコーヒー店

あちこちで、名古屋に行ったら「コメダ」というコーヒー店でモーニングサービスを食えと薦められるので、先日名古屋に行った際に、ちょっと試してみようと、名古屋駅地下街の「コメダ」の入り口まで行った。

ところが、その入り口をくぐることができなかった。中から猛烈な煙草の匂いが漂ってくるのである。すぐに踵を返して、近所のスタバを探した。

あとでインターネットで調べてみると、コメダでも分煙化されている店があるものの、愛煙家の憩いの場となっている店が多いということがわかった。この店をくさすわけではないが、「それじゃ、コメダという店は私の入るべきところではないのだな」と思うばかりである。いくらシロノワールとやらがおいしいと言われても、煙草臭い中にはいたくない。

分煙化している店ならば試してみてもいいと思うが、どの店がそうなのか全然情報をもっていないので、コメダ全体を避ける方がいいと判断している。いちいち調べてみるほど入れあげているわけでもないし。

さらに誤解のないように言っておくが、この店は愛煙家にとってはかなり居心地がいいらしいので、そっち方面の人にはオススメしておいてもいいと思っている。私自身は入ったことがないので、無責任なオススメかもしれないが。

 

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2013年7月28日

ブラウザーのブックマークという機能

Slashdot の「Opera 15 でブックマークが廃止された理由は、90%のユーザーが使用していないから」という記事に、内心とても驚いた。

Opera Desktop Team の調査によると、90%のユーザーはブックマークを一度も追加したことがなく、「お気に入りの Web サイトを常に開いたままにする」「セッション保存機能を利用することで前回開いていたWebサイトを復元する」「スピードダイアルを使用する」などで、ブックマーク機能の代用を図っているのだそうだ。

ちなみに「スピードダイヤル」というのは、新しいタブを開くたびによく訪問するページのサムネイルが表示される機能である。それは Opera に限らず、多くのブラウザーが実装している。確かに便利だが、表示しきれないページもあるから、それさえあれば OK というわけじゃないと思うがなあ。

ただ、私の周囲を見渡してみても、きちんとブックマーク機能を利用しているユーザーは案外少ない。ただそれは、「必要ないから使わない」というよりは、ブックマークという機能をきちんと理解していないため、「まともに使えていない」というケースが多いのだと思う。

とはいえ、「90%のユーザーはブックマークを一度も追加したことがない」というのは、驚き以外の何物でもない。これは私には、「90%のユーザーは、ブラウザーをまともに利用できていない」 ということのように思える。

 

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2013年7月27日

「基本的人権」という怪しいコンセプト

何の番組だったか忘れたが、多分選挙がらみで、若者の政治意識を論じる特集だったと思う。街頭インタビューで、若者が「前は政治に関心がなかったけど、勉強しているうちに、人には基本的人権というものがあるのだと知り、それを大切にしなければと思って、投票するようになった」と話しているのを聞いて、ちょっと複雑な気分になった。

「人には基本的人権がある」と、何の疑いももたずに単純に言えるというのは、ある意味とても幸せなことである。本当のところは、「基本的人権」というのは「ある」のではなく、とても政治的に作られたものなのではなかろうか。

そもそも「基本的人権」とは、甚だ怪しい言葉である。「人権」というものさえ、実は元々与えられたものというよりは、人間が長い歴史の間に確立してきたものだ。それに「基本的」なんていう修飾語を付けると、それだけでなんだか、曖昧なものになってしまう。

「基本的」といいながら、時代、国、人によって、あったりなかったり、解釈が違ったりするというのも困ったものである。そんなものが「基本的」といえるだろうか。むしろ「恣意的」という方が実体に沿っているんじゃあるまいか。

私は長年、「基本的人権」というものには疑問を抱いていてきたから、そんなものはことさらに主張したいとは思わないのである。主張するだけ気恥ずかしい。私が主張したいのは、ひたすら「自由」である。青臭いと言われようが、それは変らない。

「基本的人権」の上にあぐらをかいているより、「自由」という海原に漕ぎ出たいと思うのである。

 

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2013年7月26日

61歳になった

今年の誕生日は、生まれて初めて西日本の地で迎えた。昨日から四国の徳島に出張していたのである。日付の買わる頃に帰宅して、家族に「おめでとう」と言われたが、タイミング的には何となくピンと来ないものである。

ともあれ、61歳になった。この数字だけ見ると、ずいぶん年のオッサンのようだが、当人は至って元気で、まだまだ青臭いことを考えている。

今日はそんなわけで疲れてしまったので、年取りの報告にて、おしまい。

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2013年7月25日

iPad Retina Display モデルをゲット

このほど iPad Retina Display モデルをゲットした。iPad 2 からのバージョンアップである。

実はこの春に自宅の回線を NTT のフレッツひかりから、au ひかりに変えた。するとその一環のサービスで、iPad を含むタブレット端末を、10,800円引で販売してくれるというのである。ただし、ケータイのキャリアのサービスだから、Wifi モデルではなく、au の回線付きモデルである。

私はこれまで Wifi モデルを使ってきて、外出時には iPhone のテザリングで接続していた。だから、回線付きモデルなんて必要ないのだが、Wifi モデルは割引では売ってもらえないというのである。

「それじゃ、ダメだね」と思ったが、考え直した。本体を従量制で安く売ってもらって、あとは回線を使わなければいいのである。そうすれば、月々の接続料は発生しない。しかも説明を聞いてみると、最初の 2年間は 2000円ちょっとの割引付で、月額 2000円ちょぼちょぼの使用なら、割引で無料になってしまう。

というわけで、ほとんど無料で au の回線を使うことができるのだ。結構お買い得かもしれない。今日は出張先に、これまでの iPad 2 と、新しい Retina Display モデルを持参して、新幹線の中でセッティングをしていた。iCloud のおかげで、かなり楽にできたので、嬉しい。

 

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2013年7月24日

ネットのことは何も知らない、うぶな政治家たち

選挙毎日」というサイトがあるということを今日初めて知って、ちょっと驚いたが、その中の "参院選:落選の自民・金子氏陣営、ネットの支持水増しか 短期に急増、大半が外国人「いいね!」トルコから8割" という記事には笑ってしまった。

なんでも、金子善次郎元衆院議員(69、自民)は、Twitter への投稿を、いかにも付け焼き刃が見え見えの 5月 7日に開始し、「約 40日後の 6月 18日までに、FB の更新情報を中心に 12回ほどツイートしただけだが、フォロワー数は同日の 9708人など一時は1万人程度までふくらんだ」のだそうだ。

フォロワーの大部分は外国人で、FB の 「いいね」 も、8割がトルコからだったという。これ、どうみても金で買ったとしか考えられないではないか。しかも、まったく意味のない買い物である。

金子氏は毎日新聞の取材に「ネットのことは事務所に任せていた。事務所として調査し、公選法や道義上、倫理上問題があるならば、党本部とも相談し対応したい」と答えている。要するに、当人はネットに関してはほとんど無知で、事後処理に関しても何もわかっていない。

もちろん、Twitter も FB も、金子氏が直接書込みをしていたわけじゃないのだろう。取り巻き連中が慣れない「ネット選挙」に過剰反応して、よくわからないうちに余計なことをしてしまった(あるいは、誰かに丸投げして余計なことをさせた)のだね。

私は今年 4月 24日に、「ネット選挙に、大金を投じるがいい」という記事で、「ネット選挙が解禁になったとたんに、何も知らない政治家が広告代理店の餌食になるかもしれないという気はしていた」と書いている。まったく、政治家のというのは、ネットの世界に関しては気持ち悪いほど「うぶ」である。

今回の金子氏の場合は、広告代理店じゃなくて、怪しい「ネット・ゴロ」(インターネットの世界の「ごろつき」ぐらいの意味に受け取ってもらいたい)の口車に乗って、まったく馬鹿馬鹿しい金を使ってしまったものと思われる。

次の国政選挙は、多分 3年後ぐらいになるんだろうが、政治家とその取り巻きたちには、それまでに少しはネットの世界の常識を学んでもらいたいものである。

 

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2013年7月23日

「事案」 という言葉

世の中には「声かけ事案」というのがあるのだそうだ。まず、何となく怪しいオッサン(オバサンとかおにいさんもいるのだろうが)なんかの登場する「不審者情報」というのがあるのだそうで、その中でも、妙な声かけをされたというケースを「声かけ事案」と呼んでいるらしい。

まあ、近頃は物騒な世の中になったから、へんてこな具合に声をかけられたら、「怪しい」というわけで「子ども 110番」なんかに通報されて、「どこそこの街で、小学生が中年の男に『おはよう』と声をかけられる事案が発生」なんていう情報が発信されてしまうのである。

それにどうやら、この「声かけ事案」というのは、「変質者」を対象としていて、単純暴力の「粗暴犯」はあまり意識していないようだ。「痛い」とかいうより「気持ち悪い」というのが先に立つ世の中になったようなのである。

まあ、「声かけ事案」についてはいろいろな人が論じているので、私としてはこれ以上どうこう言う気はない。本当に怪しいケースを遠ざけるために、ごくフツーの善意のオジサンまで変質者扱いにしかねないというリスクについては、「それ以上のリスクを避けるため」と言われたら引き下がるしかないような気もするし。

それよりもむしろ私がここで論じたいのは、「事案」という言葉についてである。例によって Goo 辞書を引くと、

じあん 事案
問題になっている事項

とある。ふぅん、私だったら「問題になっている事項」なら、「事案」なんていううっとうしい言い方はせずに、単に「問題」と言うがなあ。「氷の状態になっている水」なら「氷」 、「大人になっている人間」なら 「大人」 、「朝になっている時間帯」なら「朝」で十分である。同様に、「声かけ事案」より「声かけ問題」の方がずっとわかりやすい。

どうやら、最近の「声かけ事案」などに使われる「事案」という言葉は、実は治安関係の術語になっているようで、「事件」というほどではないが、下手すると「事件」に発展しかねない「怪しいこと」というようなニュアンスで使われているような気がする。

また例によって、異文化的視点から眺めるために、和英辞書で調べてみたが、手持ちの『ウィズダム英和・和英辞書』には、「事案」なんていう項目すらなかった。それではと、ネット辞書の "Weblio" を調べたら、次のようになっていた (参照

事案  読み方:じあん 文法情報    (名詞)
対訳    concern; circumstance which is becoming a problem; case (court)

ズバリと一言で対訳的に言い切れる英単語はないようで、「問題や犯罪事件(訴訟)になりかけている懸念、状況」みたいに説明されている。具体的でわかりやすい。こうしたことを「事案」という漠然とした一言で表現してしまうというのは、どうやら日本独特に近いコンセプトなんじゃないかと思わせるに十分である。

要するに、「事案」というのは 「思いっきり曖昧で、いかにも日本語らしい日本語」なんである。

 

 

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2013年7月22日

ネット選挙の影響なんて、やっぱり限定的だった

今月の 4日、Twitter にこんなような書込みをした(参照)。

ネット選挙と言っても、影響は極めて限定的。政党や政治家は普段通りにブログや Facebook をコツコツやっていればいいだけのこと。そもそもマジメに投票に行く層はネット見ないし、マメにネット見る層は投票に行かない。

まあ、ちょっと考えればそうなるのは、誰だって当然とわかったはずである。産経ニュースは "ネット選挙、有権者冷ややか 「参考にした」わずか1割" と伝えている。やっぱりね。ちょっとだけ引用しておく。

参院選の投票日の 21日に共同通信が全国で実施した「出口調査」(8万784人)によると、投票先を決める上でインターネットの情報を「参考にした」と答えた人は約 1割にとどまった。

(中略)

年代別に見ると、ネットの情報を参考にした割合が最も高かったのは 20代で、23.9%だった。30代は 17.9%、40代は 12.6%と年代を追うごとに割合は下がり、70代以上ではわずか 6.1%。ネットの利用度の違いとみられる世代間の差がくっきりと表れた。

この調査は「出口調査」なので、調査対象は、実際に投票所に足を運んだ人たちである。いくら 20代の 4分の1 近くがネット情報を参考にしたからといっても、投票所に行く 20代の人間の数は少ない。そして投票率の高い年配者はネットなんか見ない。だから、ネット選挙の影響は非常に限定的なのは当然だ。

そもそも今回の「ネット選挙解禁」なんていうのは、かなりのまやかしで、ネット情報に関心のある若年層が下手に投票所に積極的に行くなんてことがないように、巧妙に仕組まれている。

なにしろ、一般の有権者がネット上で特定の候補に投票を呼びかけてはいけないし、候補者の tweet を retweet してもいかんというのである。つまり有権者は、候補者が発信する情報をおとなしく受けていればよく、それについてどうのこうの言ったら、選挙違反になりかねないぞと、脅かされているわけである。馬鹿馬鹿しい話である。

(注: 上記、山辺響さんのご指摘で、私の誤解とわかったので、取り消させていただく。ただ、有権者がウェブ上ではなく、メールで特定候補への投票を呼びかけるのは違反である。また、未成年者が retweet したら違反だそうだ)

有権者のインターネット上での選挙への関与が限定されている「ネット選挙」なんていうのは、「ネットに関心をもつ層に、選挙に関心なんかもたれたら困る」という意向の反映でしかない。

このままでは、現状で積極的に投票所に足を運んでいる 60代半ば以上の層が、よくよく年を取って体が動かなくなり、投票率が 20%とか 30%とかに落ち込んでしまう。そうなると、選挙はますます特定の組織に牛耳られるようになる。

そこまで行って、ようやくまともな選挙をしようという機運が生じたら、もうけものだ。遅すぎるかも知れないがそうでもならないと、気付かないのだろうから。

 

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2013年7月21日

「ラインナップ」か「ラインアップ」か

忙しくて時間がないので、今日はどうでもいいような話である。それは「ラインナップ」か「ラインアップ」かという問題だ。昔は「ラインナップ」が圧倒的に多かったが、最近はどうも「ラインアップ」が増えつつあるような気がするのである。

野球関連のサイト「セットポジション」の「表記規準(セットポジション専用)」というページに、この問題についてかなり詳しく記されている。それによると、Google、Yahoo での検索結果は、「ラインナップ」が圧倒的多数だが、辞書の世界では「ラインアップ」という表記が圧倒的らしい。

手持ちの辞書(『大辞林』)でも、「ラインナップ」という項目はあるが、「ラインアップ」を参照せよということになっており、それではと「ラインアップ」を引くと、[ラインナップとも]とあり、「① 野球で、打順。② 陣容。顔ぶれ。③ 番組などの内容」 と説明されている。

そのほか、Q&A サイトでは、「どちらも正しい」みたいな回答が目立つ。

しかしこれ、英語の発音に忠実に表記するとすれば、どうみても「ラインナップ」である。リエゾンするのだから当然だ。あまりいい言葉じゃないが、"Son of a bitch" が「サナバビッチ」であり、「サンオブアビッチ」じゃないのと同様である。

一部には "Line up" をゆっくり発音すれば「ラインアップ」に近いという指摘もみられるが、大多数のネイティブ・スピーカーは、チョーゆっくり発音しても「ライィン~ナァップ」である。

しかも外来語として日本語に入ってきているのは、"line up" という動詞のイディオムではなく、複合名詞としての "lineup" だから、さらっと「ラインナップ」の方が自然だ。(ただ、本来のアクセントは前にあるのだが)

日本語として発音するにしても、「ラインアップ」よりは 「ラインナップ」の方が言いやすい。「因(いん)」と「縁(えん)」が結びついて 「因縁」という言葉となった時に「いんえん」ではなく「いんねん」と発音するようなものである。他にも「観音」「反応」など、いくつかある。

こんなように、漢語由来のリエゾンは公式に採用し、リエゾンしないのは間違いとしてしまうのに、英語由来は非公式扱いというのは、ちょっとなあという気がする。

 

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2013年7月20日

昔の夏は短かった

今日は妙に涼しい。梅雨明け直後のあのクラクラするような暑さと比べたら、もう夏が終わるんじゃないかと錯覚するほどの涼しさで、日が暮れてからは肌寒く感じるほどだ。というわけで、「そう言えば、昔の夏は短いものだったんだよなあ」などと、ぶつぶつ呟いている。

昔の物語のエンディングの決まり文句に、「○○の短い夏が終わった」というのがあった。ハイティーンの少年の夏休み、アルバイト先とか帰省先とかで、少し年上の女性との出会いがあり、甘酸っぱさとほろ苦さの混じり合う、恋愛とあこがれとの境目のような心情の体験をするうちに、秋風が吹き始め、別れを迎える。

「短い夏の終わり」である。そう、昔の夏は、本当にあっという間に終わったものなのである。

ところが、最近の夏ときたらどうだ。9月になって夏休みが終わっても、彼岸を過ぎても、10月の声を聞いても、ちょっと晴れさえすれば、気温は 30度を超える。だらだらといつまでも続く。そして人々は額の汗を拭きながら、「秋はまだか」なんて呟く。もはや「甘酸っぱさとほろ苦さの混じり合う物語」なんて成立しにくくなってしまった。

しかしなんと、今年の夏は変った様相である。関東ではほとんどないに等しかった梅雨が明けた途端に、とてつもない猛暑になり、その暑さにようやく体が慣れかけたと思ったら、今度は急に涼しくなった。来週にかけても「戻り梅雨」のような天気が続くという。一体どうなってるんだ?

もしかしたら、「短い夏」が一度終わった後に、「長い真夏」が始まるのだろうか。(「夏」と「真夏」については、今月 10日の 突然の 「真夏」を参照されたい)

 

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2013年7月19日

自動車メーカーに "Be a driver" (運転手であれ) なんて言われてもなあ

Img_6312_3この写真は、近頃 JR の電車の中に大量に貼ってあるマツダの広告ポスターの 1枚である。大きく "Be a driver." というコピーが印刷してある。

このポスターを初めて見た時、「どうしてまた、車のメーカーに『運転手であれ』なんて押しつけがましいことを言われなければいけないんだ?」と、違和感でもだえそうになった。

そりゃ、私はほとんど毎日、クルマのドライバー・シートに座って、運転してはいるさ。だけど、いくら運転の最中だったとしても、「あなた、運転手でしょ」と言われたら、「はあ?」と思ってしまうだろう。

"Are you a driver?" と英語で聞かれても、それは同じだ。たまたまガーデニングををしている時に "Are you a gardener?" と聞かれ、調子に乗って "Yes" なんて答えたら、本当の庭師に申し訳がないだろう。

マツダは一体どんなつもりでこんな広告コピーを採用したんだ?

と、ここまで考えて、「待てよ、これってもしかして、例のアレか?」 と思い当たった。「アレ」 というのは、今年 1月の 「お前と共に年を取れ」という記事で触れた、日本の広告によくある「主語を省いちゃったせいで、命令形になってしまう、アレ」である。この記事で取り上げたのは、以下の 3つのコピーだ。

ゼクシーの "Get Old with You"  (お前と共に年を取れ)

佐川急便の "Fit Your Business"  (お前の仕事を適合させろ)

Docomo の "Walk with You"  (お前と共に歩け)

ゼクシーはいち早く間違いに気付いて、しれっとさりげなく "Get Old with Me" (私と一緒に年を取ってね)に変更し、佐川急便は「佐川急便の Fit Your Business はなんと...命令形だよ!」という記事でやり玉にあげられて、それが広く知れ渡ったせいか、このコピー自体を取り下げたようだ。Docomo はまだ懲りてないみたいで、唯一リンクで飛ばせる。

これらの妙ちきりんなキャッチ・コピーは、当事者としてはそれぞれ 「(私は)あなたと一緒に年を取るわ」とか、「(私たちは)あなたの仕事にフィットします」とか、「(私たちは)あなたと共に歩きます」とか言いたいみたいなのだが、主語を省いているので、英語としては単なる命令形になり、そのせいで意味不明の自己矛盾に陥っている。

マツダの "Be a driver." も、きっとそんなところかと思って検索してみたら、やっぱりそうだった。マツダの公式ブログに、次のように記してある (参照)。

マツダは、ドライバーでありたい。
何よりも、運転が大好きな人でありたい。誰よりも、クルマが大好きな人でありたい。

要するに、「自分が運転手でありたい」と言いたいようなのである。ところが例によって、主語を省略するという(この場合は  "I want to" を省略しているのだが)、日本の広告業界における宿業の罠に陥り、広告の受け手に向かって「運転手であれ」と命令してしまっている。

日本の広告で使われている英語なんて、単に雰囲気を出すための記号のようなものなんだから、正しいか間違っているかなんて、どうでもいいんだと言われるかもしれない。しかし英語らしき文字と綴りで書かれている以上、つい英語として受け取って、気持ち悪くなってしまう人もいるのである。

いずれにしても私としては、driver(運転手) が作った車に乗りたいとは思わないがなあ。

 

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2013年7月18日

「お局様」の君臨する部署は停滞する

日経ビジネスが "女性活用が陥る「女の敵は女 /「女性チーム」「女性リーダー」の思わぬ落とし穴" という記事を載せている。

女性の採用を人事戦略の中心に据えてきたベンチャー企業で、思うような成果が上がらない。その会社の社長は、自社の説明会には積極的に顔を出し、ポテンシャルの高い女子学生を見つけるようにしている。ところが最終面接の段階になると、自分が目をつけた優秀で魅力的な女性は、ほぼ全員いなくなっているというのである。

その原因はどうやら、採用担当の女性マネージャーが、採用試験で優秀な女性に厳しい評点を下し、ことごとく落としていたことのようだというのでる。

それについては、私も憶えがある。かなり前に勤務していた団体で、時々中長期の女子アルバイトを募集した。職種は経理のアシスタントである。バブル崩壊直後の不景気な時代だったから、かなりの人数が応募してきた。

私はその採用に関してはまったく関与していなかったが、面接の様子を端から見ているだけでも、「ああ、この子は優秀だな。文句なしにこの子に決まりだろう」と思われるのがいる。

ところがその採用に関して最大の発言権をもっていたのは、経理担当のベテラン女性職員だったのである。彼女がまず最初に刎ねてしまうのは一番優秀な子で、最後に残るのはいつも平々凡々たる女の子だ。

要するに、「お局様」は優秀な同性を嫌うのである。お局様に嫌われないためには、猫っかぶりで素直な女の子を演じるしかない。いくら優秀そうな女子社員を集めても、お局様が君臨していると、その部署は停滞する。

これは、私の経験則としての揺るぎない認識である。

 

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2013年7月17日

「アマゾネス」 という国民的誤解

「アマゾネス」って、「女性の婦人警官」とか、「女の尼さん」とか言うような、変な言い方だよなあと、少なくともここ 30年以上思ってきた。

一般には 「ギリシャ神話に出てくる女武人族、『アマゾン族』の男勝りの女性」を「アマゾネス」というように思われているが、実は "Amazon" という単語自体が、「アマゾン族の女」を指すので、わざわざ "-ess" を付けて女性形にする必要はない。

"God" (神) に対して女神は "goddess"、"actor" (俳優) に対して女優は "actoress"、"lion" に対して雌ライオンは "lioness" だが、アマゾン族の女性に関しては 少なくとも英語には "Amazoness" なんていう言い方はなく、"Amazon" で、必要にして十分なのである。

どうして日本では「アマゾネス」なんていう変な言い方が発明されてしまったものか、わけがわからなかったが、つい昨日のこと、何気なく iPhone アプリの『大辞林』を調べたところ、呆気なくその由来が知れてしまった。こう説明してあったのである。

アマゾネス [フランス語の「アマゾンヌ(Amazones)」のローマ字読み]

思わず、「はあ !?」と叫んでしまったよ。

なんだ、そんなことだったのか! こともあろうに、フランス語をもっともらしくローマ字読みして、たまたま女性名詞っぽい雰囲気になってしまったので、なんとなくツボにはまり、そのまま広まってしまったというのか! そんな馬鹿馬鹿しい話だったのか!

この誤解の根はものすごく深いようで、Wikipedia の「アマゾネス (映画)」という項目でも、この映画の英語タイトルが、いつ修正されるかわからないが、少なくとも本日現在では 「伊: Le guerriere dal seno nudo,  英: The Amazones」と表示されている (参照)。

ちなみにこの映画の実際の英語タイトルは ”War Goddes” で、英語版 Wikipedia には ”also known as The Amazons" (Amazons としても知られる)とある(参照)。

がっくりと脱力してしまったが、まあ、大きな国民的誤解の理由がやっとわかったので、よしとしておこう。で、せっかくだから、多くの日本人と共有しておこうと、今日の記事にしたというわけである。

 

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2013年7月16日

日本における 「PC の時代の終わり」は、やや錯綜している

Wired が「減少続く世界の PC 販売、健闘はレノボのみ」と伝えている。世界の PC 出荷台数が前年同期比で 5四半期連続の減少をみせており、これは「PC市場の歴史上、最長の減少」ということらしい。いよいよ「PC の時代」は終わりつつある。

私は過去に 「PC の時代の終わり」について、少なくとも 3回書いている。以下に挙げてみよう。

PC の時代は 2015年で終わり?  2006/11.29
「PC の時代の終わり」 が現実感をもってきた  2010/07/03
「PC の時代」 の終わり  2011/01/06

最初は 7年近く前の記事で、「PC の時代が 2015年で終わる」という雑誌の記事タイトルを取り上げたものだ。7年前には 「2015年で終わる」と言われたものの、それがどういうことなのか、はっきりとはイメージできなかったのだが、2010年の時点ではなんとなくリアルに実感されてきて、その翌年には本当に確信をもつことができたのである。

情報技術の世界では、実際の動きが予言よりも早くなる。そして「ポスト PC」の動きにおいては、それがとくに目立っている。「PC の時代の終わり」は、ついに統計的にも裏付けられつつある。

2013年第2四半期の PC の全世界出荷数は約 7,600万台で、前年同期比は、Gartner Research 社の調べで 10.9%減、IDC 社の調べでは 11.7%減だった。いずれにしても、1割以上減っているのである。その原因ははっきりしていて、需要がタブレットに置き換えられたのだ。

しかし、日本においてはその動きがちょっとスローになっている。総務省の調査によると、日本のタブレット端末の普及率は 12.3%で、日米英韓などの先進 6カ国中最下位。最高のシンガポール(42.8%)に比べると 3分の 1にも達しておらず、SNS やクラウドの活用も遅れている。(参照

おもしろいのは、PC の普及率に関しては、日本は他の国と遜色がないということだ。日本でスマホやタブレットの普及が遅れているのは、60歳以上の高齢層である。これは昨日も書いたことだが、日本の年配者のイメージでは、PC は 「メールもできるワープロ専用機」 であって、とりとめのないスマホやタブレットよりむしろ取っつきやすいようなのだ。

本来は PC をしっかりと活用できていたわけじゃない高齢者にとって、操作の楽なスマホやタブレットは福音であるはずなのだが、実はこんなことで逆に作用している。「PC ならワープロとして使えるけど、スマホやタブレットは、よくわからない。電話とメールするだけなら、ガラケーの方がわかりやすいし」ということだ。

最大の消費セクターであるはずの団塊の世代が、全然積極的に手を出さないのだから、日本のスマホやタブレットの普及率は、なかなか上がらない。というわけで日本における「PC の時代の終わり」は、やや錯綜している。終わってはいるのだけれど、次がなかなか始まらないのだ。

 

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2013年7月15日

年配者は基本的に「専用機」志向

産経ニュースが「ファミコン 30周年 成長神話を支えた名機も過去の栄光… スマホに圧倒されて苦境の任天堂」というニュースを伝えている。ゲーム専用機がスマホやタブレットに押されて、販売不振に陥っているんだそうだ。

私は昔から、ファミコンを初めとするゲーム専用機にちっとも興味がなくて、ほとんど触ったこともない。我が家の 3人の娘たちも、子供の頃は結構夢中になってやっていたが、今ではもっぱら iPhone ばかり使っていて、ゲーム専用機の存在を忘れてしまっているようだ。

見たところ、ゲーム専用機は歴史的使命を果たし終えてしまったようで、これ以上伸びる余地はないんじゃなかろうか。いくらゲーム好きでも、スマホの他にわざわざもう一つ別のデバイスを持つなんて、考えられなくなっているのだろう。そりゃ、当たり前だ。スマホで十分ゲームができるみたいなんだから。

若い世代は、汎用機に対する抵抗がない。スマホ 1台で、通話、メール、インターネット、写真と動画の撮影と編集、録音、読書、マンガ、辞書、音楽、ゲームなどなど、何でもやってしまう。実際にできるんだから、そうなって当然だ。

ところが年配の人たちとなると、これができない。ガラケー、IC レコーダー、PC、デジカメ、ビデオ・カメラ、本、電子辞書、ウォークマンなどを、別々に持ちたがる。「それ、無駄遣いですよ。スマホを買えば、全部 1台で済ませられますから」 と言っても、どうもピンとこないようなのである。アナログ派がデジタル機器を使う場合は、哀しいほど専用機志向なのだ。

年配者は、PC でさえ「メールという付加機能のあるワープロ専用機」としてしか使っていない人が少なくない。ウェブサイトのブラウジングに関しては、検索ができないので、今イチ使いこなせない。

そしてスマホは、PC よりも抵抗がある。彼らにとっての PC はワープロ専用機なので、まだなんとかなるが、スマホにはそうしたイメージを持ちにくいので、ガラケーの方がずっといい。

「だって、スマホは難しいんだもの」と、彼らは言う。私はこれまで「難しくなんかないですよ。車の運転の方がずっと難しいです。車の運転は失敗すると死にますが、スマホでは死にません」と言ってきた。(近頃中国で、どんなひどいケーブルを使っていたものか、iPhone 5 の充電中に死んだ女性がいるらしいが、それは例外中の例外だ)

しかし、私は近頃気付いたのである。年配者にとっては、失敗すれば死ぬこともある車の運転の方が、スマホをいじるよりずっと抵抗がないのだ。それは、車は基本的に 「動いて、曲がって、止まる」だけの「専用機」だからである。わかりやすいのだ。スマホは車と比較すると、イメージにとりとめがなさすぎる。

将来的には、車は情報端末と融合する流れにあるのだろうが、今 65歳以上の年配者のほとんどは、多分死ぬまでそんな 「スマート・ビークル」 には手を出さないだろう。もし買ったとしても、操作なんてできないと思う。同様に、彼らは Windows 8 も使いこなせないのである。

もし年配者が過去にゲームにはまる時期をもっていたとしたら、ゲーム専用機はシニア向けとして生き残る余地があるだろうが、哀しいかな、彼らの多くはゲームにはまったことがないので、ゲーム専用機にも縁がない。

 

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2013年7月14日

フツーの日本人にとっての英語の必要性

相変わらず英会話教材の CM がお盛んである。あの「石川遼クンも使っている」という触れ込みの教材の CM なんか、毎日毎日、聞き飽きるほどだ。こんなに聞き飽きるほどなんだから、何かワンフレーズだけでも「使える言い回し」を繰り返し流してくれたらいいのにと思うが、それは絶対にやってくれない。この会社、案外「ケチ」である。

石川遼クンが英語をしゃべれるのは、これだけ米国で過ごす時間が長くなっているんだから当たり前のことで、彼の英会話の上達が主として例の「聞き流すだけ」の教材の賜物というわけじゃないことぐらい、ちょっと考えればわかる。彼の周りは嫌でも英語だらけなんだから。

でもまあ、結構多くの日本人が、楽して、つまり「聞き流すだけ」というぐらいの努力で、英語がペラペラ話せるようになったら 「カッコいいだろうな」なんて思っている。まあ、ちょっとしたファッション・アクセサリーだ。

しかし実際問題として、英語がペラペラ話せることなんて、この国においてはそれほど求められているわけじゃない。英語で会議する会社なんて、100社に 1社もないだろう。それどころか、2年も 3年も海外駐在したという人が英語ペラペラかというと、全然そうじゃないことの方が多くて、「よくまあ、これで通用してたなあ」と驚いたりする。

はっきり言って、この国でフツーに生きている限り、英語をペラペラ話す機会なんて、ほとんどないし、ちょこっと海外駐在をしたぐらいでも、英語で丁々発止の議論をする力が求められるというわけでもないようなのだ。ということは、どんなにお金をかけて英語を勉強したところで、よほど運が良くなければ報われることなんてない。

私は 25歳頃から、結構真面目に英語に取り組んだ。それまでも日常会話ぐらいは全然困らなかったが、急に News Week をスラスラ読みこなしたいなんてことを思ってしまったのである。それはたまたま、英語をマジに使う仕事についてしまったので、掛け値なしに必要になったからでもある。

日常会話に困らないレベルの人間が News Week を読みこなしたり、海外でビジネス・トークをしたりするためには、とりあえずは「ボキャブラリーを増やす」努力が必要だ。こればかりは、「聞き流す」だけでは無理で、結構小難しい英文を浴びるほど読み、書き、積極的に会話し、同じ単語や言い回しを覚えては忘れ、忘れては覚えるという作業を繰り返すしかない。

私も一時は、ボキャブラリーが 12,000 以上はあったようで、結構まともに英文雑誌を読めていた時代があった。その頃は、外資系の団体に勤めていたりして、実際に毎日英語で仕事をしていたので、リアルに必要だったのである。そうでもなければ、いくらボキャブラリーが増えたところで、そんなに役に立つというわけじゃない。

だからそうした仕事から離れて「フツーの日本人のおっさん」に戻ってしまうと、単語なんてどんどん忘れる。今は多分、7,000~8,000 ぐらいのボキャブラリーしかないだろうと思う。「あ、この単語知ってたはずだけど、忘れちゃった」なんていうのがやたら多い。多いけれど、なんとなく過去の遺産の想像力で補えたりするから、まだいいのだが。

で、自分も「フツーの日本人のおっさん」に戻ってしまったから、英語なんて必要ないかというと、あながちそんなこともない。普段の暮らしでずいぶん重宝する。少なくとも、新しい概念を 「たんなる記号みたいなカタカナの専門用語」 ではなく、「ちゃんと意味のある英語」としてフツーに理解できるというだけで、かなりありがたい。

とくに PC なんて根がアメリカ人だから、英語由来の専門用語が多い。「チュートリアル」だの「ドメイン」だの「スプレッドシート」だのを、英語と無関係なカタカナの「IT 専門用語」として覚えようなんて思ったら、そりゃあストレスだ。高齢者が PC を覚える際の一番のネックが、この「カタカナ語」である。これに抵抗がないというだけで幸せである。

私は時々、新しい外来語はカタカナ表記をやめて、アルファベットそのままで表記するようにしたら、当初は大変だろうが、やがて日本人の英語に対する抵抗はかなり減るんじゃないかと夢想することがある。少なくとも「日本で選挙に関心を示すのは、主として年配者」と言ったつもりなのに、なぜか場が気まずくなるなんてこともなくなるだろう。

先日飛行機で九州に行った時、機内アナウンスが、中国人によくあるような子音のはっきりしない「フガフガ発音」で、 "flight" が徹頭徹尾 "fright" と発音されるので、かなりムズムズした。あれって、社内で指摘してくれる人がいないのかなあ。ただでさえ英語って、子音をムニャムニャフガフガ発音されると、何言ってるかわからない時があるよね。

見たところ乗客は日本人ばかりなんだから、下手な英語のアナウンスなんて止めとけばいいのに。あれでは、まさに英語は (あまり趣味のよくない) ファッション・アクセサリーでしかない。

 

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2013年7月13日

自民党はとっくに賞味期限切れしているはずなのに

まったくもう、変われば変るものである。4~5年前の首長選挙では、多くの自民党系候補者が、「自民党公認」という看板を嫌い、「無所属」で立候補していたし、国政選挙でもポスターの「自民党」の文字は極力小さく印刷していた。

ところが、今度の参院選では遠慮なく「自民党公認」をアピールしている。逆に民主党がズタズタ状態だ。まことに世の変遷とは恐ろしいものである。人間って平気で手の平返しをするのである。それにしても、あれほどメロメロになっていた自民党は、本当に生き返ったんだろうか?

私は昨年 11月に、「総選挙で投票する先が見当たらない」という記事で、こんなようなことを書いている。

民主党には愛想が尽きたが、かといって自民党に回帰すればいいのかといえば、それも気持ち悪すぎる。自民党はあんなにも賞味期限切れになっていたのだ。それが 3年ちょっと野党にいただけで自動的に再生するなんて、ちょっと考えられない。

今回の選挙にしても、「アベノミクス」がたまたまうまく行ったように見えるというだけで、自民党を手放しで支持する風潮には、とてつもなく大きな疑問を感じてしまう。10年ぐらい前までは自民党支持者だった私だが、阿部政権の「原発再稼働」という一点だけで、票を投じる気にはなれない。

自民党が賞味期限切れになっているという認識は、私は変えていない。例えていえば、ちょっとした外壁塗装工事で新しくなったようなイメージを与えているだけで、屋台骨は変っていないからだ。

だからといって、積極的に支持する政党があるかといえば、はっきり言って、ないのである。それは昨年 11月の時とほとんど変っていない。支持すべき政党が見当たらないというのは、本当に哀しいものである。

 

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2013年7月12日

2年振りにエアコンを稼働させてしまった

一昨日 "突然の 「真夏」" という記事を書いたが、今年の「真夏」はまさに突然中の突然で、さすがに体がついていけず、昨日の昼過ぎに降参して、ついにエアコンを点けてしまった。

我が家のエアコンは、一昨年の大震災依頼、コンセントを外しっぱなしにしていたのである。福島原発があんなことになって電力が足りないというので、「それじゃ、使わなきゃいいんだろ、使わなきゃ!」とばかりに、コンセントを外してしまい、以後ずっとそのままにしていたのだ。

昨日の午前中、ラジオを聞いていると 「本日は猛暑になります。熱中症にならないよう、エアコンを上手に使うなどして、ご注意ください」 なんて言っていた。その時点ではまだ、「ふん、エアコンなんて使わんもんね」と高をくくっていたのだが、昼過ぎになると、そうも言っていられなくなった。

我が家は風通しがとてもいい構造で、そのお陰で、一昨年と昨年の猛暑をエアコンなしで乗り切ることができたのだが、昨日は入ってくる風が熱風なのである。そんな中で PC に向かって仕事をしていると、全身から汗が噴き出し、洒落にならないほど頭がクラクラする。

さすがに「下手すると、本当に熱中症になるかも」と思い、2年ぶりにエアコンのスイッチを入れてしまった。私も昨年で還暦を過ぎてしまったので、あまり無理してもいけないような気がしたのである。ああ、年は取りたくないものである。

ただ、エアコンのスイッチは入れたものの、設定温度はきっちりと摂氏 28度で、しかも「まろやか運転モード」という、「熱中症にならない程度」のものだ。フツーの人には、エアコンを効かせているうちに入らないようなものだったかもしれない。

ちなみに今日は昨日に比べて風が涼しいので、エアコンは点けずに午後 2時半を過ぎた。

 

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2013年7月11日

「あんじょう」の語源を知って、ちょっと驚いた

関西の言葉で「あんじょうしぃや~」なんて言われると、なんとなくほっこりとしてしまったりするが、この あんじょう」という言葉の意味を最近まで知らなかった。せいぜい「安穏」と「養生」 足して 2で割ったようなニュアンスで、「安生」とでも書くのかぐらいに思っていたが、そんな名前の人はいても、普通名詞としてはどうやら存在しないようなのである。

で、例しに辞書を引いてみたら、これは漢字では表現できない言葉なのだとわかった。『大辞林』によると、旧かなでは「あんぢよう」と表記し、「味(あぢ)よく」 のウ音便の形である「味よう」の変化形なのだそうだよ。ちょっとびっくりだ。調べてみるものである。

これとはちょっと違うが、庄内弁に「あんべ」という言葉がある。語源は「塩梅/按排」で、「いいあんべ」と言ったら、味加減がいいとか、体の具合がいいとか、そんな意味になる。逆に「あんべわりぃ」と言ったら、体の具合がすぐれないとか、物事の処理が思うに任せないことを言う。

銀座の山形県アンテナショップに、アルケッチャーノの支店「ヤマガタ・サン・ダンデロ」があるが、この店のメニューの前菜には「アンベ・ミレー」と記してある。知らない人はイタリア語か何かだと思うが、これは「塩梅見れ」ということで、「味見してごらん」という意味である。

どうやら、「あんじょうしぃや~」は、「いいあんべ」で行きなさいということのようなのだね。

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2013年7月10日

突然の 「真夏」

最近、春と秋が短かい。実感としては寒い冬に耐えてようやく春になったと思う間もなく、突然夏になり、暑い夏に耐えてようやく秋になったと思う間もなく、突然冬になっている。

そして夏は二段階という実感があり、突然「夏」になって、さらにある日突然「真夏」になる。「夏」と「真夏」 では、同じ夏でもレベルが違う。

近頃の日本の季節感は 「呆気ないほど短い春」「暑い夏」「死ぬほど暑い真夏」「あっという間に終わる短い秋」 「長くて寒い冬」という 5段階で考えなければならないんじゃないかという気がするほどである。昔の真夏は、「夏の盛り」というぐらいの意味だったが、今の「真夏」は、「夏」とは区別される別の季節と思った方がいい。

「日本には美しい四季がある」なんていうような、生やさしいものじゃない。今は「五季」である。「真夏」という新しい季節が加わったのだ。「真夏」というのは、ちょっとやそっとの暑さではない。夜になっても鎮まらず、翌朝の太陽が昇るとさらに暑くなる。そしてその暑さが長期間持続する。

昨年の 8月末に、仕事で北海道の小樽に行った。北海道に行けば猛暑を逃れて一息つけると楽しみにしていたのだが、何と飛行機を降りてみると関東並の暑さで、ちっとも涼しくない。いつもの年なら、8月末の北海道は夕方になれば上着がないと寒いぐらいなのに、夜にポロシャツ 1枚で歩いても暑いぐらいだった。まさに、「真夏」というこれまでなかった新しい季節感を実感した。

今年も、先週末あたりから突然「真夏」になった。土日は仕事で八ヶ岳山麓の高原にいたから、帰ってきて初めて、たじろぐほどの暑さを確認した。

この暑さが、10月の声を聞くまで続くだろう。覚悟して過ごさなければならない。

 

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2013年7月 9日

北関東、東北の高校、少子化でようやく共学化

私の妻は宮城県出身で、宮城県の女子校としては、まあランクが一番上の「宮城県第一女子高等学校」(通称 「一女高」)という高校を卒業した。つい最近まで知らなかったのだが、それが今では共学になり、名前も「宮城県宮城第一高等学校」(通称 「宮一 = みやいち」)ということになっているのだそうだ。

emi さんのブログに 「別学・共学」 というタイトルの記事がある。それによると、北関東から東北にかけて、男女別学の公立高校が多いのは「戦後の占領下で行われた学制改革により、アメリカ教育使節団報告書の方針に沿って高校の男女共学化が勧められたのだが、それが西日本では強硬で、東日本では寛大だった」という理由によるらしい。

ふぅん、そんなこと、初めて知ったよ。

我が山形県では、割とスムーズに男女共学化が勧められたようだが、それは東北の他県とくらべればスムーズという程度で、私の卒業した酒田東高校は共学だったが、西高校は女子校だった。

まあ、西高の場合は 「女子高校」 と明確に規定されていたわけではなかったが、事実上の女子校だったという経緯があり、共学を明確化した今でも、男子生徒は極端に少ないようなのである。それでも、お隣の宮城県ほどはっきりと分けられていたわけではない。

私は最近まで、宮城県が特別なのだと思っていたが、どうやら本当に、埼玉、群馬、福島なども含めて、北関東から東北にかけては男女別学がフツーだったようなのである。それが最近、冒頭でも触れたように、ようやく共学化されてきている。その理由は、少子化なんだそうだ。(参照

それでも一部では、「伝統」とやらを盾にして共学化反対意見が根強いのだという。ふぅん、私としては自分の学んだ高校が共学でよかったと思っているのだがなあ。

 

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2013年7月 8日

雷の時に河川敷の大木の下で雨宿りするとは

朝日新聞デジタルが 「落雷で 50代男性死亡 東京・荒川河川敷」というニュースを伝えている。今日の 3時 45分頃、東京都北区の荒川河川敷の大きな木の下で雨宿りをしていた 3人が落雷を受け、その中の 1人が死亡したものだ。大変気の毒なことである。

雷が鳴っている時に大きな木の下にいたら落雷に遭いやすいというのは、かなり常識的な知識のはずだ。とくに河川敷のようなだだっ広い土地で大木の下にいたら、雷に 「どうぞ私を狙って落ちてきてください」と言っているようなものだ。しかしこの常識的知識は、実はそれほど普及していないのだろうか。

あるいは、そのぐらいの常識は、知っていたのかもしれない。そうだとしたら、「雨に濡れるのは嫌だ」 → 「雨宿りにちょうどいい木がある」 → 「他にも 2人いるし、大丈夫だろう」という 「正常化の偏見 (normalcy bias)」が働いたのだろうと思うしかない。

落雷事故ではないが、私は自転車の無灯火走行に出会うたび、似たようなことを思う。とくに、街灯の少ない真っ暗な道で車を運転している時に、右側を無灯火で走ってくる自転車がいると、「ひやりハッと」 どころか、ぞっとする。

雷の時に河川敷の大木の下で雨宿りする人と、暗い夜道を無灯火の自転車で右側走行する人というのは、甚だ恐縮だが、根本的にメンタリティが共通していると思う。自分がそんなに危険な行為に及んでいるとの自覚なしで、死んでも全然不思議じゃないほどの危険を冒してしまうのだ。

こうしたことについては、私はかなり悲観的な思いを抱いている。単に常識的知識を普及させるだけで解決できるとは、到底思えないのだ。世の中には、自分の身を守るための情報がとても届きにくい人と、たとえその情報が届いても、自分に関係のある情報として受け取ることができない人というのが、少なからずいるようなのである。

ということは、周囲がよほど注意してあげるしかないのだ。

 

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2013年7月 7日

外来語への反発

「外国語の乱用で内容を理解できず、精神的苦痛を受けた」として、「日本語を大切にする会」世話人を名乗る 71歳の男性が NHK に 141万円の慰謝料を求める訴訟を、名古屋地裁に起こしたんだそうだ。(参照

どんな言葉が理解できないのかというと、「リスク」「システム」「トラブル」「ケア」などの言葉と、「BS コンシェルジュ」「スタジオパークからこんにちは」「ほっとイブニング」「Sportsプラス」「Shibuya Deep A」などの番組名だという。

だったら「危険性」「体系」「困難」「手当」とか、「衛星放送よろず案内」「放送室公園」「暑い夜」「運動足し算」「渋谷の深A」と言い換えればよくわかるのかといえば、少なくとも後ろの方の 3つは、ますますわからなくなる。ということは、元々意味なんてどうでもいいのだ。

一方、少なくとも「システム」は「体系」なんて言い換えるよりも、そのまま「システム」で通す方がいいような気がする。「システム」がわからないという人なら、それ以上言い換えたとしても、結局のところ内容の理解はできないだろう。

訴訟を起こした人物は「外国語の乱用」と言っているようだが、上述の例の前の方の 4つは、「外来語」として既に日本語の中に馴染んでいる言葉である。後ろの 4つでは、せいぜい「コンシェルジュ」が多少目新しいぐらいのものだ。

そもそも外来語がわからないなどと言ったら、野球もできない。「ストライク」も「ボール」も ヒット」も「エラー」も「ホームラン」も使えないことになる。この訴訟を起こした人が、もし野球放送を見て苦痛を覚えないなら、「他の外来語も少しは覚えましょうね」と言ってあげればいいだろう。

もし彼が「そんな興味のない分野の言葉を覚えるのは苦痛だ」というなら、「興味がないなら、わからなくてもそんなに苦痛じゃないでしょ」と言ってあげることになるだろう。「大抵の人は興味のない分野はわからないままで、フツーに生きてますよ」と。

興味のない分野で無理に苦痛を感じて文句を言いたがるというのは、3年ちょっと前に "「ユニクロ嫌い」 を巡る冒険" で触れた人を思い出させる。私のユニクロ関連の記事について、こんなようなコメントを付けてくれた人だ。

私はいまだに一枚も買ったことのない者です。
何度か足を運びましたがどの商品も質が悪いのがすぐにわかりました。
(中略)
自分があんな洋服を買うのはとても惨めです。
買っている自分を友達に見られたくない。

ユニクロの服が嫌いなら買わなければいいだけの話なのに、品質に見当違いの難癖を付けた上に「買っている自分を友達に見られたくない」なんて、妙にねじ曲がったことをおっしゃる。これでは、「本当は買いたいんじゃないの? もしかしたら、妙なコンプレックスに陥ってるんじゃないの?」と言いたくなってしまうではないか。

今回の話も、本当はカタカナ言葉に興味がないではないのだが、なんとなくてらいがあって、妙に反発してみたくなる。そんなビミョーな感覚がにじみ出ているような気がしてしまうのは、私だけだろうか?

さらに訴訟を起こした 71歳の男性は、「若い世代は分かるかもしれないが、年配者はアスリートとかコンプライアンスとか言われても分からない」とおっしゃっている。いやいや、若い世代でも 「コンプライアンス」を理解している人はそんなに多くないよ。

8年ちょっと前に書いた「英語の乱れ?」という記事で、私は "若者のかなり多くが「ララバイ」を「バイバイ」(さよなら) の洒落た言い方と思いこんでいるのに驚いた" と書いている。外来語がわからないのは高齢者ばかりではない。まあ、世の中全体がそんなものなのである。

全てきちんとわかれば、それに越したことはないが、わからなくても取り立てて不都合はないという程度のものなのだ。それに、前述の番組名のように、わかるとかわからないとかいうことはどうでもいい、「単に雰囲気のもの」というのも、ものすごく多いしね。

 

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2013年7月 6日

熱波襲来

今年の夏は、あんまり暑くないなあと思っていたが、今日からぐんと暑くなるのだそうだ。関東も猛暑日になると予想されている。やれやれ、地球温暖化の昨今、暑くない夏なんてあるはずないみたいなのだ。

私自身は、今日は昼前から仕事で甲州の高原に行って、日曜の夜に戻ってくるので、とりあえず、熱波の第一弾はやり過ごすことができそうだが、その後も波状的に暑さが襲ってくるだろうから、結局のところは暑さに耐えなければならない。

今年はこれまでのところ、関東ではやりきれないほどの暑さにはなっていないから、これから急に暑くなると、体が慣れていないだけ大変だろう。日曜に帰ってきてから、なんとか体を慣らしていこうと思う。今日のところはバタバタの忙しさなので、これにて失礼。

 

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2013年7月 5日

参議院の存在意義

参議院選挙が始まった。この参議院というモノの存在について、「本当に必要なのか?」という疑問はかなり前から出てきている。模範解答としては、「首相の解散権が及ばないので、長期的展望で国政を大所高所から考え、衆議院が暴走したとしても一定のブレーキ役を果せる」など、「良識の府」的な存在意義が説かれてきた。

だが実際問題として、参議院が国政を大所高所から考えているなんて実感できた例しがないし、ましてや「参議院が存在していてよかった、これで国が救われた」と思ったことなんて、生まれてから一度もない。

どうせ衆議院の後にくっついていくだけにしか見えないのである。逆に現在のように「ねじれ現象」になってしまうと、必要な法案さえなかなか通らず、「何も決められない国会」になってしまう。どちらにしても、まるで意義が感じられない。

こんなものに国民の税金を投入して温存しておくなんていうのは、まったく馬鹿馬鹿しいことに見える。いっそ廃止して一院制にしてしまう方が、ずっと話が早いではないか。

とまあ、こんな風に話の結論を出してしまうのは誠に簡単だ。しかし簡単に結論の出る話ほど、「ちょっと待てよ」と立ち止まって考えてみなければならない。この問題、結論は簡単だが、その結論を実現するまでの手続きはやたらと大変だ。

なにしろ、改憲が必要になる。憲法では第 42条で 「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する」とある。まずこの条項を変えなければならないし、それに関連するすべての条項も変えなければならない。その面倒くささは、96条改正なんてもんじゃない。参議院を廃止するためには、ものすごい準備と審議と採決が必要になるのだ。

私からみれば、そんなことより憲法 9条の方を変えてもらいたいという気がするが、9条を変えるためには、参議院を廃止して一院制にする方が、話が早いだろう。96条改正が 9条改正のための一里塚なら、一院制への移行はいわば十里塚だ。一院制になってしまえば、どんな大きな法案でもすいすい通るだろう。

ということは、憲法改正論者の私ですら、大きな問題となると、やはり二院制で慎重に審議する方がいいかもしれないと思ってしまう。なにせ、自分で言うのもなんだが、リベラル保守なもので。

というわけで世の中には、いくら馬鹿馬鹿しくても、後生大事にお守りしていかなければならないものがたくさんあるということのようなのである。

 

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2013年7月 4日

名刺入れというものを買った

近頃、「名刺入れ」という小物がオシャカになってしまって、新しいのを購入した。それまで使っていたのは、大昔に繊維関連の記者をしていた頃に、某デザイナー・ブランドの記者会見で記念に配られたもので、多分 30年近く使っていたものだ。さすがにモノはいいらしく、結構長持ちした。

先日岡山に出張した際、夕方ホテルに入る前に、「この際、名刺入れを買ってしまおう」と思ったのだが、名刺入れというのを自分で買ったことがないので、どんな店に行けばいいのかわからない。ちょっとした小物屋を覗いても、可愛らしい財布みたいのしか置いていない。

そこで駅ビルの案内所のおねえさんに「名刺入れとか売ってるお店は、この駅ビルにありますか?」と聞いたところ、「ございます」と、2店紹介してもらった。同じフロアで隣同士の、紳士小物関係の店らしい。

で、さっそく見に行ったら、どちらも思った以上に「オッサレー」な店で、いわゆる「スノッブ」な小物が上品に並べられている。一方の店で名刺入れを見ると、一番安いのでも 6,700円とかの値段だ。

「やべぇなあ」と思っていると、店員が「名刺入れをお探しですか?」なんて言って近づいてきて、別の名刺入れを「これなんか、上質の革を使っていまして……」と勧めてくる。「それは、おいくら?」 聞くと、「7,400円です」 という。いやはや、6,700円でたじろいでいる男に向かって、よくまあ、そんなもの勧めるわ。

早々に隣の店に移ると、こっちはさらに高い。最低が 7,000円代で、それ以下はない。私は持ち物にステイタスを求める趣味はないので、「探す店を間違えた」とばかりに、そのフロアから逃げ出した。

エスカレーターに乗りながら iPhone を取り出し、試しに Amazon で「名刺入れ」を検索してみると、ほとんどは 2,000円以下である。アルミ製なんて、1,000円以下だ。しかし私は、あのアルミ製の名刺入れというのだけは、どうにもしっくりこない。豚や牛には誠に申し訳ないが、財布と名刺入れとベルトと靴だけは、革製にさせていただきたいと思う。

ふと気付くと、私のご贔屓の「無印良品」のショップがある。「なんだ、初めからここで買えばよかったんだよ」と安心して飛び込み、何の迷いもなく 2,980円の名刺入れを買った。シンプルなデザインで、作りはしっかりしている。これで、最低でもあと 15年は使えるだろうし、15年後は、もう名刺なんか使わないだろう。十分満足である。

それにしても、名刺入れ如きに 6,000円以上も出すという人がフツーに存在するというのが、ちょっと驚きである。まあ、私がこれまで使っていたのは、多分 1万円以上の代物だったんだろうけど。

 

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2013年7月 3日

「片腹痛い」の語源は本当に「傍ら痛し」だったのね

「片腹痛い」 の語源が 「傍ら痛し(かたはらいたし)」であるという説は、知ってはいたが、私としてはずっと片腹痛いほどの俗説だと思っていた。しかし、どうやらこれはちゃんとした通説らしい。へぇ、そうだったんだ。

「ちゃんちゃらおかしくて、聞いてる方が恥ずかしいわい」というぐらいの気分が、「傍ら痛し」→「片腹痛い」に変化してしまったわけね。源氏物語の「桐壺」の巻に、「この頃の御気色 (けしき) を見奉る上人 (うへびと)、女房などは、傍痛しと聞きけり」とあるから、どうやらこれで間違いないようだ。へぇ、へぇ!

「傍ら」の音は「かたわら」だが、歴史的仮名遣いは「かたはら」である。それをつい「片腹」と表記するやつがいて、それがなんとなく、すとんとはまってしまったものだから、一人歩きして、ついには「片腹痛い」で立派に辞書にまで載るようになってしまった。これだからもう、「言葉は生きもの」なんていうことになってしまうのだよね。

似たようなのに、「当たり前」がある。語源は「当然」で、この「然」の字を音が同じの「前」 にして「当前」と表記するやつが江戸時代に続出して、それを「当たり前」と読むようになった。 草書体で書くと「然」より「前」の方がずっと手っ取り早いから、つい当て字してしまうのだよね。これには「当然の分け前」から来たという説もあるが、私は「当前」説を支持している。

それから「気配」という言葉がある。本来は「気延ひ(けはひ)」という和語なのだが、「気配」なんていう当て字をされてしまったので、まるで漢語のようなイメージになってしまった。

「気延ひ」から派生したもう一つの言葉に「化粧」がある。元々は「ケワイ」と音便化した読まれ方をしていて、鎌倉には今でも「化粧坂(けわいざか)」という地名がある。もっとも、「化粧」は似たような意味合いの漢語でもあるので、今では「化粧」を「けわい」と読む人はいなくなって、「けしょう」がスタンダードになった。

これについては、7年ちょっと前の "「気配」 のニュアンス" という記事に詳しく書いてある。

まあ、本当に本当に言葉というのは生きて変化するものである。私は今では「ら抜き言葉」にはものすごく寛容だ。「○○が売ってる」とか 「いらっしゃいませ、こんにちは」は、今でも違和感が強すぎてダメだが。

 

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2013年7月 2日

Access で組んだアプリを新バージョンで動かす際のトラブル

PC Watch に 「Windows XP リプレースで厳しい局面に立たされる中小企業の現状と、意外な打開策」という記事がある。Windows XP 上で Access 2000で作られた生産管理アプリケーションを動かしてきた栃木県の中小企業が、Windows XP のサポート停止を目前にして、にっちもさっちもいかなくなったのだそうだ。このアプリを開発した企業は既に廃業しているという。

そこで思い切って、Windows 7 に Access 2010 をインストールした環境で動かしてみたら、幸運にも問題なく稼働したというのだ。この記事は、「XP サポート終了まで 1年を切った今、日本マイクロソフトは 360社のパートナーとともに大船団を組み、移行を支援しようとしている」という、ちょっと提灯気味のテキストで結ばれている。

本来ならば、いくらバージョンアップしようとも、一度組んだシステムの互換性は確保されなければならない。それが当たり前というものではないか。ユーザーが望んでもいないバージョンアップを無理矢理に押しつけられ、その度にシステム移行に苦労させられるのでは、本末転倒である。

中小企業はそんなに高度なシステムなんて必要としないのだから、MS の勝手な都合によるバージョンアップは、迷惑以外の何物でもない。

以前、某業界団体の職員だった頃、Access 95 で組んだ業務用アプリ(加盟企業管理ソフト)を、Access 98 に移行しようとして一苦労したことがある。互換性が完全には確保されておらず、細かな問題点が見つかるたびに微修正を施して、なんとか動かしていた。

何と、この私もかつてはプログラマーの真似事みたいなことをしていたことに、我ながらびっくりしてしまう。Access というデータベース・ソフトは、私みたいなものでも何とかアプリが組めてしまう取り扱いの容易さは評価できるものの、バージョンアップの度に互換性に関する問題が発生しやすいという欠陥がある。

上述の記事を紹介した Slashdot のタレコミ記事は、"XP からの移行に必要なもの。それは 「勇気と運」?" という、笑ってしまいそうなタイトルになっていて、「タレコミ子にはこのケース、極まれに偶然上手く言っただけにしか思えないのだがいかがだろうか(原文ママ)」とある。

しかし、こんな当たり前のことが「偶然うまくいっただけ」なんて言われるようでは、今後は MS Office、とくに Access なんて、安心して使えない。頭のいい中小企業なら、Windows 離れするのが当然なんじゃなかろうか。

 

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2013年7月 1日

「冷風扇」 って、一体どうなんだ?

もう何十年も前から毎年、今頃の季節になると、新聞・雑誌の通販宣伝ページやラジオショッピングなどで、「冷風扇」というものが紹介される。「打ち水などと同じ気化熱の原理を利用して、お手軽に冷たい風を送る」という触れ込みの、アレだ。

これ、私は前々からものすごく疑問に思っている。だって、気化熱を利用するというからには、水蒸気が発生する。水蒸気が発生したら、当然湿度が上がって蒸してくる。上がった湿度を逃がすためには、どんどん外気を取り入れなければならない。だったら、結局室内は涼しくなんかならない。

夏のよく晴れた日、湿度があまり高くないと、気温は 30度以上あっても室内ではそれほどの不快感はない。ところが日が暮れて、なまじ気温が下がり始めると、その分だけ湿度が上がり、むしろ日中よりも蒸し暑さが増す。そう、蒸し暑さの要因は、気温と湿度の合わせ技なのだ。だったら少々気温を下げても、湿度を上げてしまっては元も子もない。

実際のユーザーの意見はどうなのかとググってみると、「冷風除湿器」と混同してのコメントが目立った。念のためはっきり区別しておくが、ここでは世間の常識に従って、水に浸した布に風を当てて気化熱を奪うシステムのものを、「冷風扇」と呼び、コンプレッサーで除湿して、手前に冷風、背後に熱風を排出するものを「冷風除湿器」としておく。

冷風除湿器は、我が家でも大型の除湿器として、梅雨時などの洗濯物室内乾燥に重宝している。コンプレッサーを使っているだけに、確かに冷風も出せるが、いわば室外機との一体型のようなものだから、背後から出る熱風の方が強くて、洗面所のような狭い室内はサウナ状態となる。それだけに洗濯物はとてもよく乾くが、冷房にはならない。

ここで直接問題にしている、気化熱を奪うタイプの「冷風扇」の使用感を拾ってみると、「そんなに涼しくならない」とか、「湿度が上がって大変」などのほか、 「カビが生える」「すぐ壊れた」など、かなりネガティブなコメントが多い。まあ、そんなところだろう。

唯一、戸田覚氏が日経トレンディのページで、かなり好意的なコメントを書いておられる(参照)。しかしこれは、「エアコンを弱めに効かせて冷風扇を併用するといい」という、かなり特殊な条件下でのオススメだ。

はっきり言って、これではお話にならない。「冷風扇というものをどうしても使いたかったら、湿度を上げないために、エアコンと併用する必要があるよ」あるいは 「エアコンをギンギンに稼働させたら、空気が乾きすぎないように冷風扇と使うといいよ」と言ってるようなもので、この記事を読んで冷風扇を買ってみようなんて思う人は、よほどのもの好きだろう。

つまるところ、冷風扇自体はエアコンに比べればずいぶん安い値段で購入できるとはいえ、「安物買いの銭失い」になってしまいそうで、いくらお金がないという人でも、あまりオススメしたくないと思うのである。

 

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