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2013年8月に作成された投稿

2013年8月31日

リモコンの熱中症

IT 機器というのは、時々ものすごく人間的な振舞をしてくれることがある。「このマシンもそろそろ買い換えかな」と呟いた途端に、機嫌が悪くなってフリーズを連発するので、「ごめんごめん、まだまだ君のことを使い続けるつもりだから、ご機嫌を直しておくれ」となだめると、急に動作がスムーズになったりする。

この夏は、カーナビのリモコンがとても人間的になってくれたりしたので、ここに報告しておこう。

7月の梅雨明け以後、一度妙に涼しくなったと思ったものの、またしても暑さが戻ってきたのは、8月の 5日頃だった。それから続く暑さは、まだまだ記憶に新しいところである。そして、8月の 6日か 7日頃だったと思う。私の車のカーナビのリモコンが、壊れてしまったのだ。

初めは電池が切れたのかと思って交換してみたのだが、うんともすんとも言わない。完全に壊れてしまったようなのである。私はそれまで、エアコンの吹き出し口に取り付けたフックにリモコンを固定して、操作しやすいようにしていたのだが、諦めて取り外し、カー・オーディオの下にしまい込んだ。

「やれやれ、これからは、このやたら反応の悪いタッチパネルに頼って操作しなければならないのか」と、私はため息をついたのである。私のカーナビは、タッチパネル操作が可能なのだが、それはめちゃくちゃ反応が悪くてイライラするので、いつもリモコンで操作していたのだ。そのリモコンが壊れたので、本当に操作しにくくなってしまったのである。

ところがそれから 4~5日経ったある日、カー・オーディオの下にしまい込んだリモコンを処分するために取り出そうとすると、ボタンに指を触れてしまった。すると、ピッと反応するのである。画面をみると、なんだか直ってしまったようなのだ。

どうやら、エアコンの吹き出し口にセットしたまま、日向に放置してしまったので、あまりの暑さのため、リモコンが熱中症で気絶してしまっていたようなのである。それがしばらく日陰においたため、息を吹き返したみたいなのだ。

それからは、リモコンは常にエアコンの冷気に当て、日向に駐車する時は日陰にしまうようにしている。するとなかなか機嫌良く動作してくれるのだ。リモコンが熱中症になるとは、この年になって初めて知ったのである。

 

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2013年8月30日

和歌や短歌を「一句」なんていわないでね

私はもう一つのサイト「和歌ログ」で、毎日歌を作っている。自分では「和歌」と称しているが、形式としては「短歌」と共通なので、そう呼んでもらってもいい。「和歌」と呼ばれようが「短歌」と呼ばれようが、自分では別にこだわらない。

「和歌」と呼ぶにしろ「短歌」と呼ぶにしろ、とにかく私が毎日三十一文字の歌を作っていると知ると、「それはすごいですね。じゃあ、ここで一句お願い」なんてなことを言う人がいる。私としてはそんなことを言われると、「誰が作るか!」と思う。そのあたりには、ちょっとこだわるのである。

和歌や短歌は、「一句、二句」 ではなく「一首、二首」と数える。これは日本の常識である。もっとも、和歌や短歌にも「句」という単位があるが、それは「上の句」(「かみのく」: 五・七・五・七・七の、五・七・五の部分)、「下の句」(「しものく」: 七・七の部分) というように用いる。

というわけで、いくらへぼ歌人に対してとはいえ、「一句お願い」 なんていうのは失礼というものなのである。ところが、この手の人は、必ず「一句お願い」と言う。これまで 「一首お願い」と言われたことは、残念ながら一度もない。日本には『百人一首』というものがあると知りながら、どうして「一句」なんて言えるのか、さっぱりわからない。

私は「一首」と「一句」の区別もつかない人のリクエストには応えないことにしているが、別にもったいぶっているわけじゃない。私の歌(「句」 じゃなくて 「歌」 ね)は見かけは「古典派」っぽいので、現代語しかわからない人の心には入りにくい。私の歌のレベルがもっと高ければ、そんなハンデは楽に乗り越えるのだろうが、なかなかそこまで至らない。

というわけで、どうせわかってもらえそうにない無駄なことはしないのである。向こうだって、単なる気まぐれ的「ノリ」で言ってるだけで、本当にわかろうなんていう気はない。そこで本当に歌なんて披露されたら、目が泳いでしまって、まともな受け答えすらできずに困惑するだけだから、そんな窮地に落とし込めないためということもある。

それにつけても、日本人が伝統的な言葉センスを失ってしまっているのは、悲しいことである。

 

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2013年8月29日

ネスレ日本の 「レギュラーソリュブルコーヒー」というもの

ネスレ日本が、「インスタントコーヒー」という呼称を廃して、今後は「レギュラーソリュブルコーヒー」ということにするんだそうだ(参照)。"Soluble" は「溶ける、溶けやすい」という意味の形容詞である。

"Soluble coffee" というのは、特段新しい言葉というわけではない。これまでも英語圏内では、"instant coffee" "soluble coffee" "coffee powder" などが、同じ「インスタント・コーヒー」を指す言葉として使われてきた。同じ袖のない服を「ベスト」と言ったり「チョッキ」と言ったりするようなものだ。

一方、「レギュラーコーヒー」という言い方は結構複雑だ。日本でいうところの「レギュラーコーヒー」は、「インスタントじゃないよ」ということを示すために、本家本元の方にわざわざ余計な形容詞を付けた言葉で、本当かどうか知らないが、UCC による造語と伝えられている。つまり、和製英語なのね。

ところが、米国にも "regular coffee" という言葉がある。ただそれは、インスタントかどうかという問題ではなく、主としてシュガーとミルクを入れるかどうかの問題のようなのである。ニューヨークのコーヒー好きの間では、ミルクあるいはクリームと、角砂糖 2個を入れて飲むのが "regular coffee" だと言われているらしい(参照)。

ところが、地域によっては逆に "regular coffee" はブラックのことだったりする。あるいはエスプレッソに対して、アメリカ流の淹れ方をしたコーヒーだったりもするらしく(参照)、かなり錯綜している。

だから米国人に、「日本では、インスタント以外は全部『レギュラーコーヒー』です」と説明したら、「へぇ! 日本の『レギュラー』という言葉は、めちゃくちゃテキトーなんだな」と、びっくりされるかも知れない。エスプレッソだろうがそうでなかろうが、砂糖やミルクが入っていようがいまいが、同じ言葉で扱われるのだから。

上述のリンク先では、ニューヨークでは世界のあちこちからやってきた人たちが、自分の国の飲み方こそ「レギュラー」だと思っているので、ややこしくなるのだろうというようなことが述べられているが、そこに日本流が加わったら、わけがわからなくなる。

ここで本題に戻るが、上述したことを前提にして「レギュラーソリュブルコーヒー」という言葉を改めて眺めてみると、「一体、何じゃ? それ!」と言いたくなるわけなのである。はっきり言って、わけわからん。目先の新しい言葉を使って、口先だけで言い含めるマーケティングは、私の趣味じゃない。聞いてる方が恥ずかしい。

とくに、「レギュラーソリュブルコーヒー」なんて、言いにくくてたまらない (Slashdot には「飲み物なのにかんじゃう」という座布団 3枚もののコメントまであった)から、市場には浸透しないだろうね。「要するに、インスタント・コーヒーなんでしょ」というばかりである。

【追記】

上述の 「日本では、インスタント以外は全部『レギュラーコーヒー』 です」ということに関して、「インスタントと缶コーヒー以外は……」と言うべきかなとも思ったが、まあ、缶コーヒーは日本独特のもの(外国でも、まったくないということもないらしいが)なので、いいかなと。

そのうち、ニューヨークで日本人が力を持ち始めたら、「缶コーヒーこそレギュラーコーヒー」なんてことになったりして。とはいえ、私は 「コーヒーと缶コーヒーは全然別物」と思っているが。

 

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2013年8月28日

茨城県知事選挙にため息をつく

選挙のたびに投票だけはマジメにしてきたが、今回の茨城県知事選挙だけは、棄権する者の気持ちがわかる。本当によくわかる。

22日に告示された知事選の立候補者は、2人。いずれも無所属で、現職の橋本昌氏と、新人の田中重博氏だ。橋本氏は既に 5期 20年を務め、なんと 6選を目指す。同じ人物に県知事を 6期も務めさせるなんていうのは、私の考えでは「県の恥」だから、なんとしても阻止したいが、相手の田中氏は共産党推薦だから、結果は見えている。

これまで橋本氏を支持してきた自民、民主両党も、いくらなんでも 6期は長すぎるとみたようで、推薦を見送ったが、独自候補の擁立までに至らず、自主投票としている。だらしないにもほどがある。

フツーに考えたら、ここで自民の推薦でも得て立候補したら当選の可能性が高く、これほどおいしいチャンスもない。しかし、橋本氏は政党からの推薦は得られなくても、県内各種団体や首長からの支援をがっちりとりまとめているようで、フツーの考え方が通用しないみたいなのだ。ああ、ため息である。

というわけで、私としては本当に棄権しようかとも思ったが、ここは対立候補の田中氏に投票してみようかと考え直し始めている。改憲論者の私が共産党推薦の候補に投票するなんて、日和見にもほどがあるが、同じ人物に 6期も務めさすよりは、共産党推薦でも新しい人になってもうらうほうがいいというのが、私の価値観である。

多選の弊害については、ここで私が言うまでもないので、敢えて書かない。さらに、橋本氏は原発推進論者だから、とにかくこれ以上務めさせたくない。

それにしても、この 2人しか候補者がいない今回の選挙自体が、「茨城の恥」である。

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2013年8月27日

日本の国会が「ダイエット」であるわけ

昨日の話題、「国会前」の道路標識の下の文字が、ローマ字の "Kokkai" から、英語の "The National Diet" に変ったことに間して、「英語が少しはできる人にさえちょっと荷が重いかも知れない」と書いた。

勝手な印象論だが、米国連邦議会のことは "Congress"、英国の国会は "Parliament" というと知っていても、自分の国の国会が「ダイエット」だなんて、知らない人の方が多いんじゃないかという気がする。

私自身も外国人と英語で話す時に、日本の国会について何かコメントする必要がある時、"The National Diet" なんて言わずに、"Japanese Parliament" と言っちゃうことの方が多い。頭の片隅で、「えぇと、何だっけ、『ダイエット』とか言ったよな」と、ちらっと思うのだが、使い分けが面倒なものだから、つい勢いで "Parliament" の方が口をついて出てしまう。

そして、日本の国会を "Japanese Parliament" と言ってしまっても、英語のネイティブ・スピーカーから、「それは違うよ」と指摘されたことは一度もない。大抵、問題なく通じてしまう。そんなこんなで、「何でまた、日本の国会は『ダイエット』なんだよ」と、つい最近まで思っていた。

とりあえず、フツーの(何をもって「フツー」とするかは、ここではあえて踏み込まない)国会は "parliament" で、ちょっと大がかりな連邦議会のことは "congress" というらしいという知識はあった。

"Parliament" の語源は、ラテン語由来の「話す」(フランス語では parle")から来ていて、「話し合いの場」というようなことらしい。"Congress" は、語源的には「ともに行く」というような意味合いで、要するに「集まり」のことである。それで、中国の国会みたいなものといえる「人民代表会議」のことは、"The National People's Congress" という。

じゃあ、「ダイエット」ってのは何なんだ? ということになる。検索してみたら、こんなようなことがわかった。

まず、お馴染みの方の「ダイエット」(食事での減量)に間して。古代ギリシア語の δίαιτα (diaita、「生活様式」「生き方」)が、ラテン語 diaeta)と古フランス語を経て、英語の "diet" となり、「(日常的に口にする)飲食物」や「食餌療法」を指すようになった。

そして、国会を意味する "diet" も、なんと語源的には同じで、「生活様式」「生き方」を意味する古代ギリシャ語を起源として、「日程」「日々の勤め」等を意味するラテン語 "dieta" になり、転じて「議会」を意味するようになったという。(参照

へえ、同音異義語だと思っていたが、語源的には同じだったのか。これにはびっくりだ。

 

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2013年8月26日

道路標識が英語表示に変更されることを巡る冒険

国土交通省と東京都は、国会周辺にある 11カ所の標識のローマ字を英語に切り替えているらしい。例えば、国会前交差点の標識は、これまでは 「国会前」 という日本語表記の下に "Kokkai" とローマ字表記されていたが、新たに取り付けられた標識では、ローマ字部分が "The National Diet" と、英語に変更されている。(参照

同様に、「財務省上」は "Zaimusho ue" から "Min. of Finance" になっているという。これは外国人にもわかりやすくするためで、今後は、外国人の多い観光地を中心に、英語表記への変更を検討するという。

朝の TBS ラジオでは、この問題について外国人の反応を聞いていた。英語圏から来ている外国人は、当然にも「ローマ字では全然わからない。英語の方がいい」という反応だが、英語のわからない中国や韓国からの旅行者は、「英語に変えられても、どうせわからない」と答えていた。

ただ、国会に相当する機関のことは "The Congress" とか "Parliament" とかいう国が多く、"Diet" と称する国はそう多くないから、「国会前」 が  "The National Diet" というケースは、英語が少しはできる人にさえちょっと荷が重いかも知れない。国立メタボ防止研究所みたいなものと思う日本人がいるかもしれない。

ただ、単にローマ字表記されるよりも、英語表記にする方が意味としては少なくともこれまでより伝わりやすくなるのは確実だろう。例えば「観光案内所前」なんて標識があったとして、"Kanko annaijo mae" なんて書かれるより、"Visitor center" と書かれる方がずっとマシだ。

呆れたのはこのラジオに出てきた日本人の反応で、「読みにくい地名は漢字だけではわからないことがあるので、英語にするよりローマ字のままの方がありがたい」なんて言ってる女の子がいた。おいおい、こんなナンセンスなのは、編集でカットしてくれないかなあ。

「国会前」は "The National Diet" になっても、固有名詞はそのままローマ字表記でいくに決まってるじゃないか。この子は「石神井」の下の "Shakujii" という表示が "Stone god well" か何かになってしまうとでも思ったんだろうか? (英国支配が長く続いた香港では、それに類した表記も多く見られるが)

驚いたことに、番組キャスターも「そうか、難しい地名はローマ字がふりがな代わりになるから、英語にされちゃ困るよね」なんてことを口走っている。森本毅郎さん、しっかりしておくれ。ちなみに、上記の "Min. of Finance"(財務省)を、女性レポーターが「ミニッツ・オブ・ファイナンス」と言っていたのにも困ったし。

英語で言われたのでは、例えばタクシー運転手なんかは困るんじゃないかという指摘もあったらしく、ラジオでは実験として、その「ミニッツ・オブ・ファイナンス」 と言っていた女性レポーターがタクシーに乗り、「ざ・なしょなる・だいえっと(無駄に口跡のいい堂々たる平仮名発音)までお願いします」 と告げていた。

これにはほとんどの運転手がかなり困惑して、「わかりません」と応えていた。ある運転手さんは、広尾にあるスーパー「ナショナル麻布」のダイエット食品売り場かと思ったと述懐した。なるほど、その気持ちわかる。

しかしこの実験も、実はまったくナンセンスである。タクシーに乗って「ざ・なしょなる・だいえっと(繰り返すが、無駄に口跡のいい堂々たる平仮名発音)までお願いします」なんていう外国人はいない。"To The National Diet, please" とか言ってくれる方が、少なくとも「こりゃ、英語だな」とわかるだけ、まだ始末がいい。

TBS ラジオのこのレポートは、レポートする側があまりよく理解しないままレポートされたのがミエミエだったのである。

 

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2013年8月25日

「20年に 1度の大雨」から「経験したことのない大雨」に

ちょっと前までは、大雨による災害があると、ニュースでは「10年に 1度」とか「20年に 1度」の大雨という表現がよく聞かれた。当時はそんな言い方が、なんとなくしっくりきたのである。それほどの前代未聞に近いような大雨なのだから、まったく違和感はなかった。

しかしそれが繰り返されるようになると、「おい、ちょっと待て」と言いたくなるのも人情である。10年とか 20年に 1度の大雨が、毎年毎年、しかも複数箇所で発生するんじゃ、洒落にならない。ニュースそのものがナンセンスになる。

ちょっと前まで「10年か 20年に 1度」というレベルだった大雨が、最近では当たり前にしょっちゅう降るようになったということのようなのである。それだけ、気象が極端になっているのだ。このブログでは何度も書いたが、「温暖化」とはまんべんなく暖まることではなく、「極端化」するということにほかならない。

それで最近は、大雨のニュースでもレトリックに苦心するようになった「経験したことのない大雨」というのは、今月初めの秋田や岩手で降った雨だが、その後すぐに、山陰や北九州でも同じレトリックの雨が降った。さあ、こんどはどんな形容詞を使えばいいのか、マスコミも大変だ。

そのうち、「経験したことのない大雨」が、「いつもの豪雨」になってしまいかねない。大雨だけではなく、気温 40度越えだって当たり前になってしまうのだろう。我々が「快適さ」を求めて、CO2 をどんどん出しまくった結果が、このとんでもない異常気象になって現われているのだから、皮肉である。

異常な気象がこれ以上進展しないようにするためには、必要以上の快適さを求めないライフスタイルに転換するしかない。それはそんなに難しいことじゃない。私は自宅ではできるだけエアコンを使わないことにしている。

震災以後、一昨年と昨年は、一度もエアコンを使わなかった。今年はあまりの暑さで仕事にならないので、つい使ってしまったが、それも 4回だけである。35度以下では使わないことにしている。それでも、なんとかなる。

 

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2013年8月24日

最近の仕事のはかどり加減について

還暦を越してからというもの、仕事のはかどり方が前とは違っていることに気付いていた。50代前半までは一晩あれば余裕でやっつけられた仕事が、1日がかりになってしまう。2日あれば楽勝だった仕事に、3日かかってしまう。

集中力がなくなったわけではない。頭の回転が鈍くなったわけでも(多分)ない。事実、半日でできていた仕事なら、今でもちゃんと半日でできる。経験値が蓄積されている分、段取りなどは若い頃よりもずっと効率的にできる。

しかし、半日でできる作業が 3つで 1セットの仕事を、若い頃のように 1日半でできるかというと、そうはいかないのである。1つの作業を仕上げると、すぐに次に取りかかれない。エネルギーを取り戻すまで、長い休憩が必要になる。それで、1日半で仕上げられると思って引き受けた仕事に、2日か 3日かかってしまったりする。

60代後半から 70代の先輩諸氏に聞くと、「仕事は若い頃の倍の時間がかかると思って引き受けなきゃダメ」という。なるほど、そうであったか。これは誰もが通り過ぎる道であったか。イチローのヒット数だって、最近はペースがぐっと落ちてるしね。

とくにこの夏は、体力が相当に弱くなってしまったのかと思うほど、仕事がはかどらなかった。いつもなら楽勝で仕上げられる仕事の締切に追いまくられて、ひいひい言いっ放しだった。よっぽど老いぼれてしまったのかと思ってしまったよ。

ところがこれは、聞けば若い者でも同じだったらしい。40代の人間が口を揃えたように、「この夏は暑すぎて、全然仕事にならない。お盆過ぎまでに仕上げておくべきだった作業が、全然はかどっていなくて、8月から 9月前半に相当頑張って巻き返さないと、お彼岸過ぎが大変なことになりそう」なんて言っている。

そうか、最近のかったるさ加減は、この暑さのせいであったか。

いくら涼しいオフィスでのデスクワークとはいえ、会社勤めだと通勤の往復でかなり体力を消耗するし、夜は寝苦しい。オフィスについても、すぐにスイッチが入って全開モードで仕事ができるわけではないだろう。

私は自分の家が仕事場で、出張でもない限り、通勤などの移動で体力を消耗することはない。その分、なるべくエアコンを点けないようにしていて、事実、一昨年と昨年は電源を抜きっぱなしだったが、今年はさすがに、既に 4日ほどエアコンの世話になった。冷房しないと仕事にならない暑さなのだから、しょうがない。

というわけで、一方的に「年のせい」と思いかけていたことが、まんざらそれだけでもないと知って、少し安心している。ただ、安心はしたものの、やはり暑い。

 

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2013年8月23日

自殺報道について

世のマスコミは藤圭子がどうやら自殺したらしいという件でもちきりである。はっきり言って、騒ぎすぎである。いくら有名人でも、自殺に関する詳細を根掘り葉掘り調べて報道して、何になるというのだ。

WHO では自殺報道についてのガイドラインを策定しており、内閣府がそれをきちんと日本語訳して発表している(参照)。

このガイドラインの 3番目に「自殺の報道を目立つところに掲載したり、過剰に、そして繰り返し報道しない」というのがある。ほとんどのテレビ、スポーツ新聞は、この点でメチャクチャである。その他にも、自殺の手段や場所について、詳しい情報を伝えないということにもなっているが、実際には嫌になるほど伝えられている。

こうしたガイドラインは、いわゆる「後追い自殺」や「模倣自殺」を助長しないために作られている。とくに有名人が自殺すると、いつもそれに続く者が出てくるから、注意が必要だ。報道するなとも言えないから、ほんの片隅で、ちょこっと 10行ぐらい書く程度にとどめ、あとはそっとしておくべきだ。

藤圭子は享年 62歳ということで、私より 1つ上だが、ほとんど同世代だ。デビュー直後はかなり鮮烈な印象で、記憶に残る歌手の一人だが、だからといって、この状況であれこれもっともらしく書く気にもなれない。

娘の宇多田ヒカルがこの件に関して沈黙を守っているというのは、正しい選択である。世間の期待に添ったコメントを出すぐらいは簡単な作業だろうが、敢えてそれをしないということで表現される何かがある。

【追記】

いじめによる自殺に関しては、6年前に「禁断の復讐技」と題した記事の中で、"私は、この「禁断の技」が流行してしまうことを危惧する" と書いている。今や既に流行してしまっている気はするが、これについての報道は、かなり難しい問題だ。

 

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2013年8月22日

バフンウニと馬糞まんじゅう

近頃、「バフンウニ」というウニがあると、初めて知った。トゲがあまり長くなくて、見た目にころっとしており、馬糞に似ているからそう呼ぶのだそうだ。日本のほとんどの海域で獲れるが、近頃は入荷量がとても少なく、珍味なのだそうである。

ところで、ウチの田舎には「馬糞まんじゅう」というものがある。これもまた見た目からきた名前だが、バフンウニよりもさらに馬糞そのものである。バフンウニだの馬糞まんじゅうだのというと、眉をひそめる人もいるが、これはもう、固有名詞(後者は商品名でもある)なのだから、しかたがない。そして、食べれば旨いのだから、ことさらに名前を嫌う必要もない。

思えば私の子供の頃は、中心街でも道の真ん中には馬糞が点々と落ちていた。いや、落ちていたというより、こんもりと盛り上がっていた。主な輸送手段が自動車ではなく馬車だったのだから、しょうがない。だから馬糞をことさら汚いものとして忌み嫌うという感覚が、私にはない。

馬糞が日常的なものだったから、平気で「バフンウニ」だの「馬糞まんじゅう」だのという名前を付けて、さらに珍味として味わったりするのも平気なのである。これはなかなかオツなことである。

世の中が漂白され、消毒され、殺菌されすぎてしまうと、味わいがなくなる。

 

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2013年8月21日

「話せばわかる」の幻想

さっき、リモート・キーロックの不具合で修理に出していた車を引き取りに行く途中、代車のラジオで FM の音楽番組を聞いていたら、槇原敬之という歌手の「もう恋なんてしない」という曲のリクエストがあった。

この曲をリクエストした人のメールには、「この歌詞は、一体何回否定形を繰り返してるんでしょうね」とコメントされているという。「へえ、そんなにややこしい歌詞なのか」と思っていたら、流れてきたのは、前にも聞いたことのある曲だった。

歌詞の問題の箇所は、これである。

もう恋なんてしないなんて 言わないよ 絶対

否定形は 2度出てくるが、最初の「もう恋なんてしない」は初出であって「繰り返し」ではないから、「言わないよ」で、たった 1度だけ否定を繰り返しているだけである。噛み砕いて言えば、「もう恋はしないとは言わない」になり、単純な二重否定に近い。

ところが、曲が終わってから番組のパーソナリティをつとめる女子アナ(?)は、「確かに、否定形を繰り返してますねぇ。えぇと、『もう恋なんてしないなんて言わない』ですから、えぇと、3回ですね」と言うので、たまげた。本当にたまげた。どこから「3回」なんて出てくるんだ。

これはもう、「なんて」という単語に惑わされているとしか思われない。しかし「なんて」は、ニュアンスとしては否定につながりやすいとはいえ、「○○なんて××ない」 いうセットで否定形になるのであり、それだけが独立して否定形というわけでは決してない。重ねて言うが、この歌詞の否定の繰り返しはあくまでたったの 1回である。

いやはやそれにしても、フツーの人の言語感覚って、この程度のものなのである。言葉を商売の種としている番組パーソナリティにしてからが、こんなものなのだ。道理で、10人に同じ単純なことを話しても、まともに通じていない 3〜4人が必ず存在したりするわけである。

自分が受け入れられる以外のスタイルで語られると、内容をまともに捉えられない人って、結構いる。当たり前のことに「いいや、そうじゃない」と言うから、そいつの考えはどれほどユニークなのかと思って聞いてみると、全然違ってなかったりする。

「だから、初めからそう言ってるじゃん」と言いたくなってしまうが、彼は自分の中の素朴な文脈と別の言い方をされると、内容まで別物になって聞こえてしまうのである。

最近「伝え方が 9割」という本が売れているらしいが、それはストレートに言っても、相手はまともに判断してくれないことの裏返しである。もっと言えば、ストレートに言っても伝わらない人に対しては、ちょっとした言葉の「ごまかし」を交えると、結果オーライにもっていけることもあるということだ。

アカデミックな教育では、論点を単純明快に言うことを学ぶが、それよりも「脅したりすかしたり、おだて上げたり、ちょっとごまかしたりして、腑に落ちたつもりにさせる」ための技術の方が、ずっと役に立ったりする。

大切なのは、話の本質的内容より表面的な雰囲気なのである。「話せばわかる」は、幻想と思うしかない。

 

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2013年8月20日

夏こそ甘酒

甘酒というのは、体を温めるのに最適な冬の飲み物と思っていたのだが、実は歳時記では「夏の季語」になっていると知って驚いた。Wikipedia には、次のようにある。

かつては夏に、「甘い・甘い・あ~ま~ざ~け~」などの文句で行商も多く、冷やしたものまたは熱したものを暑気払いに飲む習慣があり、俳句では現在でも夏の季語となっている。夏に飲む場合は夏バテを防ぐ意味合いもあり、栄養豊富な甘酒は体力回復に効果的ないわば 「夏の栄養ドリンク」 だとして、江戸時代には夏の風物詩だった。守貞漫稿には、「夏月専ら売り巡るもの」 が「甘酒売り」と書かれており、非常に人気がある飲み物であった。

へえ! 夏に冷やした甘酒を飲むとおいしいということぐらいは知っていたが、「夏の季語」だったとは、びっくりである。ちなみに、甘酒の成分は「点滴」ととても似かよっていて、「飲む点滴」と言われ、夏バテ防止にいいのだそうである。

それを知って、近所のスーパーに行った時に買ってみようと思ったのだが、冬の間はあれだけ沢山陳列されていた甘酒が、今は店頭から消えているのである。これもまた、驚きである。消費者の「甘酒は冬の飲み物」いう思い込みが強すぎて、夏には売れないんだろうなあ。

しかし、アイスクリームを冬でも買える今どきなんだから、少しぐらい店頭においてくれても良さそうなものだが、一体どうなってるんだろう。

「夏バテ防止に冷えた甘酒」なんてキャッチフレーズで訴求すれば、結構売れるかも知れないではないか。どこか気の利いた飲料メーカーが売り出してくれないかなあ。

 

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2013年8月19日

キンコーズのサービス、気に入った

最近、仕事上で A1 サイズのパネルを作らなければならなくなり、費用的にはとても限られていたので、A4 でプリントした原稿を A1 サイズに拡大コピーし、それをアルミ・フレームの通称「イレパネ」に入れ込むことにした。

問題は A1 サイズへの拡大コピーで、そんな離れ業のできるのは、あの「キンコーズ」しかあるまいと、電話で問い合せたところ、できるにはできるが、時間がかかるという。午後イチで原稿を持ち込んで、5枚の拡大コピーが終了するのは、夜の 7時頃になるというのである。へぇ、そんなにかかるのか。

いずれにしても、それしか方法がなさそうだから、午後イチに持ち込む。費用を聞くと、A1 サイズへのカラー拡大コピーの単価は、4,050円だという。へぇ、結構するもんだね。それでも、それが一番安く済む方法みたいなので、発注して半日待つことにする。

午後 7時に受け取りに行くと、そこはそれ、結構な値段でもあることなので当然と言えば当然だが、きれいな仕上がりである。歪みは全然ない。とくに画像部分は、拡大でボケボケになることを心配していたのだが、結構クリアに表現されている。

「思ったより、ずっときれいですね」というと、「はあ、できるだけ鮮明にするために、かなりいじりましたから」と言う。なるほど、相当いじらなければ、こうはいくまい。さすがにプロの仕事である。4,050円という単価は高いといえば高いが、ここまできれいに仕上がるのなら、一応納得である。

キンコーズのサービスは初めて利用したが、印象としては「結構使える」という感じだ。とくにスモールオフィスだったら、自社のコピー設備は最小限にして、ちょっとややこしい作業はコンビニのコピー機を利用し、さらにややこしいのはキンコーズを利用するというのが、一番コスト・パフォーマンスが高いと確信した。

 

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2013年8月18日

ランドセルへの違和感

聞けばランドセル商戦というものが、既に佳境に入っているのだそうだ。祖父母、父母、子供の 3世代が顔を揃える旧盆の時期というのは、実は来年春に小学校に入学する子供のランドセルを買うのにいい時期で、とくに孫のために高級なランドセルを買って挙げたいじいさん・ばあさんが、この時期に張り切ってしまうらしい。

道理で近頃、ラジオを聞いていてもランドセルの CM が多くて、「何で今の時期に?」と不思議に思っていたのだが、それは不思議でもなんでもないことのようなのである。

私はランドセルというものに、とても違和感を覚える。「なんじゃ、こりゃ?」と思ってしまうのである。自分が小学校の頃にも背負わされたが、昔のランドセルは品質が悪くて、小学校 4年の頃にはボロボロになり、以後は普通の手提げバッグで学校に通っていた。今なら絶対にデイパックを背負うだろうが、昔はそんなものはなかったので。

近頃のランドセルは耐久性があるので、6年間使えるらしい。私は子供の頃からランドセルが嫌いだったので、ボロボロになっておさらばした時には嬉しかったが、今はなまじ長持ちするので、ずっと使い続けるのだろうか。

私は自分の子どもたちが小学校に入り、ランドセルを背負うようになったのを、複雑な思いで見ていた。あれを純粋に「喜ばしい」こととして見られる親とは、私は一線を画していたように思う。

あんなものは制服じゃあるまいし、とくに強制されているわけなないのだから、何だっていいじゃないかと思っていたが、実は暗黙の強制力があるようで、それどころか学校指定のランドセルがあるという私立小学校も結構多いのだそうだ。ああ、馬鹿馬鹿しい。

思えば、あんな画一的なものをずっと背負わされるので、日本の子供は独創的発想力が育たないんじゃないかという気すらする。ああ、不憫である。

 

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2013年8月17日

白髪染め疑惑

最近驚いたことに、私に「白髪染め疑惑」があることを知った。リアルの知り合いのかなり多くが、私が白髪染めをしていると思っているようなのである。

最近、複数の知人に「染めてるんでしょ」と言われた。私にしてみれば「はぁ?」ってなもんである。リアルの知り合いなら、私がいかに面倒くさがりであるかを知っているものと思っていた。こんなにも面倒くさがりの私が、白髪染めなんて面倒なことをするはずがないではないか。

私は昨年還暦を過ぎたが、髪の毛はほとんど真っ黒である。モミアゲの辺りに時々 1~2本白髪が現われることもあるが、全然長続きせず、いつの間にか抜け落ちてしまうようで、今でも完全に真っ黒状態がデフォルトだ。

困るのは、4つ下の妹がずいぶん白髪が増えていることである。彼女も染めるのは嫌いなようで、グレー状態でいる。妹が白髪なのに、兄の方が真っ黒なのは、よっぽど苦労が足りないか、染めているかのどっちかと思われるのも、仕方がないといえば仕方がない。しかしそれはあらぬ疑いである。私は染めてないし、苦労だって多少はしている。

ただ、髪の毛は真っ黒だが、髭には白髪が多い。とくに左の顎に生える髭は、ごま塩状態である。ちょっと前までは髭を伸ばしてみるのもいいかと思っていたが、頭が真っ黒なのに髭がごま塩状態では不自然な気がして、なかなか伸ばせないでいる。

ごま塩状態の髭を伸ばさないので、私はずいぶん若く見えるようで、自慢じゃないが、フツーに 40代に見られる。年相応の見かけに近づけるために、白髪の髭を伸ばしてみようかとも思うが、どうも踏ん切りがつかない。

 

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2013年8月16日

線香花火を巡る冒険

線香花火というものに、「すぼ手」と「長手」という種類があるなんて、この年になって初めて知った。本当にいくつになっても、ふとしたことで知らなかったことというのはあるものである。Wikipedia には次のように解説されている。

すぼ手は、竹ひごや藁でできた柄の先に、黒色火薬がむき出しに付着している。使うときは先を上げる。長手は和紙 (こうぞ紙) のこよりの先に、黒色火薬が包み込まれている。使うときは先を下げる。すぼ手は関西、長手は関東で一般的である。

そうすると、私が子供の頃から「これぞ線香花火」として馴染んできたのは「長手」ということになる。じゃあ、「すぼ手」というのはどんなのかとググってみたら、こんなのだった(参照)。へえ、馴染みがないなあ。

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念のため、関西以西で「長手」の方に馴染みがない人のためにリンクしておくと、こんなのである。

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で、線香花火を楽しむのに、4つの段階というのがあるというのである。初めは「牡丹」といって、先に「玉」ができてチリチリいってる状態である。次が「松葉」。玉が激しく火花を発する状態で、これが線香花火のクライマックスだ。次に火花が低調な「柳」となり、消える直前が「散り菊」である。

国産の質のいいものは、最後の「散り菊」の状態が長く続き、きれいだといわれる。確かに最近の中国製は、火を点けたばかりの「牡丹」の段階で「ボタン」と落ちてしまうのがあり、おもむきがない。

 

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2013年8月15日

iPhone 版 Evernote が起動しない問題は再インストールで解決

最近、Evernote を便利に使っている。ちょっと前までは、画像も扱えるメモ帳ぐらいにしか思っていなかったが、慣れてくると、いろいろなデータを適当にポンポン放り込んでも、後でタグを目当てにすればすぐに開けるので、かなりありがたいアプリだとわかった。

出張中も、案件ごとの詳細をプリントアウトして持ち歩かなくても、iPhone ですぐに開いてみられるので重宝していたのだが、先日アプリのアップデートをしたとたんに、起動しなくなってしまった。何度開こうとしても、すぐに落ちてしまうのである。

結構普及しているクラウドのクライアント・アプリに、こんなひどい不具合が生じているのだから、すぐにバグフィックスした新バージョンが提供されるだろうと待っていたが、シカトされたまま、いつまで経っても修正されない。もうすぐまた出張があるので、困ってしまっていた。

昨日、しびれを切らして「iPhone Evernote 起動しない」という 3つのキーワードでググってみたら、今回のバージョンアップだけでなく、過去にも同じような不具合が何度も生じていることがわかった。「なんだ、毎度のことだったのか」と、ちょっと拍子抜けしてしまった。

解決策を提示するどのページも、「アプリを一度削除して、再度インストールすれば直る」と書いてある。試しにやってみたら、確かにその通り、何の問題もなく起動した。呆気ないほどである。

ところがほっとしてしばらくすると、Evernote のアップデートの知らせが入った。「せっかく起動するようになったのに、これ、アップデートすると、また起動しなくなるんじゃあるまいか」と、疑心暗鬼でおそるおそる試してみたところ、何の問題もなく起動できた。

削除して再インストールという作業をもう少し待っていれば、何のことなくアップデートで解決できたのかもしれないが、まあ、いいや。

 

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2013年8月14日

高速道を通らない旅

酒田からつくばの我が家まで、ほぼ 12時間かけて帰ってきた。こんなに時間がかかったのは、渋滞のせいではない。一度も高速道に乗らず、一般道のみを辿って帰ってきたからである。

帰省の U ターンで、高速道路が混雑し始めるのは、14日からと予測されていて、ピークに達するのは 15~16日。今日はまだ全然渋滞していなかった。それでも昼頃に酒田を発って、日付が変るまでに帰宅できればいいと、呑気に構えたのだ。実際には日付が変った直後に辿り着いたのだが、十分 OK だ。

実家と自宅の間、約 490km を、一般道だけで走破したのは、多分これが 2度目だ。一度目は 10年以上も前のことだから、十分に体力があった。今回、半信半疑で試してみたら、十分に余裕を持って帰ってこれたので、体力的にはまだまだ自信をもっていいだろう。

私は基本的には、高速道より一般道を通るのが好きなのである。高速道は、はっきり言ってつまらない。ただ単に、早く着くというだけだ。一般道は途中の土地のイメージをしっかり確認しながら辿れるので、楽しい。それに好きなところで止まって、見物や食事を楽しめるのもありがたい。

旅というのは時間的な余裕をたっぷり確保して、あちこち寄り道してみるのが一番楽しいのだが、近頃はそうもいかないのが残念である。

 

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2013年8月13日

次期 iPhone が発表されるらしいが

日経新聞が、次期 iPhone が 9月 10日のイベントで発表される可能性が高いと報じている(参照)。投入されるのは、通称 iPhone 5S と廉価版の iPhone 5C になるとみられる。新型 iPhone ではプロセッサーやカメラ機能が強化されるほか、指紋認証装置が搭載されるとの予測だ。

ところで、近頃 iPhone がアップデートされるたびに、マスコミが「画期的な新機能はみられない」とか「期待されたほどの大きな変化はない」とかいうお約束みたいなコメントを発するのが、私はかなり気になっている

1ユーザーとしては、あまり大きく変化されたりしたら戸惑ってしまうから、「あまり変わりはありませんが、全体的には動作がちょこっと速くなって、安定性が高まり、ちょっとしたところで便利になりました」 程度が一番ありがたい。その一番ありがたい変化とも見えない変化を 「期待はずれ」 みたいに言われたら、こっちが困るのである。

対照的に「画期的な変化」を遂げたのが、Windows 8 だが、何度も書いたように、一般ユーザーとしてはこんなことされたら大迷惑なのである。こうした 「進化」 を歓迎するのは、IT の専門家と PC 大好き人間だけだ。PC や スマホがここまで普及した今、市場が求めているのは「技術としての最先端」よりも、「使いやすさ」なのである。

はっきり言って、技術的にはこれ以上の機能があっても邪魔になることの方が多い。邪魔にならない新技術とは、「使いやすさ」を促進する方面で開発されるべきである。それが飽き足りない層には、「七面倒くさいけど、ものすごい機能」という新 OS とハードウェアを、別個に開発すればいい。採算が取れるかどうかはわからないが。

これまでは、一部の PC 大好き人間の満足のために、一般ユーザーが余計な負担をしていたのだ。関東以西の猛烈な暑さから逃げ出して、東北の田舎でちょっとだけいい気持ちで過ごしているので、こんなことがよく見えてきた。

 

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2013年8月12日

灼熱ニッポン

今日は高知県四万十市で、摂氏 41度の日本最高気温の記録を作ったんだそうだ。それだけでなく、3日連続で 40度越えしたというのも、とんでもない日本記憶だろう。気候温暖化が続くと、そのうち 40度が珍しくなくなるとは言われているが、それが現実感を伴ってきた。

近い将来 40度越えがさらに頻発することになり、41度越えも当たり前のように出てくるに違いない。ある地域で 41度を越えると言うことは、35度なんてことはもっと珍しくなくなる。裾野が広ければ山が高くなり、山が高いということは、裾野も広いということである。そうこう言っているうちに、地球はますます住みにくい星になる。

今、酒田に帰郷している。こちらは東北だけに、さすがに少しはしのぎやすい。少なくとも「死ぬほど暑い」というほどでもない。日中の最高気温は 32度程度だし、日が暮れれば涼しい風が吹く。ただ、32度で「しのぎやすい」と言うのは、とても悔しい気もする。

明日は昼頃に酒田を発って、あちこち見物しながらつくば方面に戻ろうと思っている。天気予報をみる限りでは、東京の向こう 1週間の最高気温は 33~34度で、猛暑日の予想とはなっていない。暑さのとんでもないピークは、一応越えたようだが、かといってしのぎやすくなるというわけでももなさそうだ。

いくらかは暑さのましな、つくばにいられるのは 13、14日の 2日間だけで、それから先は 6日間も関西に滞在することになる。さぞかし暑いだろう。来週に入れば少しは落ち着くとはいえ、それでも関東よりはずっと暑い。

ちなみにこの灼熱化の要因は、ほとんど人為的なものとされている。「いや、そうじゃない」という人もいることは承知しているが、世のオーソリティの圧倒的多数は、「人為的」との見方で一致している。

ということは、我々は努力次第でこの灼熱化を食い止めることができるのだ。この努力を惜しむのは、罪というものである。とはいえ、なんだかんだと言っても 10月の半ばを越すまでは暑いだろうから、体調を整えながら長丁場を乗り切るのが先決だ。CO2 をなるべく出さないようにしながらね。

 

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2013年8月11日

「夜蝉」という言葉を造語して

私の造語の一つに「夜蝉」というのがある。文字通り、夜に鳴く蝉である。この言葉を初めて公式に使ったのは、4年前の平成 21年 8月 10日の「和歌ログ」で、当時は「よぜみ」と入力しても「代ゼミ」としか変換されなかったし、ウェブの世界を検索しても見つからなかった。(今は少なからず検索される)

「夜蝉」という言葉なんていかにもありそうな気がしていたのだが、何となかったのである。夜に蝉が鳴くなんていうのは、ちょっと前まではあり得ないことで、あり得ないことだから、そんな言葉もなかったのである。ところが今や ”Weblio" に「季語」として載っている(参照)のだから驚きだ。

この日の歌は、「途切れがちの夜蝉の声を突き破り救急車のサイレン駆け抜けていく」というものだ。意識的に字余りを多用して、ニューウェーブの歌を作ろうとしていた頃である。記事では、「気温の高い夜、街灯の明かりなどが近くにあると、昼と勘違いして鳴くらしい」と書いている。どうも本当にその通りらしいのである。

この日の記事には、"ものすごい蒸し暑さの中で、国道六号線のそばの茂みの中から「ジジッ、ジジッ」と蝉の声が聞こえる" と書かれている。まさに 「途切れがち」 だったのだ。しかし時代はますます進んでいるようなのである。

このほかに、「夜蝉」 は次の 2首に歌い込んである。

一瞬の初鳴き聞こえ見上ぐれど夜蝉の見ゆるはずもなきなり (平成 22年 7月 23日)

七日を少しも長く生きむとて公園の灯に夜蝉啼くなり (平成 23年 8月 10日)

3年前の歌はまだ「一瞬の初鳴き」だが、2年前の歌になるともう、アブラゼミが夜通し鳴いていて、さらにこのブログを更新している真夜中の今も、ヒグラシが延々と鳴き続けている。部屋の中の気温は 33度。頭がぼうっとするような暑さである。

昨日は名古屋にいた日中からどうもおかしいと思っていたが、日本のあちこちで 40度越えのとんでもない暑さの一日だったのだね。いやはや。これで街灯の明かりが近ければ、そりゃあ蝉は勘違いするだろう。

ちなみに私のつたない造語には「イタセリ」というのもあるが、これは妻との間でしか通用しない。「至れり尽くせり」 の省略形である。「いやあ、昨日はもう、イタセリのサービスでさぁ」なんて使い方をするが、そんなサービスに滅多に合わないので、使用回数が極端に少なく、当事者間でも死語と化している。

しかし、「夜蝉」は死語になるどころか、今後ますます使用頻度が増えそうである。

 

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2013年8月10日

朝から下手な川柳でこけた

仕事で名古屋に来ている。このビジネスホテルは簡単な朝食が無料で提供されることになっている。無料とはいえ、当然宿泊料に含まれているのだろうが、それはそれで面倒がなくてありがたい。

ロビーの片隅のスペースでパンとサラダの朝食を食べながら、見るともなくテレビ(多分 NHK)を見ていると、視聴者から寄せられた川柳を紹介するコーナーがあり、なんだかもっともらしい名前の選者の名前まで紹介されている。お題は「夏休み」だという。

で、どんなのが出てくるかと思っていると、最初に紹介されたのがこんなのだった。

夏休み 宿題ばかりで もういやだ

15歳 (高校 1年生) の視聴者の作品だそうだ。番組では五・七・五を一行ずつに分けて時間差で表示される。2行目の「宿題ばかりで」が表示された時には、かなり不安な気がしながらも、最後にどんなひねり方をしてくれるのかと、はかない期待をもって注目していたが、「もういやだ」で、こっちもこけそうなほどいやになった。

いやはや、まいったね。小学校 1年生というならまだ許せるが、高校 1年生というのである。あんまり人をくさすのは好きじゃないが、いくらなんでも、テレビ番組に投稿しようという川柳なんだから、もう少しひねってくれないと困る。それに、こんなレベルの川柳を朝から放送されるのも、また困る。

番組司会者もコメントに困ったらしく、「素直ですね」としか言えなかった。これ、川柳としては決していい褒め言葉じゃないね。

もっともらしい選者がいながら、こんな程度のものを取り上げるしかなかったというのは、応募がよっぽど少なかったんだろう。この番組、競争率がものすごく低いようだから、ある意味狙い目だ。

近頃の若いモンは、伝統的な芸術においても結構いいセンスしているのが多いと思っていたのだが、平均レベルとなると、やっぱり落ちてるのかもしれないなあ。

 

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2013年8月 9日

気象庁の「誤報」騒動

昨日の夕方、いや、夕方といっても真夏のことなので暑い盛りだったが、私の iPhone が急にピロピロブンブン鳴り始めた。何事かと取り出すと、地震速報アプリの「ゆれくる」が、奈良県に震度 5強以上の大地震が発生すると告げている。

私の「ゆれくる」は、我が家のあるつくば周辺で震度 4以上の地震が来るであろうという場合に警報を発するよう設定してある。ということは、奈良県の地震は震度 5強どころではあるまい。震度 7とかのレベルでないと、つくばまで震度 4以上になって伝わってくるなんてことはあり得ない。あの暑さの中で、一瞬鳥肌が立つ思いがした。

階下に駆け下りると、緊急地震速報のテレビ画面で、女子アナウンサーが繰り返し繰り返し、繰り返し繰り返し、繰り返し繰り返し、つまり延々と、警戒を呼びかける原稿を棒読みし続けている。実際に地震が来たという速報が一向に入らないので、女子アナも内心しらけ始めているのが見て取れるが、警戒の呼びかけは、なおも続く。

おいおい、震源地は地球の反対側あたりか? 緊急地震速報があったら遅くとも数秒後とかに揺れ始めるのが常識だから、適当なところで「どうも誤報らしいですね」ということにして、けりを付けてもらいたいものである。少なくとも「なんだかおかしいですね」ぐらいは言ってもらいたい。

そうでないと、奈良や大阪では馬鹿正直にずっと机の下で震えっぱなしの人もいただろう。関西方面は地震慣れしていなくて、震度 3でも大騒ぎする人が多いのだから、職務に忠実すぎるのも、考え物だ。

しばらくして気象庁が「誤報」を詫びたというニュースが入った。地震とほぼ同時刻に発生した三重県沖の「電気的ノイズ」のせいで、気象庁のシステムが有感地震にもならない小さな地震の規模を、ことさら過剰に計算してしまったというのである。

この「誤報会見」には、気象庁のエラい人が 2人出て、深々と頭を下げている。ここまでご丁寧だと、かえってこちらが恐縮してしまう。確かに新幹線が緊急停車したりして大騒ぎにはなったらしいが、私としては「システムの限界でした。お騒がせしてごめんね」程度でも腹は立たないがなあ。

気象庁の人って、なんて真面目なんだろうと思ったのであった。あ、それから、あの内心のしらけを隠して延々と警戒を呼びかけ続けていた女子アナも。

 

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2013年8月 8日

Tシャツにプリントされた「あり得ない楽譜」

毎年茨城県のひたちなかで開かれている "ROCK IN JAPAN FESTIVAL" だが、今年はちょうど猛暑がぶり返す直前にあたり、久しぶりに「暑くて死にそう」というほどのこともなく、快適に盛り上がれたらしい。水戸周辺を驚かせた猛烈な夕立も、隣町のひたちなかでは大したことがなかったそうだ。

ウチの娘はこのイベントに 4~5年連続して通っているほどのロックファンで、毎年 Tシャツだのバスタオルだのといったグッズを買って帰る。で、今日取り上げたいのは、全然大した話じゃないのだが、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2010 の記念グッズとして売られたらしい Tシャツについてだ。

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ウチの庭に吊してある洗濯物をみると、この Tシャツのプリントの楽譜が、「あり得ない」のである。(あり得なさ加減をよく確認したい向きは、写真をクリックすると拡大されるので、どうぞ)

これもまあ、よくある「びっくりするような英語」のロゴ・プリントと同じで、単に「雰囲気のモノ」であって、そこに「意味」なんて求めちゃいけないのだろうとは思うが、とはいえこれも英語と同じで、中には「書いてあるんだから、つい、まともに読んじゃう」人間もいるのだよ。

まともに読んでしまうと、拍子も一定していないし、ものすごい前衛音楽みたいで、ちょっとクラクラしてしまう。航空会社のポスターに "Enjoy Your Fright" と書いてあるぐらいのレベルで、クラクラする。

で、まあ、私としては「著作権問題を絶対に発生させないために、ここまであり得ない楽譜にしてあるのかなあ」なんて、少しだけ好意的に解釈したい気もするのだが、本当のところはどうだかわからない。

ちなみに、"ROCK IN JAPAN FESTIVAL" というタイトルも、「日本祭のロック」って感じなんだけど、それを言いだしたらきりがないから、まあ、いいや。

 

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2013年8月 7日

既に進行している Windows 離れ

IDC Japan によると、2012年の国内クライアント OS 市場は、前年比 0.6%増だった。その中身は、法人市場の売上げは伸びたものの、家庭市場では売上げが減少している。しかも法人市場の伸びは、主として Windows XP から Windows 7 への移行によるもので、Windows 8 は売上増加に寄与していないという。

Windows は前年比 2.0%減となり、Mac OS は 20%以上売上が増加したとされている。この数字だけを見ると、OS 市場の 90%を占める Windows のちょこっと減った分の多くが、シェア 10%足らずの Mac OS に流れて、伸び率を押し上げたんじゃないかというほどの印象だ。

私は次の PC 買い換えを機に Windows から Mac に乗り換えようと思っているが、 既にそれを実行しちゃった人もかなりいるということのようだ。同じことを考える人って、いるものである。決して多数派じゃないけど、少ない数でもないというのは、ある意味安心感のある現象だ。

近頃新幹線に乗ると、車内で PC やタブレットで作業している人を多く見かけるが、使用してる機種は、Panasonic の Let's Note、MacBook Air、iPad の 3種類で 7割を占めているんじゃないかと思うほど目立つ。新幹線の中でまで作業するヘビー・ユーザーの Let's Note 比率と Apple 比率はかなり高い。

この傾向を見ると、Windows 離れは明らかに進行中とみていいんじゃないかと思うのである。「別に Windows じゃなくても、全然構わないもんね」 という世の中に、既になっていて、一方ヘビーな Windows 派の間では「モバイルは Let's Note でなくちゃね」という傾向が強まっている気がする。

現在は Let's Note 派の私だが、安心して Mac ユーザーになろうと思う。手持ちの Let's Note(OS は Windows 7)が優秀すぎていつまでも元気なので、なかなか卒業できないというパラドックスはあるのだが。

 

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2013年8月 6日

花やしき 160周年と、時代の変遷

浅草花やしき」が、このほど開園 160周年を迎えるのだそうだ。へぇ、そんなに古かったのか。それに伴い、8月 7日を「花やしきの日」とすることにし、日本記念日協会に認定してもらったらしい。へぇ、そんな協会があったのか。いい商売だなあ。

記念日を 8月 7日という、いかにもベタな日にしたということからも想像がつくとおり、実際の開園の日付がいつだったかは記録に残っておらず、わからないらしい。まあ、どうせわからないんなら 8月 7日にしてしまおうという「ユルさ」加減は、いかにも花やしき的で、十分許せる。

私は多分、40年ぐらい前に花やしきに行ったことがある。その頃でも、120年ぐらい経っていたわけだ。ただ、行ったことは行ったが、あまり印象に残っていない。かの有名な「日本一遅いジェットコースター」にも乗っていない。当時は貧乏学生だったから、そんなものに金を使う余裕がなかったのだろう。

じゃあ、金もないのにどうしてそんなところに入ったのかというと、当時はどうやら、入場するだけなら無料だったようなのだ。乗り物やゲームなどの施設ごとに金を払うというシステムだったと思う。まさに、「いつもやってる縁日」というノリである。

Wikipedia で確認してみたら、入園料を取るようになったのは昭和 60年以降のことで、それまでは「近隣の場外馬券場から流れた労務者達が園内を占拠し、また彼らが泥酔状態であることも少なくなかったため、園内の風紀が乱れており、運営上悩みの種だった」とある。うん、まさにそんな感じだったね。それが入場料徴収で解決したもののようだ。

あの 「漂白されていない昭和」 そのものだった花やしきも、今ではかなり健全な遊園地となって、160周年を迎えるというのである。もっとも、160年前の開園当時は、牡丹と菊細工を主とした植物園で、茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用されていたというから、時代というのは変るものである。

 

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2013年8月 5日

「山場 CM」 という業

私はテレビというものをあまり見ないし、見るとしてもほとんど BS の NHK と WOWOW だけで、時々見る地デジの民放も、『サザエさん』 とか『ちびまる子ちゃん』とかの、一段落して CM が流れるタイプが多い。それで、いわゆる「山場 CM」というものにほとんど耐性がない。

「山場 CM」というのは、例のいいところで入る CM である。さあ、これからというところで、突然 CM が入る。CM が終わってからも、その前の繰り返しから始まるので、30分で済む内容を 1時間かけて流しているとしか思われない。

これに関してはアンケートでも、いらいらしたり不快を感じたりするという回答が圧倒的だというのだが、私の場合はそこまでもいかない。「あ、多分この辺で CM になっちまうな」と思ったら、それだけでスイッチを切るか、席を外してしまう。

「いらいらする」という反応は、民放の制作者にとってまだ救いだと思う。それはまだ、番組に期待しているということだ。私なんか、期待もしていないものでいらいらだけさせられるというのは馬鹿馬鹿しすぎると思うから、初めっから見ないのである。

それで、たまに見るテレビと言えば、サッカーと格闘技ばかりということになってしまう。WOWOW のボクシング番組なんて、ラウンドのインターバルでも CM が流れないから、コーナーでの選手の様子まで見られてありがたい。そんなこんなで、最近のお笑いや流行りのドラマにはまったく疎くなってしまうのである。

「山場 CM」に関しては、各種の調査でも、広告効果はないとか、悪印象の方が強いとかいう結果が出ているのに、一向になくならないのは、これはもう、テレビの制作者が、とにかく視聴者を他の局に行かせないでつなぎ止めるということしか考えていないということだ。

つまり、番組コンテンツとか実際の広告効果とかいうよりも、「単純数字としての視聴率」しか意識していないということである。

制作者側だって「山場 CM」の馬鹿馬鹿しさはわかっている。それでも止められないのは、もう、「わかっちゃいるけど止められない」現象というほかない。仏教ではこれを、「業」というのである。「山場 CM」をみるだけで、「業」というものの厄介さ加減がわかるのである。

 

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2013年8月 4日

「タメシガキ」 から透けて見えることがあるらしい

今日、車を運転しながら TBS ラジオの「安住紳一郎の日曜天国」という番組を聞いていたら、寺井広樹さんというゲストが登場された。「世界タメシガキ博覧会」というウェブサイトを運営しておられ、ご当人がおっしゃるには、他には確認できていないので、多分世界でただ一人の「タメシガキ・コレクター」なんだそうである。

「タメシガキ」というのは、筆記具売り場で、まさに試し書きされた紙で、前に世界放浪をしていた時にたまたま立ち寄ったベルギーの文具店で素敵な「タメシガキ」を発見し、魅せられてしまって以来、コレクションを始められたそうである。その最初の「作品」は、彼のサイトで見ることができる。なるほど、魅力的と言えば魅力的だ。

彼が言うには「タメシガキ」にもお国柄というものがあり、例えば中国のは後ろ向きなものが多いのだそうだ。深読みをすると、インターネットの書込みまで規制されているため、筆記具売り場のタメシガキ用の紙に、不平不満を書き連ねることで不満を発散しているのではないかという。

なるほど。もしかしたら「タメシガキ・ネットワーク」というものが構築されて、彼の国の民主化の有力メディアになれるかもしれない。

フランスやイタリアのタメシガキは、絵が描いてあったりして、お洒落なものが多いそうだ。米国は結構乱暴で、ヨーロッパのようなアート感覚はみられないという。インドは数式が多いらしい。

途上国は筆記具の品質があまりよくないので、書き味を確かめるというよりは、ちゃんと書けるかどうかという、最も基本的なことを確認するという意識が強いようだ。そのため一般に筆圧が高く、ケニアのタメシガキは強く書きすぎて紙が破れかけている。

世界共通なのは、ぐるぐる模様とハートマークが多いことだそうだ。また「お母さん大好き」 という言葉が多いが、日本ではそれは滅多に見られないという。これはなかなか興味深い指摘だ。

日本で特徴的なのは、「永」という字のタメシガキが多いことで、これは「永字八法」というぐらいのもので、漢字の筆法がすべて含まれているからだろう。この流れで「永六輔」と書いてしまう人も多く、寺井氏自身も、永六輔さん本人から「永六輔」と書かれたタメシガキをもらっているそうだ。しかし、それってほとんどサインじゃないかなあ。

永六輔さんに限らず、自分の名前を書く人も多いらしい。そういえば、前に筆記具で書く頻度が一番高いのは自分の名前だから、試し書きに最適というのをどこかで読んだことがある。ただこれは、納得すればいいのか、眉に唾をつければいいのか、迷ってしまうお話である。私は自分の名前を売り場に残す気にはなれない。

最近はなぜか「剛力彩芽」という試し書きが多いらしい。これって、つい試し書きしたくなる名前なのかしらん。いずれにしても、タメシガキは世の中のトレンドを反映するという。馬鹿にならないものである。

ニッチなものに注目するというのは、なかなか素敵なことである。

 

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2013年8月 3日

「ウナギとマグロは食わないことにする」 ということについて

日経ビジネスの「キーパーソンに聞く」というシリーズに、「ウナギのことを何も知らずに食べる罪 東京大学農学生命科学研究科の海部健三・特任助教に聞く」という記事がある。

この記事には、稚魚(シラスウナギ)の不漁に伴い、ウナギの値段が急騰している今、河川や沿岸におけるニホンウナギの生態研究を続け、『わたしのウナギ研究』 の著者でもある海部氏に、「ウナギをおいしく食べ続けるためには何が必要なのか」を聞いたというような前文がある。

私はつい 1ヶ月半前の 6月 14日に「当面、ウナギとマグロは食わないことにする」という記事を書いている。その中で、「ウナギは資源枯渇が最も危惧される魚種であるらしい。だったら、簡単な話で、ウナギが増え始めるまで食わなければいいだけのことだ」と宣言しているのである。

自分が生きているうちにウナギの生息数が上昇に転じることはないだろうから、多分、一生ウナギは食わないことになるだろう。ただし、これには条件があって、「仕事などの出先であてがい扶持の弁当で出てきた場合は、捨てるのももったいないから、仕方なく食う。つまり、自分で選択して食うということは、絶対に止める」と述べている。

そしてありがたいことに、これまでのところウナギの入った弁当をあてがわれるなんてことはなしで済んでいる。最近は値段が上がっているから、ウナギ入り弁当なんて贅沢品になってしまったのかしらん。なんなら、もっと超贅沢品になってもいいのに。

というわけで、絶対に一口も食わないわけではないが、いずれにしても、生きているうちにウナギを食うことは滅多になくなるだろう。つまり私としては、「ウナギをおいしく食べ続けるためには何が必要なのか」なんてことは考慮しないということだ。むしろ「間違ってもウナギを食わされないために、何をすべきか」を考えたいほどである。

で、上述の日経ビジネスの記事がどういうことを提案しているのかといえば、何と、何も提案していないのである。わずかに「ハビタットロス(生息域の減少)を食い止めることが必要」と説いてはいるものの、すぐに続けて「それは難しい」と言っている。

さらに、ウナギを食べ続けるかどうかは「消費者が決めること」と言っている。「ウナギの現状を知って買うのと知らないで買うのとでは意味が違い……」と述べた上で、「極論を言えば、すべて知って納得づくであれば、絶滅してもいいから全部食べてしまえという考えだってある」と言うのである。

ずいぶん乱暴なお話をするものである。人間が己の食欲に任せて、生物を絶滅させても構わないというのである。これって、もしかして記者の聞き方が間違っているかもしれないとまで思ってしまう。

私としては、生物多様性を損ねてまでウナギを食うなんていうのは夢見が悪すぎるから、ハビタットロスを食い止めながら、消費も大幅に減らすべきだと思う。だからこそ「当面、ウナギとマグロは食わないことにする」 と宣言して、今週行った長崎でも、マグロの入った海鮮丼はパスしたのである。

「消費者が決めればいい」というのなら、消費者の一人である私としては、「食わない」と決めるほかない。要するにそれだけのことである。食わなくても、別に命に関わることじゃないし。

大切なのは「ウナギをおいしく食べ続けるためには何が必要なのか」ではなく、「生物多様性を守るためには何が必要なのか」である。この期に及んでまでの人間の欲望を前面に出したレトリックは、恥ずかしすぎるとまで思う。

 

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2013年8月 2日

例の公演中止の話について

世間は土屋アンナ主演の舞台が中止になったとのニュースで騒いでいる。制作者側は「土屋アンナが稽古に出てこないので、舞台がこわれた」 と主張し、土屋アンナ側は「原作者の承諾が得られていない」と言っている。

この件の最初のニュースを聞いた時の私の印象は、「稽古に出ないなんて、土屋アンナっていい加減な女優だなあ」いうものだった。その上で、「そんなことだったら、さっさと代役を立てて何が何でも公演を貫徹するぐらいの覚悟がない制作者側も制作者側で、かなり無責任だよなあ」と思った。

こんな「いい加減同士」では、舞台を作り上げていくための信頼関係なんて築けなかっただろう。

その後で、泥沼的な報道がどんどん出てきたので、「土屋アンナ = いい加減な女優」という印象はかなり和らいだが、逆に制作者側への疑念はちょっと膨らんだ。ただ、舞台化に関する許諾云々に間しては書面での契約書は作られていないようなので、結局は水掛け論になるだろう。

詳しい話は全然わからないので立ち入ったことは言えないが、個人的な印象としては「無責任さ加減」では、制作者側の方が上回っている。舞台への「愛」が感じられないのだ。代役を立てて稽古をやり直すより、損害賠償をふっかける方が楽だとでも思ったのだとしたら、歌舞伎論で修士号を取った私としては、ちょっと呆れる。

制作者の代表である甲斐智陽氏は、今回の件について Facebook 上で自分の立場を主張していたというが、何だか炎上しちゃったようで、今は閉鎖しているらしい。ただ、彼の投稿をコピーしていた人がいて、自分のブログでそれを紹介している(参照)。

ここに紹介された彼の投稿文が本物だとしたら、率直に言って、甲斐智陽さんという人は演出・脚本を手がけるにしては、ずいぶん稚拙な文章を書く人のようで、あんまりレベルの高いお話とは思われない。で、この問題に間しては、これ以上追っかける気にはなれない。

以上。

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2013年8月 1日

セミの声

一昨年の夏、セミの鳴き声が聞こえないのが「原発のせいかも」というエッセイを紹介して論議を巻き起こしてしまったが、セミがよく鳴くか鳴かないかというのは、どうやら地域差が大きいらしい。

この一昨年の夏にしても、我が家の周囲ではよくセミが鳴いていたが、昨年の夏は鳴き始めるのがとても遅かった。ところが他の地域の人に聞くと、「よく鳴いてるよ」と言うのである。ローカルな感覚だけでは、全体は推し量れない。

ちなみに、今年の我が家周辺は、セミがよく鳴いている。もしかして、これって我が家の梅の木の実のなり具合と同様に、1年おきなのかしらん。長期的に記録していないので、よくわからないけど。

先月の中旬以後、やたらとドサ廻りが続いて、半月の間に千葉、広島、徳島、山梨、長崎を行ったり来たりした。時期のせいもあると思うのだが、月末の徳島、山梨、長崎は、やたらセミの声が大きかった。

とくに徳島と長崎は、クマゼミが盛んに鳴いていた。クマゼミは関東以北の人間には馴染みが薄いが、南国ではうるさいほどよく鳴いている。5年前に書いた 「蝉の鳴き声に関するレビュー」 という記事に、あきさんという方から次のようなコメントをいただいた。

夏といえば必ず 「ミーンミンミンミンミーン」 を使うテレビに違和感感じまくっていた九州人が通ります((((・・)ノ
セミと言えば 「ワシワシワシワシワシ!!!!!!!!!!!!!!!」 なので・・・。
!が多いのは、その通りの音量と数だからです・・・窓閉めないと何の音も聞こえません。風流もなにもありゃしない(笑)

この時点では、私はまだ、クマゼミの鳴き声をナマで聞いたことがなく、あまり実感がなかった。次の年あたりから、真夏に南国に出張することが妙に多くなり、生まれて初めてナマで聞くようになったが、遠くで鳴くのを聞く分には、そんなに大音量とも思わなかったのである。

ところがいつだったか、一般の民家におじゃました時に、窓の外でクマゼミが盛大に鳴いていて、「なるほど、こりゃうるさいわ」 と実感した。確かに小声では話ができないほどの大音量で、さすがに 「クマ」 という名を負うだけのことはある。ちなみに、九州ではクマゼミのことを 「わしわし」 というらしい。

今年もツクツクホウシが鳴き始めるまで暑さに耐えなければならないと覚悟しているのだが、今日は妙にすずしくて、日が暮れてからは肌寒いほどだ。なんだか不気味である。

 

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