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2013年9月に作成された投稿

2013年9月30日

ケータイと心臓ペースメーカー その2

"ペースメーカー:電車の「携帯電話電源オフ」再検討の動き" という毎日新聞の記事を、ものすごく興味深く読んだ。鉄道会社では、電車内であれだけうるさく流される「優先席付近では携帯電話のスイッチをお切りください」というアナウンスを廃止する方向で、検討が進んでいるのだそうだ。

このきっかけは、今年 1月に出された総務省の指針である。実験によると、携帯電話が心臓ペースメーカーに影響を与える距離は、最大でも 3センチだった。このため総務省は余裕含み(最大値の 5倍というのは、「余裕」というには大きすぎる気もするが)で「15センチ程度離す」と指針を改訂した。

実際には、これまでケータイ電波の影響でペースメーカーが深刻な影響を受けたという信頼できる報告は、世界で 1件もないらしく(報告されていたら、もっと大問題になっているはず)、専門医師も「胸ポケットに携帯電話を入れて抱き合うなどの特殊な状態が続く場合を除き、電波に干渉される可能性は極めて低い」と指摘している。

とまあ、このように、ケータイの電波のペースメーカーへの悪影響なんてのは、それについて言うだけストレスの元になるという、悪影響の方が大きいようなのだ。前述の専門医師も「車内の放送は装着者に過大な恐怖を与え、(中略)不安で電車に乗れないなど生活が制限される事態が起きている」と、逆効果の方を指摘している。

この問題でのトラブルは案外多く、優先席付近でメールをチェックしていただけで、ペースメーカー装着者に「私を殺す気か!」と、どえらい剣幕で詰め寄られたりして、それだけで済まずに大喧嘩になることもあるらしい。その方がよっぽど心臓に悪い気がするのだが。

この問題に間して私は、8年も前に「ケータイと心臓ペースメーカー」という記事を書いていて、その中で、さらにその 3年前(つまり 11年前) に書いたこんな文章を紹介している(参照)。

JR の車内アナウンスであれだけしつこく「携帯電話のスイッチをお切りください」というのは、ペースメーカーに影響があるのかないのかは定かではないが、もし何かあった時に、「私どもは 携帯電話については車内アナウンスで十分に注意していたのですが…」と言うためのアリバイ工作ではないかと思うのである。

で、今回こんなアリバイ工作は必要ないし、それどころかこのアナウンスのせいで余計なトラブルが発生し、かえって面倒なことになるとわかったので、それじゃいっそ止めちゃおうということになっているようなのだ。

ところが一方で、 ペースメーカー装着者の集まりの日本ペースメーカー友の会では、「影響はないと会員に周知をしているが、周知は行き届いていないし、古くからの装着者の不安を拭いきれない。電源オフは継続してほしい」と主張しているという。ちなみに同会のサイトには携帯電話の使用に関して、次のように案内されている。(参照

操作する場合は、ペースメーカーの植込み部位から22cm以上離して操作してください。

自分のサイトで(大きすぎる数字ではあるが)22センチ離せば自ら操作してもいいと案内し、さらに「影響はないと会員に周知をしている」としながら、電車の優先席付近での「電源オフは継続してほしい」というのは、いかにも奇妙な論理だが、そこはそれ、人間は理屈の生き物ではないので、なかなかむずかしい。

現実に、「そばでケータイを使われると、心臓にドッキン!と大きな衝撃を受けて、命の危険を感じる」と主張するペースメーカー装着者もいる。テレビやエアコンのリモコンには無頓着で、ケータイの時だけ「心臓に大きな衝撃」なんていうのは、「気のせい」と思うほかない。

しかし実際に衝撃を感じさせてしまうぐらい、これまでのアナウンスメントは逆効果の方が大きかったようなのだ。「病は気から」というぐらいのもので、「気のせい」ほど厄介なものはない。

こういう話を聞くと私は、「子宮外想像妊娠」というジョークを思い出してしまったりするのである。オカマさんには案外多いらしい。

 

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2013年9月29日

アップルの株価低迷を巡る冒険

Wired の "「アップルの革新的ヴィジョン」が「負の資産」に" という記事に、「iPhone 5S、5C が発表されても、アップルの株価下落を食い止めることができなかった」ことについて、その原因は iPhone 5S、5C で、何ら新しいものを提案できなかったからだと書かれている。

センセーショナルなのは、「何よりも最悪であり、最も明白なのは、『新しいものに対する消費者の飽くなき欲望』をアップルが満たせなかったことだ」と、最も明白に言い切っている点だ。しかしこれは、ジャーナリズムの業のようにもつ誤解である。消費者の「新しいものに対する飽くなき欲望」なんて、何よりも最悪な思い込みに過ぎない。

私は 8月 14日の「次期 iPhone が発表されるらしいが」という記事で、次のように書いている。

ところで、近頃 iPhone がアップデートされるたびに、マスコミが「画期的な新機能はみられない」とか「期待されたほどの大きな変化はない」とかいうお約束みたいなコメントを発するのが、私はかなり気になっている。

1ユーザーとしては、あまり大きく変化されたりしたら戸惑ってしまうから、「あまり変わりはありませんが、全体的には動作がちょこっと速くなって、安定性が高まり、ちょっとしたところで便利になりました」 程度が一番ありがたい。その一番ありがたい変化とも見えない変化を「期待はずれ」みたいに言われたら、こっちが困るのである。

こうした私の危惧がしっかりと的中してしまったのが、今回の Wired の記事だ。ちなみに iOS アップデートについて書いた 9月 25日の記事で、私は次のように書いている(参照)。

基本的な使い心地に大きな変化はないので、ほとんど戸惑わずに操作できる。これはありがたいことである。Windows 8 みたいに、アップデート したとたんにベテラン・ユーザーがいきなり初心者レベルに叩き落とされてはたまらない。

「新しいものを追いすぎる」ことで墓穴を掘ってしまったのが、マイクロソフトの Windows 8 である。今回のアップルは、それと比べればずっとマシだ。とはいえ、株価低迷でもわかるように、アップルのイメージが低下しているのも事実である。ただしそれは「新しいものを提案できていないから」ではなく、「アップルらしいテイストが失われつつあるから」だ。

私は上述の 9月 25日の記事で、iOS 7 におけるユーザー・インターフェイス・デザインの変化について、次のように書いている。

このあたりのことは、単なる「機能」では割り切れないことで、基本的な「テイスト」という範疇のことなのである。iOS 7 で、iPhone というデバイスの「テイスト」は、大きく変わり、「思い入れのある道具」から 「単なる便利グッズ」になってしまった。

このチャラいインターフェイスをみて、「ああ、スティーブ・ジョブスは本当に死んでしまったのだなあ」と、しみじみ実感した。

アップルの株価が低迷しているのは、新しいものを提案できていないからではなく、端的に言えば、スティーブ・ジョブスが死んでしまったからである。それ以外にない。

 

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2013年9月28日

平成の神隠しを巡る冒険

千葉県茂原市で行方不明になっていた女子高生が、2ヶ月半ぶりに発見されたというニュース(参照)、何だか私の守備範囲のような気がする。この類の話は、フォークロア的にはとくに珍しい話ではなく、日本の各地で語り継がれる伝承の中に、いくらでもある。

柳田国男の名著『遠野物語』の中に、「寒戸の婆」というエピソードがある。松崎村の寒戸というところで、若い娘が梨の木の下に草履を脱ぎ置いたまま行方不明となり、30年余り過ぎて親類縁者が集まっているところに、老いさらばえた姿で戻ってきた。どうして戻ってきたかと聞くと、みんなに会いたかったからだと言う。そしてまた、そのまま去っていった。

その日は風の激しい日だったので、今でも風の騒がしい日には、「サムトの婆が帰ってきそうな日」と言うのだそうだ。ちなみに Wikipedia によると、遠野の松崎村には「寒戸」という地名はなく、「登戸(のぼと)」という地名があるそうで、いろいろな推測がなされているらしい。(参照

遠野物語の中には、この他にも山女の目撃譚がいくつか収録されている。髪を振り乱した異様な姿で、山中を飛ぶように移動しているという。どうも昔から、霊感の強い女性は山の中に入って山女になるようだ。これが里の側から見れば「神隠し」ということになる。

今回の女子高生は、2ヶ月半ぶりに戻ったということなので、寒戸の婆の 30年に比べれば生やさしいところかもしれなが、現代における 2ヶ月半というのは結構な期間であり、「神隠し」というに十分である。彼女の体力の回復を待って、この間のことを根掘り葉掘り聞いたとしても、結局はよくわからない部分が多く残されるだろう。

確実に言えるのは、「神隠し」といっても、里からはそんなに離れていない所で暮らしているということだ。日常世界と異界とは、実は驚くほど近い。いつもの道からちょっと外れるだけで、立派な異界の住人になれる。我々は異界と隣り合わせの世界に住んでいる。というより、日常世界と異界は、かなり重なり合っているぐらいのものなのである。

いずれにしても、このようなタイプの女性は「神懸かり的体質」が強いということになる。昔だったら、再び山の中に帰らなかったら、巫女とか拝み屋などになるところなのだろうが、これを現代でいえば、カルト関係のカリスマというところかもしれない。いずれにしても、今後どんな人生を送るのか、興味深い。

 

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2013年9月27日

iOS 標準マップが、大進化を遂げていた

iOS 上で再び Google Maps が使えるようになってから、まだ 9ヶ月しか経っていない。去年の暮れ、ようやく iPhone 5 に Google Maps をインストールした私は、「もう Apple のマップを使う気にはなれない」 「ああ、あと 3年ぐらいしたら、Apple のマップも進化して使いやすくなっているなんてことにはならないかなあ」 書いている(参照)。

ところが「3年ぐらいしたら」どころか、この 9ヶ月の間に iOS 標準マップは大進化を遂げてしまったのである。つい先月まで、私は自分の iPhone のデスクトップのトップページに Google Maps のアイコンを置き、iOS 標準マップは 2ページ目の「Maps」というフォルダの中に隠していた。

しかし今は、この 2つのアイコンの居場所が入れ替わっている。トップページに iOS 標準マップのアイコンがあり、Google Maps のアイコンの方が、2ページ目のフォルダの中に隠されてしまっているのだ。こんなことになるとは、半年前には想像もつかなかった。

正直なところ、昨年暮れに嬉々として Google Maps を使い始めた頃から、心密かに「情報量は十分だけど、使い心地は今イチだなあ」という気はしていた。機能的には文句なしだが、何をするにも一手間多いし、操作が直観的ではないので、ちょっと複雑なことをしようとすると戸惑ってしまうのは、Google アプリにかなり共通した感覚である。

それでも、iOS 標準マップのできがあまりにも大雑把なので、操作の面倒くささを補って余りある Google Maps の情報量を取るしかなかった。それでずっと、そのまま Google Maps 主力で半年以上来たのである。

ところが今年の夏頃から、「あれ、iPhone の地図、案外頼れる感じになったかも」という印象に変わってきた。というのは、「連絡先」に登録した住所をタップすると、デフォルトで iOS 標準マップが立ち上がるが、それがそのまま使い物になるのである。今年初めまでは、住所を Google Maps にコピペして使っていたのに。

これなら、出張で初めての土地に行っても、iPhone をナビ代りにつかって十分スムーズに訪問先にたどり着くことができる。知らない土地でも楽にコンビニやコーヒーショップを見つけることができる。不満はほとんど感じない。

そして今月に入ってからは、「ナビとして使うにも、iOS 標準マップの方がずっと直観的に使えるし、楽じゃん」と評価を一新して、こっちの方を主力マップとして使うことにしたのである。本当に去年の暮れ頃の、あの大雑把で使えないマップとは別物になってしまったのだ。

Apple、やればできるじゃないか。こんなに急速に進化するとは思わなかったよ。このまま進化し続けたら、さぞかし便利なマップになるだろう。あとは、iOS 7 のチャラいデザインを、少しはマシにしてくれることを祈るばかりである。

 

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2013年9月26日

辻井伸行氏の演奏を巡る冒険

特別支援学校で教職を執っているおられる方に、「視覚障害者の音感は素晴らしい」と聞いたことがある。車の音を聞くだけで誰が来たのかがわかるなんていうのは、当たり前ぐらいのもので、音楽的才能に優れた子供がとても多いというのである。なにしろ、複雑な音楽を一度聴いただけで憶えることのできる子が、いくらでもいるらしい。

盲目のピアニスト、辻井伸行氏の演奏を聞くと、私なんかものすごく感動してしまうのだが、その方は、「辻井さんぐらいの才能は、決して珍しいものじゃない」と言う。視覚障害者の中には、きとんと継続して、いいプログラムで、いい先生につけば、ものすごいピアニストになれるだろうと思われるような子が確実にいるというのである。

辻井氏のピアノを聞いて、ちょっと別の次元の感動をおぼえるのは、一つには「この人、楽譜でピアノ弾いてるんじゃない」と感じるからである。それは当然で、彼は楽譜というものを一度も見たことがないはずなのだ。だから彼は、楽譜という視覚的情報ではなく、ほとんど聴覚的情報のみでピアノを弾いているのだと思う。

もちろん、TBS ラジオのキャッチフレーズじゃないが、「聞けば見えてくる」ということがあるので、彼の頭の中では、聴覚的情報が何らかの別の形に翻訳されているのかもしれないが、それでも、いわゆる楽譜というものとは違うのだろうという気がするのである。

楽譜というのは、かなりデジタルな情報である。「ド」と「レ」はまったく別の位置にあり、ある意味「切り離されて」いる。しかし、彼の演奏では、「ド」と「レ」は切り離されておらず、ものすごく密接に関連している。「ド」と「レ」だけでなく、全ての音のつながりが、普通の演奏以上に密接なのだ。深い意味で「一つながり」なのである。

その結果、演奏された音楽がとても瑞々しく、指先で押せばプルンとはね返されそうな、ある種の「触感」をもったもののようにさえ感じられる。喩えて言えば、「あいうえお」の文字だけでは表現しきれない微妙な母音変化を、トラディショナルな口誦パフォーマンスが、とても豊かに表現できるというような感覚だ。

それはもちろん、盲目でなくても演奏者の解釈で表現されうるものなのだろうが、辻井氏の場合は、並はずれた豊富さで、しかも解釈に解釈を重ねた労苦の末というのではなく、ものすごくナチュラルに表現されているのである。

文字は情報伝達を飛躍的に発展させたが、そのせいで失われた要素もある。楽譜にもそれは言えるだろう。我々は時に五感のいくつかを意識的にスイッチ・オフことで、より本質に迫ることができることがあると思う。

 

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2013年9月25日

iOS 7 にアップデートしたら、NY からいきなり LA に来たみたい

このほど、iPhone と iPad の OS を iOS 7 にアップデートした。基本的な使い心地に大きな変化はないので、ほとんど戸惑わずに操作できる。これはありがたいことである。Windows 8 みたいに、アップデート したとたんにベテラン・ユーザーがいきなり初心者レベルに叩き落とされてはたまらない。

Ios7pic

ただ、アイコン・デザインが例の 「フラット・デザイン」 とやらに大きく振れていて、デスクトップの見た目の印象がかなり違っている。iOS 6 までの、立体感と陰影を強調したデザインから比べると、ずいぶん薄っぺらくてチャラい感じになってしまっている。

このことに関して私は、今年 6月 11日の記事で次のように書いている。

「フラットデザイン化」 は、スティーブ・ジョブスが生きていた頃は不可能なことだったろう。アップル特有の、グラデーションやシャドウを強調した立体的なデザインは、多分ジョブスのお気に入りだったのだと思う。そしてそれは、私のお気に入りでもある。

  (中略)

それがいっぺんに現代風なフラット・デザインにされてしまったら、なんとなく、Apple が Apple じゃなくて、バナナかマンゴーかなんかになっちゃうような気がしてしまう。

  (中略)

立体的デザインの UI というのは、オールドタイミーなものになってしまうのかなあ。そうだとしても、あまりのっぺりしたものにしないで、最低限の立体性は残してもらいたいものである。今風の無機質なのっぺりデザインと、どれも同じ顔に見える韓流女性タレントって、私の中では同じ範疇に属してしまうのだよね。

で、アップデートしてみたら、「最低限の立体性」の残っているアイコンもあるが(「メール」とか「設定」とかね)、おしなべて味も素っ気もなくなってしまった。「カレンダー」のアイコンなんて、当日の曜日まで表示されるという機能アップは果たされているものの、デザイン的には芸がなさ過ぎだ。(フォントはいいけどね)

これだけとったら、あのデザイン感覚ダサダサのマイクロソフトと、それほど変わらなくなってしまっている。「シンプル」ということは、「芸がない」ということとは違うはずなのだ。スティーブ・ジョブスは、それをしっかりとわかっていて、「シンプルで芸あり」のデザインを提供してくれていた。

このデザイン変化について、IT Pro に "iOS 7 がフラットデザインを採用した理由、「既存のメタファーでは表現できない時代に」" という記事がある。要点だけを述べれば、従来の「スキューモフィズム」では、IT の成熟した現代に合わなくなったからというのである。

スキューモフィズムとは、「カレンダー」のアイコンが「日めくり」を思わせるデザインだったり、削除する時に「ゴミ箱」のアイコンにドラッグしたりするように、UI を現実に似せたメタファーで表現することだが、IT が成熟した今は、現実に似せた「過剰な」デザインは、邪魔になるというのだ。

しかし、アイコンのシャドウやグラデーションごときを「過剰」だなんていうのは、IT オタクの陥りやすい罠でしかないんじゃないかなあ。その程度の微々たる「過剰さ」を切りつめたところで、機能面での効果は知れたものだろう。

私は機能なんか度外視して、見た目の心地よさにつながる「リッチ」なデザインの方が好みである。「リッチ」といっても、派手とかゴージャスとかいうのではなく、ちょっと深みのあるデザインのことで、その方が使っていても気持ちいいじゃないか。

昨日、iPhone ユーザーの知人と話す機会があったが、「iOS 7 にしたとたんに、ニューヨークからロサンジェルスに飛んできたような気がするよね」と言ったら、「そうそう、まさにそんな感じ。東海岸から西海岸に、いきなり飛びすぎ!」と激しく同感してくれた。

このあたりのことは、単なる「機能」では割り切れないことで、基本的な「テイストという範疇のことなのである。iOS 7 で、iPhone というデバイスの「テイスト」は、大きく変わり、「思い入れのある道具」から「単なる便利グッズ」になってしまった。

このチャラいインターフェイスをみて、「ああ、スティーブ・ジョブスは本当に死んでしまったのだなあ」と、しみじみ実感した。

 

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2013年9月24日

英語の "-er" と "-or" の違い

この年になるまで漠然と気になりながら、その漠然のままで何となくやり過ごしてきたことに、英語における "-er" と "-or" の違いというのがある。「~する人」とか「~するための道具」とかいう言葉を作るのに、接尾辞として  "-er" と "-or" がある。この区別が、漠然とした印象なのである。

例えば、ごく単純な動詞だと、"getter", "cutter", "eater", "writer", "reader", "repeater", "opener", "roller", "printer" など、大抵は "-er" で行ける。ところが、 "director", "processor", "successor", "creator", "duplicator" などは "-or" だ。

一見すると、語幹があってそれに接頭辞がくっついてできたような 「ちょい複雑単語」 は "-or" なんじゃないかという気がするが、単純に見えても 「俳優」 は "actor" だし、"sensor" も  "-or" である。さらに、接頭辞があっても "computer", "performer", "consumer". "developer", "employer", "extinguisher" などは "-er" である。

まったく一筋縄ではいかない。私としては、単純な動詞はほとんど  "-er" だが、ちょっと長目の動詞でそれだと気持ち悪い感じがするのは  "-or" だということでやってきて、それで大抵間に合っている。要するに、感覚の問題だと思っていた。

ところがどうやら、そんなものではないらしい。英語の語源的な見地からすると、ある程度きちんとした規則性というのがあるらしいのである。「教えて Goo」 のサイトには 「-er と or の違い」 という Q&A ページがあって、この中になかなか専門的に論じた答えが載っている。

このページに寄せられた回答によると、ざっくりと言ってしまえば、英語の最も古い語彙を形成しているゲルマン語から入った動詞は、大抵  "-er" なんだそうだ。なるほど、単純な動詞に "-er" 型が多いことからも、それは頷ける。

そして、ラテン語起源で、フランス語、ノルマン語を経て英語に入ってきた語彙は "-or" 型が多いが、一部はフランス語で変形を受けて "-er" になっているものもあるという。この辺りがなかなか複雑だ。

一方、「鉄緑会の英語の森」というサイトには実戦的な覚え方が載っている(参照)。その一つは、「-ate で終わる動詞の名詞形は -ator」 というものだ。なるほど、上述の "creator", "duplicator" の他、"indicator", "dictator", "educator", "illustrator", "translator" など、ことごとく "-or" 型だ。

ただ、その他にも既に述べた "director", "processor", "successor" など、例外はいくらでもあるから、このあたりはやっぱり 「感覚」 に頼るほかない。"Processer" なんて書くとやっぱり気持ち悪くてムズムズするから、感覚というのはとりとめがないようでいて、なかなか頼りになるのである。

ただ、これは英語にたっぷりと接して、初めて身に付くところではあるが。

 

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2013年9月23日

新幹線の 500系車両はどこに消えた?

「新幹線の 500系車両って、どこに行ってしまったんだろう?」 と気になっている。最近は出張で東海道新幹線の「のぞみ」に乗ると、ほとんど断面が四角っぽい N700系で、一時多かった円形の断面の 500系と、その系統のデザインはまったく姿を消してしまっている。

どうしてそんなことが気になるのかというと、500系というのは乗り心地最悪で、「なんとかしてもらいたい」と、ずっと思っていたからだ。超ロングノーズの一見して「カッコいい」デザインだったが、断面が円に近いので、窓際の席に乗るとものすごい圧迫感だったのである。天井も低くて、ちょっと大きめの荷物は網棚に入らなかったし。

500系が全盛の頃は、新幹線の指定席を買う時は、「通路側」にするのが必須だった。窓際は狭苦しいし、3列シートの真ん中も当然避けたい。そうなると、通路側しか選択の余地がない。つまり座席の 60%は、乗客に苦行を強いるのである。

みどりの窓口では「どうしましょう、次の便は窓際しか残っていませんが、次の次にしますか?」なんて聞かれたものである。JR でも乗り心地の悪さは十分承知していたようなのだ。このあたりのことは 2004年 3月 10日の記事にも書いてある。

実際には、この記事を書いた時に乗ったのは当時の新型、700系だったので、窓際の席でも狭苦しさに悩まされることはなかった。この日、広島駅でホームの両側に 700系と 500系が並んで停まっていたので、写真に収めた。一見して 500系の狭苦しさがわかる。(詳しくはこちら

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カッコ良く見えても、乗り心地最悪の 500系は、さすがに長続きしなくて、ネットで調べてみると、今は JR 西日本の路線の一部で細々と運用されるだけになってしまったようだ(参照)。さもありなん。

9年前にこの記事を書いた時、リアルの知り合いの 1人に 「tak さん、時々どうでもいいことを書くよね。新幹線をわざわざ写真に撮って並べてアップするなんて、よくやるよ」 と、嫌味を言われた。

確かに私には、フツーの人にはどうでもいいことにこだわる傾向はあるが、この記事に関してそんなことを言われるのは、かなり心外だった。「とんでもない、これはとても重要なことだよ」と反論したのだが、彼には全然通じなかった。

500系車両が不評のあまりほとんど姿を消した今、「どうでもいい話なんかじゃなかったということは、結果が雄弁に物語っているでしょ」と言ってやりたいのだが、最近は彼と会う機会がないのが残念である。

 

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2013年9月22日

韓国語と東北弁のイメージが似ていることを巡る冒険

19日付の「韓国語の濁音」という記事で、韓国語も日本の東北弁も、単語の最初の音節を除き、単語の途中の音は濁音に訛るという共通点があると書いた。

例えば、東北弁は「酒とさかな」が「さげどさがな」になりやすい。そして、言ってる本人は「第二音節以後は濁音として発音する」なんていう法則性を意識しているわけでもなんでもなく、ただ無意識に、その方が言いやすいから、結果として濁音になっている。このあたりも、韓国人が清音と濁音の区別ができないということとよく似ている。

ふと気付くと、東北では地名でも第二音節以後が濁音、半濁音となることが多い。我が山形県でも、「山形(やまがた)」「米沢(よねざわ)」「小国(おぐに)」「寒河江(さがえ)」 尾花沢(おばなざわ)」「新庄(しんじょう)」「遊佐(ゆざ)」などなど、枚挙にいとまがない。

山形県以外でも、秋田県の「角館(かくのだて)」、青森県の「五所川原(ごしょがわら)」など、探せばいくらでもある。その程度の濁音化は、とくに珍しいことじゃなくて、取るに足りないことと言われるかもしれないが、これを九州辺りと比較すると、やはり特徴的であることがわかる。

九州の地名でいえば、例えば福岡県の「宗像(むなかた)」「福津(ふくつ)」、大分県の「日田(ひた)」「宇佐(うさ)」などは、東北の常識でいえば、それぞれ 「むながた」「ふくづ」「ひだ」「うざ」 などと発音したいところである。その方が自然で言いやすい。しかし、九州では濁音化しない方が自然のようなのだ。

このあたりで、東北にだって濁音化しない地名がいくらでもあると指摘されそうである。例えば私の生まれた「酒田」は「さかた」であり、隣の「鶴岡」は「つるおか」 、お隣の秋田県でも「秋田」は「あきた」、青森県でも「弘前」は「ひろさき」だと指摘されるだろう。

しかし、ここが問題なのである。実は最大のキモといってもいいぐらいの重要ポイントなのだ。平仮名で「さかた」「つるおか」「あきた」「ひろさき」と表記される地名でも、土地の人間のネイティブな発音ではそれぞれ「さがだ」「つろぉが」「あぎだ」「ひろさぎ」と訛るのだよ。

このあたりのところは、文字データだけでは気付かれないところである。だって、JR の駅名表示にしたって、「酒田」の下には "SAKATA" と書いてある。土地の人にフツーに発音させれば "SAGADA" なのに。まさに、韓国語では清音と濁音が区別されないというのと同様の構造である。

酒田の人間でも、関東以南から来た客人に対してよそ行きの言葉で接する時は「ようこそ『さかた』へ」なんて言うが、仲間内では「さがだ」である。つまりよそ者に対する時には、清音と濁音の区別がつくが、身内同士になると、あっという間にその区別のつかない(というか、「全然気にしない」といった方がいいかもしれない)人に戻っている。

音韻学的なモードのスイッチが、ごく自然に入ったり切れたりする。それは明治以来の「標準語教育」によるところが大きいだろう。それがなかった韓国人は、このモードのスイッチ操作がとても苦手なようなのである。

音韻学的にみるとどうやら、韓国語と東北弁の発音センスは、かなり共通しているとみていいだろう。もっとも最近の酒田の若い連中は、かなり共通語で育ってしまっているので、「さかた」なんて、正しいようでいて実はイレギュラーな発音をしていて、せっかくのモード変換能力を放棄していることが、実に嘆かわしい。

 

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2013年9月21日

「アンダーコントロール」 の解釈

産経新聞は、東京都の猪瀬都知事は 20日の定例会見で、東京電力福島第1原発は必ずしもコントロールされていないとの認識を示したと伝えている(参照)。うむ、その方が正しい見解だろうさ。

首相は IOC のプレゼンで "The situation is under control." と明確に述べている。それは YouTube の映像をみても明確だ(参照)。そしてこの発言には YouTube では「状況はコントロール下にあります」との字幕が付けられている。しかしこの翻訳は、カタカナ語を使って意味を不明瞭にぼやかしてしまう典型的なサンプルだろう。

"Under control" というのは、「コントロールされている」などと曖昧な言い方をするより「支配されている」とか「抑制されている」とかいう方が、その意味をしっかりと伝えられる。例えば、火事に関してこの言葉を使えば「鎮火された」という意味になる。

しかし実際は、誰が見てもそうした状況にはほど遠い。私は首相のこの発言をニュースで聞いて、「よく言うよ」と、呆れていた。

さらに産経の記事によると都知事の発言は、「今、必ずしもアンダーコントロールではない。だから(首相が)アンダーコントロールにする、と意思表明したことが大事」というものだったようだ。これ、前半は正しい認識だが、後半はかなりおかしい。

上述のように、首相は  "The situation is under control." と言ったのであって、"We will make the situation under control." なんて言ったわけじゃない。つまり、都知事の発言は、我田引水である。

ただ、希望的に受け取るとすれば、「本当にアンダーコントロールにするんだろうな」と、首相に迫れる言質を取ったということにはなるだろう。言ったからには、本当に 7年以内に達成してもらいたいものである。常識的に考えれば、かなり困難なことではあるが。

 

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2013年9月20日

無茶な出張

今日は朝一番に発って長崎まで飛び、きっちり仕事をこなして、夜の便で戻ってきた。

長崎まで日帰り出張とは、我ながら少し無茶である。出発から帰宅まで、18時間半。若い頃なら何ともなかったが、還暦過ぎると、さすがにかったるい。

電車と飛行機を合わせて往復 10時間は、ただ座席に座っているだけのくせに、どうしてそんなに疲れるんだ? と言われるかもしれない。私も若い頃はそう思っていた。

大学生の頃は夏休みの帰郷に、ラッシュアワー並に混雑した夜行急行列車で、立ちっぱなしで 9時間揺られても平気だった。しかし今は、10時間も座るとかなりこたえる。

どうも、疲労が腰にくるのである。そんなわけで、今夜はしっかりストレッチして、ぐっすり休もうと思う。

お休みなさい。

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2013年9月19日

韓国語の濁音

知ってる人にとってはあんまり当たり前すぎて、「何を今さら」と言われそうだが、私にとっては目から鱗みたいなことを最近知ったので、それについて書いておく。「韓国語の濁音」についての話だ。

韓国人、あるいは韓国語に詳しい人が「韓国人が日本語の濁音の発音が苦手なのは、韓国語には濁音がないからだ」と言うことがある。私はそれを聞くたび、「ウソばっか。韓国語は、『ゴスミダ』とか『ハムニダ』とか、濁音がやたら多いじゃん!」と思っていた。

しかし、最近になってようやくわかった。「韓国語には濁音がない」というのは、まんざらウソじゃない。「当たらずといえど遠からず」程度のことのようなのだ。

正確にいえば、「韓国語には濁音がない」のではなく、「濁音と清音の区別がない」ということのようなのである。それで、同じ字(もちろんハングルね)で表記される音でも、単語の最初にくれば清音になるが、途中だと濁音になる。

例えば、「金 大中」は「キム・デジュン」と発音するようだが、名字を省いて「大中」だけだと「テジュン」になるという。さらに「中」だけだと 「チュン」になる。2011年に世界陸上が開催された「大邱」というところは、フツーは「テグ」だが、何かに続いて発音されると「デグ」になってしまうのだろうね。

これらは意識して発音し分けられているのではなく、ほとんど無意識のことで、彼らにとってはあくまでも「同じ音」でしかないらしい。やはり人は、音を耳で聞いているのではなく、脳で聞いているのである。

そんなわけで、韓国の人は「下駄箱」の発音がとても苦手のようだ。大抵「けだばご」みたいな発音になる。同様に「バナナ」は「パナナ(panama)」みたいになる。

日本語だけでなく、英語でも例えば韓国人が "doctor" というと、"togdor" みたいに聞こえたりして、なかなか聞き取りが難しい。

韓国人に聞くと、幼い頃からそうした言語圏で育っているので、清音も濁音も同じに聞こえて、区別がつかないというのである。それは理解できる。日本人が "L" と "R" が同じ音に聞こえて区別が付けにくいみたいなことなのだろう。

このことを知って、私は韓国語が東北弁、とくに日本海側の方言(庄内弁、秋田弁、津軽弁など)と共通したイメージで聞こえることがある理由の一端がわかったような気がした。

例えば日本語でも「所々」 などは 「ところどころ」 と訛るが、東北弁はそれだけでなく、「とごろどごろ」と、徹底的に訛る。「酒、魚」は「さげ、さがな」だ。ただ、「ざげ、ざがな」とはならず、つまり第一音節は訛らないところが、韓国語の法則と共通する。

これを言っている現代の東北人は、共通語教育のせいで「自分は訛っている」と自覚しているが、それがなければわかっていなかっただろう。韓国語の場合も、そんなようなことなのかもしれない。

ただし、東北弁でも「下駄箱」は「げだばご」と、最初の音が元々濁音なら濁音で発音する。この辺りは韓国語とは明確に異なる。

 

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2013年9月18日

「秋バテ」 に注意

ラジオの天気予報を聞いていたら、気象予報士のおねえさんが「秋バテの季節になりました」と言うのを聞いた。暑さで参ってしまう「夏バテ」の季節は一応過ぎ去り、今は「秋バテ」というものが出やすい時節なのだそうである。私には初耳の言葉だった。

秋バテというのは、朝晩が急に涼しくなり、肌寒ささえ感じさせる頃に出やすいのだそうだ。ただでさえ暑い夏で体力を消耗して、疲れが抜けきっていないところに、この急な涼しさが加わると、体が冷えて血行が悪くなり、内臓の働きが衰えたりして、だるさを訴える人が増えるという。

秋バテはとくに女性に多いらしい。しかし今年は夏がとてつもない猛暑だっただけに、男でも蓄積した疲れが秋になってどっと出ることがあるという。実際、周囲に聞くと「夏の疲れが抜けない、かったるい、睡眠が浅い」というオッサンが意外に多い。

私としても、例年秋口には「ああ、やっとしのぎやすい季節になった」と感じて、単純に生き返る思いがするのだが、今年はちょっと気を付けなければならないような、体の内側からのサインを感じている。じっくりと体を慣らしていかないと、体調を崩しそうな気がするのである。

秋バテの予防は、きちんと暖かい毛布や布団をかけて寝ることだそうだ。寝入りばなに暑苦しくても、夜明け前には急に冷え込むから、油断がならないのである。

 

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2013年9月17日

秋田美人考

台風で足止めを食い、1泊 2日のつもりだった秋田出張が、2泊 3日になってしまった。仕事自体は 1日目ですべて片づいたから、2日目と 3日目は暇である。とくにすることもなく、台風の大雨のせいで遠くに脚を伸ばすわけにもいかず、近場だけでうろうろするというのは、結構苦痛で疲れるものだった。

稲庭うどんと比内地鶏を食い、近くの美術館と、秋田の殿様の佐竹資料館をながめ、土産物屋をひやかし、スタバでコーヒーを飲んでいるだけでは、それほどの時間をつぶせない。そこで、街をうろうろする。秋田の街は雪が深いので、駅の近くはアーケードが多く、大雨でもあちこちさまよい歩くことができた。

秋田の街をうろうろしていると、その辺を歩いている女性が美人ばかりなのに驚く。秋田では、「AKB」といえば「秋田美人」のことだという話まで聞いたほどだ。秋田出身の知人は、「秋田では、美人が標準」という。「ブスもいないわけじゃないけど、よほど探さないと見つからない」のだそうだ。

確かにそれは実感である。震いつきたくなるような美人ばかりというわけじゃないが、すれ違う女性がことごとく「十人並み以上」の器量なのである。日本三大美人県は、京都府、石川県、秋田県なのだそうだ。京都は都であり、石川県も小京都、金沢があるのでなるほどと思うが、私の印象としては、秋田のレベルには及ばない。

今回は暇だったので、秋田美人の観察をして思ったことを書いてみようと思う。

秋田美人の観察といっても、そんなにじろじろ見つめるわけにもいかないから、さりげなくながめるだけなのだが、まず誰でも第一に納得するのは、「秋田の女性は肌がきれい」ということだ。肌のきめがこまかく、色白なのである。いわゆる素肌美人だ。それは結構年配になっても変わらず、お年寄りでも肌がたるまず、若々しい。

それから、鼻筋が通っている。胡座をかいたような鼻の持ち主は、ほとんどみかけない。色白で鼻筋が通っているから、印象がとても上品なのである。これだけで、かなり美人度の点数は跳ね上がる。

それから、これはあまり指摘する人がいないが、秋田の女性はプロポーションがいい。とても背が高く見えるが、近づくと、それほど長身というわけでもないとわかる。これは顔が小さくて脚がすらりと長いので、錯覚するのである。秋田の街を歩いていると、「この街にはブスとデブはいないんじゃないか」と思うほどだ。

秋田の人が中年過ぎても太らないのは、秋田の郷土料理が高カロリーと対極だからじゃないかという気がする。あまり脂っこいものは好まれないんじゃないかなあ。肉も比内地鶏が有名で、牛だの豚だのというイメージは薄い。

今日の夕方、茨城県に帰ってきて街を歩くと、肥満体型の女性(女性ばかりではないが)が多いことに気付く。すらりとした美人ばかりの秋田から戻ると、「ああ、地元に帰ってきたなあ」と実感した。

茨城県との比較で思い出したが、秋田は美人の県で、一方、茨城県の県庁所在地である水戸市は、仙台市、名古屋市と並んで「日本三大ブス都市」なんだそうだ。これには理由があって、戦国時代に茨城を支配していた佐竹氏が江戸時代になって秋田に封ぜられた時、水戸から美人を全部連れて行ってしまったからなんだそうだ。

もちろんこれは俗説で、佐竹の殿様は、秋田に移る時には家来も少数を選りすぐって連れて行ったというほどだから。美人を根こそぎ連れて行くなんてことは、当然ながらあり得なかった。

それから秋田市内の人に言わせると、「角館(かくのだて)は美人が多い」のだそうだ。角館というのは、盛岡から秋田新幹線で辿ると、秋田の 2つほど手前にあり、「みちのくの小京都」といわれ、枝垂れ桜と武家屋敷で知られる。

秋田の人がそんなにまで言うとは、どんなにか美人が多いのだろうか。私なんかが訪れたら、目が潰れてしまうのではなかろうか。

 

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2013年9月16日

まだ秋田にいるのだよ

昨日心配していたことが最悪の形になって、秋田にもう一泊することになってしまった。

秋田新幹線の指定席が、午前中の便は満席で、しかも自由席というものがないのだそうである。全席指定なのだ。で、昼の 2時過ぎの便を取ったら、何と午後からの便が台風のせいで運休になってしまったのだ。

で、結局のところ、明日になるまですべて運休となり、帰れなくなってしまったのである。まあ、明日は珍しくこれといった予定がないから、ゆっくりと帰ることにしよう。お休みなさい。

 

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2013年9月15日

秋田からの帰りは、台風 18号次第

朝一番の新幹線で、秋田に来ている。自宅を出る時は土砂降りだったが、駅近くに借りている駐車場に着くと、雨はピタリと止み、駅までは傘をささずにすんだ。ところが、台風18号はまだまだ日本の南海上なので、秋田は大丈夫と思っていたが、何と、着いてみると雨なのである。

取り敢えず、駅から目的地まではタクシー移動なので、濡れずに住んだ。とはいえ、私の「晴れ男伝説」もこれまでかと覚悟した。ところが再度の大逆転。午後遅くなればなるほど大雨になるという予報が覆されて、4時頃には雨が上がってしまったのである。諦めていた屋外での撮影もできて、結局はすべて OK となった。しかし問題は明日である。

明日は別に予定がないので、帰路につけばいい。しかしその時間帯が問題である。本来ならば、時間もたっぷりあるので、午前中に市内を見物して昼飯を食い、昼過ぎの新幹線でゆっくり帰ればいいのだが、台風の具合によっては、途中で遅れることも考慮して、なるべく早めに発っておく方がいいかもしれない。

いや、もしかしたら早めに発ったせいで、途中で運行がストップし、身動きが取れなくなってしまうことだってあるかもしれない。それだったら、台風が通り過ぎた後にゆっくり上野に到着するように、やっぱり昼過ぎの便で発つ方が利口かもしれない。

ただ、それだと台風の影響の混乱で遅れに遅れが生じ、「やっぱり早く発っておくべきだった」なんてことになる可能性だってある。こればかりは、直前まで情報を確認して判断するしかない。

まあ、いずれにしても明日は特段の予定はないから、最悪の場合はもう一晩泊まって、明後日の朝イチで帰れば何とかなる。ゆったりと考えよう。

 

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2013年9月14日

今回の iPhone 関連では、静観するのみ

iPhone 5S、5C が発表されて、さらに Docomo が iPhone の取り扱いを開始するとやらで、市場はやたらと騒がしくなっている。Docomo ユーザーで iPhone を使うのを我慢してきたという人にとっては、かなりの朗報だろう。

で、ネットではどのキャリアの iPhone を使うのが一番お得かというような情報が飛び回っていて、新機種が出るたびに、MNP で最もお得なキャリアに乗り換えるのがいいなんていう話も出ている。しかし現実的には、現在のキャリアのままでおとなしくしているのが一番お得だと、私は思っている。

3社のプランを見比べても、はっきり言ってどこがどう違うのか、細かい点に至っては、さっぱりわからない。多少の違いがあったとしても、月々 1,000円ぐらいの差が出るとは思われない。せいぜい何百円かの違いである。コーヒー 1杯分ぐらいの違いで騒ぐのは、アホらしく思われる。

それにウチは家族全員 Softbank だから、私一人が他社に乗り換えると、家族に電話する時に通話料が発生してしまう。多少の安さを求めてキャリアを変えても、これだけですぐに帳消しになるどころか、割高になってしまう。

市場は 3社間のシェア争いが話題になっているが、私としてはそんなことはどうでもいい。Docomo から Softbank に流れてきたユーザーが、また少し Docomo に戻るくらいの方が、こちらの回線に余裕ができていいんじゃないかとさえ思っている。

世の中には、自分のケータイのキャリアのシェアが増えると我がことのように喜んでいる人がいるが、どうすればそんな思い入れが生まれるんだろう。Softbank はカバーエリアが狭くてちょっと僻地に行くとつながらない傾向があったが、最近はだいぶ改善されたから、そんな大きな違いがなくなったし、その点ではどれを取っても決定的な違いはない。

私が iPhone 5 にしたのは去年の 10月だから、まだ 2年縛りの半分も経過していないのである。結局のところは、来年の今頃、iPhone 6 が出てからおもむろに機種変更することになるだろう。それまでは、iOS のアップデートだけして、あとは静観である。

ただ、来週はやたらと出張が多いから、アップデートは再来週になって落ち着いてからということになるだろう。その方が、回線の具合も安定しているだろうし。

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2013年9月13日

オリンピックと地震と英語

東京オリンピック招致決定ということで、それに伴う負の要素について昨日書いたが、それ以外の感慨をちょっと書いてみようと思う。

東京で初めてのオリンピックが開かれたのは、1964年、昭和 39年のことだった。この年の 6月、新潟地震があり、私の住んでいた酒田の街も震度 5の揺れだった。当時は震度 5 には「強」も「弱 もなかったが、印象としては、間違いなく「震度 5 強」だった。

さらに当時の建物の耐震強度なんていうのは、どうしようもないもので、私の小学校はもう、ガタガタに揺さぶられた。私は小学校 6年生で死を覚悟した。「思えば短い一生だった」と、本気で思ったものである。

私の家は当時、高台にあったので、地震後に上水道が復旧するまでに 1ヶ月以上かかった。その間、私は水汲みに奔走したので、育ち盛りのはずだったのに、当時持たされていた「保健手帳」の、体重変化の折れ線グラフは、6月から 7月にかけてガクンと減っている。ストレスと水汲みとまともな食事ができなかったことによる体重減だったろう。

しかし、その年の 10月には地震のことなどまったく忘れてしまったかのように、東京オリンピックにわきかえっていた。当時、小学校の各教室にはどこでどう都合したものか、中古品ながらも白黒テレビが設置され、オリンピックの期間は授業そっちのけで、全員テレビの中継に夢中になっていた。

オリンピックに先だって、夏休み明け頃だったと思うが、学校に 「救援物資」 の品が届いた。地震から 2ヶ月以上も経っていて、「何を今さら」 というタイミングだったが、当時はそんなような呑気な時代だったのだ。

このことについては、9年前に "「地震」「英会話」「プラモデル」の三題噺" に詳しく書いてあるから、よろしければ読んで頂きたい。

まあ、早くいえば、この時の「救援物資」の中に、東京オリンピックを当て込んだ英会話練習用のソノシートがあって (どうしてこんなものが地震の「救援物資」になるのか、さっぱりわからないのだが)、それをゲットしたおかげで、私は中学校入学前に、自主的に英会話の勉強ができたということなのである。

今度の東京オリンピックは 7年も先のことで、今どきは 7年も経てば、世の中はずいぶん変わる。しかしいくら世の中が変わっても、日本の英語教育なんてそんなに変わるもんじゃないと、私は思っている。

せいぜい、何かの「救援物資」とかバザー商品の中にいい教材が紛れ込んでいて、それを偶然ゲットするみたいな幸運に恵まれないと、なかなかまともな英語を学ぶチャンスなんてないんじゃなかろうか。もう本当に「神の思し召し」である。

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2013年9月12日

オリンピック開催は決まっちゃったことだし

八戸への一泊出張から戻ってきた。天気予報は曇りのち雨ということだったが、何しろ晴れ男なので、そんなのは一切無視して、私が帰りに新幹線に乗る頃までずっと晴れていた。おかげで、その分、北東北らしからぬ暑さだったのだが。

ところでオリンピック誘致が決まり、東京は建築関係のラッシュが続くだろう。いくら既存の施設を活用するなんて言っても、国立競技場は取り壊して新規に作り直すことが決まっているのだから、他にもいろいろな工事が行われるだろう。

そうなると、資材や建築に当たる人間がタイトになることが予想される。仙台を中心とした東北の復興需要で、建築関係は今でも労働力がタイトである。一昨年の中頃から、仙台はホテルの予約が取りにくい状態になっている。建築関係者の長期滞在で、企業がごっそりと押さえているのだ。

おかげで私は、仙台に出張する時は手前の福島西インターの近くのホテルに泊まり、翌朝早く出発するというスタイルを続けているほどだ。仙台の夜の盛り場は、建築関係者のおかげでバブルの様相を示しているという。

それで、今度は東京である。建築関係者にしてみれば、中央の東京でがっちり稼ぐ方が有利だろうから、東北の復興には少し影響が出るだろう。それだけでなく、ここしばらくの間、自社ビルなどの建築を予定している会社は、相場より高い金を払わなければならなくなることが確実だ。大変だね。

そんなこんなで、経済は多少は潤うのだろうが、歪みは生じるだろう。真夏のオリンピックの電力需要を補うため、原発は再稼働の方向に向かうだろうし、オリンピック開催に伴う負の側面は無視できない。ただ、もうやると決まったことだし、国民の多数は大喜びしているみたいだから、まあ、自分だけは浮かれすぎないようにしたいと思うのである。

 

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2013年9月11日

猛暑とライフスタイル

昨日、「夏の間の疲労が抜けた!」という記事を書いた。疲労が抜けて初めてわかったのだが、この夏ずっと感じていたしんどい思いは、かなりの部分、あの猛暑のせいだったようなのである。私は初め、歳のせいかと思ってかなり弱気になっていたのだが、どうやらそればかりではなかったらしい。

昨日、仕事の関連で 40代の仕事盛りの人間と会ったのだが、開口一番、「いやぁ、この夏は本当にしんどかったですね!」という話から始まった。本当に、しんどかったのは私ばかりではなかったようなのだ。

彼が言うには、この夏は暑さのあまり本当に仕事にならなかったのだそうだ。自宅オフィスでエアコン使用を極力控える私からすると、「会社勤めの人間は冷房の効いたオフィスで仕事してるんだから、楽だろう」と思っていたのだが、まんざらそうではないらしい。

あまりオフィスから外に出ることのない事務系の人間でも、往復の通勤と夜の寝苦しさで参ったというのである。さらに営業や外部とのミーティングなどで頻繁に外に出る必要のある職種の人間は、これまでにないほどしんどい思いをしていたらしい。

「疲労が蓄積して、朝、オフィスに着いてもすぐにスイッチが入らないんですよ。PC を起動させてメールのチェックをしていても、頭はぼうっとしたままで、そのぼうっとしたまま、外に出るという感じでしたね」と、彼は言う。うむ、なるほど。わかるような気がするよ。

「暑い中を動き回って、昼時になってメシを食うと、もう本当に動けなくなるんです。涼しい喫茶店に避難して一息つくと、いつの間にか眠っちゃってる。いや、本当にちょっと仮眠しないと、体がもたないんですよ」

うむ、わかるわかる。私もしょっちゅうソファに倒れ込んでたし。

いやはや、このまま地球温暖化が続くと、夏の体調管理はものすごく重要な問題になる。2週間近くの夏期休暇をしっかり取ることを、本気で考えなければならない。お盆休みで帰省なんかしたら、疲れるばかりだから、さらに 3~4日の静養日を確保するのが望ましいだろう。

それだけでなく、毎朝きちんとオフィスに顔を出すという「セレモニー」を、考え直さなければならない。猛暑の間だけでも、自宅をサテライト・オフィスとすることや、オフィスを素通りして出先に直行/直帰する「ノマド・ワーカー」スタイルを取り入れる必要が出てくるだろう。

7年後の東京オリンピックは、真夏の開催となる。ただでさえ暑いのに、国内外からどっと押し寄せる人たちで、東京は灼熱地獄と化すだろう。サッカーやマラソンなどの屋外競技は、夜明けから早朝に実施しなければ、選手も観客も熱中症になってしまう。結果として、欧米のテレビ観戦者よりも日本人の方が時差ボケになってしまうかもしれない。

この夏の猛暑は、日本人のライフスタイルを変えることについて、真剣に考える契機になったかもしれない。

 

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2013年9月10日

夏の間の疲労が抜けた!

昨日は本宅サイトの 100万アクセス達成ということもあって、ちょっと盛り上がった。ブログの "Today's Crack" の方は既に 400万アクセスに近づいていて、スマホ向けサイトへのアクセスも合わせれば とっくに 400万は超えているはずなのだが、本宅サイトまで「大台越え」をしたというのは、やはり気分が違う。

いい気分になったせいか、体の方のコンディションもかなり上向いてきている。今年は 6月頃からすっとスケジュールが詰まりっぱなしで、しかも夏の間の猛暑もあり、かなり疲労が蓄積していた。急な上り坂や階段を昇ると、腰から下の筋肉が悲鳴を上げかけていたのである。

こんなことは過去にはなかったので、内心「歳を取るって、こういうことなのか?」「若いつもりでも、還暦を越えるとこんなものなのか?」と、やや弱気になっていたのである。しかしここ数日、あの異常なまでの暑さが少し遠ざかって、出張の連続が一段落したせいか、この筋肉疲労が収まってきた。

三日前までは、筋肉痛とまでは行かなくても、かなりかったるさを感じていたのだが、一昨日あたりからすこぶる快調である。たまっていた疲労がようやく抜けたようで、急坂でも踊るように登れるし、階段も全然平気である。息も切れない。

昨日なんか、BS でボクシングを見ていると、こっちもシャドウ・ボクシングしたくなった。片方の選手に肩入れしていると、相手のパンチに反応して、素速くダッキングやウェイビングができたりする。相手のガードが甘くなったところに、ストレートを見舞える。それでいて、息が切れない。おぉ、これは、まだまだイケるじゃないか。

これから秋になって、旨いものを食べ過ぎないように注意すれば、まだまだ動ける体を維持できそうな気がする。還暦を越えてからというもの、一時はずいぶん年取ってしまったような気がしていたが、これって結局は「気のせい」だったのかもしれない。慣れない「還暦」という言葉に、心も体も戸惑っていたのだね。

もう一回りして 72歳になるまでは、なんとか若いままでいられるように、運動不足にだけは陥らないようにしていようと思う。それを越してしまえば、あとはもう、なるようになれということで構わないから。

 

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2013年9月 9日

本宅サイト、100万アクセス突破

今月 5日にお知らせした、本宅サイトの「100万のキリ番」(参照) が、今朝達成された。今朝は朝からバタバタしていて、昼過ぎにネットをのぞいたら、既に 100万を超えていて、急いでメーラーを確認したら、京都の岡本さんという方から、「100万番目のファイター」になったとのお知らせメールが来ていた。

以下は、岡本さんから送って頂いた、記念すべき 100万番目を示す画像である。(クリックで拡大表示される)

Million

本宅サイトの『知のヴァーリトゥード』は、11年半前の平成 14年にひっそりとデビューした。あえてリアルの知り合いは誰にも知らせず、既存のコネに頼らずコンテンツ勝負のみという、裸一貫での船出にしてみた。それで、5,000アクセスをかせぐのに 1年かかった。1日に 10アクセス集めるようになるまでが、ちょっとした茨の道だった。

それ以後は加速度的にピッチがあがり、平成 19年頃になると、20万から 30万に増えるには、わずか 8ヶ月しかかからなかった。最初の年には 1年で 5,000アクセスだったのが、この頃には年間 15万アクセスにアップしていた。ざっと 30倍である。

本宅サイトのアクセスはこの頃がピークで、それ以後はブログの方に直接アクセスする人が増えたので、最近は落ち着いたものになっている。5日の記事でも書いたが、私のブログは 1日に 3,000アクセスをかせぐようになっていて、これは本宅サイトの最初の 1年間の 200倍以上だ。夢みたいである。

それでも、本宅サイトが 11年で 100万アクセスというのは、なんだか感無量である。いつもアクセスしてくださる方、本当にありがとうございます。この 100万は、皆様のクリックの積み重ねです。

で、キリ番プレゼント和歌は、次のように読ませていただいた。

振り向けばももよろづなる道集ふ岡の麓 (ふもと) に辿り着きたり

詳しくは、こちら をどうぞ。

 

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2013年9月 8日

オリンピックの東京誘致成功を巡る冒険

2020年の東京オリンピック開催が決定した。7年後といえば、私は 68歳になっている年で、多分生きてはいるだろうけど、死んでいても不思議ではない。でも、まあ、この調子だとピンピンして生きてるだろうけど。

ブエノスアイレスでの最終選考を前にして、テレビやラジオは昨日から煽りに煽っていて、とくに夜に入ってからなんかは、「他に、何かいい番組ないの?」と言いたくなるほど、ニュース・ショーが東京誘致の煽り合戦と化していた。

「明日になって、結論が出てから知らせてくれるだけでいいよ」と思ったが、とにかく、煽る煽る。普段はテレビなんか見ない私だが、昨夜は妻の父が泊まりに来ていて、テレビを見物しているものだから、私も呆れながらそばで見ていた。

台風情報とかなら、刻々と進路をレポートしてくれることに意味があるが、自分たちではどうしようもないことに関して、刻一刻と現地レポートなんか入れられても、うるさいだけである。専門家面した出演者が「誘致に成功するためには、最終プレゼンで、こういうところに気を付ければいい」なんて言ってるが、そんなことは事前に関係者に言ってくれ。

で、私としては、マスコミがこれほど煽りに煽ってるんだから、「相当に勝算ありなんだな」と読んでいた。前夜までこんなに煽って、夜が明けてから「やっぱりダメでした」 では洒落にならない。「8割方、大丈夫」 との確かな裏情報があったから、安心してあんなに盛り上げたのだろう。だって、この前に失敗した時は、こんな露骨な煽り方をしなかったもの。

で、東京開催決定直後の早朝のニュース・ショーは、あちこちでのバカ騒ぎの中継オンパレードだ。テレビだけ見ていたら、日本中で大騒ぎしているような錯覚にとらわれるが、実際は渋谷駅前なんかを除いたら、静かなものだった。日曜の朝だし、みんな寝坊したいさ。結果は起きてからゆっくり聞いても、ちっとも遅くない。なにしろ、本番は 7年後だ。

実は私は今日、なんと夜明け前の 4時半から車を走らせて用足しをしていたのだが、大騒ぎしているのはカーラジオの中継だけで、どの街を走っても人は静かに寝静まっていた。目が覚めてからニュースを聞いても、フツーのオッサン、オバサンたちは「あっそう、よかったね」程度のクールな反応がほとんどだった。

ちなみに私としては、前回の招致活動にはまったく批判的だった。5年前の「石原慎太郎は、これで終わりということで 」という記事には、「北京の後の後に、またしても東アジアでの開催なんて、難しいに決まってるじゃん。そんなことに無駄金使って、どうしようというのだ」 と書いている。

うがった見方をすれば、オリンピック招致には今や複数回立候補が必要で、前回は単なる「ご挨拶」程度のもので今回は「本気」というような事情もあったのだろう。金の使い方もずいぶん違っていたのだろうし。

というわけで、今回は「北京の後の後の後」ということでもあるし、「そんなにやりたいなら、まあ、どうぞ」と思っていた。ただ、安倍首相始め、お偉方は「誘致成功は、日本人が心を一つにしたおかげ」と言っていたけど、「この程度で 『心を一つにした』なんて言われてもなあ」と、面映ゆい気がする。

私としてはその「ココロを一つにした」中に参加したつもりは全然ないしね。

まあ、マスコミもこれから少しはネガティブな意見もポツポツ採り上げて、わざとらしく多少のバランスを取ろうとするだろうが、いずれにしても、お祭りはあった方が新聞も売れるしテレビの視聴率も上がるから、基本的にはオリンピック礼賛が続くだろう。うんざりである。

個人的には、最も多感だった 12歳で、前の東京オリンピックを夢中で見ちゃったから、「既にお腹一杯」 みたいな感覚があるんだよね。しかも、最初に書いたように、2020年には古稀直前のすれっからしじじいになってもいるので、今さらはしゃぐ気にもなれないのだよ。悪いけど。

 

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2013年9月 7日

日本の人混みが苦手

私は人混みが苦手である。ラッシュアワーの新宿駅とか、人気ブランドのセールとか、休日の原宿竹下通りとか、花火大会とか、とにかく人と体をすり合わせなければ移動できないような空間には、恐れをなしてしまう。

ところがこれが、外国に行くと違うのである。結構な人混みにでも平気で入っていける。自分でもそれが不思議だったが、若い頃は外国旅行をしている間は気持ちがハイになっているので、いつもの感覚とは違うのだと解釈していた。

しかし、気持ちがハイになっているばかりではないのではないかということに、だんだん気付いてきた。それは多分「パーソナル・エリア」 の問題なのだろうと思うに至ったのである。

パーソナル・エリアとは、心理学の概念的空間で、それ以上近づかれると圧迫感を感じてしまうという、自分の「縄張り」みたいな感覚空間だ。それが私は、他の日本人より広いらしいのである。一つには、私がかなり大柄の日本人であるということもあるかもしれない。とにかく他の日本人なら平気で入り込む隙間に、もぐり込む勇気がないのだ。

これについては、4年前に "「謝るツボ」と「パーソナルエリア」" という記事でも触れているが、私は人混みの狭い隙間に平気で突進して、人とぶつかっても謝りもしない日本人の態度に、同じ日本人ながらかなりの違和感を覚えている。私には到底できない芸当だ。

これも多分、私の体が大きいからだと思う。狭い隙間に突進なんかしたら周りの人を突き飛ばしてしまうので、危なくてできない。

ところが、外国に行くとそれができてしまうというのは、一つには、欧米のパーソナル・エリアが、日本よりかなり広いということがあると思う。欧米では、例えばエレベーターが混んできてもさらに乗り込んでぎゅうぎゅう詰めにしようとすることは、あまりない。ちょっと余裕があるぐらいの状態でも、遠慮して次を待とうとする。

これが日本だと、「ブーって鳴ったら、最後に乗った人が降りればいい」 みたいな感覚で、遠慮も何もなく、押しくらまんじゅう的な状態になっても構わず乗ってこようとする。体の大きな私なんか、ものすごく居心地悪くなってしまう。

欧米人は一般に、恋人同士や夫婦、家族などの親しい者同士ならかなりベタベタするが、他人とは無闇に接触したがらない。これは、たとえ夫婦でもあまりベタベタしないのに、混んだところでなら他人とでも平気で体を接触させる日本人とは対照的である。

そんなわけで、欧米の人混みは日本の人混みほどの押しくらまんじゅう状態にはならず、恐れをなすに当たらないのである。だから日本では人混み嫌いの私でも、向こうに行ってしまうと、案外平気でいられるのだ。

一方、アジアではちょっと様子が違う。私は実は、アジアでは日本以外に香港しか知らないのだが、あの日本以上にものすごい香港の人混みでも、日本よりはかなり歩きやすい。それは彼の地の人たちの身のこなしが上手だからである。

上述の記事に、ヒロさんという方が「香港人は、ぎりぎりまで避けないで、最後の最後で避ける傾向があります」とコメントしてくれている。お互いにぎりぎりのところでひょいと体を回転させて、肩がぶつかるのを避ける。これがとても自然な動作になっている。

それに慣れない日本人は、「香港人はぶつかりそうになってもよけない」と感じるが、それは日本人の方で、ぎりぎりのところでお互いにひょいと身をかわす振舞いに慣れていないだけのことだ。

そんなわけで、日本人は香港の人混みの中でぶつかりまくってしまう。香港人が身に付いた習慣で、「相手も少し身をかわすだろう」との想定の上で必要最小限の避け方をすると、日本人はそれに対応できず、結果的にぶつかってしまうのである。

私は幸いなことに合気道の黒帯をもっているので、ぎりぎりのところで身をかわす動作が得意というか、香港人以上に身に付いている。だから香港の人混みは全然怖れずに済む。普通に身をかわせばいい。

ところが日本の人混みでは、お互いに必要最小限の身のかわし方をするという習慣がない。それでこちらは、瞬間的に合気道でいうところの 「入り身」(相手の後ろ三角の位置)に入らざるを得ない。そうしないと平気でぶつかられるか、「お見合い状態」になってしまう。日本人はぶつかっても謝らないから不愉快だし。

それで私なんか娘に 「お父さん、その忍者みたいな動き、何とかならないの?」なんて言われてしまうのだが、なにぶん、身に付きすぎてしまって条件反射で出てしまうので、しょうがない。

というわけで、私は今でも日本の人混みがとても苦手なのである。

 

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2013年9月 6日

Tシャツのロゴ、酷いのは和訳じゃなくて、元の英文なのだが

はてなブックマークに "【悲報】「英字Tシャツ」 の和訳が酷すぎる件" というのがあり、今イチ意味不明なのでリンク先に行ってみると、なんのことはない、素っ頓狂な英語がプリントされた Tシャツ画像を集めたものに、2ch 風のコメントがずらりとついているだけのものだった。もしかして、元は 2ch のスレなのかな?

で、「今イチ意味不明」と思ったのは、このタイトルを読む限りは、初めは「和訳が下手」という意味に受け取りかけたのである。しかし実際はそういうわけではなく、要するに元々の英語がひどいのであって、画像に添付された和訳は、むしろ上手な方だ。

私は「なるほど、そうであったか」と納得した。この類の Tシャツを着て歩く人たちにとっては、ひどいのはあくまでも「和訳」であって、和訳さえしなければ、それは単に、アルファベットがかっこよさげに並んでいるデザインなのである。「和訳が酷すぎる」というタイトルには、そうしたメンタリティが如実に反映されている。

まあ、そんなことは初めからわかってたことだけど、今さらながら、ものすごくはっきりと確認されたような気がするのである。和訳なんていう余計なことをして、せっかくのデザインをぶちこわしちゃいけないのだ。でもなあ、英語で書いてあると、ついそのまま読んでしまう人間もいるのである。和訳してみて初めて酷くなるというわけじゃないのだよね。

ちなみにこのスレについたコメントを眺めていると、外国人の女の子が "日本語話せません I don't speak Japanese." とプリントされた Tシャツを着ている画像に、「i dont speak~ だと、日本語では話したくない の意味にならんか? cannotなら話せないだが」(原文ママ)なんていうレスが付いていて、たまげた。

もちろん、ならんよ。ネイティブの英語に和英辞書的発想でイチャモンをつけるとは、なかなかいい度胸だが、まあ、大体がこの程度だから数々の素っ頓狂英語が出現するんだろうね。

さらに読み進むと、ようやく 62番目に「和訳が酷いのではなく元の文が酷いんだろ」という、まともなコメントが見つかって、少し救われた思いがしたのである。世の中、ギリギリのところで、まんざら捨てたものじゃない。

 

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2013年9月 5日

本宅サイト 「キリ番プレゼント」 のお知らせ

私の本宅サイト 『知のヴァーリトゥード』 への通算アクセスが、100万件間近になっている。この大台のキリ番で和歌のプレゼントをすると、大分前から予告している(参照)ので、そろそろこちらでもきちんとお知らせさせていただこうと思う。

本宅サイトへのアクセスがちょうど 100万件めとなった人には、和歌を捧げさせていただくので、本名は名乗らずともハンドルで OK なので、お知らせ頂きたい。前回の 70万件ヒットでは、誰も知らせてこなくて店ざらしになっているので、常連諸氏には、よろしければ、今回はしっかりと狙って、キリ番ゲットしていただきたいと思うのである。

『知のヴァーリトゥード』 がスタートしたのは約 11年半前で、その頃はブログなんてものはこの世に存在しなかったから、メインサイトの中でコラムを毎日更新していた。それで、最盛期には 1日に 500件以上のアクセスを集めていたが、コラムの更新をブログに移行してからは、直接ブログに来る人が多くなって、最近では 200件内外に減ってきている。

一方、このブログの右肩にあるアクセス・カウンターをみると、土日・祝日は減ってしまうが、平日は大体 2,000件内外のアクセスを集めている。ただこれは、PC サイトへのアクセスだけを反映していて、スマホ版や RSS フィードでのアクセスはカウントされないから、実際のアクセスよりずっと低く表示されている。

ココログ版のアクセス解析をのぞいてみると、最近ではスマホ版も含めて、1日に 3,000件以上となっているようで、RSS を含めればもっと多いだろう。このブログは、今どき珍しく、実際より 30%以上も控えめな表示をして、誇大表示の逆を行っているわけだ。

だから、今は通算 360万件なにがしの表示になっているが、本当は 400万件をとっくに越えているはずだ。ただ、別に数をひけらかすためにブログをやっているわけじゃないし、アクセス・カウンターをアップデートするのも面倒なので、ずっとそのままでやっている。

それよりも複雑な気持ちにさせられるのは、本宅サイトへの 1日あたりのアクセスがブログの 15分の 1以下になってしまっているということだ。というわけで、たまには本宅サイトへのアクセスを増やしてみるために、こうしてことさらにキリ番プレゼントのお知らせをしているわけなのである。

なお、「キリ番プレゼント」というのも、最近は流行らなくなってきているようでもあるし、正直言って運用がめんどうなので、今回の 100万件を最後にさせていただくことにしたいので、よろしく。

 

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2013年9月 4日

「この世」 と 「あの世」

心と遺伝子研究会を主宰する筑波大名誉教授の村上和雄先生は、「死後の世界、『あの世』があるかどうかは、50%の確率」という。それは「あるか、ないか」のどちらかだからだ。そして、「ないと思って、この世で好き放題やるのもいいが、もしかして、意に反して『あの世』があったりしたら、死んでからエラいことになる」とおっしゃる。

科学者だけに、非常に論理的な筋の展開である。「あの世」は、あるともないとも、客観的には証明されていないから、死んでから「あの世」に行ってしまう可能性というのはあるわけで、その確率は 50%というのだから、もし「あの世 に行くことになってもあまり困らないように、「この世」できちんと準備をしておくにこしたことがない。

もし、「あの世」というものがなかったとしても、「この世」であまり悪因縁を積まないような、というか、むしろ善業を積むような生き方をしていれば、嫌なストレスにさらされることもなく、生きている間にも幸せな心持ちで暮らせる。

そして、その善業は子孫のためにもなる。お世話になった人の子や孫だもの、周囲の人たちから、きっとよくしてもらえるだろう。「情けは人のためならず」である。下世話な言い方をすれば、「あの世」があると思って、それなりの生き方をすることは、どちらに転んでも決して損にはならない。

問題は、どうしてみんなそう思わないのだろうかということである。とくに損得勘定にこだわる人の中に、「死んでしまえばそれっきりよ」とばかりに、生きている間に思いっきりあこぎなことをしたがる人が多いのが、私は不思議である。そんな生き方をしたら、大変なストレスだろうに。

下世話な損得勘定からいっても、結局のところは、「あの世はある」と思っている方がいいのである。

 

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2013年9月 3日

昨日の竜巻雲

昨日の昼過ぎ、我が家から北の空を見ると、巨大で真っ黒な雷雲が湧き上がっていた。我が家の真上の空はギラギラするほどの青空だが、北西から北にかけては真っ黒で、まさに天を二分していた。こんなすごい雲を見るのは初めてで、正直、ちょっとドキドキした。

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巨大で真っ黒な雷雲からは不気味な雷鳴が聞こえ、ゆっくりと我が家の方に移動してくるように見えた。私はゲリラ豪雨を覚悟して家に引っ込み、仕事に没頭していた。雷が激しくなったら、PC の AC電源 を切って安全を確保しようと思っていた。

ところが夕方近くになって空を見上げると、あの真っ黒な巨大雷雲はあらかた消滅している。我が家に近づくまでに、急速にエネルギーを使い切ってしまったらしい。私は安心して仕事に戻った。

昨日はそのまま仕事に没頭していたために、ニュースを見逃していた。ところが今朝の朝刊を見ると、埼玉方面で大きな竜巻被害があったと報じている。時間帯からしても方角からしても、あの真っ黒な巨大雷雲は、どうやらこの竜巻を引き起した雲(スーパーセル)であったらしい。道理でものすごい雲だった。

越谷市で発生し、野田市に向かって移動していたので、こちらに近づきつつあるように見えたのだろう。そして野田市でエネルギーを使い切って消滅したのだ。そんなわけで、我が家は少しも被害がなかったが、埼玉と千葉県内ではけが人や建物損傷という被害が出たらしい。お見舞い申し上げる。

それにしても、天気の極端化は近頃ますます進行している。このまま行ったら、竜巻、猛暑、ゲリラ豪雨、豪雪、台風などの極端な気象の被害が日常化するだろう。ぐずぐず言っていないで、CO2 削減を最重要課題にして取り組まなければ、地球は大変なことになる。

 

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2013年9月 2日

「よくわからんもの」 はおもしろい

ちょっと古典的過ぎる、あるいは前衛的な芸術とか、難解な科学理論とか、まあ、日常生活ではそんなものわからなくてもちっとも困らないというような分野のものを、「わからん!」という一言のもとに遠ざけたがる人とは、一緒に親しく酒を飲み交わそうという気になれない。

どうせ話題はどうでもいい世間話や、仕事の愚痴、短絡的な政治談義、病気自慢、私が興味のない野球やゴルフの話になるに決まっていて、死ぬほど退屈になる。逆に「よくわからんものが好き」という人なら、ちゃんと楽しい話題で話ができる。

雅楽にはまれる人、グレゴリオ聖歌で退屈しない人、歌舞伎を「日常」として受け入れられる人、現代詩をじっくり読み進められる人、前衛ジャズで気持ちよくなれる人、抽象画をみて「わからん」と言い捨てる発想がない人、ポストモダニズム哲学に「洒落」を感じられる人、相対性理論や量子力学にロマンを見いだす人……等々、すべて気が合う。

ものごとを表面的な数字で表すとわかったつもりになる人、右か左かで割り切れることしか理解できない人、「役に立つ」ことにしか価値を見い出せない人、歴史は一つだと思っている人、お金はあればあるほどいいと思っている人、馬鹿より利口の方がいいと本気で思っている人……等々、こちらは苦手だ。

で、どうも世の中には、私の苦手な人の方が多くて、本当に気の合う人は少数派のようなのである。「よくわからないこと」で盛り上がれる人は、本当に少ない。それをわかった上で、私も還暦を過ぎたので、苦手な人に無理に合わせて世渡りをする段階からは、そろそろ卒業しようと思い始めた。

前衛芸術を簡単に「わからん!」と言い捨てる人は、実はクラシックなものだって全然わかっていない。「わからん!」と言いやすいものに平気で「わからん!」と言うだけで、 「わからん!」と言いにくいものは、権威に寄り添ってわかった振りをしているか、わかったような気になっているかのどちらかである。

問題は、「わかる/わからない」ではなく、「おもしろがれるかどうか」である。実は、世の中の多くの「おもしろいもの」は、「よくわからん」から「おもしろい」のである。それを「わからん!」の一言で遠ざけておもしろがらないのは、実にもったいないことだ。

 

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2013年9月 1日

テレビドラマを巡る冒険

私はテレビドラマというものをほとんど見ない人である。今話題の『あまちゃん』にしても、ちらちらっとしか見たことがないし、大河ドラマも全然見ない。民放のドラマなんて、どんなのをやってるかも知らない。

で、最近、車を運転しながら TBS ラジオを聞いていると、やたらと「はんざわなおき」というのが聞こえてくる。初めは漫画家の浦沢直樹と区別がつかなかった。彼が『なんとか倍返し』とでもいう漫画を連載し始めたのかと思っていた。

で、どうも漫画の話でもなさそうなので調べてみると、TBS テレビでやってるドラマなんだという。道理で TBS ラジオがずいぶん押してるわけだ。キャストをみると、まず主役の名前は知っているが、顔と一致しない。片岡愛之助の名前があるのには、ちょっと驚いたが、ほかはあんまりよくわからない。

私がテレビドラマというものを見なくなったのは、いつ頃からなのだろうと考えたが、大学に入って一人暮らしを始め、テレビのない生活を 4年間続けたことが、決定的な境目になったのだと気付いた。1970年代初頭は、一人暮らしの学生でテレビと冷蔵庫と電話をもっているなんて、よほどのお坊っちゃまだった。

それまでは結構みていたような気がするが、それでも記憶に残っているのは NHK の大河ドラマ『赤穂浪士』、連続ドラマの『事件記者』、バラエティ・ドラマの『若い季節』、洋物の『逃亡者』ぐらいのものだ。すべてテレビドラマの古典中の古典である。あ、そうそう、『ツィン・ピークス』にははまってしまい、レンタル・ビデオですべて見たなあ。

それ以外では、あまり印象に残っているドラマはない。トレンディ・ドラマなんて、どれがどれだか、さっぱりわからない。とりあえず、気を入れて見続ければ多少ははまってしまうドラマもあるんだろうが、そもそも、テレビは格闘技とサッカーしか見ないので、はまるチャンスがない。

というわけで、しばらくはテレビドラマにははまらない人であり続けてしまいそうだ。『半沢直樹』は、結局よくわからないままである。

 

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