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2013年10月に作成された投稿

2013年10月31日

「ダサソー」 って、自虐ギャグかと思った

韓国の格安雑貨店の「ダサソー」という商標が、日本の 100均の「ダイソー」と紛らわしいと訴えられていた件で、ソウルの地裁が「問題なし」との判決を出したという。このニュースを聞いて、多くの日本人と同様だと思うのだが、私も「ダッサぁ!」と笑ってしまったよ。

ニュースによると、訴えたのは日本のダイソー本社(株式会社大創産業)ではなく、韓国における「ダイソー (DAISO)」の商標権者だという。せっかく日本の大手 100均の商標ライセンスを手にしたのに、似たような名前の店舗をがんがん展開されてはかなわんと思ったのだろう。

ちなみに「ダイソー」は韓国語の「全部ある(ダ イッソ)」と聞こえるのだそうだ。それに対して「ダサソー」は、韓国語の「全部買って下さい(ダ サセヨ)」を意味する慶尚道方言の「ダ サッソ」に近いという(参照)。つまり、聴覚的印象も意味も全然違うから問題ないというわけである。

これを日本に当てはめれば、「コストコ」の向こうを張って「コートコ」なんていう店を作り、「これは関西弁で『買っておこう』という意味だから、パクリじゃない」と言い張るようなものだろう。もしかしたら、これ、大阪の裏通りにならあるかもしれない。

話を元に戻すと、韓国の「ダイソー」商標権者は当然ながら判決に納得がいかず、控訴する方針なんだそうだ。しかしいくら控訴しても、韓国は国を挙げての反日だから、この判決は覆らないだろう。そしてどうせ覆らないんだったら、そのままダサいギャグの典型としてほっとけばいいと、日本人なら誰もが思うだろう。

「日本語で『ダサソー』というと、『カッコ悪そう』という意味で、日本人には『ダイソーの悪趣味バージョン』という自虐ギャグ以外の何物にも聞こえず、『ダサすぎ!』と、物笑いの種になっている」という情報は、韓国では既に流れているだろうか。

それにしても、よりによって「ダサソー」とはね。メンツにこだわる韓国人が、こともあろうに日本人の物笑いの種になってしまうことにどこまで耐えられか、ウォッチしておきたい。

 

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2013年10月30日

黄海にまで「西海」表示を求め始めた韓国

昨年春の "ならば、太平洋に「東海」と併記せよ" という記事で、「日本海の呼称を『東海』に変えろ」と主張している韓国について、"「黄海は『西海』だ」と主張しないというのは、なかなかおもしろいメンタリティである。案外そのうち言い出すかもしれないが" と書いたが、なんと、ジョークで書いたつもりのことが、本当になってしまったようなのである

Record China の "韓国、中国にも日本海の表記変更を求める=黄海にまで「西海」の表記を要求 ― 中国メディア" という記事に、次のようにある。

韓国紙・仁川日報の 10月 21日付の記事によると、WHO(世界保健機関)発行の「2012年版世界マラリアレポート」で「韓国マラリア分布図」の地図に「Sea of Japan」との表記があることに対して韓国の与党議員が不快感を示し、さらに「朝鮮半島西側の黄海は『China Sea』(* ママ)から『西海』 に変更するべきだ」と主張している。

いやはや、ついに言い出してしまったようなのだね。もう向こう見ずというか、恐いものなしというか、すごい勢いだ。

いうまでもなく、自国の東にある海を「東海」、西にある海を「西海」と呼ぶのはローカル・ルールであって、国際的呼称としてはそぐわない。それを言いだしたら、「世界の中心は我が国である」と言うようなものである。そして、私の昨年春の記事のように、「太平洋に『東海』と併記しろ」という無茶だって通ることになる。

何しろ、我が国でも江戸の昔から太平洋に沿った街道を「東海道」と呼び、関東から関西に続く海沿いを「東海地方」と呼び習わしてきたという、れっきとした実績がある。それに、九州を「西海道」と呼んできたのだから、「東シナ海は『西海』だ」 とだって言える。それをしないのは、国際的な慎みというものである。

ここまで書いて、最近の韓国人は漢字を理解しないので、「동해(トンヘ = 「東海」 のハングル読み)」というのが、それほどエゴイスティックな呼称だということに気づいていないのかもしれないと思い当たった。ただ仮にそうだとしても、常識に欠けるのは言うまでもない。

最近の韓国の無茶なもの言いには、正直なところ、付き合いきれない気がしている。

【付記】

本文中の Record China 記事の日本語訳で、「黄海」が "China Sea" となっているが、引用なのでそのまま表記した。黄海は "the Yellow Sea" のはずで、普通は "the China Sea" と言ったら、東シナ海 (the East China Sea) と南シナ海 (the East China Sea)  を指す。

ついでに書くが、「東シナ海」と「南シナ海」の呼称は問題ありとして、それぞれ 「東中国海」「南中国海」と言うべきだと主張する人がいるが、英語の呼称を見れば、そんな議論はナンセンス(「チャイナ = シナ」 じゃん!)と気付くはず。

 

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2013年10月29日

阪神阪急ホテルズの件での違和感

阪神阪急ホテルズで提供された食品の「虚偽表示」が話題で、ずいぶんいきり立って責める論調が目立つが、正直言って、個人的には違和感一杯である。

ホテルというところは元々、どうでもない食材を使って高い金を取るところだし(そうでないリーズナブルなホテルもあるけど)、ましてやリッツなんて高級ホテルで食事をすることもないから、今回のニュースははっきり言って「他人事」である。虚偽表示のせいで体をこわした人もいないのだから、大したニュースじゃないと思っている。

ところが、世の中には表示通りの内容じゃないということで、ここぞとばかりに責め立てたがる人が多いのである。「スペック通りじゃない」というのは、まあ、言ってしまえば、一番責めやすいポイントなのだろうね。過去にも「カシミア 100%」と表示してあるのに羊毛との混紡だったとか、いろいろあったし。

スペックが違ったからといって、味や食感の違いを明らかに言い当てられる人も滅多におらず、言われるまで「ここの車海老はおいしいねぇ、さすがリッツ!」なんて言いながら食べてた人も多いはずなのだ。この程度のことなら、だまされ続ける方が幸せかもしれないではないか。

それに、ブラックタイガーというエビを車海老の代替として用いるのはかなり一般的な話で、はっきり言ってどこでもやってるみたいなのである。魚介類の世界では「代用魚」というのがその道の常識みたいな形であって、回転寿司ではそれを駆使しまくっている。

有名なところでは、ししゃもなんて本物はほとんど口に入らなくなっていて、その辺で「ししゃも」とか「子持ちししゃも」として供されるのは大抵、カペリンかキュウリウオという、ししゃもとはまったく別種の魚である。それでも、誰も文句を言わない。

だから、今回のニュースで、「やべぇ! ウチの車海老だってブラックタイガーじゃん。でも、みんなやってるはずなのに、今さら何で責められるの?」 と思いつつも、口を拭って知らんぷりしている業者は、日本中にくさるほどあるはずなのだ。

それから、「鮮魚」と称して「冷凍魚」を供していたというのも、私は個人的には、「へえ、冷凍魚って、鮮魚と言っちゃいけないのか。まあ、そう言われてみればそうなんだろうけどね」と、改めて思ったぐらいで、厳密に区別して考えたことは一度もなかった。

干物や練り物だったら、いくらなんでも「鮮魚」とはほど遠いが、冷凍じゃないけど新鮮でもない「鮮魚」だって、いくらでも食わされることだし。それに、あんまり面倒くさいことを言い出すと、「○×鮮魚店」という魚屋で、冷凍魚を売れなくなっちゃう。

「リッツみたいな高級ホテルで、虚偽表示をするのはけしからん」という人もいるが、じゃあ、大衆店なら嘘を言っていいのかということになって、あまり理屈が通らない。高かろうが安かろうが、虚偽表示がけしからんというなら、日本中でししゃもが食えなくなる。まあ、それでも「カペリン」を食ってりゃいいんだから、別にいいけど。

確かに今回の問題は、「日本固有の問題」と言ってもそれほど間違いじゃないのかもしれない。塩化ビニールのバッグに "LV" のモノグラムがついただけで、その辺の若いお姉ちゃんまで高い金を出して買いまくった国だから、ブランドとかスペックとかに弱いのだよね。

まあ、「カシミア  50% / 羊毛  50%」というファブリックを「カシミア 100%」と表示して販売し、それについて日本からクレームがつくと、「あなたが欲しいのは、ファッショナブルな生地なのか、それとも数字なのか、どっちなんだ?」と開き直るイタリア人もいて、それもちょっとどうかとは思うのだが。

 

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2013年10月28日

世界で最も使われている言語

「世界で最も多く話されている言語は何語か?」という質問に、「英語」と答える人が多いが、これは正解でもあり、間違いでもある。

WIP ジャパンの「世界の主要 20言語使用人口」というページによると、母語として最も多く話されているのは中国語で、約 10億人が使っている。それに対して英語を母語としているのは約 3億 5000万人にすぎない。かなりの差で、中国語の圧勝である。

上述のページによると、母国語としての上位 5言語は、中国語、英語に次いで、スペイン語(約 2億 5000万人)、ヒンディー語(約 2億人)、アラビア語(約 1億 5000万人) ということになる。以下、ベンガル語、ロシア語(いずれも約 1億 5000万人)、ポルトガル語(約 1億 3500万人)と続き、9位に日本語(1億 2000万人)が入る。

10位がドイツ語(約 1億人)で、フランス語(約 7000万人)はちょっと離されて 11位だ。イメージでは、フランスの植民地だったところが多いのでもっと行くかと思っていたが、意外なほど少ない。

見方を変えれば、フランスは自国語を捨てない文化力を持つところを植民地にして押さえ込もうとしてしまったので、第二次大戦後の独立の嵐で散々な目にあったのかもしれない。英連邦みたいな緩いつながりすら保持できなかったしね。

ヒンディー語というのはインドの公用語だが、インドの人口に比して少なすぎるように思われるかもしれない。しかしインドは多民族国家で、そこで話される言語も多様である。そのため、ヒンディー語、パンジャブ語 (約 7000万人)、ビハール語 (約 6500万人)、テルグ語、タミール語(いずれも 約 5500万人)、マラータ語(約 5000万人)と、インドで話される 6言語がベスト 20入りしている。これはすごい。

母語ではなく公用語としてみると、英語を公用語とする人口は約 14億人となり、世界で最も使われている言語ということになる。中国語は、母語人口も公用語人口も同じ 10億人なので、広がりとしては小さい。

さらに中国語は、文字としては漢字を使っているが、口語としては北京語、広東語、上海語の間で、ほとんど通じないという。中国という統一国家で使われている公用語だから、同じ「中国語」として政治的には捉えられているが、中国人自身さえ「別の言葉」という実感をもっているようだ。

もしかしたら分類の仕方によっては、インドのように別の言語として捉える方が妥当なのかも知れない。「同じ文字で表される別の言語」ということだ。そんなことを言ったら、日本語だって琉球語とは別だという見方すらある。まさに分類は魔物である。

事実上の「世界標準語」という視点からみれば、英語は、「話せる/通じる」という人口も含めれば、圧倒的な広がりを見せるはずだ。日本語と英語の他に、もう一つだけ勉強するとすれば、アジア重視なら中国語、西洋重視ならスペイン語というところだろうか。あるいはアラビア語というのも、かなりダークホース的な言語かもしれない。

私自身は、最近ブラジル人の知り合いが多くなったのでポルトガル語を覚えようとしているのだが、還暦を越してしまうと、日常の決まり文句すら覚えるそばから忘れてしまって、なかなかモノにできず、苦労している。

 

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2013年10月27日

謝り方と、その受け入れ方を知らない国同士だと……

昨日の "「とりあえず平身低頭」 の文化と、「謝りつつもしっかり弁明」の文化" という記事を読んで、「tak-shonai のことだから、この記事は落語のマクラみたいなもので、本当に言いたいことは翌日あたりに出てくるんじゃないか」と感じられた方もいらっしゃるのではないかと思う。

まあ、私としてもそんなようなことを思ってもらえるような、ちょっと気を持たせた書き方をしたので、本編が続いて出てくると予感された方には、「ピンポン! その通り!」と言わせて頂きたい。

まあ、何を言いたかったのかというと、昨今の日韓の軋轢は「謝りつつもしっかり弁明」という文化に馴染んでいない国同士だから、いつまでもゴタゴタが続いてしまうんじゃないかと、私としては感じているということなのだよね。

「ごめんね、済まなかったね」 と謝りはするものの、「とはいえ、あの時はいろいろあったし、一連の大きな流れの中でのできことだったということはそっちとしてもしっかり理解して、これから先は後腐れなしで行こうよね」という言い方が、日韓両国の間ではあまり意味をなさないみたいなのである。

どちらの国も一度「ごめんね」と言ってしまうと、「私がとことん悪うございました」ということになってしまって、一切の弁明が存在せず、「あとは煮るなり焼くなり、お好きなように」みたいになる空気がある。とくに韓国には、それが日本よりもなお色濃く存在するような感じなのだ。

「そっちが悪かったと認めるんなら、あとはその贖罪のために、とことん俺たちの言い分を飲むってわけだな」と言わんばかりの空気なのである。こんな中では、まともな話し合いなどできるわけがないし、一方で日本からあちらの国への「戦後補償」も際限なく膨らむ。

「先の大戦のことに関して、ドイツはきちんと謝ったのに、日本はあいまいにしたまま」みたいな批判をする人もあるが、ドイツにしても、「あれはナチスのやったこと」という基本的な前提におけるアポロジーをしたわけで、その上であればこそドイツはきちんと名誉回復し、後腐れなくやってこれたのだ。

そうした論理的な素地のないまま、日韓の間で単に情緒的な謝罪なんかした日には、危なくてしょうがない。アポロジーの受け入れ方にだって、常識ってものがあるのだが、その常識のないところで情緒だけで対応してしまうと、大人同士の関係にならず、その後の展開がものすごく極端に走ってしまう。

日韓両国間の不幸は、一つにはこのあたりにあるんじゃないかと思うのである。

 

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2013年10月26日

「とりあえず平身低頭」の文化と、「謝りつつもしっかり弁明」の文化

阪急阪神ホテルズ・グループでの食品虚偽表示が問題になっている。お偉方ががん首揃えて深々と頭を下げて詫びていたが、同じグループでも、リッツ・カールトンの方は外国人の総支配人がエラソーに「あれは『誤表示』であって、『偽装表示』ではない」と言い張っている。

このあたり、おもしろいなあと思う。日本人は「とりあえず頭を下げておけば、そのうち収まる」とばかりに、何度も練習してまで平身低頭するのだが、西洋人はそう易々とは全面降伏しない。日本人の感覚からすれば「往生際が悪い」と思われるまでの弁明を展開する。

これ、本当に「文化の違い」としか言いようがない。私は初めて仕事に就いた時、先輩に「失敗したら下手に言い訳せずに、ひたすら頭を下げて詫びろ。そうすれば許してもらえる」と教わった。私は「へえ、失敗にはそれなりの理由があるはずなのに、それすら言っちゃいけないのか」と驚いた憶えがある。

一方、西洋では何か失敗したら、できるだけの弁明をしたがるヤツが多い。「これは確かに失敗ではあるが、不可抗力的な側面が大きい」と、必死になって説明し、それが認められれば大きく咎められることはない。それどころか「失敗に学んだ強み」まで強調して、「次は絶対大丈夫」までもって行けることだってある。

日本ではとりあえず謝りまくれば「誠意を示した」なんてことになるが、西洋ではそうはならないのである。面白いのは、同じ日本人の失敗には、何がなんでも責め立てて土下座までさせたがるのに、西洋人の失敗には、何だかわからないうちに、いつの間にか弁明に付き合ってしまう日本人が多いということだ。

これって、どうみてもダブル・スタンダードだよね。

ただ言えるのは、日本人は弁明がどうしようもなく下手くそなのである。多くは感情的に卑屈になるか開き直るかのどちらかで、言い訳にならないようなどうでもいい繰り言をくどくど言うだけだから、相手はいずれにしても「カチン」と来る。

もっとも日本の風土では論理的な弁明をしようとしても拒まれる空気があるので、仕方ないと言えば仕方ない。最高の誠意を示す行為が「土下座」だというのだから、要するに八方ふさがりなのだ。

それに対して西洋人の "apology" はかなり堂々としているので、日本人はついそのペースに飲まれてしまい、いつもの感情論で責め立てるメソッドが成立しなくなってしまう。元はと言えば、論理で渡り合うより感情論でいきり立つ方が強く出られるという、妙な風土に馴染みすぎたことが問題なのだが。

和英辞書で「謝罪」を引くと "apology" という単語が出てくる。しかし和英辞書的にはその通りなのだが、"apology" は何が何でも平身低頭する謝り方ではなく、大抵の場合は、半分ぐらい「言い訳」が織り込まれている。

言い訳要素のまったくないアポロジーというのは、あまり聞いたことがない。謝りつつも、弁明はしっかりするのである。

その証拠に、英和辞書で "apology" を引き返すと、必ず「弁明、 弁護」という意味も併記されている。私は "apology" というのは、"regret"(遺憾の意)より少しは「とはいえごめんね要素」が強い程度のものだと思っている。

 

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2013年10月25日

「一票の格差」 をしっかりと政治に反映させればいいのに

「一票の格差」が久しぶりに問題になっている。昨年 12月の総選挙は、最大 2.43倍の格差があったらしい。複数の弁護士グループがこれを憲法違反として選挙無効を求めた訴訟で、最高裁は 11月 20日判決を出すのだそうだ。ふぅん、結構迅速対応してくれるようになったものだな。

一票の格差は、はっきり言って都会と田舎の差である。都会では一票の重みが軽視されがちで、田舎の一票は重い。これを不平等であるとして、最大でも 2倍以内に抑えろというのが、一般的な見解になっている。

しかし、2倍以内に抑えられたとしても、不平等は不平等である。これを「許容範囲」と見るのは、田舎優遇措置である。田舎は都会に比べて何かと不利なことが多いから、せめて選挙の時だけでも少しは有利にしてやろうということだ。

しかし選挙のたびに、都会の 2倍もの力を持たせてもらうという優遇措置を得ているにもかかわらず、田舎は過疎化する一方である。せっかくの「2倍の発言力」がまったく活かされていない。若年層はとにかく都会になびく。選挙では田舎の半分の力しか持たされないことになるのに。

これは、「一票の格差」というものを地方の人たち自身が、ちっともメリットと思っていないことを如実に物語る。メリットと思っていたら、田舎に留まる。田舎の人自身にも、メリットとは到底思われないから、田舎を捨てるのである。

現行の「一票の格差」の恩恵を被っているのは、田舎の中でも既得権をしっかり握る有力者だけである。だから、彼らは田舎を離れない。フツーのおっさんやおばさんには、実はあまり関係のない話だ。昔なら越後の「角さん」みたいな人が道路やトンネルや鉄道をどんどん造ってくれたが、今はそんなことも大して期待できない。

で、田舎の既得権をしっかり握るのは、概して「守旧派」である。言い方を変えれば、この人たちが既得権を手放さないから、せっかく選挙のたびに都会の 2倍のパワーを与えられるのに、田舎はちっともよくならないのである。

田舎もよくならないし、都会もよくならない。日本中よくならない。それでみんな不満を爆発させるのだ。いっそのこと、「一票の格差」を、実際の政治にきちんと反映させて、地方をもろに優遇すればいいのにと、思うことがある。そうすれば、都会への過度の人口集中も緩和されて、全体として住みやすい国になるだろうに。

 

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2013年10月24日

当ブログのアクセス数

ふと気付くと、"Today's Crack" のアクセス・カウンターが 376万を超えている。この分だと来年の節分頃までには、400万の大台を越えそうだ。もっとも前にも書いたように、ウチのブログのアクセス・カウンターには性能的限界があって、スマホ画面でのアクセスは拾わないから、実際より大分少なく表示される。本当は 400万ぐらいはとっくに越えているはずだ。

とはいえ、アクセスの多さを誇るためにブログをやっているわけではないので、アクセス・カウンターを取り替えたり調整したりする気はない。そんなことは死ぬほど面倒な気がするのである。

ところで、300万を越えたのはいつ頃だったかと、ちょっと記事のタイトルで検索をかけてみたが、見つからない。過去には 「Today's Crack" 100万ヒット間近」 (08/08/27) という記事で、「遅くても来月の 10日頃までには達成されるだろう」 と予告したり、「200万アクセスを越えてしまった」 (11/01/03)という報告記事を書いたりしている。

ところが、「300万アクセスを越えた」 というようなタイトルの記事は、書いた憶えがないのである。それでもう少し詳細に検索してみると、昨年 8月 26日の「あまりの暑さで屋根職人が落下」という記事の冒頭に、「ふと気付いたら、Today's Crack のアクセスがとっくに 300万を超えていた」と、案外素っ気なく書かれている。

100万の時には、達成する前から自分で盛り上がって予告記事を書き、200万の時には、「気付いたら越えていた」 という事実を、そのことをタイトルにした記事で事後報告している。ところが 300万の時には、記事の「マクラ」で触れただけで、タイトルにもなっていない。アクセス数の大台へのこだわりが、徐々に薄れていることを示しているようだ。

しかしながらそれぞれの大台の達成時期を記録することは、履歴データとして意味があるので、来年の 1月になるか 2月になるかはわからないが、400万アクセス達成の暁には、ちゃんと記事のタイトルにも明記して報告したいと思う。そうしないと、後で「400万アクセスに届いたの、いつだっけ?」 と思っても、検索しにくくなるから。

【11月 1日 追記】

本日、ココログの管理画面で確認したら、当ブログの累積アクセス数は、既に 450万を越えていて、これまでの Ninja 提供のアクセスカウンターとの開きがありすぎという状態にまで達していた。

それでちょっと面倒だったが、ココログのサーバがカウントしている数字をそのまま反映するように、ココログ純正のカウンターに取り替えた。

いきなりアクセス数が増えたように見えるが、実数を反映したものになったので、驚かれないようにしていただきたい。

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2013年10月23日

「ダブル台風」 の影響がありそうで

「ダブル台風」というのが近づいてきている。台風 27号と 28号だ。27号の方は先週の 26号ととてもよく似た進路をたどっているが、かなりのろい。28号と影響し合って、スピードが出ないらしい。

先週の 16日、私は出張で四国の香川県に行くことになっていたのだが、どうみても 当日の午前中は台風 26号の影響で飛行機が飛びそうにないので、急遽 1日早めて 15日に高松に飛んだ。翌日は羽田から西に行く便は軒並み欠航だったので、正しい判断だった。

実は今週も、26日に出雲に行く予定だった。今週初めの台風情報をみた限りでは、台風は 25日に関東をかすめて東に抜けそうだったから、26日の飛行機は飛ぶだろうと思われた。しかし見る間にスピードが鈍って、どうやら 26日に関東に最接近しそうなのである。

だったら、先週のように 1日早めようかとも思ったが、何しろ台風がのろのろしているので、前日だって飛ぶかどうかわからない。わからないが、とりあえず航空会社に問い合せてみると、いずれにしても、25日は既に満席なのだそうだ。

10月の出雲は神無月ではなく、日本中の神様が集まる「神在月」で、しかも出雲大社の 60年遷宮にあたっているので、チョー大混雑してるらしい。ホテルの予約もままならないほどだ。

そんなわけで、いっそのこと、26日は諦めて来月に延ばす方が確実というわけで、えいやっとばかりに予定を変更してしまったのである。来月になれば、神様もそれぞれの地元にお帰りだろうから、少しは空くだろう。

それにしても、今月は台風が多い。私のように日本中あちこちに出向かなければならない仕事をしている者にとっては、影響が大きい。せっかく苦労してアポ取りをして、飛行機や鉄道の便を手配しても、自分の力の及ばないところで無駄になってしまう。

これまでは、台風の影響で交通の便の心配をするなんていうのは、年に 1度あるかどうかだった。どうも地球のコンディションが変化しつつあるようなのである。温暖化に伴ってこの傾向が強まるとしたら、今後はどんどん大変なことになりそうだ。

 

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2013年10月22日

Windows 8 を限りなく XP に近づけるソフト

Internet Watch によると、「Windows 8.1/8の使い勝手を限りなく XP に近付ける」ソフトが、11月15日に発売されるのだそうだ(参照)。この "Back to XP for 8" という洒落た(というか、「まんま」 の)名前のソフトを展開するのは株式会社マグノリアという会社で、価格はパッケージ版が3,980円、ダウンロード版が2,980円。

私は、来年春の消費税アップの前に、Mac に乗り換えようとしているので、Windows 8 マシンを購入することはない。しかし今後も Windows ユーザーであり続けるというなら、新らしい PC を買うのと同時に、このソフトも買うだろう。多分。

それにしても、マイクロソフトがせっかく開発費をかけてバージョンアップしているのに、余計な金を払ってまで旧バージョン風の使い勝手に戻したがる人がいるというのは、完全にお笑いぐさである。

サプライヤーとしては、「せっかく進化させているのに、どうしてわざわざ退歩させるんだ?」と言いたいだろうが、ユーザーとしては「お前が余計なことをするから、こっちの負担が増えるんだ」ということになる。

このソフトの機能が、「ユーザー・インターフェイスを元に戻す」ということに集中しているということは、マイクロソフトの Windows 8/8.1 の「目に見える進化」のほとんどが、「ユーザー・インターフェイスを変えた」に尽きるということだ。もちろん、細かいことをいえばそれだけではないが、ユーザーの目から見れば、そういうことでしかない。

だからこそ、ユーザー・インターフェイスを元に戻しさえすれば、「前のように使いやすくなる」と思う心理が働いて、そうしたニーズが発生するわけだ。要するに、「余計なお世話」を返上したいということなのである。

せっかく Windows の「作法」に慣れたユーザーにしてみれば、理不尽なまでに「別の作法」を押しつけられているだけなのだから、これが不愉快でなくてなんだろう。何度も言っていることだが、これが車だったら、命がいくつあっても足りない。だったら、「別の作法を学ばなくて済ませる」ために 3,000円ぐらい余計な負担をするのは、十分に 「あり」 である。

ただ、XP を「使いこなす」までにいかないレベルでようやっと「使われ続けて」きて、ここに来て Windows 8 でさらに戸惑いまくっているライト・ユーザーのほとんどには、こんなにありがたいソフトが出るという情報が届かず、もし届いたとしても、それをどうすればいいのかもわからず、結局は死ぬまで戸惑い続けるということになるのだろう。

それを思うと、不憫である。まあ、彼らにしてみれば XP だろうが 8 だろうが、どうせまともには使いこなせなせずに、戸惑うということに関しては同じなのだから、いいか。

 

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2013年10月21日

地球上の都市が 「新たな気候」 に移る日

Wired に、"東京は2040年代:「極端な猛暑が日常になる日」の世界地図" という記事がある。現在の温暖化がこのまま続いた場合、世界の各都市において、「新たな気候」(過去数年の極端な猛暑が日常になる気候)が実感されるようになる時期を、ハワイ大学の研究者グループが推定したものだ。

それによると、「新たな気候」が最初に実感されるようになるのは熱帯地域で、インドネシア西パプア州の州都マノクワリでは、「2020年から、『通常』の気温と降雨から外れ始めたことが実感されるようになる」という。さらに 2029年までにインドネシアの首都ジャカルタ、ナイジェリアのラゴスで同様の現象に突入する。

Image:Mora et al, University of Hawaii

その後、こうした現象は赤道を中心に南北に広がり、ニューヨーク、サンフランシスコ、ローマ、東京、および北京などの中緯度地帯が「新たな気候」に移るのは 2040年代で、東京は 2041年だという。この年、私は 79歳になる。それまで生きながらえるとしても、ちっとも不思議じゃないのだから、他人事じゃない。

しかも、「新たな気候」になるのは、「ある日突然」というわけではないだろうから、これから正真正銘のじじいになるまで、多少の行きつ戻りつはあっても、「近頃、死にそうに暑いなあ」と言いながら生きることになるのだろう。

恐ろしいことに、温暖化ガスの排出が多少削減されたとしても、今世紀の終わりまでには、各都市が「異なる気候」に移行するという。ただ、変化適応に要する猶予期間が、平均で 20年間多く与えられるのだという。覚悟しておいた方がいい。

「新たな気候」を避けるには、温暖化ガスの「排出」を「少しばかり」削減するのではなく、大気中に存在する温暖化ガスの「総量」の減少に転じるために、CO2 排出をゼロ以下にしなければならない。「そんなの無理」と言って手をこまねいていては、状況は進むばかりだ。

実は、決して「無理」ではなく、技術的には可能な段階に来ている。あとはライフスタイルを変えていきつつ、新技術を本気で採用し、普及させていく覚悟があるかどうかである。その覚悟がなければ報いとして人類は滅びるか、少なくとも世界の総人口が激減して、今の文明は維持できなくなるという、非常に単純なストーリーである。

 

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2013年10月20日

"5 の間に 4 を書くには?" その2

「衆知を集める」ということについて、正直言うと、私はあまり意味を感じていなかった。プロジェクトというのはおしなべて、詳しいやつだけで少数精鋭でやる方がずっといいと思っていた。広く意見を求めすぎると、ろくなことにならない。みんなてんでに好き放題を言い始めて、まとまるものもまとまらなくなる。

しかし、昨日の 「5 の間に 4 を書くには?」という記事で、"F(IV)E" という回答を紹介した上で、自分ではどうにもまともな考えが浮かばないので、つい気軽に 「いいアイデアがあったら、コメント欄に書込んでいただきたい」とお願いしていた。すると、「なるほど!」と膝を打つようなアイデアが、早々と寄せられたのである。

おだまきむし さんのアイデアは、次のようなものである。

片手のひらを開いた絵を描いて、指の数で5を表し、
指と指との間で4を表すというのはどうでしょう?

 

13_3

なるほど、指は 5本だが、その指の間は 4つしかない。それで 「5 の間に 4」 である。ちょっとした頓知だ。座布団 3枚。

さらに、たかぶるる さんからのアイデアは、次のようなものだ。

「五」の字を180度回転させるっていうのはどうでしょう?

どれどれと、やってみた。

3

なるほど、見事に、五 の間に 4 が書かれている。これもまた素晴らしい。"F(IV)E" というアイデアにも決して劣らない。むしろこちらの方が美的ですらある。座布団 5枚の価値は十分にある。大したものだ。

これで私は、「衆知を集める」ということの意義を、生まれて初めて確認したのである。いやはや、衆知って素晴らしいではないか。おだまきむし さんと、たかぶるる さんに、讃嘆の拍手を!

 

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2013年10月19日

5 の間に 4 を書くには?

"I Am an Engineer to Change the World" という Facebook ページがあって、いつもいろいろな興味深い画像を紹介してくれている。このページのカバー写真がまた面白いので、紹介しておこう。

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こんなようなテキストが書かれた画像である。念のため、日本語訳を下に記す。


ニュートンが聞いた: 5 の間に 4 を書くには?

1) 薬学部の学生が言った: ご冗談を!

2) 理学部の学生が言った: 不可能です!

3) 経営学部の学生が言った; ネットで検索しても見つかりません。

4) 工学部の学生が言った: "F(IV)E"

これを見て、前頭葉に電気が灯ったね。急に、工学部の学生とは友達になれそうな気がしてきた。ただ、「文学部の学生が言った」という項目がないのが、ちょっと残念である。文学部ならきっと別の答えを見つけたの思うのである。で、私の答えを下に紹介する。

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うぅむ、これは苦し紛れなので、あまり面白くない。それに "between 5" というより "in 5" になってしまっているのも痛恨だ。それで、 "between 5" にしさえすりゃいいんだろうと、ほとんど開き直って単純素朴に考えたソリューションを下に示す。

Img_7207

これはもう、どちらかといえば力業で、「こういうことをすると無粋になる」というお手本。とても前頭葉に電気は灯るとは言えない。いいアイデアがあったら、コメント欄に書込んでいただきたい。画像の場合は、リンクでも OK。

【追記】

これには別バージョンがあることを発見した。(参照

内容は、同じ問いに対して、中国人が「冗談だろ?」と答え、以下、日本人が「不可能」、米国人が「設問が間違ってる」、パキスタン人が「バカな質問すると殺すぞ」、英国人が「ネットで見つからなかった」 と答える。そして最期にインド人が「そんなの簡単、"F(IV)E" さ」と答えることになっている。

 

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2013年10月18日

「アッラー」 という言葉

"イスラム教徒以外の「アッラー」使用禁じる マレーシア上訴裁" という記事に、かなり興味を引かれた。これは 4年前の高裁判決を破棄しての逆転判決で、これによりマレーシアでは、イスラム教以外の「神」を「アッラー」と呼ぶことができなくなったわけだ。

マレー語の「アッラー」はアラビア語からの「外来語」だという。元々のアラビア語では「アッラー」は「神」を表す普通名詞で、イスラム教固有の神に「アッラー」という名前が付けられているわけではない。「天照大神」とか「大国主命」とかいうような固有名詞ではないのだ。

それだけにカトリック系の新聞も当然のように、「神」を表す言葉として普通名詞である「アッラー」を使ってきたという経緯がある。英語なら「ゴッド」だが、マレーシアだから当然のごとく、アラビア語から入ってきた外来語とはいえ、マレー語として定着している「アッラー」を使ってきたわけだ。

ところがマレーシア上訴裁のモハメド・アパンディ・アリ裁判長は、「アッラー」という言葉が「キリスト教の信仰に不可欠なものではない。使用は社会の混乱を招く可能性がある」として、高裁の判決を覆してしまったというわけだ。

これは例えていえば、「神」というのは日本の神道固有の言葉だから、他の宗教、例えばキリスト教などで使うと混乱を生じる可能性がある。よって、「日本語訳の聖書の中で『神』という言葉を使っちゃダメ」と言っているようなものだ。(もっとも日本の神は八百万だから、それはあり得ないが)

「とはいえ、『アッラー』のイメージはイスラム教と不可分で、他の宗教で使うと違和感がある」という主張もあるだろう。しかし、あくまでも元々は一般名詞なのだから、使用が禁じられては、「じゃあ、ほかに何と呼べばいいのだ?」ということになる。もし日本語の聖書で「神」という言葉を使えなかったら、他に言い換え可能な言葉が見当たらない。

しかし、もしマレー語の「アッラー」が、日本の隠れキリシタンが「神」を表す言葉として使ってきた「デウス様」(デウスは、ポルトガル語で「神」を表す普通名詞)みたいなもので、元々のマレー語土着の言葉で「神」を表す言葉があるならば、問題は少ない。今後はそれを使えばいい。

もしそれがなくて、ずっと昔から「アッラー」という言葉を使ってきたのだとしたら、イスラム教以外の宗教では、本当に困ってしまうだろう。

 

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2013年10月17日

「讃岐富士」どころか、「讃岐七富士」にびっくり

せっかくの讃岐出張なので、今日は金比羅参りをしてきた。ちゃんと奥社まで昇ったので、1時間以上の時間を費やした。奥社までの石段は 1346段だという。出羽三山の羽黒山は 2446段で、段数はそれほどでもないが、羽黒山の石段よりも急なところが多い気がする。奥社まで行く体力的には、互角かもしれない。

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いかにも観光地で門前市をなすという感じの表参道を昇り、本社を越えると急に山道になる。「イノシシが出没するので注意」なんて書いてあるほどだ。奥社に着いて見下ろすと、昇り始める前には見上げていた飯野山(通称; 讃岐富士)が眼下に見える。

下から見上げていた時から、「本当に富士山そっくりのフォルムだけど、まさか人工の山じゃないだろうなあ」という、不思議な感じがしていた。帰ってからインターネットで調べると、決して人工的に造ったわけじゃなく、自然の造形とわかった(参照)。「へえ!」である。

驚いたのはそれだけではない。讃岐の国には「富士」と名の付く山が 7つもあるのだそうで、「讃岐七富士」と呼ばれているのだそうだ。Wikipedia で調べると、それぞれの写真付で説明されていて、みな確かに、富士山そっくりである(参照)。

いやはや、讃岐というところは、なかなか奥の深い不思議の国である。

 

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2013年10月16日

讃岐二日目で、さらにうどんに目覚める

讃岐の国、二日目。着いた昨日から、うどんばかり食っているが、まだ飽きない。今日は地元の人に、「山内うどん」といううどん屋さんに連れて行ってもらった。ここはあの有名な満濃池の近くで、結構な山の中。道に迷いそうな所に、ほとんど民家っぽい作りの店が現われる。

この店で、「ひやあつ」とか「あつあつ」という注文の仕方を知った。冷たいうどんに熱い汁の組み合わせが「ひやあつ」で、熱いうどんに熱い汁だと「あつあつ」なのだという。今日は「あつあつ」を頂いた。

これがまた、素晴らしいうどんで、讃岐うどんとしてはやや細めなのに、しっかりとコシがあり、いかにも手打ちというエッジの立ち方。また汁もしっかりとコクがあってうどんとよくからむ。これまで食っていた讃岐うどんが、讃岐うどんではなく「手抜きうどん」ではないかと思われてしまうような旨さである。うぅむ、本物はやっぱり違う。

惜しむらくは、店に入ったのが 2時前で、やや遅めの時間だったこともあり、天ぷらが終ってしまっていたこと。この店は天ぷらも絶品なんだそうだ。次は天ぷらを載せたうどんを食べたいと思う。

 

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2013年10月15日

讃岐の地を踏んだ

初めて讃岐の地を踏んだ。四国はこれまで、愛媛県、徳島県、高知県には何度か来たが、なぜか香川県だけは一度も来たことがなかったのである。そして当初の予定では明日の飛行機で発って、昼前に高松空港に降りることになっていたのだが、何しろこの台風で飛行機が飛ばないかもしれないので、予定を一日早めて、前泊することにしたのだ。

高松についてホテルに入り、ニュースを見ると案の定、明日の午前の羽田から高松への便はすべて欠航になるという。便の変更をして今日のうちに入っておいてよかった。そうでなかったら、イチから出直しになるところだった。

高松の市内を歩くと、うどんを食わせてくれる店が多い。さすがに「うどん県」というだけのことはある。既に、昼と夜の二食、うどんを食ってしまった。私は基本的には蕎麦食いだが、麺類全般好きなので、讃岐の地にいることは嬉しい。

さて、これで未踏の地は鳥取県だけになった。しかし、鳥取県というのは、なかなか用事のできない県なんだよなあ。まあ、死ぬまでに一度でいいから行ってみたいとは思うのだが。

 

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2013年10月14日

法事の帰郷と、台風を避けての旅立ちで、てんやわんや

父と母の法事で、昨夜酒田に帰り、法事を済ませてとんぼ返りして自宅に戻った。母の七回忌、父の三回忌が重なったので、まとめて一度でやってしまったのである。お寺の和尚さんも「一度にまとめてくれれば、こちらもありがたい」というので、そうさせていただいた。

その和尚さんが日取りを一日間違えて明日だと思いこんでいて、他の法要に行ってしまったので、今日の法事がぶっ飛んでしまいそうだったのだが、急遽飛んできてくれて、1時間ちょっと遅れて実施できた。やれやれ。

母の七回忌と父の三回忌が重なるというのは、案外あちこちで聞く。妻に先立たれた男は五年もたず、四年ぐらいで逝ってしまうことが多いというが、どうやら本当のようである。父は元気だったのでそんなことはないと思っていたが、一昨年の震災以来、がっくりと元気がなくなり、病が顕在化した。これは間接的な震災被害者と言えるかもしれない。

昨日、つくばの地を出発する時は、結構暑かった。ところが、みちのくの道を北上するにつれて涼しくなり、途中では涼しいどころか肌寒くなった。関東は夏だが、東北は十分に秋である。

晴れ男の常として、天気は上々だ。仕事が立て込んでいて、明日は四国に飛ばなければならない。本当は明後日に出発の予定だったが、台風で飛行機が飛べなくなる可能性が出てきたので、予定を早めることにした。というわけで、今夜は旅支度をしなければならないので、これにて失礼。

 

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2013年10月13日

WOWOW オンデマンドはありがたい

WOWOW オンデマンド」 というのを使い始めた。このサービスは今年 7月初めから開始されたもので、開始当初から意識はしていて、iPhone にも iPad にもアプリはしっかりインストールしていたのだが、登録するのをつい忘れていて、使い始めたのは今月に入ってからである。

私はテレビはあまり見ないのだが、サッカーと格闘技だけはしっかりと見る。そのほかに、音楽ライブと映画も時々見るので、トータルのテレビ視聴時間はやたら短いのに、WOWOW にはかなりお世話になっているのだ。

ところが、サッカーと格闘技のライブは、欧米の時間に合わせて配信されることがほとんどなので、つい見逃してしまう。私はビデオの録画予約が苦手で、時々は成功するが失敗することもやたら多いので、大事な試合を見逃してしまうことも度々なのだ。

家族には、「まったくもう、お父さんはパソコンが上手なくせに、どうして録画予約ぐらいできないの?」と言われるのだが、どうもテレビのシステムというのは、性に合わないというか、時間をかけて理解してみるだけの価値を感じないというか、操作をちゃんと覚えようという気になれないのである。

ところが、WOWOW オンデマンドのおかげで、録画予約にイライラする必要がなくなった。大事なサッカーや格闘技の試合を見逃しても、後からストリーミングで配信される番組を見ることができる。しかも、WOWOW 加入者ならば、無料で見ることができるというのだから、なかなかありがたい太っ腹である。

放送の画質は、Wifi 接続の iPad で見る分には十分にきれいで、不満な点はない。それどころか、格闘技の余計な 「あおり」 の部分は飛ばして見ることができるので、時間も節約できる。今や BS 放送も、実際の放送時間にとらわれずに、個人的に見るという時代になったようだ。

 

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2013年10月12日

メイン・ブラウザを Safari にしようかなあ

Chrome をメイン・ブラウザーとしてからずいぶん経ったような気がしていたが、ふと思い立って自分のブログを検索してみたら、まだ 1年半しか経っていないのだった(参照)。それまでは Firefox を使っていたのだが、あまりの重さに音を上げてしまい、軽い Chrome に乗り換えたのだった。

とはいえ、Firefox だって当初は軽かったのだ。約 9年前の「Firefox を使い始めた」という記事では、その前にずっと使い続けていた Netscape(ネスケ)と比較すると、起動が早くなって動作も軽快と、かなり満足している。Firefox もバージョンアップを重ねるうちにこんなに重くなるとは、よもや思っていなかった。

ただ、Chrome に乗り換えてからも、ココログの記事編集だけはずっと Firefox を使い続けてきた。というのは、 Chrome だとココログの編集画面でリッチテキスト・モードにならないのである。HTML タブがすべて表示されてしまい、書いている自分でも読みにくい。アドインの IE タブを使って IE 的に表示してはみたが、やはり完全というわけではない。

Chrome も途中から、ココログ編集でリッチテキスト・モードの表示が可能にはなったものの、画像挿入の対応が不十分で使い物にならなかった。このあたりは、IE タブでも不完全というのと同様の感覚だったのである。

ところが、昨日試しに Chrome でココログ管理画面を開いてみたら、問題がほとんど解消されて、Firefox 同様に動作する。いや、Firefox よりも軽く動く。これなら、Firefox を立ち上げるなんて、メモリを無駄に消費するだけだから、馬鹿馬鹿しい。これからは、全部 Chrome で行くことにした。

試しついでに、Safari も立ち上げてココログ管理画面を開いてみたら、Chrome 同様に問題なく動作しているではないか。おお、これならこっちをメイン・ブラウザにしてもいいぐらいだ。いや、近々 PC も Mac に乗り換える予定なのだから、今のうちから Safari に慣れておくのもいいかもしれない。既に iPhone と iPad ではお馴染みなのだし。

そんなわけで、今後は徐々に Safari に乗り換えていくことにしたいと思う。ああ、体にどんどんリンゴのエキスが染み込んでくる。

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2013年10月11日

いつも同じものを食ってしまう私

emi さんがマイ弁当をもたない理由というのを書いておられる(参照)。それは「だってその時々で食べたいものって変わるじゃん」ということなのだそうだ。その時々で、さっと選べるようにいくつかのチョイスが用意されてあって、「今日はこれかな」という「気分」で選べるようになっているというのである。さらにこんな風に書かれている。

食べるものが固定して変わらなかったり、
前々から食べるものが決まっているのがイヤなのだ。
予定調和、ヤラセみたいで恥ずかしい。

で、マイ弁当を作ってしまうと、当然ながら「前々から食べるものが決まっている」という状態になる。それがつまらないという。

うぅむ、emi さんとはいろいろな話題で共感できる部分が多いと感じていたが、食べ物に関しては、私とは正反対のようなのだ。というのは、私は基本的に「いつものヤツ派」なのである。

私は勤め人をしていた頃から、昼食を食べる店は決まり切っていた。私が一番長く勤め人生活を送ったのは、東京の小伝馬町から神田岩本町付近なので、昼食はいつも「そば七」という蕎麦屋だった。小伝馬町と岩本町に店があったのである。

そして選ぶのはいつも同じ「鴨せいろ」である。そば七という店は、おいしい蕎麦屋にしては珍しいほどいろいろなメニューがあったが、その中で一番おいしいのは鴨せいろなのだから、それ以外の選択肢はない。自動的に鴨せいろを注文する。

そば以外でも、私の選択は限られている。リーズナブルな値段で、時間をかけずにさっと食べられて、店内が窮屈じゃなくて(私は体が大きいので、窮屈な店は避けたいのだ)、煙草の煙が漂わない店というのは、そんなに多くない。

蕎麦屋以外の店で食事をする場合でも、私の選択肢は広くない。まず私は牛肉はなるべく食べたくないので、フツーのレストランで出されるメニューの中の、3割ぐらい(ステーキとか、ハンバーグとか)は選択肢から自動的に消える。牛肉は嫌いだからというのではなく、ポリシーとして避けているのである。

さらに同様に、豚肉も 1週間に 2~3度までにとどめたいので、この時点で、メニューの半分以上が消える。魚と鶏肉ならいくらでも食べるが、今年 6月に宣言したとおり、希少資源と化したウナギとマグロは食わないことにした(参照)ので、どんなに豊富なメニューがあっても、私の対象となるのは、極々限定されてしまう。

こんなに初めからメニューが限定されてしまったら、注文するものなんておのずから決まってしまう。で、たいていはいつも同じものを注文することになる。なにしろ、ほとんど「ポリシー」に則って自動的に決まってしまうので、「気分」というものの発動する余裕がないのだ。

遠方に出かけた時などは、その土地の名物料理を食う。せっかく行ったのだから、その土地ならではのものを食うに限る。それが訪問先への礼儀というものだと心得ている。そして何度行っても同じものを食う。だって、その土地の名物料理だけあって、おいしいのだもの。ただ、牛とマグロとウナギだけは、名物料理でもなるべく食わない。

「そんなチョイスの仕方で、つまらなくないのか?」と聞かれるかもしれないが、まったくつまらなくない。私はいつも同じメニューでも全然不満に思わない人なのである。それより、ポリシーから外れるものを食う不愉快さを避けることの方が、ずっと優先する。食事時に不愉快にはなりたくないからである。

 

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2013年10月10日

10月の猛暑日

近頃は冬の寒さと夏の暑さがいつまでも続いて、なかなか春と秋がやって来ない。それで毎年「春はまだか」、「秋はまだか」とつぶやいているような気がする。しかし今年はさしもの猛暑も案外早く幕引きとなって、順調に秋が来ているような気がしていた。

ところがここ 2~3日の暑さで、「最近の夏は 10月まで続く」というのが、改めて確認されてしまったようだ。昨日はいくら台風 24号の影響によるフェーン現象とはいえ、新潟県で 35.1度の猛暑日になってしまったというのだから、穏やかじゃない。

平成 22年 2月、私は「わけのわからない季節感」という記事で次のように書いている。

私は近頃、1年のうちで 5月から 9月までの 5ヶ月が夏で、12月から 3月までの 4ヶ月が冬、そして、春と秋は、4月と 10、11月の、それぞれ 1ヶ月と 2ヶ月しかないと思えばいいと感じている。東京では下手すると、10月だって最高気温 25度以上の夏日がちょこちょこあるので、秋らしくないかもしれない。

これが当時の実感である。そして、それからわずか 3年と 8ヶ月経つうちに、「5月から 9月までの 5ヶ月が夏 が、「5月から 10月半ばまでの半年近くが夏」ということに更新されてしまったような気がする。

だって、先月半ばから少しは涼しくなったとはいえ、統計をみると、今年の 9月の東京では最高気温が 25度以上の 「夏日」 が 30日中 26日もあり、そのうちの 8日は 30度以上の「真夏日」だった。10月に入ってからも、9日までの間に「夏日」が半分以上の 5日あり、昨日なんかはあっさりと「真夏日」だった。

真夏があまりにも暑かったせいで、この程度でも少しは秋らしい涼しさに錯覚してはいたが、数字的にはまだまだ十分に「夏」なのである。ここ数日、夏がぶり返したのではなく、「基本的にずっと夏なのに、ちょっとだけ気温の低い日がちらほらあったので、秋が来たと錯覚していただけ」と考える方が、いっそあきらめがつく。

こんなわけで、東京では 1年のうちのおよそ半分近くは夏で、4ヶ月が冬。春と秋は残りの 1ヶ月ずつしかないという世の中になってしまったようなのである。

昨日の朝のラジオで、気象予報士の森田正光さんが、「秋期間」という概念を提唱していた。正式な気象用語でもなんでもないらしいが、一応の実感的目安として、「最高気温 30度以上を最後に記録した日の翌日から最低気温 10度を下回った日まで」と考えておられるようだ。

この基準で季節の推移をみると、1980年代頃までは、平均して 75日(約 2ヶ月半)ぐらいの「秋期間」があったが、ここ 1~2年は 30日ぐらいしかなくなったと言っていた。東京近辺でこの通りのデータだったら、まさに「いつまでも暑くて、急に寒くなる」という、最近の我々の実感に即している。

今世紀末までに平均気温が 4.8度上がり、海面が 82センチ上昇するという IPCC の報告が、実感的な脅威に感じられるようになった。平均気温が 4.8度上がるということは、東京の 8月の平均気温が 34度ぐらいになるかもしれないということだ。念のために言うが、これは最高気温ではなく、夜中から真昼までを通じた平均の気温である。

ということは、最高気温は当たり前のように 40度を超えるし、さらにちょっと条件が揃ったら 43度ぐらいになる。風呂の湯温だったら熱すぎる。気温だからまだいいが、いずれにしても呑気に外を歩いていたら、たちまち熱中症でやられてしまう。

今世紀末というのは、そんなに遠い未来じゃない。今年生まれた子供の中にも、22世紀まで生きる子がいるだろう。彼らは灼熱地獄で生きることになる。いや、生きていられるという保証もない。世界の食糧生産が壊滅的打撃を受けるだろうから、地球上で生きていられる人類の数は、今よりずっと減るだろう。

この温暖化は人為的要因によるところが大きいというのだから、我々が今、ライフスタイルを変えなかったら、すぐ下の世代に大変なツケを回してしまうのである。

 

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2013年10月 9日

高校の通称「~たか」を巡る冒険

高校時代、伝説の深夜放送 「那智チャコ・パック」で、「まえたか・たかたか」というのがよく話題になっていた。群馬県立前橋高校と、同高崎高校が宿命のライバル関係にあって、何かというと張り合っているというのである。

「ふぅん、群馬県では、前橋高校を『まえたか』、高崎高校を『たかたか』なんていうんだ」と思っていたが、つい最近になって、それだけじゃなく、桐生高校は「きりたか」、渋川高校は「しぶたか」なんて呼ばれると知った。へえ、群馬って変なところだなあ。

いや、それどころじゃない、実は栃木県でも宇都宮高校は「うたか」、真岡高校は「もうたか」、足利高校は「あしたか」なんていうらしい。それで、「へぇ、北関東って、変なの!」と思っていたら、さらに埼玉県でも川口高校が「かわたか」なんだそうだ。、

同じ埼玉県では、熊谷高校も「くまたか」だという。これには歌舞伎の『助六』に「熊鷹長範、貴様、手が長いな」という台詞があるのを思い出した。(この地口は、説明すると長くなるので、「なんのこっちゃ?」と思っちゃった人は、 「熊鷹/熊坂/助六」をキーワードに自分で調べてもらいたい)

「へえ、関東って変なの!」と思っていたら、何と、遠く九州の熊本県立熊本高校も「くまたか」だという。びっくりである。さらに新潟県立新潟高校は「けんたか」というらしい。「県立」の方に重点をおいているようだ。へえ、新潟まで変なの!

なんでこんな風になるのかと思って、ちょっと調べてみたら、地元の工業高校と区別するために、あえて「高」を「たか」と読むんだそうだ。例えば、前橋高校だったら、前橋工業高校が「まえこう」になるので、差別化の意味で「前高 = まえたか」になるというのである。ふぅん、なるほど。

そんなことは還暦過ぎるまで知らなかったよ。だって私の育った山形県では、県立高校には東西南北の一文字が付くのが一般的で、例えば私の母校は、山形県立酒田東高校だから、略称は「酒東 = さかとう」である。同様に隣町の鶴岡南高校は「つるなん」、山形東高校は「やまとう」になる。

現在住んでいる茨城県は「東西南北」ではなく、数字が付くいわゆる「ナンバースクール」制だから、水戸第一高校は「みといち」、土浦第一高校は「つちいち」 あるいは「どいち」なんてことになる。

ちなみに、水戸工業高校は 「すいこう」 というらしいので、もし歴史のいたずらで、茨城県がナンバースクール制でなかったとしても、現在の水戸一高が 「水戸高校 = みとたか」 なんてことにはならずに済んでいたはずだ。

妻の育った宮城県もナンバースクールで、仙台第一高校は「いちこう」、妻の出た宮城第一女子高校は「いちじょ」なんて言われたらしい。今はそれぞれ共学になり、「いちこう」と「みやいち」になっているらしいが、どちらも「せんいち」とかじゃないところが、宮城県では仙台以外目じゃないみたいな感じで、ちょっと生意気である。

要するに、地名に「東西南北」も数字も付かない県立高校は、同じ地域の工業高校と区別するために「~たか」という通称になりやすいという法則があるもののようなのである。

じゃあ、「~たか」という名の通称をもつ高校のある市には、普通科の県立高校は一つだけなのかというと、そんなわけでもなく、例えば前橋市には 「まえたか」の他にも前橋南高校(まえなん)、前橋東高校(まえひがし)、前橋西高校(まえにし)がある。何も付かないのが、一番初めにできたということなんだろうね。

まあ、日本全国の高校の名前というのは、それぞれの地域の習わしによって、いろいろあるみたいなのである。男女別学だったり共学だったりするのも、それぞれの地域でいろいろな思惑があるようだし (参照)。

 

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2013年10月 8日

Adobe のソフトって高いからなあ

私は勤め人をしていたころからウェブページ作成業務を請け負ってきている。七面倒くさいサイト作りは専門の下請けに任せるが、比較的シンプルなサイトをできるだけ安く作って欲しいという、ビジネスというより半分「お友達感覚」の虫のいい注文には、他に頼まず、自前の作業で対応してきた。

ところが私も還暦を過ぎてしまったので、あまりがつがつ仕事をする気もなくなり、面倒なウェブサイト運用の仕事は計画的に(というか、行き当たりばったりにというか)縮小しつつある。今は数えるほどしかやっていない。

私はウェブページ作成に Adobe の Dreamweaver という、身分不相応なまでのプロ仕様ソフトを使ってきたが、こんな状態なので長らくバージョンアップしていない。今も CS 3 のままで使い続けていて、最新のバージョンを使う必要性をほとんど感じていないのである。

それに、Adobe のソフトって、何でもやたら高いから、零細企業としてはおいそれと買えない。そんなわけで、バージョンアップなしでも特段の不便もなく、だらだらと使い続けているわけなのである。

それにしても、Adobe のソフトってどうしてこんなに高いんだろう。フツーは「プロ仕様で需要が小さいのに、開発費はべらぼうにかかるから」という答えが返ってくるが、いくら開発費がかかっても、安く売れば数をさばけるのだから、納得できる回答になっていない。高く売るのは、要するに「Adobe の社風」ということなのだろう。

私は近い将来、PC を Mac に買い換えようと思っている。消費税アップということもあるので、多分来年の 3月までに買い換えることになると思うのだが、Dreamweaver は同じパッケージで Mac にもインストールできるはずだから、そのまま使い続けようと思う。同梱の画像処理ソフト、Fireworks も同様だ。

Mac に乗り換えた後で私が欲しいと思っているのは、DTP ソフトである。DTP といっても、そんなに専門的な出版物を編集するわけではなく、せいぜい小さな社内報やパンフレットの作成程度しか引き受ける気がないから、Adobe Illustrator みたいな高いソフトはいらない。Windows ソフトでいえば、せいぜい 「Personal 編集長」 程度のもので十分なのだ。

ところが Mac の世界はなまじプロの編集者がうようよしているので、廉価版の DTP ソフトがあまり流通していないみたいなのである。フリーソフトで適当なのがあれば嬉しいのだが、私は Mac にはまだ素人同然なので、この辺りの情報に疎い。

Illustrator に Photoshop Element みたいな位置づけの簡易版があればいいんだがなあ。Adobe さん、出してくれないものだろうか。まあ、いざとなったら Mac 上で Windows を起動させて Personal 編集長を使うという手もあるのだけどね。

ちなみに、Adobe のサーバがハックされてクレジット・カード情報などが流出したらしいが、私は Adobe ではクレジット使ったことないから、大丈夫。

 

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2013年10月 7日

「ババシャツ」考 - なぜ若い娘が平気でババシャツを着るのか?

今日は妙に蒸し暑さがぶり返しているが、一昨日あたりはかなり冷え込んで、11月上旬の寒さということだった。最近は天候が極端化しているので、冬は結構寒い。この寒さも地球温暖化の現われの一つというからややこしいが、とにかく防寒対策が必要になって、ユニクロあたりではヒートテック肌着がもう売れ始めているらしい。

ところでこの世には、「ババシャツ」という防寒肌着がある。当初は中高年の女性向けということだったが、昨今はウォームビズの広がりとともにかなり一般化し、若い OL でもフツーに着ているらしい。それどころか 10代の女の子でも「今日は寒いから、ババシャツ着てきちゃった~」なんて、平気で言う。

あれだけ若づくりが好きで、オバサンに見られるのを嫌う女性たちが、「ババシャツ」という言葉に限っては驚くほど寛容なのである。これが私にはとてもいぶかしく感じられていた。最近は「お洒落なデザインのババシャツ」というのも登場しているというが、それにしても「ババシャツ」という言葉を忌避しない心理的飛躍は、いったい何なのだ?

アパレル製品のマーケティングでは、「40代の女性のためのお洒落なホームファッション」なんていう謳い文句で、実際には 60代のシニア層に売るというのが一般的である。考えようによってはとても欺瞞的な手法だ。

これは、「私はそんなおばあさんじゃありませんから」と思いこむ消費者心理にビミョーに迎合しているのである。還暦過ぎた女性が服を買う時には、現在の自分ではなく、20年以上前の自分が発動しているのである。

ところがババシャツは違う。正面切って「ババ」と謳い、しかもスラングの域を完全に脱して、市民権を得た名詞になっている。通販サイトでも堂々と「ババシャツ」というカテゴリー名で訴求している(参照)。

これはどういうことなのか。ウチの娘(20代)に聞いてみると、「それって、すごく感覚的なことだよね」と言う。「気分的には、自分は『こんな年相応のシャツを着ているおばあさん』じゃなくて、『ババシャツというものを着ている私』という感じかな」

なるほど、かなり感覚的だが、少し見えてきた気がする。若い女性にとっては、ババシャツはかなり「相対化」された商品のようなのだ。

喩えていえば、多くのアメリカ人は日常的に薄口のコーヒーを好むが、それがあまりにも当たり前なので、それを「アメリカン・コーヒー」という名称で呼ぶ発想がない。しかし地球の裏側まで来てしまうと、薄口のコーヒーを特別に「アメリカン・コーヒー」の名で注文したりする日本人がいる。

「ババシャツ」は年配の女性にとっては「当たり前の防寒肌着」なので、敢えて「ババシャツ」なんて呼ばない。フツーの「シャツ」である。しかし若い女性にとっては「異文化」だから、「ババシャツ」と呼んで差別化する必要がある。こうしてきちんと相対化しているから、「自分」と 「ババ」は決してイコールにならない。

つまり「ババ」という接頭語を付けているからこそ、相対化が保証されるのだ。あくまでも「ババシャツというものを着ている私」であって、中身まで「ババ」なわけじゃない。逆に、これを単に「シャツ」とか「肌着」とか言い出すようになると、いつの間にか「同期」が成立する。

ウチの田舎の名物お菓子「馬糞まんじゅう」とか、奈良の名物チョコ菓子「鹿のふん」みたいなもので、没イメージの名称でも、はっきりと相対化しちゃうことで不思議に不愉快にならないどころか、訴求度満点のものに昇華しちゃうことがあるのだ。

 

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2013年10月 6日

誰だって「脳で食べる」ものなのさ

毎日新聞日曜版 9月 29日付の 「楊逸(ヤン イー)の味わう」 というコラムに、「脳で食べる時代」というのがある。"いつか 「戦後日本人食生活の変化」 についてのリポートを読んだことがある" という書き出しだ。(楊逸さんは、中国生まれの芥川賞作家だ。念のため)

そのリポートによると、戦後しばらく(昭和 20年代から 30年代半ば)は、腹を満たしさえすればいいという、いわば「胃で食べる時代」だったが、高度成長期は「舌で食べる時代」となり、そして経済大国となってからは、日本人の繊細な美学が料理にも及んで「目で食べる時代」になったのだそうだ。

楊逸さんは、「目で食べる時代」の先駆者は、かの北王子魯山人だという。魯山人が活躍したのは上述の分類でいえばまさに「胃で食べる時代」だったわけで、深く考えればこの 3つの時代分類はナンセンスになってしまうのだが、まあ、それについてはしつこく触れないことにする。

彼女はその後の変化について、"昨今の健康ブームに乗って、ここ十数年、「脳で食べる」へと進化し続けている" と書いている。その心は、カロリー計算しながら食べる時代になったことなのだそうだ。このオチ、申し訳ないけど、即物的すぎてちょっとこけた。

「胃で食べる時代」「舌で食べる時代」「目で食べる時代」という分類については、"「戦後日本人食生活の変化」 についてのリポート" にあったというのだが、検索してみると琉球新報の 10月 3日付「金口木舌」というコラムにも似たようなことが書いてある(参照)から、多分、最近出されたマーケティング・リポートかなんかだろう。

そしてこの分類、どこかで聞いたことがあると思い、再びググってみると、2007年 7月に発表された記事に 「胃で食べる 20代、目で食べる 30代、舌で食べる 40代、頭で食べる 50代」 という言い回しを発見した(参照)。そういえばこれ、当時流行ったみたいで、健康関連の番組などで何度か聞いた憶えがある。

さらに、2008年の日経「春秋」には、「米国人は胃で食べる。中国人は舌で食べる。日本人は目で食べる」というのが載ったらしい(参照)。なるほど、これはウケやすい表現だ。

どうやら、件のリポートというのは、こうしたことを土台にして、日本の戦後に表面的に当てはめただけみたいなことのようだ。だって、「目で食べる」ということについては、日本人は最近に限らず、それこそ魯山人が現われるよりずっと前からしてきたことなのだし。

そして楊逸さんが新しいことのように書いている「脳で食べる」というのは、既に「頭で食べる 50代」という言い方でずっと前から言われていることと同じである。

そして「脳で食べる」ということについていえば、人間は誰でも大昔から、脳で食べているのである。というのは、実は「舌で食べる 40代」というのは幻想で、味覚を司る舌の「味蕾」という感覚器官は、20代を頂点としてどんどん衰えてしまい、60代に至っては半分ぐらいになってしまうのだそうだ。

だからグルメを気取る中年紳士も、実は純粋味覚ではなく、記憶による「脳内データベース」を駆使して食べ物を味わっているのである。そんなようなことを、私は 10年以上前に書いていて(参照)、6年前にもそのレビュー的なことを書いている(参照)。

食べることに限らず、人間は皆、脳で見て、脳で聞き、五感のすべては結局、脳で解釈しているのである。この視点からの食文化論だったら、何千字でも書けるはずだ。

 

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2013年10月 5日

戦争は人間の本性じゃない

Wired の "「戦いは人間の本質ではなかった」:研究結果" という記事に、「我が意を得たり」という気がしていたのだが、あまりにもぴったりきてしまったために、そのことについて書くのを忘れていた。このままだとずっと忘れっぱなしになりそうなので、この辺で書いておく。

この記事は、人間の好戦的な気質が実は比較的新しいものだと示唆する、新たな研究結果を紹介したものだ。「人間における集団による暴力は異常なことであり、暴力が人間の本質に関わるとは言いがたい」というのである。

文化人類学者のダグラス・フライとパトリック・ソダーバーグは、有史以前の狩猟採集社会における人間の生活に関する研究を通じ、「当時から人間に暴力的な面はあったものの、人が人を殺すことは激しい怒りや個人同士の確執の結果として生じたものがほとんどで、集団同士の争いから生じたものではなかった」と述べている。

これは、「人間が自らと異なる集団の構成員を抹殺するために徒党を組む傾向がある」という思い込みから生じる 「戦争は人間の本性からきているので避けられない」という考えを否定するものだ。

私は今年 5月の "戦争がなくならないのは、「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる」から" という記事で、「人間というのはほとんど常に、『総論賛成、各論反対』で動く習性を持っている」と書いている。だから、腹を満たしてくれない抽象的総論で語られる平和は、腹を満たしてくれる(という幻想を与える)具体的各論である戦争遂行論に負けるのだ。

有史以前に集団的暴力、つまり戦争がなかったというのは、その頃は数ある選択肢のなかでどれを選べば有利かなどということを、真面目に考える必要がなかったのだろう。そもそもそれほどはっきりした選択肢はなかったし、大体はシンプルな経験則からくる総論とアニミズム的な発想で行けたから、戦争するという発想がなかったのだ。

だから、「平和」というのは比較的新しいコンセプトなのだろうと思う。平和が当たり前だった時代は、それを意識する必要がなかった。戦争が当たり前になり、戦争が終わってほっとして、初めて「平和」が特別なものとして意識された。

だから「平和」は癒しのイメージで語られ、決して戦略的には語られなかった。戦略思考すると、どうしても戦争になりやすいので、古今東西の平和を求める人々は概ね戦略思考を好まない。「教え子を二度と戦場に送らない」という日教組の標語のような、情緒的・抽象的な総論でしか平和を語ろうとしない。

冒頭で触れたように我々は、あまりにもぴったりきてしまうと、そのことについて論じるのをつい忘れがちになる。「平和」が情緒的にどんなにぴったり・しっくりきても、それを求めるためにあえて戦略的に語ることを忘れてはならないという、因果な世に我々は生きているのである。

現代は総論で平和を考えても報われないことが明らかになったのだから、そろそろ「決して戦争の方向にぶれない戦略思考」で平和を求めることを、当たり前のこととしなければならない。その理論的根拠として、「戦争は人間の本性じゃない」ことを明らかにするこのような研究は、根本的な意味がある。

 

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2013年10月 4日

コインパーキング vs 月極駐車場

コインパーキングの看板表示を巡り利用者の苦情が増えているとして、国民生活センターが業界団体に対し適切な表示をするよう要望したというニュース(参照)に、ちょっと驚いた。

なんでも、「1日最大 500円」という看板を見て 5日間駐車したら、8,700円請求されたというケースがあるらしい。2日目以降は 1時間ごとに 100円かかるという説明が、敷地内の自動販売機の裏に掲示されていたのだそうだ。

あぶない、あぶない。一体どこの国の話かと思ってしまう。とはいいながら、よく考えればコインパーキングに 5日間も連続して車を放置したら、そのくらいになっても、それほど法外の値段というわけでもない。問題なのは表示の紛らわしさだ。

私が常磐線取手駅の近く(というほど近いわけでもないが)に借りている月極駐車場の料金は、7,000円/月 である。都内に通う勤め人をしていた頃は、平均すると月に 20日は利用していたから、1日当り 350円という見当になる。

しかし最近はほぼ半減して、せいぜい 10~12日ぐらいしか利用しないから、12日使っても、1日当り 583円、10日だけだと 700円になる。さすがにワンコインを超えると、ちょっと無駄遣いをしているのではないかと、気になっていた。

実は「1日最大 500円」 という駐車場が駅により近いところにできたので、月極は解約してそっちに鞍替えしようかと検討していたところなのである。しかし 24時間を超えたら急にそんなに高くなるというなら、泊まりがけの出張に月に 2~3回行こうものなら、あまり節約にならない。

しかも駅近くの「1日最大 500円」駐車場は、昼前にはほとんど満車になってしまうので、午後からでかける場合には駐車できなくなるリスクがある。どうやら、これまで通りの月極でいくしかないようだ。

ちなみに、「月極駐車場というのは、『月極(げっきょく)』チェーンが全国的に展開する駐車場」という有名なボケギャグがあるが、これを真っ向から掘り下げたサイトがあるのを見つけた。

月極定礎ホールディングス」というサイトである。これは「月極駐車場」を全国展開する「月極グループ」と、「定礎」という名のビルを全国展開する「定礎グループ」が共同で作った持株会社で、資本金は 22兆 827億 7,133万 7,200円という驚くべき額だが、上場せず、決算も非公開という謎に包まれた超巨大企業ということになっている。

このサイト、"gekkyoku-teiso.info" という独自ドメインで展開されている。まあ、「超巨大企業」 なのだから当然といえば当然だが、世の中にここまで物好きな人がいるというのは、なかなか嬉しいではないか。

 

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2013年10月 3日

自分のブログへのコメントが、スパムと断定される哀しさ

かなり前からかなりむっときていたことではあるが、まあ、スパム・コメント防止のためにはちょっとしたチェックの行き過ぎもしかたがないのかと、つとめて気にしないようにしてきた。どういうことかというと、この自分のブログにコメント(コメントへの返信がほとんどだが)しようとすると、なんと毎回スパム・コメントの疑いがかけられてしまうのである。

日常的にスパム・コメントがやたらと多いので、私はこのブログのコメント関連で、「スパムの疑いのあるコメント」が送られようとした際には、画像文字の入力を求めるようにしている。画像文字というのは、下にあるような、ネット・サービスの登録申し込みの際などに確認のために求められる、画像で表示されたあのちょっと読みにくい文字である。

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これはあくまでも、他人からのスパム・コメント防止のために設定したのであって、当たり前の話だが、自分のコメントをチェックするためなんかじゃない。ところがココログの仕様では、何でもかんでも一緒にされてしまうようなのである。

これは、私が読者からのコメントに頻繁に返信コメントするので、システムによって「不自然に多数のコメントをしたがる怪しいユーザー」と認識されてしまったことによるのだと思う。まあ一般論としては、システムがそうした反応をするのは、決して悪いことじゃない。

しかし私は、ブログ管理をする時と同じ IPA で書き込もうとしているのだから、当然ながらシステムが「ブログ管理者本人」と認識してくれてもいいはずではないか。ところがココログは、その当然の認識をしてくれないのである。

先日なんぞは、完全にスパマーと断定されてしまったようで、「あなたはこのブログへのコメントが拒否されました」みたいな (正確な文面は忘れてしまったが) 表示が出てきてしまった。疑いがかけられるぐらいは、まあ我慢もするが、あらぬ断定を受けて、結果として自分で自分を完全拒否してしまうのは、いくらなんでも切なすぎる。

その時はしかたがないので、iPhone でアクセスして返信コメントを書き込んだものの、自分のブログへのコメント書込みでスパマーと断定されてしまうことほど、悲しくも腹立たしいことはない。

ココログには、「今コメントを書き込もうとしているのは、このブログの管理者本人だから、フリーパスで OK ね」 判断してくれるぐらいのシステムに改善するか、あるいは、ココログ管理ページから直接コメントを書き込めるような仕様にしてもらいたいと、切に希望するのである。

ここで一首: 哀しきは己がブログにコメントしスパムとさるる長き秋の夜

 

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2013年10月 2日

「ネット疲れ」 - 私の場合

私のネット歴はほぼ 24年である。最初に触れたのはインターネットではなく、「イントラネット」という代物で、外資系団体にいた頃、専用線を介してアジア、ヨーロッパ地域のブランチとつながっていた。もっともヨーロッパとは時差があるので、打てば響くようなコミュニケーションとまでは行かなかったが。

それを入り口に、個人的にも仕事上でもパソコン通信を経て、1995年頃にインターネットに至った。当時は ISDN のダイヤルアップで、ものすごく遅くて不便だったが、要するに、その辺の人よりはネット歴がちょっとばかり長いのである。以来、使えそうなデバイスやシステムは人に先駆けて導入してきた。

しかし最近は、もうなんでもかんでも使ってみようなんてことは思わなくなったのである。だってもう、そろそろこれで十分なのだもの。これ以上いろいろなシステムを使う必要もないし、使っても疲れるだけだ。

実際に、ネット関連で私がこの 3年間に新しく始めたことなんて、本当に限られている。Twitter に登録したのは比較的最近のことだと思っていたが、それでも "いつから twitter?" というサービスで調べてみたら、6年近く前の 2007年 12月 4日の登録で、世界では 10,831,382人目のユーザーなんだそうだよ。

Twitter のアクティブ・ユーザーは今、世界で 2億8,000万人いるらしいから、私は最初の 4%に含まれるユーザーである。いや、もっとも、登録は 6年前にしたものの、実際に使い始めたのは 3年半前だった。この間の事情は 「Twitter って、何がおもしろいの?」 という記事に詳しく書いてある。

Twitter を本格的に初めて半年後には、Facebook にも登録したので、これもかれこれ 3年以上のユーザーである。その後はしばらくぐずぐずしていたが、去年の 5月にようやく Facebook ページを開設し、このブログの記事紹介を始めた。この時「Facebook にページをもってみた」という記事で、私は次のように書いている。

Facebook の私のページは、なにしろできたばかりなので、Google 検索にもひっかからない。誰も知らないページを使って、既に少しは知られたと自負している自分のブログの記事を紹介するというのも、まるで本末転倒のような気がするが、しばらく転がしているうちに新しい可能性が見えてくるかもしれない。

ところが、私の Facebook ページに「いいね」してくれているのは、まだ 57人だけで、「新しい可能性」なんて、言うのも恥ずかしいレベルである。毎日 2000ぐらいのアクセスがあるブログの紹介ページにしては、ほとんど「ずっこけ」状態だが、どうにかしようという気にもなれない。だって、ブログには十分なほどの人が来てくれているのだから。

まあいずれにしても、5~6年前までの私が新しもの好きだったことは確かで、しばらくはその余波が続いてきたといえる。ところがここ 1~2年は、無料のクラウド・サービスの利用とかいうお手軽なことを別とすれば、「新しいシステムには、なるべく手を出さないでおこう」なんて思っている。我ながらずいぶん「枯れて」しまったことである。

先日も仕事の関係先から、サイボウズの業務グループへの招待メールが来たが、「そのうち、そのうち」と思っているうちに、受付期間が過ぎてしまい、再招待のメールを出してもらってようやく登録した。3年前の私だったら、間髪入れずに登録していただろうに。

登録してから先方のシステム管理者に聞くと、「いやあ、かなり多くの招待メールを出したんですが、皆さんものすごく反応が鈍くて、システムの本格稼働になかなか至りません」と、こぼしていた。そうだろう、そうだろう。そんなものだよ。私も宮仕え時代には、同じようなことでかなりのフラストレーションを感じていた。

Google+ なんていうのも、やはり関係先から「ネット会議をしたいので登録してください」とリクエストがあったので、最近になって登録した。「どうして Skype じゃダメなの? まったくもう、面倒だなあ」なんて思いながら、渋々の登録である。

聞けば Google+ は、無料で最大 10人参加のビデオ通話ができるのだそうだが、これまでのところは 1 対 1 の対話しか実現しておらず、10人参加のネット会議なんて、「どこの世界のお話だ?」という感じである。これなら、慣れた Skype で十分じゃないか。

大分前から「ネット疲れ」という言葉が囁かれている。私としては別にネット疲れしている自覚はなく、今でも基本的な部分ではバリバリ使いこなしてはいるのだが、これ以上の新しいことまで手を広げるのは、ものすごくうっとうしく思っている。Line も登録はしたが、ほとんど使っていない。というか、この年になると、使う相手が極端に限られる。

既存のシステムをおとなしく使っていれば、ほとんどの用は足せる。それ以上を求めても、私の周りはもうオッサンばかりになってしまったので、自分が先行して突っ走っても誰も付いてこないということを、経験則で嫌というほどわかってしまったのである。

 

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2013年10月 1日

コオロギが生きていく上でのストレス

最近、金沢工業大学応用バイオ学科教授、長尾隆司さんという人の「コオロギの研究」 が、一部で結構話題になっている。この先生は、人間に興味があるからコオロギの研究をされるのだそうで、つまり、人間行動のかなりの部分が、コオロギの研究で見えてくるのだそうだ。

長尾研究室ではコオロギを多数育成しているのだが、自然界同様に集団で育つコオロギと、1匹ずつ隔離されて育つコオロギに分けており、後者を「インターネットコオロギ」と称している。いわば、コオロギの「オタク」といったところかもしれない。

で、普通に育ったコオロギのオス同士がケンカになりそうになっても、威嚇し合った時点で片方が「やべ、こりゃ、敵わんわ」と思って尻を向けると、それで一件落着になる。しかしインターネットコオロギは相手が尻を向けると、逆にかさにかかって攻撃を始め、最後には相手を殺してしまうまでに至るのだそうだ。

何となく、動物行動学の元祖、コンラート・ローレンツ博士の『ソロモンの指輪』に出てくるハトを思い起こさせるような話である。闘争的なイメージの動物は、相手が「降参」の意を示すと、それ以上の攻撃が抑制されてしまうが、平和の象徴のように思われているハトは、逆に攻撃本能が刺激されて、つつき殺すまで攻撃してしまうというのである。

これって、最近の「いじめ」を想起させるような話ではないかと、ここまで書いたらあとは、ステロタイプのありがちな議論に陥りそうなので、別の話題に映る。

次は贅沢に慣れたコオロギと貧乏暮らしのコオロギとでは、どちらの生命力が強いかという話である。コオロギはキュウリなどの生野菜が大好きなので、常にそうした生野菜を潤沢に与えられることを「贅沢」とし、それ以外のうまくもない飼料をテキトーに与えられることを「貧乏」と定義する。

そのうえで、(1) 常に贅沢、(2) 基本的に贅沢だが、たまに貧乏、(3) 贅沢と貧乏が半々、(4) 基本的に貧乏だが、たまに贅沢、(5) 常に貧乏の、5グループにわけて観察する。この 5グループで、もっとも逞しく生きるのは、(4) の「基本的に貧乏だが、たまに贅沢」というグループのコオロギなのだそうだ。

うん、これって、わかる気がする。なにしろこの私自身が「基本的に貧乏だが、たまに贅沢」を絵に書いたような生活をしていて、「お金はあんまりないけど、健康にだけは自信があるし、まあ、どんなことでもドンと来い!」という気分で、何があっても落ち込みもせず暮らしていられるのだから、コオロギと同じ実感である。

ちなみにコオロギは、かなりの距離を飛行することができる。しかし空調の効いた実験室でエサもちゃんと与えられ、交尾の相手を勝ち取る努力もしなくていい恵まれた環境で育つコオロギは、飛行能力を失ってしまうのだそうだ。

最近、「いのちを守る森の防潮堤」でにわかに注目を集めている植林の神様、宮脇昭先生は、土地本来の潜在自然植生の木群を中心に、その森を構成している多数の種類の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」を提唱されている(参照)。

先生は生まれ故郷の岡山弁で「まじぇる、まじぇる(混ぜる、混ぜる)」と強調される。これは、複数種の木々が競い合ことで生きていく力が引き出されるからだという。宮脇先生は「人間も同じで、気の合うやつだけで集まるのではなく、少しは嫌なやつもいて、多少我慢し合って暮らす方がいい」と指摘する。

何不自由なく暮らすのが幸福だと思っている人が多いが、実はそうした贅沢が、生物の本来持つ生命力をスポイルすることがある。ちょっとしたストレスは、ある方がいいようなのである。虫も、樹木も、人間も。

 

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