戦争は人間の本性じゃない
Wired の "「戦いは人間の本質ではなかった」:研究結果" という記事に、「我が意を得たり」という気がしていたのだが、あまりにもぴったりきてしまったために、そのことについて書くのを忘れていた。このままだとずっと忘れっぱなしになりそうなので、この辺で書いておく。
この記事は、人間の好戦的な気質が実は比較的新しいものだと示唆する、新たな研究結果を紹介したものだ。「人間における集団による暴力は異常なことであり、暴力が人間の本質に関わるとは言いがたい」というのである。
文化人類学者のダグラス・フライとパトリック・ソダーバーグは、有史以前の狩猟採集社会における人間の生活に関する研究を通じ、「当時から人間に暴力的な面はあったものの、人が人を殺すことは激しい怒りや個人同士の確執の結果として生じたものがほとんどで、集団同士の争いから生じたものではなかった」と述べている。
これは、「人間が自らと異なる集団の構成員を抹殺するために徒党を組む傾向がある」という思い込みから生じる 「戦争は人間の本性からきているので避けられない」という考えを否定するものだ。
私は今年 5月の "戦争がなくならないのは、「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる」から" という記事で、「人間というのはほとんど常に、『総論賛成、各論反対』で動く習性を持っている」と書いている。だから、腹を満たしてくれない抽象的総論で語られる平和は、腹を満たしてくれる(という幻想を与える)具体的各論である戦争遂行論に負けるのだ。
有史以前に集団的暴力、つまり戦争がなかったというのは、その頃は数ある選択肢のなかでどれを選べば有利かなどということを、真面目に考える必要がなかったのだろう。そもそもそれほどはっきりした選択肢はなかったし、大体はシンプルな経験則からくる総論とアニミズム的な発想で行けたから、戦争するという発想がなかったのだ。
だから、「平和」というのは比較的新しいコンセプトなのだろうと思う。平和が当たり前だった時代は、それを意識する必要がなかった。戦争が当たり前になり、戦争が終わってほっとして、初めて「平和」が特別なものとして意識された。
だから「平和」は癒しのイメージで語られ、決して戦略的には語られなかった。戦略思考すると、どうしても戦争になりやすいので、古今東西の平和を求める人々は概ね戦略思考を好まない。「教え子を二度と戦場に送らない」という日教組の標語のような、情緒的・抽象的な総論でしか平和を語ろうとしない。
冒頭で触れたように我々は、あまりにもぴったりきてしまうと、そのことについて論じるのをつい忘れがちになる。「平和」が情緒的にどんなにぴったり・しっくりきても、それを求めるためにあえて戦略的に語ることを忘れてはならないという、因果な世に我々は生きているのである。
現代は総論で平和を考えても報われないことが明らかになったのだから、そろそろ「決して戦争の方向にぶれない戦略思考」で平和を求めることを、当たり前のこととしなければならない。その理論的根拠として、「戦争は人間の本性じゃない」ことを明らかにするこのような研究は、根本的な意味がある。
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