「死」 というものへの距離感
近頃、毎日のように喪中欠礼葉書が届く。思えば今年はずいぶん葬式に出席したから、このくらい届いても不思議ではないが、それにしても多い。多分これまでで一番多い。年賀状を出す数は、いつもの年よりずっと少なくなってしまいそうだ。
喪中の内容で一番多いのは、親が亡くなったというものだ。私の知人・友人・従兄弟/従姉妹は、当然ながら同年代が多いので、親の年齢は 80代後半が最も多い。ということは、もう死んでもおかしくない。私の両親だって、とっくに死んでしまったしね。
次に多いのが、先輩の配偶者が亡くなったという知らせだ。私の先輩は団塊の世代より上の世代で、そろそろ 65歳を超えて、70歳にさしかかる層が多い。実際問題として、このあたりで死ぬ人は死ぬ。今では 70歳前に死ぬと「早死に」扱いされてしまうが、昔ならとっくに死んでいておかしくない年だ。
還暦を過ぎて、「死」というものが昔よりずっと身近に感じられる。とくに持病というものはなく、健康ではあるのだが、「死」というものに確実に近づいていることを思うのである。20代の頃の「死」は、パタゴニアぐらい遠くにある感じがしていたが、今はサンパウロぐらいに近くなったというのが実感だ。
まあ、それでもまだ地球の裏側なのだから、我ながら呑気なものだが。
ついでに言えば、私は「死」というものが恐いとはちっとも思わない。どうせいつかは死ぬのだし、これまで結構好き放題に生きてきたから、思い残すほどのこともない。むしろ、生き長らえることの方が死ぬよりずっと苦労だ。
ただ、このくらい呑気だと、なかなか死なないんじゃないかという気もする。こんなパラドックスが生じるから、人生というのは面白いのだが。
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コメント
中世の欧州の僧院の壁には
「メメント・モリ=死を想え」
と言う碑文が刻み込まれていました
しかし、しょせん
生きているものが、死というものを実感することは不可能です
だからこそ、上記の碑文で、無理矢理(笑)
死を実感しようと思ったのでしょう
同じように、死者をミイラ化したカタコンベという地下墓地がありますが、あれも、なんとかして、死を実感しようという努力の表れかも知れません
投稿: alex99 | 2013年12月 4日 13:54
alex さん:
「死」 がどんなものかは死んでみればわかるから、今から詮索することはないのでしょうね。
ただ、必ず死ぬことだけはわかっているので、一応親愛の情だけは示しておこうと (^o^)
投稿: tak | 2013年12月 4日 20:13