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2013年12月に作成された投稿

2013年12月31日

押入の奥の宝物

いやはや、本当にあっという間の 1年で、もう大晦日である。今月 14日の 何故年をとると 1年が短い? その2」という記事にも書いたのだが、「こないだテレビで箱根駅伝を見たばかりだと思っていたら、もうこんな時期」というのが、まさに実感である。

一昨日と昨日は、必死に大掃除をした。押入の奥をほじくり出すと、不要の物がどっさり出てくる。昨年も一昨年もかなりの量を捨てたはずなのだが、いつの間にかまたたまっている。私としてはどんどん捨てたいのだが、妻はなかなか物を捨てない人である。

買い物でもらったペーパーバッグや、だいぶ昔に買ったクラシックなデザインの布地なんて、家中にどのくらいあるか想像もつかないが、妻にとっては宝物で、なかなか捨てようとしない。こっそり捨てようとしてもすぐに見つかってしまい、「それ捨てないで! 使うんだから」と言われてしまう。

「使うんだから」 と言われても、10年も 20年も使われないままに押入の中を占領しているのだから、多分今後も使うことなんてないだろうと、私は思う。しかしそれは、妻にとっては 「まだ使ってない」 というだけのことで、いつの日か必ず使うつもりである。

そういうことなので、「お願いだから、何にも言わずに捨てさせておくれ。思い切り捨てて、楽になろう」と懇願しても、なかなか首を縦に振ってくれない。それでもねばって、少しは捨てることに合意させる。こうして、毎年暮れにはほんの少しだけ身軽になれる。そして次の 1年で、またまた元の木阿弥というほど、押入の中が一杯になる。

ああ、押入の中がスカスカの家に住みたい。毎年そう思いながら、年月はどんどん過ぎていく。

 

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2013年12月30日

成人男性の喫煙者が、3人に 1人弱という時代になった

厚生労働省の「最新たばこ情報」というページに、日本の成人喫煙率のデータがある(参照)。これは JT の調査に基づいているらしいが、平成 25年の成人男性の平均喫煙率は 32.2%だったらしい。3人に 1人弱である。昭和 40年以降のピーク時 (昭和41年) の 83.7%から、45年間で 51ポイント減少したことになる。

11年前の平成 14年に、成人男性の喫煙率が始めて 50%を切ったと発表された頃は、そんな実感は全然なかった。飲み屋はもちろん、喫茶店でもレストランでも、依然としてたばこの煙に悩まされていた。

それも道理、この年の成人男性の平均喫煙率を下げたのは 60代の 34.5%という数字で、20代から 50代までは依然として 50%以上だったのである。世の中に出てくるマジョリティのマジョリティが、まだ喫煙者だったのだ。

ところが平成 18年以後は、すべての年代で喫煙率が 50%を切るようになった。今年の調査では、40代が 41.0%という以外は、ほとんどが 30%台である。注目すべきは 20代の喫煙率が 29.9%と、60代の 23.8%に次いで低い。今やたばこを吸うのは、カッコいいことではなくなってしまっているようで、この価値観は好ましい。

ちなみに、今は 60代の成人男性の喫煙者は 4人に 1人弱だが、10年前の平成 15年の調査では、50代の喫煙率が 50.3%と、過半数だった。つまり 50代男性が 60代になるまでの、この 10年の間に、喫煙していたうちの 2人に 1人以上が死ぬか、たばこを止めるかしているのである。

さらにデータをよくみると、今年 40.1%と最高の喫煙率を示している 40代成人男性だが、10年前の 30代の時の喫煙率は 56.3%となっている。つまりこの年代の喫煙率も、この 10年間で 16ポイント以上も下がっているということだ。そのうち、全体の平均喫煙率も、30%を切るだろうと期待される。

近頃は「全面禁煙」という飲食店が増え始め、そうでなくても禁煙席の方が大きなスペースを占めるようになりつつある。さすがに分煙の居酒屋というのはほとんどないが、それでも以前のように周囲から押し寄せるたばこの煙にむせ返ることは少なくなった。ようやく喫煙率の減少が実感される時代になってきた。

先日、同年代の仲間が居酒屋に集まって忘年会をしたが、参加した 8人の中に喫煙者は 1人もいなかった。ちょっと前は、4~5人集まると必ず喫煙者がいたが、最近はこんなことも珍しくない。ありがたいことである。このくらいになると、たばこを吸う方がずっと肩身が狭いことになる。

近頃は口臭を気にする人が増えて、対策グッズもいろいろ出てきているが、その割にスモーカーはなぜか、自分が「ヤニ臭い」ことをあまり気にしないようなのである。実はノン・スモーカーにとって、スモーカーの「ヤニ臭さ」は、口臭のひどい人と同じくらい気になるのだがね。

 

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2013年12月29日

確かに、靖国には韓国人の英霊も祀られてるんだが

7年以上も前に「靖国問題は、もううんざり」なんでいう記事を書いた割には、3日連続の靖国ネタである。うんざり感には変わりはないのだが、まあ、止むに止まれずというところなので、お許し頂きたい。

産経新聞の外信コラム「ソウルからヨボセヨ 韓国人の英霊にも」という黒田勝弘記者の署名記事に次のような主張がある。

靖国神社には日本とともに戦ってくれた台湾の人や韓国人の英霊も多数、祭(原文ママ)られている。その中には戦犯として処刑された韓国人の霊も含まれている。安倍首相は参拝に際し彼らにも感謝と慰霊の言葉を発すればもっとよかった。今の韓国が何といおうとそれが日本としての誠意である。

というわけで、要するに安部首相の靖国参拝に関して、「靖国に祀られている韓国人の英霊に対しても、まとめて慰霊している」ってなことをきちんと言えばいいのだというようなお話である。

しかし私としては、そんなことを説明しても逆効果になると思う。言えば言うほど、「俺の身内を勝手に追悼するな」と、文句を言われるばかりである。日本軍に従軍して戦死した韓国人の遺族が、靖国神社に合祀取り消しを求める訴訟が相次いでいるのは、黒田記者としてもご存じのはずだろうに。

ところで私は、上述の 「うんざり」という記事より半年も前に、この件に関連して「『俺の身内を勝手に追悼するな』という理屈」という記事で、次のように書いている。

少なくとも我が国には、「他人を勝手に追悼してはならない」 なんて法律はない。

(中略)

で、同様に、「お前が勝手に俺の身内を追悼するのは気に食わんから、するな!」と言っても、「そうはおっしゃっても、追悼しないではこちらの気が済まないので、追悼させて頂いております」と言われれば、それ以上は何も言えない。

(中略)

靖国神社の場合は、位牌やお骨を祀るわけでもなければ、お墓を建てるわけでもない。一律に玉串料を要求するわけでもない。ただ名簿に記して、追悼するだけのことである。

というわけで、追悼しないではこちらの気が済まないということで、勝手に追悼させてもらっているのだから、淡々とひそやかにやればいいのである。「俺は韓国人の英霊もまとめて手を合わせてるんだ」なんてことは、ことさらに言う必要がない。

そんなことを言っても、「ああ、そうだったんですか。それはご丁寧にありがとうございます」なんてことにはなりっこない。かえって話がややこしくなるばかりである。

 

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2013年12月28日

靖国参拝問題をもう一度

昨日の「靖国問題について、個人的な感慨を述べる」という記事の続きである。

昨日は、今回の首相の靖国参拝がこれだけ国際問題となっていることの背景に、安部首相の右翼的なナショナリストというイメージがあるだろうというようなことを書いた。「フィギュア・スケートの採点が、前評判に左右されやすいようなもの」ということだ。

さらにもう一つの要因がある。これは書こう書こうと思いつつ、いつも書きそびれていたことなのだが、日本政府の情報発信が決定的に不足しているということだ。官房長官が今頃になって、「首相の靖国参拝、粘り強く説明すれば理解得られる」なんて言ってるようでは、寝ぼけすぎである。

やってしまってから、「あ、あれはね……」なんて説明していてはしょうがない。やる前に、というか、米国から「自制要請」があった時に、きちんと日本の立場を説明しておくべきだったのである。

いや、それだけでは足りない。中韓へのカウンター・ロビーをきちんとしておくべきだった。韓国が「性奴隷」キャンペーンを大々的にするから、米国の国会議員にはそれをまともに信じてしまうのが出てきている。マスコミもそんなふうに思い始めている。

そんな風だから、前の韓国大統領のイ・ミョンバクが竹島に上陸した時ですら発せられなかった「失望」なんて言葉が、米国から発せられるのだ。

日本人は、道理というものは「以心伝心」で通じるなんて思っているが、実際には言わなきゃ通じないのである。それも一度だけじゃなく、何度も何度も繰り返して言い続けなければ通じないのだ。

そんなことはフツーの日本人ならビジネス上でいやというほど経験しているはずなのに、政治家はわかろうとしない。とくに外交では全然ダメだ。安部さんは信条を曲げないことをアピールするために、あえて参拝したんだろうが、アピールのターゲットが国内の支持者向けに限定されてしまっている。

馬鹿馬鹿しいことだが、仕方がない。ウソでも百遍言えば本当になったりするのが、世の中というものである。本当のことなら言わなくても通じるなんてことはない。なにしろ、「本当のこと」がいっぱいあったりするのだから。

 

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2013年12月27日

靖国問題について、個人的な感慨を述べる

安部首相の靖国参拝に、中国と韓国のみならず、米国、EU、そしてロシアまで尻馬に乗ってかなり激しい調子で否定的なコメントを出している。

小泉さんが首相時代に靖国参拝した時には、中韓のお約束の非難コメントを除いて割と平静だったのに、安部さんの場合は、やはり右翼的なナショナリストという評価が加わって、こんな事態になっているのだろう。フィギュア・スケートの採点が、前評判に左右されやすいようなものかもしれない。

米国としては、「放っといたら、今にもやっちまいそうだから、ちょっとブレーキをかけとこう」というわけで、何度か自制を求めていたのに、より強くアクセル・ペダルを踏まれる結果になったので、"disappointed (失望)" という言葉が出てきたようだ。「あれだけ言っといたのに!」ってなことなのだろう。

ところで私自身は、三親等以内に戦死した人は 1人もいないという、還暦を過ぎたオッサンにしては珍しいほどの幸運な存在だが、それでも九段辺りに用があって行く時には、時間の許す限り靖国神社に参拝している。

太平洋戦争当時の日本の姿勢が正しかったとは、いくら私でも考えない。その辺りの歴史観は、大方の考えと大きな違いはない。しかし、そのことと兵士として国に殉じた英霊の慰霊ということとは、分けて考えている。誤った戦争だったからといって、そこに殉じた兵士たちの思いまで否定し去るという無残なことは、私としてはしたくない。

英霊に敬意を表するという行為を通して、戦争を否定し、世界平和を祈ることが、何だかあまりにも優等生過ぎるような感じもあるが、紛れもなく私にとっての靖国参拝だ。

というわけで、靖国神社を政治プロパガンダのツールとして使うが如き傾向には、私も違和感を覚える。いわゆる右の方の人たちが、靖国問題に関連してステロタイプな言辞を声高に語り始めると、私にしても「ちょっと違うな」と思ってしまうのである。

小泉さんの時には大した問題にされなかったのに、安部さんがやるとこんなことになるというのは、このあたりの感覚を物語っていると思ってしまうのだ。靖国参拝はさりげなく行うのがいい。首相を始めとする、時の政治家たちが参拝しにくいみたいだから、せめて自分が参拝させてもらおうというぐらいの思いで行くのが、ちょうどいいみたいな気がしている。

誤解されないために最後に付け加えておくが、靖国問題では右側のステロタイプにも違和感を覚えるが、どちらかといえば、左の方の人たちのステロタイプの方に、「違うな」 という思いをより強く抱いてしまうのが、正直なところだ。今回の個別の問題にしても然りである。

 

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2013年12月26日

Real Player ユーザーは、Baidu IME を削除した方がいい

中国発の日本語変換ソフト、Baidu IME のウィルス並みの悪さが話題になっている(参照)。この日本語変換ソフトを使っていると、パソコンに入力した文字列が全て外部に送信されてしまうのだそうだ。これじゃ、プライバシーも何もあったもんじゃない。

名だたる大学や官公庁で、軒並みこの IME が使われていたというのだから、かなり驚きだ。どうしてこんな怪しいソフトを使っちゃうのかというと、他のプログラムをダウンロードした際に、さりげなく抱き合わせでインストールされてしまい、その後はそれまで使っていた日本語変換ソフトを押しのけて、デフォルトで使われてしまうからだ。

これ、実は私も覚えがある。ずいぶん前のことだが、Real Player というソフトをダウンロードした際に、知らぬ間に抱き合わせでインストールされてしまったのだ。私の場合、幸いにしてすぐに気付いて削除したので、あまり問題はないと思うが。

読売新聞の記事では「バイドゥ IME は、無料ソフトの配布サイトなどで、表計算や文書編集のソフトと『抱き合わせ』で配布されていることが多い」とあるが、「表計算や文書編集のソフト」だけじゃない。Real Player は最も要注意である。

ちなみに「表計算や文書編集のソフト」というのは、多分キングソフトのオフィスセットだと思う。キングソフト関係では、インターネット・セキュリティでも抱き合わせインストールされてしまうようだ。キングソフトというのは元々中国の会社だし、とにかく要注意だ(参照)。

私が Baidu IME インストール直後に異変に気付いたのは、単語登録してある言葉がいつものように変換されなかったからである。いつも使っている Atok が何かの拍子に MS IME に変わっているというのはたまにあるが、この時は Baidu IME なんてものに入れ替わっていたのだ。私は頭にきて、Real Player なんてソフトは絶対に使わないことに決めた。

私は先月、「どうして単語登録の手間を惜しむ?」という記事を書いたが、まめに単語登録をしていると、IME が入れ替わった時にすぐに気付くという、副産物的なメリットまであるのだよね。そんなわけで、手間は惜しまない方がいい。

抱き合わせインストールというのは、他のソフトでもないわけじゃないが、日本語変換という最も基本的な部分で、断りもなく勝手に入れ替わってしまうというのは、どうみてもまともなやり方じゃない。完全に「ウィルス」と言っていいと思う。中国は、またしても評判落としてしまったようだ。

ちなみに、Baidu IME を削除しようとすると、妙な萌えキャラが登場して引き留めるというのも話題になっているが、私の時はどうだったか、よく覚えていない。そういわれてみれば、なんか変なのが出てきたような気もするが、何しろ頭に来ていたから、そんなのが出てきても全然お構いなしに、一気呵成にアンインストールしちゃったのだろう。

 

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2013年12月25日

"Today's Crack" 連続 10年毎日更新を達成

当ブログは「毎日更新」を謳っているが、実は本日、連続 10年の毎日更新を達成した。この間に閏年が 3回あったから、3,653日間、毎日更新してきたのである。我ながら、よくまあネタが枯れなかったものだ。

実は私のもう一つのブログである「和歌ログ」の方は、一足先に今月 2日に、毎日更新連続 10年を達成した。この Today's Crack の方が早くからスタートしていたのだが、しばらくの間は「ほぼ毎日更新」というスタイルで、掛け値なしの毎日更新に移行したのは、和歌ログ以後だったのである。

俗に「十年一昔」なんてことを言うが、ネットの世界は「ドッグイヤー」と言って、7倍の速さで時間が流れるそうだから、ブロガーとしてはもう「古稀」である。だったらこの際だから、「老いてますます盛ん」ぐらいのことは言っておこう。

ちなみに、ココログは今月で 10周年なのだそうだ。記念ページが公開されているが、相変わらず子供のおもちゃ箱をひっくり返したようなゴチャゴチャした色遣いで、「なんだかなあ」と思ってしまう。私としては「知のヴァーリトゥード」という本宅サイト内での更新が長かったので、コラムの更新をココログで行うようになったのは 9年半前からである。

思い出してみれば、10年前に @nifty が「ココログという weblog」を始めると大々的に宣伝していたが、「それって、一体何?」と思っていた。翌年の 7月に「コラムを更新するには、こっちの方が楽そうだな」と気付き、利用するようになった(参照)というわけなので、半年遅れではあるが、ココログの中でも結構な古参ユーザーではある。

そういえば 11月 30日の記事で、今後は「チョー枯れた境地」というものに新たな発見を求めるなんてなことを言ってしまったから、だんだんそんなようなところを垣間見せるようなことにしていきたい。

それにしても、このブログは単なる酔狂でしかないから原稿料も発生しないのに、我ながらよくやってきたものである。いや逆に言えば、単なる酔狂だからこそ続いてきたのかもしれない。

こうしてみると、人間を突き動かすのは金だけじゃないということがよくわかる。金のことを考えていたら、こんなバカなことはできない。見方を変えれば、人間はちょっとだけバカな方が楽しいということでもある。

私の父方の祖父である得明和尚は、「坊主は金儲けに走ってはならない」 との考えのもとに、好んで一生貧乏暮らしを貫いた人である。そして死んだ時には近郷近在の和尚さんが集まって、「得明和尚こそ、本当の和尚だった」と偲んでくれたそうである。

私には得明和尚ほどの徳はないが、金儲けに走らないというキャラだけは確実に受け継いでしまったようなのである。そして「こんなもの受け継いでしまって、エラい損をこいた」なんてことも思わず、むしろ 「受け継いでよかった」 なんてノー天気なことを考えている。

それなら高い徳まで受け継ぎゃよかったのだが、それは今後の修行だと思うことにしよう。

 

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2013年12月24日

小学校から英語を正式教科にするんだそうだが

文部科学省は中学校の英語授業を、原則として英語で行う方針を決めたのだそうだ。さらに、20年度から小学校の英語教育の開始時期を現行の 5年生から 3年生に引き下げ、5,6年生では英語を正式な教科とするという。

私はこの問題に関して、6年半ほど前に「早けりゃいいってもんじゃなかろう」という記事を書いていて、今でも言いたいことはほとんど変わっていない。私は要するに、安易な英語教育の早期化は、子どもたちが「英語嫌い」になるのを早めるだけという結果になると思っているのである。

私は件の記事の中で次のように言っている。

どうせ小学校 5~6年の英語なんて言うのは "Good Morning." "Thank you very much." "My name is ****." に毛の生えた決まり文句ぐらいのものだろうから、そんなのは後になってすぐに覚えられる。

中学校に入ってからほんの数時間で覚えられるものに、小学校高学年の貴重な時間を百何十時間も割くというのは、やはり馬鹿馬鹿しい気がするのである。

英語に限らず、人間が言語を操るには「言葉センス」というのが結構大きな役割を果たす。野球をする際の「野球センスがいい」とかいうのと同様に、「言葉センス」というのがあるのだ。言葉センスのいい子は、別に学校で詰め込まれなくても、環境さえ整えれば、日本語でも英語でも勝手に上達する。

考えてもみるがいい。いくら学校で体育や音楽や美術を教えても、すべての子どもたちがスポーツや音楽や絵が得意になるわけじゃない。義務教育で 9年も音楽をやりながら、楽譜を読める大人がこんなにも少ない事実をみれば、小学校から英語を教え始めたところで、英語力が全体的に底上げされるなんて、期待できるわけがないとわかる。

英語を体育や音楽や美術と一緒にするなという人もあるかも知れない。それならば、同じ言語系の「国語」を例に取ってみよう。小学校から中学、高校まで、10年以上も「国語」を教えられたからといって、日本語をまともに使える日本人がどれだけいるか。

情感を的確に言葉で表現したり、ものごとの筋道を順序立てて論理的に説明できたり、人に読ませてわかるような文章を書けたりする日本人がどれだけいるか、考えてみるがいい。

学校だけでなく、日常生活でどっぷり浸かっている日本語にしてからが、学校で何年教わっても、まともに使いこなせないのである。ましてや英語となったら、「高校卒業時点で『英検 2級か準 1級程度』の語学力を習得させる」なんて、ほとんどおとぎ話である。

日本という国は、何も英語なんか使えるようにならなくても、日常生活ではほとんど困らないから、他の国と比較して英語力が落ちるのは当然なのである。英語を身に付けなければ学問やビジネスができないみたいな国だったら、英語力は嫌でも高まる。

逆にこの国では、英語を学ぶ時間を処世術の修行に当てる方が、まともに出世できたりする。こつこつと英語を学んでいっぱしの 「英語使い」 になると、下手したら企業内で疎んじられ、特殊なケースでしか出番が用意されない便利屋扱いになってしまったりする。つまりこの国では、英語を必要とされるのは、「特殊なケース」でしかないのだ。

私が期待するのは、せめて子どもたちが「英語嫌い」にならないように、楽しく英語に接することができるような環境を作ってもらうことだ。そして英語が「特殊なケース」以外でも気楽に使われる「便利な道具」になればしめたものだ。それだけで、日本人も多面的な思考ができるようになる。

しかしこれも他の教科と同様に、個々の教師の質によって、楽しく学べたり、苦痛でしかなかったりするのだろう。せいぜい、いい教師に巡り会えるように祈ることだ。

 

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2013年12月23日

「類は友を呼ぶ」 から一歩踏み出たところで

ちょっと半年遅れの紹介になってしまうが、「マイナビニュース」に「自閉症スペクトラム障害の人は、自分に似た物語に高い理解を示す - 京大など」 という記事がある。内容を説明するのはやたら手間がかかるので、リンク先の元記事にも飛んで、一応ざっと目を通してもらえるとありがたい。

こういう記事に興味を示してしまうのは、私自身が自分のことを「アスペルガー 1歩手前」なんて言っているぐらいで、何となくこうした傾向をもつ人々が生きやすい社会の方が、私自身も気が楽だろうになあなんて思ってしまうからである。「空気を読む人」ばかりが重宝がられる雰囲気の中にいると、私は息が詰まる。

元記事からちょっと引用してみよう。

京都大学は6月24日、福井大学、金沢大学との共同研究により、「青年期高機能自閉症スペクトラム障害 (Autism Spectrum Disorder: ASD)」を持つ人に日常的なできごとが書かれてある物語文を読んでもらい、文の読み時間と自閉症尺度との相関分析の結果、実験参加者の ASD 傾向が高いほど、定型発達 (Typically Developing: TD) の人物が書かれた物語の読みに時間がかかることがわかり、文の再認の結果、ASD 群は自分と類似したASD の人物が書かれた物語の検索に優れることが明らかになったと発表した。

ずいぶんもってまわった風の面倒な文章になっているが、要するに、ごくフツーの人はごくフツーの人の物語を理解しやすく、自閉症傾向の人は、自閉症傾向の人の物語を受け入れやすいということだ。もっと煎じ詰めれば、「人は自分と共通点のある人の物語ほど理解しやすい」 ってことなのだろう。まさに「類は友を呼ぶ」のである。

とすると、世の中には「ごくフツー」の人の方がずっと多くて(だからこそ「ごくフツー」と認識されるのだろうが)、つまり多数派を形成するから、自閉症傾向の人は少数派である。で、自閉症傾向の人は少数派である上に、多数派の連中を理解するのが苦手だから、どうしても不利になる。

もし、現状の「ごくフツー」な連中の数が極端に減ってしまって、自閉症傾向の人の方が多数派になってしまったら、現状で「ごくフツー」と思われている態度の方が、「やたらわざとらしい浮わついた」ものに感じられて、自閉症傾向の多数派に「あいつら、妙にベタベタして、ウザイなあ」なんて思われることになるかもしれない。

つまり、世の中「いろいろあるからおもしろい」と思うぐらいの心の余裕が欲しいのである。多様性があるからこそ、人間は亡びずに済んでいるのだから、「類は友を呼ぶ」から一歩踏み出たところで生きていければ、世の中そんなにぎすぎすしなくなるだろうに。

 

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2013年12月22日

「誤嚥」という言葉について

「誤嚥」という言葉がある。「誤った嚥下」ということで、つまり水分や食物を嚥下する時に、間違えて食道ではなく気管の方に送り込まれて、むせてしまったりすることだ。「誤嚥性肺炎」などという言葉もあって、誤嚥が原因となっての肺炎のことである。誤嚥は 「あぁ、ムセちゃった」だけで済むものじゃなく、結構恐ろしいものなのだ。

で、今回のテーマは、「誤嚥」の恐ろしさや、誤嚥を避けるための注意とかいうものではなく、「誤嚥」という言葉自体についてである。なんでまた、こんなに身近なことが「誤嚥」なんていう小難しい言葉で表現されるのかということだ。

「嚥」という難しい漢字が使われることに関しては、フツーに考えれば、「嚥み込む」という場合に「飲む」という言葉との差別化がきちんと行われなければならないからだろう。「飲む」では、酒とは限らないまでも、どうしても液体でなければならないというイメージがある。「呑む」にしても、かなりそれに近い。

ところで、公式の日本語では「嚥」という漢字には「の(む)」という訓読みはないようで、上記の「嚥み込む という表記は、かなりイレギュラーなものである。個人的には「嚥」という漢字は「の(む)」 と訓読したいところなのだが。

まあ、そんなような面倒な事情もあり、「誤嚥」 という言葉が結構広まっているのだが、「あぁ、苦しかった、誤嚥しちゃった」なんていう言い方はまだ「ごくフツー」というところまでは来ていない。そこまで一般化するには、今イチである。

「誤嚥」という言葉が難しいからといって、簡単な言い換えを探してもなかなか見つからない。せいぜい上述の「ムセちゃった」がよく聞かれる程度で、あとは「気管に入っちゃった」なんていうチョー即物的な言い方があるぐらいである。

ちなみに「嚥下する」ということを英語ではどう言うのかというと、"drink" ではなく、"swallow" である。ここで「嚥」という漢字にも「燕(ツバメ)」という字があり、英語の方もツバメと同音異義語なので、両方とも鳥のツバメが餌を丸呑みするのが語源なんじゃないかと思いたくなるのが人情というものである。

ところが、どうやらそうじゃないらしい。「人力検索 はてな」 のページ (参照) によると、嚥下するという意味の "swallow" の語源は、古英語の "swalgan" で、さらに辿るとゲルマン語(注)の "schwelgen" に行き着くらしい。ツバメとは別系統の言葉のようなのだ。ふぅむ、残念。

また、中国語では「嚥下」という言い方はしないらしいのだ。確かに手持ちの「携帯 新漢和中辞典」(三省堂・刊)にも「嚥下」 いう熟語は載っていない。どうやら「嚥み下す」という和語に当てられた和製熟語のようだ。

さらに「嚥下」の読みはフツーは「えんげ」が優勢だと思うが、「えんげ」「えんか」の両方ありのようなのである。Atok ではなんと「えんげ」では変換されず、「えんか」でないと「嚥下」にならない。ちょっとびっくりである。

また「誤嚥」 の英訳に関して、Weblio で調べると、次のように出てくる(参照)。

breathing in (of a foreign body, food, etc.)
pulmonary aspiration
mis-swallowing
swallowing down the wrong pipe
accidental swallowing

私としては、"swallowing down the wrong pipe" (違う方の管で嚥み下しちゃう) という言い方がものすごく気に入った。

【注】
この箇所、参照先の「人力検索 はてな」では「ギリシャ語」ということになっているが、hokkaidense さんからでゲルマン共通祖語から来ていると指摘するコメントをいただいたので、修正させていただいた。

 

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2013年12月21日

雪道歩行は、テクニック云々より滑りにくい靴をはくこと

雪や氷の上を歩いても滑りにくい安全な歩き方」という YouTube の動画が話題になっている。スキーのインストラクターが、わざと底がツルッツルの靴を履いて、雪の上を歩いてみせている。

このインストラクターは、「テレビで言われてるように爪先で歩こうとすると、滑ってしまいます」と言っている。確かに、爪先で歩くと後ろになった足で地面を蹴る時につるっと滑る。彼が言うには、足を体よりも前方に出して歩くといいというのである。

この動画のコメント欄には本日の 14時 30分現在で 6件のコメントがついているが、そのうち 4件は否定的で、残りの 2件も肯定的というわけではなく、単なるジョークである。一応雪国生まれの私としても、「このビデオをまともに信じたら、アブナいよ」と言わざるを得ない。

まず、このビデオで語られているテクニックは、スキーヤーの発想が勝ちすぎている。つまり、地面はきれいに降り積もった雪で、その上を行く自分の体は、自然に前に前に移動しているということを前提に語られている気がする。この前提でいえば、確かに足も前に前に出して行かなければ、重心がくずれる。

そしてこのビデオは、意図しての事かどうかは知らないが、ほんのわずかな下り坂で撮られているので、ほっとけば体が前に進むという条件に合致する。そのため足も前に前に出して行く歩き方で、結果オーライなのだ。しかし平らな雪道では、人はおっかなびっくり歩きがちなので、その状態で足を積極的に前に出したら、尻餅につながる。

ちなみに、爪先で歩くとスリップしがちというのは、半分本当で半分ウソだ。具体的に言えば、雪道で爪先から着地する人なんてまずいない。つるっと滑るのは、体の後ろになった足の爪先で地面を蹴る時だ。

しかしこれはこれで、「後ろで爪先が僅かに滑るけど、尻餅にはつながらない」ということが言える。私なんか、後ろ足に多少つるっという感覺のある方が、かえって安心したりする。それは、とりあえずその一歩における尻餅の可能性を切り抜けたという証明だからだ。

さらに実際の雪道は、このビデオにあるように新雪が積もっているという生やさしい状況ばかりではない。最も危ないのは、アイスバーンになってしまっている状態だ。アイスバーンでこのビデオの歩き方をしたら、もんどり打って尻餅をつく。尻餅どころか、ひどい時は体が水平になったように落ちてしまうこともある。

このビデオのインストラクターは、「損をしないでエコです」(2分 20秒あたり)と言っている。ちょっとしたスリップによるエネルギーのムダを避けて、効率的に前に進むために、積極的に足を前に出すことを勧めているわけだ。これこそが、私が「スキーヤーの発想が勝ちすぎている」という所以である。

実際の雪道で重要なのは、多少エネルギーのムダをしても、尻餅をついたりしないことの方なのだ。尾てい骨を痛めたりしたら、大変なことになる。もんどり打って体が水平に落ちたりしたら、大腿骨を痛めかねない。年寄りがそんなことになったら、後は寝たきりになって、頭までぼける。

アイスバーンになってしまったら、どんなにテクニックが上達しても、底が平らな靴では滑る。さらに、ビルの入り口の鏡のように磨かれた大理石や、工事中で鉄板が敷かれているところなどに少しでも雪が積もったら、少しも滑らずに歩くのは不可能に近い。

結論を言えば、「雪が降ったら、底が平らな靴で歩くなんてバカなことはしない」ということに尽きる。雪国生まれは何かというと、「都会の人間は雪道の歩き方が下手だねえ」と言いたがるが、実際には彼らが滑らずに済むのは、テクニックより靴のおかげなのだ。雪国の靴は、靴底が滑りにくいようになっている。

Img_7678

写真は、私のもっている雪道用のブーツの底。滑りにくいギザギザがついている上に、かかとのところに折りたたみ式のスパイクがある。とくに滑りやすい道では、このスパイクを起こしてやる (右側が、スパイクを起こしたところ)。これで安心だ。

これは車の運転でも同じだ。いくら雪国生まれでも、ノーマル・タイヤで雪道を走るのは辛い。雪国のドライバーが、全員プロ並の雪道走行テクニックをもっているわけではないのに、結構安全に走れるのは、テクニック以前に、まずスタッドレス・タイヤのおかげなのである。

だから、都会の人間も雪道で滑って病院に担ぎ込まれたくなかったら、冬の間だけでも滑りにくい靴を履いて、雪が降ったらそれで慎重に歩くことだ。

 

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2013年12月20日

猪瀬さん、本当に友達がいないんだなあ

今月 10日に「猪瀬さんへの集中砲火ってすごいなあ! と、ただ驚く」という記事で、「猪瀬さん、友達がいないんだなあと、少し同情したくなる」と、誤解されかねないことを書いてしまった。まあ、最後まで読めば、決して同情なんかしてないということがわかるはずなのだが。

ただ、私としては水に落ちた犬をひたすら叩くという、政治家の品性のなさに少し興醒めしていたのである。それで、猪瀬さんが水に落ちた犬になる前に叩いた人はいないのかと、ちょっと調べたら、ちゃんといたのである。

それは、米国在住映画評論家の町田智浩氏だ。彼は 9年も前の 2004年 2月 21日の時点で、猪瀬さんについてムチャクチャ書いている。「テレビを見ていると猪瀬は偉そうで偉そうで、ムカムカしてどうしようもなかった」という動機で猪瀬さんを脅迫して捕まったオッサンに、ものすごく同情しているのだ (参照)。

なぜなら猪瀬は全身から 「オレは利口でお前らはみんなバカだ光線」 を発してるから、見るだけで非常に傷つけられてしまうのだ。

猪瀬の態度は不特定多数への侮辱罪として有罪にできないんですか?

(中略)

オイラも、そのオッサンと同じく猪瀬の本など一冊も読んだことないし、テレビで言ってる政治や経済のこともさっぱりわかりませんが、猪瀬が品性下劣な人間なことくらいはわかる。

だって本当に偉い人は、絶対に猪瀬みたいに偉そうにしないですよ。

というわけで、石原前都知事が「猪瀬は人望がない」と言っていたという理由がわかった。あの石原さんにそう言われるぐらいだから、よっぽどの嫌われ者だんだろう。「友達がいないんだなあ」と感じた私は、どうやら正しかったみたいなのである。

彼は本当に頭がよくて上品な人と付き合ったことが、多分ないんだろうと思う。中途半端に小利口なやつがバカばっかりと付き合うと、自分がよっぽどデキル人間だと勘違いしてしまうことがある。まあ、周りをみるとそんな例はくさるほどあって、がっかりしてしまったりするのだ。

猪瀬さんって、そうした例の典型みたいなのだよね。とにかく石原さんにしてからが、上品じゃないから。

都知事選というのは、あの青島さん以来、「どうして、よりによってこんな人が選ばれちゃうんだ?」 と驚くほど、愚かな結果しか生んでいないと、私には思われるのである。だから、来年早々の都知事選でも、まともな人が選ばれるなんてあまり期待しちゃいけないのだと、今から予防線を張っている。

 

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2013年12月19日

サンタクロースは、本当にいるんだってば

今年も私の運営するサイトの中で最も美しいページに、アクセスが急増する時期になった。それは "サンタクロースは本当にいる! クリスマス・イブは、「大きな愛」 を知るチャンス" という 10年前に書いたページである。

「サンタクロースって本当にいるの?」と子供に聞かれて返事に窮したら、どうぞこのページにアクセスしてみていただきたい。

自分で読み返しても、浮世の垢にまみれたオッサンが、よくもまあこんなに素敵なことを書けたものだと、感動してしまう。このページに日本全国からアクセスしてくれる人がいるだけでも、サイトを運営する甲斐があるというものである。

このページ、普段は 1日に数件のアクセスしかない。ところが毎年 11月半ば頃からじわじわと増え始め、今年は 12月に入ってから、1日に 300件以上のアクセスを記録し始めた。先週の土曜日からは 500件/日を越し始めたから、もしかしたら今週末からの 3連休は、1000件/日ペースになるかもしれない。

試しに 「サンタクロース/本当にいるの」の 2語のキーワードでググってみたら、私のページがめでたくも、約 955万ページの中でトップにランクされている。「サンタクロース/本当にいる」の 2語でも、同様の結果だ。3年前は 169万ページのトップだった(参照)から、同じトップでも重みが違う。ありがたいことである。

3年前の記事では、このページへのアクセスが一時ほどではなくなってきて、12月になっても 3桁のアクセスがないというようなことが書いてあるが、今年はまた増えていて、3年前のおよそ 3倍ペースのアクセスがある。ありがたいことである。

昨夜、出張からの帰り道、常磐線の快速電車に揺られていたら、近くに座っていた若いサラリーマンの 2人組が、こんな会話をしていた。

「子供のクリスマス・プレゼントって、早目に買うと隠し場所に困るよね」
「え? でも、まさかサンタクロースなんて、もう信じてないでしょ?」
「いや、下の子はまだ信じてるよ」
「へえ! 今どき、純真だねえ」

私は 「まさかサンタクロースなんて、もう信じてないでしょ?」という若いお父さんの発言を聞いて、ちょっと悲しくなったのであった。家に帰って、私のページを読んでくれないかなあ。ちょっとググれば必ずヒットするんだから。

 

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2013年12月18日

伊勢海老の価格高騰というお話

月曜からの出張中にホテルのテレビで見たニュース番組で、「おせち料理用の伊勢海老の価格高騰」が話題になっていた。例の「虚偽表示」問題で、業者がにわかに「正直な表示」を始めた結果で、価格は例年の倍近くになっているという。

「漁師も流通関係者もびっくり」なんだそうだが、これまではいわゆる「虚偽表示」がどれだけ多かったんだよと思わせるに十分なニュースだ。

私の感覚だと、これまでは「伊勢海老」と表示していたものを、正直に「メキシコイセエビ」とか「ウチワエビ」とか、あるいは単に「エビ」と表示して売ればいいだけと思うのだが、そこは縁起物だけに、そうはいかないらしい。

番組では街を行く消費者の代表として、いかにもセレブ風の若奥様と、いかにも苦労人タイプのおっさんの 2人がコメントを述べていた。あまりにも「いかにもすぎる」人選で、ちょっと微笑ましいぐらいではあったのだが。

若奥様は、「国産の本物なら、高くても許せます」と、きっぱり言い切る。上質そうなカシミア・コートを着て、「高いのは困りますぅ」なんていうコメントをしても似合わないから、まあ、いかにも役どころを心得ている。

これまでは本物かどうかわからないものに結構な金額を払っていたのに、今年は信頼できる本物(であろうもの)が手に入るのだから、それなら高くてもいいということなのだろう。

変な騒動があった後だけに、心理的満足感はより高くなるということか。意地悪な言い方をすれば、「何も知らずにこれまで通りの『なんちゃって伊勢海老』を食ってる方が幸せ」 という気もするが。

一方、いかにも苦労人風のおっさんも、十分に役どころを心得ている。カメラを向けられながら、「いやあ、高いのは困るねえ。正月どうするの?」と、ひたすらぼやいて見せる。

私なら、それこそ 「代用品をこれまでより安く買えるチャンス」と言いたいところだが、そんなコメントはボツになるに決まっている。ニュース・ショーとしては、この 2人を登場させたら、あとはいらないというぐらいの、理想的なコメントが取れたわけだ。あまり理想的すぎて、やらせじゃないかと疑いたくなるぐらいである。

なんとなく、海老そのものよりも「スペックを買っている」という気がするようなお話だが、まあ、人は実質よりスペックが好きだったりするからなあ。

 

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2013年12月17日

今日も今日とて旅の空

今日も今日とて旅の空で、長野で一日仕事をしてから、名古屋に来ている。伊那谷から名古屋までは、JR で 5時間ぐらいかかるので、どうしたものかと思っていたところ、地元の人から高速バスなら 3時間で行けると聞き、早く、しかも JR より安い値段で移動できた。やはり地元情報にかなうものはない。

ただ、明日の名古屋はほぼ確実に雨になるらしい。出張先で、しかも仕事本番の日に雨になるのは、晴れ男の私としては 5年に 1度あるかないかぐらいの珍しいことだが、まあ、仕方がない。なんとか対応しよう。

今日はかなり疲れてしまったので、これにて失礼。

 

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2013年12月16日

クリープウェアにご注意

PCのウェブカメラをシールでふさぐのは被害妄想ではない」 という記事があったので、てっきり「つり」 かと思ったら、案外マジな話だったので、さすがに驚いた。

ノートン博士でお馴染みのシマンテックが、「クリープウェア: 誰かに見られているかもしれない」という記事を挙げている。ラップトップ PC に付いている web カメラを遠隔操作してこっそり「覗き」をはたらき、画像をばらまくと言って恐喝までする奴がいるのだそうだ。

その手口はこんなのであるらしい。

クリープウェアで恥ずかしい映像を撮る手口としては、被害者のPCの画面に「ウェブカメラの内部センサーのクリーニングが必要」との警告メッセージを表示させる手口が報道されたという。具体的には「カメラの内部センサーをクリーニングするにはPCに蒸気を当てる必要がある」と指示され、被害者の何人かの女性はPCを浴室に持ち込んだため、シャワーを浴びている映像を盗撮されてしまったということだ。

おいおい、これはいくらなんでもネタっぽいんじゃないか。キーボードにコーヒーをこぼしただけで壊れてしまうというのに、よりによって、シャワーを浴びながら PC を開きっぱなしにするか?

いやいや、振り込め詐欺がこんなに話題になっているのに、被害が増加の一方というのだから、こんなのに引っかかる女子がいてもおかしくないのかもしれない。若い女の子は、web カメラ付きの PC を買っちゃいけないなんてのが、「ネット界の常識」になってしまいかねない。

そんなことなら、カメラ付きのスマホやタブレットが要注意になるのも、時間の問題だ。そのうち iPhone や iPad の自分側のレンズを隠すカバーなんていうのがはやるかもしれない。

 

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2013年12月15日

「成沢さん」 を巡る冒険

昔、「成沢(読みは「なりさわ」)」という名字のクラスメイトが何人かいたので、北朝鮮の「張 成沢」という人が処刑されたというニュースに接する度に、「ああ、成沢さんは、北朝鮮という国がますます嫌いになってることだろうなあ」と思い出す。結婚して最近「成沢さん」になったばかりの人なんて、その思いはいかばかりかと察してしまうのである。

それにしても、田舎を出てから「成沢」という名字の人に出会ったことがないので、ふと気になりググって見たら、この名字はどうやら山形県に多いらしいことがわかり、納得した。「名字由来 net」というサイトに、次のようにある (参照)。

現山形県の広域である羽前国村山郡成沢村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)最上氏流、氏家氏流、平氏などにもみられる。現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵にもみられる。「沢」は沢の地形を表す。

このページによると、「成沢」という名字には「なりざわ、なるざわ、なるさわ、せいさわ」という読みもあるらしいが、私の知っているのはすべて「なりさわさん」である。

庄内では 3音節目の 「さ」 にアクセントを置いて呼んでいたが、関東圏では平板になると思う。庄内の成沢さんは、関東に出てきて平板アクセントで呼ばれると、ちょっと改まった気分になって、新たなアイデンティティを獲得してしまうかも知れない。

ちなみに前述のサイトによると、「成沢」という名字が山形県 (およそ 1,200人)よりも多いのは、長野県(およそ 1,800人)であるらしい。ただ長野県には、「鳴沢」という独特の名字があり、次のように解説されている(参照)。

清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)斯波氏族。現長野県である信濃鳴沢氏は諏訪神党という説もある。近年、長野県に多数みられる。「沢」は沢の地形を表す。

ふぅむ、同じ清和源氏でも、なかなか奥の深いものであるらしい。

 

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2013年12月14日

何故年をとると 1年が短い? その2

いやはや、討ち入りの日がもう過ぎようとしている。もっとも、忠臣蔵の討ち入りは旧暦の 12月 14日だから、季節感から言ってももう少し真冬っぽい中で行われたのだが。

それにしても、時の経つのは早い。早い早いとは思っていたが、還暦を過ぎたらますます早い。こないだテレビで箱根駅伝を見たばかりだと思っていたら、もうこんな時期である。1年が 1週間より早いみたいな気がする。

「そう言えば、前にもこんなようなことを書いたような気がする」と思い、自分のブログ内をググってみたら、8年前に書いた「何故年をとると 1年が短い?」という記事が見つかった。なんだ、そんなに前から同じようなことを思っていたのか。我ながら進歩がないなあ。

この記事の中で、私はこんなようなことを書いている。

この時間感覚の加速度の理由が、先日の忘年会で話題になった。

私は、子どもの頃の 1年は、自分の全人生の数分の 1の比重だが、20歳では 20分の 1に減り、50歳では 50分の 1に過ぎなくなる。つまり、自分の来し方との比較で、相対的に短く実感されるのではないかという推論を述べた。

この推論、ちょっとググって見たら、実は権威ある心理学者が既に発表しているのと同じだったのである。それは「ジャネの法則」といわれるものなのだそうで、Wikipedia には 「簡単に言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)」 ということで、次のように説明されている。

例えば、50歳の人間にとって 1年の長さは人生の 50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては 5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての 10年間は 5歳の人間にとっての 1年間に当たり、5歳の人間の 1日が50歳の人間の 10日に当たることになる。

これは、19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが発案し、甥の心理学者・ピエール・ジャネが著作で紹介した法則なんだそうだ。なんだ、私の推論みたいなものは、別に目新しいものではなく、前々世紀の人間でもちょっと考えれば思いつくようなことだったのだね。

というわけで私としては、こんな機械的な発想よりも、上述の記事で紹介した私の友人の「長く生きていろいろな経験を重ねるにつれて、『感動』が少なくなるので、ただ淡々と時が過ぎるだけになるのではないか」という指摘の方を重く見たくなったりするのでる。

最近とみに「感動力」ってものが大切だと思うのだよ。感動がなくなると、頭もぼけるというしね。

 

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2013年12月13日

冬の蠅

さっき庭に出てみたら、大きな蠅が飛んでいた。いくら今日が上天気とはいえ、ちょっとびっくりである。関東は冬になったとはいえ、その冬というのは、ちょっと天気がいいと蠅が我が物顔に飛べるぐらいのものなのだ。

今日は、私の生まれた山形県庄内は冷たい雨模様のようで、日が暮れたら雪に変わるのが確実だ。それに比べると、関東はなんと、抜けるような青空の下、蠅が飛ぶのである。同じ日本と言っても、別の国の話のようだ。

私は 18歳で上京したのだが、その年の冬になっても、しばらくは冬になったと気付かなかった。5年前の「庄内 On My Mind」という記事に、こんなふうに書いている。

18歳の春に大学に入って上京した私は、その年の年末がよくよく押し迫るまで、冬になったとは気付かなかった。なにしろ、そんなに寒くないし、空は晴れ渡っているし、大学は紛争が長引いてずっとロックアウトされていて、夏休みからずっと休みが続いているようなもので、いつから冬休みなんだか、はっきりしなかったし。

私が東北日本海側で暮らしたのはたったの 18年間で、既にその倍以上の年月を関東で暮らしている。それなのに、私の体の根っこのあたりには、あの雪国の体感がしっかり残っていて、関東の冬に未だに馴染めないでいるところがある。

ただでさえ馴染めないでいるのに、近頃では冬でも蠅の飛ぶ温暖化である。「こりゃ、一体どうなってるんだ?」と思う。

こんなことを言っているうちに、正月頃にはもっと本格的に寒くなり、立春が過ぎても春めいた陽気にはなかなかならず、いつまでも寒さが続くのが、最近のパターンである。そして「寒い寒い、春はまだか」と呟いているうちに、いつの間にか大急ぎで桜が咲き、ふと気付くと半袖を着る夏になってしまっている。

いやはや、そんな繰り言を言っているよりもまず、とりあえずは年賀状を作らなければならないのだが、なかなかデザインが決まらない。私は毎年、年賀状のデザインにはちょっと凝りたい人なのだが、馬のモチーフって、ちょっと難しいよね。

 

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2013年12月12日

刑法犯罪は確かに減少しているが

世の中どんどん物騒になるとか、凶悪犯罪が増加しているとか言う人がいるが、統計的にみれば、刑法犯罪は近年ずっと減少傾向にある。今年も前年比で減少となるのは確実で、これで 11年連続で減少ということになるのだという(参照)。ありがたいことである。

ただ、こんなに長期間にわたって連続して刑法犯罪が減少しているというのに、世の中がちっとも良くなったように見えないのは、振り込め詐欺などの新たな犯罪と、いじめに関連する痛ましい問題が増加していて、それが結構目立ってしまうからだ。

振り込め詐欺は昨年に比べて 1.5倍に増加していて、最近は息子を装って助けを求める手口が陳腐化してしまったためか、 「還付金が振り込まれます」 と言ってだます「還付金詐欺」 というのが増えているのだという。

「振り込まれます」と言って、どうして逆に大金を振り込ませたりなんかできるのか、チンプンカンプンだったが、調べてみると、ATM の取り扱いに疎い年寄りに、受け取りのための操作をケータイでリアルタイムで教えてやると称して、実は振り込み操作をさせてしまうのだそうだ。これでは、だまされる方もずいぶんボンヤリ過ぎる話である。

こんな犯罪が多発するのも、世の中に年寄りが増えたからである。小金持ちで、近所の銀行までぐらいは難なく自分で歩けて、まだ多少の欲があって、自分のケータイを持っていて、そのくせ ATM の扱いには極めて不慣れという、条件設定としてはかなり厳しいフィルターを楽々通ってしまう年寄りが、今はうじゃうじゃいるのだ。

刑法犯は全体として減っているのに、高齢者の万引き件数が増えているのだという。これにしても、高齢者の手癖が急に悪くなってしまったというわけじゃなく、人口ピラミッドで高齢者人口が増えてしまったから、そうした数字となって現われるだけである。前世紀末には 「中年」 だった「団塊の世代」が、今は「高齢者」になったのだから、しょうがない。

「いじめ」に関しては、それが原因となっての自殺が立て続けにニュースで取り上げられたせいで、近年になって急に増えたように錯覚するが、元々多かったことが、最近になってようやく、きちんとニュースで取り上げられるようになったのだ。

ちょっと前までは「いじめ」の問題があっても、学校側が責任を取りたくないのでまともに対応してこなかっただけだ。学校側が対応せず、警察も動かないから、数字として現われなかったのである。最近はまともに取り上げられるようになっただけ、マシといえるかもしれない。

というわけで、刑法犯罪はただでさえ少なかったのに、総数としては近年ますます減少して、なかなかいいことのように見える。しかしこんな感じで世の中がどんどん「漂白」されるうちに、申し訳ないみたいな言い方だが、「おもしろみ」というものもどんどん失われているように思える。

7年後の東京オリンピックに向かい、ますますそんな傾向が強まるだろう。漂白され、機能化されすぎた社会に適応できない人間は、どうやって生きていったらいいのか、そこまでのケアを考えないと、アンダーグランドでの極端に嫌な現象となって出てきそうで、ちょっと心配だ。

 

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2013年12月11日

Windows XP と Office 2003 のサポート終了が近いので

Windows XP のサポートが来年の 4月 9日で終了するのは既によく知られているが、XP ユーザーはまだまだくさるほどいて、私の周りの年齢 65歳以上のほとんどが当てはまる。それでも彼らは全然心配していない。というか、心配するほどの知識を持ち合わせていない。

彼らの多くは、実際にはリスクのただ中に飛び込んでしまうほどのヘビーな使い方をしていない。ただ、リスクに関する知識がないだけに、サイバー攻撃に遭って何かの悪いプログラムに感染してしまったら、あっという間に自分がそれをまき散らす温床になってしまうことだろう。当人はまったく無自覚なままで。

所詮、対策をきちんとしたユーザーへの影響はほとんどなく、問題は無知な XP ユーザー同士でどんどん広まるだけと、私は思っている。そうなってしまってから助けを求められても、私はどうしてあげることもできない。

「もう打つ手はないから、その PC 廃棄してしまいなさい」と言うだけだ。既に 10年は使い続けてきたのだろうから、十分元は取ったはずだ。そして、ガラクタになってしまった XP マシンを廃棄したら、決して Windows 8 マシンなんて買わずに、iPad にしなさいと勧める。

Windows XP でオロオロしていた彼らが、スムーズに Windows 8 に馴染めるなんて、到底思われない。そろそろ PC なんてものと縁を切ればいいのだ。どうせ PC でなければこなせないような込み入った仕事をしているわけでもなんでもなく、これまでだって、PC に振り回されてヒイヒイ言ってきただけなのだから、いい潮時だ。

で、もう一つ忘れてはならないのは、Windows XP のサポート終了と同時に、MS Office 2003 へのサポートも終了するのだ。これは案外問題である。というのは、OS は Windows Vista なのに、Office は 2003 のままというユーザーも結構いるのだ。

実は私自身が、Office 2007 以後の「リボン」なんてものを使ったインターフェイスを使いたくないばかりに、ずっとしばらく Office 2003 に執着していたことがある。2007 に移行したのは、つい 3年前の、2010 発売直前だった。Windows 7 のマシンを買ったら、2007 がプリインストールされていたので、仕方なく移行したのである。

つまり、2007年以前に Windows Vista かなんかのマシンを買っちゃった層は、「XP じゃないから、大丈夫だもんね」なんて安心してしまって、Office 2003 のサポート終了に無頓着でいる可能性がものすごく高いのだ。

彼らが Office 2003 を狙ったサイバー攻撃に遭ったら、やっぱりヤバイことになる。まあ、対策をしっかり取っているユーザーにはほとんど関係のない話なので、助けを求められたら、やっぱり「その PC 捨てちゃって、iPad にしなさい」と言えばいいだけだ。

65歳以上のユーザーたちが、今後 70歳を過ぎてまで Windows 8 を使いこなせなくてヒイヒイ言い続けるのを見るのは、どうにも気の毒すぎる。どうせこの先、それほど長く生き続けるわけじゃないのだから、早く PC なんてものを諦めて、楽になってもらうに越したことはない。

それに、すっぱりと iPad に移行した方がストレスが減って、いくらか長生きできるかもしれないではないか。

 

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2013年12月10日

猪瀬さんへの集中砲火ってすごいなあ! と、ただ驚く

近頃忙しくてテレビを見ている暇もなかったが、今日、出先で昼食を取りながらニュースショー(どの局の何という番組かは不明)を見ていたら、都議会における猪瀬都知事の追求の様子が映し出されていた。

猪瀬さんの耳の後ろから流れる冷や汗だか脂汗だかが、ポタポタっとスーツのラペルを伝うのを、嫌というほどのクローズアップで繰り返して見せる。ありゃ一体、何なんだ。食事中のこちらは嫌になってしまう。悪趣味にもほどがある。元々、猪瀬さんの顔は食欲が増すような顔じゃないのだし。

テレビでは自民党の何とかいう議員が猪瀬さんを責め立てていて、猛烈な野次も加わり、さながら集中砲火の様相だ。気の毒なことに、味方は一人もいない。猪瀬さん、友達がいないんだなあと、少し同情したくなる。それにしてもまあ、政治家というのは人を責めるとなると、どうしてあんなに居丈高になれるんだろう。水を得た魚の如くに、大声で辞任を迫る。

しかし、猪瀬さんが当選した都知事選挙では、確か公明党、日本維新の会が「支持」、自民党も「支援」という形で協力していたはずなのである。こうした人物を「支援」してしまった自らの不明に関しては、都民に対して一言お詫びがあってもいいようなものだが、そうした責任には一切頬被りをして、ただひたすら責め立てる。

「すごいものだなあ!」と、私なんか感心するばかりである。ああでなければ、政治家なんて勤まらないのだろう。オリンピック誘致に成功してしまったらもう「お役ご免」で、あとは自民党にとってもっと都合のいい人物を都知事に据えたいということなのだろう。

私自身は、石原さんを支持しない(参照)のだから、その直系みたいな猪瀬さんだって、当然初めから支持していない。だからかなり無責任に、「この人、さっさとケツまくった方がいいんじゃないの?」なんて思っている。居座っても、どうせもう都知事として機能しそうにないし。

そもそも猪瀬さん、どうも都知事という柄じゃない。こう言っちゃ何だが、どう見ても顔が暗すぎる。彼の著作家としての業績に関しては評価する人が多いみたいなのだが、『ミカドの肖像』にしたって、私はちっとも面白いと思わなかったしなあ。

 

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2013年12月 9日

USB コネクタのマーフィの法則が解決される

世の中には「トーストはバターを塗った方が下になって床に落ちる」という法則があるらしい。それを極めると「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」ということになる。最も有名なマーフィの法則の一例だ。

ただ、トーストが落下した時にバター面が下になるのは、テーブルの高さに原因があるのだそうだ。英国マンチェスター・メトロポリタン大学の研究チームによると、最も一般的な高さの 76センチ程度のテーブルから落下した場合、トーストは床に着地するまでに、81%の確率でちょうど 180度回転して、バター面が下になるのだそうだ (参照)。

この研究、大分前にイグノーベル賞を受賞したことがあるはずで、その時の結論は「そういうものだ」ということだったはずだ。今回の研究はさらに一歩踏み込んだもののようで、この研究チームでは、「バター面を上にして落下させたいなら、高さが 8フィート(約 2.4 メートル)のテーブルを買うことだ」と言っているという。

なるほど、バター・トーストを床に落とした時に、3秒ルールを適用して拾って食べるためには、天井すれすれの高さのテーブルが必要になるのだね。

話は変わり、ちょっと前、にわかに有名になった新しいマーフィの法則に、「USB ケーブルのコネクタを差し込む時、最初は必ず裏表が逆で失敗する」というのがある。最近はあの USB マークのある方を上にして差し込むと大体 OK ということになって、この法則は下火になりかかっているようなのだが。

この USB コネクタの裏表問題も、ついに根本的に解決される時が来たようなのだ。USB 3.0 の新コネクタ形状となる 「Type-C」 が新たに発表され、その特徴の一つが、「裏表なし」ということなのだそうだ(参照)。やっと Apple の Thunderbolt ケーブルに近づいたようなのだね。

ただ、大抵の人のもっている PC の USB の口は、そんなのに対応していないから、しばらくは従来のコネクタに変換するアダプタを使うという、ちょっと哀れなことになるのだろう。

 

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2013年12月 8日

北朝鮮の最も効果的なサバイバル

北朝鮮は 10月下旬に拘束した米国人男性を、国外退去処分にしたと報じた。この米国人男性はメリル・ニューマンさんという名前で、年齢は 85歳。朝鮮戦争に従軍して、北朝鮮に敵対行為を働いたのが拘束の理由ということらしい。

それにしても、ニューマンさんという人、今回の観光旅行の目的は「かつて従軍した戦地への再訪」だったというのだが、北朝鮮という国は、85歳にもなって観光旅行で訪れるようなところじゃないと思うがなあ。物好きにもほどがある。

北朝鮮も北朝鮮で、60年も前の従軍行為を理由に一般人を拘束するなんて、非常識にもほどがある。こんな非常識を平気でするような国なのだから、わざわざ観光旅行に行くなんていうのは気が知れないと思うのだよ。

今回の国外退去はニューマンさんの年齢を考慮した上での「人道的見地」からのものというので、もしもっと若かったら、いつまで拘束されたか知れたものではない。もっとも、こんな年齢だからこそ、朝鮮戦争に従軍していたわけなのだが。

今回の拘束は完全に「米国に対する嫌がらせ」としか思えないが、こんなチマチマした嫌がらせで、ますます米国との関係が悪くなるのは考え物と思ったのだろう。案外早目の解放となった。

北朝鮮という国はこれで、米国に対して「貸し」を作ったなんて考えかねないが、とんでもないことで、ただでさえ悪い国際的なイメージをさらに悪くしたのだから、結局は大損だ。もともと大した金額じゃないのだろうが、観光収入だってますます下がってしまうだろうし。

ところで今回のこのドタバタ、もしかして、例の張成沢・国防委員会副委員長の失脚というニュースとは関係ないのだろうか。

北朝鮮国内で、「何かにつけて米国を挑発しちまえ」という強硬派と、「いや、少しおとなしくしといた方がいい」という穏健派があって、今回は強硬派が突っ走ってしまったのを、穏健派があわてて抑えにかかったとか。そうだとしたら、今回の事件は北朝鮮全体がやや穏健な方向に向く前兆なのか。

日本からすると、北朝鮮という国はあっさり自滅してくれればいっそスッキリするが、米国や韓国としては、北朝鮮があんまり暴走してあっさりと自滅してしまっては、ちょっと困ってしまうのだろう。今のままの体勢でバカなことをやりつつヨタヨタしてくれている方が、ずっと都合がいいのかもしれない。

とくに韓国としては、地続きの隣国が急に破綻して、大勢の食うや食わずの連中の面倒をみなければならないなんて状況になってしまったら、ただでさえ経済が不安定なんだから、はた迷惑この上ないと思っているのだろう。

ということは、キム・ジョンウンとしても、「バカなことをやりつつヨタヨタしてみせる」ことが、最も効果的なサバイバルだと認識して、その通りのことを実行しているのだろうね。まったくうっとうしいことだが。

 

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2013年12月 7日

脳みそが筋肉でできた警官と「署名」を巡る冒険

ちょっと旧聞だが、台東区浅草の、水戸街道(国道 6号線)の吾妻橋西詰交差点の標識が、改善されていたことを、今日たまたま知った。一昨年 12月 21日付の関東地方整備局東京国道事務所による記者発表資料で「国道6号吾妻橋交差点道路標識を改善します」とある。

この交差点、日本橋方向から来ると、ちゃんと右折レーンがある。しかし、バスは終日右折できるが、一般車は午前 8時から午後 8時まで、つまり世の中が活発に動いている時間帯は、右折禁止になっている。ところがそれを示す標識がわかりにくいうえに認識しづらい。

その上、いつも警官が待ち伏せしているため、右折違反の摘発が不自然なまでに多かった。これでは「違反を誘発するための交差点」と言われてもしかたがない。

これに関して、東京新聞が一昨年 9月 25日付で批判的な記事を載せたらしい。(元記事は削除済みだが、関連ブログ記事を参照)。そんなこともあって、冒頭に紹介した「改善します」という記者発表につながったのだろう。

というわけで標識はやや改善されたものの、やはりわかりにくいことに変わりない。実は私も昨年、この交差点でやってしまったのである。

ある日、都心方向から 6号線を北上し、浅草にさしかかると、吾妻橋西詰交差点で前の車が右折した。路面を見れば確かにそこは右折レーンである。本来はちょっと先の言問橋西詰で右折するつもりだったのだが、つられて右折すると、吾妻橋手前で待ち伏せしていた警官に、前の車もろともつかまった。

「前の車につられて、つい意に反して曲がった」とはいえ、標識をよくみれば確かに 午前 8時から午後 8時までは右折禁止となっている。これでは、非はこちらにあると認めるほかない。「こんな標識じゃ、わかりにくくてたまらない」と言いたいのは山々だけど。

橋のたもとの「浅草警察署花川戸交番」に連れて行かれ、反則切符を切られるのを覚悟していたら、「始末書」を書けば許すという。新聞で問題になった後なので、めったやたらには反則切符を切らなくなっていたようだ。

せまい交番の中は始末書を書く人間で一杯だ。これこそが、ちょっとやそっと標識を改善したところで、わかりやすくなんかなっていないという証拠である。脳みそが筋肉でできているような感じの、やたら横柄な警官の態度にむっとしながらも、「始末書」の一番下の「署名」欄に自分の名前を署名した。

するとその警官が、「そんな字は読めない。もっとわかりやすい字で書け」と言うのである。

私の署名は多少「行書」っぽい続け字ではあるが、決して「読めない」というほどの「草書」じゃない。フツーの日本人なら大抵読める。ましてやその始末書には私の運転免許証のコピーが添付してあり、上の欄には、その警官が自分で私の住所氏名を手書きで書き写している。

つまり、既にわかっている名前の、「いつも使っている書体での署名」なんだから、日本語の不自由な警官の「読める、読めない」は関係ない。

「えっ? でも、私の署名はずっと前から、いつもこれなんですけど」私はできるだけ穏やかに言った。

クレジットカードでも、契約書でも、お役所の公的な会議の議事録署名人になる時でも、いつもこの同じ署名で通しているのだから、文句を言われる筋合いはない。むしろ、その始末書は確かに私が書いたという証明として、必要なのは私のいつもの署名のはずである。

ところがその警官は、「そんな字じゃダメなんだよ。ちゃんと丁寧に書けよ」と言う。

「署名は署名だから、どんなに丁寧に書いても同じですよ」
「なんだ、その態度は。ちゃんと読める字で書けというんだよ」
「でも、字体を変えたら、それは『私の署名』じゃなくなりますよ」

ずいぶん理を尽くして丁寧に言ったつもりなのだが、なんと彼は、「反省がないようだな。何なら反則切符を切るか?」と言いだした。浅草警察署花川戸交番のこの警官、どうやら横暴とか理不尽とかいうよりも、気の毒なことに頭が悪いのである。それならそれで、こちらも対応モードを切り替えるしかない。

私は彼の目の前で、一度書いた始末書を細かくビリビリに破りながら、慇懃無礼なまでの丁寧さで言った。「それでは、深く反省して、新たに書き直させていただきます」

その警官は、新たな始末書の上の欄に、再び下手くそな手書きで私の住所氏名を書き写しながら、「二度手間じゃないか、まったく」とブツブツ言っている。おあいにくだが、それはこっちのセリフである。

2枚目の始末書の「署名」欄に、私はことさらゆっくりと丁寧に、定規を当てたような直線と直角の組み合わせだけで、自分の名前を書いた。そんな書き方をしたのは生まれて初めてである。字というよりは、機械的な「記号」にしかみえず、本来ならそんなおちゃらけた「署名」はあり得ないが、なんとそれで OK が出た。こっちの方が信じられんわ。

形式的に取られた拇印なんか、朱肉をべっとりつけたので、ただ赤いだけで指紋が判別できないし、これならもし後で何か問題が生じても、「それは私の署名じゃない。警察のでっち上げだ」と主張できそうだから、「ま、いいか」と思うことにした。この警官みたいなのが容疑者の供述調書とかに関わっていたら、裁判で大変なことになるだろう。

そういえば、クレジットカードで買い物をして署名した時に、"店員に「これでは読めないので、ちゃんと読める字でお願いします」と言われ、目が点になるほど驚いたことがある" という記事を、5年前に書いたことがあるのを思い出したよ (参照)。

 

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2013年12月 6日

選挙で買収なんて、まだやってたのね

徳州会の組織がらみの選挙違反が、明るみに出ている。昨年 12月の衆院選で、約 5000万円の裏金が票の取りまとめ役に渡って、投票買収や飲み食いに使われた部分もあるとみられる。おやおや、そういうのはこの国では前世紀のお話かと思っていたのだがね。

私は東京杉並区から茨城県つくばの地に移転して 30年を越したが、引っ越してきて最初の県会議員選挙告示前の日曜日、ある立候補予定者の家庭訪問を受けた。ドアのピンポンが鳴ったので出てみると、オッサンが 3人立っている。

そのうちの 1人は知った顔である。この家を造った地元の建設会社の重役だ。何でも社長の親戚か何からしく、やたらともっさりとしたオッサンだが、村会議員に名を連ねている(当時、ここはまだ「村」だったのだよ)。

この家を購入する時に挨拶して、ちょっと話をしたことがあったが、何だか茨城弁でボソボソ呟くばかりで、何を言ってるのかよくわからない。田舎の建設会社の重役とか村会議員って、こんなもっさりしたオッサンでも勤まるのかと、驚いたほどだ。

何の用かと思っていると、そのもっさりした重役兼村会議員が切り出した。
「この○○さんが、今度の選挙に出ることになりましたので、ヒトツ、よろしく」
「はぁ?」
「とても立派な方ですので、どうか、ヒトツ……」

「ヒトツ、よろしく」なんて、ぼかした言い方をしてはいるが、これって要するに、告示前のいわゆるヒトツの投票依頼だから、選挙違反である。何が「立派な方ですので」だよ、まったく。それとも、いつもの何を言ってるのかわからないスタイルが功を奏して、直接的に「投票してくれ」とは言ってないから、ギリギリセーフなのかな?

ちょっとむっと来て返事もせずにいると、もう一人のオッサンが内ポケットから何やら封筒を取り出して、無言で手渡そうとする。折りたたんだパンフレットなどでは、こんなに薄っぺらにはならない。どう見ても中身は現金だ。これで決定的に怒りに火がつき、ただ一言、「お帰りください」と言って、バタンとドアを閉めた。

その立候補予定者は全然知らないオッサンで、せっかく「白紙状態」だったのに、こんな余計なことをするから、「汚い選挙をする人」というか、「この俺を買収に応じるような男と見損なった、とんでもない野郎」という、決定的なマイナス情報がしっかりインプットされた。そんなヤツには、プライドにかけても絶対に投票しない。

家の中から妻が、「何だったの?」と聞くので、「選挙違反だよ!」と、わざと外に聞こえる大声で言った。以後、選挙があっても我が家には候補者が誰も戸別訪問してこなくなった。「あの家は、頭が固いから行ってもムダ」ということになったのだろう。

その年の町内会の集まりで聞いたところ、この辺りは選挙のたびに5,000円札の入った封筒が配られるのだそうだ。古くからいる人の中には、「そういうのが何人か来るから、全部もらっとけばいいんだよ」なんて言うのまでいて、私は呆れた。そういう土地に引っ越して来てしまったのか!

近頃ではこの辺りも、都市部から移転してきた「新住民」の比率が圧倒的になり、さすがに「実弾配り」という手法が話題にのぼることはなくなった。そんなのはもう過去の遺物になったのかと思っていたが、もしかしたら、裏に回ればまだ残っているのかもしれない。

 

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2013年12月 5日

ビギナー向け最強の野鳥図鑑

一昨年の 11月に「花の図鑑」という記事を書いて、『花の名前の手帖』(ブティック社刊、写真と文: 夏梅睦夫)をおすすめした。春編・夏編・秋冬編の 3分冊で、収められている花の種類が多く、しかも季節別、色別で調べられるので、とても便利である。アマチュア向けとしては、これが最強の図鑑だと私は思っている。

ただ、この 3分冊は既に絶版のようで、かなり大きな書店でも 3冊揃っているところは稀だ。私は春編だけは書店で購入したが、夏編と秋冬編は Amazon で古本を購入した。今となっては、3冊とも Amazon で古本を買うのが一番手っ取り早いと思う。

なんで花の図鑑なんかが必要なのかというと、私がこのブログの他に「和歌ログ」なんていう酔狂な文芸サイトを運営していて、毎日和歌なんてものを詠んでいるからだ。和歌をやろうとすると、花の名前を知らないでは済まないのである。この図鑑のおかげで、花の名前に疎かった私も、今では人並みまではこぎつけることができた。

同様に、鳥の名前も知らないでは済まないのだが、これまでは手頃でしかも調べやすい鳥の図鑑が見つからなかった。しかし、ようやく見つけたのである。『山野の鳥』『水辺の鳥』という姉妹編で、いずれも日本野鳥の会の編集・発行によるものだ。

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しかも、どちらも本体価格 600円という手頃さで、コンパクトな作りなので、どこにでも持って行ける。そして見分け方がとてもわかりやすく解説してある。立ち読みした他のどんな図鑑よりもわかりやすい、かなりありがたいものなのである。ビギナー向けとしては、やはり最強だと思う。

この図鑑を入手して初めてわかったのだが、私は既に野鳥の名前を結構知っている人になっていたようなのである。これはひとえに、30年以上前につくばの地の田園地帯に転居して、ごく自然に鳥たちに接してきたおかげである。

花でも鳥でも、親しむための第一歩はその名前を知ることだと思う。名前を知って、一歩「お近づき」になれる。名前を知ってお近づきになれなければ、歌に詠むこともできない。その意味でも、図鑑は手放せないものになっている。

 

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2013年12月 4日

「特定秘密保護法案」でのステロタイプな言い合いについて

「特定秘密保護法案」に関して、私はこのブログでずっと静観してきた。その理由は一つには、こうした問題について私如きが何を言おうと無駄ではないかと、けっこうな無力感を抱いているからである。「何か言うだけ疲れる」のだ。現実として。

二つ目の理由は、この法案を推進する立場の人と反対する立場の人の言うことのほとんどが、気恥ずかしいほどあまりにもステロタイプの不毛な論議に堕していて、その不毛な 2つの主張のどちらかに組しないと、そもそも意見として認められないみたいな空気も、気持ち悪くてしょうがない。

その気持ち悪い空気のてっぺんに位置するのが、あの石破幹事長の「テロ発言」と、それに対する、またしてもステロタイプこの上ない反応である。あんなの、まともに問題にすること自体が馬鹿馬鹿しすぎる。

というわけで、こうした問題が注目されるたびに、私は「ああ、嫌だなあ」と思う気持ちが先に立ってしまうのだ。ところが、「嫌だ、嫌だ」と思っているばかりでは、世の中がどんどん嫌な方向に流れてしまい、ますます嫌になる。だから、私のこうしたシニカルな態度は問題ありすぎというのも、十分に自覚しているのである。

というわけで、私としては「マスコミで交わされている『特定秘密保護法案』に関するメジャーな議論は、かなり不毛で馬鹿馬鹿しいよ」という声だけは、この辺で上げなければならないような気になってしまったのだ。 「私如きが何を言おうと無駄」という無力感は、相変わらず抱きながらではあるのだが。

で、ぶっちゃけて言ってしまうが、この問題でのマスコミ上での議論は、自分の立場を守りたい役人とマスコミの、相反する都合の言い合いに過ぎないのである。役人は基本的に「知らしむべからず」で、そそくさと仕事を進めたい。ところが、そんなことではマスコミは飯の食い上げになるから、ああだこうだと言って猛反対する。それだけの図式だ。

そんなちまちました図式に過ぎない土俵に、一般国民まで乗っかってどうするというのだ。

国民には知る権利がある。これは自明の理だ。しかし、かといってすべてを白日の下にさらしては、国益が損なわれることがある。これもまた当然の話である。要はこの 2つの「当然の前提」のバランスを、いかにとるかを考えればいいだけなのに、現状はそうなっておらず、役人とマスコミが自分の立場での言い合いに終始している。

まあ、実際は役人は決して目立つところには登場せず、政府の影で台本を提供しているだけなのだが。

そう思っていたところ、とてもまともな視点での情報をやっと見つけた。「ニュースの教科書」というサイトの「日本の秘密保持、公文書管理、情報公開はそもそもどのような体系になっているのか?」という記事である。この記事は次のように結ばれている。

秘密保護法の策定は、情報公開法の改正、公文書管理法の改正と組み合わせた一体改革として導入するのが望ましく、それこそが国益を最大化させる最良の方法といえるだろう。

まさにその通りじゃないか。そんなことは、ちょっと考えればすぐにわかることなのに、「それやろうよ」と、どうして多くの人が声を上げないのだろう。ああ、いかん。ますます無力感に襲われてしまいそうだ。

 

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2013年12月 3日

『赤鼻のトナカイ』の名前は「ルドルフ」って知ってた?

今年の初め、"「トナカイ」と「オットセイ」 " という記事で触れたが、『赤鼻のトナカイ』の歌に出てくる主人公のトナカイの名前は、「ルドルフ」なのである。ところが、この歌がこんなにもスタンダードになってよく知られている日本で、「ルドルフ」の名を知る人はとても少ない。

「赤鼻のトナカイの名前、知ってる?」と聞いても、ほとんどの人は「そんなの知らない」と答えるばかりでなく、興味すらまったくなさそうで、「そんなこと知ってどうするの? 馬鹿馬鹿しい!」という顔をする。どうでもいい「超々トリビア」と思われているようなのだ。

ところが実は、トリビアでもなんでもない。馬鹿馬鹿しくもない。何しろこの歌の英語のタイトル、つまりオリジナルのタイトルは上のビデオにあるように、そのものズバリ、"Rudolph the Red-Nosed Reindeer" (赤鼻のトナカイ、ルドルフ) なのである。

歌詞にも 「ルドルフ、ルドルフ……」と繰り返される部分がある。米国人なら、知らぬ人とてないことなのだ。

しかも、このルドルフにはとても感動的なストーリーが隠されている。どんなお話か知りたい人は、「赤鼻のトナカイ・ルドルフの感動秘話」というページで読んで頂きたい。

私は英語版の 『赤鼻のトナカイ』 を知るずっと前から、つまり子供の頃から、このトナカイの名前がルドルフであることを、ごくごく自然の成り行きで知っていた。なぜかというと、NHK の『みんなのうた』で歌われていたからである。前にも書いたことだが、私は『みんなのうた』の大ファンだった。

『みんなのうた』 で歌われた 『赤鼻のトナカイ』 の訳詞は、現在主流になっている新田宣夫版ではなく、加藤省吾版だった。新田版の詞ではあろうことか、 「ルドルフ」 という名前はまったくシカトされてただの一度も出てこないが、加藤版では歌い出しの部分でちゃんと出てくるのである。確かこんな感じだった。

昔のことだよ
赤くて良く光る
鼻のトナカイ
その名はルドルフ

これで「ルドルフ」の名はしっかりと私の脳裏に刻み込まれたのである。オリジナルのタイトルでもあるのだもの、道義として訳詞としても触れないわけに行かないだろうよ。そんなわけで、私は「ルドルフ」という名が一度も出てこない新田版の訳詞は、全然評価していない。

この件に関して、Wikipedia の「ビデオギャラリー」という項目(NHK の過去のテレビ番組を、脚本家の市川森一と女優の石井めぐみの進行で回想した番組についての項目)に、次のような記述がある。(参照

『みんなのうた』で放送された 「赤鼻のトナカイ」だが、実はこのトナカイには "ルドルフ" という名前が付いている。ペギー葉山が歌った『みんなのうた』バージョンは今日広く知られているものとは全く違った日本語の歌詞(原曲に忠実な訳詞)であったが、石井はこのバージョンをよく覚えていて、放送当時学校の友達にそのことを話してもなかなか信じてもらえなかったという思い出を語った。

おお、石井めぐみさんという人は、恐縮ながら実はよく知らないのだが、私と同じもどかしさを味わっておられるのだな。それに、ちょっとググってみたら、なんと大学の後輩ではないか。

NHK のサイトで見ると、この歌が「みんなのうた」で歌われたのは、「1961年12月-1962年01月」ということになっている(参照)。東京オリンピックの 2年半も前、私が小学校 4年生の頃だ。ということは、我が家に白黒テレビというものが登場して間もないころである。

ということは、石井めぐみさんは私より 6歳も年下なのに、つまり、この歌の放送当時は小学校にも入っていなかったはずなのに、よくぞ「ルドルフ」を覚えていたものだ。何だかうれしくなってしまった。

NHK のサイトを見ると、「この曲の映像・音声を探しています。ご存じの方はこちらからお知らせ下さい」とある(参照)。なんと、あの NHK が、名番組である「みんなのうた」の初期の映像を保存していないのだ。「ひょっこりひょうたん島」もビデオ保存されていないという。いくらビデオテープが高かった頃とはいえ、まことにいたわしいことである。

ああ、『みんなのうた』 版の映像・音声が見つかるといいなあ! 見つからなかったら、ペギー葉山さんに改めてレコーディングしてもらいたいぐらいのものだ。

 

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2013年12月 2日

昨年の笹子トンネルの事故より 16年も前に、ウチの田舎で

もうすぐ 1周年を迎えようとしている中央道・笹子トンネルの天井版崩落事故は、かなりショックだった。笹子トンネルと同様の吊り天井式のトンネルは、全国にかなりあるという。事故直後の昨年 12月 4日、私は次のように書いている(参照)。

例えば国道 112号線の月山第一トンネルと月山第二トンネルはつり天井らしいのである。このトンネルは私が帰郷する時によく通るので、「おいおい、ちゃんと点検しといてくれよ」と言いたくなった。

あの事故があってからも、月山第一トンネルと第二トンネルは何度も通った。通るたびに上を見上げると、平らなコンクリートのつり天井が気になってしかたがない、「早く通り抜けて、さっさとずらかろう」と思う。あんなものが落ちてきたらたまらないではないか。

そこへもってきて今日、「月山トンネル 96年にボルト脱落確認」という読売の記事を読んで、何だか複雑な気分になった。気になってたまらなかった月山トンネルのつり天井が、既に前世紀末の時点でボルト脱落が発見されたために、修理されていたというのである。

ところがこの作業はわりとこっそりやられてしまって、その情報が広く発信された形跡がない。つまり全国の道路管理者の間では、つり天井のボルトが危ないという情報が共有されていなかった。そのため昨年の事故が起きるまで、同様の危険性のチェックを全国ベースで実施するに至らなかったのだ。

私は昨年の記事に 「俗に『ゴキブリが 1匹いたら 100匹いると思え』という。1カ所落ちたら、全国で今にも落ちそうなところが 100カ所ぐらいあってもおかしくない」と書いた。ところが「1カ所落ちたら」どころか、それよりも 16年も前に、ウチの田舎のトンネルで大事故に直結するボルト脱落が発見されていたのだ。

月山トンネルでボルトの脱落が発見されたということは、同時期に建設された他のトンネル(例えば、笹子トンネル)でも同様の問題が発生している可能性が高い。、こんなことは誰が考えてもわかることだ。ところが 16年前の時点ではこの情報は発信されず、昨年になって笹子トンネル事故が起きたのである。

どうやら人間というのは「ちょっとした問題」ではお尻に火がつかないもののようなのである。大事故が起きて人が死にでもしないと、抜本的な対策は取られないものと思っていいようなのだ。

その意味で、昨年の笹子トンネルの事故に限らず、不幸にして大規模な事故で亡くなった犠牲者は、身を以て危険をアピールしてくれた尊い存在だったのだ言わざるを得ない。

合掌。

ちなみに、月山第一、第二トンネルのつり天井は、現在撤去工事が進められているという。そういえば、10月に父の法事で帰郷した時には、どちらかで平らな天井じゃなくなっていたような気がする。

 

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2013年12月 1日

3カ国共同で歴史教科書を作るなんて、無理と思うがなあ

超党派の日韓議員連盟が韓国の韓日議員連盟との合同総会で、中国を含む 3カ国共同の歴史教科書の実現に向けた努力を日韓両政府に促すという内容の共同声明を採択したんだそうだ(参照)。

しかし日本・韓国・中国で共同の歴史教科書を作るなんて、簡単にいうけど実現はものすごく困難だと思うがなあ。そもそも、こうした共同声明が採択されるなんていうのは、「歴史は一つ」 という幻想に基づいたファンタジーなので、教科書があからさまなファンタジーになってしまったら、そっちの方が問題だ。

そもそも、この合同総会に出た議員の先生方、日韓中が共同で一つの歴史教科書を作れるなんて、本気で思っているのだろうか? あるいは、それを作ろうとする試みの中で、歴史に関する「まともな議論」が初めて可能になるとの期待がこめられているのかもしれないが、それをしようとしてまったくできなかったのが、これまでの経緯なのである。

韓国サイドは何かというと「歴史を直視すべきだ」という表現を用いたがるが、歴史解釈は立場によって変わってくるのが当然だ。しかしこれまでの経過をみる限り、韓国は自国の都合で「直視」したことのみを「正しい歴史認識」として、相手に押しつけたがる傾向が強い。

そうした国と組んで、さらに中国まで加えて、共同で 1つの歴史教科書を作るなんて、私にはものすごくうっとうしいことに思える。もしまかりまちがってそうした教科書ができたとしても、大事に棚上げしたまま、実際には使わないで済ませたいようなものになる気がする。

 

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